十九

「開幕から一度も首位を譲らず勝ち抜きました。しかも全球団に勝ち越し。チームの強さの原因はどんなところにあったんでしょうか」
「それはハッキリしています。昨年最下位であったことはもとより、十五年間優勝できなかったことが信じられないほど、能力を持った選手が多かったことです。爆発しさえすればと思っていたところへ、起爆剤の神無月くんが入団した。野人、天馬の彼を獲得できたことがすべてと言っていいでしょう。サブ的なこととして私が助力できたのは、グズグズ考えこまない、からだを壊すほど練習しない、その二点を促すことだけでした。つまり理屈の人ではなく、自己信頼の人となって、明るく楽しく野球をするということですが、その点でも神無月くんは権化でした。天衣無縫の野生人でした。いまでこそやらなくなりましたが、キャンプのころは、雨で地面が濡れていたりぬかるんでいたりすると、フルチンで練習してましたからね。その彼のおかげで選手たちが本来の野生を取り戻したということです。取り戻したからには、この先まんいち神無月くんがケガをしたり病気をしたりしても、勝ちつづける力があるということになります。神無月くんはわれわれの象徴であって、心の支えであって、起爆剤です。チームの統合に欠けてはならないものですが、やはり彼一人の力では勝てません。そのことは神無月くんがいちばんよく知っています。彼は命懸けで象徴でありつづけようとしています」
 私はこちらに視線を移そうとするアナウンサーの目を逃れて江藤の背中に隠れた。肩口からネット裏を見ると、小山オーナーたちがやはり、しきりに拍手していた。その上方にミニバン組の集団があり、神妙な顔で水原監督を見つめていた。
「十五年間、優勝を待ちに待ったドラゴンズファンが日本じゅうにたくさんいます。そのたくさんのドラゴンズファンに、最後にメッセージをお願いします」
 水原監督は少し顔を上向け、朗々とした声で言った。
「みなさまの支持と応援がなかったら、私どものこんにちはありませんでした。逆に私どもの奮闘がなかったら、みなさまのこんにちもなかった。おたがいに優勝おめでとうと声をかけ合いましょう。持ちつ持たれつ、いつまでも睦み合っていきましょう」
 地鳴りのような歓声が上がり、水原監督はもう一度帽子を取って四方のスタンドに振った。
「ありがとうございました。優勝監督インタビュー、中日ドラゴンズ水原監督でした!」
 私はバックネット前へいき、小山オーナーや村迫球団代表たちに一礼し、主人たちに手を振った。それから一塁ベンチ前へ歩いていき、これまたミニバン組のカズちゃんたちに手を振った。彼らから返ってくる叫び声は場内の喧騒に紛れて小さく聞こえた。九時半を回っていた。スコアボードの途中経過標示板が、

 大洋―巨人 1―1 終

 となっていた。
 ―いまから何をするのだろう。適当に解散するのだろうか。
 そう考えてキョロリとした気持ちになった。いつまでも止まない喧騒の中に、ようやく下通の柔らかい声が紛れこんできた。
「ただいまより、日本プロ野球機構コミッショナー内村祐之さまより、水原茂監督に優勝ペナントとトロフィーが授与されます。どうぞ水原監督、マウンドのほうへ」
 私たちは太田コーチに促され、一列に勢揃いして監督の後ろに控えた。顔の長い、鼻の下にヒゲを蓄えた七十歳は越えていると思われる眼鏡の男が、祝辞もなくただにこやかな顔でお辞儀をしながら、畳んだ厚布と、大トロフィーを水原監督に手渡し、真剣な顔で握手した。水原監督はトロフィーを周囲のスタンドに掲げて示した。半田コーチが受け取って列の端に立つ。太田コーチはレギュラーたちに命じて厚布を広げさせた。式次第に手慣れているようだった。ドラゴンズのロゴと優勝年度、野球機構のネームが縫い取られた長方形の巨大なペナントだった。下通の声。
「ペナントを手に、優勝チーム中日ドラゴンズ一同が球場内を二周いたします。ご声援くださいませ」
 私たちはスタンドの歓呼の中を歩きはじめた。水原監督やコーチ陣の背中に随い、大きく広げたペナント布の縁を持ち合って行進する。ペナントを持たない連中は、トロフィーを載せた巨きな台車に結びつけた太綱を牽き、スタンドに手を振りながら歩く。雪崩れこんで鎮まった数千人のファンたちがフィールド内に群れ集っている。スタンドにも群れ集っている。だれ一人帰ろうとしない。スタンドを見上げて手を振りながら、フェンスに接するように歩く。私はペナントの後尾のあたりに随っていた。フェンスから差し出される人びとの無数の手と握手した。男の叫びが聞こえた。
