七十六

 十二時十分。平坦な山並を望むさびしい空港に着いた。二度、三度見覚えがあるはずだけれども、思い出せない。滑走路を除いた一面に雪がうずたかく積もっている。タラップを降り立つと、カズちゃんはオーバーの襟を掻き合わせた。
「やっぱり厚着してきてよかった。寒いわねえ青森は。……それにしてもすごい雪」
「県庁所在地の中で積雪量日本一は青森市なんだ。山間部にあるこの青森空港の積雪量はもっとすごい。でも除雪技術も日本一なので、この広い滑走路を二十分もしないうちに除雪してしまう。除雪ブルドーザー六十台」
「詳しいのね」
「青高の地理の先生が言ってた」
「滑走路って、どれくらいの長さなの?」
「三キロ」
 タラップを降り、歩いてウイングへ。私は腕時計を見て、
「五・三度か。シバレルというほどじゃないね」
「こっちにいたころよく聞いたけど、シバレルってどういう意味?」
「シビレルほど寒いって意味だと思う」
「痺れる……。リアルね」
 到着ゲートを出て狭苦しいロビーへ。ここにもまるで先回りするようにマスコミが待っていた。中に浜中一行の姿があった。恩田、田代、丹生もいる。四人最敬礼する。私はホッとして、
「みなさんおひさしぶり。六日間よろしく」
 カズちゃんといっしょに頭を下げた。報道陣のフラッシュの中、空港玄関で待っていた東奥日報社のバンに乗りこみ、野辺地へ向かう。グラニュー糖のような雪が降っている。沿道の積雪に迫力がある。
「野辺地までどれくらいですか」
 運転役の丹生が、
「県道27号線から国道7号線を経て、県道44号線から国道4号線に出ます。そこから一本です。一時間十五分くらいですね」
 いつもの低い雪空。轍のアスファルトが黒いだけの雪道。左右は雪を載せた木立。まだらな雪化粧。丹生が、
「二十四日が初雪でしてね。スノータイヤをつけてます。チェーンが必要になったら、チェーンを巻きます。だいじょうぶでしょう」
 恩田がリアウィンドウを振り返り、
「ついてくるなあ」
 田代が、
「野辺地まできますね。インタビューしたり、家屋に入りこんだりしないかぎり、取材権は保証されてますからね」
 浜中が、
「六日間は貼りつけないでしょう。彼らの取材費はきょうあすまでじゃないの。あ、神無月さん、三冠王はじめ、もろもろの打撃賞獲得、おめでとうございます。盗塁王まで獲るとは驚きです」
「ありがとうございます。ひょっとして会場にいました?」
「もちろんですよ。受賞の様子はすでに放送しました。相変わらず人を感激させるスピーチ、おみごとです。放送したとたんに賞賛と激励の電話がバンバン入りました」
 浜中が、
「それでもこちらの土地柄では、野球選手に人は寄ってきません。寄ってくるのは、企画したマスコミだけです。そこが都会とおおちがいのところで、ほんとに助かります。こうして独占取材ができます」
 県道27号線を北上し、杉と民家に挟まれた細道を走る。屋根の角度が急なので、雪国にやってきたとあらためて感じる。時おりしか対向車と行き会わない。細道が雑木と刈田に挟まれた雪の平原風景に変わる。村落と丘。家の密度は濃くなってきた。ほとんどの家から煙突が突き出ている。
「国道7号に入りました」
 ここまで二十分。田代が、
「ようやく追跡をあきらめましたね。あしたあたり野辺地に顔を出すとしても、いったん引き揚げでしょう。いや、顔は出さないかな、雪にやられたら帰るのがたいへんになりますからね。もう青森市内ですよ。そろそろ国道4号線です」
 青森高校のはるか裏手から、堤橋を通る国道4号線に出ようとしているのだろう。
「あと一時間ですか」
「そのくらいですね。4号線は単調ですよ」
 なつかしい4号線に出る。二車線の広い道。十和田・野辺地の青い標識板。道端にうず高く雪が積まれている。私は、
「話をしながらいきましょう。向こう六日間の取材の予定を教えてください」
 浜中が、
「はい、まず野辺地の実家に帰りついて一段落するまでの絵をいただきます。そのあと私どもは野辺地支社ではなく、馬門の旅館へ引き揚げます。二日の昼ごろから同窓会終了までの絵をいただき、この日はフィルム編集のために青森市の本社へ引き揚げます。同窓会の二次会は撮りません。六日、青高へ直接出向いて講演の絵をいただき、そのまま本社へ引き揚げます。以上です。野球関連の記事はもちろん、折々ハプニングがあればそれも取材して、いい連載レポートを作成したいと思ってます。取材途中でたまたま、神無月さんが昵懇にしていた女性に行き当たった場合は、神無月さんと深い馴染みのある女性以外はすべて実名で書かせていただきます。生活のうえでかなり懇意にしてきた女性に関しては、贔屓筋とか、根強いファンという書き方をしますのでご安心ください。しかし、いま述べたようなロケーションでは、そういうことはまず起こらないと思います」
