六十四

 抱き寄せ、キスをする。
「神無月くんは、何でも自然。お風呂入りましょう。汗かいたでしょう」
 風呂の蛇口をひねりにいった。汗はかいていなかったが全裸になってソファに横たわる。戻ってきた黒屋も恥ずかしがりながら、するする脱ぐ。豊満な胸が揺れる。見つめていると黒屋も私の陰部を見つめ、
「キャ!」
 手で口を覆う。
「へんだろう」
「はい……。触っていいですか」
「うん」
 亀頭を撫でたり握ったりする。
「すごい……」
「黒屋さんも立派なおっぱいだ」
「ふつうです。神無月くんはいつも私のこと、黒屋さんて呼びますけど、きょうからはアカリって呼んでください」
「うん」
 黒屋は私に寄り添い、しみじみと見下ろし、
「怖いです。こんなの、入るんでしょうか」
 指先で触る。
「簡単にね」
 上から包みこむように握る。私は黒屋の乳首にしゃぶりついた。
「あ、神無月くん、そんな、か、感じる、だ、抱き締めて、ああ、もうだめ、イク!」
 抱き締めると、ガクガクとふるえる。加藤雅江を知っているので驚かない。
「敏感だね。イッちゃったんだね?」
「は、はい……」
 下腹を絞っている。ソファに仰向けにして脚を広げて見ると、大きなクリトリスが包皮から呼吸するように出入りしていた。
「きれいなオマンコだ。ちょっと入れてみるよ」
「……はい」
 開いている股間にゆっくり挿し入れる。
「ああ、神無月くん―」
 と言ったきり、反応はない。
「中はだいじょうぶのようだね。でも、いつ爆発するか、危ないな。とにかく、風呂にいこう」
「はい……」
 黒屋の腋を抱いて風呂へいく。湯が溜まっている。ちょうど二人で浸かれるほどの浴槽だ。黒屋と抱き合って入る。キスをする。
「ああ、神無月くん、好き」
「後ろから」
「はい」
 黒屋はすぐに立ち上がり、尻を向ける。私も立ち上がり、黒屋の尻に性器を向ける。
「入れるよ」
「はい」
 黒屋は私が進入していく感覚をじっと測っている。
「入り切った……」
「あああ、神無月くん! イ、イク、イクイク、イク!」
「一秒……」
「ああ、神無月くん、イク!」
 私はアクメを繰り返す黒屋の尻をむんずと握った。
「だめえええ!」
 自分から尻を離すと、のめって湯殿に手を突き、腹と背中を伸び縮みさせる。私はそのままの姿勢でふたたび挿入する。胸や尻や脇腹を触ると達してしまうので、どこも触らず腰だけを一定の深さと速さで前後させる。
「ああ、神無月くん、うれしい。ずっと夢見てたんです」
しばらくすると脈動が始まり、かすかな収縮が数秒つづいた。
「か、神無月くん、大好き、私……気持ちいい……」
 深く、深くに切り替える。収縮の頻度と強さが高まる。
「あ、ああ、気持ちいい、好きです、とても好きです、私、イキそ……」
 奥を強く連続で突く。
「ああああ、気持ちいい! あ、イッちゃう、イクイク、イック!」
 グンと尻を突き出してから、引き戻し、私を吐き出した。
「あ、だめだめ、イク、神無月くん、イク!」
 手を湯殿に突いたまま尻を振り立てる。私は黒屋を前向きに抱きかかえて挿入した。口づけをしたとたんに黒屋が反射的に強く緊縛し、射精を誘った。私の膨張を感じたのだろう、
「神無月くん、好き! 死ぬほど好き、イク、いっしょに、いっしょに、ううう、いっしょにイク!」
「あかり、イクよ!」
 吐き出す。黒屋は夢中で私の口を吸いながら、両手を縄のようにして抱き締める。
「好きい! イイックウ!」
         †
 ソファの下に敷いた蒲団に肩を並べて横たわる。
「女って、ものすごく強く感じるんですね。知りませんでした。イッたあとは、からだじゅうの細胞が洗われたようになります。神無月くんのセックスって、ぜんぜんいやらしくない……。ふつうの男だといやらしいんです。自分だけ気持ちよくなろうとして、意地汚いから」
 胸を吸う。
「神無月くん……」
「もう、イカないだろ?」
「ほんとだ。イキそうになりません」
「いちばん強い快楽を知ったからだよ。これで一人前だ」
「なんだかとってもうれしい。大事に抱かれたっていう清潔な感じ。神無月くんに抱かれると、みんな神無月くんの女になっちゃう理由がわかります。……私たちも神無月くんのために一生懸命生きなくちゃって気持ちになる。……きょうの学長や学生たちを見ていてわかりました。残酷です。人を大事にしない。……私、許せなかった。泣いてしまいました。学者の道を進まない人、政治家や役人の道を進まない人、資本家の道を進まない人、そういう人をいくらこき下ろしても許される―」
