五十八

 部屋に戻ると、山口から電話が入った。
「品川からだと飯田橋へ国鉄でくることになる。目白通り口へ出て、信号を渡って左へ折れて、二本目の坂だ。先にいって志満金の前で待ってる」
「わかった。江藤さんといく」
「おトキさんは留守番だ。悪しからず。ギターも置いてく」
「了解」
 昼、ドアにノックの音がして、江藤が立っていた。握手。バッチリ焦げ茶のスーツで決めている。黒いピカピカの革靴。散髪もしていた。
「わざわざ、ご足労おかけしました」
「わくわくしてきたばい。タコたちに羨ましがられた。うなぎば食わんね」
「いきましょう。うなぎと聞いただけで体重が増えたような気になります。中串(ちゅうぐし)でじゅうぶんだな。ちょっと座って待っててください」
 紺のズボンに紺のブレザーを着、ワイシャツだけは替えてピンク、茶のローファを履く。フロントに鍵を預け、ホテルを出る。桜坂をどんどんくだっていく江藤のあとを追う。振り返って言う。
「四年前首位打者で表彰されたときに、駅のあたりばうろついて見つけた。品川駅の港南口からすぐのところにある『香取』ちゅう店ばい。ワシャ大串ば食う」
「ぼくもそうします。朝から食ってなかったので」
 パチンコ屋の二階にある黄緑の暖簾を垂らした大衆割烹店だった。居酒屋の構えで狭苦しいが、板前らしき男が数人いて、まじめに仕事をしているので安心する。昼どきのサラリーマン客が静かに食っている。話しかけてこないので気楽。生ビールで乾杯。ドジョウの唐揚げと炙りシメサバとホヤの塩辛が肴。どれも初めて食うものばかり。最後に出てきたうな重がうまかった。
 江藤が有無を言わさず勘定を支払う。ホテルのラウンジに戻ってコーヒー。
「ニュース特集ば観た。泣いたばい。つくづく金太郎さんが天上の人とわかる。ワシャ幸せたい」
「名古屋を追い出されたときに経験したような大きな緊張感が、この授賞式を境にまた胸の中に住みはじめたんです。でも、いまではぼくも、相当の緊張感を制御できるようになってます。しっくりしない思いを重ねながら、少しずつ、緊張感を外へ表さずに、うちに包みこむ力を養ってきましたから」
「平凡な人間に対する緊張感やろうもん。ばってん、プロ野球人になったおかげで、金太郎さんのそういう人間どもに対する反骨はとっくに不要になっとる。プロ野球界は通りいっぺんの社会やなか。社会と呼べん異常な人間の集まりたい。金太郎さんは、世の中からずっと放り出されとる人間たい。ふつうの生活から締め出されて生きんといけん人間たい。やけん、身に合った異常な世界に逃げこんだっちゃん。もう反骨やら、緊張やら、必要なか。ドキドキ生きんでよか」
 私はコーヒーをすすった。
「ぼくもそう思って、この一年野球をやってきました。でも、ドラゴンズの選手以外は異常でなかった。あの会場に水原軍団ほどの異常さを感じませんでした。顔を正視したり、人間らしい口を利いたり、人間らしい行動をしたりすると、かえって不気味に思うような人たちに見えました。……だから、あの盛大な拍手や涙に違和感を覚えました。ドラゴンズの人たちの拍手や涙と異質なものを感じたんです」
 江藤もコーヒーをすする。
