十三

 ダッフルを持ち、一家の無言の檄を背中に、式台に座る。運動靴を履く。女将が肩に切り火を打った。
「おとうちゃん、いってらっちゃい」
「いってらっしゃいませ!」
 賄いたち全員で言う。カズちゃんが、がんばって! と言うと、みんないっせいに、
「がんばって!」
 と言った。直人の頭を撫で、主人と菅野といっしょに玄関を出る。門の外に時田を中心に組員たちが控えている。彼らはカメラと群衆を押し分けながら、私たち三人を門からセドリックへ導き、時田みずから助手席に乗りこんだ。菅野はダッフルとスポーツバッグを大事そうにトランクにしまい、
「オーライ! いきましょ!」
 と叫ぶ。ファンたちが車を危うくよけながら、ルーフやウィンドーを叩く。
「ついにこの日がきましたね。……感無量です」
 菅野が泣いている。
「涙はまだ早いんじゃない」
「きょう、百パーセント優勝でしょう。球場では号泣ですよ」
 組員たちのハイエースが後ろからついてくる。
「仰々しくてすみません。球場の通用口に入ってもらうまでは安心できんのでね。組長と執行とヤッさんは、一日テレビで観とります」
 菅野が、
「私はとんぼ返りです。蛯名さんと二人で、二十人以上運ばなくちゃいけませんから」
「どうやって運ぶの」
「ニか三台、バンのレンタカーを借りれば何とかなります。クラウンもありますしね」
 私はセドリックの車中で水原監督の話をした。
「ぼくは水原監督を見てると胸がときめくんです。この人のために身を粉にしたいという感じです。むかしも多少聞いたことはありますが、どうもよく……。水原監督をドラゴンズが引っ張った経緯をもっと詳しく知りたいんです」
 菅野が、
「巨人の親会社の読売新聞は朝日、毎日に次ぐ第三勢力だったんですが、ONの国民的人気に引っ張られる形で発行部数を飛躍的に伸ばして業界のトップに躍り出ました。しかし全国に販売圏を拡大したものの、東海圏だけは中日新聞にやられてた。それでですよ、中日―巨人戦が親会社の代理戦争になったのは。中日フロントは巨人に勝てとは言わず、読売に勝てと言うくらいです。で、去年の一月に、とつぜん西沢監督の辞任、杉下に就任要請。読売を倒してくれ、が至上命令。そのころです、一年間野球解説者をしていた水原さんが、アタマだけすげ替えても一心同体のコーチを採れないとうまくいかないと新聞に書いたのは」
 主人が、
「水原さんが東映を退いたのも、大川の息子がコーチを入れ替えると言ったのが原因やからな。水原さんお気に入りの西村正夫を切って、大下弘と藤村富美男を入れると大川の息子の毅が言った。勝手にどうぞ、私は失礼します、と言って辞めてしまった」
「杉下は田中勉を西鉄から引っこ抜いて船出したんですが、六月には最下位、六月二十五日に杉下はクビ、本多さんが代理監督。開幕からたった五十九試合目で解任というのはプロ野球界の最短記録です。恥ずかしい記録です。そのころ球団オーナーに就任した小山武夫さんが水原招聘計画に動きました。ものすごい先見の明です。中日フロントには純血主義の幹部が何人かいて猛反対したんですが、慶大の先輩のトヨタ自動車の社長、だれでしたっけ」
「山口昇」
「そうそう、その山口に頼みこみ、高松商の先輩大同特殊鋼の社長石井、それから幼馴染みの野村證券の増田専務取締役を動かして水原獲りをほぼ実現させました。水原さん本人の意思というよりは、周囲の財界人の強力なバックアップで担ぎ出された格好です。そして正式就任前にあわただしく神無月獲りです」
 主人が大きくうなずき、
「正式に就任したのは、十一月十四日やったな。その日、水原さんは東京駅の新幹線ホームで中日応援団に激励されて苦笑いしながら名古屋に向かったんや。そのまま中日ビルの球団事務所で小山オーナーと会談、正式受諾の返事をしました。それから橋の間で例の異例記者会見です。婚約会見じゃあるまいし、仲立ち人の同席など聞いたこともないというわけです。タニマチに対する水原さんの柔軟な考え方がよく表れてます。これで純血主義者どもがすっかり黙りました。そのとき水原さんは、来シーズン、チャンスがあればぜったいに逃さない、と断言したんです」