「キョウちゃん!」
 おのずと足が止まった。母たちの前だった。
「キョウ!」
「キョウちゃん!」
 男たちが涙にゆがんだ顔で声を揃えた。手も砕けよとばかり拍手している。母はハンカチに顔を埋めていた。その母の肩を、押美スカウトが抱いていた! 私はその図に混乱しながら、できるかぎりフェンスに近づいて、彼らの列へ帽子を投げ入れた。瞬くフラッシュの中、宙を通り過ぎていこうとする帽子を佐伯さんがしっかと受け取り、すぐさま母に手渡した。母はうつむいて帽子を握り締め、顔を上げなかった。私は彼らに深々と辞儀をし、列に戻った。
 一周し終わると、行進が止められ、数を増して雪崩れこんできた観客たちが警官や警備員にフェンスぎわまで押し戻された。私たちは背広姿の係員たちに整列を強いられ、マウンドの斜面の裾にいって、ペナントを支えて左右に拡げた。チームスタッフも含めた全員で記念写真を撮られる。すでにコミッショナーの姿はなく、ネット裏の小山オーナーや村迫たちの姿も消えている。ライトスタンドから『ドラゴンズの歌』が立ち昇る。去年十二月の入団式で一度聞いたきりなので覚えていない。観客たちが合唱する。

  青雲(あおぐも)高く 翔けのぼり
  龍は希望の 旭(ひ)踊る
  おお溌溂と 青春の
  きみは闘志に 燃えて起つ
  晴れの首途(かどで)の 血はたぎる
  いざ行け われらのドラゴンズ
 
 グランドに蝟集して収拾がつかない状態になっていた人びとが、サーッと中央に固まった。左右のポール横の通路から、白帽に白制服のブラスバンドと黄色いミニスカートのバトンガールたちが整然と入場してきて、私たちの前と後ろについた。
「最後の一周でございます。選手たちの前を行進するブラスバンドは、名吹奏楽隊としてその名も轟く陸上自衛隊第十音楽隊、後ろに随う華やかな女性たちは、東京大学バトントワラークラブのかたがたです。中日ドラゴンズ球団広報と姉妹関係を結んでいる東大野球部に賛助をお願いし、秋季リーグ戦の直前練習で忙しいなか便宜をはかっていただきました。どうぞ晴れやかな演奏と演技をお楽しみください」
 後ろを振り返ると、ミニスカートの女たちが踊り狂っていた。カメラマンや記者が走り回っている。私はあわてて睦子のいるスタンドを見た。彼女たちの上方に東大ファンクラブが陣取って手を振っていた。白川がいた、横平がいた、臼山が、克己が、中介がいた、詩織と黒屋もいた! 私は思い切り手を振った。江藤が、
「足木さん、女の子たちば招(よ)んだのあんたやなかね。鼻の下伸びとるばい」
「村迫さんですよ。球団は東大の応援団とバトンにも賛助金を出してるんです」
「ビールかけにくるとね」
「きませんよ。ファンクラブもバトンガールたちもワシントンホテルに泊まって、あした帰ります」
 スーザの『キング・コットン』が、ダーン! とスタジアムの空に立ち昇った。ふたたび行進が始まる。半周ぐらいで、タイケの『旧友』に切り替わる。行進曲はかならず涙を誘う。スタンドに手を振りながら涙が止まらない。中や菱川や高木や木俣や太田たちが泣きながら私の腕をとる。観客も泣いている。母たちの前にもう一度巡ってきたとき、私は懲りずに辞儀をした。佐伯さんのバンザイの声が上がった。周囲に伝染していく。江藤が彼らに気づき、私の裸の頭を撫でながら、
「……オトコやのう。金太郎さんは」
 そう言って、躊躇せず飛島の社員たちに向かって帽子を投げ入れた。今度は山崎さんがしっかり受け取った。
 十時十五分を回った。ダッフルにグローブとスパイクとタオル類を詰め、スポーツバッグに下着とブレザーの上下を入れた。
 正門ゲートから警官や警備員数十人に囲まれて歩く。ものすごい人混みだ。触られ、抱きつかれ、手を握られる。
「優勝バンザーイ!」
「おめでとう!」
「感動しました! 涙が止まりません」
「よくやった! こころからお礼を言います」
「すばらしい、とにかくすばらしい!」
「お疲れさん! 男泣きだよ」
「日本シリーズ、勝てよ!」
「一球入魂! がんばれ!」
「頂点目指せ!」
 組員たちの姿がところどころにある。身分を隠しながらも、いつもよりもいかめしくなく、きびきびと明るい。時田と握手する。
「優勝おめでとうございます」
「ありがとう。大きな区切りがつきました」
「…………」
「四歳からの人生。ほんとにそんな感じなんです」
 急に時田の目が赤くなり、
