九十四

 ガマはカズちゃんに、
「神無月ぐれになると、副収入も、うだでだべ」
「はい、年俸以上です。ぜんぶ銀行を分けてプールしてます。神無月さんは、人のためにしかお金を使わない人なので、そうやって振り分けて使うんです」
 ガマは私に、
「おめ、ほしいものねのが」
「野球用品は人が提供してくれるし、衣食住は人が賄ってくれる。自分で買うのは、本や文房具やジム器機など、かぎられてる。ほしい〈もの〉はないけど、人との豊かな関係をつづけるための〈時間〉はほしい。上限のない高価なものなので、金では買えない。つまり金はそういうふうに役立たない。金は、野球で人を喜ばせたことに対して与えられる形式的な感謝状だと思ってる」
「ね、理屈に合ってるでしょう?」
「ほんだな。合いすぎでオッカネじゃ」
「怖くなくなったら、心の友になれるわよ」
 カズちゃんはひよこ饅頭を齧り、粉を胸もとにポロポロこぼした。皮に包んだ餡保ちの悪い饅頭だ。ばっちゃはつくねんと緑茶を飲んでいた。一昨夜のビデオカメラの前とはちがって、彼らは中学時代の思い出話をしなかった。山田三樹夫や杉山四郎や熊谷の話も出ず、ポツリとチビタンクの出世話が出たきりだった。
「野辺地に動物病院出せば儲がるべおん。一軒もねすけ」
 そのほかには、もっぱら二人の修行時代の苦労話か、将来店を大きくするという抱負話か、だれとだれがくっついた離れたというツヤ話で盛り上がっていた。私がいてもいなくてもなされたにちがいない茶の間話だった。私は相槌を打つだけでひとことも口を利かなかった。大きなガラス窓の外に静かに降る雪を観ていた。縦貫タクシーを見たり、うさぎやを眺めたりした。ばっちゃやカズちゃんも、ぼんやりショーケースを見つめたり、ガラス窓の下を通る車を見つめたりしていた。ガマが、
「文男もバフラッとしてられね年になってきたおんたな。そろそろ代替わりだべ」
「まんだまんだオヤジの天下だ。うだでこき使われでるじゃ」
 三十分も話さないうちに、ボッケがおとといの夜と同じように、あしたの仕こみがあると言いだしたので、ガマが腰を上げた。結局きょうも彼らは自分の身辺のこと以外取り立てて話すことはないのだった。私たちも三人も立ち上がった。
「チビタンクによろしくね。山田くんの家には寄っていかないことにするよ」
 ボッケが、
「オラがそのうぢいって、三冠王のこど仏前さ報告しとぐべ。再来年は七回忌だ」
「じゃ、またの機会に」
「おう、けっぱれよ。町じゅうで応援してるすけ。ババちゃ、達者でいるんで。神無月はまンだ上さいぐ男だすけ、ちゃんと見届げねばな」
「オラだっきゃ、いづ死んでもいじゃ。郷はもどからずっとテッペンだ」
 ガマが、
「まぢげのねとごだ。したばってジジババが長生ぎしねば、神無月も張り合いがなぐなるべに。北村さん、くれぐれもお目付けよろしぐ。いのぢがげで生ぎでる男だすけ、いづプツンといぐがわがんねはんでな」
「はい、重々気を配ってお守りします」
 一階に降り、ショーケースの向こうに立っている父母や店員に頭を下げる。母親はよそ見をしていた。
「へば、五年後な」
 それが最後に二人からかけられた言葉だった。二人と握手して店を出た。
「ばっちゃ、岡田パンの家、知ってる?」
「おう、八幡さまの裏だ」
「そこに顔出して帰る」
「遅くなんねんで」
「うん。カズちゃん、ばっちゃとテレビでも観て待ってて」
「了解」
 郵便局の前で女二人と別れた。灯りの消えた町をゆっくり歩く。銀映の路地へ入っていく。十五年。くたびれ切った映画館のシルエットが夜空にボーッと浮かんでいる。近寄ると上映中の映画の看板が見えてきた。高倉健の昭和残俠伝・人斬り唐獅子。ショーケースの写真を覗く。ヤクザにしては目にするどさのないやさしい顔の男が、刀を手にさまざまなポーズをとっている。すぐに離れて小路を引き返す。
 岡田のパン屋は国道4号線に面していたのですぐ見つかった。カーテンをした引き戸を開けると、太っちょの岡田が灯りの淡い店内で売れ残り品の整理をしていた。
「おお、神無月!」
「おとといは遅くまで付き合ってくれてありがとう」
「なんもよ。おもしろかったじゃ。五年後に会うべし。楽しみにしてるすけ。またあの声を聴かせてけろじゃ」
「うん。四郎やチビタンクに会ったらよろしくね」
「おう。ケガしねよにけっぱれじゃ」
「ありがとう。じゃ、また」
「へば」
 粉雪の中へ歩み出る。歩いている意味がわからなくなる。新道へ曲がらず、うさぎやの辻から大万旅館のほうへ足を延ばす。壁のところどころ朽ちかけた味噌屋の土蔵の前から、けっこう商店が並んでいる。呉服屋、米屋、雑穀屋、硝子屋、美容院、洋服店、酒屋、モトショップ、内装屋、大万旅館、福よし旅館。平伏して民家が連なる先に踏切が見えてきたので引き返す。
