十六

 張り詰めた雰囲気が試合後もつづいていて、インタビューは中止になった。観客は大いに満足している様子だった。なぜなら、この引分けはけっして腑甲斐ない足踏みではなく、第二試合に勝てば、今夜後楽園で巨人が大洋に勝っても三厘差で優勝するという願ってもないドラマを引き連れてきたからだった。まるで巨人との緊迫した直接対決を目撃しているような幸運に与(あずか)れると知った観客の喜びは大きかった。
 正真正銘のマジック1。あと一勝すれば優勝とわかり(足木マネージャーに知らされるまでは、算術に疎いわれら選手たちは引き分けという結果にかすかな不安を覚えていた)、中日ベンチの士気はいやが上にも高まった。ロッカールームにやってきた水原監督は、仕出し弁当を食っている選手たちに向かって、めずらしく大声を上げた。
「ようし、勝ちましょう。大差で勝って名古屋で優勝しましょう!」
「オオッシャー!」
「ドスコイ!」
「まかしとけ!」
 私はソテツ弁当を頬張りながら仲間といっしょに右手を高く挙げた。
 第二試合も固定メンバーでいくことに決まった。一番から中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝、先発ピッチャーは水原監督の予告どおり水谷則博、中継ぎは星野秀孝、抑えは水谷寿伸。優勝投手の栄誉は十一年目のベテラン水谷寿伸に贈られることになった。
 アトムズは、福富、東条、ロバーツ、チャンス、奥柿、武上、城戸、加藤、先発は河村保彦。おととしまで中日に在籍して、八年間で七十勝を挙げた準エース、マリオネット投法で有名なピッチャーだ。小学六年生のころ中日球場で何度も見た背番号28。突っ立ってギクシャクした投げ方をぼんやり憶えている。いまは13番か。
 ベンチ入りメンバーが一塁ダッグアウトに顔を並べ、トンボやライン引きをぼんやり眺める。監督、コーチ連は控室にいる。中が、
「河村は守り泣かせのフルカウント男だよ。とにかくツースリーにしたがる。早打ちしてトットと終わらせよう」
 江藤が、
「三十七、八年ごろ、なんでか知らんが、濃人に一年じゅうキャッチャーやらされたことがあってのう、よう河村の球ば受けた。カーブが切れとった。今年は一勝しか挙げとらんのか。そろそろ引退やろう。何歳になったと?」
 太田が、
「まだ二十九歳です。ストレートはほとんど投げません。パームとナックル以外の変化球はぜんぶ投げます」
 一枝が、
「背番号13て、健太郎さんのまね? 徳さんとの交換で去年アトムズへいったんだったな。板ちゃんと相当仲が悪かったから、移籍したときはホッとしたよ。移籍直後に九勝挙げたんだから、大したもんだ」
 小川が、
「俺、去年十勝で、不調って言われたぜ」
 徳武が、
「前の年、二十九勝の最多勝、かつ沢村賞だもの、あたりまえ」
 中が江藤に、
「慎ちゃん、ロッカールームでサポーター巻いてただろう。やられたの?」
「いやな予感がするけん、ふくらはぎにサポーター巻いた。いま肉離れやったらコトやけんな」
 高木が、
「慎ちゃんは休まない機関車だからね。感じ入るよ。ピッチャーの三人交代制ってさ、引き分けだと痛み分けって感じでなかなか合理的だよね。勝ってもタナボタみたいでうれしいし」
 一枝が、
「タナボタなんて言うと、土屋がガッカリするぞ」
 白黒ハッキリさせたがる高木は、
「タナボタはまちがいないだろう。しかし一勝は一勝、四勝目を挙げたんだから大したもんだ。金太郎さんのおかげで二軍から引き上げられて、首の皮一枚も二枚もつながったんだから、ガッカリはしてないさ。な、土屋」
 高木の振り返った顔に土屋はハイと上機嫌にうなずく。きのう投げた小野と伊藤久敏と土屋はアガリなのでベンチの奥に座っている。第一試合に投げた門岡と若生も彼らと並んで座っている。ふだんのペナントレースではほんとうにアガッて球場を去ってしまうのがふつうだが、きょうはとんでもなく特別な試合なので、アガリの不文律を守らずにベンチに貼りついている。すでに目も潤んでいるようだ。小川はアガリと関係なくいつもベンチの前列でふんぞり返っている。高木に牽制球を蹴り返されたことのある彼は、
「モリはきついよ」
 江藤が、
「モリミチは自己反省もきびしかけんな。自分をしっかり反省するやつは、他人にもきびしゅうするもんたい。むかしベンチで板ちゃんに言っとったやろう、なんでこんなヒョロヒョロ球打てないんだろうなあって。板ちゃん、相当まいっとったばい」
