第三部


十章 優勝



         一

 対大洋二十三回戦。観衆三万六千人。満員。四時半、ドラゴンズのバッティング練習終了。中が、
「毎年消化試合の時期は六、七千人しか入らない。それを見たら金太郎さん、驚くぞ」
「きょうはフル出場ですか」
「江島と半々かな。平松だからね。二つ凡打したら交代だろう」
 ベンチ気温二十一・五度。涼しい風を感じる。グランドに出て、一塁ベンチのすぐ上のスタンドにいるキクエと節子に手を振る。ドラゴンズの先発は小川、大洋の先発は平松。
 先月の週刊ベースボールに、平松にいくつかの質問に答えてもらう特集記事が出ていた。そのとき、彼が三年前大洋に入団した当初、無骨な大洋選手の中にあって唯一端正な顔つきをしていたせいで〈プリンス〉と褒めそやされたことを知った。そう言えば彼の笑顔は少年のように愛くるしい。三年目の今年、ようやく大器の芽を吹きつつあるらしい。
 ―今季好調の秘密は?
 昨年の秋から今年のキャンプにかけて走りこんだことです。下半身を鍛えたことでピッチングに安定感が出てきました。それからシーズンに入って腹筋と背筋も鍛えました。中日の神無月さんに刺激されて。
 ―特に変わったところは?
 シュートをたくさん投げるようになりました。日本石油にいたころから投げてたんですが、プロでは投げてませんでした。ストレートとカーブでいけると思ってたんです。甘かった。
 ―現在特別に心がけていることは?
 逃げのピッチングではなく思い切って向かっていくことです。逃げては勝てない。打たれてもいいから思い切ったピッチングをすることが大切だと思います。これも神無月さんに刺激を受けました。
 ―ライバルは?
 岡山出身のアトムズの松岡くんです。岡山出身の浜野さんは……あんなことになってしまって。でも心の底ではライバルだと思っています。神無月さんはライバルとは思っていません。言行ともにぼくの師匠です。
 ―苦手なバッターは?
 黒江さん、一枝さん、武上さんのようなネチッこいバッターです。振り回してくるバッターはわりと料理しやすいですが、神無月さんは別です。彼は振り回すんじゃなく〈叩き斬る〉んです。
 ―いちばん燃える相手チームは?
 中日ドラゴンズです。去年までは巨人でした。
 ―今後の目標は?
 優勝して最優秀投手になることです。それから野球を一年でも長くやることです。
 ―モットーは?
 努力。
 ―幼いころの夢は?
 プロ野球選手になること。野球が好きなのでほかのことは考えられませんでした。いまはその夢が叶えられ、野球だけやっていられて、こんな幸せなことはありません。
 ―現在のプロ野球に関して何か提案は?
 ただ打ち、投げるのではなく、次はどんなボールを投げるか、それをバッターは読んでいるか、選手ばかりでなくファンもそれを想定して観戦すれば、興味も増し、これほどおもしろいスポーツはないと思います。それから生意気なことを言うようですが、選手が持てる力を精いっぱい出し切ってプレイすれば、ファンも喜び、それがプロ野球の発展につながっていくと思います。

 すがすがしい《野球少年》だ。この爽やかさで球界の《大人》を駆逐してほしい。平松の心のようにカクテル光線が明るく灯る。
「大洋ホエールズ、守備練習終了でございます。中日ドラゴンズ対大洋ホエールズ二十三回戦、間もなく試合開始でございます」
 打順表交換。スターティングメンバー発表。大洋ホエールズ、一番ファースト中塚、二番ライト近藤和彦、三番センター江尻、四番サード松原、五番レフト淵上、六番セカンド近藤昭仁、七番キャッチャー伊藤勲、八番ショート松岡、九番ピッチャー平松。中日ドラゴンズは、江島、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝、小川。中は控え。
 主審久保田(次回はネット裏で控え)、塁審一塁大里(次回は球審)、二塁竹元(次回は一塁)、三塁手沢(次回は二塁)、線審ライト山本(次回はレフト線審)、レフト丸山(次回は三塁)。
「プレイ!」
 試合が始まって、もっと涼しくなった。スコアボードの旗がホームに向かってたなびいている。
 一回表。トップバッター中塚、初球真ん中高目のストレートをチップファール。二球目同じコースのナチュラルシュートにバットを折られてセカンドゴロ。二番近藤和彦、大ファールのあと三振。三番江尻キャッチャーフライ。たしかに平松以外はオッサン面だ。
 一回裏。江島、内角シュートを打ってどん詰まりのサード小フライ。高木、シュートに詰まりながら三遊間を抜けていくヒット。江藤、カーブ、シュート、ストレートで三球三振。私、外角へするどく逃げていくシュートを打ちそこない、ショートライナー。