「起こりませんね」
 カズちゃんがクスクス笑う。田が一面の雪に埋もれている。民家の前にときおり雪だるま。恩田が、
「こういう道中でいただいた絵や音も、適宜テレビ放送や新聞記事に使わせていただきます。景色が映るだけの沈黙や、突発的な会話も、私たちの大きな狙いなんですよ。和子さんも思いついたらどんどん会話をなさってください」
「はい」
 浜中がフロントガラスを見つめながら、
「プロ入りして、最大の収穫は何でした?」
「ぼくのような人間をへんなやつとしてではなく、好んで受け入れる人たちがたくさんいたことです。自分が変人でないと感じられる集団に初めて紛れこめました。飯場ではたしかに愛されましたが、まだまだ変人扱いの要素が残ってました。ドラゴンズでは、ほとんどの選手が変わり者なので、そういう点ではなく、野球の技術が卓越しているがゆえに深く愛されました。それが前提になって、彼らがあとあと気づいた風変わりなところも愛されるようになりました」
「すぐれた野球技術を徹底的に愛されるという愛され方は、神無月さんはこれまで経験したことがありませんでしたからね」
「西松の社員たち、カズちゃん、青高と東大の仲間たち。こう見ると、そういう愛し方をしてくれた人たちはけっこういる感じですけど、細かい技術に着目してくれたのはドラゴンズの連中だけです」
「キョウちゃんはこれ以上ない適所を得たのよ。野球小僧の幸福ね」
 久栗坂(くぐりざか)の分岐路でとつぜん海に出会う。青森湾。左に海、右の樹林に綿帽子。
「十五、六のころは、雪に精神的な特別な意味を見つけようとしましたけど、いまでは雨や風と同じものにすぎないと理解してます。ただ、色と量! 目にインパクトがある」
 ごろんと浅虫の町。ホテルやビルが林立する。〈浅虫水族館1km先〉の看板。
「あのお椀を伏せたような山は?」
 粉雪の降る澄んだ海の向こうを指差す。恩田が、
「湯ノ島です。春のカタクリの花以外何もない島です」
「島にあるあの鳥居は?」
「水神の弁才天を祀ってます」
 地元人なのにキッチリ予習をすませてある。ホタテを食わせる馬鹿でかい御殿ふうの店を通りかかる。丹生が車を停め、ホタテ弁当を買いに降りた。
「ぼくはパス。腹へってません」
 県内の飲食店の魚介類は味が悪いので、食わないことにしている。浜で獲れたてのウニ以外の生ものは都会で食うべきだ。青森県内の新鮮な魚介は一部を地元の漁民が消費し、残りのほとんどは都会へ送られる。こういう青森県人の商人根性が嫌いだ。
 丹生の買ってきた弁当をカズちゃんも加わった五人で食う。カズちゃんは快適な大食漢だ。見るからに味の濃そうなホタテ三つ。
「あら、東京で食べるホタテほどおいしくないのね」
 田代が、
「少しウンコくさいですね」
 私は、
「それがふつうなんです。青森県の漁協は、新鮮なホタテはほとんど県外に出してしまいます。残った冷凍ものが県内で売られる。古いやつです。でも、野辺地のホタテはちがいますよ。浜に上がったばかりのものだから、すごくうまい」
 それでもみんなぺろりと平らげた。腹がへっていたのだ。
 また退屈な黒灰色の道と沿道の雪。浜中が、
「朝晩は道路がてかてかになります。あしたあたりからまた相当降るらしいから、チェーン巻こうか」
「そうしましょう」
 山が流れ、雪の田圃が流れ、林が流れる。平内。浪打。
「夏泊口です」
 小湊。清水川。陸奥湾が広がる。
「もうすぐ野辺地だ」
 カズちゃんが、
「なつかしい。ちょうど五年ぶり」
 低い山並と海を眺めながら、同じ風景をひた走る。狩場沢。浜中が、
「このあたりからは野辺地湾です。そろそろ馬門ですね」
 あっという間に馬門を過ぎる。
「野辺地に入りました」
 一時二十分。単線の貨物鉄道の踏切を渡る。
「わあ、八幡さま!」
 カズちゃんが叫ぶ。
「ここからがぼくのいちばん古いふるさとです。降りましょう」
 道端の雪に片方の前輪を乗り上げ、停車する。私は先陣切って降りる。四人の男とカズちゃんが降りてきて、八幡神社の赤鳥居や、東奥日報の看板や、なぜか三百メートルも離れて建っている野辺地警察署の箱看板を眺める。丹生が、
「着きましたね!」
 恩田があたりの景観を吟味しながら写真を撮る。カズちゃんは中野渡の家のほうを見やった。遠く雪に埋もれた農道を眺めながら、感無量の表情で言った。
「もう一度、キョウちゃんのふるさとにきたのね」 
 白い息を吐きながら視線を巡らし、新町の背の低い民家や商店を眺めた。
