七十三
 
 八時五十五分。真っ黒い空の下、内野の芝がカクテル光線に照らされてつやつや輝いている。たしかに内野に敷かれた芝は目に鮮やかだけれども、土と芝のコントラストの美しさと、土を噛むゴロのダイナミズムが殺されるので、あまり好きではない。
 九回裏。王フォアボール。長嶋フォアボール。この二人は歩かせて正解だ。しかしあと三人を打ち取れるか。黒江、ショート内野安打。こういうのが予定外なのだ。慣れないショートを守らされた伊藤竜彦は、逆シングルでハンブルし、ゲッツーどころかフォースアウトも取れなかった。よくエラーがつかなかったものだ。
 無死満塁。この場面で国松は怖すぎる。初球、バックネットへファールチップ。軸の揺るがないスイングだ。二球目、内角高目、ボール。福原さんの家のテレビでナイターを観ていたころ、国松は大好きなバッターの一人だった。全力で振らない柔らかなレベルスイング、するどい打球。次に好きだったのが阪神の並木。名古屋に移ってからは山内一弘オンリーになった。小中学校のころ、バットをフルスイングしないのは彼ら三人の影響だった。いまでは彼らが全力で振っていたことがわかる。からだの中心がブレないのでフルスイングに見えなかったのだ。わけてもマッコビー! 彼のからだは静かにコマのように回転した。
 三球目、国松が気のないように見えるスイングでミートした打球が、低く右中間にグングン伸びていき、真っ二つに割った。国松は足が速い。あっという間に三塁へ滑りこんだ。三者生還。十九対十二。伊藤久敏から、おととい投げた星野秀孝にスイッチ。勝ち試合だが、アトラクションという意味では堀内と同じだ。
 末次、ヘラのはるか手前のレフトフライ。私がキャッチした瞬間、国松タッチアップ。ツーステップ、からだを倒しこんでノーバウンドのバックホーム。国松あわてて三塁へ戻る。
「金太郎、一点ぐらいくれてやれよ!」
「ケチ野郎!」
 私は味方の三塁側内野席に向かって、だめだめと右手を振る。余裕の笑い声が返ってくる。森、詰まったファーストゴロ。国松還れず。打撃のいい堀内がそのままバッターボックスに入る。力んで空振り三振。ゲームセット。勝利投手門岡。棚からボタ餅の五勝目。
 同点になってからのヒーローらしき選手が見当たらなかったので、水原監督がマイクの前に呼ばれた。私たちはロッカールームに引き揚げる。
「やあ、疲れた!」
 高木が深い息を吐いた。太田コーチが、
「あと少しだ。優勝しちゃったから、消化試合が胸突き八丁になったな。慎ちゃんもクタクタみたいだし」
 中が、
「タクミはエネルギー満点だ。この調子なら、残りぜんぶまかせて安心だ」
「いや、ようやく二割いったばかりです。去年の一割五分から多少マシになった程度です。それに、まだ守備が不安です。中さんのように目切りをしてボールを追いかけられません」
「打球音に慣れなくちゃね。場数だな」
 太田が、
「神無月さんはあっという間に打球のそばにいきますけど、どうやって打球の方向を捉えてるんですか?」
「バッターのからだののめり具合や反り返り具合、それからボールがバットに当たる瞬間の角度、その二つを見定めて、あとは当てずっぽうで走る」
 中が、
「そのとおり! ほかにないね。ボールに追いついたあとの捕球技術はだんだん磨かれるからだいじょうぶ」
 ロッカールームの時計は九時四十分。水原監督が戻ってきたので、バスに向かう。いつもの雑踏する人混み。
「神無月さーん! すてきィ!」
「モリミチー!」
「闘将!」
「菱川さーん! きれい!」
「星野、格好いいぞ! こっち向け!」
「水原、あしたも息を抜くなよ。西宮に観にいくからな!」
「ありがとう。がんばります」
 嬌声とともに差し出される手、サイン帳、色紙、硬球ボール。子供のファンにサインする以外は立ち止まらず、大人のファンにはタッチしながら進む。ここは後楽園なので、ポンポンと杜撰にタッチしても不満顔はない。気がラクだ。
 十五分でニューオータニ前に到着。蒼い空の下にファンの群れ。警備員の列。玄関に出迎えの従業員が勢揃いする。
「お疲れさまでした!」
「逆転勝利、おめでとうございます!」
 子供たちにサインする。大人のファンにはタッチ。ユニフォーム姿のままロビーの一角に陣取ってくつろぐ。
「おなかすいたネ!」
 めずらしく半田コーチが声を上げる。
「風呂入って、めしにしますか」
 水原監督が応じる。江藤に、
「少し心配しましたよ。疲れてますね。あしただいじょうぶですか。中くんのように休みをとりますか」
「心配なかです。きっかけの一本が出たけん、気分は上々たい」
「きっかけって、江藤くん、何打席かヒットが出なかっただけのことだろう。ぜんぜんスランプじゃない。それより疲れたままシリーズに突入しないように、無理しすぎないようにしてほしいな」