「ほかにも、ファームの訓練、しつけをきびしくする、ユニフォームはいまのをやめる、なんてことも言ったな」
 助手席に乗っていた時田が、
「球団の独断で招聘したんじゃなく、地元財界の推薦であることを知らしめることで、内部の純血主義者の動きを封じようとした、バックに大物がついているのではクーデターも起こしにくいだろう、と。ワシらヤクザの考え方です。気分がええ。水原という人はヤクザの親分にもなれるな。神無月さんに惚れこむはずです」
 菅野が、
「そのとおりです。小山オーナーは、いくら財界の後押しがあったとはいえ、排他的で知られる名古屋に、あろうことか水原という読売の血を輸血するとは、という非難を浴びました。しかし、水原さんは巨人色がないせいで巨人に裏切られて追い出された人だし、ちょうど同じ時期に阪神が水原獲りに動いていたので、小山オーナーが財界人に泣きついたということもあったんです。とにかくすばらしい先見の明でした」
 主人が、
「その記者会見のあとがすごいんですわ。水原さんは単身、たぶんあの仁科さんの運転で東区の東海テレビに向かいました。八階の応接室で待っとったのは―」
「レギュラー陣」
「はい、江藤さん、中さん、高木さんの三人です。新監督と主力選手緊張の初対面、という座談会が、東海テレビと中日スポーツ主催で組まれとったんです。ぜんぶ放送されました。水原さんが応接室に入るなり、よろしくお願いします! と三人が威勢よく声を上げよった。水原さんは顔ぶれを知らされとらんかったらしく、一瞬戸惑って、こちらこそよろしく、しっかり頼むぜ、と笑いました。格好よかった」
 菅野が、
「兄貴言葉で声をかけたあれは格好よかったですね。それから一人ひとりにざっくばらんに声をかけましたね。中、もう目はいいのかい。噂では失明するような話だったが。モリミチは背中だったな。その後どうなんだい。江藤、肘はどうかな。酒は慎んだほうがいいぞ。さすが一年間放送席からきびしい視線を送ってきただけあって、各選手の状態を的確に把握してたんですね。オフのあいだに徹底的に治しておかないとキャンプできっと再発するぞ。その点よく考えて治療にあたってくれ、としっかり釘も刺しました」
「まじめ一筋の高木さんは、最後まで両手を膝に組み合わせたまま固い表情を崩さんかったな。中さんと江藤さんは、話上手な水原さんの言葉に笑顔を絶やさんかった」
 菅野が、
「十五、十六日もすごかったですよ。秋季練習をやってた中日球場を二日連続で訪ねて、全選手に挨拶をすませたんですから。そしてすぐ東京へ帰って、さっそくコーチ陣の組閣開始。真っ先に声をかけたのが」
「宇野ヘッドコーチ」
「そうです。慶大の後輩で、野球解説者をしてました。巨人時代の二十九年に自分の手で国鉄に放出した男をイの一番に呼び戻すのが、いかにも義理堅い水原さんらしい。つづいて二十九年のドラゴンズ日本一の経験者の太田信雄。やはり慶大出身者。さらに南海から森下を二軍コーチとして引き抜いた。森下は、酒癖の悪い選手をぶん殴って、スカウトに落とされたばかりでした」
 太田コーチも優勝経験者だったのか。主人が、
「そういう面々をたった一カ月で集めてしまったんや。慶應閥だ、失業者救済だと批判もされたが、初志を貫いた。自薦他薦で三十人以上のリストができたそうやから、高商・慶應・巨人のエリート街道を歩んできた水原さんの人脈や畏るべしや」
「たしかに去年のドラフトは、法政三羽烏、浜野など、史上最高の当たり年と言われましたけど、何をおいても水原さんと小山オーナーの放った大ホームランは、神無月さんの電撃入団です。チームの顔どころか、球界の顔として君臨することになる稀代の大物を獲得したわけですから。ああ、あと一勝で優勝か。夢みたいやな」
「ほんとに二十人も観にくるんですか」
 菅野が、
「きますよ。歴史的瞬間をたくさんの人に見てもらわないと」
 車窓から眺める街の様子がきのうとはガラリと変わっている。ほとんどのビルに横断幕や垂れ幕が掛かり、商店には幟や旗が立っている。球場に近づくにつれて、沿道のそれはますます増える。

 
中日ドラゴンズ優勝おめでとう! 

 
優勝一直線ドラゴンズ!

