七十

「……菅野さん、楯と賞状、ファインホースに飾ってくれましたか」
「ちゃんと飾りました! 賞金が一千万近くありましたよ」
「北村席の運営の資金にしてください。かならず」
 女将が、
「そうしましょうわい。ありがと、神無月さん。そう言われて貯まったお金が、もう何千万にもなっとるよ」
「ちょっとしたことに役立つはずです」
 ソテツが、
「お昼にしましょう!」
 近記れんや木村しずかたちがビールを運んできて、座敷にいつもの雰囲気が戻った。トモヨさんとキッコが私のそばから離れない。主人が、
「授賞式のスピーチが新聞に載っとったわ。相変わらずすばらしいもんやった」
 ソテツが、
「でも謙遜すぎます。王選手の四倍もホームランを打ったんですよ。自分をただの人みたいに言って。だからファンクラブの学長さんもあんなふうにつけあがってしまうんですよ。威張ってほしいとは思いませんけど、自分を無理に隠そうとするのだけはやめてください。私、口惜しくて」
 菅野が、
「値引きされたくらいでちょうどいいんですよ。正札見せたらだれも近づけなくなっちゃうでしょう。神無月さんを気楽に長生きさせるには、あれでいいと割り切って、みんなで協力しましょう」
 睦子が、
「謙虚な性格と誤解されたかもしれませんけど、郷さんは期待されたくないだけの人なんです。期待されると応えなければいけませんから、煩わしいんです」
 千佳子が、
「これ以上期待してないって言うか、もともと何も期待していないのは私たちだけだから、神無月くんは私たちのそばにいてくれるんです。それだけで私たちには満点ですから」
 キッコが、
「ほんまや。おるだけでええわ」
 おさんどんが進み、箸が鳴りつづける。トモヨさんが、
「煩わしくても、期待に応えられる可能性の高いものは重荷にならないのよ。ヒットやホームランを打つとか、〈作文〉を書くとか、歌を唄うとか、苦労しないでできるものはね。世間で出世と言われるものはぜんぶだめ。可能性はあってもそうなりたくないから」
 優子が、
「世間で出世しないなら、世間の後援はいらないということですね」
 キッコが、
「ほうよ、そういう自分を愛してくれる人たちの後援なら受けるゆうんは理屈に合っとるわ。世間は出世せん人を相手にせんけど、キョウちゃんを愛しとる人は出世なんかどうでもええもん」
 菅野が、
「そういう理屈ですか! 無償で愛してくれる人にしか甘えないというのは。……たしかに理屈に合ってます。私たちは、神無月さんがこうしてプロ野球で活躍しているのを出世と思っていませんものね。楽しく遊んでくれててうれしいだけですものね。なるほど世間の細かい期待がからだに貼りついたら、煩わしいだろうなと思います」
 私はごちそうさまをし、ふたたびグ縁側でローブを磨きだす。トモヨさんとキッコが貼りついている。
「何も心配しなくていいから。ぼくはほんとにいくところがないんだよ。カンナは?」
「イネちゃんが看てくれてます。……私、ゾッとしたんです」
「ぼくがいなくなったらって?」
「はい。もう私、オシマイだなって」
「……くだらない意地を張っちゃったね」
「いいえ、よくわかります。郷くんはお祭りが嫌いですから」
 菅野が縁側へやってくるのと交代で、トモヨさんとキッコはようやく主人夫婦のところへ立っていった。
「いまの神無月さんの状況は、世間の人から見たら大した出世でしょうが、神無月さんには何ともないことなんでしょうね。そんなことより後援会のほうに神経を尖らせちゃうわけですからね。価値観が世間とまったく逆です。私たちが世間に歩調を合わせたら、神無月さんはクタクタになっちゃう。これからはじゅうぶん気をつけます」
「かえって気を使わせちゃったね。意気揚々と帰ってくるべきところをシンネリ帰ってこられちゃ、調子狂っちゃうよね。さあ、いつものペースに戻ろうかな」
 菅野といっしょに、主人たちのテーブルへビールを飲みにいく。女将が、
「お疲れさまやったね。グルッと周ったんでしょう?」
「はい、一通り。三カ月ご無沙汰することになりますから。一人素通りしたのが気の毒でした。大学院の勉強で忙しいと思って」
「ははあ、上板橋のかたですな」
「はい、九月に入学したばかりですし、子持ちの女中さんと暮らしはじめて、生活を新鮮に感じてると思って」
「そういう生活を見守りたいという気分ですな。ま、しばらく北村に腰を落ち着けて、切り抜きを読んだり、テレビ観たりしながら、ノンビリしてください。来月はたいへんだ」
