八十五

 打出天神社で降りて、運転手ともども形だけの参拝。賽銭ポン、かしわ手パンパン。香櫨園駅に向かう。
「あのう……中日ドラゴンズの神無月選手と、太田選手ですよね」
「はい」
「やっぱり! きょうの試合、中止になりましたもんね。わあ、ほんものですか! やっぱり格好いいなあ」
 私は愛想よく、
「サインしましょうか」
「お願いします!」
 手帳の見開きに二人でサインする。
「ありがとうございます! ひょう! 一生ものだ」
 優勝目前ですね、と彼は言わない。阪神ファンとして敵を祝福する気にならないのはあたりまえだ。
 七、八分で香櫨園駅に到着。レトロ調に設えられた玄関口の外観がすばらしい。駅前には商店街もスーパーもなく、閑静な住宅の群れにいにしえの時間が香る。
「この駅は阪神甲子園駅から神戸方面に向かって四つ目の駅です。上りホームにお立ち台があって、夙川の桜並木が見通せるユニークな作りになってます」
 南口へ出て、東進する。西宮成田山の看板が見えてくる。
「西宮神社。全国に三千五百社あるえびす宮神社の総本山です。同じ敷地内にある西宮成田山と山門を並べてます。十日戎の福男選びの寺です」
「ああ、テレビのニュースで見たことがあります。あれは危険だ」
 太田の視線の先が人で賑わっている。
「ほとんど交通安全の参拝者です。廣田神社にいってみましょうか。ここから十五分もかかりません」
 太田が、
「阪神が毎年優勝祈願をする神社でしょ」
「はい」
 十分ほどで到着。降りて、運転手もいっしょに歩く。参拝客はポツポツ。境内が静まり返っている。大注連縄(しめなわ)をくぐり、低い石段を上って本殿へ進む。紅白のお仕着せ姿の初々しい巫女が一人、境内を掃き清めていた。賽銭を入れ、パンパン。
「祭壇にタイガースの菰(こも)樽が奉納されてますよ」
 運転手の指先を見ると、何十もの酒樽が積まれた中に、包装紙に虎のマークを染め出した一斗樽が二つ雑ざっていた。老齢の男の参拝者が二人やってきて、拝んだあとしゃべり合っている。
「阪神はな、優勝祈願してるんとちがうねん。選手がケガせんようにお願いしとるんや。神頼みなんかせんでも、阪神は優勝でけるでな」
 引き返す。運転手が、
「阪神の優勝祈願は、球団創設の翌年の昭和十一年からずっとつづいていて、タイガース必勝祈願絵馬は人気商品です。私は阪神ファンなので、しっかり絵馬を買いました。三十九年の優勝以来ずっとAクラスです。霊験あらたかと言っていいでしょう。今年はいまの時点で借金四。どうがんばっても三位止まりですがね」
 私は、
「ファンというのはありがたいものですね。あんな老人まで―」
 運転手はとつぜん訛りを出し、
「老いも若きも関係ありまへん。野球は、わてらが住んどる世の中みたいにややこしないところがええんです。白黒の決着がはっきりつきよるよってに、おもろいんです。スカッとしますわ。こないだ、五十歳ぐらいのお客さんが言っとりました。甲子園にくるんは、会社やら嫁さんやら、いろんなことから逃げてスカッとするためですねん、せやから、遠征にも喜んでついていきますねん、てね」
 私は、
「責任重大だ。スカッとしたプレイをしないと、球場にきてくれなくなりますね」
「ドラゴンズさんはいつもスカッとしとりますよ。おかげで中日戦は阪神もいちばんスカッとした試合をします。お帰りは竹園旅館ですね?」
「はい」
 松並木を室川町まで下る。
「お二人のような有名な選手を乗せた場合は、けっこう話してくれるんで、会話の間が保ちますが、代打でしか見かけない選手とか、引退した選手を乗せたときは、たいてい無口なんで、こちらから何を話していいかわからなくなるんです」
「それでも話すんでしょう?」
「はい、話しかけるようにしてます。ドラフト外の小兵選手が一軍定着、みたいな、むかしの新聞記事を持ち出したりすると、向こうから勝手に苦労話をしゃべってくれます。××選手が同じ球団に入ってきたときはヤバイと思ったとか、活躍しないで帰国した外人選手のこととか、プロ野球を辞めたあとはいろいろ苦労した、それで野球が大嫌いになったとか、いまではやっぱり野球が好きだったとわかるといったようなことをね」
「なんだ、ぼくたちより退屈しないじゃない」
「はあ、でもワクワクしません」
 右折。名古屋と似たような街並を走る。
「西田公園です。万葉集ゆかりの七十二種類の植物を植えてます」
「降ります!」
「え、天気悪いですよ」
「雨くらい平気です。太田、付き合え」
「はい」
 運転手が、
「私はここで待っとります」
 傘を肩に、西宮市西田町西田公園と手帳に書きつける。かならず睦子に知らせなければならない。
「睦子さん、万葉集を勉強してましたよね」
「憶えてたのか」
「神無月さんが降りますと言ったときに思い出しました」
 入口が駐輪場になっていて、地元の人びとが子供を連れて遊びにきている。公園マップの看板が立っていて、それを見ると、どういう草木が植えられているか一目でわかるようになっている。山のゾーン、都のゾーン、野のゾーンと三つに分かれている。都のゾーンを歩くことにした。  
 小雨混じりのひんやりした風に吹かれながら坂道を上っていく。広場にたどり着いた。奥にツタが絡みついている建物がある。西田公園管理センターとある。その前の空間が都のゾーンだった。『もも』のプレートを読む。