 十時半、中日球場の一般駐車場に到着すると、車から降りたとたん報道関係者やファンたちに揉みくちゃにされた。球場の周囲は、新宿・池袋かと見まがう人混み。菅野が、
「十一時半には昇竜館の駐車場にいますからね」
「わかった。ありがとう」
 菅野と主人はすみやかに引き揚げた。
「バンザーイ!」
「よくやった!」
「おめでとう!」
「ありがとさん!」
 きょうの一戦で優勝が決まるかもしれないということで、ファンの応援はいやがうえにもボルテージが上がっている。
「道を開けてください!」
 選手通用口から出てきた足木マネージャーが叫ぶ。フアンたちが張り縄すれすれで押しくら饅頭している。待ち構えていた警備員一同が、ハイエースから降りてきた組員と合流して数人のかたまりを作ると、人混みを押し分け、通用口に入る。時田たちが直角の礼をするとすぐにそれぞれの待機場所を目指して四散した。球場係員以外の背広姿が廊下で右往左往している。ふだん見かけない中高年の顔も多い。
「優勝、ばんざい!」
 というかけ声がほうぼうで上がる。
「第一戦で決めてくれ!」
「お嫁さんにして!」
「十連覇!」
 対アトムズ二十三回戦と二十四回戦のダブルヘッダー。
 きょうもまた球場にいる。命の使いどころだ。だれもがほかの場所を探す時間に追われている。どんな理想的な場所にいる者も―フィールドからさまよい出たあのころの私のように。私はもう探さない。そのまま留まればよかった場所だと知ったから。才能の涸渇を恐怖する仕事とも言えるけれども、才能の枯渇という表現自体高慢だろう。私は水溜りのミズスマシのようにこの場所にしかいられない。
「よろしくお願いします!」
「オス!」
 ロッカールームで仲間同士の挨拶。運動靴をスパイクに履き替え、眼鏡をかける。中が、
「読ませてもらったよ、金太郎さん。文学そのものだった。ものすごい文章力だ。新聞小説にはもったいない。ものを書く計画を着々と立ててきたんだね」
「新聞から依頼がきたのはまったく予想外でした。文章を書く計画を立てたことはありません。幼いころに野球人生の計画を立てたことはありましたけど、文章に関しては……読む人まかせですね」
 俺も読んだ、俺も、と声が上がる。水原監督が、
「金太郎さんは何もかも行き当たりばったりだが、どれもこれも勝負になるからすばらしいんだよ。いつも、何ごとにも集中して生きてるということだ。五百野はすばらしいものです。あれほど明瞭な言葉で、あれほど深い内容を書ける作家は、いまの日本には何人もいないと思う。さ、こんりんざい、金太郎さんに文学の話題を持ちかけちゃだめだ。文学は金太郎さんの秘密の仕事なんだよ。見て見ぬふりをしなさい」
「オイース!」
 バットを三本持ってダッグアウトに入る。田宮コーチが、
「十一時からバッティング練習が始まるけど、好きに打っていいよ」
「アトムズのピッチャーは?」
「十中八九、石戸。いまのところ十三勝十二敗。八月二十六日の巨人戦で完投、中七日で三日の阪神戦で二回、中四日で八日の巨人戦で七回投げてる。力は余ってる。負けたくなければ、酒仙すなわち主戦の完投しかいない。うちは健太郎だ」
 小川が記者連中や関係者で賑やかなグランドを見つめながら、
「これだけ有象無象がグランドをうろついてると気が散るよな」
「はい、フリーはやめときます。まだ開門まで一時間……あれ!」
 二時試合開始のスタンドが九割方埋まっている。報道陣もケージ裏に数十人、記者席に数十人ガン首を揃えている。
「きょうは開門を二時間早めて十時から入れたらしいぞ。表の人混みは入りきれなかった人たちだ」
「じゃ打ちます。がんばって入場できたファンたちに時間外で見てもらおう」


         十四

 バットを持って、監督、コーチ、報道陣のたむろするケージに走っていく。カメラがいっせいに集る。内外野のスタンドで、球団旗、背番号旗が振られる。
「ウオォォー!」
「神無月ィ!」
 バッティングピッチャーは右の山中と左の松本。山中は登録抹消明けで、遠目に頬がこけて見える。左の松本にボールになるカーブだけ十球放ってもらう。水原監督が、
「石戸の曲がるシュート対策だね」
「はい、左腕のカーブは右腕のシュートと質がちがうんですが、目慣らしです」
 三球、バットがまったく届かないボールなので見逃し、そこからつづけて四球、左中間スタンドへ。
「おお、パーフェクト!」
 二球、バックスクリーンへ、一球、ライトフライ。
「やっぱり遠い外角は引っ張れませんね。叩きつけてレフトへ運ぶしかない」