「受賞会場がいちばん疲れました。それと、東大ファンクラブ。東大は来年からいかないことにしました。ハッキリ断りました」
「あれはひどいですなあ。インテリ以外は何の価値もないみたいな言い方でしたな」
「ぼくの母もそうです。あれがもう一つの世間です。ぼくの好む世界は、名もなく、知恵もなくです。飛島の会合は、心のかたまりでした。江藤さんといっしょにいって、感激しました。不定期ですが、飛島のほうには出るつもりです」
「あの人たちは、人間の中の人間ですからなあ。宝物をきっちり宝物扱いする。ドラゴンズのかたたちもそうです」 
 昼食を終えたころ、式台の電話が鳴り、ソテツが小走りにやってきた。
「中日スポーツが、電話インタビューよろしいでしょうかって」
 すぐに菅野が立っていって電話口で、
「先日の読売の不届きはお伝えしたとおりですが、中日さんは信頼しております。今後も中日新聞関係のインタビューは、一週間前にインタビューの予約を入れてくだされば極力お受けするようにいたします。ただきょうはあまり長くならないようにしてください。この数日いろいろ忙しかったので疲れておりますから」
 菅野は私を手招きし、受話器を渡した。
「あ、神無月選手、お疲れのところを申しわけありません。読売の件、聞きました。言語道断ですね。うちの社内でもすごい噂になっておりますよ。ご安心ください、うちはけっしてそのような無礼は働きませんから。対価も相応以上のものをお支払いいたします。ではさっそく、プロ一年目を振り返っていただいて、少しばかり質問したいのですが」
「どうぞ。具体的な質問にしてください」
「わかりました。まず、ご自身のからだに関して、この一年でいちばん気をつけたことは」
「基礎鍛練です。高校や大学よりも高いレベルでスタミナをつけることを心がけました」
「プロ野球選手となって感じられたことは」
「球場の美しさ、歓声の大きさ」
「印象に残っている試合は」
「六月七日、甲子園、阪神六回戦、第一打席、若生投手から打った六十九号、場外ホームランです」
「秋季キャンプのご予定は」
「筋肉鍛錬、ランニングなどのメニューは、基本的に足りているので参加しません。このインタビューは潤色されませんか?」
「はい。今年開発された留守電装置を使っておりますので、おっしゃられたまま活字に起こせるようになっております。では次に、三振を喫した投手を憶えていますか」
「江夏さんの二回。そのほかは忘れました」
「外野守備は難しいですか」
「とても。特にラインドライブの目測はたいへんです」
「日々心がけていることは」
「体重をもう少し増やすこと、そのためによく食べること」
「仲のよい選手は」
「ベンチメンバー全員。とりわけベテラン選手を深く尊敬しています」
「水原監督にひとこと」
「倒れてのち、やむ。監督にはすでに申し上げてあります」
 カンナをおぶったトモヨさんと、睦子と千佳子が連れ立って直人を迎えに出る。主人と菅野と三人で野球の話になる。
「宇野ヘッドコーチと太田コーチが、中日新聞のインタビューに来年の練習方針とローテ方針のことを答えとりました。練習は〈半分〉方針やそうです」
 菅野が、
「春キャンプの練習時間を他チームの半分に切り詰める、公式戦試合前のバッティング練習時間を半分に切り詰め、余った時間は柔軟やジョギング等に充てる、守備練習時間は従前のとおり。短時間のうちに効率よく練習して、必要以上に長い練習から生じる疲労を避けるのが狙いだそうです」
「思い切ったね」
「いわく、持てる力のすべてを練習に注ぎこもうとするのは愚の骨頂だ。それは疲れを増すだけで、試合での集中力を失わせる結果を招く。特にシーズン後半にその悪影響を生じる」
 主人が、
「太田コーチは、よほどのことがないかぎり先発投手をリリーフに起用しない、これは断固として守ろうと思う。ちなみに、バッターボックスに立った打者を細かいサインで縛らず、できるだけ自由に打たせる、ミーティングは基本的にやらない、などと言ってます」
 菅野が、
「すでに『甘い』という批判が出ていて、その代表的なものが広島の根本監督と、来年から内野守備コーチで入る広岡で、プロ野球チームを率いる管理者には基本的な『型』というものがあり、それは〈猛練習〉と〈細かい指導〉という必要不可欠なものだ、中日の『型破り』のやり方は甘やかし以外の何ものでもない、と言ってます」
 主人が、
