十

 荒い呼吸が穏やかになり、
「見苦しいところをお見せしてすみませんでした。……和子さんに聞きました、男は女の何百分の一しか気持ちよくないって。……ごめんなさい、神無月さん」
「謝らなくていいよ。男はオナニーと同じ感覚を女のオマンコで確かめるだけだけど、女はぜんぜんちがう経験をするんだものね。ショックは女のほうが大きいだろうね。クリトリス以外に感じる場所があるって知るわけだから」
「そうなんです、オマメさんは自分を喜ばせるためのもの、オマンコは男を喜ばせるためのものだと思っていたのに、自分が喜ばされるためのものだってわかったときは……」
「驚いた?」
「はい、驚いて……救われました。教えてくれた神無月さんに救われたんです」
「救われたのはぼくのほうだ。女というのは、男を喜ばせるだけじゃなく、もともと人を救う人間としても完成してる。……自分を全開放する才能があるうえに、濃やかな心まであるからね。そういう姿を見ることで、懸命に生きる精神のあり方だけじゃなく、命そのものの意味を教えられる。自分をぜんぶ開放して悦びを表わす姿を見て、自分もこうやって生きなくちゃいけない、そうやって生き延びなくちゃいけないって」
「私たちが神無月さんを救うんですか? まさか―」
「ほんとだ。だから、ぼくにとって女一人ひとりが貴重で、同じ重みを持ってる。セックスをするのはそのお礼のしるしだ。もちろん自分の性欲もあるけどね。セックスしようと思う気持ちの、せいぜい、二割か三割じゃないかな。その理屈を理解できる人間は、たぶんぼくと、ぼくの女たちだけだろうね。全力の開放で人間的な模範を示す以外に、女たちがぼくを救ってくれるほかのやり方もわかってる」
「まだあるんですか?」
「うん、そっちのほうが強力だ。ぼくのことを気の毒に思い、褒め称えて励ますというやり方だ。どうしてそういうやり方をするのか、その理由がぼくにはわかる。まずこの世の中は、自分、自分、自分の人間がほとんどだということなんだ。自分が振り返ってもらわないとヤケを起こす。ヤケを起こして人を傷つける。女たちは、ぼくがそういう人たちに気兼ねしながら生きてきたのを目や耳にして、かわいそうに思ったんだよ。たとえ無意識にでも、多かれ少なかれ同情の気持ちが湧いたはずだ。そういう卑屈な生き方をやめさせたいと思ったはずだ。そのために、ぼくがもともと〈腕のある〉人間であることに気づかせようとした。腕のない自分本位の人たちがのうのうと生きていられるのも、腕のある人間が支えてやってるからだ、そこを忘れてしまうと、まんまと餌食にされていじめられる、そのことを教えてくれた。彼らの迫害に負けて、彼らを支えているという誇りを失ってしまうなんて、こんな口惜しい話はない、こんな情けない話はない、だから腕のある人間は余計な雑音になんか耳を貸さないで、腕で人を救済している誇りを抱いて生きいればいい、そう教えてくれた。自分の腕を信じられない人間は、腕のない人たちに気兼ねし、付和雷同して自滅する。自分の腕を信じて生きていさえすれば、自分が支えてあげている人たちに恩返しなんかされなくても、誇り高く生きていける、そう教えてくれた。なかなか教えをちゃんと守れないけどね……誇りというのがどうも」
 百江は私の胸にすがり、
「誇りなんか持たなくていいんですよ。神無月さんが私たちの誇りですから。……腕のない人にいじめられる不幸は、もう神無月さんに起こりようがないんですよ。世間に腕を認められて、すっかり勲章まみれになってしまいましたから、その人たちのほうが神無月さんに合わせるしかなくなりました。でもそんなこと、神無月さんにはどうでもいいことなんですよ。人に気兼ねしながら精進することが重要なんです。……人はいつも気兼ねしながら腕を鍛えていなければいけないのかもしれません。……尊敬します」
 柱時計が一つ鳴った。五時半だった。
「そろそろ北村席に戻らなくちゃいけません。みなさんが心配します」
「もう乾いちゃった?」
「はい、ほとんど」
「もう一度したいな。またしばらくできないと思うから」
「いいですとも、がんばります。あら、神無月さんもすっかり萎れてますよ」
「ぼくもがんばるよ」
 百江は私の腰の脇に屈みこんで睾丸から舐めはじめた。丁寧に舐め上げていき、最後にあごを大きく落として亀頭を含んだ。
「硬くなりました」
 百江はニッコリ笑うと、仰向いて股を広げた。
「チョコチョコ入口をつついてくれれば、すぐ濡れますから」
 しばらく膣口に亀頭を当てて突いているうちに、泉が甦ってきた。百江は腰をグイと前に出して亀頭を呑みこんだ。
「ほら、先っぽがオマンコに入りました。お疲れでしょうから、無理に出さなくていいんですよ。私が一度イッたら抜いてください。ああ、神無月さん、とてもいい、あああ、いい気持ち! イク!」