「田舎……。でもきれいな街」
 ふたたび全員バンに乗りこむ、浜中が、
「和子さんの住んでいた家と、野辺地中学校へいきましょう」
 車を銀映入口の空き地まで転がして停める。案外密度の濃い商店街を歩き戻り、カズちゃんが指差すほうへいく。撮影用カメラとデンスケを担いだ男たちが歩いていくので、長靴履いたあねさんかぶりたちが振り返る。ダンボ帽子にジャンバーの老爺たちは振り返らない。ウイークデイの昼下がりなので小中学生の制服は歩いていない。眼鏡をかける。クラブ活動をする少年たちか好事家しか野球を知らない土地。眼鏡をかけた私にだれも気づかない。
 曲がり道の角の三色のサインポールが目に入り、とつぜん、小さいころよくきた散髪屋の名前を思い出した。確かめる。理容西野……。連鎖的に町のあらましを思い出した。野中のころはボロ家になっていたが、ガマの実家の駄菓子屋〈むらかみ〉、野辺地東映の隣の銭湯(名前は忘れた。婆さんが番台にいた)、本町通りは新町の通りよりもっと賑やかに看板が連なり、左にうさぎや、縦貫(じゅうかん)タクシー、工藤パン、カネボウ毛糸、四歳のころ正月の年賀に訪れた英夫兄さんが千十円のスキーを買ってくれたスキー用具店(名前は忘れた)、地元最大のスーパー五十嵐商店、向かいにボッケの佐藤製菓、青森銀行、〈火の用心〉の横断幕を架け渡したアスファルト道、丸っこいバスが坂をくだっていき、右手に清酒睦鶴の大看板……。
 カズちゃんについて細い雪道へ入る。彼女は五年前に暮らした家を指差し、恩田に写真を何枚か撮らせると、すぐに車に戻って野辺地中学校の裏手に導く。浜中たちは車の窓から外を見やりながら、
「ここは野中の取材で何度かきましたが、八幡の周囲は支社近辺しか知りませんでした」
 道の雪が融けていない。しかしスノータイヤで難なく走る。新道に出る。
「駐車場を探すのが骨かもしれません」
 角鹿(つのか)製麺所。得体の知れない大邸宅(名前をじっちゃかばっちゃに聞いたことがあったかも知れないが、忘れた)、ヤジ煙草店。店の奥から出てくる貧相な中年女の顔しか憶えていない。駄菓子屋も兼ねているこの店でじっちゃのくれた五円を使った。その向かいは名も知らぬ小邸宅。野中の秀才がいると聞いたことがある。秀才の姿は見たことがない。
「ここがよしのりの家です」
「ああ、瞬間記憶力の」
 彼らはそれ以上の関心を示さない。潮風に腐(くた)された家並がつづく。相変わらず道に人はいない。
「ここです。合船場(がへんば)」
 突き出した玄関をこしらえてあるのに仰天する。土間へ跨ぎこむ敷居にくっつけて造っただけのようだが、意外にすっきりと洒落ている。玄関脇に重油タンクが設置されている。タンクの背後の板塀と窓が真新しい。丹生が危惧したとおり、見渡すかぎり駐車場がない。踏切のほうへ車を進めてみる。やはり駐車場はなく、知らない朽ちかけた家ばかりだ。和田電気、田島鉄工所、共同井戸、踏切。浜中が、
「けいこちゃんの踏切ですね。雪下駄の……」
「はい」


         七十七

 踏切を渡ったすぐ右手に、おんぼろのアパートが建っていた。物干し台が錆びついているので住人のいないことがわかる。アパートの脇の線路端に数台停まれそうな草地があった。そこへバンを入れて全員降りる。恩田が踏切を撮る。
「これが、海さしてなだれていく坂道か―」
 浜中が真っ白く雪を敷いた浜坂をしみじみと眺め下ろす。恩田が撮る。
「あ、海が見える。ほら、道の先っぽに」
 丹生が言うと、田代が、
「すばらしい……神無月さんの原風景だ」
 と呟いた。恩田が、
「ここがほんとうのふるさとと言えるんでしょうね」
 私は、
「もの心がついた土地という意味では。と言っても、幼稚園と中高合わせて何年も暮らしていません」
 浜中が、
「名古屋から、このさびしい町に送り返されてきたんですね。……暗澹とした気持ちだったろうなあ」
「もっとぼんやりとした無力感でした。着いたのは朝早く、いや、夕方だったかな……思い出は霧の中。とにかく、絶望というハッキリしたものではなくて、ただぼんやりしてました」
 恩田が、
「お母さんも、罪なことしたものですね。……よくここから立ち直って、東大や中日ドラゴンズへ。……天才だなあってつくづくわかります。それも並の天才じゃない」
 指で目頭を拭った。
「そんなこと言われたの、初めてです」
 カズちゃんが、
「うそ。この耳で、いろいろな人から何度も聞いてるわよ。みんなそう思ってるはず。お母さん以外はね。ここに立てば、だれだってわかる」
 カズちゃんは線路端の林を眺めてから、灰ずんだ空を見上げた。
「許可をとらないと―」
