六十五

 四時間眠っただけで起きた。爽やかだった。目を覚まして、まず野球に思い当たらないのは、これまでにないことだった。カズちゃんの肌触りを思い出した。そして、自分とカズちゃんの肉体の共鳴を思い出した。
 ユニフォームが気になって庭へ出た。一晩のあいだにすっかり乾いていた。食堂のほうで声がしはじめた。部屋に戻り、ユニフォーム、アンダーシャツ、スパイク、ストッキング、グローブの順で袋に詰めた。母が朝食の誘いにこない。それならそれでいい。どうせおたがい、顔も見たくないのだと、さっぱりした気持ちだった。カズちゃんは小屋に顔を出さなかった。用心しているのだろう。でも、私が朝めしを食わないのをきっと気にしているはずだ。
 半袖のワイシャツを着け、学生ズボンを穿いた。抽斗から千円札を一枚つまみ出してズボンのポケットに入れた。事務所の前にカズちゃんがいて、
「これ、齧りながらいきなさい。少しは栄養になるわ」
 まじめな顔でチョコレートを渡した。
「ありがとう」
 私もまじめな顔で受け取った。
「いってらっしゃい。練習、がんばってね」
「うん。あしたのために軽く流すだけだけど」
「あしたは試合?」
「うん。中村区の笈瀬中」
「あら、私の実家のそばよ。いつか遊びにいきましょうね」
「うん。冬休みにいこうね」
「ぜったいよ」
「約束する」
 口の中でチョコレートをゆっくり溶かしながら歩く。学校に着くまでに一枚食べ切った。
 土曜の半ドン授業を受け、すきっ腹を抱えながら、二時間ほどの軽い練習で切りあげる。関を誘って、本遠寺裏のお好み焼き屋に寄り、ブタ玉を二枚と焼きそばを食った。
「レフトへ押し出して打つんじゃなくて、掬い上げられないもんかな」
「無理やろ。引きつけんと掬い上げられん」
「だよなあ。外角を掬おうとしたら、バットをこねなくちゃいけなくなるものね」
「へんなこと考えずに、ふつうに打てや。レフトに打つ必要ないやろ。打てばほとんど長打なんやから」
「うん。ベーブ・ルースを見習うよ」
 食堂に寄ると、母とカズちゃんが歓談していた。母はプイと流しに立った。
「お腹すいたでしょう。ホウレンソウのおひたしと納豆でいい?」
「うん」
 腹がいっぱいだとはいえなかった。カズちゃんはいそいそとめしを盛り、納豆を掻き混ぜた。
「あしたは試合ね。きょうはしっかり眠らなくちゃ」
「うん、一本でも多くスカウトの目に留まるようなホームランを打つよ」
 母は依怙地にタワシで流しを磨いている。一膳めしですませて小屋に戻った。しみじみと幸福だった。机に向かって、三平方の定理と、相似の応用問題を解きはじめたが、昨夜の寝不足のせいで、たまらなく眠くなる。カズちゃんもきっとそうだろう。蒲団を敷いてもぐりこみ、熟睡する。
 時分どきにカズちゃんが起こしにきた。
「きょうはつらかったでしょう」
「いま熟睡したからだいじょうぶ」
「ごはん食べたら、またすぐお休みなさい」
「うん。きのうはおふくろのことで気を使わせて、ごめんね」
「いいえ。キョウちゃんがあんなに怒るの見て、胸がつぶれそうになっちゃった。小さいころから積もり積もったものが爆発したのね。お母さんも含めてだけど、ぜんぶ〈女ごとき〉なのよ。女子と小児は養いがたし。熊沢さんの言ったとおり、怒るのはキョウちゃんらしくないわ。余計なことよ。もう、自分のことだけに邁進してね。キョウちゃんは、やさしすぎるところがあるから……。あしたその女の人に会ったら、自信を持って、自分の感情のとおりに行動してね」
「うん、わかった。晩めしまでには帰ってこれると思う。心配しないで。だれもカズちゃんみたいにはぼくのこと愛してくれないから」
「うれしいこと。さ、きょうはキョウちゃんの好物のカレーよ」
「食べたら、少しレコードを聴いて、すぐ寝るよ」
「そうしたほうがいいわ。私も早く上がらせてもらって、ぐっすり寝ることにする」
         †
 野球帽の額の白いMの字を指でしごく。鍔先から縁全体にかけて、波のような白い汗染みのあるのが気にかかる。ユニフォームを洗ったときに帽子もしっかり洗っておけばよかった。形を整えて深くかぶる。学生服とグローブをつっこんだ袋を肩に提げて表通りへ出た。日曜の午前なので、飯場のだれにも遇わなかった。お調子者の八百屋の小僧が挨拶する。
「どうや、今年のホームランの調子は」
「まあまあだよ」
「また新聞に載るのを期待しとるで」