 予想外に窮屈な湿原になってきて、すぐ危うくなった。
「あ、イク、うーん、イク! ああ、愛してます! うれしい! イク! うう、イクイク、イク! あああ、神無月さん、だめ、大きくなってきました、出さないで、疲れるから出さないで、あ、ああ、だめええ、イク!」
 あわてて引き抜き、射精を思い留まる。射精すると疲れると信じているらしいのが愛しい。弾む尻を下からつかみ上げて、勃起しているクリトリスに舌を丁寧に使う。
「ああ、神無月さん、好き好き、愛してます、愛してます、イク、イクイク、うううん! イク! あああ、やっぱり入れて、いますぐ入れてください!」
 挿入する。射精の予感が遠ざかっている。
「あああ、好きです、死ぬほど愛してます、あああ、イク、強くイク、イクイクイク、イク!」
 温かく柔らかいうねりが微妙に亀頭を刺激し、おのずと腰の動きが速まる。
「あ、うれしい、もう神無月さんがきました、愛してます、愛してます、イク、いっしょにイク、出してください、あああ気持ちいい!」
 両腿を抱え上げてグンと突き入れ、腹の奥へほとばしらせた。
「あああ好きィ! 愛してますゥ! イクイク、イク! イクウウ!」
 私の下腹に愛液が飛んだ。精液を出し尽くし、引き抜いて、激しく痙攣しているからだを後ろから抱き締め、片脚を上げる。
「あ、イク、イク! も、だめ、神無月さん、あああ、好きです、愛してるわ、愛してるわ、ううん、イック!」
 広げた股間から幾筋も愛液を飛ばす。ぬめって光る小陰唇が動いているのがかいま見える。
「も……も、だめ、神無月さん、ううう……イク!」
 上半身の痙攣が連続して始まった。抱えていた脚を下ろし、乳房を握り締めながら、大きく引き攣る肩に額を預けて、愛しい女の神秘に身をゆだねる。百江は喉を絞ってみぞおちを引き攣らせつづける。
「う、う、愛してます、死ぬほど愛してます、神無月さん……」
 百江はしばらく腰の両側の窪みをビクビクさせていたが、みぞおちのひくつきが止むと、目を大きく開いて微笑んだ。月光のように美しい笑顔だった。
「ありがとう、神無月さん。ふうう、イキすぎてしまいました。からだを楽にしてください。お口できれいにします」
         †
 夜、一家で大洋―巨人戦を観る。一対三で巨人が勝ち、中日のマジックは4のままと放送された。この先三戦の結果を考えようとしても予測がつかないので、とにかく土日のドラゴンズの星取りでマジックがどうなるかはマスコミの計算に委ねることにした。
         † 
 九月十三日土曜日。七時半起床。快晴。空がどこまでも高い。二十二・一度。無風。
 うがい。激しい下痢、強い耳鳴り、クツワムシの羽音が混じる。シャワー、歯磨き、洗髪。爪を切り、耳垢を取る。
 ジムトレのあと、菅野と日赤までランニング。話をしながら耳鳴りを忘れようとする。アヤメで朝食。焼きサバ、おろし納豆、豚汁、どんぶりめし。
「アトムズの選手でタイトル狙いはだれですか」
「一人もいません。ロバーツがベストナインに選ばれるくらいじゃないですかね」
 北村席にいって、ソテツに見守られながら、グローブ、スパイク磨き。パンツ一枚で芝庭に出て、三種の神器、一升瓶。カンナを抱いたトモヨさんが見学。
 座敷にいくと、主人が、
「金田が四百勝まであと三つです」
 新聞を押してよこす。

 
カネやん四百勝間近 現在三百九十七勝
 今シーズンの金田は現時点で二勝四敗、通算三百九十七勝二百九十八敗。残り三十試合、刻々と四百勝が近づいてきている。
 昭和二十五年から三十九年の国鉄時代、金田は十五年間で三百五十三勝した。巨人移籍後の昭和四十年から五年間で四十四勝。金田が十五年間在籍した国鉄は、Aクラスが昭和三十六年の三位一回だけ。Bクラス十四回、うち五位以下が九回あった。その十五年間で国鉄が挙げた勝利数は八百三十三勝だから、四十二パーセントが金田の白星だったことになる。国鉄は打撃力が弱く、金田の三百五十三勝のうち百四十勝はチームの得点が三点以下。金田が0―1で完投負けした試合が二十一もあった。打力のあるチームで投げていれば、五百勝も夢ではなかっただろう。
 力強さと柔らかさの共存する投球フォーム。猛烈なスピードボール。懸河のカーブ。たしかに野球は進化しているが、金田を超えるような投手は今後も出てこないと断言していい。
 長嶋選手談「金田さんと言えば、私のデビュー戦の四打席四三振が真っ先に浮かぶ。私は完膚なくやられたあのとき、プロで戦い抜いてやるぞ、と強く思った。金田さんのような投手はこれから出てくるだろうか。四百勝は永遠ではないかと思う」
 王選手談「巨人に入って初めて金田さんと対戦したときは、別格以上の、それこそ破格な投手だと感じた。六年間対戦した。二階から落ちてくるようなカーブで、直球もグッと伸びてくる。金田さんが巨人にいらっしゃってからは、野球に関してたいへんいろいろな形で指導していただいている。大切な恩人の一人です」