 二回表。四番松原、私の前へワンバウンドのヒット。よくあんなこねるような打ち方でするどい当たりを打てるものだ。五番淵上、ツースリーから二球粘ってフォアボール。六番近藤昭仁、三振。七番伊藤勲、初球を叩いてライト前ヒット。松原案外素軽い走塁でホームイン。一対ゼロ。松岡ツースリーまで粘って三振。まだ小川のエンジンが暖まらない。
 二回裏。木俣サードゴロ。菱川三振。太田三振。トントントンとスリーアウト。紅顔の野球少年を打ち崩せない。
 三回表。平松、小川の〈スロー、スロー、クイック〉にあしらわれて三振。一番に戻って中塚、外角カーブを引っ張ってライト前ヒット。近藤和彦、ボテボテのサードゴロ、菱川から一枝に送られて、中塚フォースアウト。プロを感じさせる美しい封殺だった。江尻二打席つづけてキャッチャーフライ。しかしタイミングが合っている。
 三回裏。平松が苦手意識を持っている一枝から。外角のストレート、外角のカーブでツーナッシングから、内角シュートが切れすぎて尻にデッドボール。小川ホームベースから遠く立ち、見逃しの三球三振。江島また内角のシュートに詰まってショートフライ。高木外角低目のストレートを弾き返してライト前ヒット。ツーアウト一、二塁。ようやく歓声が上がる。
「ヨ、慎ちゃん、お掃除!」
 江藤は処理しやすい大振りのバッターと言えるだろうか? 尻餅をつくほどの空振りをするときはたしかにそう見えるが、彼も実質、ぶった斬りのバッターだ。クローズドに構えてシュートを誘っている。彼も週刊ベースボールの記事を読んでいるはずだ。
 初球内角高目のストレート、ストライク。ボックスの外に出て夜空を見上げ、もう一度ボックスへ。二球目外角小さなカーブ、見逃し、ボール。三球目内角低目シュート、瞬間オープンに足を引いて強烈なスイング、三塁線をするどく抜けるファール。盛り上がって下降する喚声。
「ピッチャー、ビビッたよ!」
「お掃除!」
 四球目、真ん中低目ストレート、ボール。ツーツー。江藤は十センチほどボックスの前に出た。目立たないようにオープンに構える。五球目、真ん中高目、内へ曲がりこんでくるシュート、問屋が卸した! 木俣のお株を奪うマサカリを打ち下ろす。
「ヨシャ、ハッパッフミフミー!」
 ものすごいラインドライブ。あっという間にレフト最上段に突き刺さった。睦子たちの悲鳴が聞こえる。太田コーチがピョンピョン跳び上がる。江藤とハイタッチ。雄姿堂々ダイヤモンドを回る。水原監督と両手ロータッチ、尻ポーン。私と抱擁。木俣と握手。仲間たちとタッチ、タッチ、タッチ。頑丈な尻へ小川のジャブ連打。
「江藤選手五十五号のホームランでございます。昭和四十年の王選手の記録とタイ、通算二百九十八号、三百号まであと二本と迫りました。なお三百号メモリアルホームランの際には、水原監督から花束が贈呈されることになっております。ご期待くださいませ」
 内野スタンドの歓声に外野スタンドの歓声が重なる。一対三。ベンチから半田コーチの叫び。
「ビッグイニーング!」
 金太郎さん、金太郎さんのシュプレヒコール。ヘルメットをしっかりかぶる。あのボールを頭に喰らったら、死ぬ。
 平松は強い眼力で私を見据える。伊藤勲のサインにうなずく。初球、速球があごのあたりを通過する。一歩も動かず見逃し。どよめき。水原監督もベンチもまったく反応なし。二球目、胸もとへ向かってくるストレート、いや、グッと曲がってシュートがストライクゾーンへ滑った。
「ストライー!」
 主審久保田の裂帛(れっぱく)のコール。驚愕のシュート。頭を空にする。何でもこい。平松ロジンバッグ。三球目、外角遠くへ鋭いカーブ、ボール。踏みこみは村山そっくりだ。腕の振りだけがちがう。ゆったりとしならせる。伊藤勲が走っていく。平松は掌でそれを止める。伊藤が走り戻る。四球目、内角胸もとギリギリ、スライダー。腕を畳んで内野スタンド奥へファール。ベンチが何かを感じて静まっている。五球目、内角ストレート、いや、外角へ低く滑るシュートになる。やっぱり! 体高を低くしてクロスに踏みこむ。振り抜く。絶妙の食い。
「イッタァ!」
「おめでとう!」
「ゴッツァン!」
 かなり時間をかけて滑空し、左中間照明灯の横の看板を直撃した。太田コーチとタッチ。大歓声の中を水原監督に向かって走る。跳び上がって抱きつく。
「こらこら、それは激しすぎるよ」
「すみませーん」
「いや、ありがとー」
 尻ポーン。
「神無月選手、百三十二号のホームラン、今シーズン四十本目のアベックホームランでございます。EK砲恐るべし! なお神無月選手は、九月四日の対広島二十一回戦において安仁屋投手より百二十九号ホームランを打って三百一打点目を挙げ、前人未到の三百打点を突破しております」
 忘れていたバヤリース。江藤も遅れて飲む。一対四。カキーン!