「……謙虚すぎるととられたて思ったんやな。つまり嘘っぽいやつだってな。額面どおりに聴かんやつぎりやけん、そうにちがいなかて。そんなやつを見とったら怖(えず)かったやろのう。真っ正直なことを言って胡散くさく思われるんは恐ろしか。ふつうは逆やけんな。ばってん、それは金太郎さん、ちがうと思うばい。……ワシはむかし、言ってはならん上層部に、言ってはならんことを言って厄介な立場に立たされた経験があるばい。それがふつうたい。森徹も桑田武もそれで墓穴を掘った。監督に楯突いたり、フロントの悪口ば言ったりしたとよ。まだ小山オーナーでなか時代たい。上層部と衝突やらすると、自分の感情ば抑えることができんようになって、お返しに死刑のごたる宣告ば下される言葉ばつい口走ってしまいそうになるばい。それでみんな戦々兢々になるっちゃん。どのチームにもそういう雰囲気があるばい。ばってん、金太郎さんは、楯突いたり、悪口言ったりするんとはちごうとる。愛と感謝、いつでんその二つば正直に口に出す。自分を小(ちい)そう見せるクセのあるばってんが、ワシらはそれを謙虚とはとらん。平凡なやつらに気ば使うやさしさと受け取っとる。それも金太郎さんの曲げられん本質やと受け取っとる。やけん、涙が流るるったい。ドラゴンズの連中もみんなそうたい。……きのうの会場はぜんぶドラゴンズのごてなっとった。あの拍手と涙はほんものばい。正直な言葉に打たれたっちゃん。ようやく金太郎さんのことがわかったっちゃん。あの会場は、金太郎さんに惚れとるドラゴンズそのものやった。金太郎さんは王者たい。何をしゃべってもよか」
「……江藤さん、ぼくはあなたを、そしてあなたのおっしゃることを心から信頼しています。でも、ぼくは王者ではありません。小川さんも小野さんも危うい目に遭いました。大事なときに何の救済の言葉も言えませんでした。八百長選手はその有能さに関わらず、どんどん追放されていきます。これにも、何の感想も言っていません。この世界を仕切っているのは、持ち上げられる側ではなく、持ち上げる側です。何から何まで、彼らが言ったりしたりすることで規制されています。それを無視することは、彼らに挑戦することと同じことになります。それがわかっているので、言えませんでした」
「いや、言った。ぼくもやめようかなて言った! 冗談でも言えん言葉たい。あのひとことが健太郎と小野さんを救ったとよ。八百長ばするやつらには何も言わんで当然たい」
「信じます。……これからは勇気を持って生きることにします。江藤さんのおっしゃるとおり、怖がらずに、これまでどおり自由にしゃべり、自由にやろうと思います」
「おう。ワシらの大将が堂々としとらんと困る。もうよかね? 憂鬱なことはなかね?」
「……金の問題が解決できません。きのうの授賞式も金まみれでした」
 江藤はコーヒーを飲み干し、
「最後に贅沢な悩みが出たばい。くれるちゅうものは、もらっとけばよか。金は生活に必要なものばってんが、金太郎さんは、しゃにむに金をつかもうとムキになったりせん。その金ば資金にして、ゼニ儲けに半口乗るやら一口乗るやら卑しいことを考えん。必要なだけ手に入ったらやめとこうちゅう自動制御装置が頭に仕組まれとるんやろうなあ。物欲の代わりに金太郎さんには野球への深か情熱があるし、生甲斐ば感じることをやりたいちゅう強か欲望がある。金太郎さんが毎日の生活で大事にしとることは、素朴で清らかな生き方をするちゅうことしかなかけん、ワシらにそれに似た性質ば発見したとたんに、抱き締めて、いっさい文句なしに受け入れる。……ワシはそういう単純な人間信頼に最初面食ろうた。ワシには考えもつかんものやった」
 きょうも江藤は涙を流した。
「そんな美しか人間に、金の問題なんかどうでんよかこったい。くれるだけもらって、好きにしたらよかっち。だれも不思議に思わんし、嫉妬もせん。どうせそんなもんは人にくれてやっとうちゃろう。みんな知っちょる」
         † 
 四時にホテルを出た。江藤に大沼所長の手紙を見せながら歩く。
「よか人たちやのう。あれからもう三年も経ったごたあ気のするばい」
「いつもなつかしいです。江藤さん、きょうの予定は?」