 ―からだを動かしたり活字を追ったりする生活に早く戻りたいな。
 野辺地に帰省するとかならずこういう気分で道を歩くことになる。早くこの無聊から去りたいという気分だ。四戸末子やユリさんを思い出しても浮き立たない。カズちゃんといっしょにいることでようやく精神の安定を保っているという感じだ。
 大万旅館から右折して新道のほうへ。雪を五センチも載せた、得体の知れない板屋根の民家がつづく。どの家も知らない。引き戸の硝子にペンキで存在表示をしているのは小屋ふうの久保田洋裁一軒きり。ヤジ煙草店を右折。畳屋、よしのりの家、合船場の隣家の杉山とは関係のない杉山惣菜店。
「ただいま」
「お帰りなさい。あら、考えこんでる顔」
「なぜ呼ばれたのかわからない時間をすごしちゃった」
「キョウちゃんといるとみんなホッとして、いろいろしゃべりたくなるのよ。キョウちゃんは黙ってそこにいてあげればいいの。それも立派な存在価値よ」
 じっちゃはすでに寝ている。
「きょうはお祖母さんに背中流してもらっちゃった。馬門のヒバ風呂より、こっちのヒノキ風呂のほうがずっといいにおいだってわかった。まだお湯があったかいけど、あとで入るなら沸かしとくわ」
「きょうはいい。じっちゃは入ったの?」
「一番風呂したようよ。キョウちゃんが出かけてすぐ入って、そのまま寝ちゃったみたい」
 八時半を少し回った。正座したばっちゃがテレビを点け、音を絞ってNHKの『ふるさとの歌まつり』をかけた。お国紹介番組。そろそろ番組も後半にかかっているようだ。宮田輝の悠長で押しつけがましい弁舌。秋田県男鹿市の体育館から中継している。秋田漫才からナマハゲとつづく。都はるみと、笹と言う漫才コンビがゲストで出ていた。
「都はるみ、か。五年前ここにきたころ、アンコ椿は恋の花が流行ってたっけ。曲芸じみた声だけど、この北の宿からよりはパンチがあってマシだったな。ドラマチックに唄う曲では、白樺に涙ありが最高だ。傑作は偶然できるんだね」
 二人ともニコニコ聞いている。秋田音頭でさようならとなった。ばっちゃがテレビを消して茶をいれ、
「何年前だったがな、奥山先生と葛西さんのワラシがきたのは」
「四、五年前。カズちゃんが桜川にいるころ」
「美代子さんね」
「うん」
「おめにピッタリくっついて、いじらしいおんだったじゃ。大っきぐなったべおん。葛西さんは花園に住んでらったべ」
「うん」
「今年の八月に堤川が氾濫したんでェ」
「え、あんなに土手が高いのに?」
「ンだ、台風九号がきてよ。真夜中に川が合流するあだりの堤防が決壊したんだず」
 荒川と駒込川のことだな。
「で、花園がやられちゃったの!」
「花園だば、床下浸水した家がわんつかあったくれで、大したこどはながったて話だけんど、桜川のあだりはほどんど水に浸かったずじゃ」
「私、キョウちゃんが青森高校にいるあいだ、桜川の一軒家に住んでたんです」
「あンぶねとごだったな。堤川は昭和十年と三十三年にも氾濫してんだ。三十三年のとぎは花園は諏訪神社あだりまで水に浸かったんでェ。こどしは松原通りの一部もやられたツケ。青高のある筒井のあだりは多少上流だすけ、あんまり浸水しなかったおんた。それまで何日も晴れだ日がつづいでだのによ。台風はおっかねじゃ」
 ばっちゃが記憶のいい人だったことを再認識した。カズちゃんが、
「美代子さんは、ときどき名古屋に便りをくれるんですよ。今年青森高校に入ったようです」
「郷に惚れるオナゴはみんなアダマいんだ」
「ええ、キョウちゃんに努力を教えられますから。秀子さんも美代子さんも白百合荘に入ってるようです。キョウちゃんがもといた寮」
 ばっちゃが、
「健児荘な?」
「はい。青森高校の講演の帰りに寄って、挨拶するつもりです。花園のご夫婦のほうにも寄れればいいんですけど」
「あンわただしぐなるな。だども、世話になったふとたちだすけ、挨拶しねば義理欠ぐこどになるべし、うまぐ時間こしらえで顔出すしがねべおん。あしたあだり、いってきたらいがいに。いって帰って二時間、話っコ二時間して、四時間。ワンツカの間だ」
「そうですね。野辺地に帰っても、めったに青森市まではいきませんからね」
「ンだ。なるべぐならそうしろ。だば、ワそろそろ寝るじゃ」
「後片づけをして、火を始末しておきます」
「ありがど。手間かげるな。甘えさせでもらうじゃ」
「お休みなさい。さ、キョウちゃんも寝なさい」
 きょうも早々と蒲団に入った。起きて、動いて、寝る。万古変わらない人間の習慣だ。
         †