 浜中は廃アパートの向かいの新しそうな家をおとない、出てきた老婆に、
「東奥日報の者です。そこに車をしばらく置かせてもらいたいんですが、アパートの管理人さんのお家を知りませんか」
「なんも、オラのアパートだ」
「そうですか! 夜まで置かせていただきたいので、駐車料金をお支払いします。おいくらほど」
「いらねじゃ。好きだように使ってくンださい。……おんやァ、合船場のキョウちゃんでねな?」
「はい」
「大っきぐなって。いっつも新聞読んでらよ。三冠王獲ったツケ。野辺地の名士だでば」
 私は見覚えのないその老人に辞儀をし、
「あらためてお礼に伺います」
「気使わねでけへ。大した立派になったこだ。忙しぐ旅回りしてるんだべ」
「今回は里帰りです。その様子を東奥日報さんに撮ってもらってます」
「ほんだの。有名人だすけな」
「……はあ、じゃこれで失敬します」
「はいはい、だばな。野球けっぱってけへ」
「ありがとうございます」
 浜中は、フロントガラスのワイパーに、ビニールで包んだ〈駐車許可有・東奥日報〉のボール紙を差した。用意してきたもののようだった。
「神無月さんの名前まで呼んだのに、知り合いじゃなかったみたいですね」
「はい。野辺地に知り合いはほとんどいません」
 カズちゃんが、
「あのう、駅前までもう一度戻って、ゆっくりここまで戻ってほしいんですけど」
 恩田が、
「いいですね、そうしましょう。町なかの写真も撮りたいし」
 浜中は差したばかりのボール紙を外し、私たちを乗せると踏切を渡り戻った。恩田が窓の外へカメラを向ける。
「すみません、勝手なことを言って。駅から合船場までの道を、野辺地にいるあいだに目に焼きつけておきたいんです。もの心ついたころのキョウちゃんと、十五歳のキョウちゃんが歩いた道」
「わかります。私たちも同じ気持ちです」
 新道から郵便局と門林衣料店に挟まれた辻に出る。左折。戸館(とだて)医院、照井酒店、栃木精肉店、平尾眼鏡、けいこちゃんの味噌屋とうさぎやの辻。高野薬局、大湊屋製菓、野辺地郵便局、カクト家具、ナルミ呉服店、かくたま歯科、ガソリンスタンド。
 板作りの家が路上より一段低く地面に貼りついている坂を下る。野一旅館、やなぎや時計眼鏡店、川村整骨院、熊谷米穀店、つぼ生花店、佐藤自転車、若山燃料、クボタ衣料店、玉山理容、平尾精肉店、廃屋の鈴木理容、廃屋のモトショップ。野辺地川。大きな鳴沢橋を渡る。遠く前方に野辺地病院の給水塔を見やりながら右折。野辺地駅へ。
 ここも地面より一段低く貼りついた家並がつづく。廃屋になりかけの家や事務所が多い。新聞販売店、藤川旅館、瀬川クリーニング―瀬川三男。野中に瀬川という苗字は一人しかいなかったので、たぶん三年一組で同級生だった瀬川三男の家だ。山田印刷、小っちゃな与田川橋、中里医院、たかや美容室、千葉化粧品店、種市石材工業、店名のないヒネリ棒だけの床屋。
「あ、鳴海旅館。私ここに勤めてました。仕出しもするんです」
 パチリ。ミカミヤマデンキ、松山旅館。仏具屋。松浦酒店、寿司蔦屋。松浦食堂。この近辺ではいちばん新しい建物のレンタカー事務所。
 バスロータリーにいったん停車して、見回す。シャッターの音。タイヤに踏み荒された雪。五年前にはなかった喫茶店と不動産屋が目につく。
「戻りますよ、ゆっくり」
 丹生がロータリーを一周する。軒の古びた民家を左右に眺めながら、だらだら坂を下っていく。カズちゃんは視線を凝らしながら何も言わない。まだ日は高いけれども大気は粉雪で灰色にかすみ、民家の屋根屋根の隙間に連山の頂上だけが浮いて見える。小橋を渡る。チラホラ人の姿が見える。長靴、あねさんかぶり、モンペ、綿パン、防寒ジャンバー、ダンボ帽子。恩田が感心したふうに、
「みんな滑るのを警戒して、ゆっくり歩いてますね。青森市とはちがうなあ」
 鳴沢橋の交差点。野辺地病院の給水塔を右前方に見やり、左折する。橋ばかり大きい野辺地川を渡る。ここが本町の坂の麓だ。軒の低い民家に商店が雑じる緩やかな上り坂の一本道をいく。このあたりで、仕事帰りのカズちゃんに遇った。カズちゃんもいま思い出しているだろう。
「雪道って、ほんとうに雪の道になるからたいへん」
「十二月くらいに雪道になるね。ゴム長でないと、歩きづらい。店々に明かりが灯りはじめると雪道はきれいだ。あ、ここ、中三の同級生、赤泊の家」
 赤泊林業という大げさな看板が掛かっている。往来する車のタイヤで雪がこそげた道をゆっくり登っていく。丹生が、
「この国道249号線は下北につながる幹線道路です」