「わかっとります。こりゃいけんゆうときは、千原に代わってもらいますけん」
「野手には中何日がないからね。金太郎さんも連続ホームランが出なくなった。二十歳のからだも疲れてるんだ。ましてやベテランはもっと疲れてる」
 一枝が、
「疲れてなくても、一試合に一本のホームランを打てる人間はこの世にいないでしょ。いずれにせよ、ホームラン量産が金太郎さんのふつうの状態だから、いま疲労のピークなんですよ。入団一年目だもの、そりゃ疲れますわ。きょうのヒットも場外ホームランも、振りが鈍かった。みんな気づいてますよ」
 私は、
「いや、あれは、この二日、倒立腕立てを熱心にやってるもので、肩が重かったんです。これから追々慣れていきますから心配ありません。いまからだを痛めつけてる最中です」
 高木が、
「うひょう! 疲れてるんじゃなくて、痛めつけてたのか! まいった」
 水原監督が、
「やっぱり鬼神だね。コマーシャル見たよ。仕方なく承知したんだろうけど、ああいうのも疲労のもとだから、なるべく出ないようにしなさい。小説は疲れないか?」
「作文ですから、疲れません。あと一本、東大時代の先輩のためにマツダ自動車の宣伝をやることになってますが、それを撮ったら自粛します」
「そうしたほうがいい。ちなみに金太郎さん、五百野は作文じゃない。日本文学を代表する傑作だよ。文学の何たるか、邪心を払って読めばわかる」
 江藤が、
「あれはすごかもんじゃ。金太郎さんはあんなさびしか子供時代をすごしたんやのう。あんなさびしか思いをした子が、いま静かにホームランを打っとると思うと、泣けてしょうがなか……。じゃ、汗流して、めしば食います。金太郎さん、いっしょに食おう」
「はい。シャワー浴びてきます」
 宇野ヘッドコーチが、
「あしたはひさしぶりのデーゲームだ。試合開始時間は午後二時。ここを十一時半にチェックアウトして球場に向かうので、業者を頼まないやつはきょうのうちに荷物をまとめて、チェックアウトまでに送っておくように。平服を着るか、持って出ろよ。試合が終わったら、六時前後の新幹線で帰名する。あさって土曜日の広島戦は二時半開始のダブルヘッダーだ。少しでも疲労のない状態で臨んでくれ」
「ウィース!」
         †
 十月十日金曜日。八時起床。朝から抜け上がるような青空。気温十七・七度。うがい、軟便、シャワー、歯磨。二日前に切ったばかりの爪切り。スーツを着、新しいユニフォーム、スパイク、クローブ、運動靴、タオル類をダッフルに詰める。北村から届いていた新しいバット二本をバットケースに納める。使用済みの二本は、送り返す荷物に載せる。カズちゃんから電話が入る。
「急いで知らせることでもないんだけど、飛島の大沼所長さんから電話があって、十一月二十三日の日曜日で了承しましたって。詳しいことは、十一月に入ったらハガキを出しますって」
「そう、わかった。急がなくていいから、山口と江藤さんにもあらかじめ知らせといて」
「了解。疲れてない?」
「だいじょうぶ。名古屋に帰ることがいちばんの休息だよ」
「早く帰ってきて。抱き締めてほしいから」
「うん。ひさしぶりにカズちゃんのオッパイ吸いたい」
「考えただけで幸せ」
「新幹線に乗ったら電話入れる」
「はい。じゃ、きょうもがんばってね。愛してるわ」
「ぼくも。さよなら」
「さよなら」
 フロントに郵送する荷物を差し出し、ロビーでみんなと新聞を読む。読売新聞。

 
プロ野球の父正力松太郎氏死去
    
言論と政治に大きな足跡
 正力松太郎読売新聞社主は九日午前六時五十分、保養中の熱海市国立熱海病院で、肝不全のため死去した。八十四歳。正力氏は現在、衆議院議員のほかに日本テレビ放送網会長、大阪読売テレビ会長、株式会社よみうりランド会長、読売興業(巨人軍など)社長、日本武道館館長などを兼ねており、その多才な肩書が示すように昭和の時代を常に大衆とともに、大衆のために尽力してきた巨星の一つであった。
 正力氏は日本プロ野球創設に奔走したことで最も有名である。昭和九年に読売新聞社主として大リーグ選抜を日本に招聘。その後、昭和十一年に全日本チームを母体に大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)を創設し、日本初のプロ野球リーグ発足に貢献した。日本プロ野球界における功績を称え、昭和三十四年野球殿堂入り。なお正力氏の葬儀は十四日日本武道館で行なわれる。


 どういう人なのか知らない。名前だけは文学者めいて響きがいいので知っていた。中に訊く。
「この、言論と政治に大きな足跡というのは?」