 
春の苑(その) 紅(くれない)にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ少女   大伴家持
 
 春の木なので、花はまったく咲いていない。枝の多いただの小木が植わっている。いろいろなプレートが石に埋めこんで据えられているけれども、そのかたわらの花は単なる草にしか見えない。藤棚にノダフジが咲いていた。『むらさき』のプレート。
 
 
紫草(むらさき)の にほえる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも   天武天皇
 
 初夏に白い小さな花をつける紫草がしょんぼり枯れていた。北村席の庭の花のほうがはるかに手入れがいい。一とおり見回し、帰ることにする。睦子ならもっと興味深く見つめるだろう。野のゾーンを通って帰った。草花と関係のない『月』のプレートがあった。

 
ぬばたまの 夜霧の立ちて おほほしく照れる月夜(つくよ)の 見れば悲しさ  坂上郎女(いらつめ)

「どういう意味ですか」
「夜霧が立ちこめておぼろに照っている月夜の光景を見ると悲しい。おほほしは、おぼぼし、おぼろだという意味。郎女には、あなたが振り返ってくれないので死にますという歌がある。そういう気持ちだろうね」
 公園を出て、運転手に、
「夏の盛りならもう少しマシだったでしょうね。ほとんど何も咲いてなかった。無料なのは当然ですね」
「近所の人が散歩しにくるだけです。プロ野球選手が訪ねたのは、あとにも先にもお二人だけでしょう」
 夙川駅。
「あとは真っすぐ五分です。このあたりは親王塚町。阿保親王の墓があります」
「見よう」
「中に入ることができないんです。翠(みどり)松の森で有名です」
「阿保親王って、どういう人でしたっけ」
 運転手に訊くと、
「平城天皇の長男、桓武天皇の孫、在原業平のお父さんです」
「よくわからないなあ。何年ごろ?」
「ナクヨウグイスの少し前に生まれた人です。本来なら天皇になる人だったんですが、平城天皇の愛人の薬子が遷都を画策して失敗し、それに関わったとされて大宰府に流されました」
「八、一、○。八一○年。目が憶えてる。薬子の乱」
「その後帰京を許されて、高い役職を歴任しました。打出で亡くなられたと伝えられてます。阿保親王の末裔と言われている毛利氏は、阿保親王を祖と仰いでいました。江戸時代に長州藩が親王塚の大改修をやってます」
 太田が、
「菅野さんと同じですね。タクシー運転手は歴史に詳しいや」
「商売ですから。その菅野さんという人はタクシーの運ちゃんですか」
「名古屋のね、もと運ちゃん。いまはぼくの送迎係をしてくれてる」
 どこといってほとんど見分けのつかない街並の中を竹園旅館に着いた。私は一万円札を出した。
「こんなに! 半分もかかってませんよ」
「阪神ファンがドラゴンズの選手のサインをもらってくれたお礼です。それからきょうの案内料」
「ありがとうございました! 楽しい一日でした」
 夕食前にロビーの仲間たちと合流した。
         †
 九月八日月曜日。八時起床。快晴。気温二十三・四度。野球のことだけを考えている。
 対阪神十八回戦。ナイター時間になって少し冷えこむ。
 この試合はぜひとも勝たなければならないと考えたのか、水原監督は控えのピッチャーを使い回さなかった。さすがに優勝直前に危ない戦い方をしたり、一敗でも喫したりすると、フロントや専門家の目が疑心暗鬼の相を帯びてくる。サボっているのではないか―。そう思われるのは私たちも心外だ。しかし、水原監督はフロントから叱咤も激励もされた様子がなく、ケロリとした顔をして微笑んでいた。
「シャカリキに勝とうとなどしないで、ノンビリやりなさい。日本で百勝したチームなんかなんか一つもないんですから。昭和二十五年に、あの小鶴誠がいた松竹ロビンスが九十八勝してます。試合数は百三十七。南海が昭和三十年に九十九勝してますが、試合数は百四十三でした。勝率八割のチームも一つもありません。胸を張りなさい」
 この言葉だ。肩の不調を押して登板した小野も、同点にされた水谷寿伸も、このひとことで報われる。
 きょうの中日の先発は星野秀孝。阪神は懸河のドロップ権藤。全力で戦っているところを衆目に納得させるために、レギュラーメンバーで臨む。みんな一打席も外さず出場した。中だけは帰名後の試合に備えて出場しなかった。
 二回表と三回表に、それぞれ江藤、江島の適時打で一点ずつ入れて先制する(私はファーストゴロ)。長谷川コーチが、
「見せてやれ、いいとこ見せてやれ!」
 ベンチで声を張り上げる。中日は四回に星野が小玉に適時打を打たれて一点を献上したきり、九回表まで二対一でリードを保った。おとといとまったく同じだ。少し不安になった。最終回まで星野も権藤も一歩も譲らぬみごとな投手戦を展開した。九回裏の土壇場で田淵に同点ソロが飛び出し、阪神は二対二の同点に追いついた。初めて聞くものすごい喚声だった。延長戦へ突入。
 十回の表、権藤続投。阪神が内野のボール回しに励んでいるとき、スコアボードに、