「ほれ、またいったー!」
 バックスクリーン一直線。木俣ドスドスと走る。
「木俣選手、三十七号のホームランでございます。通算百二十三号、いち、に、さん!」
 スタンドに笑いが弾ける。一対五。ピッチャー交代。池田重喜。ここからの小刻みな継投は効果がない。
         †
 八時四十四分。二対八で勝った。池田との二打席は、時計直撃の百三十三号ソロ、スパイクにショートバウンドで当たるデッドボール。敗戦処理で出てきた高垣との一打席は敬遠だった。残りの二点は、菱川の三十号ソロ、太田の二十四号ソロだった。すべてホームランの得点。いつものドラゴンズが復活した。小川二十勝目。大台に載せ、ハーラーダービーのトップに立った。
 時計直撃のホームランについては、私への景品として急遽その時計を模した高級掛け時計が製作元の愛知時計の手で作られることになり、ほかに、私が辞退した賞金百万円を使って、来年春から一年間、日曜ごとの応募抽選で、一塁側内野席に小中学生が十人招待されることになった。軽食や飲み物も提供されるという話だった。
 後楽園の巨人は阪神に二対四で勝ち、太田の計算ではマジック4のまま。
 警備員の警戒はかなり緩んだ。球場を警戒する組員の数も二人になった。時田や蛯名の顔は見えなかった。日本シリーズ直前までは、インタビューもしつこくなくなるのでうれしい。監督もコーチも選手たちもみんな藹々とした雰囲気の中で帰路に着いた。
 駐車場で千佳子からリボンのかかった白い小箱を受け取った。睦子が、
「ボンボリみたいにかわいい花ですね。フェルトに刺繍糸で刺繍して、周りをキラキラの刺繍糸でかがってます。裏もフェルトです。変わったブローチ」
 千佳子が、
「小さくてかわいいキクエさんにピッタリ」
 二人はローバーで去った。セドリックの車中で小箱をキクエに渡した。
「何ですか?」
「開けてみて」
 目を輝かせてリボンを解く。節子に覗きこまれながら箱を開け、
「わ、ヤマモモ! かわいらしい!」
「まるでキクエだね。高知県の花だろ」
「はい、うれしい! ありがとうございます。大切にします」
 キクエは私に抱きついた。菅野が肩を揺すってやさしく笑った。
「節ちゃんには来年の二月、水仙のネックレスをプレゼントする」
「ほんと! うれしい」
 その夜は則武の寝室で、キクエの二十五歳の誕生祝いの褥に入った。節子は遠慮してカズちゃんと寝た。


         二

 九月十日水曜日。節子とキクエは八時からの早番だということで、カズちゃんとメイ子の用意した朝食を食べ、七時前にタクシーで帰った。私は七時に起きて、洗面、排便、シャワー。食卓につく。カズちゃんがめしを噛みながら、
「千鶴ちゃんのことだけど、素ちゃんが言うには、自分の前で露骨に抱きついたりセックスしたりしないかぎり関係ない、一度でも多くかわいがってもらえばいいって」
「他人の性欲を否定しないのは、一般的な感覚じゃない。並外れて度量の広い人間だけの特徴だ。あらゆる欲望の中で、一般に正面切って否定されるのは性欲だけだからね。延命欲も、食欲も、睡眠欲も、物欲も、学習欲も、名誉欲も権力欲も否定されない。それどころか肯定される。性欲は基本的な命の維持に必要でないから否定すると言うなら、食欲と睡眠欲以外はすべてを否定しなくちゃいけなくなる。性欲の結果の出産だけは喜ばしいこととして認めるのは大きな矛盾だね。きっと否定されてるのは性欲そのものじゃなくて、性の営みの奇妙さだろうと思う。滑稽な往復運動、あえぎ、オーガズムの奇声、痙攣―生命の維持と関係しないあらゆる欲望の中で表現がいちばん奇妙だ。そんな奇妙なまねをしなくても、人は生きていけるというわけなんだろうね。でも、奇妙だからこそ、ぼくには性の営みが人間らしいものに映るし、人間の最大の神秘にも感じられる。人間は奇妙で計り知れない生きものだということを、いちばんよく教えてくれるなつかしい行為だと感じる。それを認める人間は、深い理解力とやさしくて広い心を持った、最も人間らしい人間だ。カズちゃんに遇わなかったら、ぼくはそういう人間になれなかった」
「それは逆よ。キョウちゃんに遇わなかったら、と言い直したほうがいいわ」
 メイ子が、