「彼らには使命があるんだよ。すぐれた種を存続させるという使命がね。優秀な者同士で繁栄するという使命がね。そのためには残酷にならなくちゃいけない。……ぼくには無理だ。残酷になることに意味を見出せない。だれも傷つけたくない」
「天才というのは、茨の道を歩くんですね。道はきちんと目の前に伸びてるけど、茨が敷かれてる道」
「その道を歩くのは、この世で暮らさなければならない愚者のサダメだよ。愚者で生まれたことにきちんと引け目を感じて、いつも笑ってないとね。引け目があれば突けこまれるけど、従容と受けなくちゃ。命を取られそうになったときだけは抵抗するか、逃げればいい」
「愚者だなんて……心にもないことを言わなくちゃいけないのが悲しい」
「心から思ってることだよ。彼らは完璧で、ぼくは馬鹿だって。社会の先鋒でない人はみんな愚者だ。悲しいね。その自覚が悲しいからこそ、人間の真の友である芸術を理解できるんだ。賢者が芸術を理解できないのは、自分が完璧だと知ってるせいで悲しくないからだよ。学問や政治や経済は芸術じゃない。ぼくには理解できなくて、彼らには理解できるものだ」
「芸術家そのものは?」
「愚者でもなければ賢者でもない。人間の魂を潤す真の友だね。エセでない芸術家は神と言っていい。神は油断を許さない。油断した人間の魂は潤さずに奪ってしまう」
「油断……人間を愛さないこと……わかります。油断した魂は神に奪われる。―神無月くん、あのとき、泣いてましたね」
「愚者だけど、愚者が喜ぶ才能を一つ持って生まれてきて、それを愛してくれる愚者たちがいて、彼らの愛に感謝できるって思うと、しみじみ幸せだったんだ。賢者は賢者を幸福にする。社会ではかしこいということそのものが才能だから、ほかに才能は要らない。愚者も愚者を幸福にしなくちゃ生まれてきた甲斐がない。ただそのためには、才能を枯らしちゃいけない。愚かでいるだけでは才能と呼べないから」
「私も愚者ですか?」
「勉強ができたり、立派な肩書をつけるだけなら、賢者と呼べない。愚者を軽蔑する生活方針を持ち、その方針で突き進むなら賢者だ。もし、あかりが賢者に軽んじられる生き方をするなら、まぎれもなく愚者だ。ほかの愚者たちを慰められる才能があるなら、愚者の中のエリートだ」
 黒屋は私の腕を強く握った。
         †
 翌二十五日火曜日。七時半起床。絹のような雨が降っている。黒屋の用意した新しい歯ブラシで歯を磨いた。
「……何百万円もする高級注文服(オートクチュール)のデザイナーを目指してたんでは、愚者のエリートにはなれません。高級既製服(プレタポルテ)も高すぎます。せめて既製服で庶民の女性を幸福にする方針を立てなくちゃ」
「有名なデザイナーに弟子入りするって話は?」
「やめます。お金持ちのための仕事ですから。ワコールとか、オンワードなどふつうのアパレル企業に就職して、デザイナーの道を歩みます。来年は四年生。夏までには内定をとってご報告します」
 近江屋という洋菓子屋でコーヒーを飲み、チョコレートエクレアとモンブランを食べた。
 九時に本郷三丁目の改札で別れた。北村席での四月の再会を約した。
 丸ノ内線のホームのベンチでボストンバッグを膝に抱えながら、女を回る順番を思い巡らしているうちに全身が疲れてきた。ただ、今回でしばらく東京に出てこれないことを考えると、疲れたなどとわがままを言っていられない。
 ―ネネは、オープン戦のときでいい。サッちゃんは、子持ちの女中と充実した生活をしながら、大学院での勉強に励んでいる。ある意味幸福のいただきにいるので、ソッとしておきたい。河野さんと菊田さんと福田さんだけは励ましてあげて、とトモヨさんに言われたけれど、サッちゃんはオミットすることにする。セドラのアヤ。一晩泊まってやりたいのは彼女だ。セドラから御殿山に出かけていくのがいちばん好都合だろう。
 本郷三丁目から丸ノ内線で終点の荻窪に向かった。眼鏡をかけた。鈴下監督の萎れた肩が浮かんだ。足早に去っていった克己たち。
 ―心新たに、心新たに。新しい発見をするつもりで。やさしい心に流されること。 
「神無月だぜ」
「そうか?」
「まちがいねえよ」
 網棚にあった週刊誌を手に取る。表紙は『ファニー』。