「ホテルに一泊して、朝早く名古屋に帰る。大幸にいって、健太郎と秀孝の自主トレにチョイ付き合うことになっとる。金太郎さんは寝とればよかけん」
「今夜はおたがい早寝をしましょう」
「おお」
 品川から山手線で秋葉原に出、総武線で飯田橋までいく。
「江藤さんも、ときどき憂鬱な顔をするときがありますよ」
「……芸能人との付き合いばすっぱりやめたけん、女房の風当たりの強か。小野さんみたいに、ワシはひょいひょいあげん世界は乗り切れん。三女の手が離れたら……ち思うちょる」
「離婚ですか」
 江藤は無言で笑った。福岡へ遊びにいけないなと思った。
 五時十五分前。国鉄飯田橋駅で降り、目白通りの信号を渡って左折し、外堀通りを南へ歩く。ビル街に射しこむように坂道がある。一本目、軽子坂。二本目、神楽坂下の信号にぶつかる。一軒一軒見て歩きたくなるような商店の並ぶ坂道だ。登りはじめて一分もしないうちに『志満金』の軒看板の前に出る。看板の下に垂れる黒い長暖簾に〈かぐら坂志満金〉と白く染め出されている。暖簾の前に山口が立っていた。しっかりギターケースを提げていた。
「神無月!」
「山口!」
「おひさしぶりです、江藤さん!」
「山口さん、なつかしかな!」
 三人で固い握手。戸口に出てきた和服姿の女店員に案内を請い、海月亭という個室へ導かれる。通路の壁のPR写真を見ると、鰻で有名な店のようだ。
「こちらでございます」


         五十九

 三和土(たたき)の鞘廊下で靴を脱ぎ、襖を開けたとたん、大拍手がきた。大沼所長を上座に、飛島さん、三木さん、山崎さん、佐伯さんがテーブルについてこちらを見ている。
「キョウちゃん!」
「江藤さん!」
「山口くん!」
 私たち三人は所長の左右の下座に招き寄せられ、三人とも肩を叩かれ、手を握られた。みんなの目に涙が浮かんでいる。所長が、
「キョウ! 三冠王おめでとう! いやあ、ますます石原裕次郎だな!」
 飛島さんが、
「ご足労でした江藤さん! 荒武者のご活躍、七十本塁打おめでとうございます!」
 江藤が深く頭を下げる。三木さんが、
「山口さん! ピッタルーガ優勝おめでとう!」
「ありがとうございます」
 佐伯さんがギターケースを見て、
「山口さん、倉石功そっくりですよ! きょうは弾いてくれるんですね」
「神無月が唄うことがあったら」
 江藤が膝を折り、
「みなさん、本社栄転、おめでとうございます」
 所長が、
「ありがとうございます。栄転と言うほどのものでもないんですよ。次長が部長になったくらいのものです」
 飛島さんが、
「なったくらいって、建築統括部の部長じゃないですか。正真正銘の昇進です。もう何年もしないで取締役でしょう。私なんか経営企画部のペーペーのままですよ」
 山崎さんが、
「帝王学、帝王学。俺は名古屋支社に栄転だ。土木技術部の係長。大出世。ここで止まってもいいや」
 三木さんが、
「私も土木営業部の係長に昇進したけど、せめて課長にはなりたいなあ」
 私は、
「佐伯さんは?」
「私はただの転勤です。建築設計部の平社員。気楽ですよ」
「プロ野球は、監督、コーチ、あとはぜんぶ平社員です。平社員を一軍と二軍で区分けしているくらいで」
 江藤が、
「そこはチョッと気楽でなかところですがね」
 大沼所長が上座から頭を下げ、
「いやあ、あらためて、江藤さん、山口さん、よくいらしてくれました。キョウ、きてくれてほんとうに感謝する。これで記念すべき第一回の飛島ファンクラブ会食会、つつがなく開くことができます。きょうは飲んで食べて、笑って騒ぎましょう」
 山崎さんが私を見つめて、
「キョウちゃん、磨きがかかったなあ。磨いてくれたのは女だろ。百人ぐらい斬ったか?」
 と山崎さん。