「中日に対する批判の中には、水原監督は〈捨てゲーム〉を作るという点を指摘するものもあります。水原さんは最大のライバルであるジャイアンツとの三連戦でも、すべての投手陣を注ぎこむというような戦法を断じて用いませんでした。そのことが一部の人たちには彼が手を抜いているように見えたんです」
「そのとおりじゃないんですか。それでいいと思いますよ」
「はい、水原さんもこの種の批判にそう応えてます。野球で最も大事なのは愛好の情熱だけれども、ある程度はその情熱を理性的に確率の予測のほうへ向けなければならないこともある。勝つパーセントが極端に低いときは、是が非でも勝ちにいくというような試合運びをするのはナンセンスだと反論しました」
 がやがや直人たちが帰ってきた。
「おとうちゃん!」
「よう直人、ただいま!」
「さんかんおう、さいゆうしゅうせんしゅ!」
「そうだそうだ。うれしいか」
「うれしい! イネしゃん、おやつ!」
「はいはい」
 千佳子も睦子もホットケーキ作りに厨房へ入る。
 四時半。中番のアヤメ組が帰ってきた。百江、丸信子、三上ルリ子がいる。めいめい私におめでとうございますを言い、座敷にくつろいだ。すぐ直人がじゃれついてくるので、三人はやさしく頭を撫でて厨房へ避難した。直人が尻を追いかける。ソテツが、
「神無月さん、お電話です」
 小山オーナーから直々電話が入った。十二月中旬に予定していた契約更改を、今月の二十八日、つまりあしたに繰り上げたいと言う。
「あしたの予定はだいじょうぶですか」
「はい。でもどうして早まったんですか」
「金太郎さんの年末スケジュールも詰まっていることだろうし、安心して動いて欲しいと思ってね」
「助かります。十二月一日から青森に帰省する予定でしたから」
「他球団も続々始めたし、わがドラゴンズも〈連れ花火〉を打ち上げたいからね。レギュラーの控えと二軍の主要どころは、この十八日から順繰りすませた。江藤くんはきのうだった。来期の長嶋くんと同じ八千万では申しわけないので、一億出した。いつか口約束した額より多く出したので、それぞれの選手には大いに喜んでもらった。プイと出ていったり、机を叩いたり蹴ったりするやつは一人もいなかったよ。金太郎さんは三億。月俸二千五百万。たぶん向こう十年間、この額に追いつく選手は出てこない。三十日にマスコミに一括発表する。あした十一時、簡単なサインと捺印だけなので、中日ビル六階の球団事務所にきてくれたまえ。確定申告は、北村席の税理士さんにやってもらうようご主人に連絡しておきます」
「……カクテイシンコク?」
「気にしなくてもだいじょうぶ。契約書を書き終えたら、ちょっと記者室に顔を出してほしい。新聞記者が何十人かたむろしているが、好きに答えてください。江藤さんたちは二十九日に記者会見だけに出てくる。私たちの食事はいずれチャンスを見つけて連絡します。じゃ、待ってるよ」


         七十一

 ボチボチ皿の並びはじめたテーブルにいる一家のみんなに伝える。ドッと拍手。
「よ、日本一!」
「大統領!」
 カズちゃんと素子とトモヨさんが抱きつく。わけがわからず直人も抱きつく。主人が、
「これで、ほんとに名実ともに日本一になりましたな。素直に喜んでくださいよ。どんなに神無月さんが望まないことだろうと、それが事実ですから。大きな判子を押されたくらいに考えて、キョトンとしとればええです」
 カズちゃんが、
「これからは出歩くと目立つわよ。家に引っこんで机に向かってるのがいちばんいいんだけど、そうはいかなくなるわね。とにかく野球をやるためだと思ってがまんするのよ」
「うん」
 百江が主人に、
「長嶋選手や王選手も発表されてるんですか?」
「そっちの発表はないが、噂はある。王が七千万、長嶋八千万。江夏は五千万だそうだ。ほかにも二、三千万台はゴロゴロいる。さすがに神無月さんや江藤さんのような億というのはいない」
 私は、
「いつの間に発表されてたんですか」
「神無月さんが新聞を読んでないだけですよ。テレビのニュースでも発表しません。推定で新聞に載るだけです。記者会見するのは、ドラゴンズのレギュラーメンバーぐらいでしょう」
「カズちゃん、少しでも困ってる人を見逃さないように、そのお金を役立ててね」
「わかってます。目を光らせてるから安心して」
 カンナを抱いているトモヨさんが、
「私は外してくださいね」
「何言ってるの。子供にはいろいろお金がかかるのよ」
 私は、
「そうだよ、子供を貧しい環境に置いちゃいけない。貧乏暮らしで習い覚えることなんて、高が知れてる」
「郷くんのような才能さえあれば、どんな環境も苦にしないで暮らせるんですけどね」