 クマさんの社宅のそばで今川焼を二個買い、腹ごしらえをしながら加藤雅江の家の前を過ぎる。日曜日の庭がひっそりしていた。
 ―試合に全力を注ごう。一本でも多くホームランを打たなければ。
 全員、宮中のグランドに集合。スパイクの紐を結び直す。袋を忘れずに担ぐ。
「そんなもん更衣室に置いとけばええが。どうせここに戻るんやで」
 関に言われて、
「帰りに神宮前から病院へ回るから」
 和田先生がトレパン姿で登場すると、みんなでがやがやと出発した。
「様子を見てきたぞ。相手ピッチャーは、左のアンダースローだ。スピードもかなりある。打撃は大したことない」
「左の下手投げか。ちかいの魔球の二宮だね」
 私の言葉に、みんな、うん、うん、とうなずく。和田先生には何のことかわからない。
 そういえば、三年前、母がスカウトを追い返した何日かあと、小山田さんと吉冨さんに頼みこんで中日球場へ広島戦を観にいったことがあった。そのとき、球場のそばの大きな本屋で、全四巻の『ちかいの魔球』を買ってもらった。今年の春、私はそれを風呂敷に包んで、桑原の新聞屋の通りにある古本屋へ持っていった。小ずるそうな婆さんが、
「二割だね」
 と言った。千二百円もした真新しい菊判の本四冊が、たったの二百四十円。
「それでいいです」
 私はその金を受け取った。それというのも、康男の見舞いに通いつづけているうちに、へそくりが底をつきそうになってきたからだった。二百四十円くらいのお金でも、何回かパンが買える。それからも私は、社員たちの部屋から浚い集めてきたものも含めて、部屋にある本はほとんどその古本屋に売ってしまった。吉冨さんがせっかくくれた本も売った。
 神宮前から名鉄で名古屋駅に出る。電車の窓に天気雨がきた。和田先生が喜んだ。
「こりゃ、いいお湿りになったぞ」
 名古屋駅に降りると、西口に出た。雨はすでにやんで、雲間から出た太陽が駅前の並木の葉にきらきら輝いている。並木の向こうに河合塾のビルがそびえていた。
「このあたりは怪しい町筋でな、太閤遊郭と言われる有名な場所だ。大人になるまで近づいたらいかんぞ」
 その怪しさに不潔感は湧かなかった。葦の茂る川端の小船の舷に両手を突いた中年の女、その尻から覗く黒いグロテスクな襞―初めて目にしたものなのに、それほど驚かなかったのはなぜだろう。そして、カズちゃんのそれに清潔な感じを抱いたのはなぜだろう。その表情から察して、グロテスクな女の反応のほうが、清潔なカズちゃんの反応におよびもつかないように思われる。ほのぼのとした喜びがこみ上げてくる。何人かの部員は意味がわかっているらしく、顔を見合わせてニヤついている。関やデブシはキョトンとしていたが、何かの勘が働いたのか、和田先生に聞き返そうとはしなかった。
 亀島から千原町を通って十王町まで、太閤遊郭から離れるように、軒の低い道を一キロほど歩く。並木の影が、雨上がりのアスファルトの地面にくっきりとした輪郭を伸ばし、家々の軒から水滴が落ちている。陽が強くなってきた。
 笈瀬中のグランドは、宮中とほとんど同じ広さだった。私はいつものように、右翼までの距離を目測した。
 ―七十七、八メートルか。
 左翼も同じくらいの距離だ。外野全体が二メートルほどの高さの生垣に囲まれている妙に平べったいグランドで、一塁側と三塁側に二階建ての木造校舎が一棟ずつ、バックネット裏にごろりとした三階建て鉄筋校舎がそびえている。ほかに建物の姿はない。生垣の外はテニスコートになっている。コートの向こうに、背の高いビルがいくつか見える。
 笈瀬中が守備練習を始めた。信じられないほどへたくそだ。特に外野は素人の寄せ集めと言ってよかった。フライを取りそこなったり、トンネルをしたりして、目も当てられない。左のサブマリンは? 一塁側のベンチ前で熱心にウォーミングアップしている。下手投げのくせに妙にスピードがある。しかし球筋が素直なので、打ち損じることはないだろう。これなら二本はいけそうだ。
「きょうもコールドやな」
 太田が自信ありげに言い、御手洗が、まちがいない、と応える。私もそう思った。キャプテンのデブシだけは、
「こういうときが危ないんや。大振りせんと、気を引きしめていこうぜ」
 と、まじめな顔で言った。関がうなずく。関はこのごろぐんぐん背が伸びて、部員の中でいちばんのノッポになった。私より五センチも高い。筋肉もついてきた。熱田高校ではまちがいなく主力選手になるだろう。