「足跡ねえ。戦犯に指定されながらみごとにカムバックした、世渡りじょうずのしたたかな人だよ。内務官僚時代に治安維持に奔走して社会主義者を容赦なく弾圧した、倒産寸前の読売新聞社を興隆して日本一にした、日本に野球を定着させた、街頭に初めてテレビを設置した。まあ、昭和という時代を代表する人物だと言えるね。東大法学部、高等文官試験、警視庁という経歴には恐れをなすね。汚職のない清潔な警察、米騒動の非武力鎮圧と聞けば、人格者だったとも思えてくる。巨人軍は常に紳士たれと言ったのも彼だ。関東大震災のとき、朝鮮人暴動のデマを流したのも彼だ。まあ、賞賛と悪口半々だけど、それこそ彼の面目じゃないかな」
 野球賭博の記事はなかった。中がみんなの顔を見回し、
「試合開始前に黙祷をささげるらしい。とにかく、この人がいなければ日本のプロ野球はなかったわけだから、しっかり冥福を祈ろう」
 みんなでうなずく。なぜ東大の入学式が毎年日本武道館で行なわれてきたのか、矛盾のない関係性を知った気がしたが、結局、マスコミと官僚政治の織りなす権力の核心部にいた正力なる人物の正体はわからなかった。バカに生まれ、単純に生きていられることを幸福に感じた。


         七十四

 七日に三万八千人、きのう三万七千人入った観衆が、きょうは一万人をわずかに超えた程度。ガラガラ。優勝戦線からぶざまに脱落した贔屓チームにすっかり興味が失せたことと、この二試合の連敗が原因だろう。
 デーゲームのスタンドの爽やかなざわめき。物売りの声。打球の音。選手のかけ声。ウグイス嬢のアナウンス。少ない観衆のせいではっきり聞こえる。八百長があろうとなかろうと、偉人が死のうと生まれようと、この世はきのうと同じようにつづいていく。
 スタメン発表。中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝。ガッチリ正規メンバー。きのう、三日目登板予定の門岡が中継ぎで打ちこまれて、ラッキーな勝利を拾ってしまったので、ピッチャーはおととしのドラ三、去年一勝二敗、今年はまだ勝ち星のない若生和也がマウンドに上がった。高橋一三に似たいかつい顔をしている。三、四回中継ぎか何かで登板していると思うし、多少口を利いた覚えもあるけれども、はっきりした記憶はない。中背、細身、速球はまあまあ、変化球がいい。
 巨人は、センター柴田、セカンド土井、ファースト王、サード長嶋、レフト高田、ショート黒江、ライト末次、キャッチャー森。これまた正規のメンバーで固めてきた。ピッチャーは城之内。長谷川コーチが、
「金田の四百勝がかかってるな」
 ポツリと言った。水原監督が腕組みをして、
「出しどころが難しいね」
 試合開始前、正力松太郎の業績を紹介する川上監督の熱のこもった挨拶が終わると、球審丸山の号令で、審判はバックネット前に、両軍選手はベンチ前に整列した。
「ただいまより、正力松太郎さまに対して、一分間の黙祷を捧げたいと存じます。謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げます。それではスタンドのみなさまご起立願います。―黙祷」
 務台嬢のアナウンスにつづいて、グランド、スタンドの全員が頭を垂れる。私は水原監督と小山オーナーと村迫球団代表の顔を思い浮かべながら黙祷した。
 プレイボール。松橋さんが一塁塁審に入っている。レフト線審は寺本、ライト線審は山本。二塁と三塁はいつもあまり注目したことがない。スコアボードを見ると、井上、岡田となっている。
 中が打席に入った。城之内の初球、猛烈に速いシュートボール。まったく手が出ず見逃し。ストライク。きょうの城之内は一味ちがう。二球目、同じコース、同じシュート。片手でバットを出し、サードゴロ。一塁松橋さんの右手が静かに上がる。
「いかん、いかん。きょうの城之内は打ち返すのに力が要る。田宮さん、江島を守備につかせて。私はあしたの広島戦からいく」
「オッケー」
 二番高木、初球の外角高速カーブを打って、セカンドゴロ。
「球、重てえ! きょうは苦労しそうだな」
 三番江藤、内角シュート見逃し、真ん中高目ストレート見逃し、真ん中ストレートを空振りして、三球三振。首を振りながら一塁守備についた。一塁側スタンドは馬鹿騒ぎをせず、ベンチに戻る巨人軍選手を重々しい歓声と拍手で迎えた。
 一回裏。若生の投球練習。ダイナミックなオーバーハンドから、速球、シュート、スライダー。悪くない。
 一番スイッチヒッターの柴田、内股で打席へ歩く。一握りバットを短く持って寝かせ気味に構える。怪力のくせに左打席ではチョンと振る。速球、空振り、速球、空振り、スライダーで引っかけさせセカンドゴロに打ち取る。若生のボールの走りも城之内に負けていない。二番土井、初球のストレートを狙ってハッシと打つ。