 
巨人―アトムズ 三対七 終

 と表示された。不甲斐なさを通り越して、さびしさを覚えた。
 数少ない中日ファンがレフトスタンドで懸命に球団旗を振る。少なくともこの試合に勝てというはしゃぎぶりではない。早く中日球場に帰ってこいという鼓舞にちがいない。一塁側スタンドやライトスタンドで《中日帰れ》コールが始まった。
「ボケ!」
「コラァ! 塁に出るな!」
「カス! 打ったらどづくぞ!」
 ドンチャン、ドンチャン。江藤への初球、ボール。心なしかドロップの落ちが悪い。
「ストライクやろが! クソ審判、殺すぞ!」
 二球目、真ん中カーブを叩いて左中間を抜く二塁打で出た。ライトスタンドから反発の怒号が上がる。
「ホームインしたら承知せんぞ!」
 内野席からも野次が聞こえる。
「こんな試合、クソおもろないで!」
 私がバッターボックスに入る。ここまで私は、ファーストゴロ、ファーストゴロ、センター前ヒットだった。田淵が立ち上がったが、権藤がいやいやをする。後藤監督が走ってきて、一方的にピッチャー交代を審判に告げる。伊藤幸男登板。権藤はグローブをベンチに蹴りこんだ。
 ネクストバッターズサークルからバッターボックスへ歩く。三塁側スタンドやレフトスタンドからパラパラ拍手が聞こえてくるきりで、金太郎コールはない。球場じゅう阪神一色だ。田淵が立ち上がり、躊躇なく敬遠。
 つづく木俣がフォークボールにチョンとバットを出して右中間をゆるく抜く二塁打を放ち、江藤生還。一点を挙げた! 
「何やっとんジャ!」
「きょう勝たんでもええやろ!」
「しばいたろか!」
「いつでも優勝できるやろ!」
「どついたろか!」
 だれも野次に屈しない。優勝がそこにあるという事実が、仲間の心に余裕を持たせている。しかし、つづく菱川以下が凡退して一点止まり。三対二。