「あんなことするか?」
「しねえな」
「三冠王がこんなところで、朝っぱらから雑誌拾ってねえだろう」
「だな、似たやつもいるもんだ」
 無事通過。灯りチラチラのトンネル。轟音。週刊誌に目を落とす。アフロへアの女とチワワ二匹。69年芸能界ベスト10。吉永小百合・布施明・森田健作・黛ジュン……。あっと驚く70年フレッシュ予想、冬を楽しく暖かくすごす生活特集、コタツにあたって恋占い、お母さんもわかってくれない新しい愛と性、ゲストコミック北島洋子『恋のアラアラ・カルト』。棚に戻す。
 四谷で一瞬地上に出る。緑とビル。すぐトンネルへ。目をつぶる。眠りこむ。ピンポーンの車内ベルが二度鳴り、終点荻窪着。北口へ出、トシさんの新築の不動産屋を右手に見流して、アーケードに入る。四面道の交差点まで往復する。石手荘にはいかなかった。
 東西線で吉祥寺に出る。井之頭公園のベンチに座り、セドラにいくかどうか迷った。それどころか、シーズンオフにという約束をした御殿山にいくかどうかさえ迷った。
 命の使いどころ―。その身勝手が彼女たちの幸福ならば私は手を差し伸べる。釈然としない思いに囚われ、すぐにはセドラにいかず、冷えのきついベンチで考えこんだ。命の使いどころなどと気張るのは、私の本心だろうか。命の使いどころ? 言葉よりも先にセックスをすることが? 私がこれほど女たちを案じ、応えようとするのは、好色からではなく(愛情は増したが、からだの反応や仕草には好奇心が減衰した)、肉体を等閑視されている彼女たちの日常を気の毒に思うからだ―たぶんそうだ。しかし、ひょっとしたら、関係を断つことが原因となって不本意にいがみ合うことが鬱陶しいからではないか。いがみ合いの気塞(ふさ)ぎから身を守るためではないか? 好奇心から遠い肉体だけの接触をこれほど思い巡らすのは、悩みだしたら泥沼となりかねない痴情のもつれとやらを遠ざけるためではないか?
 早晩私の不品行は世間に知れるだろう。それは私の望むところだけれども、彼女たちの望むところではない。誠実な恋人と信じた男と誠実に楽しんできた逢瀬に、放蕩と自堕落の烙印を捺されるなぞたまったものではない。そんなことになれば、これまで後ろめたいこともなく穏やかに流れてきた彼女たちの人生が一挙に汚穢にまみれる。それこそ私が何よりも恐れることで、きょう逡巡している気分の正体だ。彼女たちは、安定を保証されない暮らしの中で、私とおぞましい行状を繰り返す自分に幻滅し、どうにかして私と袂を分かちたいと思うにちがいない。袂を分かつことができたら、彼女たちは心の底から安らぐだろう。


         六十五
 
 ―せっかく疎遠になった女を訪ねるのはやめよう。人生を懸けて近づいてくる女だけを愛し返そう。
 私のこれまでの人生が誇大宣伝の連続だったとしたらどういうことになるだろう。じつは幼いころから悲しい思いなどしてきたことはなく、あらゆる人たちにちやほやされてきたとしたら? 針の先ほどの不運を気の毒に思ってもらえるにちがいないと考え、大勢の人たちに自分の不運の一部始終を語って聞かせ、庇護してくれるようにいじましく持ちかけたとしたら? いかにもその年ごろにふさわしい天真爛漫な様子で、自分の境遇を説明したとしたら? 狡猾に、自殺までして見せて? しかしそれは事実ではない。もしそうなら、私は、庇護を持ちかけた相手のことなどほとんど憶えていないことになる。私は私を庇護したすべての人の顔と名前を憶えている。
 どれほどひどい悪行(あくぎょう)にも栄華がついて回ることがある。放蕩と堕落の汚濁にまみれても、世間の人びとが幸福と呼ぶすべてのものが人生にみなぎることがある。そういう残酷で有害な真実に私は不安を覚える。もし私がそういう人間なら、彼女たちは私をけんもほろろに追い返すべきだ。
 これ以上どう考えればいい? 誠実な女たちがこれ以上私に踊らされてはいけない。これ以上苦しんではいけない。私の罪がもたらす彼女たちの幸福は錯覚にすぎない。罪悪で成功した者にはかならず懲罰が下されることを、それに自分が連帯責任をとらされることを彼女たちは直観している。そして、微笑みながら慄えている。そう考えるべきなのか。
 ―はたして私は、そして彼女たちも、そういう人間なのか? いま私が結論を下したとおりの人間なのか? 私も彼女たちも罪人なのか? 
