八十八

「そんな大した人間が、何人もの女と寝るかな」
 私が言うと、セツは笑いをやさしくし、
「どたら男も五人、六人の女とヤルべ。それが五十人、六十人になったら、どうちがってくるのよ。みんな覚べでら、転校したばりの神無月くんが、外人みてなめんこいオナゴ連れて歩いてらったの。キンタマぶら下げた生身の男だ。オナゴとマンジュウするのあだりめだべや。そたらの、何のキズでもね」
 寛容をてらった言葉ではなかった。私はセツの物言いから、男たちに処女と思われている彼女に肉体の経験があることを悟った。この男たちもそれを知っていて、とぼけているのかもしれない。岡田パンがわが意を得たりという顔で、
「ワもホッとしたでば、神無月もオナゴとやるってわがってよ」
「やりまくりだよ。三百六十五日やってる」
「へるでば! わんじゃとパヤパヤしねくていじゃ」
 ひとしきり笑いの渦が巻いた。ガマが、
「神無月、まんいぢ、将来こっちゃさ戻ってくるこどになったら、合船場の改築、ロハでやってける。隅々まで新しぐな。まンだ足りねとごあるすて」
「柱はオラがやる」
 赤泊が言った。私は、
「ほんとにどこまで親切なんだろうね。何者? ……遊びにはくるけど、戻ってこないよ。ひっきりなしに持ち上げられたくないから」
「―だべな」
 ボッケが言った。セツが、
「そんだこった。たまにきて褒められるのは、愛想よぐされたと思れば大して気にならね。だども、毎日ちやほやされでだら、気持ちっコこぇぐなってまるべし。こっちもコチコチにからだが固まってしまるびょん。神無月くんを褒めるこどは、てめを褒めるこどになるはんでな。ほんだべ? 佐藤菓子よ、毎日てめのこどばり褒めでたら、ぐったりしてまるべ?」
 肥大漢の岡田パンが、
「ほんだこってよ。オラだっきゃ、褒める種がねすて、いっぺんでも褒められだら、疲労死するじゃ」
 スズの手でつまみが三皿、四皿と出てくる。焼きそば、肉野菜炒め、人参スティック、チーズ盛り合わせ。
「だば、歌っこいぐか。巨人の星!」
 岡田パンが叫ぶと、セツが、
「すたらの聞きたぐねじゃ。神無月くん唄ってけへ」
 ガマが、
「神無月、唄えるのがァ」
「うん、褒めないと誓うなら、唄う」
 赤泊が、
「すたらにうめのが。田島より?」
「声の種類がちがうけど」
 私はセツからカラオケのメニューを受け取った。曲数が少ない。しかも古い。古い歌は好きだが、知らない歌は人の耳に障る。数年前の曲を選ぶ。
「愛田健二の琵琶湖の少女」
 セツが、
「その歌、好きだァ」
 いままでじっと話を聞いていたスズが明るい声で、
「その歌、この店でだれも唄ったこどながった」
 と言って、私にマイクを差し出した。エコーを切ってもらった。かなり質のいい音で伴奏が始まった。私はボックスを出てスポットライトの下にいき、すぐに唄い出した。

  比叡おろしが 冷たく散らす
  落葉を染めて 夕日が沈む

 唄い出したばかりで、一同の顔が一種異様な感動に引き攣り、笑顔が消えた。

  かわいいきみの 面影を
  捜し求めて 琵琶湖にひとり
  ボート漕ぐのさ きょうもまた

 ボッケが思わず立ってきて、私の口もとを凝視した。ほんとに私の喉から声が出ているかどうか確かめようとしているようだ。

  赤い椿の 花咲くころに
  初めて遇った かわいい人よ

「まぢげね。神無月が唄ってら」
「あだりめだべせ。田島どころでねど」

  オールを流して 泣いていた
  きみがとっても いとしくなって
  ぼくのボートに 乗せたっけ

「神無月くん、すごーい!」
「プロだでば」
 間奏のあいだじゅうしゃべりまくるので、
「褒めないで!」
 私は声を上げた。みんなすぐに静まり、背筋を伸ばしてスポットライトを向いた。スズは目を涙で濡らしていた。