「じゃ、いずれ名誉市民賞のおりなどに、あらためて」
 蛯名と連れ立って配下たちのほうへ去っていく。
「タッチしてェ!」
 仕切り綱を越えて伸びてくる大小の手にタッチしていく。仲間たちもタッチしたり握手したりしている。ファンの進路妨害を避けるために、百メートルほど先の臨時駐車場まで二本の綱が引いてある。周りが見通せないほどものすごい群衆だ。そのうえタッチしながら歩くのでまるで牛歩だ。テレビ中継車や新聞社の車などが人混みの外側についてノロノロ走る。気がつくとトレーナー一行と歩いている。彼らに訊く。
「きょうは祝勝会のあと、みなさんはタクシーで帰るんですか?」
 池藤が、
「私たちは昇竜館に住んでるんですよ。私は家族部屋、鏑木くんは独身部屋。私どもの部屋で、監督や首脳部たちの風呂を用意します。着替えもそこで」
「―知らなかった」
「私の正式役職名は、ストレングス・アンド・コンディショニングコーチ、兼アスレチック・リハビリテーショントレーナーです。鏑木くんはランニング・アンド・コンディショニングコーチ。覚え切れないでしょう。選手と生活をともにすごしながら、食事や入浴や睡眠面からコンディショニングのアドバイスをしたり、二軍、三軍選手のウォーミングアップやストレングス・トレーニングやランニングの指導をしてます。一軍の調整中の投手とか、ケガで登録を抹消した選手などの面倒を見ることもあります。だれだれはどこまで回復したかな、とか、だれだれのケガの具合はどう? などと監督からよく声をかけられます。水原監督や本多二軍監督は私たちにとっても監督なんです。驚かされるのは水原監督の記憶力です。今年の就任以前のケガ人のことも、いつごろどういうケガをしたかも憶えていました。就任以降はもちろんです」
 鏑木が、
「私も池藤さんの仕事を一部手伝わせてもらってますが、監督みずから選手のことをわざわざ寮に頼みにきたり、様子を訊きにきたりするんです。だれだれはここまで回復しました、だれだれの復帰までにはこのくらい時間がかかります、などと答えると、よしわかった、すべてきみにまかせる、コーチたちが復帰を強制しても、きみのOKが出ないかぎり復帰を認めない、きみにその権限を与える、とおっしゃるんです」
「水原監督はそんなことまでしてたんだ!」
 池藤が、
「リンゴ事件や眼鏡むしり取り事件のせいで、監督は激情型人間と見られていますが、じつは涙もろい人情型人間です。神無月さんのことをしゃべるときはかならず泣きます。江藤さんは、このアホが! と監督に怒鳴られたことがあると言ってましたが、すぐに自分のことを考えて叱ってくれたとわかったそうです」
 鏑木が、
「監督のために俠気(おとこぎ)を燃やす選手は多いですね。でも、監督を含めて、私たちや選手一同が俠気を捧げている人は神無月さんですけどね。つまり、神無月さんは中日ドラゴンズの俠気のカナメです」
 入団二年目、二十五歳の若生が私に、
「小川さんはいま何勝だろう」
「二十勝です。消化試合で三、四勝すれば、二度目の沢村賞ですね」
「いつか俺もそうなりたいもんだな。俺は塩釜高校のころはキャッチャーやっててね、鉄砲肩で有名だったんだ。神無月くんほどじゃないけど、百十メートル投げた。社会人になってからピッチャーに転向した。速球主体の本格派」
「金さんも、若生さんはいい球投げると言ってましたね」
「でも、防御率が悪くてね。球はいいんだけど、抑えられない」
「コースですか」
「うん、コントロールだろうな。二年間で一勝しかしてない。体力には自信を持ってる。野球を始めてから、まだ一度もバテたことがないんだ。肩も肘も痛めてない。早く第一線に出られるようにがんばらなくちゃ」
「小川さんの後輩ですものね。若生さんのダイナミックなフォームは美しい。バッティングピッチャーで終わる器じゃないですよ。榊さんに見こまれたんでしょう?」
 若生はうなずきながら照れくさそうに笑った。
「消化試合でどれくらい使ってくれるかな」
「バンバン使ってもらえますよ」
 褒めすぎた。歯の根が痒い。


         二十

「キョウちゃーん!」
 声のやってきたほうを見ると、カズちゃんたちが手を振っていた。ミニバン三台が人群れの隙間に見えた。やっぱりミニバンを駆ってやってきていたのだ。
「みんなで起きて待ってるから、ゆっくりビールかけ楽しんできてね!」
 私も大きく手を振り返した。
「バスが出ます、バスが出ます。離れてください、危ないから離れて!」