 わからない。ただ、私という存在は彼女たちの舞い上がるような幸福の素ではなく、しんしんと積み重なる恐怖の素になっているのはまちがいないところだ。始末におえないのは、彼女たちがいるかぎり、私には十全な幸福感と感謝の気持ちがあり、その異様な人間関係にまったく恐怖を覚えないということだ。あたりまえだ。社会に殉じない人間に恐怖がもたらされるはずがない。社会認識と恐怖は同義語だからだ。
 たしかに、私は幼いころから、得体の知れない倦怠に冒されてきたので、人より徒手空拳の気分には慣れている。彼女たちがいなくても身をよじるほどのさびしさはなく、彼女たちを基盤にした幸福感というものもない。しかし、これほど深刻な心理的総括をしようとするときにも、カズちゃんだけはそこから外されている。カズちゃんとは長短に係わらず、地の果て、空の果てまで、ともに歩いていこうと決めている。彼女は私にとって、社会の人ではなく、天上の人なのだ。彼女は常に私の〈総決算〉の外に存在しつづける。
 ―カズちゃん以外の女たちに手を差し伸べてはならない。肉体の一瞬の幸福を永遠の愛と錯覚するような女に手を差し伸べてはならない。一本の枝を断ち切ることにし、そうして、もう五本の枝も、十本の枝も断ち切ることにする……平和な〈社会生活〉の保証をしてやるために。
 なんと安易な結論だ。まるでテレビの別れのドラマだ。幹が供給する栄養源を断ち切られた枝の悲哀、自立の困難さ、根付く場所もなく枯れていくばかりの行く末が黙殺されているドラマ。平和な〈社会生活〉をどうやって送れと言うのだ。精神を病んだほんものの罪人が考えそうなことだ。私の小さな倫理観がそんな無慈悲な考えをひねり出したとたん、幹の心臓であるカズちゃんに寂寥の冷風が吹く。カズちゃんの心臓がさびしく冷えれば本体の私も冷える。
『それが、皿まで毒を喰らおうとしてキョウちゃんを愛した恋人たちに贈るプレゼントなの? 彼女たちは私なのよ。安穏とした社会生活を望んでいないことなんか、わかりきってることじゃないの。彼女たちの不幸のもとだった不本意な人生からの〈蘇生〉はどうなるの? 蘇生した人間が恐怖感など持つはずがないでしょ。キョウちゃんを寄る辺にする彼女たちの幸福? それは彼女たちが自分なりに築き上げるものよ。口出しする必要なんかないわ』
 園灯が点き、公園に夜が訪れた。二時間も座っていただろうか。からだが芯まで冷えている。池の面に皺が寄り、頭上でヒノキの枝が風に戦ぐのを見つめながら、私は踏ん張るように決意した。
 ―どの枝も断ち切らない。
         †
 大きく笑いながらセドラのドアを開けて入る。男女半々の客が六、七人いる。カウンターにいたアヤが目を見開き、短い叫びを上げた。
「神無月さん、いらっしゃい!」
 手のひらでカウンター席を勧めた。
「ほんとかよ!」
「よ、三冠王!」
「MVP!」
「ママさんの友だちだと言ってたけど、ほんとだったのか!」
「えらい美男子だな!」
 私は笑顔を崩さずに席についた。アヤはまぶたを拭い、ビールとグラスを出す。
「でかいわー、あんた」
「百八十三センチです。プロでは上の下です」
「大学時代、セドラの常連だったって?」
「はい、よくギターを聴かせてもらったり、タダ酒を飲ませてもらったりしました」
 アヤは私たちが和むままに放っておき、ただニコニコ笑っている。しきりにまぶたを押さえる。きてよかった。くるべきだった。
「東大のお荷物みたいなことを学長に言われたんだろう? 夕刊フジに載ってたぜ」
「当たらずと言えども……。破壊者とは言わなくても闖入者ぐらいには言われた気がします。じつはよく言葉の意味がわからなかったので、ピンときませんでした」
 女の客が、
「新聞で大騒ぎしてるわよ。また神無月悲しい仕打ち、って」
「ぼくは日本の権威ではなく、一介のプロ野球選手にすぎないんです。抵抗できない力もあります。でも冷たい風より、温かい風のほうが強く吹きますから、めげることはありません。恵まれすぎた人生です」