  名前なんかは 知らないけれど
  忘れられない 琵琶湖の少女
  おそらくこれが 若い日の
  胸に芽生えた 初恋なのさ
  風よ やさしく吹いてくれ

 拍手すら上がらない。私はボックス席に戻った。セツが泣いていた。岡田パンまで奇妙な笑いを浮かべて目を潤ませていた。ガマが、
「神無月、そごまでスーパーマンなのは犯罪だでば。ふつうの声でねな。なんだが、南部風鈴おんた、いい音するコップ叩いてるおんた」
 ボッケが、
「ずっと聴いていて声だ」
 セツが、
「神無月くん、飲みすぎだが? 脂汗かいてるど。苦しいのな。胸ハカハカしてらな?」
 ガマが、
「歌も死ぬ気で唄ってるんだべ。もう唄うな」
 それからみんなは私をいたわるようにカウンターに坐らせ、めいめい好みの歌を唄った。へたくそ、とか、引っこめ、などと罵り合いながら、愉快に唄った。セツとスズが腕を揮ってつまみを何品も作った。賑やかな歌声に釣られて徒党が入ってきた。セツが、
「貸切りだ!」
「まンだ十人ぐれ入れべせ。入れろじゃ」
「きょうはだめだ。カンベンな」
 それが二度、三度とつづいたが、セツはけっして客を入れなかった。ガマたちはひっきりなしにつまみを食い、飲み、唄った。私もときおり、セツやスズのつぐコップを傾けたが、いくら飲んでも酔わなかった。
 十一時を回ってボッケが、あしたの仕こみがあるすけ、と言うので、それを潮にみんなで立ち上がった。ドアを押して、セツたちもいっしょに雪道に出る。ガマが大きな口を狭めて煙草の煙を吐き出しながら、
「一晩、夢みてだったじゃ。来年も楽しみにしてら」
「毎年はこれない。いろいろ忙しいんだ」
「そんだな、オラんども何年がにいっぺんにすっが」
 ボッケが、
「そのほが集まりがいがべな」
 赤泊が、
「十年にいっぺんぐれにしたらどんだ」
 ガマが、
「それだば空きすぎだ。五年に一けにすべ。グダ山呼ばねでよ」
 セツが、
「呼ばねば齢とって死んでまるよ」
 岡田パンが、
「なも。いまだっきゃ、七十、八十ふつうに生ぎる。オラえのじっちゃ、八十二でェ」
 赤泊が、
「だば五年で掌拍つべ。神無月、五年後な」
 五年なら約束しなかったも同じだ。私は快くうなずいた。ガマが私に尋いた。
「合船場にいづまでいるのよ」
「六日の朝まで」
「あさって、ボッケの店で茶っコ飲むべ。きょうのあしただば落ぢ着かねべ」
「何時?」
「閉店の七時」
 これほど人に会いたがるのは、人生に後悔が多いからだ。後悔が静かな町の地下を水脈のように流れる。女二人が箱看板の前で寒そうに両手を擦り合わせている。彼女たちの後悔は何だろう? この町の住人だった私の後悔は?
 一晩じゅう何十人もの定住者たちを見てきて、私は、根無し草の自分にはもともと後悔などまったくなかったことを知った。セツが巨体を丸めて私と握手し、
「ああ、ブルブルすじゃ。神無月くん、きょうはほんとにありがと。また会うべし。元気でいでね」
「セツさんも元気で。店の繁盛祈ってる。いい旦那さん、見つかるといいね」
 セツはスズの肩を叩いて、ガハハハと笑った。
         †
 佐藤菓子の薄明るい軒灯の前から、赤泊が手を振って駅のほうへ引き返していった。私もボッケたち三人に手を振って新道へ引き返した。彼らは道を渡り別のスナックに向かって歩いていった。鉄の肝臓の持ち主たちだった。
 カズちゃんは寝床で丸くなっていた。蒲団にもぐりこむと、お帰りなさい、と囁いてキスをした。そうしておもむろに握ってきた。かなり酒が入っていたのにすぐ勃起した。意図せずに誠意の証が立てられてうれしかった。
「できる?」
「うん、お風呂の約束どおり」
 挿入すると、懸命に喉を絞って声を抑えながら、たちまち気をやった。しばらくそのままじっとしていると、カズちゃんは少し自分で腰を動かした。そして強い痙攣をした。けっして声を上げなかった。引き抜くとき、もう一度激しくふるえた。青春を終えた老人たちに青春の声を聞かせてはならないという気遣いだった。酔いで性器が麻痺していたのか、射精しなかった。
「ありがとう、キョウちゃん……」
「きょうの夜もね」
 カズちゃんはうなずき、蒲団に潜って私の性器を清めた。下着をつけないまま、二人肌寄せ合って眠った。


