第三部
十四章 休息から始動へ
一
十二月八日月曜日。百江の寝室で七時起床。アヤメ早番の百江の姿はすでになし。カズちゃんとメイ子は昨夜、自分の寝室で寝た。曇。十二・六度。
「キョウちゃん、よく眠れた?」
素子が隣の布団から起き上がりながら声をかけた。
「うん、ひさしぶりに伸びのび寝られた。素子は?」
「私はいつも伸びのび。キョウちゃんのそばにおるときは、伸びのび、プラス幸せ。今月はのんびりできるね」
「来月もできる。基礎鍛練を欠かさない義務を守るだけ。楽しみなのは、三月の日米野球だな。マッコビーに会える。九戦中、たった一試合だけみたいだけど」
「まだ四カ月も先やよ」
「待ち遠しいな」
階下からカズちゃんの声。
「お風呂できてるわよォ」
「はーい」
素子と風呂場の洗面台へいき歯を磨く。素子はそのままキッチンへ、私はめずらしくフンギリのいい排便をしてから、シャワー、洗髪。真新しいパンツ、半袖の下着にミズノのジャージ。
朝食。何やら年始の気分で食卓につく。鮭の味醂醤油焼き、ニンジンの大葉和え、ホウレンソウと豆腐と油揚げの味噌汁。簡素で美味。
「正真正銘のシーズンオフがやってきた感じだな」
「きょうの予定は?」
「ランニングのあと、菅野さんと中京商業の校舎を見てくる」
ふと、小山オーナーの品のいい温顔が浮かんだ。水原監督と同じ六十歳。額から梳き流した半白の髪と、微笑したときの歯が美しい人だ。
「小山オーナーから何か連絡なかった?」
「あ、あったみたいね。キョウちゃんの都合のいい日を球団事務所まで知らせてくれって、席に電話してきたみたい」
「そう。CBCのトークショーが二十日だから、その二、三日前がいいかな」
「キョウちゃんとオーナーに予定がなければいいんじゃない? 十八日にしたらどう。講演会は、十三日の中京商業と、二十三日の千年小学校だけでしょう?」
「うん、外へ出るのはその二回だけだね。あとは、王さんと、久保田さんが訪ねてくるだけ。そうだ、大晦日に栄生の蕎麦屋にいくんだった。竹井。それから椿商店会のタニマチにも顔を出すんだった」
メイ子が、
「けっこう何やかや、忙しいですね」
「芸能人に比べたらゼロみたいなものだね。じゃ、牛巻坂の書き出しの読み直しをする」
素子が、
「急がしいどころであれせんが」
机に向かって三十分ほどして、少し早めに菅野がやってきた。女三人に見送られ、西高に向かって走り出す。陽射しは暖かく、風がある。
「小山オーナーから電話があったようですね」
「はい。都合のいい日を知らせてくれって。十八日に決めました。向こうの都合のいい時間でアポをとってください。オーナーの家はどのあたりなんですか?」
「先日北村席にいらっしゃったとき、東区の白壁と聞きました。お城の東の超高級住宅地で、明和高校と金城学院がある区域です。明和高校のすぐ裏手と聞きました」
「家までいくかどうかわからないな」
「家でしょう。奥さんの手料理を食べさせると言ったんですから」
「そうだね。……小山さんはオーナー兼社長ってよく言われるけど、どういうこと?」
「中日ドラゴンズの所有者で、かつ最高責任者ということです。中日新聞の白井さんは社長とか社主と言われるでしょう? 社員の中で地位が最高の位にあるということです。あんな大きな組織のオーナーになることなんかできません。そうそう、土曜日のNHKの神無月コーナー観ました?」
「え?」
「十一時十分から五十分まで、四回シリーズ」
「観なかった。むかしの知り合いといろいろ話が弾んじゃって」
「いろいろ、ね。男の本分を尽くしたというところでしょう。どこにいても休まない人だ」
「NHKはおもしろかったですか」
「神無月さんの〈人間〉にはまったく切りこんでませんでした。記録の偉大さだけを細かく追いかけてました。ホームランの本数、飛距離、打率、打点などを、世界と日本の歴代トップクラスの選手と比較していくんです。番組進行の基本は、ほかのテレビ局と同じように、春からの試合の記録フィルムにインタビュー映像をつないでいくというやり方ですけどね。神無月さんのことを徹底して数字の面から探るつもりのようです。NHKらしい」
「―映画館のほうはどうなりました?」
「いろいろな開業手続が一月初旬までに終わる予定です。それから映画屋さんとの交渉を進めつつ、土質の調査や、配管配線の調査をやって、二月初めに地鎮。末には鉄骨打ちに入ります。順調ですよ」