 寒さで目覚めると、カズちゃんがシュミーズの背中を向けて寝ていた。カーテンの隙間が黒々としているので、まだ早朝にもなっていないとわかる。黒い隙間にしきりに白いものが落ちている。毛布と二枚重ねの蒲団でも寒い。温かいカズちゃんの背中に抱きついて暖をとる。カズちゃんはすぐに目覚め、こちらを向いて私を抱き締めた。口づけをし、指で探り、じゅうぶん濡れてきたのを確かめ、正常位になって結び合う。すぐに理想的な緊縛とうねりがやってくる。枕もとにティシュが置いてある。囁く。
「出していい?」
「いいわ。たくさん出して」
 囁き返す。蒲団を咬みながら、無言で連続のアクメが始まる。みごとだ。グイと吸いこまれた瞬間に射精した。カズちゃんはひしと抱きつき、何度も腹を硬直させた。私の陰毛をカズちゃんの愛液がひたす。ハアアと息を吸いこんで、もう一度全身を突っ張り、律動を終えた私のものを柔らかい襞でしごいた。唇を合わせる。
「愛してるわ」
「ぼくも」
 カズちゃんは尻にティシュを多量に敷いた。腹を合わせ、胸を合わせたままの形で深く寝入った。
 ふたたび目覚めると、もう部屋の中は明るく、私は下着を穿かされていて、暖かい蒲団にくるまっていた。
         †
 十二月五日金曜日。曇。○・九度。居間で三人の笑い声がする。机の上の置時計が七時半を回っていた。テレビの音がする。
「水汲まなくていぐなったすけ、らぐだでば」
 ばっちゃの声だ。
「お味噌汁の具は何にします?」
「豆腐とアブラゲでいがいに」
 カズちゃんが台所に立っていく音。私は靴下を穿き、ジャージを着て部屋を出ると炉辺に坐った。じっちゃが、
「運動選手はよぐ寝るな。寝る子は育つてが。ンガ、何尺あんのよ」
「尺って、何センチ?」
 カズちゃんが台所から味噌汁鍋を持って戻ってきてストーブの上に置き、
「一尺は三十センチ三ミリ。キョウちゃんは百八十三センチだから、だいたい六尺一寸ね」
「六尺てが! 大男だでば」
「じっちゃは?」
「五尺六寸二分。むがしは大きいほうだったんで」
「そうですよ、とても大きいです。約百七十センチですから」
 みんなで賑やかに笑う。ばっちゃが、
「さっきた七時のニュースで、オラんどが出てたじゃ。うまぐ和子さんの背中を来客みてに映してせ。今度は浜中さんが手コ入れだな。大したもんだじゃ」
 朝めしになる。ソイの煮つけ、ハムエッグ、ホウレン草のお浸し、板海苔、カブとナスの漬物。味噌汁がうまい。クドで炊いためしも絶品だった。食卓を別にしながらも、じっちゃが会食の常連になったのがうれしい。
「ごちそうさま」
 箸を置き、縁側の戸を開けて裏の畑を眺める。夏にトウモロコシやネギやインゲンの植わっていた畑が一面の雪だ。持ち土地を仕切るスグリ生垣のそばにスモモの木が一本立っている。あの木の下にジャッキとミースケを埋めた。善夫に教えられて、生まれて初めてトリモチでセミを捕ったのもあの木だ。
「夏は畑になるの?」
「むがしの四半分だ。キビもニンジンも植えでらたて、屎尿肥料やらねすけおがらね。てめで食うだげだ」
 縁側の戸を閉め、障子も閉める。炉辺に戻る。野辺地にいるのも正味きょう一日だ。


         九十五

「何日も運動していない。少し筋肉を取り戻さなくちゃ」
「滑って転ぶとたいへんよ」
「うん、雪道は走れないね。野中の体育館で走らせてもらってこようかな」
 じっちゃが、
「走らせでけるがな。授業やってるべ」
「体育の授業中でなければだいじょうぶだと思う。許可をとれれば、三十分くらいだれにも迷惑をかけずにできると思う」
「こどわられたらすぐ帰ってくんで」
「うん」
 カズちゃんに運動靴を持たされた。長靴を履いて野辺地中学校に向かう。卒業生という名目だけでは甘いかなと思い直している。都会では知名度のある野球選手といっても、じゅうぶんメディアの普及していないふるさとではふだん思い出されもしない部外者だ。旧知の人びとは別として、野球に関心のある人にしか覚えはめでたくないだろう。馴れなれしい態度をとるのは慎むべきだ。
 左右を下駄箱に挟まれた玄関からおとないの声をかける。下駄箱の裏が職員室だと知っている。若い男の教師が出てきた。
「はい、何が?」
 驚きの表情はなく、ただ訝しげにしている。
「私、ここの中学校出身の者で、四十年度卒業の神無月と申します。まことに勝手なお願いで恐縮ですが、二、三十分、体育館で運動させていただけないでしょうか。この天候のせいで、ランニングや筋力トレーニングをする場所が屋内にも屋外にもないので。―それだけやったら引き揚げます」
「ちょっとそれは……。公民館か体育館のほうに出向いてもらわないと。個人なら一時間百円で使わせてもらえるはずですよ」