         八十九

 十二月三日水曜日。六時半起床。熟睡。朝から雪。一・四度。酔いは残っていない。肝臓が生まれ変わったような気がした。枕もとに用意してあるパンツ、ももひき、長袖シャツ、ジャージを着て身じまいをする。
 カズちゃんとばっちゃが物音を立てている。パンと玉子の焼けるにおいがする。ジャージを着て起きていくと、新聞を読んでいたじっちゃが上機嫌な笑顔を向けた。
「お、起きたが」
「うん、よく寝た」
 カズちゃんが飯台で食パンを焼いている。焼き上がったパンにバターを塗る。
「きのうトースターを買ってきたのよ。たまにはパンもいいでしょう」
「きのうの夜は挽肉野菜カレーだったの?」
 ばっちゃが、
「ほんだ。うめがったよ。からだがホクホクしたじゃ」
 じっちゃが、
「うめがった。海軍のカレーよりうめがった」
「軍艦にもカレーがあったの?」
「おお、週にいっけ、まんつ土曜日な。カレーとへれば海軍よ。牛肉ばりでなく、鶏、エンビ、アサリもあったな」
「それに福神漬け」
「でねのよ。チャツネ」
 カズちゃんが、
「まあ、チャツネ。からいのですか、甘いのですか」
「両方よ。ワはかれほうだった」
「何、チャツネって」
「野菜と果物を煮詰めたジャムね。からいほうはチリペッパーを混ぜるの」
「皿の脇さ大匙一ぺ載せるのよ」
 ばっちゃが、ストーブの上のフライパンに屈みこみ、
「一つ目できたど」
 うれしそうにハムエッグを皿に移す。二人前、三人前と作っていく。トーストに合わない味噌汁鍋がフライパンの脇に載っている。こういう組合せもオツかもしれない。
「顔洗ってくる」
 台所から裏土間へいき、洗面台で歯を磨き、顔を洗う。ついでに下痢便。シャワーがないので、縁側廊下を戻って風呂場へいき、桶に汲んだ水で尻を洗う。シャワーというのは便利なものだとつくづく思った。
 バタートースト、スクランブルエッグ、ベーコン、紅茶。じっちゃの卓袱台には別のおかずが載った。目玉焼き、ホウレンソウ炒め、板海苔、納豆、豆腐と油揚げの味噌汁。もちろん主食はパンではなく白米だった。うまい朝めしになった。じっちゃのはち切れそうな笑顔と、ばっちゃのやさしい微笑み。カズちゃんがそれを眺めて大満足している。食事を終えると、
「きょうも一日、おいしいごはんを作りますね。さ、キョウちゃんの散歩にくっついていって、めぼしい食材を買ってきます」
 ばっちゃは黒い防雪ショールをカズちゃんに与えた。頭からかぶるやつだ。オーバーの肩にはおる黒いストールも与えた。私はじっちゃの麦藁帽子を借り、オーバーをちゃんと着た。じっちゃが、
「関東から南の雪は、空の気温が高げすけ、ペチャっとして服汚すんだ。したはんで、傘かぶんねばまいね。こっちゃの雪はサラサラ雪だすけ、すぐほろごれんだ。ザンザン降る雪でも、マフラみでなかぶりもので間に合うじゃ」
 あの冬、たしかに傘を差して登下校する生徒は私ぐらいしかいなかった。奥山の宿直室から出たあと、母に傘を差しかけてやった夜道を思い出した。
 七時半。カズちゃんと二人ゴム長を履いて玄関を出た。雪道がまぶしい。カズちゃんが輝いているせいかもしれない。県道へ出て、飽きずにきのうと同じコースをとる。八幡さまの前から農道へ入る。三百メートルほど歩き、野辺地川に架かる橋を渡る。さらに同じくらいの距離を歩き、観音林の野村豆腐店を少し過ぎたあたりまでいき、左手の脇道を見通すと、道の中ほどに村上タイルという小さな看板を発見する。そのあたりに小橋が見えた。野辺地川が流れているようだ。
「枇杷野川と言うのよ。野辺地川の支流が枇杷野川と下与田川。野辺地の川はその三つ」
「興味を持たないと、すべては闇の中だね。あれがガマの立ち上げた会社だ。場所を確認したからもういいや。戻ろう」
 野村豆腐店で買い物。絹三丁、木綿二丁、厚揚げ二丁、油揚げ二枚、納豆一筒。一つのビニール袋に収まった。これで三百円というので驚いた。
 小橋の手前で右折する。真っすぐ歩いて、城内幼稚園に突き当たる。きのうもきょうも同じ狭い場所をうろうろしている。まるで猫のようだ。そうカズちゃんに言うと、