「飲め、飲め」
 ビールをつがれる。アヤが焼きうどんを炒めにかかる。
「来年、三億円だって?」
「そうですか、想像もつきません。ぼくは球団の傭兵です。くれる報酬はもらう、くれない報酬はもらわない。雇われれば働くし、クビを切られれば去ります。大勢のプロ野球人みたいに抵抗はしません。ただ望まれて野球がしたいだけですから」
「きれいごとに聞こえないのがすごいところだぜ」
 焼きうどんが出る。うまい。
「うまそうに食うなあ! こんなものがうまいか」
「うまいです。愛情がこもってますから」
「おい、ママさん、愛情だってよ」
 アヤはまぶたを拭い、
「愛情も、しょっぱい涙もぜんぶ入ってます」
 別の女の客が、
「あなた好きなのね、神無月さんのこと。叶わぬ恋よ。倍も年がちがうんだし」
「わかってます。むかしから勝手に片想いをしてただけですから」
「野球選手というのは、芸能人とか資本家の娘とかと結婚するんだろ。九十パーセントそうだって話じゃない」
「ぼくはだれとも結婚しません。女が両手に余るくらいいるんで、身を固める暇がないんです」
「両手か! おもしろいなあ。百人でも驚かないけどさ、ふつう有名人て、一人いても隠すもんだぜ」
「それは自分が有名人の意識があるからですね。何百万人の人びとに愛されているという思いこみです。ぼくは有名人の意識がありませんから、失う名声もないということになります。愛してくれる人はダイヤモンドのように貴重です。セドラのママさんは、ダイヤモンドの一粒です」
 ウッとアヤが嗚咽した。拍手が上がった。
「いい男だなあ! やっぱり天馬だわ。地上のもんじゃない」
「俺、ファンになった!」
 また別の女性客が、
「週刊誌に書いてあったわ。神無月さんのファンて、意外と少ないのよね。ファンレターもドラゴンズでいちばん少ないんですって。私のお友だちに尋いても、好きだって言う人はめずらしいのよ」
「へえ!」
「人間だって思ってないんじゃないの」
「神さまか? 神さまにファンレターは出しにくいよなあ」
 アヤが、
「だからこそ、恋してあげないと、神さまがさびしがります」
 ビールをつぐ。ピーナッツを出す。ほかの注文の料理に立つ。
 それからも客たちは二十人ほど入れ替わった。私はボストンバッグを持ってしだいに隅のほうの席へ移っていき、最後は奥のボックス席に座って、ときどき客たちに手を振られながら、十二時の閉店までいた。こういう同席者のやりすごし方もあると知っておもしろかった。グラス七、八杯のビールを飲んでいたが、アヤが適当な間隔で軽いつまみを差し入れてくれたせいで、まったく酔わなかった。
         †
 アヤが表の看板の明かりを落としてボックスに戻ってきた。
「ザッと洗い物をしてるあいだ、もう少し待っててね」
「うん。きょうは泊まるよ」
「ほんと! うれし。ウィークデイだったから、お客さんが少なくてよかった。土曜日曜は四、五十人はくるのよ」
 テープを回す。ジャズバラードが流れ出す。
「いいなあ。だれ?」
「ジョニ・ジェイムズ。リトル・ガール・ブルー」
「一九五○年代だね」
「そう、五十五年」
「ふうん、こういうことに巡り合うたびに、いつもアヤを見直すよ」
「出会って一年ね」
「そうか。アヤと遇ったのは十一月だったから、あれから一年経ったのか。誕生日は十月二十四日だったね」
「憶えててくれたのね」
「世界大恐慌」
「ふふ……。三冠王おめでとう」
「ありがとう」
「神無月さん、なんだかとてもやさしい雰囲気になったわ」
「うれしいね、ほんとなら」
「ほんとよ」
 テープを入れ替える。私の『叱らないで』が流れ出す。
「もう何百回も聴いたわ。だれにも聴かせないの」
「ジョギングと脱毛は?」
「脱毛はもうしなくてもよくなった。ジョギングは、お昼に井之頭公園周りを欠かさないようにしてる」