 デブシがジャンケンに勝ち、先攻を取る。物慣れない様子の審判たちがそれぞれの持ち場につく。試合開始。
 デブシの心配をよそに、今回も一方的な試合になった。私は第一打席から一発かまして、四打席、三ホームラン。デブシも二本打ち、バットを短く持ったパンチ打法の太田までがセンターへ一本打った。野津を含めて全員安打。十三対ゼロ、五回コールド勝ち。野津が四球一、被安打二で、シャットアウトした。
 どうしたのだろう、勝利の感激が薄い。野球が遠くにある。ベンチの隅で、一人だけ学生服に着替える。汗でふくらんだユニフォームのせいで、袋がパンパンになった。
「きょうも見舞いにいくんか」
 デブシが訊く。関は黙っている。
「うん」
「寺田は幸せもんやな。神無月みたいな男に惚れられて」
 ほかのチームメイトも何も言わない。寺田康男のことを話題にするのを避けている。
「デブシは、寺田のこと知ってるの?」
「廊下で何度か見たことがある。ええ男やった」
 帰りの電車で、和田先生が言った。
「野球をして、勉強をして、欠かさず友人の見舞いもする。しかも、ぜんぶ完璧にこなす。おまえみたいなやつを、万能と言うんだ。それにしても金太郎、きょうはすごかったな。つられて中村も太田も打ってしまった」
 デブシは顔をくしゃくしゃにして、
「あんなに飛ばせるようになっとるとは思わんかった。なあ、太田」
「おお、俺なんかセンターやで。九十メートルはいっとるやろ」
「ああ、いってるな」
 と和田先生。
「先生、俺も二塁打二本ですよ」
 御手洗が目を輝かせて言う。関も、
「俺も四打数四安打、三塁打一本やで」
「とにかく、ウチの打線はすごい。感激したよ」
 先生はみんなの顔を頼もしげに見回した。
「先生、野津も褒めてやってくださいよ」
 デブシが言う。
「わかってるよ。試合を作った野津がいちばんの殊勲選手だ。きょうのストレートは一段と早かった。手もとでグイッと浮いてたぞ。本物のエースになったな」
 野津は照れて頭を掻いた。
「三回戦はいつですか」
 私は和田先生に尋いた。
「六月の中旬。再来週の日曜だ。雨天順延の場合はその翌週。瑞穂区の荻山中学校だ。楽勝だろう」
「先生が油断しちゃダメじゃないすか」
 慎重派のデブシがたしなめる。愛する野球が遠くにある。
「俺は油断してもいいんだよ。おまえたちが油断しなければな」
 名古屋駅の西口でみんなと別れ、名鉄に乗って神宮前までいった。窓の外を眺めている時間が永遠のように感じられた。何一つ完成しないままこの人生がつづいていくという、ぼんやりとした予感がした。森徹のホームランをキャッチしたときに感じた感激と正反対の、滅びの予感のようなものだったけれども、えも言われぬ充実感があった。不安のかけらもなかった。
 坂道を見やりながら、神宮前の遮断機をくぐる。今川焼き屋の前を通りかかった。一つ買って店の前で食う。きょうは今川焼きしか食っていない。好物なので何度食べてもうまい。奥の壁の時計を覗くと、一時半を少し回っていた。唇の端についた餡を掌で拭う。それからゆっくりと、滝澤節子との約束どおり公孫樹(いちょう)並木の長い坂を登っていった。
 ―ぼくはカズちゃんをこの上なく愛している。もう一つの愛情を確かめることに何の意味もない。ぼくは何をしにここへきたんだ。
 ふいに呼吸が苦しくなり、坂道以外のすべての景色が消え去って、真空のすき間に入りこんだような気がした。


         六十六 

 ロビーの椅子で外来患者たちにまぎれ、三時間待った。これほど長く人を待ったことはなかった。私は初めて人を待つ疲労を味わった。大時計の長針が三度回るあいだに、私はその何倍もの幻滅を味わった。預言者のようなカズちゃんの言葉が心に沁みた。でも、約束を守ってやってきて、あてもなくひたすら約束の相手を待つこと、それだけが英雄的な行為に思われた。だれの助言もいらないし、相手がやってこなくてもかまわなかった。だから、そこに坐って疲労していることを、だれにも告げたいとは思わなかった。