「よかった。……あのう、菅野さん、このランニングのあとで、中京商業の校舎を見せに連れてってくれませんか」
「オウケーイ! 中京高校は昭和区の川名町というところにあります。三十分もあればいけるでしょう。帰ったらシャワー浴びて、さっそく出発しますか。私も道順の予行演習になります。ところで神無月さん、いまは中京商業変じて、中京高校と呼ばれてるんですよ」
「へえ、貫禄がないなあ。いつからですか」
「おととしからです」
「ふうん、チュウショウというなつかしい響きはなくなったんですね」
「はい」
天神山公園で折り返し、スピードを上げて戻った。
†
直人は登園したあとだった。少し大きくなったジャッキを抱き上げて頬ずりする。顔じゅう舐められる。トモヨさんや幣原を先頭に賄いたちが朝の日課に精を出している。掃除、洗濯、蒲団干し。ジャッキは駆けていき、落ち葉を掃いている女たちにじゃれつく。
「社長、神無月さんに中京商業の校舎を見せにいってきます」
「ほいよ、午前の見回りはしとく。きょうは面接の予定もあれせんし、ラクやわ」
「よろしくお願いします。昼までには帰ります」
セドリックで出る。快調なエンジン音だ。笹島のガードから名駅通へ。
「下広井町から例の江川線を通って新洲崎橋までいきます」
「大洲のコンパルまでランニングしたときに通りましたね。それから川原小学校へ連れてってもらったときにも通りました。新洲崎橋から若宮大通に入って、矢場町、吹上、青柳」
「さすがです。川名町は川原小学校のそばです。その青柳を右折して、国道153号線を真っすぐ川名公園まで南下します」
下広井町で市電と別れ、ときどき交差点で市電と出会いながら、吹上、春岡とスイスイ流して川名公園まできた。立木のまばらな、だだっ広い敷地だけの公園。川原通の交差点から公園の敷地が始まっている。
「公園というより、整備されてない空き地ですね。こんな公園、いつできたんですか。川原小学校にかよってたころはなかったなあ」
「たしかに、昭和三十年代初めには民家がビッシリ建ってましたね。そのころから取り壊しが始まって……さあ、いつごろからこうなったんですかねえ。こっちへタクシーを流すことがほとんどなかったんで」
山中と書いてある信号を少し過ぎて左折。ダラダラ坂を登る。
「あと四百メートルくらいです。少し山の手にあるので川名山町と言います」
ここまで二十五分できた。形ばかりの背の低い枯れ垣に囲まれた格好で、巨大な建物の群れが道に迫った。孔雀のような鉄の造形物を載せた正門に着く。覗くと、ふつうよりも狭い野球グランドが見えた。開放された門のようなので、菅野を残して車を降り、少し入りこんで全体を眺める。ライト八十メートルくらい、レフト九十五メートルくらい。フェンスはなく、センターを含めて外野の守備位置の先がすぐに校舎なので、二十メートルほどのネットが外野全体を巡らすように張ってある。車に戻る。
「どうでした?」
「狭いグランドです。たぶん軟式野球部と併用でしょう。練習時間は少なくなる。それであの実績ですから、効率よく集約的な練習方法をとってるとしか思えない。それがこの高校の体質なら、ぼくの体質と似ているので講演しやすいかもしれない」
「まじめで勤勉な高校として有名です。野球部はこれまで一度も暴力事件を起こしてませんしね。優勝旗が盗難に遭ったことはありますが」
「そんなことがあったんですか。優勝旗は朝日新聞社の持ち物でしょう?」
「はい、毎年優勝校に受け渡さなければならない貴重品です。中日が初優勝した昭和二十九年に、ここの校長室から盗まれたんです。学校側は朝日新聞に謝罪にいきましたけど、出てくるまで捜してくれと冷たく突き放されたという話です。結局三カ月後に、川名中学の床下を修理していた大工が見つけました。風呂敷に包まれていたそうです。いまもって犯人は不明です」
「大切なものだとわかっていたんですね。優勝の重さがわかっていた。川名中学出身者でレギュラーになれなかった者か、川名中学から中商野球部に入れなかった者の仕業でしょう。出身者でもないのに川名中学に疑いを向ける意図があったとしたら、中商と川名中学の二つを怨んでたことになりますからね。それはおかしい。盗人の正体を示唆したかったんでしょう。警察も犯人の見当はついていたと思いますよ。モノが出てきたから、温情で処理した。風呂敷に包んであった純朴さが温情を引き出す決め手だった。ただ、犯人が中商を怨んだのはオカドちがいですね。恨みは自分に向けなくちゃ」