「そうね、二人がそんなふうにかわいらしく映ればいいわね」
「六日の予定はどうなってる?」
「午前に合船場を出て、青森駅前のグランドホテルにチェックイン」
「決められた時間よりも早くチェックインできるの?」
「プリチェックインと言って、何時でもいいのよ。キョウちゃんは昼に青高の講演。夜は―」
「白百合荘。これが……悩むところで……羽島さん、ヒデさん、ミヨちゃん、三人がいる」
「……難しいわね。なんとかその三人にじょうずに時間を作ってあげなくちゃ」
「葛西さん夫婦は、青高まで講演にきてなぜうちに寄らないんだ、と思うだろうね」
「そうかしら。寺山修司さんたちとホテルかどこかで会食してると思うでしょう。もうむかしのように時間を自由に使えるキョウちゃんじゃないんだもの。でも、ちょっと悲しい気分にはなるでしょうね。問題は白百合荘にいるその三人よ。講演のあと白百合荘に寄らないわけにはいかないでしょ。翌日は日曜日で、夜の七時二十分の飛行機だから、ちっとも焦らなくていいんだけど……。どうしてもセックスしてあげなくちゃいけないのは羽島さんだけよね。去年親密になった秀子さんは春に受験で名古屋に出てくるし、美代子さんとはまだ関係ができていないわけだから、白百合荘でお話するだけですむでしょう?」
「そうだね」
「……六日の午前にどうにか羽島さんにコンタクトをとって会うというのも、昼に講演があることを考えると時間的に無理があるから、思い切ってあした野辺地に呼んじゃいましょうか」
「合船場には泊まれないよ」
「もちろんよ。私たちが馬門温泉に日帰りでいってくるということにして、野辺地駅で彼女を拾っていっしょにいけばいいの。温泉に浸かってゆっくりして、セックスもして、三時ぐらいまでに野辺地駅に送り届ければ、白百合荘の夕食の支度になんとか間に合うでしょう?」
「なるほど」
 本町の大通りに出る。カズちゃんは公衆電話ボックスに入ると、手帳をめくってユリさんに少し長い電話をした。やがて指でオーケー印を作って出てきた。
「とってもうれしそうだった。泣いてたわ。あした九時半ぐらいに着く汽車でくるって」
「よかった」
「野辺地駅前から馬門温泉行バスが出てるから、それに乗りましょう。一時間に一本、ぜんぶ五十分に出てる。馬門からの帰りは、駅までタクシーね」
 本町を歩き出す。
「このいかめしい建物が青森銀行。これだけが明治時代の建物みたいだね。真向かいのでっかい市場みたいなやつが、カズちゃんが最初勤めようとした五十嵐商店か」
「店内がものすごく広くて、何度きても驚いちゃう」
「ほら、ここがボッケの佐藤製菓だ。立派だろ」
「ほんと。寄ってく?」
「いや、話すことがないからね」
「話すことがないって……つらいわね」
「威張ってるわけじゃなくて、共通の言葉を思いつかないんだ」
「愛する者だけが理解する―キョウちゃんの口癖よ。でも、理解されるのをあきらめて人と接することも生活の大切な知恵だと考えてね」
「きのうの同窓会みたいに気楽にあきらめることだね」
「そうよ」
 ひっそりとしている土蔵を指差し、
「けいこちゃんの味噌屋の蔵。もう、ただの廃墟」
 カズちゃんはじっと黒ずんだ壁を見つめ、会いたかった、と呟いた。うさぎやを曲がって、山田三樹夫の家の前にくる。
「ここが、山田三樹夫の家」
 カズちゃんは嘆息しながら、
「……白血病で死んだお友だちね。キョウちゃんの心の深い傷。死なせたくなかったわね」
「うん」
 価値あるものに対しては、カズちゃんには嘆息以上の想いがある。だから、山田三樹夫の母親や妹のことを話題にする必要を感じない。取り返しのつかない疎遠になるべきものとは、疎遠になっていけばいい。粉雪が降りつづけている。右折して、ぬかった道を直進する。
「スナック海幸。きのうの二次会の場所。中三の同級生だった西舘セツという大女がやってる店だ。百メートルぐらい向こうに、華竜という大きな看板が見えるね。あれが同窓会の会場だった。その先にいっても、町役場ときのうお参りした寺があるだけ。戻ろう」
 うさぎやまで引き返し、金沢海岸への道をたどる。カズちゃんはもう一度土蔵の壁を見上げた。住宅の寂れてくるあたりまでひたすら歩く。海が見えてきた。海に向かう適当な道を選んで下っていく。