「いえ、まだ、ほんの……」
「ほんの五十人か。ウハハハ。俺はまんまとつかまって、名古屋定住の一穴になっちゃったよ。江藤さんは、いかほど」
「港町の数ほど」
 笑いが弾ける。三木さんが、
「キョウちゃん、きみの顔をときどき思い出しては、人に不良と呼ばれる男の本質みたいなものを考えたよ。結論。すべからく、人は不良たるべしだな」
 所長が、
「三木、キョウはそう呼ばれただけで、不良だったことはないんだぞ。こいつは真っすぐなんだ、ひたすら真っすぐだったんだ」
「はあ、重々承知してます。不良と呼ばれるべし、と訂正します」
 飛島さんが、強く私の手を握り、
「きみのえらさが、時間が経つにつれてわかってきたんだよ。巌(いわお)のように堅固な人間だとね。よくあの逆境でがんばったものだ。いや、スイスイとやってる感じだったな」
「うじうじと自分にこだわってきました。いまもそうです。こだわってきたという思い出だけにすがって生きてるようなものです」
「それを堅固と言うんだよ。自分を信頼し、だれにもなびかない堅固さだ」
 江藤が、
「そうたい、ワシらの大将やけんな」
 佐伯さんが遠慮がちに、
「キョウくん、きみはぼくの理想なんだ。いつもきみのことを頭に浮かべて、自分なりの努力をしてきた。そして、ようやく第一目標を達成できた。ありがとう」
 山口が、
「俺の代弁をしてくれました。まったくそのとおりです」
 江藤が、
「金太郎さんはワシのお守り札たい」
 所長が、
「言い得て妙ですね。私らにとってもそうです」
「そのとおり!」
 佐伯さんがビールをついで回り、みんながコップを掲げる。山口が江藤と顔を見合わせ、
「肌身離さぬお守り札であると同時に、永遠の恋人でもありますね。定期的に生身のからだが恋しくなる」
 ドッと笑いが立ち昇った。ビールが十本ほどやってきた。
「おい、飛島、乾杯だ」
「はい! 私たちの永遠の恋人、かつお守り札であるキョウちゃんの現在と未来の幸福を願って、それからここにいらっしゃる江藤さんと山口くんの現在と未来の幸福も願い、ならびにわれわれの邂逅の不思議を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
 私はグラスを掲げてお辞儀をした。飛島さんと佐伯さんがついで回る。私は目の前に差し出された所長のコップにゆっくりついだ。所長は江藤のコップにつぎ、江藤は山口のコップについだ。所長が、
「江藤さん、キョウは天使のように幼稚で無学でしょ?」
「はあ、天然たい。いっちょん、てらっとらん。何か訊くと、知っとることなら滝のごつ答えよる。そん点で無学とは言えん。きのうの授賞式のごたる大勢の前では、気配りばキツうして、だれよりもじょうずに謙虚なこつばしゃべる。そん点で幼稚とは言えん。にもかかわらずばい、驚くほど幼稚で無学の雰囲気を芬々(ふんぷん)とただよわせとる。おっしゃるとおり、天使です。ワシらの救い神です」
 料理がポツポツ運ばれてくる。
「お、料理がきた。食べましょう。おねえさん、ビールを五本、二合徳利を五本ほど持ってきて」
 先付は色の濃い豆腐と雲丹だった。横合いから山崎さんが、
「ま、あれだな、鳶が鷹を産んだわけだから、キョウちゃんの母ちゃんは眺めてるしかないな。そうでしょ所長、いや部長」
「所長でいい、所長で」
 上役を階級で呼ぶのはサラリーマンが心しなければならないことのようだ。
「佐藤さんは、キョウが鷹だってことに気づいてないんだろう。自分と同じ鳶だと思ってるから、黙って眺めてられないんだよ。そうやってことごとく、キョウの道を塞いできたんだ。野球も、友人も、女も」
 飛島さんが、