「なるほど―」
「さ、帰って、おやつのきしめんでも食いましょう」
黄金(こがね)色のイチョウ並木を戻っていく。先回の帰路と同じように、市電といき交いながら宮裏、安田車庫前、青柳町、大久手と北上し、今池から千種駅前に出る。河合塾がそびえている。二年前、高校三年生の真夏に、ここまで国鉄できて模擬試験を受けた。クソまじめに配点など細かく考えながら。
情熱の素が消え去ると、ああいった行動が浅薄で滑稽なものとして思い返される。そう思うのは自分に対して親切ではないだろう。そうしなければならない事情があった自分を労わってやるべきだ。人から労わられると胸が悪くなる性格を曲げられない以上、こっそり自分で容赦してやらなければならない。しかし美しくない。だれに対して悪いことをしたわけでもないのに、自分に対してコッ恥ずかしいことをしてしまったと気が滅入る。
国鉄の線路に架かる千種橋を渡り、広小路通のビル街に入る。馴染みの薄い広小路通。テレビ塔まで二キロ近くあるが、三分でひとっ走りだ。栄を過ぎ、広小路呉服町を通りかかって、石鳥居が目に入り、
「あれは?」
「お神明さん、朝日神社です。名古屋では熱田神宮に次いででかい神社です。江戸のむかし、広小路はこの神社の門前町だったと聞いてます。戦前このあたりは芸者街で、検番や置屋が軒を連ねてました。綺麗どころの参拝が多いのもこの神社の特徴でした」
「菅野さんは実際目にしてますね」
「はい。この神社は空襲でほとんどやられましたが、ご神体だけは防災蔵に守られて助かりました。それをもとに、長嶋の巨人入団の年に復興がなりました。長嶋と関係ありませんけどね。木立が涼しいのでいまも散歩の名所です」
「直人の七五三はこの神社で?」
「だと思います。秀樹も五歳の十一月十五日にここでやりました。借りた袴を穿いてね」
「三歳と七歳は?」
「七歳は女の子のお祝いなので男の子はやりません。五歳は男の子のお祝いなので女の子はやりません。三歳は〈髪置き〉と言って、それまで剃っていた髪を伸ばしはじめる儀式で、男も女もやることになってましたが、髪置き自体江戸時代までの風習なので、現代ではやりません」
もう私はだれの知識にも驚かない。ただ信頼して問いかけるだけだ。好奇心の発動から始めて、私には先天的に〈ものを知る能力〉がないのだ。知識は他人から授けられ受け取るしかない。それだけで私にはじゅうぶん新鮮だ。
柳橋交差点を右折。錦通を横断して、柳橋中央市場の看板をくぐる。百軒と言わず雑然と食い物屋が並んでいる。一軒の店の透明なビニールカーテンを押して入る。明石でも太田とこういう店に入った。
「二時までやってます。刺身の盛り合わせを食っていきましょう」
「はい」
縁台のようなものに坐り、マグロ、カンパチ、タイ、イワシの四種。瓶ビールを分け合って飲む。時間にして五分ほど。いい寄り道になった。
二
昼食を終え、菅野がファインホースを覗きにいったあと、直人にイギリス民話(トルストイ再話)の『三びきのくま』を読み聞かせる。
むかし、むかし、ずっとむかし、森のおくに一けんの家がありました。その家には大きなくまと、中くらいのくまと、そしてちっちゃなくまが、おぎょうぎよくくらしていました。三びきのくまは、一ぴき、一ぴき、スープのおさらをもっていました。……
三匹の熊はそれぞれ椅子も持っていて、二階にベッドも持っていた。ある朝、スープを作ると熱すぎて飲めなかったので、冷めるまで散歩に出た。金髪の女の子がその家を通りかかって、好奇心から入りこみ、小さな皿のスープを飲み干し、小さな椅子の上で跳ねて壊してしまい、二階の小さなベッドで眠りこけた。三匹の熊が帰ってきて、乱れた家の様子を見て大騒ぎになり、女の子をベッドに発見して叫び声を上げる。女の子は驚いて逃げ出す。その後女の子の姿を見かけることはなく、熊一家は毎日行儀よく暮らしている。これだけの話だ。作者がトルストイだとすると、道徳的な何かを譬えていることはまちがいない。道徳を受け入れた野生は寛容さを身につけ、文明に染まった奔放な野生は奪って逃走するだけ……考えすぎか。熊一家の驚き方がよほどおもしろいのだろう、直人は、
「もういちど」
と要求する。三時半を回っている。