 菅野のようなことを言う。空き地を挟んでポツポツと建っていた店舗の軒の間隔が狭くなる。かつて目の端に留めただけの雑貨屋や、薬局や、写真館、美容室、煙草屋、酒屋、畳屋、靴屋、銀行、本屋、食堂、小料理屋などが並んでいる。五年間ですっかり様子が変わっているように見えるのはなぜだろう。五年前に一度記憶したはずの店がだいぶ姿を消しているからかもしれない。カズちゃんが食い入るように見ている。恩田が不規則にシャッターを切る。
「さびしいけど、不自由なく暮らせる町ね。ありがとうございました。しっかり目に収めました」
「だいぶ消えてなくなったみたいに思うけど、それでもこんなに店があったんだね」
「やっぱりキョウちゃんのようなエトランゼには関心の持てない町だわ」
 ようこちゃんの文具店うさぎやまでくる。けいこちゃんの味噌屋倉の前を左折。何を売っているのかわからない沼沢商店、雪道で転んで骨を折った老人がよく世話になる戸館内科整形外科、客の姿を一度も見たことのない島谷カメラ店、ここにも大湊屋製菓。三島平五郎ちゃんの床屋の跡地だ。カズちゃんが車を降りて、和菓子を買った。
「空き地のお婆さんに」
 紙袋を座席の足もとに置く。
「ここを右に曲がると新道(しんみち)。左に曲がると、ぼくのかよった城内幼稚園。幼稚園は見なくていいや。どうせ建て替えてるだろうから」
 新道に入る。変貌の激しい野辺地町の中で、このあたりだけはまったくむかしと変わらず古い家並が残っている。たたずまいは内気で、なんだか愛想がなく、いつも物陰へ身をひそめている感じだ。しかし家並が変わらないのは安心のもとだ。教頭になったという中村マサちゃんの家、体育の立花先生の家、角鹿製麺所。まだ三時前なのに窓に明かりが灯っている。
「よくここの二階で、野辺地の金持ち連中の息子や娘たちが、祭りの笛太鼓の練習をしてた。貧乏人は参加できなかった」
 田代が、
「不文律ですね。富裕階級以外の子弟は子供会にも入れなかったんでしょう」
「何ですか、子供会って」
「終戦後、政府主導で各都道府県に作られた組織です。就学前の子供から高校生まで。PTAができたのと同じころです。いまや連繋して全国的な組織になってます。入会金や月謝があるので、裕福な家庭の子供で固まる傾向がありますね。入会しないと、町内会の行事にも参加させてもらえません」
「こんな田舎にも、そういう階級差ってあるのね」
「町全体が貧乏だから、階級差や身分差はわずかな所持金の差だね。井の中のカワズ同士の貧乏人蔑視というやつ。それは人の口から聞かなくても、子供心に薄っすらと意識してた。貧乏人たちの描くグラジュエーション。農民でも漁民でも、チョイと金があればブルジョア、かつがつ生きてればプロレタリアート。その二つの階級は、おたがいに付き合いはないけど、おたがいのことは噂で知っている。さっきのアパートの持ち主みたいにね。ぼくはもの心つかないころから〈よそ者〉だったから、その〈おたがい〉にさえ入らない。太鼓を叩いてたガキたちがどこのだれだか、いまもって、顔も、住んでる家も知らないけど……いま歩いてきた町並の中の金持ち商人階級の子弟ということだったんだろうね。ばっちゃはそういう階級の出だ。じっちゃは武士階級のなれの果て。商人はかつては一般庶民よりも一段低い身分に〈規定〉されてた。士農工商だったからね。だから、じっちゃに惚れたばっちゃは合船場に女中として入るしかなかったんだ。それで幸運にもじっちゃのお手がついた。精神的な階級差があるとするなら、たしかに江戸のころまではあったにちがいないけど、現実には江戸期からでさえ通用しない幻想で、長い歴史を通じて実際に肩身を広くして威張ってるのは商人だ。精神性をにおわせるブルジョアとまで言ってもらえる。でも、じっちゃは、ぼくに江戸明治の幻を刷りこんだ。おまえは士族の末裔だ、南部藩師範代の末裔だってね。おかげで、祭囃子の練習をしてるブルジョアたちに一度も劣等感を抱いたことはなかった。商人出のばっちゃも、時代に甘えて威張ることをしなかったしね」
 東奥日報連中の拍手が上がる。駄菓子や玩具も売っているヤジ煙草店、木立に隠れた正体不明の素封家の屋敷。カズちゃんが、
「この家、何かの学者だとか、政府の要人だとか、大商人だとか聞いたことがあるわ」
「いずれにせよ正体不明だね」
「そう……」
 浜中が助手席で掌を拍った。
「どうしました」
 丹生が尋く。
「商店以外に看板がありませんでしたね、つまり、どの一般の家も表札を出してないんですよ! これじゃ、おたがいに正体を知り合えるはずがない」
「なるほど、さっきのアパートの管理人の家もそうでしたね。こりゃめずらしいですね。郵便配達はどうやってくるんだろう」