「私もそう思います。神無月さんがもとからそういう人なんです。神無月さんに遇って心が広くなった人間はたくさんいると思います。そうなってしまうと、もう神無月さんのそばでしか暮らせません。心が広い人間は、人の目に無関心で、セックスに開放的になりますから、ほかの人たちには異常な人間に見られます」
 カズちゃんが、
「表立ったところでは、少し心の狭いところも世間のまねをしておかないと、スムーズに暮らせなくなってしまうのよ。でも、なるべく障害物は無視するのがいちばんね。無視できなくなったときだけ、付焼刃で対策を考えましょう」
 二人を送り出し、ジム部屋で筋トレ少々。素振り二百四十本。三種の神器。もう一度シャワー。さっぱりして、ステレオの前にあぐらをかく。六十年代ポップスをゆっくり、手当たりしだいにかけていく。
 バリ・シスターズ『アイ・ラブ・ハウ・ユー・ラブ・ミー』
 ディー・ディー・シャープ『マッシュポテト・タイム』(園まりの最高傑作)
 エンジェルズ『私のボーイフレンド』
 テディ・ベアズ『逢ったとたんに一目惚れ』
 レスリー・ゴーア『涙のバースデイ・パーティ』、『ワン・ボーイ』
 ナンシー・シナトラ『イチゴの片想い』
 ダイアン・リネイ『ネイビー・ブルー』、『キス・ミー・セイラー』
 ケーシー・リンデン『悲しき16才』(クマさんとの思い出の曲)
 デビー・レイノルズ『タミー』
 コーデッツ『ロリポップ』
 シレルズ『ウィル・ユー・スティル・ラブ・ミー・トゥモロー』
 シェリー・フェブレー『ジョニ・エンジェル』
 ゲイル・ガーネット『太陽に歌って』
         †
 一時半ごろ、江藤から雨天中止の電話が入った。
「江藤さん、もう一本で五十六本、王を抜く記録でしょ。マリスの六十一本を目指してください」
「狙っとる。気抜かんでやるつもりたい。金太郎さんは百五十本やな」
「二十九試合で十七本はきついです」
「成せば成る」
「はい」
 庭に出て一升瓶。庭の砂を少し入れて、布の栓をした。手首で動かすのはきつい。やりすぎないように注意する。北村席へ出かけていく。
 ちょうど直人が戻ってきて、あたりがやかましくなった。
「よし、直人、雨で野球はできないから、メイチカを歩こう。ほしいものがあったら買ってやるぞ」
「おとうちゃんみたいなメガネ!」
 子供用サングラスを思い浮かべる。睦子が、
「私もいきます。写真屋さんでフィルムを買って、アルバムを二冊買わなくちゃ」
 千佳子も、
「いこいこ。私、トキワ園書店を覗きたいから。あそこはアルバムも売ってるわよ。写真屋さんのだと、豪華すぎるでしょう?」
「そうね、これから何冊増えるかわからないものね」
 菅野が立ち上がって、
「私もいきましょう。直人がチョコマカするでしょうから」
 女将が主人から千円を受け取り、菅野に渡した。
「コンパルのサンドイッチ、テイクアウトしてきてや。カツサンドと野菜サンド。うちの人の好物なんよ」
「了解」
 雨が楽しいらしく、直人はうれしそうに小さな長靴を穿いた。玄関で子供用の傘を開いてやる。柄の持ち方や肩に載せる方法を知らない。それでも自分で持つことを主張する。結局、庭石でよろめいたり、傘を取り落としたりする。菅野が腰を屈めて拾い、肩に担がせてやる。その上から大きな傘で相合傘をした。
「ひさしぶりに強い雨だわ。今年はいまのところ目立った台風もこないし、このまま平穏な一年で終わりそうですね」
「うん、消化試合が楽しそうだな」
「秋季キャンプはどうするんですか」
「出ない契約なんだ」
「若手中心の基礎トレーニングと言ってもねェ。ふだんやってるから、することないですもんね」
「ぼくに倣って、水原監督はベテランも休ませるようにしたようだ。春のキャンプで故障しないように、毎日自主トレは欠かさないようにしなくちゃ」
 傘を畳み、太閤口の階段から睦子と千佳子が直人の手を引いて降りる。雨なのに地下街は大賑わいだ。回廊のいたるところから縁日のようなざわめきがただよってくる。
「すごいなあ!」
 菅野が、
「この地下街を運営する会社の社長は、中日新聞の白井社長です。経営に参加してるのは名鉄、トヨタ、毎日新聞などですね。中日が優勝すると、当然もっと派手な状態になります」
 通路左から蕎麦屋安曇野庵、廣寿司、コンパル、きしめんのうまいパーラーみかど、カメラのダイヤモンド、和菓子の両口屋是清、Epi‐ciel という喫茶店、漬物の大和屋。睦子はカメラ屋にフィルムを買いにいった。千佳子に、