 何人かの医師や、看護婦が、私の前を通り過ぎた。ふだんと打って変わって、彼らから受けた印象はひどく淡いものだった。人の皮膚の内側に、けっして入りこもうとしない礼儀正しさ。彼らはいつもこんなふうなのだろうか。彼らは私の目的を知らずに、微笑さえ浮かべて通った。病院というささやかな共和国―壁のように取り巻く薬品のにおいの中で、医者も、看護婦も、患者も、私もまったく身内同士だった。彼らは滝澤節子の仲間だった。そして、この小さなユートピアに君臨しているのは、医者でも看護婦でも患者でもなく、病気という絆で結ばれた連帯の幻想だった。私は小さな建物の中を往来する彼らが、滝澤節子を含めて大人であることを、身内ではない立派な専門家であることを、半年の病院通いのうちに忘れてしまっていた。
 五時を回り、最後の外来患者たちが薬局で薬を受け取り、一人去り、二人去りしていった。からだが小刻みにふるえてきた。怒りや落胆からではなく、得体の知れない恥ずかしさからだった。康男を三時間もないがしろにしていたことに思い当たった。大部屋に向かおうと決意して、袋を肩に立ち上がったとき、
「キョウちゃん! きてくれてたの」
 とつぜんはしゃいだ声が上がり、廊下の端に滝澤節子の小さな白衣姿が立った。小走りにやってくる。まだ薬局は開いていて、中で看護婦や医師の顔が動いている。彼らは奇異な眼で節子を眺めた。節子は布袋を担いだ私の前にまっすぐ立ち、胸に手を組んだ。
「ごめんなさい。ほんとうにキョウちゃんがきてくれるなんて思わんかったから」
 このひとことで、私の中にかすかに残っていた滝澤節子に対する恋心はすべて消え去った。
「ぼく、約束、破りませんから」
 視線を逸らすようにして言った。
「ほんとにごめんなさい。いつきたの?」
「二時少し前です。……ちゃんとした時間の約束もしないでこんなに早くきて、ちょっと図々しかったですね」
 滝澤節子は私の生まじめな応答に驚き、愛想遣いのような微笑をこぼした。
「私が誘ったからよ。ごめんなさい。きょうは変則勤務の日でね、早出をして、昼の一時から中休みだったの」
 休憩時間のあいだに一度もロビーに出て確かめなかったということだ。
「このあと、また九時から当直。めんどくさいから仕事着つけたままで一日とおしてたんだけど、いま着替えてくるわね。九時までだいぶあるから。ちょっと待っててね、プレゼントを用意してあるの」
 私はもう一度腰を下ろした。九時まで付き合う気はなかった。
「七時までには家に戻らないと……。大部屋にいってます。康男には、ぼくが早くきたこと、内緒にしといてください」
 急いでそう言った。節子は一瞬問いかけるような視線になったが、しっかりとした口調で答えた。
「わかったわ。大部屋に迎えにいく。いっしょに神宮まで歩いてくれる?」
「いいですよ」
 康男と話をしているあいだ、私は不思議に落ち着いた気分でベッドの脇のスツールに腰を下ろし、あらためて大部屋の隅々まで見渡した。三吉一家の水屋、その上に載っている大きな花瓶、リューマチ先生の笑顔、夕方が近づいてくる大きなガラス窓。壁のところどころに赤っぽい小さなライトが灯り、磨きあげられたリノリウムの床がつやつやと光っている。何もかもふだんと同じたたずまいだった。
「セッチンがプレゼントくれるんやろ。ついてったろか」
「やめておきなさい」
 リューマチ先生が言った。
「冗談や。神無月、そのままどっかにしけこんじまえ」
「いや、六時までに帰ると言ってきたから、遅くても七時までには帰らないと」
 やがて、白地に緑の水玉を散らしたワンピースに着替え、揚げ髪を肩まで下ろした節子が大部屋に入ってきた。小脇にハンドバッグを抱え、もう一方の手に紙袋を提げている。恥ずかしそうにうつむきながら、私の傍らに並びかけて立った。十五歳の私よりも幼い感じがした。
「はよ、二人で下へいけや」
 康男が苦笑いして追い払うような仕草をした。三吉が、ヨ! と威勢をつけた。私は進まない気分で大部屋を出た。彼女のあとについて階段を降りる。
 ロビーにはもう人影がなかった。薬局も閉まって、廊下の減灯を待つばかりになっていた。二人でベンチに落ち着くと、
「これ、ほんの気持ち」
 紙袋を差し出した。縫いぐるみの茶色い頭が覗いている。
「―何ですか」
「テディ・ベア。私だと思ってそばに置いておいてね。それから、これ」
 節子の掌に一対のペンダントが載っていた。一つのハートを二つに割った形だった。
「読んでみて」
 ハートを一つに合わせて、目の前に差し出した。
「Our love is forever ……」
「一つ、持っててね」