「金沢海岸。このあたり一帯は有名な海水浴場だ。この海沿いに浜町までいこう。おとといばっちゃといった坂本さんの家のあるあたり。民家と崖しかない道を一キロは歩くよ」
 二人で海や崖を眺めながら歩く。四郎と雪球を投げ合った海岸。
「この切り通しの崖には、花がたくさん咲く。ばっちゃにその名前を尋くと、たちどころに答えるんだ。土地特有の呼び名もあるんだろうけど、ぜんぶ答える。クイズ大会に出たらチャンピオンになれる」
「その影響で、キョウちゃんもたくさん花の名前を知ってるのね」
「ばっちゃに比べたらほんの少し。井之頭公園の花を図鑑片手に憶えようとしてみたことがあったけど、無理だった。ばっちゃには太刀打ちできない」
 チッコが見える。
「しゃがみこみたくなるくらい寂しい風景ね」
「けいこちゃんの土蔵も、山田三樹夫の病院も、見る必要がなかったかもしれないね。心の中に暮らしてれば、外の景色なんか見なくてすむ」
「……大切な過去の名残よ。キョウちゃんは過去の景色を見つづけてきたんだと思う。詩にたくさん書いてあるもの。心がその景色を美しく変えて、いま目の前に見えてるのよ」
「過去の重要性はいろいろ学んできたし、実感もしてきた。そこからあらゆる成果が生まれることも理解してきた。でも、過去をなぞったり、探ったりしながら動き回るのに疲れちゃった。きょうを真剣に生きる仲間がいれば、きょう一日はこと足りるよ」
「芸術家がそんなふうに考えちゃだめ。郷愁は芸術をさえ生み出すわ。芸術はきょう一日ですむことじゃないのよ。自分が芸術家であることを忘れないでね」
 浜坂まできた。
「海さしてなだれていく坂道に澎湃(ほうはい)と……」
「うん。ほんとうに何もない道。海を見るための坂道だ。よくじっちゃと焚きしろの柴を載せてリヤカーを牽いた」
 カズちゃんは振り返って、しばらく海を眺めた。
「この角を曲がると、お祖父さんの弟さんの家。小さな女の子が二人いて、まとわりつかれた。弟さんは、お祖父さんを一回り小さくした感じの人で、顔の四角いところまでそっくりだった。お嫁さんは私よりちょっと年下の人で、坂本さんの奥さんよりさばさばしてた。おしゃべり。キョウちゃんのこと、よく知ってるようだったわよ」
「ばっちゃの噂で知った気になってるんだね。ばっちゃは、人嫌いのじっちゃの顔を立てようとして、浜よりも頻繁に惣介さんの家を訪ねるから」
 踏切に出る。もうけいこちゃんのことは言わない。私もカズちゃんも心の中で呟くだけだ。ここからは郵便局まで土地が平坦になる。線路を眺めやる。この数年で草土手がきちんとアスファルトに整備されている。だからきちんと雪が積もっている。レールに沿って歩く。右手の下方に、きのうランニングを見かぎったサブグランドが見えてくる。私が黙っているので、カズちゃんは言葉を待っている。どうしてもけいこちゃんのことをしゃべってほしいのだ。
「あの野球グランドのライトの崖下に、水神宮というお社があるんだ。きれいな水が湧いてる」
「そうなのね」
「佐藤家の屋号の合船場というのは、じっちゃが言ってたように造船所のことでね、船材をその神宮の池に浸して使ってたらしい。士族の商法―じっちゃの祖父一代で財をほとんどすり潰して、二代目で萎み切った。その子孫が新道に暮らしてるわけだね。たぶん遊郭に入り浸ってそうなったんだと思うけど……そんなことはどうでもいいや」
「大万旅館のあたりね。きのうお祖母さんから聞いた……。この土地の人たちは、元旦の深夜に若水をとりにいくのね。その話がしたかったんでしょう?」
「うん。水神宮から町へ戻るのは、このグランドを通ってくるのが近道だけど、踏切がないから線路を直接渡ることになる。……深夜には貨物列車が通る。ちょうどここはきついカーブになってるから、近づいてくる汽車のヘッドライトが見えない。見えたときはすでに手遅れだ。子供だから、はしゃいで、お母さんより先に走っていったんだろう。……さあ、注意して渡ろう」
「キョウちゃん」
「ん?」
「大きくなったけいこちゃんが私だと思ってね」
「うん、いつもそう思ってる」