「cielは、空という意味だよね。エピって何」
「フランスパンのこと。ベーカリーカフェって書いてあるでしょ」
「なるほど、フランスパン、空、か」
 カメラ屋から戻ってきた睦子とみんなで引き返す左手に、靴下カトレヤ、トキワ園書店、茶の香西、四軒並びの洋服店、クリーニング白洋舎、焼きそば福蔵、銀座ライオン、駄菓子も売っている煙草屋。直人はメイチカを歩くのは初めてだ。キャッキャッと声を上げながらウィンドーに駆け寄る。中老の女性や子供連れの夫婦が、
「まあ、かわいい」
 と言って立ち止まる。あまりにもかわいいので私たち四人の同伴者がいることに気づかない。ほんとうにかわいい子なのだ。千佳子や睦子も彼といっしょに歩けて得意そうだ。
「いつか私も直ちゃんみたいなかわいい子を連れて歩きたいな」
 千佳子が直人の頭をなぜる。
「あれ? 千佳子、子供ほしいの?」
「悩んでるところです。毎日直ちゃんを見てると、ほんとうの幸せに疼くと言うか、心はちがうと言ってるんですけど」
「千佳ちゃん、ほんとうの、と軽々しく言わないほうがいいわ。子供がいさえすれば、相手がだれでもいいことになっちゃう」
「もちろん、神無月くんの子供じゃなくちゃイヤよ」
「じゃ、ほんとうの幸せって、郷さんの子供という条件つきね。いろいろな条件が重なって、ほんとうの幸せになるのね。そういう考え方には反対しない。でも、ほんとうとか最高のものとかは、なかなか決まらないわ。でも私の最高のものは変わらない。郷さんと生きること。ほんとうのと言ったら、郷さんを第一に思ってないことになる。きっと千佳ちゃんは〈女の〉ほんとうの幸せという意味で言ってると思うから、形の完成した女のほんとうの幸せは、郷さんでなくても叶えられるということになる。郷さんを貶(おとし)めることになるわ」
「……ほんとだ。ぜんぶ女の所有欲ね。恥ずかしい」
 菅野が、
「お二人きびしい話をしてますけど、神無月さんはわれ関せずですよ」
「あたりまえです。郷さんは、自分が女を幸せにできると思ってませんから。―私たちが愛して、貶めなければいいだけの、独りきりの人ですから」
「眼鏡屋ないねえ」
 私は直人に語りかけた。直人は傘をしっかり握って悲しそうにうなずく。
「たしかにあったんだけど。西高のころ、カズちゃんが近眼鏡を作ってくれた店がね」
 菅野が、
「東地下街へ曲がるとあったような……」
 菅野についていく。化粧品アマノ、カメラのアマノ、たしか、ここで金原と写真を撮った。アクセサリーベルベグ、看板を読むだけで楽しくなる。喫茶・菓子ベルヘラルド。メガネハートアップ。あった!
「あったよ直人、眼鏡屋さん」
 直人が走りこんでいく。睦子たちも急ぐ。女店員が寄ってくる。
「いらっしゃいませ。―あ、神無月選手!」
 二人の男子店員が彼女の声に反応して、客に応対していた顔を上げた。客もこちらを振り返った。私は無視して、
「子供用サングラスをください」
 女店員はなぜか声を低め、
「かしこまりました。キッズ用の眼鏡ですね。こちらです」
 入口からいちばん遠いショーケースに、かなりの面積を使って小さな眼鏡が並んでいた。私は直人に指で示し、
「ほら、色がついてるやつ、格好いいだろう?」
「いや、おとうちゃんとおなじもの!」
 女店員は一瞬訝しげな表情をしたが、私はあえて胸ポケットから眼鏡を出し、その特殊な形と見比べながら、少しでも似ているものはないかと持ちかけた。店員といっしょにウィンドーを物色してみる。直人はガラスケースに鼻をつけて覗きこむ。菅野もしゃがんで覗きこんだ。私は大人用のコーナーに移動した。千佳子が睦子といっしょに近寄ってきて、
「神無月くん、ンガには世間評価で欠点にされてしまる弱点があるんず。女にカタチを保証してやらねこど。だども、ヒーローってのは〈ふつう〉でねすけ。人の目なんか気にしねでいてけんだ。……遇ったとぎから、死ぬほど好きだよ」
 青森弁で言った。睦子は、
「千佳ちゃん、もうもとどおりね。郷さんはふつうの人たちのヒーローにならなくていいんです。その弱点のおかげで、私たちみたいな少し変わった凡人ためのヒーローでいられるんだもの」
 私は、
「そんなことを言われると勃っちゃうよ」
 睦子がニッコリ笑い、
「あしたの試合が終わったら、お願いします」
「そういう区切りをつけて約束するのはやめよう。したいときにすぐ」