 警備員や組員に守られて二台連ねた寮バスの一台に乗りこんだ。窓の外にひしめき合っているファンたちに手を振りながら遠ざかっていく。高架をゆく新幹線のガード沿いに走り出す。水原監督がコーチたちに、
「試合中ずっと金縛りに遭ってましたよ。足が動かなかった」
 田宮コーチが、
「感無量。セレモニーのときも足が浮いてた」
 森下コーチが、
「神さまの涙、撮ったで。宝物や」
 一枝が、
「金太郎さんの涙はめずらしくないでしょう」
「ちゃうんや。空を見上げて静かに泣いとるんや」
 長谷川コーチが、
「ふうん、いちばん感無量だったのは金太郎さんでしょう。人生が駆けめぐったでしょうからね。……小山オーナーや白井社主は?」
 水原監督が、
「ネット裏にいたお偉方はみんなタクシーで昇竜館に向かってます。報道の車もいっせいに向かってるでしょう」
 高架沿いにポツポツ家が建っていたり、自販機が立っていたりする。私は、
「このあたりはさびしいですね。中日球場は砂漠の中のオアシスという感じだ。ラスベガスですね」
 半田コーチが、
「ラスベガス!」
 高木が、
「なるほど、どんなにさびしい砂漠の中にあっても、みんな、水を飲みに中日球場を目指してくるわけだ」
 水原監督が、
「私たちの覚悟も新たになりますね」
 太田が、
「堀越の昇竜館もポツンとノナカにありますよ。だれも水を飲みにきませんけど」
 江藤が、
「新築で立派なもんたい。ワシは水を飲む感じで毎日帰っとるばい。ワシらのオアシスばい」
 名鉄中日球場前駅に出、ガードをくぐる。名駅通に入って左折。名古屋駅まで背の低いビルが点在する物寂しい街を走る。左の高架を夜遅い名鉄がいく。薄暗い闇に沈んでいる松重閘門を右に見ながら中川運河を渡る。六反を過ぎ、菅野と一度走ったあたりまでくる。ビルが建てこんできた。笹島。私の庭だ。ここからは栄生まで一直線。名駅通は山王から栄生までだ。だいたい四キロだろう。名古屋駅通過。駅舎の正方形の時計が十時二十五分を指していた。名駅一丁目の電停を右に見、則武のガードを左に見て過ぎる。この道は栄生駅につながっていると教えられたことをあらためて思い出す。
「江藤さんは車の免許を持ってるんですか」
「おお、整備工場を持っとったくらいやけんな。ばってん、運転はせん。肘に悪か。荒い性格やけやん、いつなんどき事故を起こすかもわからんし」
「それで、この道をタクシーでかよったんですね」
「ほうよ。八百円くらいやった」
 環状線に出る。環状線を東へ折れると、名古屋西高へのかよい道だ。栄生駅を左に見て東へ折れずにそのまま細い道を北上する。
「この道は栄生街道たい。すぐさびしか景色になるぞ」
 そのとおりだった。田畑に混じってかなり古い住宅や二階建ての長屋などが延々とつづく。名古屋駅前の景色からは想像もつかない。松を繁らせた立派な邸宅もある。かつての庄屋か豪農の家だろう。たまにポツンと大ぶりな商店があったりする。そう言えば、床屋の杉浦たちと麻雀を打った横地美樹の家のあたりがこんな景色だった。
 国道に突き当たり、左折して少し進み、もう一度栄生街道に入る。花屋の前からつながる美濃路に出る。さらに直進。菱川が、
「このあたりはもう堀越です」
 緑豊かな小さい公園がある。白菊公園と石板に彫ってある。やがて暗い夜空と街灯だけになり、道路が白々と目立つ広大な土地に出た。沿道に古い民家や新築中の民家が散在する風通しのいい空間だ。その中に建っているどっしりとした鉄筋の建物に着いた。昇竜館。周囲はすでに報道陣とファンの群れだ。テレビ中継車が何台も停まっている。
 二台のバスからユニフォーム姿の男たちがぞろぞろ降りる。寮生や関係者たちの大歓声が上がる。井手の笑顔もあるのが少しさびしい。迎えに出た古参らしい寮長にみんなで頭を下げる。水原監督が、
「村田さん、きょうは無礼講になりますよ。ご迷惑をおかけします」
「とんでもない。おかげで寮生も優勝騒ぎに参加できます」
 江藤に先導されて水原監督以下、照明の明るい館内に入る。大拍手と歓声が上がる。壁時計は十時四十二分。
「ちょっと、すみません。歩かせてもらいます」
 村田に頼んで、ダッフルとスポーツバッグを手に、仲間から離れて館内の廊下へ進んでいく。村田がついてくる。ここにも報道関係者が蝟集している。寮生の各部屋を覗く。狭い! 縦長の板敷きで、四畳半の広さもない。ベッド一つ、小箪笥一つ、エアコンの設備なし。床には歩く幅くらいの余裕しかないので、ダッフルを置く場所は箪笥の上になっている。半間の窓一つ、ベッドの足もとの小テーブルに十四インチの白黒テレビが置いてあり、入口の脇に小型冷蔵庫。井荻の後藤のアパートを思い出した。