 江藤と同期の伊藤竜彦が、
「モリさんは瞬間湯沸かし器だからね。板ちゃんがフォアボールを連発したとき、マウンドにいって『どんどんストライク取らんかい、フォアボールばっか出しやがって。楽しいんか』って言ったことがあった」
「竜ちゃんが三塁のレギュラーやったころやろう。ワシはレフトやった。四十年か四十一ねんのころばい」
「うん。大洋戦で二人を牽制でアウトにしたのに次のバッターにサヨナラホームラン打たれたときは『むだなアウト取らんと早く打たれとけや!』って、ほんとに怒りまくってたのを憶えてるよ」
 高木がカハハハと笑った。この人たちと野球ができることをつくづく幸福に感じた。
 バットをしっかり振って汗をかいた葛城が、ロッカールームから戻ってきた。江藤が、
「葛城さん、ワシ三打席調子出んかったら交代するわ。そこからは全打席出るつもりでいってや。ミット貸すけん」
「それ交代しないって意味だろう」
「ハハハ、六十二本打つまでは、だれにも代わらんでがんばらんばっち思うとる。それでよかろうもん? 葛城さん、通算は?」
「百七十五本。来年、トレード先で二百号を狙う」
 足木マネージャーからみんなに菓子パンの差し入れ。私はメロンパンを食う。
 五時二十五分。監督たちがベンチに入った。照明塔に灯が点りはじめる。左右のボールのネオン看板と照明塔のネオン看板にも灯が点る。左中間、ナショナルテレビ、スコアボード右、明治チョコレート。下通のアナウンスが流れる。
「ただいまより中日ドラゴンズ対アトムズ二十四回戦、試合開始でございます」
 勝てば優勝だと下通は言わない。たとえ周知のことでも、真剣に戦う相手に対して失礼だからだ。スタンドから大きな拍手が上がり、私たちは守備に散った。始球式はない。守備に走りながら一枝が、
「後楽園の巨人―大洋戦は連夜の四万人だそうだ」
「伝統の底力というやつですね」
「それと人気だ。人気というやつはイカンともしがたい」
 水谷則博の投球練習。カーブ三球、ギュンとストレート二球。カーブのスピードが心なしか増している。打ちにくいだろう。バックネットに相変わらずパリーグの偵察要員どもの顔が並んでいる。スタンドを見回す。超満員。薄暮の空の下の壮観。
「プレイ!」
 富澤のコール。福富がバッターボックスに入る。けっこういいガタイだ。八十キロ近くあるだろう。強肩で知られていて、去年は十四も捕殺(送球アウト)を記録している。武上とコンビでロバーツたち中軸につなぐ役割だが、広島と最下位を競っているということは、肝心の中軸がうまく機能していないからだろう。
 初球のゆるいカーブを引っかけて、セカンドゴロ。東条、二球つづけて速球をファールしたあと、ストレートを空振り三振。変身。すばらしいボールだ。ジュニア・オールスターの最優秀投手だけのことはある。コースが真ん中に寄る癖を治せば、四番手五番手のピッチャーになれる。三番ロバーツ。初球高目ストレート、豪快な空振り。二球目同じコースへカーブ、情けない空振り。三球目外角低目ストレート、打ち損なった。サードの上空へフラフラと上がる。やばい、越えたら長打になる。走る。一目散に走る。菱川を越えてポトリと落ちた。一塁を回ったロバーツのストライドが大きい。ワンバウンド、ツーバウンド、素手で捕まえたボールを二塁へ力いっぱい送球する。低い滑空。一枝タッチ、アウト! かぎりない高揚。これが私の仕事だ。大歓声の中をベンチへ走り戻る。則博が抱きつく。
「ありがとうございました!」
 菱川が抱きつく。
「ナイスプレイ!」
 三塁側スタンドから、
「おまえら、どいつもこいつも顔が濃いんだよ、コラア!」
 一塁側スタンドから、
「ヨ、鉄砲肩!」
 江藤が、
「ワンハンドスロー、美しかァ!」
 突っ立ったようなフォームで投球練習を終えた河村が、マウンドをうろうろ歩き回って落ち着かない。江藤が、
「河村はむかしから神経質な男やけん。さっきもベンチで水ば何杯も飲んどった。かわいそうやのう、早くトドメ刺してやらんば」
 美男子。切れ長のするどい目、青白い顔がいっそう癇癖な感じを与える。一番中、初球三塁線へするどいファール。
「ヨ!」
「ホ!」
「ビッグイニング!」
「二十点!」
 二球目、意外に速い直球が内角高目にきた。中の右足のリズム取りがピタリと止み、胸から上へ〈掬い〉上げた。