 ―なんだ? バックか? うほ、伸びる。頭を抜かれるな。
 そう思ったときには打球が隙間だらけのスタンドに飛びこんでいた。痩せたからだが一塁を回る。江藤がマウンドに駆け寄り、若生に声をかける。そうか、球が軽いんだな。三番王。シュート、ストレート、カーブでワンツー。最後にシュートを引っかけてセンターに抜けそうなセカンドゴロ。高木、手品のようにさばいてアウト。長嶋センター前ヒット。高田サードゴロ。ゼロ対一。
 二回表。私の打席。なぜかいつもの歓声が上がらない。
 ―そうか、金田だな。私に打たれることで中日打線が爆発し、点差が広がるのを恐れているのだ。
 初球、スリークォーターからうなるようなシュート、ストライク。小手先じゃ打てないな。思い切り振ろう。きのうほど上半身は重くない。二球目、やはり同じコース。踏みこんで強振する。ベキッという感じで付け根からバットが折れてマウンドに転がった。打球がショートの頭をフラフラ越える。まばらで静かな拍手。長谷川コーチと苦笑しながらタッチ。
 木俣三振。菱川の二球目に盗塁。成功。菱川、セカンド右へ内野安打。めずらしい。ワンアウト一塁、三塁。太田、長嶋への痛烈なゴロ。5―4―3のゲッツー。王がからだを弾ませてベンチに戻る。
 二回裏。黒江ショートフライ。末次、内角シュートを足もとのファールで何本か粘ったあと、みごとに私の前にヒットを転がしてよこした。内角に強い森を迎えて、木俣は球種に悩んでいるふうだったが、外角のカーブを二球つづけてストライクをとると、あえて森の得意コースの内角高目へスピードボールを投げこませた。大根切りが出た。不格好だが彼の得意の打ち方だ。カットされたボールが上昇していく。ウワーという歓声。太田がフェンスに背中をピタリとつける。ふわりとライトスタンド前段に落ちた。八号ツーラン。足の短い森がオヤジくさい腰の据わった走法でベースを回る。これまで重苦しかったどよめきと拍手に、勝ちを確信する明るさが加わった。城之内、立ちん棒、一球も振らずに三振。柴田ファーストライナー。ゼロ対三。
 三回表。一枝、ツーツーから内角高速カーブを見逃し三振。まさにエースのジョーだ。若生三球三振。中に代わった江島ショートゴロ。当たり屋の江島もだめか。
 三回裏。土井ライトフライ。王センターフライ。長嶋ストレートのフォアボール。高田粘ってフォアボール。黒江ライト前ヒット。長嶋三十三歳とは思えない脚力でホームイン。ゼロ対四。末次ライト前ヒット。高田還ってゼロ対五。森三振。
 四回表。二番高木からだ。一塁側よりもいくぶん数の少ない三塁側スタンドがざわざわしはじめる。中日ファン期待のざわめきだ。高木二球ファールのあと、サードライナー。江藤初球、真ん中高目のストレート、恒例の尻餅をつく空振り。スタンドから希望に満ちた笑い声がドッと上がる。ヨ! ホ! ソレ! が始まる。二球目、内角をえぐるシュートに江藤は瞬間的にオープンスタンスで反応し、しっかり振り抜いた。きょうはライト打ちではない。
「おーし!」
 田宮コーチの叫び。私はネクストバッターズサークルから、はるかレフトスタンドを見やった。打球は後楽園球場の場外へ消えていった。百七十八センチ、八十キロ。わずかに私より小さい体格だ。同じ距離を飛んで何の不思議もない。水原監督が機関車のように突進してくる江藤と跳ね上がって胸を打ち合わせる。中日ベンチが飛び出す。大先輩を袋叩きにする。一対五。
「江藤選手、六十五号のホームランございます」
「点火!」
 葛城の野太い声がした。打席に向かう。空に立ち昇る歓声。城之内がしきりにボールをグローブに叩きこんでいる。精悍な顔に不安がよぎる。もう一本。森がマウンドに走る。城之内がカクカクとうなずく。勝負だ。初球、振りかぶり、いったんからだを後ろへ大きくひねって反動をつけ、オーバースローかスリークォーターか区別できない角度で振り下ろす。どこからボールが飛び出てくるのか判断できないので、右バッターは怖いだろう。外角へスピードの乗ったシュート、わずかにボール。もう手を出さない。バットがこの一本しかない。城之内の投球間隔は短い。二球目内角胸もとへ曲がりの小さいスライダー。ぎりぎりストライク。よく見える。次のボールは読まない。腰から下にきたら打つ。三球目、外から内へ大きく曲がりこんでくるカーブ。素直にレベルスイングで振り出す。インパクトで力を極大にする。
「おーし!」
 また田宮コーチの雄叫び。ボールがどこまでも飛んでいく。江藤とちょうど左右対称の場外へ消えていった。長谷川コーチの掌と王の差し出したグローブに連続でタッチして一塁を回る。土井が額に手をかざして、
「すっげえ距離だなあ!」
 と嘆息している。水原監督が両手を広げて抱き止め、尻を叩いてホームへ送り出す。江藤と同じように袋叩きにされる。快適だ。