「孤独な感じですね」
 村田は、ぜんぶで二十五人の寮生がいると言う。
「ぼくは建設会社の飯場の三畳間に暮らしてたんですが、それでもこれよりはマシでした。何より造りが機能的すぎて、親しみが感じられない」
「おっしゃるとおりです。曲がりなりにもプロ野球選手の仮住まいにしては貧相ですよね。冷暖房がないのもかわいそうです。食堂と娯楽部屋のクーラーやストーブを求めて、たいていそこでたむろしてます。食は充実してます。まあ、フロントとしては、ここを踏み台にしてジャンプする根性を持たせようとしてるんでしょう。門限は十時半。一軍選手には門限はありません。寮住みの一軍選手は、江藤、菱川、太田、星野、土屋など六、七人で、ほかの全員が二軍、三軍です。江藤さんは寮好きだから、たぶんこのまま寮住まいをつづけるとして、給料の上がりそうな菱川たち四人は来年退寮するでしょう。露橋近辺のマンションを借りるぐらいのものでしょうけどね。ここに住んでれば、練習場が近いし、寮食も気軽に食えるんですがね」
「彼らの能力はトップクラスです。中日球場でいくらでも練習できますし、外食も食いたいものが食える。確実に退寮するでしょうね。ところで、三軍て何ですか」
「育成選手です。星野も育成出身ですよ。きょうは遠慮して、夜中までそのへんで食い歩いてます。……しかし神無月さんは、噂どおりきびしい考え方をする人ですね。その人に見こまれた菱川たちはホンモノですよ」
 三十人も入れる大浴場を見せられたあと、だだっ広い庭へ案内される。生垣沿いに紅白の幕を張り巡らし、芝が枯れるというので青いビニールシートを敷いた庭で、ビール瓶の口を親指で押さえたユニフォーム姿の男たちがすでにガヤガヤやりながら待機している。幕で遮蔽した生垣の外からファンたちの声が聞こえる。数百人はいる感じだ。ラジオやテレビのレポーターが五人、六人庭に入りこみ、カメラを担いだ男たちが幕に沿ってぐるりと取り囲んでいる。露天なので風が涼しい。半田コーチが宇野ヘッドコーチに声高にしゃべりかけている。
「地元で優勝、地元でビールかけ、カクベツね」
「俺、どんなものか知らないんだよ。あんたがやりはじめたんだってね」
「そ、ワシが元祖よ」
 私は外した眼鏡を入れたダッフルといっしょに、背広と下着を納めたスポーツバッグを戸口脇のベンチに置いた。

 日本一! 中日ドラゴンズ

 祝優勝! 中日ドラゴンズ 

 染め抜かれた二枚の横断幕の前に、大きな酒樽が三つ鎮座し、バットを提げた水原監督が中央に、ワイシャツ姿の小山オーナーと白井社主が彼の両脇に立っている。水原監督が、
「よし、全員揃ったね。みんな、百五試合ご苦労さまでした。百五試合はペナントレースの八割にあたります。レースは走り切ることが重要で、途中で褒美をもらうことを最大の喜びにしてはいけない。百三十試合目を終わったとき、あらためてご苦労さまでしたと言い合いましょう。好きな野球をやってるんですから、苦労のはずはないんですけどね。しかし、ほんとうにご苦労さまでした」
 ワッと笑いが上がり、拍手がつづく。
「ビールはけっこう痛いですから、気をつけてね。裏方のみなさん、今後もいろいろこの種のことがつづくと思いますが、ご協力、ご支援のほどよろしくお願いいたします。それからビールを用意してくださった球団本部のみなさん、ありがとうございました」
 帽子を取ってお辞儀をする。進行役の男がスタンドマイクに向かって、
「そろそろ十一時です。夜も更けてまいりました。ではただいまよりさっそく、一九六九年度セリーグペナントレースを制しみごと優勝を飾った中日ドラゴンズを讃え、祝勝会を始めさせていただきます。司会を務めますのは、私、CBC放送の××でございます。よろしくお願いいたします。まず初めに、中日ドラゴンズ球団オーナー小山武夫さま、ならびに中日新聞社社主白井文吾さまよりご挨拶をいただきます!」
 と声を張ると、小山オーナーと白井社主が声を合わせて、
「みなさん、ほんとうにお疲れさまでございました!」
 と頭を下げた。小山オーナーが、