「へい、お待ち!」
 田宮コーチが叫ぶ。ブッ飛んでいくという感じで、あっという間にライトポールを巻いて上段に飛びこんだ。いつものように黙々と走る。攻撃開始。
「中選手、今シーズン第二十号のホームランでございます。現在チーム本塁打三百八十三本。永遠に破られない記録を着々と更新中です」
 二番高木。初球インローに置きにいったシュートをガシュッ! レフト線へ二塁打。河村がマウンドを前後にいったりきたりしてパニック状態だ。それ以上にスタンドが狂騒状態になる。高木がセカンドベースに立つ姿に惚れぼれとする。ユニフォームから覗くストッキングの比率がえも言えないほど美しい。水原監督はじめ、チーム全員がこの比率だ。
 三番江藤、初球の内角シュートをカットしてバックネットへファール。二球目アウトコースのスライダーを泳がされながらもショートの頭へ強烈に引っ張り、左中間を深々と破った。高木生還。二点目。
「さ、いこか! 休憩終わり!」
「ひさしぶりに一本!」
 河村は私に対してセットポジションに構えずに、ワインドアップから棒が倒れこむように投げ下ろしてきた。高く遠く外れ、加藤が片手を突き出し伸び上がって捕球する。タイムがかかる。加藤が河村に向かって走っていく。ひとこと言って戻る。加藤と目が合った。私は彼の玉子型の精悍な顔が好きだ。精悍さの中に人を和ませるやさしい性格がほの見える。
「敬遠はなしですね」
「もちろん勝負するよ。さ、こい!」
 二球目もワインドアップ。突っ立ったからだの両脚が開き、けっこう体高を低めながら腕をしならせる。根性の入ったストレート。しかし私にはゆるい。アウトロー。河村には自信のコースだろうが、私には打ちごろ。右足から屁っぴり腰で踏み出す。腰をひねって扇風機のように振り抜く。しっかり引っ張り切った。センターに向かって低い角度で上昇する。田宮コーチと森下コーチが声を合わせる。
「いったァァァ!」
「ロケットー!」
 福富の背番号34が灰色の空を見上げる。バックスクリーンに向かって真っすぐ伸びていく。二塁ベース上の江藤も打球を見上げながらパンパンとカシワ手すると、ゆっくり三塁ベースに向かう。黒いバックスクリーンの左上をドンと直撃する。太田コーチとタッチし全速力で江藤を追いかける。地を鳴らす歓声が球場のすり鉢にこだまする。ヒゲの濃い武上がセカンドベースを回る私をぼうっと見ている。江藤が水原監督とタッチし花道へ突入する。私も監督と笑ってうなずき合いながらタッチ。
「さあ、どんどんいって、バシンと決めるよ!」
「はい!」
 思い切り尻を叩かれる。私は花道に向かって、
「握手、握手! 抱き合うのは最後ォ!」
 と叫びながら、一人ひとりの手のひらを叩いて通り抜ける。フラッシュの洪水。アナウンサーの悲鳴。
「いったい何本打つのかァ! きょうも打ったァ、大ホームラン! 超特急でバックスクリーンにぶつかったァ!」
「オメデト!」
 半田コーチのバヤリースを一気飲み。
「長らくお待たせいたしました。神無月選手、三試合ぶりの百三十五号ホームランでございます」
 笑いと拍手。ゼロ対四。


         十七

 三塁側内野席から、
「河村、野球やめろ!」
「別所もいっしょにやめてくれ!」
 河村はワンアウトも取れず交代。継投は緒方勝。中継ぎ専門。六年間で一勝しかしていないことを太田が告げる。
「キー、マー、タ! キー、マー、タ!」
「スモール金太郎!」
「つづけェ! 一気にいけェ!」
「マー、サ、カリ!」
「マー、サ、カリ!」
 スタンドの声とベンチの声が混じり合う。
 緒方は力投型で、意外とカーブとシュートが切れる。木俣は真ん中高目のシュートに驚いたように三振。スタンドの好意的な笑い。ワンアウト。菱川、じっくり三球見る。ワンツーからの四球目のカーブを叩き、ライトオーバーの二塁打。これはもう職人と言っていい。太田は二球カーブのストライクを見逃してから、三球目のシュートをレフトフェンスにワンバウンドで当たる二塁打。五点。スコアリングポジションなど関係ない。止まらなくなる。ひさしぶりの猛打爆発に球場が歓声と拍手で割れんばかりになる。一枝、真ん中低目のカーブを叩いてセンター前ワンバウンドのヒット。渋い。六点。則博、ツーナッシングから、インローに片手でチョンとバットを出し、ライトスタンドギリギリに落ちるホームラン!