 二人は微笑みながら私の手を握って揺すった。
「買いかぶられようが、貶められようが、ぼくはどうでもいいんだ。だれだったかアメリカの作家の本に、幸福であるための秘訣は鈍感であることだと書いてあった。お、直人おいで、これどうかな。顔の小さい大人向けだよ」
 目の縁がかすかに箱型になったゴーグルのような眼鏡を発見した。目立たない淡い紫のガラスが入っている。
「おとうちゃんのだ!」
 店員たちがこちらを見た。直人を追ってきた菅野が、
「ふうん、ダーバンか。フランスですかね。九千円。洋物は高いなあ。たしかに神無月さんの眼鏡と形がよく似てますね。直人には大きいけど、おもちゃ感覚だと思えば」
「これがいい!」
 直人のひと声で決まった。


         三

 私は男子店員に、
「フレームの後ろにゴム紐のようなものをつけてもらえますか」
「はい、ちゃんと留め具がついた専用のゴムがございます」
 カウンターの奥の細工デスクに向かっていた男の店員に頼んで、柄の先にヤスリでほんのわずかの窪みをつけ、黒い太ゴムで留めてもらった。
「レンズを換えましょうか。これは展示用ですので。一週間ほどお時間をいただければ」
「これがいい!」
 フレームは大き目だが、ずれずに小さな鼻に載った。走り回る。男子店員も客も、チラチラ私と直人を見比べて緊張していた。ふと見ると、直人の眼鏡がずり落ちている。
「直人、おいで。顔にピッタリ合うようにしてもらうから」
 店員が直人を椅子に座らせて、ゴムの微調整をしているあいだ、みんなでドアのそばのベンチに腰を下ろす。直人と私の顔を店員たちの視線が交互に行きかう。
「世の中の人というのは、どうしてこうも他人が気になるんですかね。自分を見ないで他人ばかり見てる」
 菅野がため息を漏らす。
「ただの他人じゃない。新聞やテレビでいじられるぼくのような人間は、他人じゃないと錯覚される他人だからね。とにかく彼らは鈍感に生きられないんだ。他人の話を聞きたがり、他人のことを知りたがる。他人で聞き納めしたり、見納めしたりして、自分の人生を紡ごうとする。そんな情けないことをせずに、できるかぎり自分の考えを終点にしなくちゃいけない。自分の人生は自分の考えで紡ぐためにあるんだ。―そういう悪口を言うのも飽きちゃった。彼らの好奇心になびくほうがラクになった。ついこのあいだまでは面倒くさかったけどね。一般の人たちはみんな、人生という物語の中で自分が主役で、ほかの人はみんな脇役だと思ってる。脇役は主役を盛り立てなくちゃいけない。目引き袖引きされる人間は主役じゃなくて、慰みものという脇役だよ。芸能人も、スポーツ選手も、あらゆる有名人も、彼らの盛り立て役だ。せっかく脇役なんだから、何の主張もせずに身をまかせていればいい。石や木みたいにね。鈍感であるのが自然体だ」
 千佳子が店内に響く声を上げて笑った。菅野も睦子もつられて笑った。
「どんなところにいても、神無月くんのすばらしい哲学が聞ける!」
「ほんと!」
 調整が終わったらしいので、みんなで直人のそばにいった。
「今月中は、フレームもレンズも四十パーセント引きとなっております」
「ありがとうございます」
「ドラゴンズのおかげで、四十パーセント引きでも商売繁盛です。こちらこそありがとうございます。リーグ優勝の日を待ち望んでます。そして日本シリーズの優勝をダイヤモンドメガネ一同、心からお祈りしております」
 店員全員でお辞儀をする。眼鏡ケースをもらって、金を払い、さりげなくみんなで店を出た。人混み。直人は眼鏡を通して見る景色をめずらしがり、回廊をチョコチョコ走りながら、通行人を見上げたり、天井を見たり、屈んで床を見たり、店々のショーウィンドーに顔を寄せたりした。睦子と千佳子がぴったり寄り添う。
 トキワ園書店に寄る。ベストセラー本、月刊雑誌、週刊雑誌、児童本、漫画、学習参考書、実用本といったものが主な書棚や平棚を占め、堅いものや時期外れの本は、奥の目立たない書棚に収まっている。そこには定期発行の学術誌も雑じっている。平棚にはちょっとした文房具とか絵葉書が揃えてあり、洗剤やティシュなども置いてある。雑貨店を兼ねた地元の本屋さんの趣だ。
「気取った店が多い中で、この本屋は古き良き時代の雰囲気があるね」
「トキワ園は、品揃えは悪いんですけど、注文してから届くのが早いんです」