「昨年度最下位という悔しさをもとに、今シーズン、ほぼ百試合戦って、勝率が八割を超えるというすばらしい成績で、こうしてリーグ一を勝ち取ってくれました。ありがとうございました。ほんとうに心からお礼を申し上げたい。きょうはぜひ、心ゆくまでハメを外していただいて、このあとゆっくり、あしたのお昼まで休んでいただきたい。あらためて優勝おめでとうございました!」
 白井社主がハンカチで目を拭い、
「諸君、よくやってくれました! 中日ドラゴンズ! ありがとう! ほかに申し上げることはございません」
 雄叫びと拍手。いくぞ! と江藤が音頭の声を上げる。
「イクゾー!」
 全員が和し、水原監督が一声、
「サー、イコ!」
 バットを一気に振り下ろして一樽目の木蓋を叩き割った。つづいて小山オーナーと白井社主がバットを振り下ろして二樽目、三樽目に水しぶきを上げる。盛大な拍手。係員の手で、柄杓で酒がコップにつぎ分けられる。全員コップを捧げ持ち、
「カンパーイ!」
 めいめい飲み干すや否や、ビール瓶を手にいっせいにビールかけが始まった。飛沫が天に上がる。ヒャー! ドヒー! ウヘー! ストロボやフラッシュがかぎりなく焚かれる。
「さあ、始まりました! 中日ドラゴンズ、いよいよ祝勝会の始まりです! 十五年ぶりに日本一になりました! 狂乱の泡の宴が始まりましたァ! 報道陣のかた、取材オッケーです、オッケーです!」
 進行役が叫ぶと、貫頭衣のような白い合羽を着こんだレポーターや、テレビカメラマンたちが選手目がけて駆け寄っていく。鳥もちマイクが突き立ち、竿マイクがやたらに垂れ下がる。一人の女性レポーターが高木に突撃し、
「高木選手、泣いてるんですかァ!」
 恥ずかしげもなく甘えた声で言う。
「痛いんだよ、でもちょっと泣いてる、うれしい」
 小川と星野秀孝がビールをかけ合っているところへ男性レポーターが、
「おめでとうございます。すばらしいスピード優勝でした」
「テテテ、俺たち、がんばったから、な、秀」
「はい、がんばりました、イタタタタ」
 選手たちは、会場のいたるところに口を開けて用意してあるビール瓶を引っつかみ、ワーワーと声を上げながら上下に振って、目の前の仲間の顔目がけて放射する。発射ついでに、瓶の口を含んでゴクゴク飲んでいるやつもいる。私の横にいた千原も大はしゃぎで私の顔に発射する。痛い。確かに目が痛い。私はだれにかけたらよいのか決めかねて、うろうろする。伊藤竜彦がマイクに向かう顔に横合いからだれかに噴きかけられながら、
「ヒエー! 耳に入った! いろいろあったんでェ、来年はもっと使ってもらうようがんばりまーす!」
「最後にこうなるために、みんなでがんばったから!」
 だれの声なのかわからない。
「オトコにならんといけん、やるときはやらんといけん!」
 江藤だ。私と江藤以外はみんな帽子をかぶっているのに気づいた。帽子の上からビールを浴びせ合う。


         二十一



 江藤が叫ぶ。
「帽子、脱がんか!」
 ワーと一声、帽子が宙に飛ぶ。紅白幕を越えて外の道に飛び出していく帽子もある。会場からは見えない路上につどっていたファンたちが奇声を上げながら、あわただしく駆けずり回る。大騒ぎだ。男性レポーターが半田コーチに、
「ビールかけは、昭和三十四年にカールトン・半田コーチが発明したものです。それから十年、しっかり根づきましたね」
「よかったネ、ホント」
「中日にいらっしゃって二年、振り返ってみていかがですか」
「いい経験ネ、一生忘れない。金太郎さん、エンジェルよ。えとさんたち、エンジェルのおとうさん、ガッドね」
 私にマイクが突き出される。防水テープがギッチリ巻いてある。
「入団一年目にして獅子奮迅のご活躍、野球ファンの記憶に生涯残るものになりました。これからも私たちのためにホームランを打ちつづけてください」
 下通の言葉が印象に残っているのだ。
「はい、わかりました」
 気の利いた言葉が浮かばない。ほかのレポーターが、
「プロ野球が求めていくべきものは何でしょう」
「勝つことだけではない、もっと別の何かです。うまく言えません。野球をつづけるかぎり、ずっと考えようと思います」
「今年のドラゴンズはどこが強かったんでしょう」
「一心同体」
 適当に答える。当たっていないこともない。
「ファンへのメッセージお願いします」
「おかげさまです」
 もっと適当に応える。とつぜん私の顔を目がけて勢いよくビールが発射された。江藤だ。私は心の底から愉快になり、瓶を振って江藤の顔に浴びせた。ドハハハと江藤は笑い、別の相手を物色しにいった。