「神無月選手、百五十三号のホームランでございます」
 このごろはだれもバヤリースオレンジを飲まないので、半田コーチはだれかがホームランを打つたびに、ベンチの控え組に提供している。
 巨人の藤田コーチが一塁側ブルペンに走った。一呼吸遅れて、金田がダッグアウトを出て藤田のあとを追った。スタンドからざわめきが起こる。記者席にもいつもとちがった空気が流れた。
 城之内に気迫のようなものが戻り、木俣を三振、菱川をショートゴロに打ち取った。二対五。
 四回裏。城之内、一球も振らず三振。柴田フォアボール。土井ライトフライ。王ライト前ヒット。ツーアウト一、三塁。長嶋右中間を抜く二塁打。二者生還。二対七。ツーアウト二塁。高田センターフライ。
 五回表。川上監督がのしのし出てきてピッチャー交代を告げる。城之内はさっぱりした顔でマウンドを降りたが、私は心から彼に同情した。あと三人打ち取れば勝利投手だったのに、勝利投手の権利を譲ったのだ。事前に話し合っていたことだろう。点差が開いているときの五回以前の交代―。
「ジャイアンツの選手交代を申し上げます。城之内に代わりまして、金田、ピッチャー金田、背番号34」
 待ってましたとばかり、巨人ファンが精いっぱいの拍手と歓声を注ぐ。フラッシュの洪水。わざわざ球場にやってきた客はこれが観たかったのだ。
 金田はマウンドの土をスパイクで均し、投球練習に入る。きょうは二塁ベースからではなくマウンドからだ。羽ばたくように大きく振りかぶり、右足をほとんど上げずに地面すれすれに踏みこむ変則フォーム。おそらくコントロールをつけるために自分なりに考えて編み出した形だろう。フォロースルーで思い切り上体を倒れこませる力強いフォームだ。シュートはほとんど投げない。ストレートはナチュラルカーブ気味で、そこそこ速い。むかしは尾崎に比肩するほど速かった。カーブは落差が大きい。しかし打てない要素は一つもない。とにかく貫禄負けをしないことだ。内野の守備練習を背に、胸を反らして外股でマウンドを上り下りする金田の顔が紅潮している。
 八番一枝、初球、大きなカーブを空振り。金田は得意そうにベルトをたくし上げる。二球目、三球目、同じカーブを空振りさせて三振に仕留める。若生に代わってピンチヒッター千原。やはりドロップカーブにやられて三振。一番江島。これもカーブの連投だ。なんとか当ててファーストフライ。
 五回裏。若生に代わって水谷則博登板。背番号45。張り切っている。試合の責任はすべて彼にかぶさる。相変わらずのおっさん面。太田からいつか聞いたことがある。
「則博は中学までは喘息持ちで、ハードな練習はできなかったらしいです。中商にいったあたりから、根性据えて練習してスタミナつけたと言ってました。プロにきてからもファームで弱音を吐かずによくがんばってました。いまじゃスタミナ抜群ですよ」
 ストレートがオッと思うほど速い。先頭打者の黒江、そのストレートに詰まって私への浅いフライ。末次やはりストレートに詰まってサードフライ。森、片手で叩きつけてセカンドゴロ。
 六回表。高木ショートゴロ。江藤三振。私、ドロップカーブを狙い打って左中間の二塁打。外角に甘く落ちてきた。金田の表情がきびしい。木俣右中間に落とすシングルヒット。私生還して三対七。菱川三振。
 六回裏。金田三振。右打席に入った柴田セカンドゴロ。土井三振。則博が思わぬ好投をしている。どうにかしてやりたい。
 七回表。太田、レフト前ヒット。一枝センター前ヒット。水谷則博三振。江島ライト前ヒット。太田還って四対七。ワンアウト一塁、三塁。
「ヨーシ!」
「ソライケ!」
 高木内角のカーブを叩いてサードゴロゲッツー。ああ。金田悠々とベンチに戻る。
 七回裏。王大きな右中間のフライ。長嶋フォアボール。国松セカンドゴロゲッツー。
 三点差。どうにかなりそうな点数だが、だれも則博に、どうにかしてやるぞ、と言わない。微妙な心持ちなのだ。それは則博にもわかっている。あえて明るい表情でタオルを使っている。
 八回表。江藤内角低目の速球を振って三振。ふと、江藤の振り方に意図的なものを感じた。聞き質すことはしなかった。四回目の私の打順だ。ネクストバッターズサークルを出ながら、ベンチの江藤を見返ると、
「ぶちかませ!」
 と叫ぶ声が聞こえた。本気の感じがした。三点差あるので本気で打っていくことにした。ホームラン狙いでいくことにする。金田の羽ばたくような投球練習に力がこもる。
「サ、イコ!」
 水原監督の声だ。どっちの意味だろう。たぶん江藤と同じ考えだ。ぶちかませ! 振りかぶり、地を這い、大上段から投げ下ろす。大きなドロップ。顔をよぎって外角遠くへ落ちた。
「ストライーク!」