「ないよりは一つぐらいあったほうが、自分の人生を輝かせられるね。でも、なくてもいい。才能なんて、他人の人生を輝かせることはめったにないんだ、世間では何の役にも立たないものだよ。そんなものがあるくらいでは悪環境は凌いでいけない」
 素子が、
「そうやろか」
「世間の人がいちばん不快に思う人間、無視したくなる人間、心の底で軽蔑する人間、それは才能しかない徒手空拳の人間だ。社会では、才能なんかどうでもいいから、身分や地位の高い者か、それとも実入りのいい者しか評価しない。たとえば、大学で文学ではなく経営学を学ぶやつ、喜びのために本を読んだことのないやつ、公務員や政治家になりたがるやつ、実際そうかどうかは別にして、そういう傾きのやつらで社会の九十八パーセントが成り立ってる。彼らの評価が高いのは、物質的な利益の追求者だからだよ。才能はだれにも物質的利益を与えないので、才能そのものを愛する無欲な者にしか愛されない。無欲な人間は何十万人に一人だろう。宝クジの確率だ。才能で自活できる道へちゃんと導いてやらないかぎり、自分の大切な子供に才能だけを期待するのは酷だ」
 おさんどんが始まった。ビールが並ぶ。男三人がつぎ合う。女将が、
「才能がなくたって、人情に巡り合えるもんよ。こんなにかわいいんだし」
 カズちゃんが、
「私たちみたいな〈外れ者〉にしか人情はないわ。外れ者に巡り合うのも相当な確率よ。直人はもう巡り合えてる。宝クジに当たったわけ。直人に何かの才能があるのは確実に見えてるし、あとは物質主義の社会で生きていけるように、経済的な余裕を与えてあげるだけ。それもまずオーケー。何かの転機があるまでは、このまま順風に吹かれていたほうがいいわね。いずれ逆風の中へでも喜んで突き放してあげましょうよ。突き放すだけじゃ心配だから、しばらく様子を見ながらね。人間的にラッキーな巡り合いがあって、二度目の宝クジに当たれば最高ね」
 おさんどんが進み、みんなの箸が動きつづける。千佳子が、
「来年、阪神に外人がきます。右投げ両打ちのバレンタイン。三十四歳」
 菅野が、
「左バッター泣かせの浜風もだいじょうぶ、てのがキャッチフレーズです。百八十五センチ、八十六キロ。オリオールズ、セネターズと六年間で、ホームラン三十六本、打率は二割四分前後。ふつうですね」
「ほかに外人は?」
「大洋に、セルフという大男がきます。マイナー上がりの超小物です。その二人だけですね」
「巨人のドラフトをもう一度教えてくれない? それと評判」
 睦子が箸を途中にし、二階に昇ってスクラップブックを持ってきた。
「早稲田、小坂敏彦、ピッチャー、小柄。早稲田、阿野鉱二、キャッチャー、中柄。早稲田中退、小笠原、ピッチャー、大柄。中央大、萩原康弘、外野手、中柄。来年一試合でも試合に出られそうな選手は、八人中この四人です。来年のプロ野球地図は今年とほとんど変わりません。郷さんは去年六大学で戦って、小坂と阿野のことは知ってますし、今年の夏ぐらいまでにドラフトで入団した選手のこともしっかりわかるでしょう。郷さんの強敵になるのは小笠原くんぐらいだと思います。よほどすぐれていないと、プロでは試合にすら出られません。私が比較できるのは六大学だけですけど、今年のドラフト選手の中でプロでやっていけそうなのは、まだ大洋入りしていない荒川と、巨人の小笠原と、ドラゴンズの谷沢の三人だけです。去年は田淵と山本浩二だけでした。有能な選手は一年目から出てくるんです。遅く花開くなんてことはまずありません。ドラフトで生き残るのは二パーセントです。来年も同じです。プロ野球はきびしすぎるほどの世界なんです」
 私は睦子に、
「各チーム、二人ぐらいに絞ったドラフト選抜をしたら、もっと生き残るだろうね。あるいは、ドラフトをやめちゃうか」
「そう思います。一粒二粒選ぶなら、ダイヤモンドを選ぼうとするでしょうから。各球団がこんなにたくさんの穀潰しを採るのは、そういう平凡な選手を集めて競争させ、庶民の気に入る商品に作り変えるのを楽しんでいるからじゃないでしょうか。庶民は、努力でのし上がるという図式が大好きですから」
 菅野が、
「いつものキツいムッちゃんが出たね。そのとおりだからいやになるよね」
「すみません、口が悪くて。各チーム、ダイヤモンドを少しずつ増やしたとして、五、六年で二、三粒は立派に磨かれるでしょうけど、水原監督が元気でいてくだされば、いまもほとんどがダイヤモンドのドラゴンズは、五連覇まではだいじょうぶだと思います」
「それからは?」