 若い教師は私が手に握っている運動靴を見て、
「どうか、悪しからず」
 と頭を下げた。
「わかりました。お時間とらせました。失礼します」
 長靴の踵を返す。公共施設の場所を訊く気にもならなかった。やはり甘かった。校門を出ようとすると、
「神無月くん!」
 と背中から大声で呼び止められた。振り返ると、丸顔に眼鏡、薄い頭。中村のマサちゃんだった。たしか教頭をしているはずだ。私はしっかり向き直って最敬礼した。パラパラとほかの教師たちが出てくる。
「ひさしぶりだニシ。シーズンオフの里帰りですか?」
「はい。ついたちに帰りました。二日の同窓会に出て、きのうは馬門温泉にいってのんびりしてきました」
「奥山先生には会ったんですか?」
「はい、同窓会の席でお会いしました。この数日でからだがナマッてきたので、ちょっと運動しておこうかなと思ってお尋ねしました。勝手を言ってすみませんでした」
「なもよ。道がゲジョゲジョ、デラデラしてるはんで、しっかり走れねもんな。プロ野球には興味の薄い土地だたて、神無月くんは別だんだ。知らねふとはいね。まさか尋ねてくるとは思わねすけ、あの有名な神無月選手だとわがねかったんだべ。九時半で二年生の体育の授業が終わるはんで、好きだように使ってください。……頼みがあんだども」
「何でしょう」
 私を玄関へいざないながら、
「練習の様子を野球部の生徒さ見学させてやってけねがな。次の時限に召集かげるすけ」
「わかりました」
「バットも振って見せてけねが? 硬式用のバットも何本かあるすけ」
「わかりました」
「ありがど。まんず、茶ッコでも飲んで」
 スリッパを与えられ、なつかしい職員室へ通される。おお! と歓声が上がった。さっきの教師が握手しにきた。
「すみませんでした。神無月選手だと気づかねがったもんで」
「いいえ、とつぜんやってきて図々しいお願いをして、こちらこそ申しわけありませんでした」
 五十格好の男が隣室のドアを開けて出てきた。知らない顔だ。立ち上がろうとする私を止めて、
「去年こちらに校長として赴任してきた岩下でございます。三冠王、MVP、おめでとうございました。ならびに中日ドラゴンズの日本一、おめでとうございました」
「ありがとうございます」
 職員室じゅうの盛大な拍手。一般の教師たちの机と隔たった教頭の机のそばのソファに座らされる。同じソファに少し離れて校長が座る。マサちゃんは立ったままでいた。ソファの前に立派なテーブルが据えられている。窓ぎわの広い空間に、なつかしいコークスストーブが焚かれている。校長が、
「帰省中ですか」
「はい、ついたちからきょうまで合船場に。あしたの朝、名古屋に帰ります」
 記憶にない顔の女教師がコーヒーを持ってきた。あのころ女教師は一人もいなかったような気がする。職員室の戸が開き、立花先生が息せき切ってやってきた。
「神無月くん、なづかしな! わいはあ、じゃわめぐほど美男子だでば」
 私の手を握り締める。
「おひさしぶりです、立花先生。お変わりなさそうでうれしいです」
「覚べででくれたが。ありがとう。でっけ図体にあのころの顔が載ってら」
「ナリばかり大きくなりましたが、中身は変わりません。おい転校生やってみろ! というかけ声と、先生がみんなの前でやってみせた大車輪が忘れられません」
「ハハハ、ありがでな。相変わらず体育教えでら。とんでもね野球選手になったでや。日本じゅうで騒がれでせ。てっきり学問で出世すると思ってらったども」
 マサちゃんが、
「こごさきたとぎから、ずっと鳴り物入りの人生だったはんで、いいかげんうるせくて難聴になりそうなんでねが?」
 軽口を言う。教職員がドッと笑った。見回すと見覚えのある教師がチラホラいた。コーヒーをすする。まずい。校内放送が流れる。
「連絡いたします。昭和四十年度本校卒業生のプロ野球選手神無月郷さんが、さきほどとつぜん訪ねてみえました。百六十八本、三冠王、最優秀選手のあの有名な神無月郷選手です。ご本人の申し出で、九時半より一階体育館で三十分ほど練習したいとのことです。練習の様子をご覧になりたいかたは体育館にお集まりください。なお、次の時限は正規の授業を行ないますが、体育館の見学は欠席扱いされませんので、野球部以外のかたも自由にご参観ください。繰り返します。本日……」
 岩下校長が、
「野月校長から常々噂を聞かされておりました。人徳篤い生徒だった、もろもろの美点は言わずもがな、あの美しいたたずまいは生涯忘れられないとおっしゃっておりました。まことにそのとおりで驚きました。入団以前、入団以後、いろいろご苦労があったことは聞こえてきておりましたが、やはり有徳の行ないで乗り切ったようですね」