         九十

 野辺地中学校の校庭に入る。三階建の木造校舎が広い校庭をLの字に囲んでいる。いちばん端の窓ガラスを指差す。
「あそこが三年一組の教室。こっちの三階建は一階が体育館になってる。マンモス中学校だろ?」
「感無量ね。十五歳のキョウちゃんのたどった足あとを目の前に見てる」
「名古屋西高も見たし、青森高校も見たし、このあいだ報告したように川原小学校は見るに値しないし、残ったのは岡三沢小学校だけだね」
「あさっていってみたい気もするけど、お祖父さんお祖母さんとできるだけたくさんすごしてあげたいし、今回はそれがいちばん大切なことだから」
「うん」
 校庭を突っ切って裏手の道を通り、もう一度銀映の通りに出た。
「五十嵐商店にいきましょ。食材を三日分買わなくちゃ」
「何を作ってあげるの?」
「そうねえ、今夜はキンキの煮付け、がんもどきと玉ねぎの煮浸し、あしたの夜は、ウニのスパゲッティにしましょう。麺を柔らかく茹でるわ。朝と昼はそのときに考える」
「スパゲッティなんて、じっちゃもばっちゃも初めてだろうね」
「玉ねぎとしいたけが決め手。あさってはあさってで考えるわ。きょうのお昼は、残ってる豚コマを使って肉豆腐にしましょうか。お祖父さんは寝るのが早いから、夕方は早めに支度にかからなくちゃ」
 眼鏡をかけて五十嵐商店に入る。カズちゃんはだだっ広い店内を細かく歩きながら、野菜、肉、魚などの食材や、味噌、醤油、ウースターソース、味の素、胡椒、七味、サラダオイルといった調味料を仕入れた。備蓄用にしておくつもりだろう。
 両手にビニール袋を垂らして二人店を出た。店内で顔見知りには出遇わなかったが、買物客たちは立ち止まったり、横目を使ったりしてカズちゃんと私を見ていた。西舘セツに言われて初めてわかったように、どんなにびっくりするような事実を目撃しても、口さがなく噂を立てたり警告したりせずに、言うべき機会が到来するときまで長く胸にしまっておくという奥ゆかしさは、この土地の人びと特有の習慣のようだ。彼らはしっかり観ていて、しっかり理解している。加えて彼らは、一見無関心に思えるほど並大抵でない度量の広さを備えている。ありがたいかぎりだ。
 玄関前でショールや麦藁帽の雪を払い落とすだけですんだ。ただいまを言い、じっちゃの下座に坐っていつもの図になる。
 昼めし。カズちゃんとばっちゃは、野村豆腐店で買った木綿豆腐と豚コマで肉豆腐を作った。ばっちゃはカズちゃんに味付けを教えられながら、嬉々として台所を動き回る。
「ときどきお祖父さんに作ってあげてくださいね」
「そうすじゃ」
 残りのおかずは香の物と、タマネギとジャガイモの味噌汁だった。じっちゃはとくと満足した。
「あした、キョウちゃんとバスで馬門温泉にいってきます。日帰りで四時までには帰ります」
 ばっちゃが、
「おお、のんびりしてくんだ。湯がいいすけ、肌がツルッツルになら」
「九時ぐらいにここを出ます」
「天気いいうぢに蒲団干しておぐすけ」
「すみません」
 食後の歓談はじっちゃの独擅場になった。彼の海軍話をカズちゃんは根気よく聴いた。ときどきじょうずに合いの手を入れたりした。
「ロシアはあんなに広いのに、なぜもっと領土をほしがるんでしょうね」
「たんだ広いだけで、身になる土地が少ねのよ。寒帯、亜寒帯ばりだすけ。天然資源てへてから、商売下手だば、宝の持ち腐れだべ」
「ロシア人は残虐だと聞きますけど」
「社会主義、共産主義みてに階級制度がビシッとするど、ふとは残虐になんだじゃ。ロシアにかぎらね、資本主義の国でもふとは階級に縛られるど、職務に忠実に残酷なこどをすんだ。たンだし、資本主義は上がらの粛清というものがねはんで、残酷なこどしたら世論が動くすけ、支配者も本心を抑えねばなんねのよ」
 じっちゃは満足そうに茶を何杯も飲み、煙草を何本も吹かした。女二人は後片づけに台所に立った。玄関の戸が開く音がして、
「いるがい?」
 だれかが玄関敷居を跨いで土間に入ってきた。台所からばっちゃの声がした。
「おや、ハナちゃんだてが」
 ハナちゃんは肩の雪をはたきながら、
「雪がムッタど降ってきたでェ。キョウちゃんが帰ってきてらって聞いで、よしのりの様子尋くべと思ってせ」
「上がってへ」
「なも、なも」
 私は障子から顔を出した。ハナちゃんはカズちゃんをチラチラ見て、上がろうとしない。
「よしのりとは夏以来会ってません。仲間たちと全国を巡って歩いてるようですよ」