「芸術の才能だけは見落としたようですね。幸いなことに、これはじゃま立てされなかった。―五百野はすごい」
「あれはバリすごかものばい。近いうちに野球の世界からさらわれて遠くへいってしまうんやなかかて、恐ろしかごつなった」
 山口がうれしそうに、
「うれしいですね。手放しで神無月の文章が称賛される日も近い」
 所長が、
「ホンモノだからね。幼稚で無学の人間しかホンモノの芸術作品は創れない。江藤さん、さらわれていくんじゃなく、羽が生えて飛び立っただけです。野球場の上空を遊泳しながらね。江藤さんや水原さんたちが球界を去ったら、自分の部屋の机に舞い降りますよ。それは遠方じゃない」
 私は真剣な顔で、
「飛び立つというのは象徴的な意味で言ってくださってるとよくわかります。球場を去ったら、晴耕雨読の場所に腰を落ち着けることになると思います。雨読はよしとして、問題は耕すほうですが、所長の言うような芸術作品の創造活動というより、文章修業に明け暮れることになるでしょうね」
 前菜に車海老のかぶと焼き、それから鮭の燻製、じゅんさいの椀物の順に出た。三木さんが、 
「ぼくは芸術家じゃないって言いたいんだろう? 新聞記事読んだよ。ぼくは小説を書いてるんじゃない、作文を書いてるんだって。キョウちゃんのまことしやかな冗談が始まったって思ったよ。本人は冗談と思ってないところが怖い。自分の立ち位置の認識がないんだからね。だれがキョウちゃんの芸術の才能を疑うもんか」


         六十

 ひとしきり五百野を肴に七人の男たちが盛り上がる。みんな和やかな夢を見ている。彼らの考えとちがって、造形芸術以外の芸術は、むかしから富裕階級や知識階級の所有物と決まっている。暇と学問を必須にする。私には、そんな階級に属したいなどという希望はさらさらない。私はたしかに、かつて詩を書いて生きていきたいと思ったことがあった。しかしその希望は速やかに凋んでいった。私の才能不足がそういう欲望のレベルを下げさせたというだけでなく、たとえそんな大それたことを考えたとしても、過去の天才たちを眺めやると、天地がひっくり返ってもできる相談ではなかった。
 私のしてきたことは散漫とした読書だけだった。それこそ雨読で、学術的に読みこんだわけではない。しかし怠惰なりに直観的な読書のおかげで、私は、芸術家の生活と、自分が暮らしを立てようと努めている野球人の生活とのあいだには、大きな隔たりがあることを体感するようになった。その感覚は日増しに確信に変わっていった。
 芸術生活は、集団が徒党を組んで庇い合うスクラム生活で、いったんその集団に属してしまえば、鍛練の利いていない造りものすべてが傑作と認められる甘えた防衛体制の中に安住するものだった。恐怖も緊張も不安も覚えない平穏な体制。そこまで甘えを許すということは、集団に属すためのたった一度の手続が、極め付きに煩雑で、一部の作家たちが認めるあらゆる〈才能〉の定義をクリアしなければならないからだった。
 野球生活は……自分の存立基盤を自分で築き上げ自分で防衛するしかない、恐怖と緊張と不安がないまぜになった孤独な生活だった。じつに単純で、まやかしのない〈才能〉オンリーの世界だった。だれかに認められるのではなく、万人に認められるために、球が遠くに飛び、球が速く通過し、球が的確に処理されねばならなかった。たった一度ではない適切できびしい鍛練によって防衛をうまくつづけられた場合だけ、集団の中に安住できた。芸術家集団は一度の煩雑な認定に基づいた永続的な保護を旨とし、野球人集団は連続する検分に基づいた排斥を旨としている。かつて私はこの事実に気づかず、まったく逆のものに誤解していた。だから野球を芸術と錯誤することさえあった。