「ドラゴンズも二、三粒育ってますから、もっといけそうに思いますけど、いま郷さんを奮い立てている江藤さん、中さん、小川さんがいなくなって、チーム力がかなり落ちこむと思います。特に江藤さんと中さんの代わりをする人が育たなければ、連覇は途切れるんじゃないでしょうか。谷沢、江島、千原の三人に期待です。谷沢以外は弱いです」
 主人が、
「同感やな。一番の中から七番の太田まではとんでもない打線やが、一番が江島、三番が谷沢に代わったら、かなりぎこちなくなるやろう。千原はどこに入れても弱い。やっぱり確実なのは三連覇までやないか」
 菅野が、
「五、六年も経てば、高木さんと一枝さんが衰えはじめる。残るのは神無月さんと木俣さんと菱川さんのクリーンアップ、それから太田さんと谷沢が脇を固めて五枚看板。たった五枚。ダイヤモンドをコツコツ集めていくしかないですね」
「心配しても、なるようにしかなりません。できるところまで連覇しつづける心意気でやらないと」
 カズちゃんが、
「そんなこと考えずに、楽しんで野球をやりなさい。水原監督もそう願ってるはず。何ごとも初志貫徹よ」
 直人とカンナがいっしょにあくびをしたので、私たちはふと目が覚めたような気分になった。トモヨさんとイネが立ち上がって子供たちを風呂へ連れていった。ようやく箸を置いた素子が、
「お姉さん、キョウちゃんに訊いても答えられっこないからお姉さんに訊くけど、なんでみんな巨人にいきたがるんやろ。金田も、浜野も、大洋入りを渋っとる荒川も。……優勝チームにいきたないんやろか」
 ドラゴンズを目指してドラゴンズにきた私には答えられなかった。カズちゃんは少し考えてから、
「お金とは関係ないみたいね。巨人よりもお金を出すチームはたくさんあるし」
 主人が、
「ほうやな、金の条件を蹴って巨人にいったやつは、むかしからたくさんおった」
 カズちゃんは、
「……巨人にいきたがる人って、ブランドがほしいんじゃないかしら。長い栄光の歴史のあるチームというブランド。それを手にすることで、一定のステータスを得られると考えているんでしょう。かの有名な沢村栄治のいた巨人。スタルヒン、藤本、三原、水原、川上、中島、千葉、大友、青田、広岡、長嶋、そして王。自分の能力が彼ら以下でも関係なし。球界の東大。入ってしまえば、どんな小物も騒がれる。俗物根性。キョウちゃんのお母さんと同じ気持ちよ。キョウちゃんを俗物に見てたのね。天才には見てなかった。金田は天才よ。でも根性は小物」
 百江が、
「巨人以外のチームに最初からいきたかったのは、南海にいきたかった尾崎と長池、それから中日にいきたかった神無月さん」
 菅野が、
「逆に、巨人にいきたかったけど果たせなかった選手はたくさん挙げられますよ。と言うか、ほぼ全員です」
 私は、
「みんなで巨人に入って、各球場で、巨人同士で紅白戦すればいいんじゃない? でもそれじゃだめか。ブランドというのは比較論だから、巨人に負けるチームがないと、巨人ファンは溜飲を下げられなくなる。客は入らないな。どうしてブランドなのかわからなくなっちゃうものね。東大も同じだ。日本に東大しかなくなると、まったく存在価値がなくなる」
 これまで考えたこともないことを初めてみんなの前で考え、口に出した。冷笑の混じらないさっぱりした笑いが立ち昇った。だれにとっても、巨人や東大などどうでもいいことなのだ。私は、
「懸命に巨人にいきたがる気持ちが風潮と関係のない独自のものなら、ここまで議論されることはないだろうね。ここにいるみんないずれは死ぬ。あの直人やカンナでさえかならず死ぬ。それは風潮よりも強い宿命だ。そこで疑問が浮かぶ。なぜこの人生という奇妙なものの中をただよいながら、もがいて生きようとしないのか。ただようだけじゃなく、生きようとしなければだめだと考えて、初めて独自になる。もがいて、失敗して、正面からぶち当たる―ぼくが目指すのは、この奇妙な人生を豊かにすることだ。生きるための理由に満たされたい。足並揃えて大きな権威に頼るんじゃなくね。ぼくたちは一瞬ごとに独自な人生の物語を紡いでる。有意義な読み物にしようとしてる。せめておもしろいものにしようとしてる」
 千鶴がソテツといっしょに厨房から出てきて、
「神無月さんて、オトナやね」
「惨めさをどれだけ呑みこめるかが、大人の真価だ。かなりバラつきがある」
「?……私も、そう思います」
 首をかしげてうなずく。
「自分じゃなく、他人の惨めさだよ。ぼくはまだまだだ」