 千佳子は法律時報と法学セミナーの九月号を、睦子は大きなアルバムを二冊買った。直人はと見ると、平積みの本を眼鏡で検分しながらあちこち歩き回っている。私は直人がもう少し大きくなったら読めるようにと思い、アットランダムに手を泳がせて字入りの絵本を二冊買った。『せかいにパーレただひとり』、『ゆめってとてもふしぎだね』。
 コンパルでサンドイッチを買う。カツサンドと野菜サンド。千佳子がビニール袋を持つ。
「ここの冷(れい)コーは最高ですよ」
「コーヒーはいいや。ミカドでおやつを食べていこう」
 ミカドに寄り、きしめんを注文。
「ミカドって店は新宿にもあったね」
 睦子が、
「歌声喫茶ともしびの向かいですね。純喫茶ミカド。思い出しても、東京ってあんまりなつかしくない」
「みんなのふるさとだからね。思い出させる個性がない。特徴のない美人」
 直人はメニューの写真を見て、迷わずホットドッグを指差す。眼鏡の景色にはさすがに飽きたようで、私からケースを奪い取り、眼鏡拭きに包んで大切そうにしまった。菅野が一服つける。
「メイチカはいくつかほかの地下街と迷路みたいにつながってるんです。このあいだはたどりつけたのに今回は無理だった、なんてことはザラです。シャッターが閉まっている時間帯だと通路の見分けもつきません。浮浪者も多いしね」
 睦子が、
「日本でいちばん古い地下街ですよね」
「そう。第一期工事が終わったのは昭和三十二年です。東山線の開通に間に合うように作ったんです」
 千佳子が、
「私たちがかよってる線よ。クーラーがついてない黄色い電車」
 睦子とフフと笑い合う。
「三十二年というと、ぼくが名古屋にくる二年前か」
「三十九年のオリンピックの年に二次工事が終わり、ようやく去年、三次工事が終わりました。まだつづいてます」
「三次工事には西松建設も参加してるね」
「はい。竹中工務店が中心になってます。二、三年後に大規模な改修工事をすっかり終えて、名前もサンロードに変わるそうです」
「日が照らないのにサンロードか、おもしろいね。東京の中野もたしかサンロードだった」
 睦子が、
「私は南阿佐ヶ谷と本郷くらいしか知りません」
「いやいや、駒場、高円寺、吉祥寺、荻窪。グリーンハウスの新宿とか、神宮球場にもいってるしね。意外と知ってるもんだよ」
 のんびり会話をしながら、きしめんをすする。直人は夢中でホットドッグにかぶりついている。口の周りが赤い。子供はケチャップが大好きだ。
 千佳子が、
「ほんとに直ちゃん、かわいい。トモヨさんを見てると、子育てってふつうじゃなく大変だと思う。いろいろな人たちに助けられないと」
 睦子が、
「うん、わかる。小さいころのおかあさんのことよく思い出すわ。市場から戻って、晩ごはんの仕度、夕食が終わってあと片づけ、ストーブに石炭を足して、翌日の洗濯物を水に漬けて、それから針仕事を始めるの。何時間も布に針を通しながら、ときどきため息ついて、肩をキュッと上げて凝りを取って、また次の縫いものに手を出すの。どうやったらその布を子供のために有効に使えるかって考えこんだりしてね。ああいうふうに生きるのも、女の幸せなんでしょうね」
「ムッちゃんが生活に追われるのは似合わないわね……」
 菅野が、
「名古屋駅構内に銭湯があるの知ってますか」
「知らない!」
「早川浴場って言うんです。駅構内にある全国でたった一つの銭湯です。中央コンコースの旅行会社のあたりに、地下に降りる露地の入口があります。蛍光灯の看板が点いてますよ。朝五時から夜十一時まで。一日千人はきます。男湯女湯ともに大浴槽が一つ、定員は男湯七十、女湯二十、壁絵は富士山です。露地にはほかに、床屋もクリーニング屋も食堂もありますよ」
「今度いってみようと思うだけで、いかないだろうな。何か、名古屋独特のことをもっと教えて」
「そうですねえ、嫁入りのときは菓子を撒きますよ。名古屋でいちばん背が高いビルは下通ウグイス嬢の中日ビル。回るレストランがあります。いちばん古いトルコは令女プール」
「北村席より古いトルコ風呂があるんだね」
「はい」
「塙席さんのトルコは銀馬車でしたっけ」