「水谷則博選手、第一号のホームランでございます」
 ぶつかるように水原監督に抱きつく。爆笑と歓声と拍手。八点。ファンにはたまらない猛攻だ。打者一巡。中、フォアボール。三塁側スタンドから、
「ほんとによう、がっかりさせるなよう!」
 プロ野球選手とは鍛練で自分を磨き、卓抜したプレイでファンに夢や感動を与える職業人だ。未来ある少年たちへの影響を考え、プロ野球選手は常に〈職業(プロ)〉にふさわしいプレイを見せるべきだ。ピッチャー交代。簾内。武器はスリークォーターからの大きなカーブのみ。待つと打ち損じる。高木、フォアボール。どのピッチャーも縮み上がってものの役に立たない。
「何やっとるんだ!」
 別所監督の怒声が聞こえた。初めて聞いた。十一人からワンアウトしか取れない。当然と言えば当然だ。江藤、初球外角スライダーを見逃し、二球目胸もとからの大きなカーブを呼びこんで強打。猛烈なドライブのかかった打球がレフトスタンド中段に突き刺さる。なんというスイングだ。プロ野球の真価を思い知らされる一撃だ。江藤がホームインしたとき、
「江藤選手、おめでとうございます……」
 下通は涙ぐんだ声で絶句した。気を取り直し、
「江藤選手、この五十七号ホームランをもちまして、通算三百号本塁打を達成いたしました。おめでとうございます。水原監督より花束の贈呈でございます。江藤選手の生まれた十月の花、サザンカと菊とシクラメンを束ねました。水原監督のアイデアでございます」
 水原監督はコーチャーズボックスからベンチに駆け戻って花束を抱えて出てくると、ホームベースの前で深く辞儀をしながら、彼よりも深く辞儀をしている江藤にその花束を差し出した。江藤は花束を胸いっぱいに受け取りながら、思わず水原監督を抱き締めた。水原監督も江藤を花ごと抱きしめた。スタンドもベンチも掌が割れるほどの拍手をした。豪胆で繊細な男たち。私は全身がふるえるほど彼らに深い愛を感じた。
 十一点。私は江藤に感激した心のまま、初球の外角高目のスライダーを思い切り叩いて、スコアボード直撃の百三十六号ホームランを打った。ボーッとしていたので、球種はわからなかった。打者十三人で十二点。木俣、ピッチャーライナー。やっとツーアウト。
「よーし、引き揚げ!」
 田宮コーチの声に菱川は、ウース! と応え、高いレフトフライを打ち上げた。一回裏の花火が終了した。
 二回表。大挙して押しかけているアトムズファンがレフトスタンドで、鉦・太鼓・メガフォンを打ち鳴らして『東京音頭』を唄いはじめた。ヤートナ、ソレ、ヨイヨイヨイ、悠長な曲調だ。古関裕而のような作曲家はこの世に二人と現れないのだろう。
 二回裏に緒方に代わって松岡が登板した。ついにきたか。これでファンも納得するだろう。
 五回まで中日打線はみごとに沈黙した。四回先頭打者で巡ってきた打席に、私は真ん中高目の速球をこすってキャッチャーフライを打ち上げた。生まれて初めてのキャッチャーフライだった。
 則博は三回までの予定を五回に延ばし、勝利投手の権利を得て降板した。六回表から星野秀孝がマウンドに登った。
 六回表の守備につく。赤地に紫抜き atoms の球団旗が私の目の前で仰々しく振られる。主婦や子供までいる。彼らの中にはアトムズの本拠地の東京から駆けつけた人たちもいるにちがいない。彼らを横目に中と太田と三人でキャッチボール。太田のちょっとした身のこなしが柔らかくなってきている。流れるようにキャッチングや送球をする。あとはドタドタした走り方だが、田淵を見てもわかるとおり、不細工な走り方は矯正しようがない。彼なりに格好のつけ方を工夫するしかない。ファンに愛嬌だと思われるようになればしめたものだ。
 先頭打者の四番チャンスが打席に入る。初球、真ん中低目カーブ、ショートバウンド。二球目、外角ストレート、ボール。星野が、エッ、と驚いた身ぶりをする。さらに同じコースに二球ストレートをつづけて、フォアボール。秀孝のやりそうなことだ。きょうの富澤はそのコースをボールにとっていることを確認したのだ。
 奥柿、初球のパームボールを待ち切れず打って、バットの先端に当たるファーストゴロ、3―6―3のダブルプレー。江藤の右肘が完治しているようだ。もともと強肩を謳われた彼の二塁送球は矢のようだった。星野はじつに頼もしい、と思ったとたん、武上に一塁線を抜かれた。三塁打。星野が首筋を掻いている。すぐに城戸のレフト前ヒットが転がってきた。武上ホームイン。秀孝は強い球を返してよこす木俣にすみませんというふうに頭を下げる。加藤に代わった久代を速球で三球三振。チェンジ。一対十二。
 六回裏。ベンチで高木が木俣に、
「達ちゃん、おまえ優勝試合をおもしろくしたいんだろう。秀孝の責任じゃないんじゃないの」