         八十六

 十回裏。水原監督が星野の肩を心配して伊藤久敏に代えた。かわりばな藤井がセンターに前ヒット。阪神ファンが沸騰する。打たれようとして投げているのではないことは、その力感あふれる投球フォームからはっきりわかる。田淵登場。キャー、ヒャーという絶叫。
「かっとばせー、田淵!」
「かっとばせー、田淵!」
 アルプススタンドが波打っている。伊藤は丁寧に低目を突いて、ツーストライクツーボールに追いこんだ。
「ボケー! 手出さんかい!」
 タイガースファンは味方にも容赦なく罵声を浴びせる。伊藤はゲッツーを取るつもりなのだ。まちがってはいないが、田淵は低目にめっぽう強い。高目にスピードボールを投げれば三振か凡打に打ち取れるのに、と思った瞬間、伊藤は魅せられたように真ん中低目にシュートを投げこんだ。田淵は待ってましたとばかりに掬い上げ、バットを高く放り投げていつものパフォーマンスをした。
「ウオォォ!」
 すべてのスタンドから異様などよめきが上がった。ちょこちょこ走りだす田淵に喝采と絶叫が降り注ぐ。サヨナラホームランが高々とレフトスタンドに舞い落ちると見えた。
 ―先っぽだ。
 私はそう判断して、ラッキーゾーンの金網によじ登る体勢をとった。思ったとおり失速した打球が落ちてくる。フェンスを越えるか越えないかギリギリだ。ジャンプ、右手でフェンスの縁をつかみ、スパイクを金網に掛けて、思い切りグローブを差し出す。
 ―捕った!
 一塁の藤井タッチアップ。金網を蹴って飛び降り、七、八十メートルの遠投! 低空飛行、一、ニ、三秒、藤井滑りこみ、一枝タッチ、アウト!
 阪神応援スタンドが尋常でない狂騒状態になる。グランドに三十人余りのファンがなだれこみ、ベンチに帰ろうとする藤井を追いかける。係員や警官や阪神選手たちとぶつかり合う。ドラゴンズ選手には向かってこない。五分もしないうちに鎮圧されてしまった。六甲おろしの合唱の中、私たちは守備位置にゆっくり戻った。ベンチの外に立っていた水原監督がニコニコ内外野に向かって拍手している。警官が一塁側内野フェンス沿いに二十人以上立ち並んだ。ツーアウト、ランナーなし。池田純一の代打辻佳紀、三振。
 全員ベンチへ走り戻る。水原監督が伊藤久敏を先頭に私たち一人ひとりを出迎える。
「おみごと、おみごと。ご苦労さん、ご苦労さん」
 みんなで握手し合い、尻や肩を叩き合う。星野が私に抱きつく。半田コーチが私と腕を組んで、
「アブソリュートリー、ファビュラス、プレイ!」
 私の代わりに一枝が、
「サンキュー、サンキュー」
 あたりに向かって声を上げまくった。
 薄氷を踏む思いだった。私は三打数一安打、一敬遠。自分なりにひっそりと〈一隅を照らした〉。マジック4。もう一歩。
「あんたはえらい!」
「もう、しゃあない。優勝せいや!」
「金太郎、犬死にすなや。甲子園では守ったるでな!」
 警官数十名に規制される大勢のファンに囲まれる中、私たちは喜びを押し殺してバスに乗りこみ、竹園旅館へ引き揚げた。
 遅くまで宴を張った。報道カメラマンの入室が許され、宴の終わりまでフラッシュが瞬きつづけた。水原監督は、
「これほど興奮したことは生涯にない」
 とめずらしく酔った。コーナーを丁寧につく軟投で投げ切った伊藤久敏が、
「開眼しましたよ。消化試合はこれで星を稼がせてもらいます」
 と、これもめずらしくはしゃいで杯を重ねた。長谷川コーチが、
「監督、すまん。見せてやれなんて言っちまってさ。慎ちゃんと達ちゃんにつまらん火を点けちゃった」
「いや、あれでいいんです。江藤くんも木俣くんもつまらないファイトを湧かしたわけじゃない。金太郎さんが敬遠されることや、次の回に田淵に回ることをきっちり計算して、きっちり点を取りにいったんですよ。大したもんですよ。ねェ、お二人さん」
 江藤が、
「ワシは敬遠されるかフォアボールで出ることを祈っとりました。ワシが二塁打で出たけん、金太郎さんが勝負されんようになってしまった。ワシが敬遠かフォアボールで出とったら、金太郎さんは放りこんどったやろ。達ちゃんは一点でええ思って、チョンとバットを出した。それがうまく抜けてしまっただけたい」
 足木マネージャーが、
「これからは心臓に悪い試合はなるべくやめてよ。うちは接戦するようなアタマはないんだから」
 菱川と太田がパチパチと拍手した。
「野球が好きなだけの馬鹿」
 笑いが宴会場にあふれた。星野がまた私に抱きついた。
 ぶら下がりの記者連中が質問を始めた。
「この二戦、優勝後の休養を考えて、少し力を抜いたということは考えられませんか」
「まさか力を抜くわけがない。二試合とも先制して、キッチリ勝ち切ったわけですからね。この二戦は、ひたすら金太郎さんに救われたという格好です」
「権藤投手に対して、中選手と神無月選手がブレーキになったと思いますが」