 どちらが肌に合うか、考えるまでもなく明らかだ。私には野球しかない。ひょっとして躓いて、これを取り落としたら、私の前半生はそれで終わりになる。そのあとにいったい何があるか? 侘びしい衣食住の生活しかない。作文? 文章鍛練? 私はただ独りで書きたい〈傑作〉を書きたいだけで、集団に保護されて書きたくない〈駄作〉を書きたいわけではない。書きたいものを書くなら時間は腐るほどある。そういう生活は野球生命を終えてからでもじゅうぶん満喫できる。
「一度キャッチボールをしたことがあったけど、まともに受けられなかったな。素振りもバットがブンブン鳴るんでたまげたよ。会社のチームに入ってくれって誘ったことがあったよな。いま思うと、恥ずかしいね」
 三木さんが人のいい微笑を浮かべて言う。こういう話が、一瞬の高みにいる私に見合ったものだ。才能のあることを褒められているからだ。江藤が、
「ばってん、そぎゃんチームに入っても、金太郎さんは見境なく打ちよるばい」
 大沼所長が、
「ポロリと佐藤さん本人が言ったことがあった。スカウトを何度も追い返したって。まるで天才扱いなんだから、呆れましたって。名古屋市のホームラン記録を二度も三度も更新したわけだから、天才そのものなのに、どういう根拠からかわからないが、わが子にかぎってそんなにすぐれているはずはないと思ったんだな。残酷なことだよ。そばにいる人間の才能を見抜けなかったり、軽視したりするのが身内というものだ。親は子供を尊敬しているくらいがちょうどいい。そのとき野球をやりつづけてれば、キョウの人生は多少変わってただろう。たぶん高校を二年生で中退して、スムーズに野球人生に入れた」
 飛島さんが、
「多少変わってたんじゃなくて、野球人生があのとき終わったんですよ。ふつうの人間なら百パーセント終わってました。しなくてもいい転校をして、しなくてもいい受験勉強をして、受けなくてもいい大学を受けたんですからね。その中のどの一つを背負わされたって……まあ、ふつう、ツブレてますね。多少進路を変えることですませられたのは、キョウくんの並外れた才能と努力あってこその話でしょう。ねじ伏せたんですよ」
 山崎さんが、
「所長は、あと一年分たくさんホームランを打ってたと言いたいんだよ。そういう単純な足し算でいかなかっただろうってことは、所長にもわかってる。潰れなかったこと自体が奇跡だからな。まあ仕方がない。少し遅れたけど、いまのままホームランを打ちつづけるしかない」
 江藤が、
「背中が凍りつくごたるな」
 山口は私にビールをつぎ足し、呟くように、
「死にたくもなる。……死ななくてよかった。おかげで俺もいま、ここに生きてる」
 私は半分ほど飲み、だれにともなく、
「正直、十四、五歳のころ、野球を忘れた時期があります。忘れようとして忘れたんじゃなく、自然と野球が消え去ったんです。何と言うか、人生のいろんな関心事の中で、それほど高い位置を占めなくなったんです。分際を見失ったんですね。周囲の人びとの励ましのおかげですっかり分を知り、野球を取り戻せました」
 山口が、
「……つらいな。本人には明瞭な意識はないんだろうが、どこかで気を使ってそういうふうに言わなくちゃならないのがつらい。野辺地に送られたころ見た悪夢の話をフッとおまえがしたことがあった。ホームランを打って目覚めたら、泣いてたって。おまえが野球を忘れた時期なんかなかったんだよ。周りが励ましたんじゃない。自分で野球を取り戻したんだ」
 江藤が、