「誤解だよ。俺は野球博士と言われてるまじめな男だよ。そんな不まじめなことはしないさ」
 星野が、
「ぼくの責任です。さ、打ってこようっと」
 秀孝はバッターボックスへすたこら逃げていった。そして松岡の剛速球にきりきり舞いして三振を喰らい、またすたこら帰ってきた。二回からここまで松岡に散発三安打。そろそろ二度目の爆発をしないといけない。
 中、高目の速球を三遊間へバント。ボールの勢いがうまく止まる。ショートの東条が素手でつかんだときには、中はもう一塁ベースの直前まできていた。東条はあきらめずに送球してショートバウンド。チャンス後逸。武上のバックアップが遅れる。中はベースを蹴って方向転換すると迷わず二塁へ向かった。足から滑りこんでセーフ。ドラゴンズらしいダメのダメ押しのチャンス。
 高木、低目のカーブを真芯で捉えてお得意の左中間を深々と破る二塁打。中生還。松岡は速球で通せという久代の言いつけを破って墓穴を掘った。一対十三。速球ピッチャーに速球だけじゃやっていけないとアドバイスする輩がかならずいる。よくない習慣だ。伸びのある速球ならば話は別なのだ。やっていけるどころではない。いちばん打ちにくい。遅いボールは何とでも細工ができる。歌を忘れたカナリヤはそろそろ代えるべきだ。
 江藤、胸もとに落ちるカーブを叩いて、三塁ベースを直撃するシングルヒット。高木動けず。ワンアウト一、二塁。
「四番、レフト、神無月、背番号8」
 カメラマン席のフラッシュが目に障る。早くも四度目の打席が回ってきた。金太郎コールが始まる。松岡が不敵に微笑している。いや、笑いが貼りついている顔だったことを思い出した。久代が、
「松岡は神無月さんを尊敬してますから、打たれても打たれても、全力できますよ。相手をしてやってください。情けは無用です。来年不動のエースになるためです」
 並行スタンスでどっしり構える。セットポジションからの初球、速球が真ん中、こともあろうに低目にきた。いただき! と確信して叩き上げたらスカを食ってバックネットへチップファール。低目のボールがわずかに浮き上がったのだ。尾崎だ―。これこそ速球ピッチャーの真骨頂だ。
 二球目同じ低目の速球。心してレベルスイング。それでも下を打ちすぎた。センターに向かって高く舞い上がる。スタンドの失望のため息。センターの福富が半身になって打球を追いながら落下点を目指す。深いフライなので、二塁走者の高木がタッチアップに構える。私は一塁ベースを回りかけ、数歩前で立ち尽くしている江藤の背中を見つめた。福富がバックスクリーン手前のフェンスに貼りついてグローブを差し上げながらジャンプ。捕った。高木タッチアップ。江藤が私に向かって戻りかけたとたん、ドーッと歓声が上がった。センター付近まで走っていった線審の福井と松橋が、二人であわただしく右手を回している。
「入ったっちゃん、金太郎さん!」
 江藤がいつもの右腕を突き上げるガッツポーズで走りはじめる。グローブに収まったと見えたのは、スタンドインしたボールが福富の上半身の陰になって見えなかったからだ。高木は三塁ベース前でバンザイをしながら速度を落とし、水原監督とハイタッチ。私は江藤の背中にピッタリくっついて二塁ベースを回る。観客が拍手しながら笑いさざめき、二人の足並に合わせて、
「ヨイショ、ヨイショ」
 とかけ声を上げる。水原監督と江藤が抱擁、つづいて私が抱擁。
「金太郎さん、愛してるよ」
 ひさしぶりに水原監督はその言葉を涙声で言った。下通の興奮した声が流れる。
「神無月選手、百三十七号のホームランでございます。春に公約した八十本のホームランを五十七本超えました。高木選手、バンザイありがとうございます。江藤選手、ガッツポーズありがとうございます。水原監督、温かい抱擁ありがとうございます。神無月選手、プロ野球選手ばかりでなく、名古屋市民もみなあなたを愛しています。どうか安心してホームランを打ちつづけてください」
 球場が鳴動するほどの歓声と拍手が爆発した。花道の握手、ベンチ前の握手。半田コーチがバヤリースを差し出す。
「パスします! 腹いっぱいです!」
 一対十六。大きな花丸だ。長椅子に座ってレフトを見やると、松橋線審がタオルを出して目を拭っていた。ベンチでは葛城も徳武も泣いている。
 久代がマウンドに走り寄り、何やら松岡を叱りつけている。たぶん、サインに首を振っては変化球を投げたがったことだろう。彼の持ち前は速球とシュートなのだ。打たれてもストレートで押せ、この先一点もやらない覚悟でいけ、とでも叱咤されたのにちがいない。久代はダッグアウトに目をやった。別所監督動かず。
「プレイ!」