「きょうは一本ぐらい?」
「石戸相手だと、それがせいぜいだと思います。小川さんだと思って対決します」
「星野ォ!」
 長谷川コーチがベンチに呼びかけた。
「金太郎さんに、外角ギリギリの速いカーブを投げろ」
「はーい!」
 飛んできた。
「十球ウォーミングアップしろ。きょうの二戦目は締めだからな」
「はい!」
 ストレートで軽くウォーミングアップをする。平松より伸びがある。キャッチャーの新宅が、
「きょうサンケイに書いてあった。星野のストレートは球界最速の百五十六キロ、パームでさえ百十九キロ。来年二十勝は堅いな。金太郎さんがいなければ今年新人王だったのになあ。デビュー時期が悪かった」
「カーブ、外にいきます!」
 猛烈に速いカーブが外角にきた。踏みこんで打つ。
「う!」
 掌に衝撃がある。打球は左中間のフェンス、〈テレビはCBC〉の文字にワンバウンドで当たった。新宅が、
「さすがだなあ!」
「いや、打球に力がない。さあ、もういっちょこい!」
 観客席に立錐の余地がなくなっている。スタンドでフラッシュが点々と光る。二球目、同じコースにするどいカーブ。屁っぴり腰で打ってみる。ギュンと伸びた打球が左中間フェンスをわずかに越えた。スタンドのどよめき。星野がフェンスを指差し、
「ヒエー!」
 下通の声がとつぜん流れる。
「ただいま神無月選手がバッティング練習をしております。どうぞ打球にご注意くださいませ」
 彼女もこんな早くからきているのだ。私は星野に、
「もう一球でいいです!」
 いっそう速いボールが同じコースにきた。体重を左足に残し、思い切り踏みこんで掬い上げる。重みのある快音が上がり、打球が上昇した。一直線に左中間の照明塔下の入場口まで飛んでいった。感嘆の拍手と歓声。
「尻尾巻いて逃げます!」
 星野がおどけてベンチへ走り戻っていった。宇野ヘッドコーチがケージの後ろから、
「なんと観衆三万六千人だってさ。立ち見が何千人か増えたらしい」
「ドラゴンズのバッティング練習時間、あと五分でございます。ホームランボール、ファールボール等は場内係員にお戻しくださいませ」
 下通の声が耳に心地よい。風が出てきた。スコアボードの三本の旗が一塁スタンドに向かってたなびいている。かなりの逆風だ。ベンチ気温、二十八・四度。さすがに空気に秋の気配が感じられるようになった。ゆっくりと周囲のスタンドを見回す。席を埋めているのはたぶん地元のファンばかりではない。優勝が決まる一戦、涼しい風の吹く野球観戦日和の夕暮。幸福な人たち。
 ブルペンで小川と門岡が軽い投球練習をしている。一塁ベンチ上に女たちの顔がある。カズちゃん、睦子、千佳子、キッコを前列に、ソテツ、イネ、幣原、百江、千鶴が後列にいる。手を振る。キャーッと叫んで大勢の観客といっしょに振り返してくる。ネット裏には、年間予約席に主人と菅野父子、中段に素子、メイ子、節子、文江、キクエ、優子、菅野の女房。手を振る。彼らが手を振り返すのをまねてほかの観客も振り返す。秀樹は跳びはねていた。さらに高い位置にあるラジオ放送用のブースで、地元放送局のアナウンサーがマイクをつかんでゲストと和気藹々と話している。まだ声を張り上げていない。何を話しているかわからないが、想像はつく。
 ―優勝のかかったこの大一番、中日ドラゴンズはエースの小川をマウンドに送ってくるでしょう。今季ここまで二十勝を挙げ、ジャイアンツの十八勝の高橋一三とハーラーダービーのトップを争う小川のピッチングが、そのままドラゴンズの優勝と本人二度目の沢村賞につながるという、きわめて重要な試合となります。
 考えてみると、私は自分の出る試合の実況中継を聞いたことがない。
 アトムズの打撃練習。ベンチの前列で観察する。百号ホームラン以来見かけなかった蒲原がケージの後方からベンチに近づいてきた。
「優勝戦を撮り終えたら、阪急と近鉄に貼りつきます。一塁側のカメラマン席が確保できなかったので、三塁側の内野特別席から神無月さんと中日ベンチを撮ることにしました」
「自分で気に入った写真があったら、引き伸ばして送ってください」
「わかりました」
 北村席の住所を口頭で告げる。蒲原はメモをとった。蒲原はこの筋では知られた写真家らしく、高木や江藤が、
「俺もね」
「ワシも頼む」
「もちろんです。きょうは撮りまくります。じゃ、がんばってください」
 超満員のスタンドのざわめきに苦しいほどの圧力がある。きょう優勝するだろうとだれもが信じている。ざわめきに耳をすますと、なるべくなら第一試合ではなく、第二試合にカクテル光線の下で決めてほしいと願っている雰囲気も感じられる。