「たしかに打ったのはほとんど右バッターでした。権藤くんはいつも左バッターをじつにうまく料理する。内角のボール気味のストレートを二球つづけたあと、ふところを抉るカーブでのけぞらせ、最後はインコースからアウトコースへするどく逃げるドロップ。ふつうはそれで三振ですが、神無月くんはきっちり当てて、ファーストゴロ二本、センター前ヒット一本、中くんはライト前へ一本、フォアボール二つ、三振一つ。二人ともじつは安定したパフォーマンスを見せてたんですよ」
「神無月選手、いかがですか」
「右ピッチャーのスライダーやカーブは左バッターに向かってくる球種なので、両足をずらさなくても当てるだけなら当てられます。ファールで粘ることもできます。でも、ホームランを打つためにはあえてずらさなければなりません。右ピッチャーの外へ逃げるシュートはカーブやスライダーほどの変化はしないので、クローズドで踏みこめば捉えられる。つまり右ピッチャーは、猛速球以外は怖くない。ぼくはそうやって右ピッチャーに対決しています。問題は左ピッチャーです。左ピッチャーのカーブやスライダーは優秀な投手ほど逃げ幅が大きいので、距離感をつかむのが厄介です。踏みこんでもバットが届く保証がない。きのうの権藤さんがそれでした。ぼくなりに全力を尽くしました。どんな試合もぼくたちが力を抜かないことを水原監督はしっかり理解してくれています。だから全力を尽くせます」
「監督、優勝が目前に迫りました」
「あと四勝。それがすべてです。選手諸君のプレゼントをありがたくいただきます」
         †
 九月九日火曜日。八時に起きるとすぐ、キクエに電話した。
「二十五歳の誕生日おめでとう」
 キクエは涙声で、
「憶えてくれていてありがとう。愛してます。一生変わらず愛してます。きょうから三日連続で試合を観にいきます。一塁スタンドに文江さん、節子さん、素子さんの三人といます。小山オーナーが、ベンチの上に十席ほど確保してくれたんだそうです。そこで観ます」
「手を振るからね」
「はい」
 うがいをし、歯を磨き、排便をし、シャワーを浴び、ブレザーを着る。朝食を抜いた。深夜のルームサービスでカツ丼を食ったので腹はへっていなかった。段ボール箱に郵送荷物をまとめ、ダッフルを担いでロビーに降りる。バットを段ボール箱に載せてフロントに出した。
 朝早くから玄関にもロビーにも報道陣とファンがたむろしている。館の周囲には警官まで出動して、ファンたちに警戒の目を注いでいる。すでに朝食を終わって背広やブレザー姿になった仲間たちが、コーヒーを飲みながら談笑していた。ともすればテレビ記者連中にマイクを突きつけられそうになるので、みんなロビーの片隅のベンチに退避して新聞を読んでいる。私もコーヒーを注文して新聞読みに入った。あと一時間もすれば出発だ。       
 テレビカメラがどやどやロビーに入ってきた。ベテランふうの男のアナウンサーがマイクを握っている。首脳たちのソファに近づいていく。私たち選手は何気なく新聞で顔を覆うようにした。
「大阪ABCテレビです。中日ドラゴンズのみなさん、出発前のあわただしいところへとつぜん押しかけて申しわけありません。水原監督、十五分ほどお願いします。あと三十試合を戦い終えると、いよいよ日本シリーズとなるわけですが、今年の大躍進の秘密、つまり、この異常なスピードで決まるであろう優勝と深く関係していると思われる秘密について、いくつか質問させていただいてよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
 レポーターはメモ帳を見て、
「まず、チーム内の人間関係についてですが、ふだん監督というものはロッカールームに入らないのがふつうと言われています。しかし、水原監督はよく入っていくと聞いています。それはなぜですか」
「はあ、自分でも気づかなかった点だな。たしかに巨人や東映時代にはやらなかった。なぜかな? あのころは柄にもなく監督らしくしようとしてたんだね。ロッカールームはチームの喜びと悔しさの集約している場所だから、きっとリーダーとして冷静に距離を置いたんでしょう。それが今年から心機一転、リーダーもクソもない、選手といっしょに喜びを分かち合いたい、悔しがっている人間は励ましてやりたい、そんな気になったんです」
「上と下の関係性を越えたその気持ちが、選手をがまんして使いつづけたり、新人を登用したりする姿勢につながったというわけですね」
「キラリと光るものがあるからがまんする、抜擢もする」
「三原監督が豊田泰光選手を使いつづけたようにですね。王、張本、大杉などもそうでしたね。浜野百三投手などもその一例だったのでしょうが、現在は残念な状況になっています」
 レポーターはもうメモ帳を見ていない。水原監督が会話の水門を開いたからだ。