 作家・参議院議員石原慎太郎氏談「彼とは山中湖の別荘が隣同士でね、二人でよくゴルフをしました。プレイ中、彼が左腕を見せてね、俺はこの腕で日本のプロ野球に何十億も稼がせてやったんや、と言ったが、まさにそのとおりだと思っていた。国鉄スワローズが負けてばかりのころ、金田しかいなかった。孤軍奮闘で、それはみごとな〈オトコ〉でしたよ。浅利慶太が神宮球場の近くに住んでいてね、飲んだあと役者なんかと連れ立ってよく試合を観にいった。スワローズの選手に、おまえらそれでもプロか、とボロくそに野次ってやった。選手たちがベンチから出てきて怒鳴り返してきた。そうしたら金田も出てきて、こちらに腕を突き出して、こら! と威嚇してくるから、ほんもののプロはおまえだけだ! と叫んだ。彼は、サンキュー! と手を挙げたね。巨人にいったときは、天下の金田正一が強さと権威にあこがれるのかと批判しましたよ。四百勝を目前にもたもたしてるから、四百勝したらかならずやめろと言ったんだ。彼は、来年も十勝してやる、と言うから、みっともないからやめろと言ってやった。彼は、きみはなんでそんなつらいことを言うんだ、と悲しい顔をするから、ぼくはきみが好きだし、すばらしいと思ってるから言うんだ、と伝えた。


 金田という〈人間〉に対する誠真の驚きと崇敬がない。ここに書かれているだれの言葉にもそれがない。うわべ技術と成績に対する感銘だけだ。
「引退試合は来年のオープン戦だそうです」
「相手は中日ですか」
「関東地区の球団だと思います」
「消化試合で対決するときは、引退試合だと思って戦おう」
 菅野が、
「今度の巨人戦は九月三十日からですから、たしかに消化試合ということになりますね。消化試合は代打屋の正念場です。ぜったいレギュラーになれないわけだから、しっかりした実績を挙げて、せめて代打としてプロ生活をまっとうしないと」
「広島の宮川という代打専門の小柄な選手を見ました。みごとにヒットを打ちましたよ」
 主人が、
「代打の切り札、宮川孝雄か。ホームランは打たんけど、ヒットはよう打つわ」
 菅野は、
「ヒットだけじゃなく、最多デッドボールの二年連続記録保持者ですよ。とにかく出塁率がすごい」
 昼めしどきに、カズちゃんが私にウィンクして、
「百江さんのこと、ありがとう。ほんとに身を粉にして尽くすんだから」
 女たち特有の絆の強い口の軽さだ。素子が、
「キョウちゃんにさびしそうな背中を見せたら、たいへんなことになるがね」
 トモヨさんが、
「……仏さまですね」
 と言って、まぶたに手を当てた。
 直人が帰宅し、午後から休業の女たちに混じって積木でひと遊びする。私もしばし混じる。ソテツの用意した新しいユニフォームを着る。式台に腰を下ろし、主人夫婦とトモヨさんたちに見つめられながら白い運動靴を履く。ダッフルを担ぐ。小さな手のバイバイに見送られて玄関を出る。暑い。湿った熱気が庭の芝を這ってくる。夏の季節感がすっかり薄れてきたと感じていたところへ残暑がきた。菅野のセドリックで一時十五分出発。
「あしたはランニングなし」
「了解」


         十一

 対アトムズ二十二回戦。試合開始前にロッカールームで短いミーティングが行なわれた。水原監督が、
「きょうからの三連戦、実験的にピッチャー三人制でいきます。先発、中抑え、抑え。点を取られても取られなくても、三回、三回、三回を投げる。きょうは小野くん、伊藤久敏くん、土屋くん。あしたのダブルヘッダー、二十三回戦は小川くん、門岡くん、若生くん。二十四回戦は水谷則博くん、星野くん、水谷寿伸くん。だれが勝利投手になるかは運まかせだ。楽しんでください。それぞれのピッチャーに対するキャッチャーは木俣くんで通すつもりだが、大差がついたら新宅くん、高木時くん、吉沢くんの出番もある。攻撃陣は代打も含めて臨機応変にいく。控えの全選手に出場してもらうつもりです。来季の一軍候補の顔見世だと思ってがんばってください」
「オース!」
 田宮コーチが、
「葛城、徳武、千原、伊藤竜彦、江島、江藤省三は先発出場もあり得る。吉沢、日野、堀込、金は、先発がなくても、三連戦にはかならずどこかで使う。常に心がけておくように」
「ウィース!」
 宇野ヘッドコーチが、
「総力戦で優勝に向かって邁進する。じゃ、きょうの先発メンバー。中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝、小野。四回から伊藤久敏、七回から土屋。おい土屋、逆転されたら敗戦投手だ。きばれよ」
「はい!」
 六時。二十六・八度。風が出てきた。