 背番号25。十七年選手の高倉照幸が顔をゆがめ窮屈そうにバットを振る。見ないでくれという顔でドラゴンズベンチを見やる。小中学校時代にテレビでよく観た眼鏡面だ。当たっているのはロバーツ、チャンス、城戸。ネット裏の前列に外人が居並んだ。二十人近くいる。
 ドラゴンズのシートノック。外野六人内野八人。外野は丁寧にセカンドとサードに返球する。バックホームは一本ずつ。スタンドのため息を誘う唯一のアトラクション。内野のノックに合わせて、ブルペンの小川と門岡が力をこめはじめる。小川はキョロキョロとスタンドを眺めながら投げている。不思議な貫禄がある。フィールド、フェンスぎわ、そこかしこにカメラマンがいる。
 アトムズの守備練習。石戸だけがブルペンで投げる。ボールが速い。
「アトムズのシートノック終了です」
 一時半。カメラや記者たちが退いていく。しばしの静寂が訪れる。スタンドのかすかなざわめき。とにかくきょうの圧力はすごい。レフトスタンドの背後をかすかな音を立てて新幹線が通り過ぎる。
 ラジオ中継アナウンサーの声が重なって聞こえてくる。一人の声に神経を集める。
「……レフトスタンド、三塁側内野席応援団はアトムズのユニフォームカラーである緑がかった灰色一色、ライト側はドラゴンズのキャップカラーのブルー一色、真っ二つに分かれております。このゲームをぜひ観ようと、きのう徹夜組が六百人も出ました。……ドラゴンズが勝てば、ジャイアンツの勝ち負けに関わらず優勝が決まります。……水原監督はこの試合に、ここまで二十勝、ハーラーダービートップ、一昨年二十九勝を挙げて沢村賞を獲得した大黒柱小川健太郎を立ててまいりました。いっぽうカープも二十八歳の燻し銀、今季十三勝を挙げている石戸……アトムズの勝ち頭……さあ、いよいよ運命の第一戦が始まろうとしています……」
 ネット裏の最前列に、ズラリとフロント陣が座った。小山オーナー、村迫代表はもちろん、白井社主の顔もある。彼らの前で水原監督と根本監督のメンバー表交換。トンボが入り、内野の土が慎重に均されていく。白線が引かれる。少し上ずった下通の声が流れる。
「間もなく中日ドラゴンズ対アトムズ二十三回戦の開始でございます。先攻はアトムズ、一番センター福富、センター福富、背番号34、二番ショート東条、ショート東条、背番号38、三番ライトロバーツ、ライトロバーツ、背番号5、四番ファーストチャンス、ファーストチャンス、背番号3、五番レフト大塚、レフト大塚、背番号30(デブの野次将軍。五番の器ではない。当て馬かもしれない)、六番セカンド武上、セカンド武上、背番号2、七番サード城戸、サード城戸、背番号9、八番キャッチャー加藤、キャッチャー加藤、背番号27、九番ピッチャー石戸、ピッチャー石戸、背番号20。対しまして、後攻中日ドラゴンズは―」
 一人ひとり轟々たる声援が強風になってスタンドを吹き渡る。
「一番センター中、センター中、背番号3、二番セカンド高木、セカンド高木、背番号1、三番ファースト江藤、ファースト江藤、背番号9、四番レフト神無月、レフト神無月、背番号8、五番キャッチャー木俣、キャッチャー木俣、背番号23、六番サード菱川、サード菱川、背番号4、七番ライト太田、ライト太田、背番号40、八番ショート一枝、ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー小川、ピッチャー小川、背番号13。球審は岡田、塁審一塁富澤、二塁山本、三塁筒井、線審レフト松橋、ライト福井、以上でございます」
 二十一勝目がかかっているハーラートップの小川と、金田が去ったあとのエース、酒仙石戸四六の投げ合い。猛烈な接戦になるだろう。池藤トレーナーが、
「外野手のみなさん、第二試合が開始されるころに一塁側からの西日が射すと思いますが、アイブラックのステッカーを貼りますか?」
 何のことかわからなかった。中も太田も、要らないと言った。
「何ですか、アイブラックって」
「頬に光が反射して目に入るのを防ぐステッカーです」
 テレビで、いや大学野球で見た覚えがあるなと思った。
「ぼくも要りません」
 眼鏡をしっかりかけ、全員守備位置へ走る。
「試合開始に先立ちまして、衆議院議員、日本民社党副委員長兼選対委員長、秋月一光さまにより始球式が行なわれます」