「浜野くんは、悔しさをもとにして向上するタイプの人間だと思います。悔しさはとても大事な成長要因です。もっとうまくなりたい、もっと追求したい、そういう向上心ならばの話ですがね。有能な人間と自分を濁りのない目で比較して、自分自身の向上を計ろうとする心ならばの話ですがね。彼の場合はちがった。彼の悔しさは、自分の至らなさに対するものではなく、周囲と比べての地位の低さに対するものでした。お山の大将でいたいという気持ちは、政治的なものであって、自己探求の精神からは遠い。彼の向上欲が、集団の上位に立とうとするものではなく、自己そのものを改善しようという欲望に変わったとき、彼は急速な成長を遂げるでしょう。もともといいものを持っている人間ですから。できれば中日にとどまって、自己実現を目指してほしかった。四勝もしていたのに、じつに惜しいことをした。彼は、自分を高めることよりも、お山に登ることに興味があった。それを私に明言して、みずからドラゴンズを出ていきました。いまはお山の裾で苦しんでいるでしょう。自己実現だけを目指していれば、どんな人間集団に属しても苦しくはないんですがね」
「少しずつドラゴンズの強さの秘密が見えてきました」
「かつて優勝を目指して、しっかり優勝していたころには、私も気づきませんでした。一人の人物が現れるまではね。おい、みんな、新聞を下ろしてカメラのほうを見なさい」
 新聞をどけた選手たちの顔をカメラが写していく。
「神無月選手のことですね。よく神無月選手がドラゴンズに精神革命をもたらしたと監督はおっしゃっていますが、もっと詳しく教えてください」
「彼は新人で、ほかの選手はほとんどベテランです。人は経験を積んでいくと、これはこういうもので、あれはああいうもので、こうすればこうなる、ああすればああなると慣れてきて、一応それなりの仕事ができるようになる。たしかに失敗は少なくなるが、反省も少なくなる。つまり工夫して挑戦的な仕事をしているのではなくて、慣れた単純作業をしているという気分になる。自然、成績が頭打ちになり、伸び悩むようになる。先ほどの成長の話に通じますが、まちがいなく技能の上での劣化が始まります。向上欲に基づいた思考や分析や鍛錬を怠ったからです。すぐれた仕事はその人だからできるもの、単純作業はその人でなくてもできるもの」
「なるほど、常に神無月選手はその模範的精神でいると」
「模範を意識していないんです。おそらくだれの目にも神無月くんは人間集団、つまり〈お山〉のてっぺんにいて、振り仰がれているように見える。ところが彼は、集団が形成するお山の地位にはまったく興味がなく、ひたすら山の裾野で、自分の技能について日々思考し、分析し、技能向上のために黙々と鍛錬している奇跡的な人間です。ドラゴンズの仲間たちはすぐそれに気づいて、それまでの自分を猛烈に反省し、純粋な向上欲に燃えはじめました。そしてみごとに自己の向上をつづけている。だれも人の群れの山になんか登ろうと思っていない。これは革命以外の何ものでもありません。その革命がわれわれ首脳陣にも及んだというわけです。もう一つの革命は、端的に言うと、明るさです。ここにいる連中が底抜けに明るいのは、地位の向上ではなく自己の向上を日々目指しているからです。その鋭気もわが金太郎さんからもたされたものです」
「一致団結した自己実現の結果が、おのずと優勝に結びついたと」
「そういうことです。たぶん完全な自己実現は永久にやってこない。それを目指す途上の努力に対するご褒美が優勝であったり、各賞の受賞であったりするんです。ここにいる彼らはみんな、マジックや優勝や受賞や、ひょっとしたら契約更改さえも、イベントとして楽しいものと捉えています。楽しければ無冠であってもかまわない、と考えているんですよ」
「すばらしい! その精神に才能が加わったら、とてつもない爆発力になるはずですね。よくわかりました。全国のファンにとっても、中日ドラゴンズの優勝が謎でなくなったことでしょう。最後に、消化試合の戦い方を教えていただければと思います」
「きのうのようにきょうも野球をやり、きょうのようにあしたも、あしたのようにあさっても野球をやります。消化などと思わないので、ファンをガッカリさせることはありません。疲れている人は休ませます。芽が出そうな人の可能性も試します」
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
「日本シリーズの優勝をお祈りしております」
「どうも」
 レポーターはカメラに向かい、
「芦屋竹園旅館から、今年度優勝チーム中日ドラゴンズの水原監督および選手の面々の様子をお伝えしました。精神軍団とも呼べるドラゴンズの、昨年度最下位から一転して、今年の超特急優勝に至った謎がかなり解明できたと思います」