 松岡は顔を赤く染め、帽子を目深にかぶる。あんなふうにかぶったら前が見えない。もう何も見たくないのだろう。そのままあらためてワインドアップに入った。木俣ツーナッシングから高目のストレートに詰まってサードゴロ。菱川、外角高目のストレートをファーストライナー。
 七回表。松岡が打席に入る。別所監督は松岡に続投させると決めたようだ。もうほかにピッチャーはいないのだ。あえなく三振。福富ショートフライ。東条三振。
 七回裏から松岡は完全に立ち直った。不用意な球が一つもなく、制球力を失うこともなかった。打者八人を相手に、三振四個、フォアボール一、死球一、凡打二。八回裏まで投げ抜き、零点に抑えた。四球一個は私に与えたものだった。逃げたのではなく、真剣にコースを狙った結果だった。ボールは速かったが、星野秀孝や江夏ほど圧倒されるような伸びはなかった。
 六回から八回まで、アトムズは星野を打ち崩すことができなかった。この日の星野のできは尋常でなかった。速球が手もとで微妙に変化するのはいつものとおりだが、伸びがちがった。バッターに喰らいつき、腰を引かせるボールなのだ。徹底的に内角をつき、決め球は外角。三振は四個だけ。どんどんゴロやフライの山を築いていく。それが彼の真骨頂であることをあらためて知った。このまま彼は偉大な投手になっていくだろう。
 八時三十七分。刻々と優勝の瞬間が迫ってきた九回表、水谷寿伸がマウンドに上がった。水原監督の指示で外野は深い守備位置をとった。外野の頭を抜かれる長打で試合が長引くのを嫌ったのだ。ドラゴンズベンチ全員が身を乗り出して、優勝の瞬間を待っている。スタンドも静まり返っていた。さわさわさわと葉ずれのような音がするだけだ。
 私はスタンドの縞模様や、フィールドと夜空のコントラストや、選手たちの動きをしっかり記憶に焼きつけた。あと赤ランプ三つ。鎮まったスタンドの一角から、
「ミーズタニ!」
「ヒーサノブ!」
 と間歇的にシュプレヒコールが上がる。カメラマンたちはすでにグランドに降りて、ブルペン脇の塀ぎわにずらりと控えている。


         十八

 先頭打者城戸。初球外角低目ストレート、ストライク。二球目内角高目ストレート、ボール。三球目真ん中低目カーブ、ストライク、四球目内角低目シュート、ボール。ストライクのたびにワーと歓声が上がり、ボールのたびにホーッと歓声が萎む。結局城戸は、ツーツーから真ん中高目ストレートを打ってセンター前へゴロで抜けるヒット。東京音頭の合唱が始まる。久代、ワンスリーからフォアボール。なかなか試合が終わらない。松岡の代打丸山、ツースリーまで粘って三振。ブルーのドラゴンズの球団旗、赤いアトムズの球団旗が、それぞれ一塁側と三塁側の客席で激しく振られる。
「まだ終わってないぞォ! 気を引き締めていけェ!」
 センターの中がめずらしく声を張り上げる。
「オー!」
 内野が振り向いて応える。団結。最終回ワンアウト一、二塁。一対十六。十五点差。まず逆転はない。観客が総立ちになり、手拍子に合わせ、
「ミーズタニ!」
「ヒーサノブ!」
 と声援を送る。福富の代打高倉。窮屈に打つバッターだ。三塁後方のポテンヒットを警戒し、私は極端な前進守備をとった。ツーワンから私へのファールフライ。サードのほんの斜め後方、前進守備をしていなければ捕れない位置に飛んできた。慎重に捕球する。フェンスぎりぎりだったので、金網にすがりついて捕った。松橋が右手を挙げてアウトのジェスチャーをした。歓声に歓声が重なる。サードの菱川が、
「神無月さん、超絶!」
 と叫んだ。一枝と中がグローブを叩いている。
 急速に場内が静まった。静寂の中で東条がバッターボックスに入った。最後の打者になるかもしれない。内野手全員が指を二本立てて外野を振り向いた。スコアボードに赤ランプが二つ灯っている。八時四十四分、スコアボードの途中経過標示板は、

 
6回 大洋―巨人 1―1

 になっている。巨人が勝とうと負けようと関係ない。水谷寿伸は木俣のサインを覗きこみ、振りかぶって初球を投げた。外角低目ストレート、ストライク。ウオー! ストライクゾーンの隅をかすめる絶妙のコントロールだ。二球目、内角高目のカーブ。東条がのけぞる。ボール。ホー! 三球目、水谷は二度首を横に振り、うなずくと、真ん中高目にきょういちばん速いストレートを投げこんだ。私は思わず踵を浮かせて左中間へ走りだそうとした。ミートされたらそこへ飛ぶ。しかし東条は刺しこまれて振り遅れた。高いバウンドのショートゴロ。一枝、顔の前で捕球、肩ももげよと一塁へ送球。江藤は全身を棒のように伸ばして強い送球を確捕した。山本塁審のこぶしが垂直に突き上げられた。
 ウオオオオ!