 飛び上がるほど驚いた。私の陰の支持者ではないか。ドラゴンズのメンバーが守備に散ったあと、一塁ベンチ脇の記者席から宇賀神と塁審の富澤に率いられて、黒背広を着、ドラゴンズの青い野球帽をかぶった眉の太い肥り肉の男が、大股でマウンドに上がっていく。宇賀神と富澤が秋月の左右に控える。小川がボールを秋月に渡す。秋月はにこりともしない。いかつい茶色い顔の皮膚がゴワゴワ硬そうだ。威風堂々としている点を除けば、見るからにワカや康男とは異種の人間だ。こういう硬骨な人びとに護られる境涯になったことは居心地が悪いが、ワカや康男の友人と考えてその気持ちを封じこめることにする。
 福富が打席に立ち、木俣が構える。ヨイショ。山なりのボールがホームベースの手前に落ちる。福富が気のない空振りをする。岡田球審のストライクのコール。秋月は野球帽を脱いで高く掲げ、スタンドに挨拶する。かなり大きな拍手が返ってくる。地元の英雄なのだろう。優勝戦の興奮の賜物ということもあるかもしれない。秋月はチラとベンチの私を見やると、宇賀神と球場関係者に従ってもとの通路へ悠々と引き揚げた。
 小川、五球、六球、入念な投球練習。私はレフト線審の松橋に帽子を取って挨拶を送った。松橋は腰のあたりで正拳突きの格好をして応えた。
「お待たせいたしました。中日ドラゴンズ対アトムズ第二十三回戦の開始でございます」
 私は足もとの芝をジョギングふうに足踏みして前後しスタートの具合を確かめてからレフトスタンドを振り返った。喚声と嬌声が上がる。
 二時。下通のアナウンス。
「一番センター福富、背番号34」
 一回表。中背の左バッターが打席に入る。おととしのドラフト一位。社会人ベストナイン。ヘルメットを深くかぶっている。バットを長く持ち、顔に引きつけ、前に倒して構える。岡田のコール。
「プレイ!」
 たちまち喚声の怒涛の中へ引きこまれる。おびただしい量のフラッシュが球場じゅうで光る。青緑のヘルメット、青緑のアンダーシャツとストッキング、淡灰色の上着、淡灰色のズボン。大洋ホエールズのアウェイ用の毒々しい蜜柑色のユニフォームと比べて、あたかも上品だ。


         十五 

 小川、初球、ふりかぶってヒョイ。外角低目シュート、ボール。木俣の返球を受け、あいだを置かず振りかぶって、またヒョイ。内角低目ストレート、ボール。小川はスパイクの先でピッチャーズプレートの縁を懸命に掘る。緊張している。なぜかうれしくなる。三球目、外角低目のスライダー、引っ掛けてセカンドゴロ。安堵の喚声。別所監督がベンチの前に立ち、眼光するどくスタンドを見上げている。
 二番、ショート東条文博。二十五歳。中背痩せ型。非力そう。遠目に相当の好男子だとわかる。初球、真ん中高目ストレート、ストライク。ズバッといったので東条はまったく手が出ない。アトムズのブルペンで石戸と並んで投球練習していた巽の代わりに村田が入った。石戸にはどちらも目障りだろう。二球目、外角低目カーブ、空振り。ボールを追いかけて振りにいくので腰が引けている。
 ―あっ!
 木俣がミットの先でボールを弾いた。彼も緊張している。中を見ると、守備位置をうろうろ動き回っている。みんなふつうでない。三球目、外角高目ゆるいストレート、カーンといい音がした。喚声が上がる。大きいかな。見る間に失速し、フェンスのはるか手前で太田が捕球した。小川はライトを見やりもしなかった。いつもの小川に戻っている。
 三番、ロバーツ。小川対策に四番まで左を並べてきている。一番の福富、三番のロバーツ、四番の右投げ左打ちのチャンス。二番の東条を除いてみんな左バッターだ。しかしこれがアトムズの固定メンバーだから工夫しているわけではない。重要な一戦はどのチームも固定メンバーでくる。
 初球、真ん中高目速球、バックネットへファール。速い。いつもながら驚く。百七十二センチの小躯。どんな発条(バネ)が体内に秘められているのだろう。私とは根本的にデキがちがう。彼らに混じってプレイしていられるのは幸運以外の何ものでもない。二球目、外角低目シュート、ボール。ブルペンの石戸と村田が投球を中止して、ロバーツに期待の眼を向けている。ちぎっては投げの三球目、内角低目へカーブ、三塁側内野スタンドへファール。振り遅れ。水原監督はベンチの最後列の隅に座って、あごに手を当てている。コーチも控え選手も微動だにしない。四球目、真ん中高目のカーブ。強振。詰まったセンターライナー。深い守備から前進する中の目の前にポトリと落ちる。
 四番チャンス。百九十センチの巨漢。二球胸もとのストレートで空振りを取って、三球目、外角低目へストレート。前のめりに掬い上げられる。高く上がり、ライト前段に落ちた。ええ!