 え? 審判の気持ちがわかる。とすると、このカーブドロップはまったく打てない。遠くで落ちるので、前に出ても打てない。金田も私たちの気持ちが薄々わかっている。アンパイアに頼ることはしないだろう。頼ればプロ野球選手として無様だ。決め球は外角のカーブではない。意地の速球だ。二球目、外角の小さなカーブ。ボール。城之内と同様、金田の投球間隔も短い。三球目真ん中カーブ。ストライク。まちがいない。次は内角をえぐる速球だ。ピッチャーという人種は、打たせまいとするより、勝負したいという気持ちのほうが強い。場内がざわつく。私がわざと三振するのではないかと疑っている。四球目、胸もと速球! やや右足をオープンに引き、踏みこみを少なくして、肘を畳んだままからだを回転させる。瞬間、金田がライトスタンドを振り返った。長谷川一塁コーチが両手を差し上げる。低い弾道で一直線に伸びていき、ライトの看板に打ち当たった。歓声が轟音になる。黙々とダイヤモンドを回る。金田がサバサバした感じでマウンドをスパイクで均している。王と長嶋がそばに寄って声をかけている。今回も水原監督との抱擁はなく、タッチと尻ポーン。
「神無月選手、百五十四号のホームランでございます」
 ホームベースで揉みくちゃにされている私に、なぜか一塁側スタンドやライトスタンドからも大きな拍手が降り注ぐ。金田の最後の花道を飾ったということなのかもしれない。
「よかハナムケたい!」
 江藤が私を抱きしめて叫ぶ。徳武がバヤリースを捧げるように差し出す。中が涙を浮かべている。
「金太郎さん、最高だ。金田さんの一生の思い出になった」
 残りの二人に金田は腕も折れよとばかりに速球だけを投げこんだ。木俣ピッチャーゴロ、菱川ショートフライ。五対七。
 八回裏。黒江ショートライナー。末次左中間前段に九号ソロ。五対八。森ライト前段へライナーの八号ソロ。五対九。金田キャッチャーフライ。柴田三塁前にセーフティバント、菱川の強肩で間一髪アウト。松橋さんの華麗なジェスチャー。


         七十五

 九回表になった。金田、セカンドとマウンドの中間から投球練習開始。拍手はなく、緊張の静寂。
 ―昭和三十三年四月五日土曜日、後楽園球場開幕戦、四万五千人の超満員。前年に中日戦で完全試合を成し遂げた金田正一二十四歳、同じく前年に東京六大学の四年間のホームラン新記録八本を樹ち立てた長嶋茂雄二十二歳、たった二歳の年齢差。野球そのものの歴史は金田が八年上だった。私は野球年鑑でその日の巨人のオーダーを一番からすべて記憶している。一番レフト与那嶺、二番ショート広岡、三番サード長嶋、四番ファースト川上、五番ライト宮本、六番センター岩本、七番セカンド土屋、八番キャッチャー藤尾、九番ピッチャー藤田元司。一回の表、一番与那嶺、二番広岡を連続三振に切って取り、ツーアウト、ランナーなしで長嶋を迎えた。三振。―そして、四打席四三振。飛び抜けた才能を基に鍛練を重ねた大投手金田にとっては、大学出の新人に手も足も出させずひねり潰すなどあたりまえのことだったろう。
 金田ワインドアップ。投げ下ろす。外角低目のカーブ。太田するどく振って痛烈な当たりのセカンドゴロ。土井しっかりさばいてワンアウト。静けさが増す。一枝ツーツーから内角の速球に詰まって打ち上げサードフライ。静寂の中から実況アナウンサーの声が聞こえてくる。
「得点は五対九、ジャイアンツリード、スタンドの観衆がジーッと見つめております、バッターは水谷則博の代打葛城、二球目、打った、セカンドゴロ、セカンドゴロ、セカンド捕りました、土井が捕って一塁の王へ送球! アウト! 金田四百勝成る! 四百勝達成です! 四百勝成りました!」
 葛城セカンドゴロでゲームセット。内野陣がマウンドに集まる。竿マイク、カメラ、観衆が雪崩れこむ。一塁ベンチから巨人の選手たちが突進し、金田を捕まえて胴上げをする。
「うれしそうです、金田うれしそう、金田うれしそう、金田胴上げ! 金田マウンド上で胴上げ! ナインの手で胴上げ!」
 背番号34が宙に舞う。客も混じって両腕を天に突き上げている。水原監督以下中日ドラゴンズもベンチ前に整列して大きな拍手をする。務台嬢の声は大歓声に消されて聞こえてこない。
         †
 六時十分のひかりに乗る。すぐにカズちゃんに出発時間を電話した。車内は金田の話題で持ちきりだ。
「最後はドンチャンだったけど、静かな試合だったな」
「日本野球史に残る超人ですよ」
「愛知県の出身というのがいいね。稲沢」
「百八十四センチもあるのに、七十三キロしかない。全身これ鞭だ」
「年俸三千八百万は安すぎる。長嶋はおととし、十年目のボーナスで四千万もらってる」