「いえ、野球をやめたくない一心でがんばった結果です。すばらしい監督や同朋たちに恵まれました」
 コーヒーをすする。少し慣れた。見覚えのある教師(たぶん数学)が、
「五年前は、そたらに苦労なさっでだこどはまったぐわがらねがったです。たンだの不良が島流し喰らってこごさきたどばり思ってました。なんも不良でねがったて、この五年で知りました。あの当時は、不愉快な当だりかだをしたかもしれね。勘弁してください」
「とんでもない。みなさん桁外れに親切でした。不愉快な記憶はまったくありません。こちらこそ、つまらない喧嘩をしたり、厳粛な卒業式でお騒がせしたりして、一再ならずとんでもないご迷惑をおかけしました」
「あれは熊谷が―」
「いや、彼に非はありません。ぼくの高慢さが原因です。死んだ山田くんにも申しわけなかったと、いまも無念な気持ちでいっぱいです。しかし、ぼくは野球をつづけることで驕らない人間に生まれ変わりました。あの当時、みなさまに温かく接していただいて、明るい気持ちで前に進むことができたおかげです。ありがとうございました」
 マサちゃんが、
「神無月くん、そのへんにしとげ。みんな深くアダマ下げすぎで、クビ痛くなってまるすけ。とにかく、神無月選手は野中の英雄です。さ、体育館さいぎましょう」
 校長、教頭はじめ、授業のない教諭たち全員がぞろぞろと体育館へ向かった。廊下から生徒たちが湧き出てくる。
「神無月でェ!」
「甲子園の場外さ打ったツケ!」
「でげえ!」
 上着だけセーラー服、下はズボンの女子生徒たちもついてくる。腕や背中を触って黄色い声を上げて騒ぐ。体育館に入るとさっそく運動靴を履いた。ユニフォームに着替えた野球部員たちがひとかたまりになる。館内を眺める。十メートル以上の高さのあるゆるやかなアーチ天井、その下に大きな窓の列、かなり古い床板、演壇、壁ぎわに懸垂訓練用の肋木(ろくぼく)が立ててある。山口の四十回を思い出す。マットを敷いた器械体操用の鉄棒。バスケットゴール。
 私は無言で周回を始めた。一人、二人、ユニフォームや短パンがついてくる。ときどき速度を緩め、二十メートルほどダッシュする。並列して何人か倣った。おのずと見物は館の中央に集まり、尻を落として坐った。教師たちは鉄棒の下のマットにあぐらをかいたり、館の壁に沿って立ったりしている。
 五周やった。ダッシュの繰り返しに息の上がる部員たちもいる。走り終わると、空いた空間で三種の神器に入った。百回ずつやるので、脱落者が続々出てくる。拍手が上がる。
「まいったじゃ!」
「まンだやんのな!」
 十五分も経っていない。部員の一人がバットを持ってきた。一升瓶をやる要領で左右二十回ずつ。われもわれもとまねる。
「力自慢をしているわけでないので、ゆっくり、自分のペースで」
 ようやくしゃべった。黄色い声。片手腕立てに移る。まねる者が出てきたが、一回か二回でダウン。二十回ずつやって見せる。大拍手。壁まで歩いていき、肋木に向かって倒立腕立て十回。割れんばかりの拍手。
「五分休みます。そのあとでバットスイングをお見せします」
 学生服やセーラー服の生徒たちが寄ってきて
「プロ野球ってすげですね」
「ウエイトも適当に混ぜなくちゃいけない。それでもやりすぎじゃないんだよ。もっと練習する人はたくさんいる。練習がすべてみたいなところがあるからね。今回みたいに、三日も四日もあいだを空けると、筋肉に耐性がなくなる」
 女子生徒が、
「東大さいったんだべ」
「そう。この練習よりもうんと勉強した。努力すると遅かれ早かれマグレが起こる。成功なんて、すべて努力の結果起こるマグレだ。どんなにうまくいってもいい気になっちゃいけない」
「ホームランて努力の結果ですか」
「そう、まちがいなくね。ボールの捉え方には少し先天的なものがあるかもしれないけど、鍛練の賜物だよ。じゃ、振って見せるね。真ん中に空間を作ってくれるかな」
 広い円形の空間ができた。ダウンスイングと、ただのアッパースイングをスローでやって見せる。ところどころでフラッシュが光りだした。
「いまの二つはダメ。プロ野球選手で打率の低い人のほとんどがこのスイングです。スイングはレベルに、ボールの下を狙うイメージで」
 体高を変化させながら、高中低と三回ずつ力をこめて振る。ウオォ! と喚声。
「見えね見えね!」
「速すぎるじゃ!」
「すげ音したでば!」
「それでは最後に、二つの難しいコースの振り方をお見せします。まず内角高目。肘の引きをよく観察してください」
 二十本全力で振る。
「なんだば!」
「観察でぎねべ!」