「山口さん……金太郎さんの言うことは、人に気ば使っとるんやなく、正真正銘、額面どおりやとワシは思うばい。偽りのなかところやろうもん。ばってん、口に出ん真実は山口さんの言うとおりたい。おふくろさんの仕打ちがなければ、所長さんのおっしゃったとおりになっていたことはまちがいなかところやと思います。……楽しく野球ばやろうちゅうのは、金太郎さんがいき着いた命懸けの言葉たい。ドラゴンズの連中はみんなそれがわかっとう。……ただ、どれほど才能があってどれほど努力ばしても、金太郎さんのしょっちゅう言う〈マグレ〉がなかりゃあ、思いは遂げられん。……金太郎さんのツキのダメ押しは、水原さんが迎えにいったことばい。監督が水原さんでなかったら、金太郎さんばふつうの鳴り物扱いばして、杓子定規に二軍にしばらく置いて、猛練習ばさせて、一軍起用はかなり遅れたやろのう。そうこうしとううちに、やっかみやら、いやがらせやらで、金太郎さんはムカッ腹立てて野球ばやめとったかもしれん。昨シーズンまでのドラゴンズはひどかったですけんね。東大のワンクッションがあったことと、水原さんが新監督になったことがダメ押しになったとです」
 所長は、
「ふうん、なるほどねえ、こんな天才にもマグレは必要なんだねえ」
 佐伯さんが、
「去年お母さんが、こっそり見せてくれたことがありますよ。大学野球の新聞記事の切抜きをね。これ東大? という見出しでした」
 うんうんと大沼所長はうなずき、
「東大をやめてドラゴンズに電撃入団したとき、おばさん、がっかりしちまって、しばらくだれとも口も利かなかったんだが、俺は、そんなのは凡人の未練だと説得したよ」
 山口が訝しげな顔をした。がっかり? 未練? 江藤も山口の横顔をするどい眼で見ている。所長たちにはわからない母の心理だ。ガッカリしたのは、私がドラゴンズに救い上げられたことなのだ。
「たしかに、ふつうなら、せっかく入った日本一の大学を捨てるなんてことはとうていできないな。しかしキョウにとっては、東大なんざ屁でもないんだ。いやなものはいや、好きなものは好き、それこそ天才の特質だとおばさんに言ってやった」
 山口も江藤も小さく笑っている。何も話す気はないようだ。三木さんが、
「いい大学出て、いい会社に勤めたほうが、平坦な道を歩けると思ったんでしょう。それもまた、一種の愛情じゃないですかね」
 愛情!
「俺はそう思わんぞ、三木。単純に比べてみろ。プロ野球選手と、サラリーマンだぞ。東大どころの話じゃない」
 飛島さんが、
「プロ野球選手に、プロのギタリストか、錚々たるもんだなあ。才能のある人間が妨害されなければ、マグレなんか要らないのにね」
 山口も江藤も相変わらず笑っていた。鯛、まぐろ、ミル貝の刺身が出てくる。山崎さんが、
「ミル貝の刺身か、食ったことないぜ」
 三木さんが、
「俺たちもだよ。なあ、飛島」
 佐伯さんが、
「飛島さんは食い飽きてるでしょう。何度か連れてってくれた店は高級店ばかりでしたから」
 山崎さんが、
「俺たちも連れてけよ」
「いや、佐伯さんの二級試験の直前と合格のときに、二度ほど。高級店というのじゃなくて、家庭料理に敵うと思った店だけです。たいがいの店は家庭料理に敵いませんから」
 所長が、
「ここも飛島が予約したんだぞ」
 たけのこと蕗の煮物といっしょに、鰻の蒲焼がきた。山椒をたっぷり振り、箸で割って食う。めしがほしいなと思っているところへ、ナスの一本漬け、車海老の天麩羅、鴨のはさみ揚げ、ほたるいか、ソラマメが出てくる。みんな独酌でもりもり食っている。めしがほしい。
「おねえさん、これじゃ足りんな。幕の内、八人前」
 心の内を読んだように大沼所長が言う。
「あとで浅蜊めしが出ますけど。幕の内は量が多いですよ」
「あ、そう。じゃ三つにして」
 佐伯さんが、
「もっともっと、みなさんといろいろな話をできるように、技術畑以外の勉強もしなくちゃいけませんね。野球、音楽、文学、美術、いろいろ勉強しなくちゃ」