 張本の話を聞いたときにも感じたことだが、ボーナスという代物に違和感を覚えた。経営者側が年俸を高くすればわざわざ払う必要のないものだし、年数とか成績とかの条件をつけてそんなものを特別に出されると思うと、選手は自分の勤務年数や成績のことばかり考えて野球に打ちこめなくなってしまうだろう。よくない習慣だ。
「最多勝、最優秀防御率、ベストナイン、沢村賞、ぜんぶ三回。タコ、カネやんの一位の記録は」
 太田は冊子をペラペラやりながら、
「四百勝は雲の上の記録として、負け数二百九十八も一位です。完投三百六十五、投球回数五千五百六十二イニング、奪三振四千四百十九、最多奪三振十回、ぜんぶ一位です。長嶋に十八本ホームランを打たれてますが、これも一位です」
 江藤が、
「記録もすごかけんが、金太郎さんと同じように、心構えのほうがもっとすごか。野球は仲間で頼り合ってやったらいかん、なんで人の力を借りなきゃいかんのか、貸してやるべきだ、団結という意味とはちがうそういう頼り合いはチームのためにも客のためにもよくない、見ていておもしろくないからだ、て言うとる」
 小川が、
「さすがだね。肘が痛いのを下半身の鍛練で二十年間カバーしたんだもんなあ」
 太田が、
「金田さんは秋季練習を否定してます。休む勇気がなければいけない、秋や冬に汗をかいてコンディション悪くしたら、野球は勝てないって。江夏はしっかりした発言なんか一度もしないで、キャンプの猛練習は一年間戦うスタミナを奪うので無意味だ、とただ仲間に愚痴るだけで外野の芝生で不貞寝してました。首脳は黙認しましたけど」
 水原監督が、
「みんな、そのことなんだけどね、江夏とちがって江藤くんは愚痴なんか言わずに、長年上層部に進言してたんだよ。その心意気や潔しだ。少なくとも私の在任中は、新人を含めて秋季練習をしない方針にしました。シーズン終わって疲れているところへ、過剰な練習をしてケガをする選手があまりにも多いですからね。やりたいと言うなら、自主トレの場は提供しますけどね」
「中日球場ですか?」
「はい、大幸球場と中日球場。球団主催の秋季トレーニングをやるとするなら、遠隔地へ旅行がてら出かけるようなまねはしないように言ってあります」
「球団主催でやる予定はあるんですか」
「ありません。少なくとも私の在任中の一軍は」
 長谷川コーチが、
「金田が昭和三十二年に完全試合をした相手は中日だよ。天知監督のとき。九回ノーアウトで代打の酒井がハーフスイングで三振した。これに天知さんが抗議して、球場内が騒然となった。抗議するほどのことじゃなかったんだけどね。天知さんにしてみれば完全試合をさせたくないという気持ちがあったんだろう。ファンが五百人もグランドに乱入して、稲田球審を小突いたりしたんで、試合放棄の恐れが出てきた。言い出しっぺの天知さんが試合をさせてくれとファンにお願いする放送をして、どうにか試合再開。金田は難なく、牧野茂、太田文高を三振に切って取った。中断なんかものともしなかったあの集中力は驚異的だな。昭和二十五年に高校を中退して、八月からプロ入りして八勝、ノーヒットノーランまでやった。三十三年には、六十四イニング連続無失点」
 水原監督が、
「天才中の天才だが、それに輪をかけた天才の金太郎さんには、きっちり最敬礼の態度を示す。きょうも金太郎さんがホームランを打った瞬間、きちんと帽子を取って、一塁を回る背中に向かって礼をしていた。彼はいいこと言ってるよ。練習不足と技術の未熟さのせいで一流でない者にだけスランプが起こる、とか、マナーや上品さじゃなく個性が人を引き寄せる、とかね」
 私は長谷川コーチに、
「股割りは彼にとって必要があったんでしょうか?」
「友だちの若乃花の稽古を参考にしたみたいだね。そういう質問をするということは、必要がないと思ってるの?」
「はい。股関節を柔軟にし内転筋を鍛えると、からだの自由が利くようになると言われてますが、彼の巨人入団当時の守備練習のフィルムを見ると、元来ドタドタして動きの敏捷な人じゃないとわかります。王さんもそうです。長嶋さんを見ればわかるとおり、下半身の敏捷性は先天的なものです。鍛えられません。脚が開くかどうかじゃないんです。長嶋さんだってきっと股は大きく開かないでしょう。金田さんは、ほとんど足を上げずに体重移動し、それこそ上半身の柔軟な筋力と瞬発力で投げる人なので、下半身の敏捷性なんか必要ないんです。きっとむかしから下半身の鈍さにコンプレックスがあったんだと思います。コンプレックスなんか感じなくていいのに。下半身は頑丈でありさえすればいいんですよ。だから、彼が走れ走れと言うのは正解です」
 木俣が、
「俺、なかなか股割りができなかったけど、なんだか安心したよ」
「強い相撲取りでも股割りのできない人はたくさんいるそうです」
 小川が、
「金太郎さんはどこもかしこも柔軟だからなあ」