「……きれいだ人だこだ。キョウちゃんのいい人がい?」
 私の返事を聞いていない。カズちゃんを見にきたことは明らかだった。ばっちゃがハナちゃんに言った。
「恵美子が見てこいってへったんだべ。恵美子もいづまでも郷のこど思ってねで、早ぐ嫁さいったほうがいんだ。いい男がいぐらでもいるべ」
「日本一の表彰されたふとだおん、高嶺の花だ。とっくにあぎらめで、国家試験の勉強してらい。なもよ、きれいだふと連れでだって、田島のババがら聞いてよ、ちょっくら拝みにきたじゃ。やあや、イツミちゃんどころでねな、人間離れしてるでば。へば、ワ、用事があるすて」
 サッサと引き返していった。
「馬鹿ケが」
 じっちゃが吐き出した。ばっちゃもうなずき、
「ああやってキョロキョロ生ぎでんだ。だあ、よしのりのこど聞きてもんだってが。恵美子ふと筋だべ。郷のこどが好きだオナゴなら、このあたりにムタムタいら。逆立ちしても和子さんにはかなわね」
 カズちゃんが、
「ありがとうございます。その期待を裏切らないよう、がんばります」
 あした七時にボッケの店で会う約束を思い出した。危うく忘れるところだった。本丸の門外で出会う人からなかなか解放されない。一たん城を出たら、なるべく日常的でないことを話す人間に拘束されたい。人事の毀誉褒貶に関わる話題がほとんどで、せいぜい突飛な問題提起をしたとしても、キリストや釈迦が散髪をしたか、鼻くそをほじったかぐらいのコケおどしで終始するような人間と会話をしたくない。
 炉端に坐る。南部煎餅が出て茶になる。じっちゃが非日常を語りだす。
「トビウオが飛ぶのは、下からマグロみてな大型の魚に狙われるからなんだじゃ。船のエンジン音にたまげだとぎにも飛ぶ。距離もすげんだ。海面の二メートル上を百メートルから三百メートル飛ぶ。時速は三十四マイルだ。鳥よりも早え」
「からだが軽いんだね」
「ンだ。サンマやイワシと同じで、胃のねえ魚だ。からださ食いもの溜めこまね。食いものってへってもプランクトンだ。骨も軽くでき上がってる」
 カズちゃんがばっちゃに、
「野辺地の特産品て、どういうのがあるんですか」
「まんず、カワラケツメイ茶だな。豆茶だすけ、うだでいいカマリすら。血圧さ効ぐず話だども、あれ飲むど下痢するはんで、ワは飲まね。ほがには、小カブ、長芋、ホダデ、トゲクリガニ、坂本で食ったやつどはちがるど。特産でねけんど、ボッケの店の芋菓子も有名だ」
 じゅうぶんな情報だ。
「ホタテに食えない部分てあるの?」
 じっちゃが、
「黒いとごはウロてへって、肝臓と膵臓だな。貝毒が溜まることがあるすけ食えね。貝柱の周りにくっついてるエラも食わねほうがいい。うまぐねすけ。貝柱さ黒い筋がついてるこどがあるべ。あれはクソだ。取ってしまる。食えるのは貝柱と卵と精巣とヒモだ。ヒモは外套膜てへて、殻を作る役目のもんだ。ヒモについてらポチポチ黒い点は眼だ。光しか感じね」
 カズちゃんが感嘆の目を輝かせる。私は、
「貝毒って何?」
 じっちゃが、
「ドグのあるプランクトン食って溜まったドグだ」
 私は彼らに導かれる。彼らがいなければ、私は道端で風に吹かれるただの草だ。生えて萎れるだけ。
 ばっちゃの博識に感動して以来、自分には不相応な高嶺の花だとあきらめながら少しずつ蓄えてきた知識に、いま私は本気であこがれはじめている。あれほどどうでもいいと見かぎってきたこの世の知恵に、苦しいほどあこがれはじめている。睦子のように一つの学問を究めてみようかとまで思いはじめている。……しかし、それもほんの一瞬の一念発起で、結局私は何も学習しないまま萎んでいくだろう。人が私に語る知識には感激しても、自分が人に語る知識には嫌悪感を催すからだ。
「じっちゃやばっちゃが若いころ好きだった歌は何だった?」
「好きではねがったけんど、よぐ唄ったのは『艦船勤務』だな」
「知らない歌だなあ」
「あだりめだべせ。大正三年か四年の軍歌よ。―四面海なる帝国を、守る海軍軍人は、戦時平時のわかちなく、勇み励みて勉むべし」
 単調なメロディを澱みなく呟くように唄った。ばっちゃが、
「すたらの歌だってが。行進曲だべせ。オラは金色夜叉だな」
「熱海の海岸散歩する?」
「ンだ。熱海の海岸散歩するゥ、貫一お宮の二人連れ、ともに歩むもきょうかぎりィ、ともに語るもきょうかぎり……。あどは忘れだ。むかしは四番までちゃんと唄えたんで」
「その歌が流行ったのは大正の初めだよね。ラジオが普及したのは大正末の関東大震災以降だから、どうやってそういう歌を知ったんだろうね」