「おとうちゃんはちょっとゴロリとするから、しずかさんか、れんさんに読んでもらいなさい」
「れんちゃんと優子ちゃんは中番です」
そう言いながら厨房から出てきた木村しずかが引き受けた。と、丸の部屋から軽快な音楽が流れてきた。すぐに暗記にかかる。
青い海原 群れ飛ぶカモメ
心惹かれた 白い珊瑚礁
いつか愛する人ができたら
きっと二人で訪れるだろう
南の果ての海の彼方に
ひそかに眠る白い珊瑚礁
まことの愛を見つけたときに
きっと二人で訪れるだろう
「あれは?」
しずかに尋く。
「白い珊瑚礁。今年の五月に流行ったズー・ニー・ブーの曲です。また覚えるつもりですか?」
「うん、キーが高いからぼくに合ってる。今度聴かせてもらう」
トモヨさんに毛布をもらって縁側の窓際に横たわった。一番の歌詞とメロディをしっかり暗記する。
†
裏庭の蒲団叩きを手伝う。大学から戻った睦子たちも手伝う。キリなく埃が出るのが楽しい。ジャッキは音に驚いて寄ってこない。イネが、
「バガヂカラだこだ。ワダが撚(よ)れるすけ、もう神無月さんはやねくていい。納戸部屋さ投げ入れでけろ」
女たちは、干し上がった満艦飾の洗濯物には手を触れさせなかった。
「千佳子、いつでもいいからカラオケに白い珊瑚礁入れといて」
「はい、ズー・ニー・ブー」
「信子の部屋から聞こえてきた」
睦子が、
「みんな夢の中に次いで二度目ですね」
もう一曲あったような気がするが、忘れた。座敷に戻ると、主人が、
「目ぼしい新聞記事、何もないですわ。十二月から一月は、プロ野球の活動が停止する時期ですから、マスコミとしてはネタに困るんですよ」
「自主トレをやってる選手もいるんでしょう?」
ファインホースから戻った菅野が、
「沖縄あたりでのんびりやる選手もいますが、だいたい一月十日前後からです。無名選手を取材してもネタにならないので、名の知れた選手に連絡をとって、取材OKをもらえたらトレーニングに密着するという感じでしょう。中日は今年からコーチの監視つき合同自主トレは廃止ですから、ファインホースにはいっさい取材の申しこみはきません」
「よかった。好きな人と組んで気楽なトレーニングができるかも」
「はい。でも今月と年始は、ほんとにゆっくりしたほうがいいですよ」
「そうもいかないよ。江藤さんや太田たちからは連絡ない?」
「ありません。大幸では若手たちが走りこんでるみたいです。秋季キャンプの流れですね」
「走りこみ、キャッチボール、トスバッティングといったところかな。投げこみはないな」
「ですね。参加したいんですか。そろそろからだがウズウズしてきたんでしょう」
「当たり。青森で休んだ分を取り戻しておきたくてね。人がやらない時期も運動量を減らしたくないんだ。基本練習も絶やしたくないしね」
居間の受話器をとり、昇竜館に電話する。大友寮長が出た。
「ほい、昇竜館」
「もしもし、神無月です。いつもお世話になっております」
江藤が足木マネージャーに慇懃に接するというエピソードを思い出して、丁寧な口調で言った。
「あ、神無月さん、おひさしぶりです。こちらこそお世話さまです。どうしました?」
「はあ、ぶしつけなお願いで申しわけないんですが、この時期、大幸球場であるいは庄内川の河川敷で自主トレしているかたはいますか。もしいらっしゃるなら、合流させていただきたいと思いまして。一人では、あれこれ不便が出てきますので」
「ははあ、からだを動かしたくなったんですね。休まないかたですから」
菅野と同じことを言う。
「一週間ほど青森へ里帰りしてきたもので、少しからだがナマッてしまって。十四日から三日間、軽くトレーニングしたいと思うんです。一日二時間ばかり」
「すごいファイトだなあ。さすがドラゴンズの牽引車だ。わかりました。ご存知のとおり今年からチーム規約で、十一月から一月の合同自主トレには、コーチやトレーナー連の管理監視がつかなくなりました」
「知っています。ケガをしたら労災保険の給付金が下りないということでしょう? 自己責任でやります」
無知を曝している気がする。
「そういうことじゃなくて、今回は監視がつかないということを協調しただけで、保険と関係なく球団の福利は万全です。だれも監視していないので、よほどケガに注意してほしいということです。神無月さんの輝かしい将来に響きますから」
「はあ……」