 アトムズの先発はひょろひょろノッポの石岡。初回からのらりくらりとした投手戦になった。六回まで両チームとも無得点。ヒットは中と菱川の一本ずつ。三振は江藤と小野の一つずつ。フォアボールは、中、高木、私の三つ。あとはすべて凡打。盗塁は高木一、私一。観客八割の入りに見合った内容だ。アトムズも小野と伊藤久敏に対して、ヒットは高山、丸山、高倉の三本、三振は東条二つ、加藤俊夫一つ、フォアボールは武上二、チャンス二。
 七回から土屋投入。三回を打者十人一安打無失点で乗り切った。一安打は、八回、武上ライトフライのあと、ロバーツに外角速球をセンター前へ痛打された一本で、そのあとチャンスをセカンドゴロゲッツーに打ち取った。
 八回裏、江藤ライト前ヒット、私レフト前ヒットでノーアウト一、二塁。木俣に代わって吉沢が代打で出た! 戸惑ったような歓声の中に、
「吉沢ァァ! がんばれェ!」
 大きいハッキリした声援が混じる。かつてのドラゴンズを知っている人たちの熱声だとわかる。三十六歳、百七十センチ七十五キロのガッチリしたからだが、ブンブンとバットを振る。背番号33が力強くねじれる。水原監督がパンパンパンパンとしきりに手を叩く。夜空に雲が動くのを感じる。
 長身石岡振りかぶって初球、外角高目ストレート、見逃し。ボール。焦りのない見逃し方だ。ボックスを外して、手に砂をつけ、ブンブンとバットを振る。二球目内角低目のシュート、見逃し、ストライク。
「よ! いけ!」
「それ、いけ!」
「タケちゃん、浚って!」
「慎ちゃん、ベース離れんな! 牽制うまいぞ!」
 私も一塁ベース上でパンパンパンパンと手を叩いた。次のボール、キャッチャーの吉沢はどう読む。私は外角低目のスライダーと読む。三球目、外角〈高目〉のスライダーだった。吉沢のバットがグルッと水平に回転した。金属音。
「オオォォー!」
「いったろ!」
「いった、いった!」
 ライトスタンドに向かって舞い上がる。一塁コーチの森下が、入れ入れと両手であおいでいる。その必要はなかった。ライトの小淵が足を止めると同時に、打球がライトスタンド中段に落ちた。ふたたび大歓声。吉沢がバンザイをしながら走る。江藤と私もバンザイをしながら走る。水原監督もバンザイをしている。走りながら振り返ると、一塁を回る吉沢の目が光っている。木俣がベンチから一直線にホームベースに走り寄る。私たちが水原監督とロータッチをして過ぎたあと、吉沢はしばらく監督の前にたたずんで両手で握手した。背中をバンと叩かれ、花道へ飛びこんでいく。
「吉沢選手、今シーズン第二号のホームランでございます。おめでとうございます! おめでとうございます!」
 チームメイトの異様なほど興奮した歓迎に吉沢はボロボロ涙をこぼす。木俣がいつまでも抱きついている。
「いつ死んでもいいぞ!」
 吉沢はひと声叫ぶと、一塁スタンドを見上げて両手を挙げた。ものすごい拍手。ベンチの屋根の上をいざり進んできた白髪の男が、吉沢に花束を差し出す。吉沢は屋根に手を伸ばして受け取った。
「あんたが出たら渡すつもりやった。出るまで毎日買って持ってくるつもりやった。あんたの大ファンや。ワシもいつ死んでもええ!」
「ありがとうございます!」
 半田コーチ進呈のバヤリースを飲み干す。
「これがやりたかった! 今シーズン二本目だ」
 江藤が、
「吉沢さん、ナイスバッティング。よう手首が返っとった」
「マグレです」
 ドッとベンチに笑いが上がった。足木マネージャーが花束をベンチ裏へ運び去ろうとする。
「あ、それ、持って帰って部屋に飾ります」
「根を湿らせておきますから安心してください」
 土屋がブルペンで熱心に投球練習をしていた。菱川、太田、一枝がサッサと凡退。
 九回表。アトムズの打者にしてみれば土屋は実績のあるピッチャーではないだけに、いつでも攻め落とせるという安心感がある。それが落とし穴だ。土屋にはもともと〈打たれてしまえ〉という気概がある。上半身の力を抜いて投げるせいだろう、カーブのキレがシャープだった。シュートもまるで江夏のそれのように右打者の外角低目に決まった。福富ファーストゴロ、丸山ショートゴロ、加藤三振。土屋に今シーズン四勝目が転がりこんできた。新宅、水原監督、長谷川コーチがマウンドまで駆けていって、好投を称えた。すぐにその四人にテレビレポーターが近づき、ベンチの吉沢も招き寄せられた。
「吉沢選手、今季二本目のホームランが決勝打になりました。一号ホームランの不運を吹き飛ばしましたね」
「はい、今年で現役引退ですので、これで思い残すことは何もなくなりました。どうしてももう一本、チームの勝利に結びつくホームランを打ちたかったので。―夢のようです。使ってくださった水原監督に心から感謝します。それから、常々私を励まし、こんなロートルにやさしく接してくれたドラゴンズのチームメイトのみなさんに、伏して感謝いたします。すでに捕手としての肩はボロボロです。しかし、もうしばらくブルペンキャッチャーをつづけ、スタンドのみなさまにひっそりと別れを告げるつもりです。長いあいだありがとうございました!」