 山口が、
「人に会いたいという気持ちだけでじゅうぶんじゃないでしょうか。俺こそ、何の教養もなくて、みなさんに気を使わせてしまって」
「ワシもただのボンクラやけん。勉強て言わるうとつらか。……頭の中身を探り合うんやのうて、ただいっしょにおるちゅうんが大事なんでなかかな」
 飛島さんが、
「すばらしいことをおっしゃいますね。いっしょにいたい者同士でなければ、ここまで心を一つにできなかったはずです。こんな会合、ふつうじゃありません。感謝してます」
 大沼所長が、
「そのとおりですな。魔法ですよ。どの世界に、こんなざっくばらんな、わだかまりのない会合をするサラリーマンがいるもんか。それもこれも、キョウというカスガイのおかげだな。キョウはね、いわば俺たちの一粒種なんだね。それをこうしてかわいがってくれる人がいる。その人たちと心を開き合ってあたりまえだ」
 飽くまでも所長の頭には私しかない。母の裏心を知らないことなど取るに足らない。江藤と山口の微笑みが信頼に満ちたものになった。
「佐伯、ちゃんとものを食え。おまえはどうも飼葉食いが悪い。そんなこっちゃ現場で馬力が出んぞ」
 佐伯さんが箸を速くした。江藤が声高に笑った。
「本社はどちらにあるんかのう」
 三木さんが、
「九段です。おととし新築しました。それまでは川崎にありました。技術研究所もおととし厚木に完成しました」
 山口が、
「九段なら、ここからすぐですね」
「飛島寮が川崎と下北沢にあるので、めいめいそっちへ帰ります。川崎に帰る佐伯は飯田橋から地下鉄と国鉄を乗り継いで四十分、下北に帰る私と飛島は国鉄と私鉄で三十分ですね。山崎は九段の本社に泊まるでしょう。所長は本郷の自宅へタクシー。十分もかからないんじゃないですかね」
 山崎さんが江藤に、
「プロ野球選手は食うんでしょう」
「はあ、食いますね。相撲取りほどではなかですが、食います。ただ、食わんばて自覚せんと食えまっせん」
「ぼくもキャンプあたりから自覚して食いはじめました。おかげで空気を入れた風船の先みたいにヒョイと伸びました」
 山口が、
「俺より四、五センチ大きくなった。手が小さいな」
「こればかりはね。足は二十八センチになった」
 江藤が、
「山口さん、手が大きかなあ」
「はい、ギターを弾くには便利ですよ」
 幕の内弁当が届けられる。盛りつけの量が半端ではなく、みんなで皿に分け合って食う。山口は一人前、そっくりめしをもらった。
「山崎、子供はまだか」
 三木さんが声を投げると、
「励みすぎでな。一向に気配がない」
「外で励んでるんじゃないのか。飛島みたいに」
 飛島さんが、
「ぼくは内も外もありませんよ。励む相手がいません」
 すかさず三木さんは、
「帝王は励まなくていい。そのうち据え膳だけでもたいへんなことになる。せいぜい蓄えとけ」
「何をですか」
「カマトト野郎!」
 大沼所長が、
「いや、飛島、若いころに励みすぎると、俺みたいになる。世継ぎができなかったらたいへんだぞ」
「正直、励みたいですよ。チャンスがない」
 山崎さんがガハハと笑い、
「キョウちゃんは養子になりそうもないから、佐伯、おまえ養子にいけ―というのは冗談で、部長、ほんとに子供がほしくなったら言ってください。俺がよそで作って、お譲りします」
「おまえの子供なんかいらないよ。キョウがよそに作った子供をもらう。キョウ、困ったことになったら、俺に相談しろ。そっちも引き受ける。本気だぞ」
 江藤と山口が本格的に笑った。



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