 ソテツはハッと口を開いて、ニッコリ笑った。三上ルリ子も出てきて、
「神無月さんの勇敢さにいつも感服してます」
「どこが勇敢なの?」
「自分を貫いてます」
 カズちゃんが、
「ひるむことなくね」
「勇敢さでなく、無関心だ」
 木村しずかが、
「ちがいます」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんは子供だから、ものごとに無関心ではいられないわね」
 ケラケラ笑った。千佳子も笑いながら、
「音楽をかけてきます。山口さんの」


         七十二 

 ギターの音色が流れてくる。めしを噛みながらビールのコップを傾ける。最近覚えためしの食い方だが、めしはうまく感じない。何かを肴に燗酒を飲むのもこれと似たような味だろうか。
「すごく楽しいね。……突拍子もないけど……初恋の女はけいこちゃんて言うんだ。四歳。しゃがんでオシッコしながら、のっぺらぼうのオマンコを見せてくれた。その年の大晦日に、汽車に轢かれて死んだ。……初恋の人が最後の恋人とはかぎらない。いくつかの恋は終着点じゃなく、愛を知るまでのプロセスにすぎない。単純なものだよ」
 睦子が、
「すばらしいわ! 郷さんの言葉はピリッとして、刺激的です」
 じっと見つめている女たちにカズちゃんが、
「キョウちゃんが何か示唆に富んだ話をするのを待ってるんじゃない?」
 素子が、
「ほうよ。もっとお話してや。おとうさんたちも聴いとるで」
「聴いとりますよ」
 私は周囲の人たちの顔を見回した。百江と、登校しないで聴き入っているキッコに目が留まった。彼女たちを見つめて語り出す。
「……世界にはあなたたちのような、直観のするどい人間が必要だ。あなたたちが住むような世界は消えかけてる。消さない責任を自覚してほしい。そのうえで自分なりに生計を立てて、周りの人たちに貢献しなくちゃいけない。簡単じゃないよね。一人で闘う気持ちを持って、同じ気持ちの仲間といっしょに強く生きる。凡庸さに屈しないでね。凡庸な人間に迎合してはいけない。そんなことをすれば、あなたたち自身にとっても、世界にとっても、大きな損失になる。あなたたちの才能をムダにしちゃいけない。一瞬、一瞬、一度ごとの呼吸を大事にしよう。人生は鳥の懸命なさえずりなんだ。……照れるな。みんなに託す格好をしながら、自分に向かってしゃべりました。信じる道をいってください。あなたたちはあなたたちのままでいいです。そのままでいいです」
 主人が、
「つらく生きてますな」
「自分の哲学に基づいた生き方については、がんばればどうにかなります。ほんとにつらいのはここを去ることだけですから」
 キッコが、
「どこにもいかんといてね!」
 千鶴が、
「ほんとやよ」
 百江が、
「私、足にすがりついても引き止めます」
「どこにもいきません。あなたがたはえらい人たちです。最高の人たちです。ぼくにはあまりにももったいない人たちです。あまりにも―。そんな人たちとサヨナラを言うのはつらいので、病気で死ぬのでもないかぎりけっして去りません。ここで看取ってもらうつもりです。幼いころから、がんばって生きる人生になることはわかってたので、自分の生き方については文句なしです。振り返って考えると、ぜんぶ納得がいきます。こうなる以外なかった……。いろいろな経験が理屈に合わないように見えますけど、完璧です。……最後に、みなさんが訊きたいのに訊けなかった話をしておきます。そのせいでぼくのことを神秘的に思っていた人たちもいたでしょうから」
 近記れんが木村しずかの膝に手を置いて、カズちゃんの顔を見つめた。何を話し出すかわかったのだろう。
「ちっとも神秘的じゃありません。死にぞこなった話です。死の分秒前に救い出してくれたのは、ぼくの首から縄を外した山口です。彼の美しいギターがいま流れています。彼がイのいちばんにぼくを運びこんで完全な蘇生を頼んだ相手はカズちゃんです。そこまではあなたたちも何かの折に耳に挟んだことでしょう。……蘇生したときのぼくの気持ちを一度も語ったことがありませんでした。息を吹き返したとき、あと数十秒遅れていたら植物人間になり、一、二分遅れていたら死んでいただろうということが、からだの感覚でわかりました。そういう死の瀬戸ぎわで、命をもう一度取り返してもらったときに感じたことを話します。……十六年間の人生のほとんどにおいて、自分がまちがっていた、死というものを理解していなかった、あえて死のうとしなくても死はいつもすぐそこに迫っているということに感謝してこなかった、その結果精いっぱい生きてこなかった、ということでした。最も痛切に感じたことは、言うのも恥ずかしいですが、この世に生きている人間を例外なく心から愛していたということでした」