 吉沢はタオルで顔を覆った。ウオーという歓声、押し寄せる拍手。木俣が抱き締めながらベンチへ連れていった。土屋もタオルで目を覆っていた。レポーターはハッと目覚めたように、
「土屋投手、今季四勝目おめでとうございます。きょうのピッチングを振り返っていかがでしたか」 
「木俣さんと新宅さんのサインどおりに投げました。ロバーツ選手に打たれて、チャンス選手を迎えたときは……苦しかったです」 
「チャンスをゲッツーに打ち取り、九回もみごとな連続凡退でした」
「カーブとシュートのコントロールがよかったです。……吉沢さんには、一軍に上がってからよく受けていただきました。ぼくに一勝をくれた吉沢さんのホームランを生涯忘れません」
「勝利投手の賞品はヨドの物置です。使い勝手が悪そうですが」
「寮の庭に置いてちゃんと使います。うれしいですよ。ウェスタンリーグは勝っても賞品なんかもらえないですから」
 涙が退き喜色満面になる。昭和四十二年に電々東京からドラ一で中日に入り、荒れ球のせいで二年間二軍でくすぶっていた。手首の使い方がよく、一見外人ふうの投げ方だ。球質は重くて、カーブに角度がある。適当に荒れるのでなかなか捕まらない。たまたまバッティングピッチャーに出向いてこなかったら、二軍に埋もれるところだった。
「チャンス選手をセカンドゴロゲッツーに打ち取ったことは、大きな自信になりました」
 寄り添っていた新宅が、
「ヒロシ、よくやった、おめでとう!」
「はい、ありがとうございます―」
 新宅は駒大の先輩だ。土屋の目にふたたび涙が滲んだ。ベンチ前でうなずいている太田ピッチングコーチにマイクが向けられる。
「ヒロシはいかにもピッチャーらしいからだつきをしてるんだ。モーションを起こすときの格好が金田に似てるでしょ? 全体のフォームは金田とちがうけど、上から投げ下ろす角度のあるカーブはどことなく共通点がある。打者の手もとで大きく割れながら、低目のコースいっぱいに落ちる制球力が絶品だよ。狙っても打てない。特にいいのは、球を離すタイミングが遅いことだね。これに打者が幻惑される。ボールにもう少しスピードがつけば、ケチをつけるところがなくなるんだがね」
 これでも褒めすぎではない。彼は今年、崖っぷちだったはずだ。水原監督にもうひとこと褒めてほしい。監督のもうひとこと後押しの言質がなければ、不安の中でずっと暮らすことになる。タイミングよくレポーターが水原監督にマイクを向けた。
「監督、きょうの試合についてひとことお願いします」
「まず吉沢くん。通算四十三本目のホームラン、おめでとう。ドラゴンズ時代に十七本、近鉄時代に二十四本のホームランを打った打撃力を目の当たりに見させていただいた。もう一本打って現役を退きたいという彼の悲願を叶えさせてあげられて、私もほんとうにうれしい。吉沢くんは人材です。すっぱり現役と縁を切るという覚悟は尊重するが、後進のためにコーチとして残って若い芽を育ててほしいと思っている。それから土屋紘くん、緊迫したシーンでもまったく動じないところに、並外れた度胸を感じました。まだ三年目で二十五歳、その上背にガッチリとした骨組みが備われば、もっとスピードが出るはずです。大人しい性格だが、頭がいいし、根性もある。これからも期待しています」
 言質が取れた。土屋はこぼれるように白い歯を剥いた。
 ―インタビュー。庶民を背負った平等主義の人間に個人的な経験を分けてほしいと望まれることは、苦しみに近い感情を引き起こす。
 西高の土橋校長との対面のときも、村迫との初めての対面のときも、東大祝勝会の記者たちの前で報告を強いられたときも、入団契約の会場でも、入団式の宴会場でもそうだったが、見知らぬ人から経験の感懐を求められることはこの上なく恐ろしい。ヒーローであってほしいという彼らの願いに応えるなぞ、さらに恐ろしいことだ。しかし支援してくれた人びとをガッカリさせたくはない。私は私であるから、それを曝け出そうと覚悟し、恐怖をひっくり返す気勢で、なんとか饒舌になろうとする。そして驚いたことに、そのつど気分がよくなるのだ。もう一度しゃべってもだいじょうぶだと感じるのだ。で、もう一度を重ねてきた。そして、私はまだそれをやめていない。
 インタビューは、それを受けた人間にこれからの方向性を与えるきっかけになるし、生きる目的や自分の仕事の価値の確認や、癒しを与えてくれる。インタビューアーの平常の日課に従うことが私をやさしい人間へと近づける。彼らの問いかけに答えているとき、私にはやさしさを発揮できる人生があると自分自身に言い聞かせられる。庶民の同伴者。奇跡の人生だ。私の身に起きたことに彼らの方法で頭をめぐらせるルーティーンが、奇跡を信じていなかった私に奇跡を与えた。その奇跡が私を心ゆくまで生き永らえさせる。