「チャンス選手、十四号ホームランでございます」
 ジャクソンの後釜で入団して二カ月も経たないアゴの長い大男が、軽やかにダイヤモンドを回る。右投げ左打ちの長い腕に強引に低目のストレートをひっかけられた。きょうの小川は頭を掻かない。だからこの二点で終わりそうだ。華やかでないチャンスの出迎え。黒い顔がベンチをくぐる間際にフラッシュが瞬く。ボールボーイがチャンスのバットとヘルメットの後始末に走る。
 大塚に早くも代打が出る(やっぱり当て馬だった)。左バッターの奥柿。あえなく三振。ベンチへ駆け足。
 アトムズの加藤がいち早くキャッチャーボックスに立ち、ベンチに退がろうとしている小川の背番号13に声をかける。
「ナイス、ピッチング!」
 釣られるように一塁スタンドから拍手が注がれる。素朴な男なのか、それとも何かの心理作戦か。石戸のずんぐりしたからだがマウンドに登る。何気ない腕の振りからスピードの乗ったボールを投げはじめる。腕が抜けそうな勢いでフィニッシュする。シュートが斜め上へ浮き上がるように見える。
「こりゃ、当分あかんわ」
 森下コーチが腕組みをして呟く。本気でないのが声の調子でわかる。水原監督が三塁コーチャーズボックスへ向かう。きょうは太田コーチが一塁ベースコーチに立った。石戸が投球練習を終え、加藤がセカンドへ低い送球をする。内野のボール回し。
「一番センター中、背番号3」
 中身の詰まった歓声。八年目にしていまやチームナンバーワンのエースにのし上がった酒豪投手石戸が胸を張った。彼は毎晩大酒を喰らうので、常に胃と肝臓の具合が思わしくなく、酒で死ぬだろうと言われている。しかし死ぬまでの何年か、松岡、石岡とともに先発三本柱であることはまちがいない。
 一回裏。攻撃開始。中はバットを寝かせ、小刻みに右足でリズムをとって構える。きょうはアコーディオンをしない。初球、外角高目のストレート、ストライク。速い! 中はボックスを外して一度素振りをした。二球目、内角あごのあたりのストレート、ボール。もう一回素振り。何としてでも塁に出なければいけないという気概がみなぎっている。三球目、真ん中高目の速球、振り遅れて三塁スタンドへファール。コントロールのいい石戸はなぜか低目を投げてこない。浮き上がるストレートの威力だけで押してくる。速球ピッチャーだったろうか? 中がもう一度素振りをし、しゃがみこんで構えた。高目をボールにするつもりなのだ。四球目、裏をかかれて、外角低目へカーブ。いや加藤は高く構えていた。石戸のカーブは、落ちずにするどく水平にスライドする。中はトットットとのめり、かろうじてバットを止めた。
「ボッ!」
 たかがボール一つにウオーという歓声。ライトスタンドで三つ、四つ、激しく球団旗が振られる。何という緊迫感のある喧騒だろう。
「さ、いつものように!」
「日本シリーズじゃないよ!」
 コーチたちの的を得た檄だ。ツーツー。五球目、加藤はふたたび高く構える。真ん中低目ストレート、ハッシと打つ。ライナーが衣笠とファーストベースの隙間を目がけて飛んでいく。一塁線を抜くか! ロバーツ思い切り飛びつき、ファールゾーンまで転げ出た。そのまま膝でいざるようにファーストベースへタッチ。アウト! 
「ロバーツ、ファインプレー! ファインプレー!」
 アナウンサーの叫び声が聞こえる。石戸がロバーツにグローブを上げる。ロバーツは同じようにグローブを上げて応えた。彼らはこの一戦を必死で戦う気でいる。ただ、高く構えているところへ低いボールを投げる石戸の反骨は感心しない。打ち崩せる。
 二番高木、初球、外角高目速球。
「ストーライ!」
 浮いてくる。このボールを投げつづけられたら、敗北もあるかもしれない。低目を狙おう。高木も素振りを一本くれた。二球目、内角あごのあたりの速球、ボール。高、高、低か? 三球目、外角低目カーブ、のめってバットを止める。ボール。カーブを投げた時点で石戸の気力負けだ。
 水原監督のパンパンパンが空気を切って聞こてくえる。仕掛けどころと見たのだ。高木素振り二つ。四球目、もう一つ外角低目カーブ、無理やり引っ張り、高いバウンドで三塁線へワンバウンド、ツーバウンド。城戸の前で大きくイレギュラー。守備のあまりうまくない城戸の反応が遅い。ラインぎわを抜けた! ファールゾーンに走り出た奥柿が、案の定慣れていないクッションボールをハンブルする。拾いにいってさらにハンブル。高木二塁を飛ぶように駆け抜ける。城戸は奥柿からの返球をわずかにジャンプして抑え、グローブを突き出して、三塁へ滑りこんだ高木に飛びつく。筒井の両手がサッと広がる。セーフ! ドーという凱歌のような歓声。高木は尻の土をはたき、水原監督の拍手に微笑を返した。
 三番江藤。ブンブンと素振り。石戸は動揺の影もなく、グローブにボールを叩きこんでいる。打たれるべくして打たれたと私は思っている。このまま崩れていくのは目に見えている。
 石戸セットポジションから初球、内角低目カーブ、いい球だ。しかしボール。二球目外角に落ちるカーブ。ストライク。弱気が芽生え、高目の速球で押さなくなっている。江藤、ホームベースをトントンと叩き、静かに構える。三球目、内角低すぎるストレート、ワンバウンドで久保のミットをすり抜け、バックネットへ。最悪だ。高木、本塁突入。久保はネット下部のコンクリートで跳ね返ったボールを一歩二歩迎えに走り、素手で拾い上げ、突入してきた高木目がけてジャンプ、セーフ! 