 水原監督とワイシャツ姿の二人の首脳にはだれもビールをかけない。どこからかスルスル寄ってきた小山オーナーが、私の肩を抱き締めて、
「ありがとう、金太郎さん、きみのおかげで私も球団もこの世の春だよ。ありがとう。さあ、胸にかけてくれ、私の胸にかけてくれ。なんなら顔でもいいぞ」
 私は新しい瓶を手に取って振り、小山オーナーの首に放水した。アハハハと笑って、小山オーナーはほかの選手を求めて去っていった。別のマイクがやってくる。
「神無月選手、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「よくぞチームを支えてくれました」
「何十本もの柱でね」
 高木に頭からビールをかけられた。帽子をかぶっていないので、どんどん目に入る。
「ヒャー!」
 負けじと放射し返す。
「金太郎さんがやるとかわいらしいなあ。早く頭洗わないと、毛の色が少し抜けるよ」
 別のレポーターがやってきて、
「どうでした、大声援を受けてのきょうのバッティングは」
「いつもどおりです。グルグル考えながら打ちました」
「みごと、三本のホームランを打ちましたね」
「一本目二本目はよかったです。三本目はボールが浮いてきて、こすりました」
 ほかのレポーターが、
「最下位からの優勝、神無月選手こそ大立て者です。ありがとうございました」
「一日でも長く大立者でいたいです」
 去年眼病を克服したばかりの中は、水中眼鏡をかけて〈防戦〉している。コラ、バカと罵りながら、四方からのビールを浴びている。女のレポーターが菱川に貼りつき、
「今年一年はどうでしたか」
「まだ終わってませんよ。なかなか結果が出ずに、あれでしたけど、ま、でもチームが優勝できてそれでじゅうぶんです。自分としては大飛躍でした。シリーズでもがんばります、はい」
「きょうのビールの味はいかがですか」
「やあ、最高です」
 菱川は私を見かけたとたん、私の頭の上から両手で二本のビールを注ぐ。泣き出す。泣くだけで言葉はない。ただ愛しい人間に美酒を注ぐだけだ。
「イタタ、菱川さん、目がつぶれる」
 菱川は愛しくない女性レポーターにもかける。菱川のファンらしき彼女ははしゃぎ、
「わあ、なんにも見えないです! 痛ァい! ども、ありあとあした」
 逃げていく。大笑いする菱川の顔に太田が放射する。
「テテテ、いてェ!」
 あちこちで、おめでとうございますという呼びかけ。
「俺、けっこう酔っ払ってる!」
「生きててよかった!」
「やったという感じです!」
「ほんとに最高です!」
「やるだけやった! 寒い!」
 というシンプルな叫びが上がる。
「カメラの前でひとことおねがいします」
「ファンのみなさんの声援のおかげで勝つことができましたんで、ま、次も、日本シリーズがありますけど、また熱い声援をお願いします。きょうはありがとうございました、おめでとうございます!」
「俺は何もしてません、でも、楽しかった!」
「自分としてはもの足りなかったので、来年がんばります!」
「神無月さんの飛距離と肩、宇宙人だよね。あんなの毎日見られて幸せ!」
 大声が入り乱れているのでだれがしゃべっているのか見当がつかない、
「日本シリーズでも、みごとな二遊間の守備を見せてください」
「モリミチあっての私です!」
 一枝の声だ。
「最後、ドラマチックに終われたわ。ドラゴンズは最高についてる」
 小川の声だ。テレビカメラが飛び歩く。白井社主が口を一文字にしながらやってきて、
「感謝のしようがない、神無月くん、心から礼を言う」
 ひったくるように私の手をとり、固く握り締める。
「よく日本に生まれてきてくれた。ありがとう!」
 水原監督がコーチ連中から逃げ惑っている。白井はその監督のところへ早足でいき、やはり固い握手をしている。すぐに水原監督はレポーターに捕まる。
「どのチームにも少しずつ上回って勝てたことですね。選手たちには、三十敗から四十敗を覚悟してくれと言ってきました。それだけ負けないうちに優勝を決めることができてたいへん幸運だと思っています。私にとっての何よりの誇りは、ここにいる選手たちです。彼らといっしょに元気でシーズンを終えたいと思っています」
 だれもかれもが笑顔で走り回る。
「こうやるのヨ!」
 半田コーチが強く瓶を振ってビールを天へ噴き上げる。星野秀孝がまねをする。見上げる夜空にわずかの星がある。
 はしゃぎ回りながらもみんな自粛し、酔いすぎの輩はいない。女のレポーターが田宮コーチに、
「初めてですよね、ビールかけ」