 江藤と私にマイクが向けられる。
「吉沢選手の決勝打を誘う二連打でしたね」
「ようやく打てたわ」
「きょうの石岡さんは打てませんでした。ストレートが速くて、高目のボールがわずかに浮くせいで、打ち損なって二本凡打しました。技術は鍛練しないと日々衰えるものなので、怠けずに、浮くボールに対処するための訓練をもっと積むつもりです」
 インタビューを受けるとき、思わぬ機会が与えられる。自分に起きたことを大勢の人びとに打ち明ける機会だ。私にとって重要なことは、私が具体的にどのようにして困難を克服したかを語ることではなく、克服に付随した心のありようをほのめかすことだ。自分はすぐれていないとほのめかすことだ。だれかが私に、あなたはすばらしいと言いにきたら、どう答えればいいか心当たりがある。それは、特別な人間などこの世界にはいない、ただふつうの人間がいるだけだ、しかし、そのふつうの人びとの中に、怠惰を克服して並外れたことを達成する人たちがいる、と答えることだ。
 私が一個人として、野球という仕事の業績を上げ、ここにこうしていることはたぶん並外れたことだろう。私はこれまで、停滞し前進するたびに、これが最後の前進だと思ってきた。そして、割合を量るのは難しいけれども、九十九パーセントの人びとが、私が新鮮な前進をし直すとは信じていなかったように思う。おそらく私は、私の前進を信じる残りの一パーセントの人たちに、困難を克服するための精神的な術を教えられてきた。傷の癒し方ではなく、大きな傷を持ちながら延命する術を教えられてきた。日常の問題に対処するときも、その術を繰り返し使うべきだと教えられてきた。それは、失敗するたびに『ただやり直せ、ただ少し進め』と唱えることだった。それでじゅうぶんだった。挫折を伴った人生のペースはコントロールできないのだから。
 インタビューが終わった。だれもが奇跡の中にいる。インタビューは奇跡を伝える。私の身の上話も奇跡がたくさん起こった話であり、私はまだ毎日奇跡を信じることを選んでいる。私がいちばん気に入っている奇跡は、野球の業績ではなく、このインタビューアーも含めて、私を延命させる情にあふれた人間が、男にせよ女にせよ、この世に大勢いるということだ。私は宿命的に愛されないはずだったから。愛に報いる贅沢など許されないはずだったから。頑固にそう信じて、私はいつもその〈信念〉を貫いてきた。そのおかげで私は自分から愛情を持って働きかけることなく愛され、その愛に制限なく応えることが可能になった。


         十二

 ロッカールームに集合。ぶら下がりの取材を終えた水原監督が顔を出し、
「きょうはいい試合だった。満足できるきれいな試合だった。あしたのヒーローはだれかな。楽しみだ」
「監督、ワシの代わりに千原で先発させてみんね。きょうのフリーバッティングで当たっとったけん」
 一枝が、
「俺も、省三でいってみてよ」
「じゃ、二打席だけそうします」
 それから水原監督はしみじみと、
「美しい、きみたちはほんとうに美しい。プロ野球界というのは、どこまでもカネカネの世界で、人間関係も嫉妬と見栄が渦巻いているし、人事は非情だし、監督選手間にも悪口と暴力が横行している。……きみたちの美しさは比類がない……この美しいまま、どこまでもいこう。ファイト!」
「オース!」
「さあ、肝心な話だ。きょう巨人が負けました。うちが勝ってマジック2となった。あしたのダブルヘッダーの結果次第では優勝があります。巨人はあした一試合しかない。まず第一試合、うちが勝った場合、巨人が勝てばマジック1、巨人が負ければそのままうちの優勝。第一試合、うちが負けた場合、巨人が勝てばマジック1、巨人が負ければうちの優勝。第一試合、うちが引き分けた場合、巨人が勝てばマジック1、巨人が負ければうちの優勝となる。つまり第一試合うちが勝っても負けても引き分けても、巨人が勝てばマジック1で、巨人が負ければ優勝となる。とにかく第二試合に勝てば優勝だ。問題はうちが第一試合も第二試合も負けた場合だ。巨人が勝てばマジック1のまま優勝は東京に持ち越される」
 木俣が、
「そうはさせんぞ! ファンが承知しない」
 宇野ヘッドコーチが、
「ダブルヘッダー一勝一敗なら優勝です!」
 キッパリと言った。田宮コーチが、
「大差をつけて試合の終盤に入ると、全員にぶつけてこいとコーチ陣からピッチャーに命令が出る。だいたいどこのチームもそうだ。山根コーチはまちがいなくそれをやる。あした大差がついたら、七回あたりからはデッドボールに気をつけろよ」
 半田コーチが、