         八十七

 館内に入りこんできた少年ファンたちに、選手こぞってサインした。館の従業員たちにもサインした。もちろん設楽ハツも混じっていた。
 十時半、阪神バスで出発。もっぱら設楽ハツに向かって手を振り、微笑を送った。
 十二時前にチーム全員新幹線に乗りこむ。一枝が、
「なんせ去年最下位だったから、開幕広島三連戦に二連勝したとき、今年はいけるだろうとはまだ思えなくってさ。金太郎さんが二本ずつホームラン打ってたけど、いくら天馬でもルーキーイヤーにそんなことがずっとつづくとは思えなかったしね。三戦目に金太郎さんが四打席連続ホームランを打ったとき、あれ? こんなすごいやつがいたら、今年のドラゴンズはいけるんじゃないかって感じたよ。それからは、一勝するたびに、あれれ? あれれ? となって、あれよ、あれよという間に」
 一枝がしゃべる。太田コーチが、
「八十三勝十三敗四分け、勝率八割六分五厘。驚異的な勝率だ。かつ最速だ」
 太田が魔法の手帳を開き、
「このあいだ調べたら、これまでの最速は、昭和四十年の南海の九月十九日でした。まだ一シーズン百四十試合のころで、残り試合は二十四でした。その記録はなんとか破れそうですね」
 森下コーチが、
「俺、その年、八番打っとったで」
 太田は、
「知ってます。いまうちの二軍にいる堀込さんが一番で、うちからいった井上登さんが六番」
「広瀬二番、ブルーム三番、野村四番、あの年三冠王を獲ったな。五番ハドリ、七番小池。堀込もなあ、中心選手やったのに、長期欠場の利ちゃんの穴埋めに去年島野と交換トレードでここにきて、利ちゃんが復帰したらオシャカやった」
「責任感じてます」
 中がボソッと言う。
「責任はないわな。本人が打てんようになっただけや」
 江藤が、
「残り三十試合まじめにやらんとの。休むべき人間は、無理せんと適当に休んでな。コンディション狂わすと、シリーズが危なか」
 小野と中を見やりながら言う。水原監督が、
「小野くんはいま十四勝だね。通算の勝ち星はいくつになりましたか?」
「百七十八です」
「二百が近いね。今年は無理としても、来年には達成したいものだね。今年、肩は保ちそうかね?」
「騙しだまし、あと五試合ほどはいけると思います。遊離軟骨なんで、まったく痛まないこともあるんですよ。オフのあいだになんとかします」
「肩のネズミか。手術で取っちゃったほうがいいね。簡単な手術なんだろう?」
「はい。でもなるべくメスを入れないで治します。簡単な手術でも、リハビリに三カ月はかかりますから」
 十年ぶりにネズミという言葉を聞いた。私は小野に、
「遊離軟骨ってどういうものですか?」
「野球選手の職業病でね、ピッチャーにかぎらないんだ。肩とか肘の骨と骨が同じ箇所ですれると、そこに軟骨ができやすくなる。その軟骨がネズミみたいにチョロチョロ動いて神経に当たると激痛だ。神経に当たらないときには何ともない」
 簡単なネズミだったら、あのときの私の手術も成功しただろうが、鉄砲肩の幸福は味わえなかった。カルシューム沈積でラッキーだった。
「アイシングもネズミに効果があるんですか?」
「骨や腱の故障はアイシングでは治せない。アイシングは組織の炎症を治すだけなんだ。熱のある部分を冷やすと、血球成分の粘性が低くなって、血行がスムーズになる。それで組織に酸素と栄養が素早くいきわたって、炎症部分の回復が早まる」
「はあ」
 水原監督が、
「小野くんの肩は、長年の投球過多からきたものだろう。今年、ピッチャーから故障者が出なかったのは、中継ぎ専門のピッチャーを作らなかったからだと思う。中継ぎは準備時間が長いからね。ほとんど毎試合準備しなくちゃいけないから、疲労が積み重なる。それが故障に結びつく。結局、先発のほうが息の長いピッチャーになる。で、中くんの膝は?」
「二年ぐらいで限界かもしれませんね。水を抜きながら、それこそ騙しだましです。今年は二度目の三割を打つ最後のチャンスだと思うんで」
「だいじょうぶ、いけるよ」
 池藤トレーナーが、
「ドラゴンズの選手はウエイトをやりすぎてないので、長保ちします。ウエイトが重視されると、走る量が減ってからだ全体の筋肉のバランスが悪くなるんです。走るのも全身の筋肉をつける大切な運動ですから。どちらも適度にやらないと」
 田宮コーチが、
「それを見張るのがコーチの役目なんだぜ。現役のときは自分のことだけを考えればいいけど、コーチになると、選手の体調をいろいろ細かいところまで把握しとかなくちゃいけない。初めのころはクタクタの毎日だったよ。今年は金太郎さんがきてくれたおかげで、選手たちに自主管理の意欲が出たから、一人も怪我人が出ていない。やりすぎ、やらなさすぎがなくなったからだな。コーチの役目が声かけ役に変わった」
 水原監督が、
「それがいちばん大事な役目ですよ。来年、東映のヘッドコーチでいって、その方針をうまく伝えられるといいけどね。松木さんのあとを受けて監督になることが決まってるわけだし、シャカリキな姿勢を見せなきゃいけないんじゃないの?」
「猛練習と粗食で有名な球団ですからね。選手も荒っぽいやつが多いし、適度主義をホンワカ主義と誤解されて反発を食らうかも知れませんわ。とにかく怪我人を出さないような指導をしないと」
 中が、
「田宮さん、ハードでもイージーでも、個人の自主性にまかせる方針を採ればいいですよ。中日ドラゴンズというチームはそれを伝統的に許すチームだった。プロというのは夢の世界です。記録を達成することもケガで悩むことも、夢の世界のできごとなんですよ。どちらもある種の幸福だと思ってます。私が膝をやられたのは、盗塁王や三塁打王を目指して自主的に走りこみや滑りこみをやりすぎたせいです。悔いはありません。……もう一度三割打ったら、引退するつもりです。新人の飛躍のチャンスを老兵がじゃましちゃいけない」
 そう言って江島を見つめる。水原監督は、