 ひんやりとした手が私の手を取り、片割れを掌に載せた。
「気に入ってくれた?」
「はい」
 私はペンダントをシャツの胸ポケットにしまった。滝澤節子はハンドバッグから封筒を取り出した。中に便箋が一枚入っていた。私はそれを開いて読んだ。

 お誕生日おめでとう。私は、二月に二十一歳になりました。六歳も年上のお婆ちゃんです。どうかきらいにならないでくださいね。キョウちゃんにきらわれたら、私は生きていけません。ヤッちゃんだってきっとそうです。ペンダント、おたがい大切にしましょうね。これからも野球に勉強にがんばってください。こんなお婆ちゃんがずうずうしいようですが、いまはキョウちゃんのことがいちばん好きです。
   昭和三十九年五月五日                    滝澤節子


 
「きのう書いたんだけど、記念だから、日付は五月五日にしたわ」
 いまはという言葉がひどく気にかかった。私はそれを質さなかったけれども、心の中で彼女の曖昧な表現を責めた。お婆ちゃん、という自分を貶めるような言い回しも気に入らなかった。
「ありがとう―」
「来年は高校受験ね」
「はい」
 節子は近眼のように顔を近づけた。その目がうっすらと潤んでいる。
「……ほんとに、何と言っていいのかわからないくらい、好きよ。いきましょ。送っていく。またお母さんに叱られちゃうわ。キョウちゃんが叱られるの、私、つらいから」
「じゃ、踏切まで」
「そうね、踏切まで」
 受付の看護婦に挨拶して、玄関から外へ出た。小さな滝澤節子は、プレゼントの紙袋を持ち、私の歩幅に合わせてチョコチョコ歩いた。そしてときおり、こぼれるような笑顔で私を仰ぎ見た。
「肩に担いでるのは、何?」
「ユニフォーム。帰ったら、洗濯します」
「自分で?」
「もちろん」
 歩きながら彼女はこんなことを言った。
「キョウちゃんは、いくつ?」
「十五歳です」
「ちがうわ。二十一歳でしょ」
 私は戸惑って、彼女の顔を見つめた。
「きょうから二十一歳よね」
 その意味なら私は三十歳だと思ったが、はい、と答えた。
 踏切まできていた。
「もう少し送っていく」
 踏切を渡り、東門から歩み入ると、神宮の森の上に薄白い夜空が広がっていた。雲の形まではっきり見えた。
「もう少し。大鳥居まで」
「うん」
 二人無言になった。黙っていても、べつに気づまりではなかった。薄赤い灯篭に照らされた草薙の剣の祠(ほこら)が見えた。横井くんの描いた池が、暗い木群れの底でどんより光っている。私は剣を祀る御堂の手水舎に寄り、袋を足もとに下ろし、石の桶にあふれている清水を竹柄杓ですくって飲んだ。
「私も……」
 滝澤節子が私をまねた。円い背中が石桶に屈みこむ。私の口が触れたあたりに口を重ねて一息に飲み干した。一瞬、暖かい風が頬に吹いた。彼女の足もとから新鮮な命が湧き出て、円い上半身に女らしい活力を与えているようだ。そんなふうに見えることが、カズちゃんに対する裏切りのように思われた。それなのに、静寂そのものが急に意味を持ちはじめ、不思議な気持ちが胸いっぱいにこみ上げてきた。二日のあいだ凪いでいた期待がこみ上げ、からだがふるえた。私は、柄杓を下ろした彼女の背中を見つめた。身じろぎひとつしない、誘うような媚態―両腕が肩から垂れてこわばり、一刻も早く熱い指先で解きほぐされるのを待っているようだ。私は、それに触れなかった。
 滝澤節子が振り向き、私の胸に抱きついてきた。体重を移した足もとで、玉砂利が細かい音を立てた。私は不器用に両腕を拡げて、彼女の肩を巻き取るように抱いた。彼女があえぎながら唇を求めてきた。あのときと同じようにカチカチと歯が衝き合った。萌えたつような甘い口臭が鼻腔へ昇ってきた。カズちゃんと同じ、柔らかく、温かい、ふくよかな唇だった。彼女の心臓の鼓動が、はっきり私の胸板に感じられた。唇を離して節子が頬をすり合わせるときの悪寒に似た恍惚感を、私は記憶しようとした。
「いきましょう」
 ふたたび並んで歩きはじめたとき、薄暗い林越しに夜の闇が少し濃くなり、深く拡がったように感じた。私は立ち止まり、誠実な心を確認したくて滝澤節子の顔を見つめた。節子は私の視線に恥じらい、
「―お婆ちゃんよ」
「三十歳は?」
「大お婆ちゃん」
 カズちゃんに比べて、滝澤節子の世界の狭さを感じた。また並んで歩きはじめた。大鳥居が間近に迫ってきたあたりで彼女は足を止めた。踏切までの約束が、ここまで引き延ばされていた。私は彼女の様子を目の端で窺いながら、しばらく鳥居を眺めやっていた。