「初めて初めて、あたりまえでしょ。半田さんが十年前に発明したんだから。大毎の優勝は九年前で、まだビールかけなんか流行ってなかったし、中日は十五年前に優勝したきりですよ」
 オバカサン、と言って江藤が遠慮なく彼女の頭にかける。
「キャッ、イタタ、でも楽しい! 一枝さん、いまどんなお気持ちですか」
「野球人生でいちばんうれしい瞬間に、こんないい仲間と酒のかけっこができて、サイコー!」
「修ちゃん、いいこと言うばい」
 江島がビール瓶を二本掲げて走り回っている。木俣にぶっかけた。小野が、
「恋女房!」
 と叫んで、木俣の首から背中へビールを注ぐ。新宅が顔へ噴きかける。上を下への大騒ぎだ。黙々とビールケースを用意する係員たちに噴きかけないところが、なかなか自制が利いている。
「ヤー! おいしい!」
「ウハハハ、ウハハハハ!」
「巨人戦でONにホームランを打たれたのが、悔しいですが、一生の思い出になりました」
 星野だ。
「寒―い!」
「イッタタタア! も、限界!」
 いつの間にか、胸に赤い花リボンをつけた背広姿の男たちが幕のそばに控えている。司会が、
「東海銀行××さま、中部電力××さま、東邦瓦斯××さま、名古屋鉄道××さま、松坂屋××さま、トヨタ自動車××さまがお見えになってます!」
 それぞれが大企業主なのだろう。水原監督を支える実業家たちだ。名乗りも上げず、長広舌もなく、ただ拍手しながら笑っている。ときどき声を発する。
「がんばったねー!」
「すばらしい!」
「誇りに思いますよ」
 相変わらずレポーターたちが走り回る。
「目が真っ赤ですよ」
「やばい! あさって試合がある!」
「何がなんでも日本一! がんばりまーす!」
「キンタマはやめろ!」
 もう選手たちはだれもインタビューなどに応えられなくなっている。また水原監督にマイクが向けられる。
「巨人の底力が怖くてね、何が起こるかわからないと思うせいで、少しも気が抜けなかったなあ」
「でも、優勝しましたね」
「ホッとした」
「あとは日本一ですね」
「そうなればいいですね。残り二十五試合足す七試合を、みんなといっしょに戦います」
「中日はキャプテンを置かない唯一のチームですが、来季はいかがですか」
「置きません。だれかに率いられ、まとめられるチームじゃないんです。みんなで引っ張り、引っ張られるという理想的なチームです」
「胴上げのご気分は」
「夜空がきれいでした」
 半田コーチが、
「そろそろ終わりでーす!」
 と叫んだ。司会者が、三百本のビールがなくなったと大声で告げる。バタバタとカメラが引き揚げの準備をする。四十分に満たない宴の終わりだ。そろそろ真夜中。白井社主が笑顔で挨拶に立つ。
「かならず日本シリーズでも優勝して、もう一度喜びの祝杯を上げましょう。ただ、ビールかけに浮かれるのは一年間オアズケにしましょう。きみたちはみな一躍注目の人になった。二度も三度も浮かれている暇のない忙しい人になったんです。自分の身であって人の身でもある大事なからだです。シリーズにもし勝ったら、ゆっくり風呂にでも浸かって汗を流し、翌日からめいめいの過密なスケジュールをこなしていってほしい。その中には十五年ぶりの市内パレードも含まれます。それでなくても、納会ゴルフやら目白押しでしょう」
 和やかな笑い。社主は目頭を拭い、
「とにかく疲れを溜めこまないように。諸君、きょうはおめでとうございました、そしてほんとうにありがとうございました」
 小山オーナーが、
「みなさん初めての経験でぎこちなかった。それがまたよかった。白井さんはいいことをおっしゃった。たしかにあいだを置かずビールかけをやってたら、選手の命である目に悪い。せいぜい年に一回だね。私は、日本シリーズに優勝したらシャンパンかけをやってもいいと思ってたが、シャンパンはビールの十倍以上の値段なのでさすがに手が出ない。たとえ手が出ても、かける前にきみたちが飲んじまうような気がする。じゃ、日本シリーズがんばって。とにかくきみたちに、感謝感激ビールシャンパン」
 得体の知れないシャレに爆笑。少し酔いかげんの水原監督が、
「それでは、めいめいあさっての試合に備えてください。消化ゲームなどと侮らず、〈試合開始までには〉かならずベンチ入りしてくださいよ。東京だということを忘れないでね」
 会場いっせいに大笑い。





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