「相当スマートになったものね。グラマーのままだけど」
「神無月さんに逢うのがたった一つの生甲斐だから。……疲れてない?」
「だいじょうぶ。絶倫だよ」
「……首尾一貫した人ね。……コロコロ変わるわけないわね、神さまだもの」
「不道徳な神さま」
「神さまが道徳を作るんでしょう?」
 皿とグラスを拭いて棚にしまい、テープを止めた。
「お風呂入りましょう」
「うん」
 裏戸を開けて階段脇を通り、奥の風呂場へいく。アヤが服を脱ぐと、驚くほど美しい肢体が現れた。陰毛も品よく整えてある。すばらしい。思わず歎息する。みんな懸命に生きている。大きな湯船に浸かり、口づけをしながら胸を揉む。
「愛してるわ……。授賞式をニュースで観て感動した。会場の人たち、泣いてた。もちろん私も泣いたわ。……きてくれると思わなかった。……うれしい」
「今度はオープン戦で東京にきたときだね」
「すぐね。たった三カ月の辛抱。でも都合つかなかったら無理しないでね」
「うん。無理しないことに決めたんだ。人は別れさえしなければ、いつでも逢える」
「別れないわ」
「そうさ。男と女が別れようと思うのは心が濁ってるときだ」
「……悩んだのね」
 肩にしがみつく。ゆっくりと跨ってくる。
「苦しめたくないと思う気持ちが傲慢だって気づいた。そんな簡単なことになかなか気づかなかった」
「そうよ、苦しまなくちゃ恋じゃないもの。どれほど離れていたって、どれほど逢わなくたって、別れるよりまし。あああ、神無月さん、好き!」


         六十六

 十一月二十六日水曜日。九時に起きた。七時間の睡眠。まだ目覚めないアヤの額にキスをし、寝床から抜け出して服をつける。昨夜、私がウトウトしだしてから、一階で長いこと物音がしていた。カウンターの細かい後片づけやら、ホールの掃除やら、売り上げの計算をしていたのだろう。
 安心したように熟睡している顔に微笑みかけ、そっと部屋を出た。ボストンバッグを持って御殿山へいく。サッちゃんにつづいて法子のマンションに寄る予定もオミットした。
 きょうは水曜日。あらかじめ知らせていなかったので、玄関が閉まっている。公園通りにいって武蔵野に入り、雅子に電話する。
「あら、寄ってくれたんですか! 菊田さんといっしょにすぐいきます。三冠王と満票の最高殊勲選手、おめでとうございました」
「ありがとう。満票だったのか」
「はい。終わりなき伝説の道ですって」
 電話を切り、カレーを注文する。マスターは眼鏡をかけている私に気づかない。焦げ茶色のスパイスの効いたカレーだった。
 玄関を開けると、トシさんと雅子と二人、笑い崩れながら土間に迎えに出た。雅子が、
「お風呂立てておきました。菊田さん、いっしょに入って洗ってあげてください」
「はいはい」
 さっそく二人、裸になって湯殿に入る。トシさんは私のものを握り、
「あら、ベットリ。活躍してきました? 赤くなってますよ」
「うん。二人」
 トシさんはタオルに泡を立て、
「よく立ち寄ってくださいました。一度和子さんから電話あったんですよ。いろいろ道草を食ってからそちらへいくだろうから、よろしくって。午後には法子さんがきますよ。だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶ」
「名古屋の新しいお店のそばに、四LDKのマンションを買ったんですって。そこへポツポツ荷物を送ってるみたいです。あとひと月で東京とさよならだからって。……さびしくなるわ」
「雅子が落ち着いたら、ときどき名古屋に遊びにくればいいよ」
「そうします。私たちもいろいろ忙しくなりますけど、年に一度は遊びにいきたいわ」
「サッちゃんも何年かしたらくると思うよ」
 全身に石鹸を丁寧に塗りつける。
「お腹は?」
「武蔵野でカレーを食べてきた」