「ここで見送るわ」
「うん」
 私は滝澤節子を置いて歩きだした。布袋を肩に、紙袋を手に提げて彼女から遠ざかっていく自分の背中を意識した。すぐに鳥居が迫ってきた。振り返った。彼女は手を振っていた。私も紙袋を高く捧げた。滝澤節子は後ずさりをしながら、ゆらりと傾いたかと思うと灯篭の明かりにまぎれて黒い木立の中へ消えていった。
 外苑をかすめて走る車の音が回復してきた。私は鳥居の下にたたずみ、家路をたどる人びとを眺めた。私はダイヤのように輝く人びとと、森の上の静かな蒼い空を目に焼きつけた。これまで私は幾度となく空を眺めてきた。いつもそれはすばらしかった。しかし、空の深さと蒼さがこれほど暗く目に映ったことはなかった。


         六十七

 机にいると、雨がトタン屋根を鳴らしはじめた。窓の外に大粒の雨がいちどきに垂直に落ちてきた。向かいの下駄屋も煙って見えない。世界が液体の中に嵌まりこんだようだ。
 母はもう、病院のことも、康男のことも、勉強のことも言わなくなった。机の隅に載せてある熊のぬいぐるみのことさえ、何も訊かなかった。息子に聞こえるようにわざとらしく、社員たちに愚痴をこぼしていた。バカ息子に期待を寄せる気持ちが失せたこと、老後が不安なこと、そしてやっぱり、カネの話をしていた。
 吉冨さんや小山田さんたちは、適当に相槌を打ちながら箸を動かしていた。カズちゃんはうなずくこともせず、眉に皺を寄せて母の横顔を見ていた。好成績だった模擬試験のことを話して、母の鼻を明かしてやりたいと思ったけれど、どうせ秋口の進路指導のときに彼女に報告されることなので、何も言わなかった。母の言うバカの意味がわかっていたからだ。
「ごちそうさま」
 箸を置いて立ち上がる私を、カズちゃんはいたわしそうな眼で見つめた。母に止められたのか、このごろでは朝の握りめしも作らない。それでも二日に一度は、出がけに追ってきて、そっと菓子パンを差し出す。
「がんばるのよ。負けちゃダメ。キョウちゃんはまちがったことしてない。大将さんが退院するまではオトコを通してね。キョウちゃんのこと、私、いつも、ずっと見守ってるから」
 滝澤節子と夜道を歩いたことを知ったら、カズちゃんは喜んでくれるだろうか。康男からも、野球からも気持ちが離れはじめたと告げたら、どんな顔をするだろう。
「ありがとう。せいぜいがんばるよ。……とっても複雑な気持ちなんだ。カズちゃんのことを気持ちとからだぜんぶで求めてるのに、滝澤節子への態度を押し通して決着をつけなくちゃいけないような」
「よくわかるわ。キョウちゃんの心は、その人から離れないのよ。無理に振り切ることはないわ。私は飛び入りにすぎないのよ。キョウちゃんの心は縛らない。私はキョウちゃんのものだけど、キョウちゃんは私のものじゃないの。いつも見守ってるわ」
         †
 一晩降っていた雨がやんで、薄日がのぞいている。グランドはぬかるんだままにちがいない。練習に出ても、どうせ体育館を走り回るだけだ。雨のせいで荻山中学校との試合が来週に延びたので、この数日はすることがない。
 ―ズルけてしまえ。
 そう心を決めると、一日じゅうさばさばした気分でいられた。
 第二回中統模試の結果が出た。最後の授業が終わったあと、教室に入ってきた浅野からきれいな印刷活字でプリントされた成績表を渡された。県総合七位。校内二位。英語は県下一位、国語は五位。数学四十四位。理科は二年生のときの実力試験よりもかなりマシだったし、社会も平均点を多少上回るできだった。文句のない成績だと思った。この成績表を母に見せても猫に小判なので、丸めて教室のゴミ箱に捨てた。
「次の試合がウイークデイにかかったら、授業は休んでいいぞ。……もう一度スカウトされたら、いくのか?」
 浅野が尋く。
「はい」
「旭丘や明和でも野球はできるだろう。たしか、旭丘はむかし、甲子園に出たことがあったんじゃないかな」
「そうですか。知りませんでした」
 素っ気なく応えて廊下に出ると、甲斐和子が寄ってきて、
「口惜しい」
 と言って、また泣いた。県の百番にも入れず、校内では六番だったと嘆く。
「どうして神無月くんに勝てないのかしら。秋の中統では負けないわよ。覚悟しててね」
 小さい目で睨みつける。