「合船場も表札を出してないけど、郵便物はちゃんと届くなあ……。ま、いいや、考えないことにします。ここを左へ曲がると、野辺地中学校。そこがさっき言ったように、よしのりの家」
 数秒停車してみんなで眺める。幸い恵美子は出てこない。山本畳店、杉山惣菜店。名前を知っているのは商いの看板を出しているからだ。
「お祖父さんとお祖母さんのこと、だいたい理解できた気がするわ。そういうプライドって、時代に流されずに自分を潔く保つためには、とても大切なものだと思う。キョウちゃんがお祖父さんを偉大だと言った理由がわかったわ」
「そんなこと言ったっけ」
「言ったわよ。四十で囲炉裏の人になったじっちゃは偉大だって。お祖母さんも立派な人ね。そんな身分差の心理的な名残があったころに、勇気を奮って女中さんで入って、念願のお手をつけてもらって、それを一生の幸せに感じて、きょうまでおじいさんに尽くしてきたんだから。よっぽど愛してたのね。おじいさんの一本気も尊敬してたんでしょう。だから威張らなかったのよ」
 バンにもう一度ボール紙を差し、カズちゃんが老婆を訪ねて紙袋を渡した。老婆はしきりにお辞儀をした。


         七十八 

 みんなで合船場へ戻っていく。
「お祖父さんお祖母さん、私を見たら驚くでしょうね」
「別の意味でね。外人を連れてきたんじゃないかと思うよ」
 恩田が、
「空港を降りてからずっと、男どもが和子さんのことをチラチラ見てましたね。なんだか得意だったですよ」
 たしかに大柄で肉づきのいいカズちゃんは、ほかのどんな女よりも美しかった。カズちゃんは頬を染めて、
「女の人たちも、キョウちゃんのことを見てたわ」
 浜中が、
「美男美女のカップルを驚いて見てたということですよ。ほんとに二人は美しいから。ところで、神無月さんはよく飯場のことを口にしますが、どのくらいの期間いらっしゃったんですか?」
「たぶん、小学一年生の六月からほぼ一年間、それは鹿島建設の飯場です。小四の十一月から中三の十月まで五年間、西松建設。高二の夏から高三を卒えるまでの一年半、飛島建設。都合七年半の飯場暮らしです。正確には、土方たちのいる労務者棟ではなく、建築家や土木屋たちのいる事務棟でしたが、周囲の人びとからは一括して飯場と呼ばれてました。……飯場と頭に唱えるだけで、目が熱くなります」
「それぞれの時期を振り返って、印象深いできごとはありましたか」
「鹿島建設は破傷風、西松建設は肘の手術と島流し、飛島建設は受験勉強です。西松からは、カズちゃんという一本の道が貫いてます」
 合船場の真新しい玄関の前に立った。
「感じのいい家ね! あんなに近くに住んでたから、この家の前には何度もこっそり立ったわ。たいてい夜遅くだった」
 さっき車を停めたときは気づかなかったが、玄関脇から台所へかけての隘路の様子がむかしと変わっている。これまで突き出していた台所の出窓がすっきりと板塀に埋まり、大きな採光窓になっている。新しい板塀に釣り合った磨硝子の戸をカラリと引いて、覗きこむ。戸を開けた目の前の空間はただの半畳の土間になっていて、その先にむかしどおりの跨ぎ敷居があった。敷居の中へ呼びかけた。
「ただいま!」
 オーと遠くでじっちゃの声がした。長い土間へ六人で入った。土間も様子が変わり、十センチほど高く盛って叩き均してある。
「帰ってきたな!」
 障子を引いてばっちゃが顔を出した。みんなで新しい障子の前に立ち、いっせいに頭を下げる。紙巻き煙草を指に挟んだじっちゃが、囲炉裏の上座で微笑んでいた。囲炉裏とストーブの場所と煙突はもとのままだった。囲炉裏には自在鉤が垂れているが、何も釣られていない。ストーブの形がむかしとちがって天板の大きい長四角だ。燃料は重油だ。
「初めまして。北村和子と申します」
 カズちゃんが深くお辞儀をする。
「おんや、めんこいオナゴだでば!」
 ばっちゃの嘆声に、じっちゃが大きくうなずいた。カズちゃんは二人に笑いかけ、
「三十五の年増です」
 ばっちゃは目を丸くし、
「そたら年だってが! 十も若ぐ見えるでば。うだでめんこいオナゴだこだ。上がれ上がれ」
 みんなもう一度ばっちゃに挨拶し、囲炉裏のじっちゃにも頭を下げながら居間に上がった。じっちゃの右手の下座に私とカズちゃんが並んで坐った。カズちゃんの横に丹生が正座し、自在鉤越しに、私たちに向かい合って浜中と恩田と田代が端座した。
「ひんじゃ崩すんだ」
 ばっちゃがくしゃくしゃの笑顔で言い、浜中たちの背後にちょこんと坐った。カズちゃんはばっちゃのところへ立っていって、
「これ、名古屋の老舗の大福です。おいしいですよ」
 紙袋といっしょに押しやる。
「やあや、そたらことしねんだ」