「いえ、股割りも、前屈も、小学時代から得意じゃありません。でも劣等感や不足感は覚えませんでした。たぶん、先天的に打撃に最も合った筋肉の付き方をしているんだと思います。柔軟に見えるのは、池藤さんが柔らかいと言ってくれる筋肉がうまく連動して動くからじゃないでしょうか。アクロバットのような動きはできません」
 水原監督が、
「金太郎さんは頻脈でスタミナがないと嘆いてたが、そういう条件の下で甘えずに自分を鍛えてスタミナ抜群の活躍をしてる人間だ。言うことに信憑性がある」
「走ること、筋力を維持すること以外は、すべて娯楽か気休めだと思います。サーカス団員みたいに、反り返った首を股座(ぐら)にくぐらせたり、よく学校の教室にいる特技自慢のやつみたいに、親指を手首まで曲げてくっつけたいとはだれも思わないでしょう。たしかに自慢の種にはなるでしょうけど」
 大笑いになった。みんなホッとしたような顔をしていた。
 八時七分に名古屋駅に着いた。改札に菅野とカズちゃんたち六、七人が出迎えた。睦子と千佳子とソテツとキッコはいたが、主人夫婦とトモヨさんの姿はなく、スーツを着た蛯名が数人の配下を随えて立っていた。報道陣らしき影がちらちら動いて、フラッシュを光らせた。
「お帰りなさい!」
「ただいま。お父さんお母さんは?」
「おかあさんは、来月のアヤメの番割りの表作り。おとうさんは迎えに出る予定だったんだけど、遅い面接が入って出かけていったわ。トモヨさんは子供たちの世話」
 菅野が、
「鯱のほうに二人ほど応募がきましてね。あとで私もいきます」
 私たちの姿を認めてコンコースの人混みがしばらくざわめいた。菅野とカズちゃんは水原監督一行に丁寧な挨拶をした。
「お疲れさまでした。ゆっくりする間もなく、あしたはダブルヘッダーですが、無理をなさらずがんばってください」
 水原監督はにこやかに、
「お気遣いありがとうございます。からだの無理はしませんが、たとえ消化試合でも気は抜かずにがんばります」
 みんなで組員たちに護られながらタクシー乗り場まで歩いた。蛯名が野次馬根性で寄ってくる人びとを分けて進んだ。葛城や徳武はその様子をめずらしそうに眺めている。
「乗り場まで見送らなくてもけっこうですよ」
 と断る水原監督にカズちゃんが、
「見送れるところまで見送るのがキョウちゃんの流儀ですから」
「ふむ、奇特なことだね」
 菅野が葛城と徳武に尋く。
「お二人は、名古屋で試合があるときは、どちらにお泊まりですか」
 葛城が、
「私はオリオンズのころから大阪に住んでますので、こちらで試合があるときは、昇竜館に泊めさせてもらってます」
「私もそうです。自宅が東京ですから」
 徳武が言う。水原監督とコーチ陣は全員名古屋観光ホテルに泊まる。星野、土屋、水谷則博、江島、千原、江藤省三らは寮住みだ。小川、高木、木俣、中、それから一枝といったベテラン連中は家庭持ちが多く、帰宅組。ホテル組と帰宅組を見送るために全員でタクシー乗り場に向かう。田宮コーチがカズちゃんに、
「金太郎さんは奇人だね。ふつう、人はサッサと別れたがるものだがね。私はこんなふうにされるのは初めてだよ」
「オーバーではなく、いつも今生の別れを感じてるようです。これきり会えないなら、別れをできるだけ長引かせようという気持ち。そうすることに使命感すら持ってるみたいです。小さい決意の積み重ねですけど、見送りもその一つです」
 水原監督がまた、ふむ、とうなずき、
「人間、すべからく、そうありたいね」
 と言った。菅野が水原監督に、
「あと十試合、がんばってください」
「はい、ありがとうございます。後方支援、常々感謝しております」
 監督一行や帰宅組のタクシーを一台一台見送る。最後のタクシーが去っていくのを見送ると、カズちゃんは江藤たちに席に寄るよう声をかけた。みんな辞退して、タクシー乗り場にたむろした。そのころになってようやく蛯名たちが引き揚げていった。江藤が傍らにいた睦子や千佳子を空いている手で抱き締める。
「よかオナゴになったのう」
 二人も安心して江藤に抱きつく。太田と菱川と星野は笑いながら眺めている。土屋は驚いている。キッコとソテツが自分も抱き締めてほしそうな顔をしたので、江藤は二人にもサービスした。江島や千原たち四、五人はモジモジしながら、
「きれいな人たちですね」
 と言って、照れくさそうに駅前のビルのネオンを見上げた。カズちゃんが微笑みながら、
「江藤さん、後楽園の初場外、おめでとうございます」
「サンキュー。よう飛んだ。あのあと金太郎さんの場外が出たけん、影が薄くなった」
「いいとこ取りが運命の人だから。あと五本で七十本ですね」
「ふるえるばい。まとめ打ちできれば、十試合でいけるかもしれん」



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