 菅野が目を拭った。
「最も大切な義務に背を向けてきた。豊かな人生を送るという義務です。この世で力いっぱい生きている人間を視野に捉えることは心がけしだいでできるのに、豊かな人生をこの手につかませてくれる大勢の人びとを見つめてこなかった。かぎられた人だけを愛するのでは足りない―死を目と鼻の先で経験したせいで、出会うすべての人びとに関心を注ぎながら豊かな人生を送らなければならなかったことに気づいたんです」
 山口のギターが止んだ。千佳子がハンカチで目を拭いながらステレオを消しにいった。
 アヤメの遅番組が全員帰ってきて食卓についた。みんなで挨拶し合う。カズちゃんが洟をかみ、
「ムッちゃん、千佳ちゃん、あした、いまのキョウちゃんの話をトモヨさんとイネちゃんに伝えといてね」
「はい」
 百江が、
「神無月さんぐらい心のきれいな善人を私は知りません。恐怖からでなく、いつも死を身近に感じることは善人しかできないでしょう。最高の人を愛しました」
「私たちみんなもよ。知識、権威、人気に見向きもしないで、片隅にいたがる人。だれにも知られたくないって哲学。とても格好いい生き方ね。クール。善人の特徴よ。現実にはそううまくいかないんだけど、善人というところだけは崩れないわね。ところでキョウちゃん、香嵐渓にいくって話、あさっての日曜日がいいと思うんだけど、どうする?」
「いこう。いいと言われるものは何でも見ないと。草花も見たいし」
 みんな明るい顔で色めき立った。菅野が、
「午前早く出ましょう。十二月初旬まではモミジ祭りの期間なので、少し道が混みますから。トモヨ奥さんはカンナちゃんのお乳があるので無理ですが、あとの有志はみんないけますよ」
 幣原が、
「私も残ります。出かけないかたのお食事の世話がありますので」
 主人が、
「ワシは直人を連れていくけど、おトクにはあの一時間かかる散策コースはちょっときびしいな」
「飯盛山まで登らにゃ、私でもラクやわ。スラックス穿いてくで」
 主人夫婦、直人、カズちゃん、素子、メイ子、千佳子、睦子、百江、ソテツ、イネ、キッコ、千鶴、優子、信子、菅野と私の十七人で出かけることになった。
         †
 十一月二十八日金曜日。則武の寝室で七時起床。ルーティーン。七時五十分、カズちゃんたち三人と朝食。八時十五分に迎えにきた菅野と足慣らしに大鳥居までランニング。ようやくこの生活が戻ってきた。
「青森の土手を走っていたときの胸苦しさが嘘のようだ。……五年か。たった五年で内臓も鍛えられるんですね。腸だけはだめみたいだ」
「ビオフェルミンでも飲みますか」
「いや、あと五年かけて徐々に鍛えていきます」
「女性陣にあまりお呼びがかからなくなりましたね」
「この三、四日のことですよ。すぐに復活します。青森でも活躍しなくちゃいけないので」
「精力温存ですね。十二月、一月をみんな 楽しみにしてるでしょう」
「はあ。余計な開拓をしないように心がけないと」
「されないようにでしょう」
「ハハハ、カズちゃんから始まってもう何人になるのかな」
「数える必要はありません。心はお嬢さんだけですから」
 大勢の報道記者たちが北村席の門前に待ち構えていた。後ろ手を組んだ松葉会の連中が五人ほど彼らに対峙していた。次々とストロボやフラッシュの閃光が浴びせかけられる。テレビカメラのライトで照らし出され、何本ものマイクを突きつけられる。笑顔で応えるだけで何もしゃべらない。
 私と菅野が門内に入ると、重なるようにエンジン音がして車どもが去っていく。菅野とシャワー。トモヨさんと直人を送り出し、睦子と千佳子を送り出し、実印がポケットに入った背広を幣原の手で丁寧に着せられ、主人夫婦とコーヒーで一息。廊下をいき過ぎるトルコ嬢たちや賄いたちを見つめる。親しんだ女にしか視線が留まらない。だれに惹かれるかは選べない。関係は操作できない。心正しくあるべきだ。
 十時四十五分菅野と中日ビルへ出発。
「菅野さん、推定年俸って何ですか」
「実際の年俸の七十、八十パーセントを示すものです」
「プラスアルファがあるってことですね。記者会見では?」
「推定のほうを言えばいいんです。外の路上で待ってます。会見も含めて一時間もあれば終わるでしょうから」
「はい、ありがとうございます」