 水谷と木俣が走り寄って抱き合い、跳びはねながらグルグル回る。守備陣が駆けつけるより早くベンチ全員がグランドへ飛び出し、水谷と木俣を中心にマウンドでたがいに抱き合って跳びはねる。審判たちがバックネットの前に整列する。観客席のトランジスタラジオのスイッチがいっせいに入った。
「中日ドラゴンズ、十五年ぶり、二度目のリーグ制覇を勝利で飾りましたァ! 水原監督率いる中日ドラゴンズ、みごとな、みごとなリーグ優勝の勇姿であります!」
 荒波のように押し寄せる歓声。スタンドじゅうに紙吹雪が舞い、フィールドにキラキラ乱れ落ちる。おびただしい数の紙テープが投げこまれる。フェンスに幾条ものテープの簾ができる。大歓声、拍手、指笛。さまざまな音や声がグランドに降り注ぐ。ファンたちがフェンスを越えて雪崩れこんできて、中日スタジアムは突如として祝祭に沸く人民広場と化した。私は揉みくちゃにされ、呼吸ができないほどになった。蒼い空を見上げ、思い切り息を吸いこむ。空気が湿って甘い。目が沁みるように痛くなり、頬がゆがんだ。私は片膝突いてしゃがみこみ、優勝の瞬間を見つめた。これほど濃密な瞬間を経験したことはなかった。仲間たちの顔が次々と脳裡をよぎる。眼鏡を外して立ち上がり、涙に曇った目で遠く四方のスタンドに向かってひっそりピースサインを突き上げた。中がバックスクリーンに向かってバンザイをしてからマウンドへ走っていった。ライトから太田がどたどた走ってきて私を抱き締めた。
「神無月さん、ありがとう! 俺、もう、いつ死んでもいいす!」
「ぼくもだよ!」
 サードの菱川も走ってきて私たち二人に押しかぶさった。
「ありがとうございました、天馬神無月さん! ありがとうございました! 死ぬまでついていきます!」
 私たち三人肩を並べてマウンドの歓喜の坩堝の中へ走っていった。森下コーチが、
「優勝した瞬間の金太郎さんの顔、望遠で撮ったで。……やっぱり神さまやった。肌身離さず持っとくわ」
 こぶしを突き上げた小川や江藤や木俣の周りに仲間の選手たちが集まり、押し合いへし合いをしている。下通のアナウンスが何か聞こえている。まったく聞き取れない。背広やワイシャツ姿の報道関係者たちがバックネットを中心に二百人ほど居並んでいる。水原監督が目を赤くして、チームメイト全員と握手しながら、ありがとう! 感謝する! ありがとう! 感謝する! と搾り出すような声を上げている。選手たちもきつく握手しながら涙が流れ落ちるままだ。水原監督は私に、
「愛してるよ、金太郎さん!」
 と言った。聞きつけた選手たちもみんな、愛してるよ! と叫んだ。グランドのあちこちに立ち尽くす満員の観客が、思い思いに喜びと興奮を表現している。すばらしい光景! 胸が詰まり、嗚咽が止まらない。
 瞬間、まったく想像もしていなかったものが見えて、からだが固まった。アトムズ側三塁ベンチ上の一番手前、群れなす観客の中に、薄茶のツーピースを着た母が小さく坐っていた。彼女の左右に大沼所長、飛島さん、三木さん、山崎さん、佐伯さんがいて、満足そうに笑っていた。母だけが坐ったまま、熱田祭りの花火を見上げたときと同じ表情で微笑していた。
 涙が退いていった。私の視線に気づいていないように見える彼らに手を振らずに、私は仲間たちのつどいにまぎれこんだ。その一瞬のうちに、母のことを忘れた。いや、忘れようと念じた。なぜ私は仲間たちの中にまぎれこもうとしたのか。
 奥山先生と母との会話で、まだ憶えていることがある。いのちの記録にも書きつけなかったことだ。カズちゃんにも話していない。永遠に話さないだろう。母は『息子に死んだも同然と思っている』と言った。息子との縁は切れたとも言った。息子のことは吹っ切ったとも言った。息子について愛着はなく考える余裕もないとも言った。奥山先生を激高させたむごい言葉だった。
 ―私がそれを許すと? 私は永遠にそれを忘れないし、許さない。
 あなたの言ったことのどれくらいが本心かはわからない。しかし、あなたという人間の本質に関わる言葉だ。私ならこう言っただろう。私は息子を愛している。息子のためなら何でもする。いろいろな人間が私から息子を奪った。息子は私の人生だった。生きる意味をくれたのだ。彼らが奪った。彼らが私の息子を奪ったのだ。彼らを殺してでも、私は息子を奪い返すだろう。
 あなたは言わなかった。父のように潔く私を振り捨てることもしなかった。年を経て、節子のように前言を撤回して懺悔することもなかった。庇う価値がないと思っていたからだ。あなたは、庇う価値がないと思われることを私の身に合った人生にした。
 むかしあなたはこんなことを繰り返し言った。
 ―人は自分の能力以上の存在にはなれない。
 それはあなた自身の苦悩や失敗から出た言葉だと思っていた。自分自身を悔いる言葉だと思っていた。しかし、能力のない私を思いやっての言葉だった。一生つづく失望と苦痛に備えさせるための―。でもそれはちがう。いまならわかる。いま私は、能力以上になれると信じている。あなたには無理でも私にはなれる。あなたは能力以上になろうと努力したことがない。親は子供に能力以上の生き方を望むべきだ。
 ―さよなら。かあちゃん。
「マウンド後方に待ち構える選手たちが輪を作ります! 水原監督が、いまその輪の中に溶けこんでいきます!」
 水原監督が江藤と半田コーチに背中を押されてはにかむようにマウンドに近づく。コーチと言わず記者と言わず、行き当たりバッタリに一人ひとりと握手する。ビデオカメラの群れが押し寄せる。内野グランドでCBCテレビのアナウンサーが声を張り上げる。