「それだけじゃだめですね。すぐ用意します。一時間もすればできますから。東大ファンクラブの学長のことは話に出さないようにって和子さん言ってましたけど、福田さんは、郷さんはぜんぜん気にしてないはずだって」
「そうだね、気にしてない。褒められたと思ったくらいだから」
「ま! 鈍感」
「そう、鈍感。まず、敏感な花びらを舐めてから」
「はい」
 トシさんは私の石鹸を洗い落としてから、浴槽の縁に腰を下ろす。
「もう、何百回目かしら」
「数え切れないね」
 やさしく舌を使う。すぐに花びらが全開する。
「ああ、キョウちゃん、もうイキますね、う、イク!」
 独特に動く尻を抱き寄せ、背中をさする。トシさんは尻を向ける。
「入れてください」
 挿入する。
「ああ、ズーンていい気持ち、愛してます、ああ、好き、死ぬほど好き、私、もうイキます、イク、イクウ!」
 背中をさすりながら、
「トシさんは八十歳まで現役だね」
「遠慮します、皺くちゃなからだでみっともない、でも七十までは、あ、あ、あ、イックウ!」
 そっと抜いて、湯船に浸かる。痙攣から解放されて落ち着いたトシさんがアダっぽく笑いながら入ってくる。
「きょうもたくさんイケそうだね」
「はい。出さなかったんですね」
「うん。もう少し溜まってから」
「すごい技! いつも感心します。女のために生まれてきたよう」
「男のほとんどがその原則を忘れてしまう。ぼくもしょっちゅう忘れそうになる」
「……思い出してくれてありがとう。朝ごはん食べたら散歩しましょうか」
「いいね、まず井之頭公園」
「はい。紅葉がきれいですよ。イロハモミジ、桜、ケヤキ。桜の葉も赤くなるんです」
「イチョウやメタセコイアもあった。黄色く色づくね」
「紅葉の見ごろは十一月中旬から十二月上旬。いまがちょうどいい時期です。御殿山もクヌギとナラでかなり見映えはいいんですけど、色づく時期が早いので、もう終わってしまいました」
 トシさんより先に出る。キッチンテーブルに落ち着くと、菅野から電話が入った。
「トロフィーと賞状と小切手はすべて届きました。しかるべく取り計らいましたので安心してください。ついさっき読売新聞がMVP獲得について電話取材をお願いしたいと言ってきたんですが、どうします?」
「いいですよ」
「御殿山の電話番号は知らせてないので、×××―××××に電話をしていただけますか」
「わかった。このあいだの朝日は掲載雑誌を送って寄こしたの?」
「はい。三冊。報酬も振りこまれて、きちんとしてました。日経と読売は悪評が高いですよ。威圧的な態度、コメントを使ったかどうかをいっさい知らせてこない、掲載された場合ももちろん掲載紙を送ってこない、報酬ゼロ。東京新聞だけは例外だそうです」
「ふうん、なんか危険な感じだけど、いちおう電話してみるよ」
 トシさんが風呂から上がってきて雅子と台所に立った。私はすぐに電話をかけた。十回鳴らしてようやく受話器が上がった。
「中日ドラゴンズの神無月ですが」
「ああ、神無月選手、何かご用ですか」
「ええ? 何か用って、電話取材をしたいと申しこんできたのはそちらでしょう」
「ああ、そうでした。MVPについてご意見があるなら伺いたいと思いますが」
「記憶があるだけで、意見などないです。質問には答えます」
「その前に、この取材はボランティアですから、謝礼はお出しできませんし、掲載紙もお送りできません。謝礼や掲載紙を請求されるなら、コメントは要りませんので、もうけっこうです」
「はあ?」
 頭がおかしいのか? ここで切っても菅野の面子はなくならない。しかし、もう少しがまんしてみよう。
「金なんかいりませんよ。……もうけっこうですって、腹立てさせようとしてるわけ?」
「いや、そういうわけでは。―MVP獲得の夜、家族とどんなお祝いを」
「家族はいません」
「お母さんがいらっしゃるでしょう。連絡なさらなかったんですか」
 事情を知って訊いているな。