「ライバルをまちがえてるんじゃないか? 直井と勝負しろよ。だいたい、こんなくだらないことで涙が出るか」
 甲斐はキッとなり、今回は握手を求めてこなかった。加藤雅江が仲良しの杉山啓子といっしょに軽蔑したような笑いを浮かべながら、甲斐の様子を眺めていた。加藤雅江や杉山啓子とは何カ月も口を利いていない。同じクラスにいたことも忘れている。あらためて観察すると、二人とも相変わらずきれいな顔をしていた。
 野球部をサボり、カバンだけを手に牛巻坂を登る。湿った空気が肺にすがすがしく滲(し)みてくる。ジャムパンを買う。牛巻外科の屋上に、シーツや包帯がたなびいている。ゆっくりと坂を下っていく。孫一郎の切手屋を過ぎ、信号を渡る。病院の玄関にたどり着く。早い時間だ。元日から通いはじめて、もう六月に入った。五カ月も経ってしまったことに驚く。きょうは受付に滝澤節子の姿がある。何気ないふうに頭を下げ、階段を上っていく。
 大部屋に和やかな声が満ちている。ドアを入ったとたん、ヨッ、と三吉一家が声をかけた。リューマチ先生の笑顔。私も笑顔で応える。何もかもきのうとまったく同じだ。変わったのは私の心だけで、その変化が後ろめたい。
「セッチン、熊の縫いぐるみ贈ったらしいな。ガキやねえっつうの」
「うん、机に飾ってあるけど、少し恥ずかしいな」
「捨てちまえ、そんなもの」
「できないよ。そのボールと同じだよ」
 枕もとの軟式ボールを見つめながら言う。
「これはプレゼントやあれせんで。自分で取ってきたもんや」
「でも、思い出だろ」
「チ、わかりやすい男やな。女にナメられるで」
「ナメられませんよ」
 リューマチ先生が言う。
「ほうや、あんたは女にモテる」
 三吉一家が加担する。康男は友を褒められて悪い気がしないふうに苦笑いする。
「あんた、俺の義足、見たいか。できたてのほやほややで」
「いえ、見たくありません。どんなによくできてても、もとの足のほうがいいに決まってますから。もとの足も見たくありませんけど」
「ほう、俺の水虫、見抜かれたか」
 男が豪快に笑い上げると、部屋じゅうがつられて笑った。
「お、きましたね。きょうの最後の糧が」
 ワゴン車が入ってきて、むっとする食べ物のにおいが病室に立ちこめる。私もカバンからパンを取り出す。部屋の和やかさが増す。彼らは黙々と食べるということをしない。しゃべりながらたっぷり時間をかける。飯場の人たちと同じだ。ついこのあいだまで食の細かった康男も、もりもり食べる。リューマチ先生は、そろそろあごの自由が利かなくなってきているので、付添婦に食べ物を口に運んでもらいながら、確かめるようにゆっくりと噛んでいる。食事が終わる間もなく、私は康男に声をかける。
「さあ、訓練だ」
「おお! きょうは、病院の周りをひとめぐりするで」
 三階からすぐに一階へ降り、受付にいる滝澤節子を含めた二人の看護婦に挨拶をし、ロビーを歩き、長廊下を歩き、そこから肩を貸して玄関を出る。長い舗道を周回し、玄関へ戻る。余力があるので、もう一度、一階の廊下を往復する。
「膿は?」
「垂れたり、垂れんかったりや。あとひと月やな」
「あれから手術はやったの?」
「おお、一回な。うまくくっついたわ」
「もう一回やるんだよね」
「これが厚い皮に変わったら、もうやらんでもええらしい。あと一回ぐらい、屁でもにゃあわ」
 大部屋に戻る。みんな静かに本を読んだり、ラジオを聴いたりしている。リューマチ先生は、堅いからだを仰向けてひたすら瞑想している。付添婦が引き揚げていき、そろそろ帰宅時間が迫ってくる。私の顔色を見て康男が、
「帰るか」
「うん」
「野球は、うまくいっとるんか」
「うん。公式戦に入って、もう三本もホームラン打った。いいペースだ。今年も新記録を更新できると思う」
「どっかから、話きたか」
「こない。何がどうなったのかよくわからないけど、ぜんぜんこない。高校卒業したら、テスト生でということになるだろうな」
「……勉強もしとるんやろ」
「適当にね。直井には勝てないけど、もともと勝つつもりもないから悔しくはない。あいつに勝てなくても、旭丘や明和には簡単に入れる」
「もったいなく生まれついたんやな。なんだか、自分みたいな男が生きとるのがアホらしくなるわ」
「康男はぼくより、はるかに高級な人間だよ」
「殺すぞ」
 リューマチ先生と三吉がニコニコ笑っている。