「ウオォォ!」
 ネット裏の小山オーナーが盛んに拍手している。二対一。
 江藤素振りを三回、四回。ワンツー。少しオープンスタンスに構えた。石戸振りかぶって三球目、真ん中から外へフォークボール、ヘッドアップしながらバットを片手で投げ出すように振る。一、二塁間へ低く弾みながら転がっていく。武上が追いかける。ぎりぎり届かない。勢いのないゴロがライト前へ抜けた。太田コーチが江藤と握手する。
 私はネクストバッターズサークルから歩み出た。歓声に背中をグイグイ押される。ネット裏の外人たちのフラッシュが光る。
「金太郎!」
「神無月ィ!」
 ベンチの怒声が重なる。
「つぶせ、つぶせェ!」
「いただきまーす!」
 菱川の声だ。もう石戸はすっかり高目の勝負をやめてしまった。それなら狙いは低目のシュート一本。
 セットポジションからの一球目、手首が縦にしなる。真ん中高目ストレート? いや低目に落ちるフォークだ。
「ストーライ!」
 二球目、縦の手首、内角低目フォーク。
「ストーライ!」
 あの強力なストレートは投げてこない。ボックスを外し、ネット裏の主人たちを見上げる。一塁ベンチの上のカズちゃんたちのスタンドを振り返る。尻のお守りを触る。バッターボックスの前方、ピッチャーにかなり近い位置に立ち、踵の線ギリギリまで後退して並行スタンスに構える。大きくクロスに踏みこむためだ。踏みこんだ足がボックスの白線を踏んでいれば違反にならない。ホームベースから遠く立っているので、きわどい内角球がきてもデッドボールの危険もない。ピッチャーは安心してコースを狙える。
 一球目、石戸の右肩が早めに外へ動き、振り下ろそうとする腕が少し遅れて出てくる。
 ―きた! 
 ストレートのように速いシュートだ。バットの届く内から外へ曲がっていく。大きく曲がり切らないうちにバットが届くか? 見る間に曲がりはじめる。クロスに大きく踏み出し、左足に重心を残してひっぱたく。手ごたえ悪し! バットの先だ。急速に降下してレフト前に落ちる。この試合に響く一打になるかも知れない。しかし、よしとしよう。ワンアウト一塁、二塁。
 木俣、彼らしくもなく外角低目のカーブを叩いてセカンドゴロゲッツー。チェンジ。やっぱりこうなるか。二対一。
 二回表。武上ショートゴロ、城戸三振、加藤三振。
「おまえら、だらだら、だらだら、すなや!」
「去年とおんなしかよ!」
 三塁側アトムズファンの野次が激しい。
 二回裏、右中間二塁打で出た菱川を二塁に置いて、太田のライト前適時打で一点を返し、二対二の同点。それきり、投手戦に突入した。
「石戸ォ、そんなにがんばらんと、チャッチャと中日に優勝させたれや!」
 アトムズ側からおもしろい野次も飛ぶ。奇妙なファン心理だ。
 アトムズは十七人の選手を動員して総力戦の態勢を取ったが、ドラゴンズは九回まで固定メンバーで戦いつづけ、控えの代打や代走の出場すらなかった。
 私は二回のヒット以外はセンター前に一本打ったきり、ファーストゴロ、セカンドゴロ、フォアボールだった。高木二安打、江藤一安打、菱川二安打。アトムズもチャンスのホームランのほかは、丸山、加藤が一安打を放っただけで、小川を継投した門岡と若生にかわされた。両チームむだな単発を放ちながら、結局延長十二回まで戦った。私は二試合連続でホームランなし、江藤は六の一だった。一枝の代わりに十回から入った江藤省三は二打数一安打、太田のあとに入った葛城は二打数二三振だった。 
 石戸はまるで高校野球のように十二回を丁寧に投げ切った。小川、門岡、若生の三人はみごとな分業で、二回以降得点を与えなかった。塩釜出身二十五歳の東北人若生は、七回から十二回まで六回を投げたが、今季初勝利を挙げられなかった。試合は五時六分、ダブルヘッダーの規定により十二回で打ち切られ、二対二の引分けとなった。第二試合は五時半からと決まった。




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