「有志の人、一人出てきてください」
 キャッチャー体型の生徒が軟式バットを持って進み出た。ぎこちない肘を畳んで引っ張ってやる。五度、六度とつづける。
「よし、この形を暗記して練習しつづけてください。じゃ、次に外角低目の打ち方。ふつうは踏みこんで、こう打ちますが、ぼくはさらに遠くを責められてフォアボールにされることが多いので、いわゆる屁っぴり腰打法で対処してます」
 腰を据えて十本振って見せる。
「すげじゃあ!」
「やっぱり見えねでば!」
「これはつらい練習になるので、心してやってください。幼いうちからやると、慢性的な腰痛の原因になります。やるなら五回ぐらいでやめておくこと。高校生になって筋力に自信が出てきても、三十本ぐらいで止めておいてください。では、ふつうの素振りを十回やって終わることにします」
 真ん中やや高目を十回連続で振った。ブッ! という風切り音が体育館に響きわたった。嵐のような拍手がきた。
 立花先生が私の傍らに立ち、
「おめんど、一生拝めねものを見だな。運がいがったな。へば、神無月選手に礼を言って」
 全員立ち上がり、
「ありがとうございました!」
 ユニフォームの一人が、
「サインしてもらいてんですが」
 岩下校長が、
「いかがですか、神無月選手」
「いいですよ」
 生徒の差し出すハンカチやノートに文江さんのサインをした。百人近くいた。終業のチャイムが鳴る。ひとことを求められ、野球選手として模範から外れた回答をした。
「こうやってオフにゲームから遠ざかっただけでも、自分はほんとうに野球が好きなんだなあと感じます。好きなだけでやっていける世界かというとそうじゃないと答えるのが正しいのでしょうが、ぼくはそれだけでいいと言いたいです。好きだからこそ、自分を疑わずに溌溂とやっていけるのに、それだけじゃだめだと言うのは根性が悪い。何ごとも好きが満点です。人間も同じ。人を心から好きになってください。そちらのほうが天職よりも大事な生きていく力です。じゃ、さようなら」
 玄関へ見送られた。長靴を履く。生徒や教師が数百人にふくらんでいた。教師たちが粉雪の降る校門まで送ってきた。マサちゃんが、
「遠ぐの空からいっつも応援してるすけな!」
 教師たちが、
「マデにケッパってください!」
「すばらしい言葉、胸に沁みました!」
「負けないで!」
 校長が深々と礼をした。教師たちも倣った。生徒たちが走り出てきて手を振った。私は一礼して、合船場へつづく道を戻った。晴れ上がった気持ちだった。野球しかないと痛感した。


         九十六

「お帰りなさい。どうだった?」
「中村教頭先生がぼくに気づいて入れてくれた。たくさんの生徒が集まって練習風景を見学するという形になって、少年野球教室みたいだった。バットの振り方も披露した。とにかくたっぷり運動してきた」
「よかったわね。またみんなを感動させたんでしょう。目に浮かぶわ」
 ばっちゃが、
「キョウに野球見せられだら、ドッテンしてまるべ。だもどうもへねっきゃ」
「あ、そうそう、きょうお祖父さんにおもしろいこと聞いたのよ。野辺地は南部と津軽の境にある町だから、二つの表現を混ぜこぜに使うんですって。でしょう?」
「ンだ」
 ばっちゃが、
「ワ、オラ、ンガ、インガ、ガ、オメ、テメ。そんだスケ、そんだハンデ。ダベ、ベヤ、ベオン、ビョン。ケヅ、ドンジ、ドンズ。ほがにもいろいろあら。混ンぜごぜだ」
 じっちゃが、
「ドンズはへねべ。ちゃんとした津軽弁しゃンべられだら、はァ、ワにも聞ぎ取れね。和子さんは、何かわがんねこどばありますか」
「文脈でほとんどわかりますけど、びっくりした単語はあります。火バサミのことをデレキ……」
「ああ、デレキな。青森以外では言わねべおん」
「そんな楽しい話をしてたの! 青森弁ておもしろいよね。カチャクチャネはわけがわからなくてイライラする、タフランケとかホンツケナシとかヤズナシは馬鹿、ベロットはとつぜん、ネッパルはくっつく、タマナはキャベツ、トロケルは片づける」
 じっちゃが、
「このごろあんまし聞かねけんど、アドハダリってある。わがんねべ」
「うん」
「ままのお替わりだ」
 まったく語源がわからないので思わず私とカズちゃんは拍手した。じっちゃは調子に乗って、
「だば、アグドはどんだ」
 ばっちゃがニヤニヤする。
「ぜんぜんわからないや。ばっちゃ、どういう意味?」
 ばっちゃは得意げに、
「かがど。ここのこど」
 と言って踵を指差した。さらにじっちゃは、
「クッパルはどんだ」
「ケッパル!」
 と私。カズちゃんは、
「それだと簡単すぎ。食い意地が張ってるという意味じゃないかしら」