「あしたのゲームには、かならず下着の替えと、ビロ持ってきてくださーい。優勝したときのビールけ、ユニフォーム着たまま、堀越の昇竜(ショリュ)館の外庭でおこないまァす。排水バンゼンよ、遠慮なしネ。終わったら、寮の大浴場に飛びこむ、オウケイ?」
「オッケー!」
 水原監督がにこにこ笑いながら、
「目が痛いぞ。肌もピリピリする。年寄りにはかけないように」
 宇野ヘッドコーチが、
「ビールまみれのユニフォームと下着は、ちゃんと持ち帰ること。何十人分もクリーニング屋に出す手間がたいへんだからな。日本シリーズで日本一になるまでは、オープンカーはなしだ。日本一になったら、十一月、十二月は忙しいぞ」
「その二カ月だけ二軍に落としてください」
 星野秀孝が言うと、ワッとみんな笑った。二軍選手は、もろもろの優勝イベントには参加できないのだ。水原監督が、
「あした優勝が決まった場合、翌十五日月曜日は、名古屋観光ホテルで、セリーグ優勝共同記者会見です。午後一時から。出席するのは、私、江藤くん、小川くん、金太郎さんの四人です。十二時半にロビーにきてください。ユニフォームを着てくるように。そのあと二階広間で優勝祝賀会が行なわれる。一軍選手全員、一時に二階の曙の間に集合していること」
「ウィース!」
「さあ、とっとと帰ってあしたに備えてください。よく寝るように。じゃ、きょうはこれで失礼。私も休息をとる。あしたはたいへんそうだから」
 そう言い残してコーチ陣と引き揚げていった。江藤や高木たちもそれぞれ寮バスや自家用車で引き揚げた。私は菅野のセドリックで則武の家に帰った。
         †
 九月十四日日曜日。一人寝の蒲団で七時半起床。じゅうぶんな睡眠をとった。曇。二十二・九度。かなり涼しく感じる。下に降りると、すでに応援休日の二人の姿はない。
 優勝の一日が始まった。洗面、歯磨き、うがい、軟便、シャワー。ジムトレとランニングなし。ジャージを着て北村席へ。早朝、まだ門前に人混みはない。
 朝食でがやついている座敷へいく。カズちゃんはじめ数十人の女たちがいる。女将がカンナを抱いている。トモヨさんは直人の食事の付き添い。直人がスプーンを捨てて飛びついてくる。膝に乗せ、幣原のコーヒー。
「おとうちゃん、ユウショウ」
「そうだよ。きょう優勝だ」
 主人が新聞を持ってくる。中日スポーツの見出しがうれしそうに躍っている。

 
星勘定の美技! ホームに合わせてマジック2
 
中日きょうにも胴上げ

 水原監督の昨夜の電話コメントが載っていた。
「まるでピンポイントのように、地元で優勝を決められるかもしれない状況になったということは、天が恵んでくれた幸運としか言いようがない。せっかくの幸運を生かすためにも、あしたは負けられません」
 五百野の第一回掲載分も見るように主人に言われる。見開き片面四段組。びっしり印刷された活字の真ん中に風景写真が挿してある。野辺地の海岸だ。チッコのあたり。海を見つめる半ズボン姿の少年の背中。地元の少年をたまたま撮ったのだろう。
 五百野という題字、文・神無月郷、一合船場、という小題。目を快適に射る。中日新聞を十部買って、一家じゅうで読んだと女将が言う。
「神無月さんの歌を聴いとるようやった。スーッと血が退いたわ」
「和子や山口さんの言ってたとおり、達人だったんですなあ。畏れ入りました。落合さんから、特約者が四倍に増えた、先生によろしく、と感謝の電話がありました」
「先生はいやだなあ。今度電話がきたら、神無月さんと呼ぶように言っといてください」
「もう言いました」
 と答えてハハハと笑った。数行読み、恥ずかしくなってやめる。菅野が、
「うちの女房も二部買って、一部をスクラップにしました」
 千佳子が、
「魂がふるえるような文章だから、人気は出ないでしょうね。専門筋に認められて、大きな賞を獲ると思います」
「賞は辞退する。野球のように、数字の記録を顕彰する賞状ならもらう。精神世界に賞なんか要らない。この文章を読んで過去への郷愁を呼び起こされる人がいてくれたら、それだけでこの作品は意味があったことになる」
 睦子が、
「すてき―」
 と言って、私の手をとった。
「だから、こしらえ物の身の上話しか書かない。サスペンスもロマンスも冒険話も書かない。書く才能がない。ぼくが書くのは、おたがいの関係がすべてでほかに何もないという人たちだ」
 高島台から見下ろした黄色い車窓の列が思い浮かんだ。どの場所が原点なのかわからない。どこからも思い出が出発する。菅野が、
「ランニングしてるとき、いつもつくづく横顔を見るんですよ。……わかったのは、才能にあふれた人といっしょに生きているということじゃなくて、ただ愛してるということだけでした。おたがいの関係がすべてでほかに何もない、という言葉、身に滲みるようにわかります」
 テレビの前のテーブルにあぐらをかく。ソテツとイネが大盛りの玉子かけめしとナメコ汁を持ってきた。私をまねたがる直人にも、あらためてほんの少量のプレートが用意される。菅野が、