「……こみ上げるものを抑え切れません……ついに、ついに、ここまできました……昨シーズンの最下位から一転……ドラゴンズ……栄冠を勝ち取りました……みごとに、リーグ優勝、十五年ぶり二度目……飾りました……力でねじ伏せたドラゴンズ……二十五試合を残しての驚異的な……とうとうセリーグの頂点に立ちました……百五試合目、球史に残るスピード優勝です……この日を目指してきた……喜びが弾けます……グランドが人、人、人でいっぱいです、観客が続々と雪崩れこんでいます、揉みくちゃです、揉みくちゃです……いま、目に光るものをたたえて水原監督がマウンドに向かって歩いております……水原監督を迎える選手たちの輪ができる! 十人、二十人、三十人、輪ができる! まばゆいばかりのフラッシュがきらめきます……さあ、ペナント制覇の瞬間……いよいよこれから歓喜の胴上げ! これから、水原茂監督の小さくて偉大なからだが宙に舞います! ファンのみなさんが固唾を飲んで見守ります!」
 江藤、千原、伊藤竜彦、山中、徳武、木俣、葛城、小野、小川、菱川、吉沢、新宅、一枝たちが、アリが群がるように水原監督の肩と胴と脚をじょうずに抱え上げた。その周囲を池藤、鏑木、足木マネージャー、若生、伊藤久敏、水谷寿伸たちが安全を図って取り囲み、さらにその周囲に、私や太田や星野秀孝や水谷則博やコーチ連が控えた。いっせいにかけ声が上がる。
「ソー、リャ!」
 江藤たちはユニフォームをつかみながら空中低く四回突き上げ、五回目からはユニフォームを離して、かなり高く放り上げた。ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ……最後の十回目は、さらに高く放り上げ、四、五人の腕で抱き取った。ほぼ一回転して落ちてきた水原監督は笑いで顔をくしゃくしゃにして泣いていた。江藤と吉沢が号泣していた。ほかのベテランたちもボロボロ泣いていた。私たちはてんでばらばらにバンザイをしたり、拍手をしたり、ガッツポーズをとったり、抱き合ったりした。記者やカメラが遠巻きに囲んでいた。いつの間にか、

 
祝優勝中日ドラゴンズ

 の大幟を立て、酒樽を三つ重ねた御輿が球場内を練り歩いていた。群衆が取り囲んでいる。ジャンバーを着た眼鏡の中年男が御輿の上で団扇を振って音頭をとっていた。
 アトムズチームがさびしそうに帰り支度をして、一人ひとりベンチの奥へ消えていく。居残ってグランドを眺めている者もいる。ラジオの音がかしましい。
「十五年ぶりにペナントレースを制覇した中日ドラゴンズ……きょうの観衆、三万六千九百八十八人……完全優勝……若手たち……江藤、神無月……存在感……セリーグばかりでなく、日本のプロ野球を牽引したドラゴンズ……あとは日本シリーズを制して……」
 群れ集う選手やマスコミ関係者の中で、水原監督の公式インタビューが行われた。束になったマイクを握る一人のアナウンサーの前で、水原監督は帽子を取り、四方のスタンドに向かって深々とお辞儀をした。割れんばかりの拍手と歓声。
「放送席、放送席、そしてドラゴンズファンのみなさん、優勝監督インタビューです。中日ドラゴンズをみごと、十五年ぶり、二回目の優勝に導いた名将水原茂監督です!」
 この日、マイクはスタジアムスピーカーに接続されている。水原監督は酔ったような視線を四方のスタンドに揺らめかせ、大歓声に向かって両手を挙げてひらひら振った。
「監督、優勝おめでとうございます!」
 水原監督は帽子をかぶり直し、やさしい目で、
「ありがとうございます。みなさまもおめでとうございます。選手、スタッフ一同を代表して、ファンのみなさまにお礼を申しあげます。日々夢見心地にシーズンを送らせていただいています」
 フラッシュがかぎりなく瞬く。
「胴上げで十回宙に舞いました。どんな思いでしたか」
「やあ、この日がくることを望んでいましたが、いかにも早すぎた。驚いています。その望みを叶えてくれたのは、ここにいる選手たち、コーチたち、スタッフたちです。いやはや、ほんとにうれしい」
「試合が終わって、一人ひとりの選手と、そしてコーチと声をかけ合っていましたが、どんなことをおっしゃったんでしょう」
「ありがとう、感謝する、と。それ以外の言葉はありません」
「試合中すでに、選手たちの一投一打に目を潤ませている場面が多く見られましたが」
「はい、キャンプのころは、何があっても優勝してみせるという、新米指導者特有の功名心がありましたが、開幕して、選手たちが勝敗などかんがえずにのびのび打ったり投げたりしている純真な姿を見て、その気持ちがサーッと消えていきました。ただ、自分は彼らについていけばいいと思ったんです。そのまま、きょうまで、同じように打って投げている彼らを見て、目頭が熱くなりどおしでした。なんだ、優勝までプレゼントしてくれるのかと」
「これだけ多くの全国のドラゴンズファンや、球場につめかけてくださったドラゴンズファンの見守る中で優勝できて、ほんとによかったですね」
「はい、ほんとうによかった。私が純真な彼らを信頼して、自分も純真な気持ちに立ち返って和合したご褒美でしょう」
 記者たちの鉛筆があわただしく動く。




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