「ちがるな」
 ばっちゃが、
「櫛さ髪が絡まる、て意味だじゃ。へば、ワがら一問。ブンとしでる」
 私は、
「いい気になってる」
「ちがる」
 カズちゃんが、
「その逆。不機嫌になってる」
「ちがる。太ってるって意味だ」
 じっちゃも混じって大笑いになった。すばらしい時間だ。
         †
 十一時半を回った。カズちゃんが、
「やっぱりきょう青森にいって、葛西さんご夫婦に挨拶してきたらどう? ご主人のお役所の仕事は五時までだから、五時半に家に帰ってらして、夕食をごいっしょしたとしても、夜八時くらいの汽車に乗ればここに九時には帰れるでしょう?」
「なんだかあわただしいな」
「……そうねえ。事前に連絡して、ご主人に早退けしてもらうことができれば、五時くらいには野辺地に帰ってこれるんだけど……。いまからじゃ遅いわね。もう出勤してしまってるし」
 じっちゃが、
「役所の欠勤早退は、前もって書類出さねばなんねすけめんどくせんだ。あした青高の帰りに寄ればいんでねが」
「青高の講演のあと、種畜場の秀子さんと葛西さんの娘さんのいる白百合荘に挨拶に寄りますから、そこから花園にいって、ホテルに戻るとなったら、たいへんな強行軍になります」
 ホテルの予定はもうなくなっている。そのことをカズちゃんは言わない。じっちゃが、
「花園はさんざん世話になったふとたぢだべ。すぐそばまできてるのに寄らながったてなるど、礼を失うこどになってしまる。時間つぐって、きちんといってきたほうがいじゃ。奥山先生の顔も立つべ。あしたいぐのは骨だ。きょういってこい」
「夕ごはんを出されるわ。食べてらっしゃいね」
「遅くなってしまうなあ」
 じっちゃが、
「なも、起ぎで待ってら。もどもどきょうは遅ぐまで起ぎでるつもりだったすけ。あした寮さ泊まれど言われだら、こどわってちゃんとホテルさ帰るんで。次の日の飛行機が危なくなるすけ」
 ばっちゃが壁の時刻表を見て、
「十二時三十三分の下りがあら。縦貫呼ぶべ」
「適当なバスを拾っていく。野辺地は、あんまり人目を気にしなくていいことがわかったから」
「汽車の席はかえって真ん中あたりが目立たないのよ。気をつけていってきてね」
 ブレザーにオーバーをはおり、革靴を履く。
 本町通りの停留所からバスに乗り、雪の降りしきる中を野辺地駅までいった。駅舎の屋根に十センチほどの雪。待合室の売店で佐藤製菓の芋菓子と伯養軒の鶏めしを買った。ホームにも円柱形の伯養軒販売所がある。そう言えば、受験にいくとき奥山先生と車中で食ったのは、たしか鶏めしだった憶えがある。甘みのある味付けの鶏肉、煮汁の滲みこんだめし、炒り卵、そぼろ肉、グリーンピース、シバ漬け。
 ホームにも線路にも雪が降り積もっている。杉の防雪林だけは鮮やかな黒緑色だ。高架線が張られているのに驚いた。じっちゃばっちゃの気づかないうちに電化されたのだと知る。〈電車〉が近づいてくる。と思ったら、ディーゼル機関車だった。屋根と足もとに雪をまとった車体がホームに滑りこむ。汽車の大きな駆動車輪を期待していたのでガッカリした。乗りこむ。この駅から列車に乗るのは何年ぶりだろう。進行方向左側、真ん中あたりの席に座った。相変わらず垂直の背凭れ。
 防雪林を過ぎても雪、雪、雪。枯れ木や常緑樹の森、林、迫る崖。ぼそぼそ聞こえる人声。寝は足りているけれども目をつぶる。義一と古間木駅を思い出す。二十分ほどウタタ寝して、目を開ける。窓の外は雪、雪、雪。鶏めしを食う。もう一眠り。
「あおもーり、あおもーり、あおもーり」
 柔らかい男の声のアナウンスで目を覚ました。青森駅にも雪が降りしきっている。屋根に頓着しないで流れこんだ雪がホームに積もっている。白く敷いているという体のいいものではない。まぎれもなく積もって固くなっている。連絡船へダッシュする人びと。いつと定められないむかしの記憶が甦ってくる。
 跨線橋を渡る。駅舎の玄関を出て振り返る。いつきても目に涼しい『あおもり駅』の緑文字。一時二十分。駅前から葛西家に電話を入れる。奥さんが出た。私だとわかったとたん、キャッと明るい悲鳴を上げた。
「いま、美代子は白百合荘に……」
「知ってます。ミヨちゃんにはあしたの講演のあと白百合荘でお会いしますから、わざわざ呼ばなくていいです。きょうはご主人にお会いしたら野辺地に帰ります」
「じゃ、そのためにわざわざ?」
「はい。あしたの講演のあと、ご挨拶する時間がないと思って。ご主人は?」
「五時十五分ぐらいに帰ってきます。夕ごはん食べてってくださいね」
「はい」
「あの……」
「はい」
「うれしくて、どうかなりそうです」
 カズちゃんが微笑んでいる気がした。