「はい。ほかにつまらないことですけど、栄のオリエンタル中村の入口の強風冷房は有名です。ゴーゴーを踊れるのは栄のカーニバル。庄内川の堤防沿いには朝鮮人部落がいっぱいあります。納屋橋と鶴舞にストリップ劇場があります。大須や金山にはボーリング場がうじゃうじゃあります。大須新天地通りはほとんど映画館です。名鉄百貨店の屋上に熱帯魚屋。市電の運賃は十円。もっといきましょうか」
「いや、もうじゅうぶん」
 口にべったりケチャップをつけた直人が椅子の上に立ちあがる。
「おうちにかえろ」
 千佳子は、
「うん、帰ろ」
 睦子がナプキンで直人の口を拭く。長靴を履かせ、傘を持たせる。
「メイチカはレコード屋がないね」
 睦子が、
「名鉄百貨店にあります。それから、オリエンタル中村の南側の横丁に、お婆ちゃんがやってるOKレコードってお店があって、よく二割引でクラシックを売ってます」
「そう? 今度そこにもいってみよう。いや―いかないな。そうやって、十年、二十年経っていくんだね」
 階段を昇って外に出ると、雨脚が強い。菅野は直人を胸に抱きかかえ、傘を差す。歩いているうちに直人が菅野の胸に顔をつけて眠りだした。私は、
「菅野さん、いまから〈するべき〉ことをしてきます」
「了解! 夕食までには帰ってきますね」
「はい。一時間もしたら帰ります」
 千佳子は菅野にコンパルのサンドイッチを入れたビニール袋を渡した。菅野はそれをこうもりの握りに吊るした。直人の傘は玩具の刀のように腰に差した。
         †
 三人で傘を差して歩く。傘を打つ雨音が強い。そろそろ四時になる。金原と入った笹島の近くの旅館に向かう。太閤通を連結電車が通っていくのが見える。
「太閤通に出る手前の道を曲がると、平屋の旅館があるんだ。金原と一度いった。小さいけど、きれいにしてる旅館だ」
 千佳子が、
「結局、私たち金原さんにはまだ一度も会ってないわ」
「このあいだの学生大会のときに会うチャンスはあったんだけど、遠慮してるんだよ」
 睦子が、
「もう私、歩きづらいほど濡れてます」
 千佳子が、
「私もそう。……神無月くんは、西高では何人くらいとしたの?」
「金原一人。カズちゃん、素子、文江さん、節子、キクエ、法子が同時進行だった」
「青森では、寮母さん?」
「うん、それとカズちゃん。ひどいもんだね」
「責めてるんじゃないんです。感動してるんです。だってあんないろいろな困難を切り抜けなくちゃいけない時期にその人たちの相手をしてあげて、そしていまもその女の人たちをきちんと引き受けてるのがすごいと思うから。毎日目が回るほど忙しいのに。冬に帰省しても、きちんと引き受けてあげるんでしょう?」
「一人ひとりと逢う予定はないけど、逢って求められたらなんとかしないとね」
 睦子が、
「金原さんとのこと、和子さん知ってるんですね」
「うん、文化祭のとき、花屋という喫茶店で会ってるからね。そのときキクエも法子も素子もいたから、おたがい顔見知りだ。……そんなことより、ぼくはいちいちだれかに知らせて女と寝るわけじゃない。事後報告をする義務があるとも思ってない。でも、最終的にこうして話してしまうのは、ぼくが関係を持った女が、千佳子や睦子たちと同じようにぼくを愛してる女だと伝えるためなんだ。人から愛されることは奇跡だ。……ぼくは人の愛に触れて初めて自己愛が芽生えるタチの、どこか欠落した人間だ。自分が愛されているあいだは、異常なほど自分への愛があふれ出る。ただ、その自己愛の底に深い悲しみが沈んでる。人を愛せないという悲しみだ。愛せない分、自分だけは人を捨てない人間になろうという覚悟が強まる。それは愛情と呼べるものじゃないけど、そう覚悟すると少しばかり悲しみが薄まり、ぼくは人を愛してると感じる。人を愛してない人、つまり他人への愛情よりも自分の都合を愛する人間は、自分を愛してくれる人間からさえも離れていく。そうすることが彼らの〈幸福〉だし、彼らはそうやって、自分を愛さない人間のいるところで幸福になる。彼らの幸福にぼくは疑いも反発も関心もない。ぼくのように、愛してくれる人間にこだわって愛し返そうとする人間は、その人間から離れずに、おたがいの愛情を信じながら、どんなに都合が悪くても、恥部を曝け出し合ってまで、おたがいを引き受けようとする」
 二人は強くうなずいて、両脇から私の腕に腕を絡ませた。千佳子が、
「その旅館、神無月くんの正体がバレて面倒なことにならないかしら」
「お婆さんひとりでやってる旅館だ。年寄りは野球なんか観ない。だいじょうぶ」



(次へ)