 カズちゃんが、
「レコードが出回ったのも昭和の初め。佐藤千夜子という人が日本初のレコード歌手。だから、大正初期のカチューシャの唄にしてもゴンドラの唄にしても、お祖母さんの金色夜叉にしても、東京の舞台演劇から日本じゅうに広まったのよ。ラジオで聴いて覚えたんじゃないの。ラジオ放送が始まったのは昭和元年」
 じっちゃが、
「JOAK、JOAK、こちら東京放送局であります、が」
「はい、翌年に東京、名古屋、大阪の三事業主が協力、統合してNHKができました」
「ワが三十のとぎだ。東京一部でしか受信でぎながったすけ、その第一声は聞いてねんだども、初放送の新聞記事をよっぐおべでら。朝九時半がら夜八時五十五分まで、ニュース、クラシック音楽、邦楽、天気予報てなってらった」
「NHKの放送記念日ですね。それ以来、スポーツ中継、音楽などいろいろな番組を放送して庶民の娯楽の中心となりました。でも戦争が始まると、大本営発表を伝える宣伝機関になっていっちゃったのね。戦後の昭和二十五年から民間放送が許されて、最初の放送局は驚くなかれ、名古屋のCBCだったの」
 日本髪結った商家の娘だったばっちゃが、津々浦々を人の口で巡ってきた流行歌を唄っている青春時代を思い浮かべた。
「善司の持ってたゼンマイ式の鉄針プレーヤーは、サイドさんがくれたんでしょう?」
 ばっちゃが、
「おお、終戦後サイドさんがラジオどいっしょに持ってきた。椙子と結婚する前よ。ラジオはじっちゃが取ってしまった」
 四歳から五歳。私が笛吹童子や紅孔雀を聴いたラジオだ。オテナの塔は古間木のサイドさんの官舎で聴いたが、主題歌を覚えていない。笛吹童子や紅孔雀の主題歌は、伴奏さえあればいまも唄える。
「善司の部屋にレコード盤がたくさん散らばってた」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんはそういう環境で自然と音楽に親しむようになったのね。昭和初期の日本のレコードはほとんど輸入物ばかりで、ジャズが多かったの。日本は佐藤千夜子一色。波浮の港、東京行進曲、十万枚、二十万枚という数で売り上げたのよ」
 ばっちゃが、
「おめが生まれだ年に、美空ひばりが十二歳で出できたのせ。それまでは歌謡曲はバガにされてたんだ。子供が唄ったらまいねってな」
 私は、
「名曲が多いのにね」
「キョウちゃんが子供のころは特にね。港が見える丘、この世の花、別れの一本杉、おんな船頭唄、港町十三番地……。いまでもそういう名曲に耳を貸さないクラシック至上主義の人が多いわよ。そうそう、散歩のとき城内幼稚園を見てきました。城内というくらいですから、あのあたりにお城があったんですね」
 じっちゃが、
「あった。野辺地川沿いの平地に造った野辺地城がな。幼稚園から何百メートルか南にあった。百年くれ前に代官所て名前を変えで、ご維新まであった。城跡にはいま野辺地代官所跡の碑が立ってら」
 三時。ばっちゃが居間の土間側の隅に置いてあるテレビを点けた。青森放送。『かみなり三代』の再放送。三代記ではない。高橋英樹の時代劇。ばっちゃは音を小さくしてテレビの前にちょこんと坐る。高橋英樹のファンのようだ。私はばっちゃにかまわず、じっちゃと雑談をつづける。カズちゃんは風呂場へ下着の洗濯にいった。
「じっちゃのお祖父さんやおとうさんが酒で身上つぶしたというのは、女遊びのこと?」
「そんだ。金沢(かねじゃ)の大万旅館から福よし旅館にかけでのあだりは野辺地遊郭の敷地でな、そごで豪遊したんず。野辺地の戊辰戦争は野辺地戦争と言ってせ、弘前と黒石の官軍を南部藩の盛岡八戸連合軍が撃退して、一日で戦争は終わったんだ。南部藩てへるのは、北上から盛岡、鹿角(かづの)、八戸、野辺地、田名部までの大っきた領地のことせ。野辺地は南部藩の要港だったすけ、港を守るために野辺地軍も戦争にかたってがんばった。新道は砲台を造る資材を運んだ道でな、藩の師範代だったワの祖父さんはその指揮を執った武士の一人だった。そごさ連合軍がドッときて、新政府軍をいっぺんに片づけた。野辺地は弘前軍の軍艦からワンツカ砲撃されたぐれで、大した被害もながった。南部藩は野辺地の戦争には勝ったんだども、結局、新政府軍に降伏した。で、祖父さんは商人に鞍替えして造船所をやったわげせ。あどは遊ぶ一方よ、ハハハハ」



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