 ばっちゃがうれしそうに膝もとに収める。紙袋を開いて見てうなずいている。じっちゃが一服つけると、恩田と田代も煙草を出して火を点けた。浜中と丹生は吸わないようだ。
「何時の汽車だった」
 ばっちゃが茶を出しながら問いかける。
「東奥日報さんの車で、飛行場からきた」
 浜中ら四人があらためて頭を下げ、
「おひさしぶりです。先々回、先回と合わせて、これで三回目になります。最初とその次の二回は、私とこの恩田で参りましたが、今回は長丁場ということもあって四人で参りました」
 田代と丹生が自己紹介する。じっちゃは煙草をうまそうに吹かし、囲炉裏の灰に先だけ突き入れ、
「みなさん、ご苦労さまです」
 と頭を下げた。
「今回はインタビュー取材と言うのではなく、神無月さんの帰省風景を撮らせていただくということで参りました。どうかよろしくお願いいたします」
 ばっちゃが目の前のカズちゃんをつくづく見つめながら、
「郷の恋人ってこのふとな」
「うん」
 私は北村席と親しくするようになった入団以来の事情などを語った。じっちゃがカズちゃんに視線をやり、
「すたら、なんだ、北村さんは箱入りてこどがな」
「とんでもないです。置屋という家業に反発して、飛び出して自立した口です。じつはキョウちゃんが西松の飯場に入った昭和三十四年は、私は大学を出て三年ばかり経っていたころなんですが、その三年のあいだに、私の不行届きで不和になっていた実家と和解するつもりで、父母の機嫌をとって見合い結婚をしたんです。かなり齢の離れた結婚だったので、しっくりいかず、生活を退屈に感じはじめて、表で働きたいなと思い、実家を出ました。私のいった大学は栄養学関係の大学で、結局理屈ばかり教わって卒業したようなものですから、ひとつ大勢の人に食事を作る現場の料理を学んで、栄養学だけじゃなく調理の腕もつけてみようと思い立ったんです。そんなつもりで西松の飯場に臨時雇いで入りました。で、たまたまキョウちゃんのお母さんの下働きをすることになって」
 田代のデンスケが回っている。ばっちゃが、
「飯場でてが。ふんとに変わりもんだでば。仕出し屋とが、給食センターとが、ほがにもいろいろあったべに」
「そういうところ働いたんでは、食べている姿を直接見られませんし、会話も交わせませんから」
「で、どたらにして郷とくっついたのよ」
 ばっちゃらしい開放的な訊き方をする。カズちゃんは薄紅色に頬を染め、
「私が下働きに入ったころは、キョウちゃんは十歳でした。私は二十五歳。十五も年上のうえに、結婚までしているくせに、出遇った当初から人間として深く打たれるところがあって、恥ずかしいことですが、恋心を抱くようになりました。もちろんそんなことは口に出さず一方的にお慕いしていました。お慕いする心を一途なものにするために、きっちり離婚をして身辺整理もしました」
「離婚までしたのな!」
「はい。それから五年間、陰に日におそばで暮らせて、心から満足していましたが、ただ一つ心痛むことがありました。キョウちゃんはお母さんからひどい精神的な虐待を受けていて、また肉体的にも利き腕が使えなくなくなる不運があったりして、見るからに哀れで、その状況をどうにかしたいと悶々としていましたが、何の案もなく、どうにもできませんでした。キョウちゃんが中学三年生の途中でこちらに送られたときには、とうとう生きた心地もなくなり、何もかも投げ捨てて追いかけてきました。それがよいことか悪いことか考える余裕はありませんでした。いずれにせよ、いまはこうしてうれしい生活を送らせていただいてます」
 浜中たちが感に堪えないという表情をした。じっちゃがウッホッホと笑い、古い茶っ葉を捨て、手ずから新しい茶をいれてカズちゃんの湯呑みに注いだ。
「郷も変わった男だけんど、あんたもうだでぐ変わったふとだな。真っ正直で、胸具合がいぐなるじゃ」
 ばっちゃが、
「ほんによ。キョウの面倒見、よろしぐな。あんたなら安心だ」
 カズちゃんは野辺地に追ってきてからの事情をかいつまんで話した。
「五年前に顔を出さなかったのは、キョウちゃんの評判にこれ以上傷をつけてはいけないと思ったからです。生活を変えたばかりのとても危ない時期でしたから。いまはプロ野球選手になるという念願が叶い、おおきに安心しています。評判という意味では、私どものような女の存在をほのめかすのは常に危ないということは重々承知していますが、今回はキョウちゃんに誘われたこともあり、キョウちゃんの今日をあらしめてくださったお二人に、どうしてもお礼を言いたいという気持ちもあって、同行してきました。目立たないようにしますのでご安心ください。キョウちゃんが青森の講演に出かけるまで、家事などお手伝いさせていただきます。何なりと御用をお申しつけください」