 カバンを提げた私を玄関に見送るために、康男は手すりにつかまり一段一段階段を下りた。もう八時を回っていた。階段を降りきったところで、男と女が言い争っているらしい耳障りな声を聞いた。
「嘘こけ。あの医者とできとるやろ!」
 私は康男といっしょに階段の裾にたたずみ、じっと耳を澄ました。ボソボソ呟く声に混じって、ヒヒヒ、というかすれた笑いが聞こえた。
「あんたの知ったことじゃないでしょ。やめてよ! しつこいわね」
 節子の声らしいものを聞き取り、私は驚いて薄暗いロビーのほうへ近寄っていった。男の押し殺した声の印象があまりにも下卑ていたので、言い争いのわけを知りたいという好奇心に駆られた。康男もひょこひょこ追ってきて、腕を私の肩に預けた。いつのまにきていたのか、柱の陰にいた三吉がこちらに目で合図し、義足を軽く踏み鳴らして二人を止めた。 
「ありゃ、うちのボンや。遊び人でな、何人も女を泣かせとる。ここでセッチンを落とせんと、男がすたると思っとるんやろ」
「止めんかい」
 康男が三吉の健康な脛を蹴った。
「……ワシ、もうすぐ退院や。関わり合いになりとうないんでな」
 私は胸苦しくなった。女を泣かせるという言葉の意味は、すでにわかっていた。ロビーの奥へ目を凝らすと、大時計の下の壁に二つの人影が立っている。大きな影が小さな影にぴたりと重なったまま身じろぎもしない。因果を含めている格好だ。
「なんべん言うたらなびくんや。おぼこでもあるみゃあに!」
 自信たっぷりの若やいだ声だ。聞きつけた入院患者たちが廊下に集まってきて、遠くから首を伸ばしている。悪名高い男なのだろう、みんな口々に、あのヤクザ者、とか、スケこまし、などと囁き合っている。廊下の外れから、白衣の当直医が一人首を覗かせていた。
「穀つぶしが―」
 康男が吐き出すように言い、私の肩から腕を滑り落として一歩踏み出した。足を引きずりながら大時計へ近づいていく。私は息を呑んだ。
「ヤッさん、やめとき!」
 三吉は康男の背中に向かって押し殺した声で言い、義足を宙に浮かせてピョンピョン跡を追おうとしたけれど、二、三歩いったところで、はたと立ち止まった。私は走って彼を追い越し、康男にすがりついた。一つの影はまちがいなく白衣を着た滝澤節子だった。私は思わず大声を上げた。
「どうしたの!」
「あ、キョウちゃん……」
「なんやあ!」
 箪笥みたいにがっしりした背中が振り向いた。やさしい鹿の目をしていた。恐ろしかった。康男が私の胸を手でさえぎった。男は私から康男に視線をめぐらし、端正な顔に険を走らせた。
「なんや、大部屋のイザリかや。命を大事にしいや」
「じゃかましい、くそたわけが!」
「たいがいにしとけ。ガキの相手をしとる暇はないのや。俺はな―」
「目腐れが、はしゃがんでもええて」
「なんやと!」
「ヤッちゃん、危ないから、キョウちゃんを連れて向こうへいってて!」
 滝澤節子が男の肩口から顔を覗かせて必死に叫んだ。ボンは彼女から離れて、のっそり康男に立ちふさがると、康男の顔に素早い拳を振り立てた。康男のからだがロビーの床にビシャリという音を立てて横倒しになった。次の攻撃を防御しようとする両腕をかいくぐって、喉もとにスリッパの先が突き当たったとき、康男のからだは二つに折れた鉛筆に見えた。
「康男!」
 彼は私の声に、なんでもないというふうに掌を上げて応え、両手を使ってベンチに攀(よ)じ登った。
「つつつ、つ……」
 足を押さえている。康男の怒りが私にもきた。
「コノヤロー!」
 私は男に向かってあらんかぎりの声で叫び、カバンを放り出すと、何の方策もなく突進した。足が空気を踏むようだ。あの秋の真っ白い校庭を思い出した。男は一瞬毒気を抜かれた顔になったが、すぐに無感動な表情に戻って私を見据えた。暖かいものが腹にめりこむ感触があって、私は数メートルも吹っ飛んだ。痛みのない吐き気が昇ってきた。
「このクソがきゃあ、とどめ刺したる」
 男の足が、転がった顔に迫ってきたとき、私ははっきりと、男の穿いているマンボズボンが緑に赤の格子縞なのを見て取った。額を蹴られた。あわただしい足音がして、騒ぎを聞きつけた数人の看護婦が廊下を走ってくる。滝澤節子は同僚が駆けつけてくるのを悲しげに見守っていた。マンボズボンは女たちに向き直った。



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