「老兵と呼べるのは、四十歳からでしょう。そう考えると、みんな若い。年齢と関係なく技量が衰えたら去るのがプロの掟だと思う。明らかにその兆候が見られないかぎり、若手の台頭は至難だよ。去年以前に採った新人で頭角を現してきたのは、星野くんと江島くんと菱川くん、それから土屋くんだね。今年ルーキーで活躍しているのは、金太郎さんと太田くんと水谷則博くんか。少ないね。江藤くん、高木くん、木俣くん、一枝くんといった実力派の古株を押しのけるのはたいへんだ。浜野百三くんはその壁に挑戦しないで去った。不幸にもと言うか、案の定と言うか、成功していない。成功しているのは、権威というよりは活躍の場を求めて去った島谷くんだけだ。田中勉くんとトレードで西鉄にいった広野くんは、小川くん以外に二十勝投手がほしかった中日側の意向で動いてもらったものだから、いずれ中日に戻されるだろう。とにかく挑戦をあきらめちゃいけないよ。壁は厚いほど挑戦し甲斐があるんだからね」
 長谷川コーチが、
「島岡に鍛えられた百三には、ドラゴンズの体質が甘っちょろく映ったんだろう。眼力がないと言うか頭が悪いというか。巨人はやつを二軍で二、三年鍛え上げる方針じゃないの」
 宇野ヘッドコーチが、
「そうしてくれれば、まだ芽の出ようもあるけど、一軍の敗戦処理で飼い殺しにされたらたまらんな。……運悪く投手王国にいっちゃって、今年は金田の四百勝という目玉もあるしね。外様だからよほど活躍しないと、将来コーチとして残るのも危ないな」
 小川が、
「せっかくの運を自分でだめにしちゃったんだよ。だれも恨めない」
 中が、
「監督まで罵っちゃったんだものね」
 水原監督は、
「それは情熱の表れと私は見たよ。気にしていない。プロにくる人間は、もともと持っている潜在能力が格段にちがう。それを開花させることができるかできないかは、努力と運の要素が大きい。努力で運を切り開いた人間に反発なんかしてもしょうがないし、昇った運気を後戻りさせようもない。潜在能力を自他ともに認め合って、たがいに幸運をつかむようにしなくちゃ」
 木俣が、
「だれも潰すつもりのない仏の金太郎さんに、自分で勝手に潰されちゃったんだな。仲良くやってれば百勝なんかすぐだったのに。金太郎さんは野球界のご本尊だよ。ご本尊に反抗してどうするんだ」
 水原監督は、
「プロ野球にくる人間はみんな自分が一番だと思ってるから、びっくりすると、畏敬よりも反感でいっぱいになる。そういう気持ちも突破しなくちゃいけない一つの壁だね」
 菱川が、
「反発して、権威に逃げたのは最低だったな」
 徳武が大声で、
「権威に逃げたことは人間的な弱さの問題で、悪いことじゃない。権威に安心して自己鍛錬を軽んじたことがやばいんだよ。みんな意識してないかもしれんが、中日新聞社だって権威だぞ。巨人も中日も親会社が新聞社で、都市圏を席捲している天下の読売が、唯一中京地区の販売網だけは手に入れられずに、中日新聞の後塵を拝してる。巨人―中日戦は東西の権威ある親会社の代理戦争だ」
 主人と菅野から聞いた話だ。水原監督が、
「あと付けの権威はうなずける点が多いが、先付けはみっともないね。さて、あわただしいが、三時半からバッティング練習です。なんとか間に合わせてきてください。ちなみに優勝したら、長谷川さんと森下さんは大幸球場詰めになります。遠征のときは帯同します。葛城くん、千原くん、伊藤竜彦くん、江島くん、江藤省三くんはいつでも出られるように準備すること。ベースコーチは私と森下さんあるいは長谷川さんです。宇野、太田、半田、田宮の各君も含めて三時に球場集合のこと。じゃ、解散」
 駅玄関のタクシー乗り場でみんなと別れ、二時前に北村席の数寄屋門に着いた。庭石を歩いているうちに、睦子と千佳子が出迎えにやってきた。式台に上がるなり、ソテツに命じて梅ジソで茶漬けを掻きこむ。そうめんを平鉢一杯追加。そうめんは、主人と菅野も相伴した。主人が、
「二連続の接戦でかえって疲れが取れたでしょう。すっきり優勝戦に臨めますよ」
「そうですね」
「田淵も片鱗を現わしてきましたね。おしいところで神無月さんに手柄をつぶされちゃいましたけど」
「いずれ木俣さんと争うようになるかもしれない。それより、あと六戦で優勝が決まるかなあ」
「百パーセント決まりますよ」
 主人が、
「寄合をサボって、六試合ぜんぶ観にいきます。マジック1になったら、アイリスもアヤメも休業です。中日球場の巨人戦があと五つ残ってるので、消化試合ですけどぜんぶ観にいきます。江夏が出るとわかったら、阪神戦もいきます」
 グローブとスパイクを磨く。革のダッフルから布のダッフルへ中身を詰め替え、新しいユニフォームを着る。ソテツが、
「きょうの夜はごちそうを作ります」
「楽しみだ。キャベツの油炒めを大盛りで皿一枚つけて。素朴に炒めてね」
「はい、素朴に」
「硬いキャベツ、噛み切れないキャベツは使わないで」
「キャベツの旬は春と冬なんです。夏には高原キャベツが出回るので、一年じゅうおいしく食べられます」
「よろしくね。あ、睦子、千佳子、名鉄百貨店のアクセサリーコーナーにヤマモモのブローチが並んでた。きょう、キクエの誕生日なんだ。買いにいってプレゼント用に包んでもらって。試合の帰りにぼくに渡して」
 千佳子が、
「ヤマモモって?」
「かわいらしい赤い花だ。高知県の県花なんだ。これで買える。お釣りはいらないよ」
 一万円を渡した。睦子が、
「私たちはきょう観戦にいきますけど、キクエさんは」
「節子といっしょに一塁スタンドにくる」
「私たちといっしょだ。わかりました。駐車場でお渡しします」
「前もって渡しちゃだめだよ。名大は、夏休みいつまで?」
「九月三十日までです」
 睦子に西宮の西田公園の話をする。
「わあ、夏休み中にぜったいいってきます!」
 千佳子が、
「私もいく。竹園旅館に一泊しよ」
「そうしましょ。優勝の写真をたくさん撮るから、その整理が終わってからね」
「うん。手伝う。芦屋は歴史の宝庫と言われてるし、二泊ぐらいして歩き回ろうか?」
「ええ、そうしましょ」
「ぼくの知り合いだと言って予約しないと、粗末な部屋に入れられちゃうからね。いい部屋はしっかりきれいだよ。じゃ、大洋初戦にいってきます」


九章 大差逃げ 終了

十章 優勝 その1へ進む

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