 待合廊下のベンチに座っているのは私一人きりだった。その一人を記者団が取り囲んだ。フラッシュに刺されながら私はうつむいたままでいた。十一時に六階のオーナー室に入り、四人のフロント陣の前に座る。小山、村迫、榊、遠藤と名札が並んでいる。遠藤とは初対面だが、小山オーナーの腹心だとわかる。みんな笑っている。遠藤が、
「球団への要望がございますか」
「ありません」
「改善してほしい部分は?」
「ありません」
「とくに待遇改善については?」
「かわいがられすぎなので、くすぐったいです」
 小山オーナーが、
「そう言われるほうがくすぐったいよ」
 村迫が、
「三億五千万を提示いたしますが、ご不満は?」
「まったくありません」
 遠藤が、
「契約金とちがって税率は五十六パーセントになり、手取り額は一億五千四百万になります。来年に関する不安は何かございますか」
「確実に打撃成績の数字が落ちることです」
 小山オーナーが、
「あたりまえじゃないか、研究されるんだから。落ちても、一冠でも獲ってくれれば年俸アップだよ。細かな査定なしでね。心配しなさんな。ちがう心配だろうけど」
「はい、力の衰えです」
「金太郎さんの実力は、向こう十年は衰えないとわれわれは踏んでる。衰えてようやく一流選手並になっていくんじゃないかな」
 榊が、
「神無月くん、あなたは十人と言わない選手の成績を向上させましたよ。しかも人間的にも陶冶してくれた。あらためてお礼を言わせていただきます。あなたがいなければ、それこそドラゴンズは衰えます」
 四人で頭を下げる。遠藤が、
「スムーズに運びましたね。じゃ、一発サインとということで」
 差し出された万年筆で書式に署名捺印した。すぐに同じ階の記者室に導かれ、新聞、雑誌、テレビのマスコミ関係者が二百人近くも待機していた記者会見の席に望んだ。フラッシュの止まない中、一人ひとりわけのわからない質問をする。
「セントウいかがでしたか」
「は?」
「銭の闘い、契約更改の闘いのことです」
「闘いはいっさいありませんでした」
「提示額は満足のいくものでしたか」
「はい」
「何か主張はなさいましたか」
「別に」
「一億以上を提示されましたか」
「はい」
「二億以上」
「はい。三億です」
「オオ!」
 いっとき物音が激しくなる。
「買いたい物はございますか」
「ありません」
「球団とはどういう話をしましたか」
「総じて、信頼しているという話題に終始しました」
「今シーズンを振り返って」
「できすぎです。一軍でプレーしつづけられたラッキーを痛感しています」
「十五年ぶりに優勝できた要因は」
「自分を含めて、できすぎの選手がおおかったせいです」
「ご自分の成績に関して」
「できすぎを超えて、奇跡です。野球の神さまに背中を押しつづけられました」
「ケガがまったくありませんでしたが」
「ハードな練習を避けたおかげです」
「オフの自主トレに関しては」
「文字どおり自主的にやります。集団参加はしません」
「そのことでファンに伝えたいことは?」
「丈夫で元気なからだで来年もお会いします」
「チームの目標と個人の目標をお願いします」
「チームに関しては推測ですが、五球団に勝ち越すことと、その結果優勝することだと思います。個人の目標は去年と同じで、気ぜわしくない、草鞋履きのテクテク練習をしながら、八十本以上のホームランを打って本塁打王になることです」
「神無月郷選手からファンへのご報告は」
「青森高校時代に対戦して印象深かった戸板くんとチームメイトになれたこと、青森高校時代の同朋小笠原くんが巨人軍に入団したこと、そしてこれまた印象深かった青森高校時代の強敵柳沢くんがヤクルトアトムズに入団したことです。胸がふくらみます」
「今年の記録を超えようというお気持ちは」
「そんなものは記憶から片づけて、パッパと押入に放りこんでおきます」
 質問に間ができたので、
「それじゃ失礼します」
 私は立ち上がり、すたすたと廊下に出た。彼らは会見が終わってからも私を解放しなかった。マスコミ関係の車が一団となってセドリックのあとにくっつき、北村席まで追いかけてきた。まだ昼下がりなので組員たちはトルコのほうに詰めていていなかった。ぶら下がり記者たちは私を取り囲み、
「球界最高年俸についてひとこと!」
「来年の抱負を!」
 と声を張り上げた。菅野と私は黙殺して門内に入った。迎えに出てきたイネがピシャリと戸を閉めた。




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