「タクシーで十分ほどで着きます」
「お待ちしてます」
 タクシーに乗り、大粒の雪の中、十分もかからずに葛西家に着いた。奥さんが玄関の外まで迎えに出た。微笑み交わし、男同士のように握手をする。むかしと変わらぬ白い顔だ。一重の目が少し小さくなったような気がした。奥さんはオーバーの肩の雪を払うと、玄関の沓脱ぎからむかしどおりの居間に招き入れた。隣の台所に重油ストーブが焚かれている。居間まで暖気が流れてくる。テレビが一回り大きい新型のカラーテレビになっていた。角テーブルに向かい合う。緑の格子縞の厚手のミディスカート、白いシャツ、藍色のカーディガンをはおっている。淡い化粧をしているが、唇に紅は引いていない。ミヨちゃんと同じように相変わらず手が美しい。
「東大の一年生の夏に遊びにきてくださって以来ですね」
「はい、一年半ぶりです。ご無沙汰しました。野辺地でも仲間たちと一年半ぶりの再会を果たしてきました」
 私はテーブルに芋菓子を差し出した。奥さんは頭を下げて受け取り、
「いろいろ忙しい一年半でしたからね。いえ、十五歳から五年間……」
「はい」
 奥さんは私をチラと見てうつむき、
「神無月さん、相変わらずきれいですね……。私、恥ずかしい。こんなお婆ちゃんになっちゃって」
 目尻や首に手をやる。
「じゅうぶん美しいですよ。五年前と変わりません」
「お世辞はけっこうです。美代子はほんとにきれいになりましたよ。親が言うのもなんですけど」
「ミヨちゃんはむかしからきれいでしたね。青高合格、おめでとうございます」
「ありがとうございます。神無月さんのそばにいきたい一心で―」
「あの節は、ほんとにお世話になりました。わがままさせていただいて。祖父母からも重々お礼を言ってくるようにと言われました」
「とんでもないです。こちらこそ、あの八カ月はどれほど心の励みになったか……」
 白い頬を赤く染める。
「あした青高で講演するんですが―」
「知ってます。新聞に載ってました。三冠王への道というテーマだそうですね」
「そうなんですか? 知りませんでした。とにかくその日にはこちらまで足を延ばせないと思って、きょう出かけてきました」
「……ありがとうございます。あしたは主人が半ドンで二時ごろ帰るので、残念ですけど私どもは講演を聴けないなと……。講演のあとは予定が詰まってるでしょうし、今回はお会いできないものとあきらめてました」
「講演のあとは、おそらく寺山氏と懇談か何かして、それが終わったら白百合荘に寄って羽島さんやミヨちゃんや中島さんに挨拶し、それからホテルに戻って、翌日飛行機で名古屋に帰ります」
 白百合荘に泊まることは言わない。
「じゃお会いできるのはきょうしかなかったんですね。忙しい中、ほんとにありがとうございました。主人も喜びます」
「二日に七戸から奥山先生を招いて同窓会をやりました。白石中学の教頭先生になられたそうで、めでたいですね。老けたので驚きました」
「マコトちゃんも四十四ですから。……私も四十二です。怖いほど老けました」
「ちっとも変わったように見えませんよ」
 奥さんは柱時計を見上げた。二時になろうとしていた。横坐りを正して私に真っすぐ顔を向ける。
「神無月さん―恥を忍んで言います」
「はい……」
 何を言うかはわかっていた。
「せっかくこうしてきてくださったことに甘えて……。私の念願を叶えていただけませんか? 最後のチャンスだと思うんです」
 中年女の果敢さを好ましく感じる。どんな立場、どんな状況にも、性は関係しない。性は常に積極的な突発事だから。
「はい―甘えてください」
「うれしい! ほんとですか?」
「はい、ほんとです」
「それから……」
「はい……」
「美代子は心を決めてます。どうか、あしたは美代子の願いも―」
「わかりました。白百合荘にいられるだけいて、ミヨちゃんの願いが叶ったら、そのあとホテルに戻ります」
「ありがとうございます。あしたの朝、美代子に連絡しておきます。……洗ってきます」
 性の手続が動きはじめた。道徳の枷を外し、言葉と行動をそちらへ傾けなければならない。そうでなければたがいに気まずくなる。
「きのうの夜、お風呂は?」
「入りました」
「じゃ洗わなくていいです。少しヌメヌメしてたほうがおたがい気持ちいいですから」
「まあ……あけすけなかたなんですね」
「セックスはあけすけなものです。終わったあとで風呂に入りましょう」
「はい。隣の部屋にお蒲団を敷きます。あとでいっしょに夕食の買い物にいきましょうね」
「いいですね」
 心の決まった女の動きは早い。テキパキしている。
「……安全日ですか」
「ぜったいだいじょうぶな日です」




(次へ)