「できたオナゴだでば。末永く郷をよろしぐな」
 東奥日報連中が大きくうなずく。浜中が、
「ところで合船場という屋号はどういうところから?」
 じっちゃが、
「士族の商法せ。維新になってから造船所をやったわげよ。造船所のこどをガッセンバてへるのよ。野辺地は盛岡藩の商港だったんず。日本一古い常夜燈があるべ」
「はい」
「野辺地湊には、江戸の初めっがら、裏日本通って北前船やら貿易船やらいろいろ産物を載せてきてらったんだども、江戸の終いから明治の初めにかげで、帆布を改良した船がバンバン入ってくるようになったんず。ほんだすけ、そたら修繕商売でも儲かったんず。だども、ワのじっちゃとオヤジが二代して酒と女に使い果たしてしまった」
 ばっちゃが、
「して、二人ども若死にだ。ホホホホ」
 カズちゃんがじっちゃに、
「そういうところへ、お祖母さんの持参金は役立ったでしょう」
「そのとおりだじゃ、ウハハハハ」
 ばっちゃが立ち上がり、
「小腹へったべ。ホタテの五枚もかへら。漬物出すすけ、それでままけ」
 丹生のビデオが回りはじめる。浜中が、
「ホタテのことは、神無月さんから聞いて、楽しみにしてました。私どもはここにくる道中でその種の店に寄ってホタテ弁当を食べたんですが、神無月さんは頑として食べませんでした。野辺地のホタテには敵わないとおっしゃって。ごはんは神無月さんだけに出してあげてください。私どもはホタテをいただきます」
 じっちゃが、
「うめど。今朝、浜から上がったばりだすけ。……な、郷、いづだっだが、まンだジェンコ送ってよごしたべ。もうあたらこどすな。家三軒建ででも余るほど金貯まってすまったすけ。台所も風呂も便所も、暖房もちゃんと新しぐした。電話も入れだし、ほれ、テレビまンである。おめが三月に送ってよごしたカラーテレビだ」
 板の間の隅を指差した。障子から垣間見たときに気づいていた。風呂場は縁側から畑に向かって突き出す形で増築してあり、台所に接して通り抜けられるように、いままで薪置き場と落とし便所だった奥土間が広い洗面所と水洗便所に造り替えてあった。その便所までいかなくてもいいように、ばっちゃの部屋からもじっちゃの部屋からもいける水洗便所も隣家との境にしつらえてあった。どちらの便所も浄化槽式だった。
「汲み取りは一年にいっぺんだ」
「縁側を風呂と台所につなげ、台所を便所につなげたのは名案だったね。じっちゃの部屋の根太も直したの?」
「直した。根太はぜんぶの部屋をやっつげだ。やってねのは、ワの寝間の外塀だげだ。今年中にやら」
「塀は頑丈に直したほうがいいよ。なるべく早いうちに。水洗便所がじっちゃばっちゃの部屋のすぐそばに一つ、台所のそばにも一つあるから便利だね。問題は台所の寒さだ。せっかく重油タンクを入れたんだから、台所にも配管して焚けばいい」
 ばっちゃが、
「すたらにするこだねえの。台所は、ちゃっけ石油ストーブふとつで足りるすけ」
「そう? スモモの木のある裏庭は、夏がきたら植木屋に頼んで、最低限の手入れをしたほうがいいよ。草ムグラになっちゃう」
「わがった、そうすべ。おめの給料が大した上がったこどは、新聞さ載ってらったすけわがってるども、オラんどとは関係ねこった。もう何もしてくれなくていいはんで、これからはてめの身に使え。かっちゃさだいぶくれてやったらしな。かっちゃもいい気なもんだじゃ、あったらにおめから血搾り取るみでなこどして、ちゃっかりもらうほうさ回ってしまってよ」
「ぼくが勝手にあげたんだ。給料や賞金もけっこうなものだし、カズちゃんやいろいろな人が援助してくれるから、苦労なくやっていける。金を使うあてがないんだ」
「いろいろなふとてが? だば、そういうふとさ恩返しすればいがべ。ふとに援けられるのは恥でね。たんだ、お返しをしっかりして、てめの本分を果たすんで」
「うん」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんは私たちを潤してくれてます。私たちは、キョウちゃんを援助なんかしてないんですよ。キョウちゃんが逆に、みんなに援助してくれてます。立派な人です」
 ばっちゃが台所から取って返して、囲炉裏の枠板に私だけ一膳の山盛りめしと、ほかの六人には小皿に載せた大根の粕漬けを置いた。角長のストーブの天板に何枚もホタテが載る。カズちゃんが、
「お漬物、おいしい!」
「うめが? いるあいだは、うめものジッパと食わすすけ」
 私は漬物を齧りながら箸を動かした。




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