「ビールかけの場所はどこですか」
「西区の堀越の昇竜館の庭です」
 めしを掻きこみながら答える。
「夜の十二時近くになるでしょうね。館の駐車場で十一時半くらいから待機してます」
「ありがとう、助かります」
 朝の特番で春先の中日ニュースを流している。八カ月前のフィルムだ。
「二月一日から一斉にキャンプインしたプロ野球、今年こそは優勝をと中日ドラゴンズは兵庫県の明石球場でスタートしました。天より翔け下った天馬と讃えられる神無月郷選手も参加。怪物の異名どおり、その強靭なからだから振り出されるバットはクリーンアップの一角を約束させるような快音を連発しています。早くもするどい当たりのキャッチャー木俣、今シーズンより一塁にコンバートされた江藤は、もっぱらミートを心がけ目下マイペース、ナンバーワンスラッガーの貫禄を見せています。豪快にして緻密なベースボールを追求する水原野球。監督みずからの細かいアドバイスです。投手陣の大黒柱沢村賞投手の小川健太郎はおととしにつづき二十勝を目指す勢い、ベテラン水谷寿伸、昨年広野とのトレードで助っ人としてやってきて十一勝を挙げた剛球田中勉も健在です。そして高木、一枝の二遊間コンビの溌溂とした守備の動きは目を瞠るものがあります。攻守ともに整った水原中日ドラゴンズは、こうして元気にスタートしました」
 みんなでワッと笑う。主人が、
「神無月さんがクリーンアップの一角? なんだかやるせないね。新人というのはそう思われるものなんやろうな」
 どんぶり一膳半、味噌汁二杯でしっかり腹を満たす。ソテツに、
「よし、これで二試合ともオッケー。きょうは弁当要らないよ。夜帰ってきても起きなくていいからね」
「いいえ、お弁当は持っていかなくちゃいけません。おいしい幕の内を作ります。私も中日球場にいくんですよ」
「そうだったね」
 主人が、
「きのうの昼からきょういっぱい、トルコ以外営業活動中止です。現場にいかんのはおトクとトモヨ親子、かよいの賄い連中だけ。ネット裏に十人、一塁側に十人。トルコも何人かいきます」
 菅野が、
「バン何台かで大挙していきます」
 カズちゃんが、
「きょう優勝したら、アイリスとアヤメはあしたから一週間、全品半額よ」
 主人が、
「そう言えば、スポーツ報知に水原さんの温情主義のことが書いてありましたよ。水原の情実がらみで、彼を敬愛する宇野、太田、森下、岩本が入団している、神無月はじめチームのほとんどの選手も水原を愛してやまない、行動を共にする者があるということは、水原の人徳と言えるだろう、しかしそれがかならずしもプラスに出るとはかぎらない、情に掉差せば流される、情実野球が破綻をきたさないことを祈る」
「何もわかってないですね。人情こそ人を発奮させる最大のものです」
「読売系の悪口ですな」
 庭に出て、ジムトレ代わりに三種の神器、素振り、一升瓶。トモヨさんと菅野に見守られながら、直人とキャッチボール。プラスチックのバットでバッティング。
「当てにいっちゃだめ。フルスイング! 相手に合わせにいくんじゃない。どんなスポーツでも力いっぱい勝負にいかないと一本決まらない。ホームランを目指さないとうまくならないぞ」
 よく意味がわからないまま一生懸命振る。
 直人を腕に乗せて座敷にいくと、千鶴がトモヨさんと楽しげに話し合っていた。
「あ、神無月さん、お嬢さんと一塁側で見物することになったんよ。ホームラン打ってね」
「うん。二試合で二本は打つ」
 時田がインターフォンで、
「門前に待機しとりますよ。人がすごいです」
 と知らせてきた。十時。出発十分前。ユニフォームを着る。尻ポケットのお守り確認。みんな口を結んで緊張した面持ちだ。トモヨさんが女将からカンナを抱き取る。優子が、
「爪はだいじょうぶですね」
「だいじょうぶ」
 直人がまとわりつく。まとわりつかせたままダッフルの中身確認。眼鏡、グローブ、スパイク、タオル、バスタオル。スポーツバッグにはブレザー上下、ワイシャツ、下着。
「バットは持たなくてよしと」
 主人が、
「日本シリーズ前に三十本送ると、久保田さんから連絡ありました」
「ぼくはバットをあまり折らないから、来年からは年間五、六十本くらいにしてもらおうかな」
「そりゃ少ない。百本は作ってもらわんと。非力な打者でも年間三十本、剛腕の選手だと五十本は折ると言われとります。神無月さんはミートが正確だから、いまのところ十本ぐらいですんどるけど、もともと力が強いから五十本折れてふつうやと考えたほうがええです。ヒビが入るのを計算するともっとでしょう。折ると予想できる本数の二倍注文するのが常道です。いまのままでええですよ」




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