「疎遠になっていますから。飛島建設の社員たちと、江藤さんと、ピッタルーガで優勝した山口が祝ってくれました」
「ピッタルーガ? 今年の成績は二度と達成できないと思いますか」
「思います」
「自信がないと?」
「……自信のあるなしに関わらず、目覚ましいことは人生一度きりです」
「希望に燃える少年たちの前で、その言葉を言えますか」
「少年たちはそんな質問をしてきません。まんいちしてきたら言います。その一度きりを目標に毎日鍛練するようにと」
「パリーグMVPの長池選手は涙を流しましたが、神無月選手は流しませんでした。その心境は?」
「こんな賞より、ホームラン一本の爽快感のほうが貴重です」
 何も言わずに切ってしまった。この間、四、五分。じつに気味の悪い取材だった。二度と読売の取材は受けまいと思った。それから四、五分もしないで菅野から電話がきた。
「コメントを掲載しないことにしたそうです」
 そう言って大声で笑った。私も思わず声を上げて笑った。
「じゃ、あした帰ります」
「はい、お待ちしてます」
 トシさんたちに取材の話をしているうちに、豪華な食卓ができ上がった。
「石川県の岩牡蠣です。郷さんは生が嫌いですから、蒸しました。お酒を少しかけてあります。レモンを絞って熱いうちに食べてください」
 絶品だった。キンキの焼き物。ニンニクと塩胡椒が効いている。これまた絶品。ホウレン草のお浸し、レタスとブロッコリーのサラダ、白菜の浅漬け、ナガイモの味噌汁。どんぶり二杯のめしを食った。彼女たちも茶碗二膳のめしを食べた。
「雅子、いましておく?」
「すぐイッてしまうので、どうしましょう。いま菊田さんに出したばかりでしょう? もう一度出すのに長くかかって、郷さん、つらいんじゃないかしら」
「出してないよ。雅子にも出さない。すぐ抜いて、午後にとっておくから」
「はい!」
 テーブルに手を突いたので、スカートをまくって後ろから入れる。下着をつけていなかった。
「ああん、郷さん、気持ちいい、もうだめ、もうだめ! うん、イク!」
 あっという間だった。もう一度アクメに達したところで抜いて、椅子に座らせた。トシさんが口で私の後始末をする。そのあいだに雅子は下着をつける。
 三人で井之頭公園に出かける。林檎と柿と果物ナイフを紙袋に入れた。眼鏡をかけ、ランニングキャップをかぶったので、だれにも気づかれない。トシさんが立派なカメラを持った。
「不動産屋の必携品。けっこうじょうずなのよ」
 公園通りから園内に入り、トシさんは南北をつなぐ七井橋の上からさっそく私一人をパチリ、雅子と並べてパチリ。噴水の向こうに弁財天を眺め、雑木林の紅葉を見ながらゆっくり散策。落葉の絨毯が柔らかい。井之頭池の周りをゆっくり歩いて十五分。ほどよい距離だ。
 見かける木や草や花の名前を頭に浮かべる。かつては、雨の降らない日など、重たい牧野植物図鑑を手にこの公園を歩いて回ったものだ。水気を含んで黒く固く締まった遊歩道を歩きながら、園内の植生をかなり覚えた。樹木は梅から始まり、アカシデ、桜、メタセコイア、サザンカ、アオキ、朴(ほお)、ムクノキ、ナラ、ヤツデ、棕櫚まであり、花は躑躅、ハナミズキ、ハコネウツギ、ヒメカンゾウ、キンラン、アメリカイワナンテン、エビネ、シャクナゲ、ミヤコワスレ、イカリソウ、ナルコユリ……。
 ―ばっちゃは何者だったのか。
 あれこそ、知恵者というものでなかったか。こんな木や花も、指を差して問えば、たちまち答えたものだった。しかし、私がばっちゃをなつかしむのは、彼女の知恵のせいではない。彼女が人間を愛する者だからだ。トシさんが知り合いの六十九歳の〈現役〉の女の話を雅子にしている。
「勇気づけられる話ですね。私たちばかりでなく、郷さんも元気でいてくれないと」
「そりゃそうよ。キョウちゃんあっての物種だもの」



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