「大幸はけっこう人がいるので落ち着かないでしょう。堀越の北にある庄内公園野球場にときどき四、五人ほど集まって、走りこみや、素振りや、キャッチボールなどをやってます。本多さんに言って、三日間彼らを差し向けましょう」
「ありがとうございます。だれだれですか。新人はいますか」
「新人の入寮は一月上旬です。二十日のCBCトークショーまでは、寮の主力どころは国に帰ってますので、知らない顔ばかりだと思いますけどね。フェンスがないのでバッティング練習はできませんが、いまおっしゃった程度の練習ならなんとかなるでしょう。くれぐれもケガに気をつけてくださいよ」
「わかりました、気をつけます。九時ごろいきます。ありがとうございました」
電話の内容を菅野に告げる。菅野はうなずき、
「小山オーナーとは十八日の四時半にアポをとりました。十四日から三日間の庄内川原はだいじょうぶです」
河川敷の野球場にはベースがないだろうから、ベーランや滑りこみはできない。そのほうがケガの心配がなくなる。三日間で全身の筋肉をほぐし、二十日過ぎから平常の鍛練に戻そう。こわごわ、労災保険のことを訊いてみる。
「プロ野球選手は個人の自営業者ですから、社会保険はありません」
「社会保険て?」
「厚生年金、国民年金、労災保険、雇用保険、健康保険のことです。自営業者や退職サラリーマンが任意で入れる保険は、保険会社の各種の傷病保険や生命保険、それと国民健康保険だけです。私のような中小企業の社員も社会保険がありますが、健康保険は協会保険です。スポーツ選手には労災保険なんかもともとないんですよ。プロ野球選手の場合、スポーツ界でも最高の補償がなされるようになってますから、社会保険は必要ないと言ってもいいくらいです」
「……?」
「交通事故や遊山でのケガ以外は、すべて球団が治療費を負担します。ケガでプレイできないあいだの給料も支払われます。ケガを理由に契約が解除されることもありません。後遺症が残れば相応の補償金が出されます。他のスポーツ界ではこれらが不十分です」
「ホオォ! 大友寮長の言ったことがやっとわかった」
「大友さんの言ったとおり、監視してくれる人がいないんですから、とにかくケガに気をつけて練習してください。息の長い選手でいるためにね」
「はい! 庄内公園の土手道まで、ランニングでどのくらいですかね」
「五キロぐらいですから、時速十二キロから十五キロで走って、三十分から二十分ですかね。則武のガードを抜けて、まっすぐ北へ走るだけです。則武新町、榎小学校、西高、名塚中学校、庄内小学校。学校沿いに走る道ですね。野球場での運動量を考えたら、いきだけは走るとしても、帰りは車ですね。十一時ごろ迎えにいきます。私はいきの西高までお付き合いして戻ります」
「よし、決まった」
千佳子が、
「私とムッちゃんで迎えにいきたいけど、冬休みが二十八日からだから……」
菅野が、
「私がいきます。心配しないで」
カズちゃんたちがやってきて夕食になった。
†
十二月九日火曜日。七時起床。晴。二・二度。冷える。枇杷酒でうがい、軟便、シャワー、歯磨き、耳垢取り、爪切り。食卓でカズちゃんが、
「キョウちゃんの下痢症、小さいころからのストレスが原因だと考えて、まずまちがいないと思う。プロ野球選手になってからのストレスは、そろそろなくなるころでしょう。とにかく人に気を使わないこと、私たちもキョウちゃんに甘えないこと。読書や書き物は楽しいと思ってるはずだからだいじょうぶ。誕生日の贈り物とか、そんなこと考えてたら気の休まる暇がないわよ」
「二十日は千佳子の誕生日だ」
「それがだめなのよ。何かの記念日や誕生日を忘れてると、女が目くじら立てるってシチュエーションのドラマが多すぎるから、そういうものを憶えてることが世間常識みたいになっちゃったけど、馬鹿じゃないの。人間、そんなに暇じゃないのよ。その手のことは人にまかせて、ボンヤリすごしなさい」
メイ子が、
「ほんとに、ボーッとしててください」
百江が、
「年寄りになんか気を使わないで」
三人大きく笑いながら出かけていった。
ジムトレひととおり。バーベルは八十キロを五回まで。
八時半。菅野と庄内川土手目指して予行演習に出る。則武のガードをくぐって笈瀬川筋を北上。輪ノ内の信号、ノリタケ本社、ノリタケ緑地。西藪下の信号。銀杏並木以外何の印象もない道。菊ノ尾通りの大信号。榎小学校。チラリと花屋を左手に見る。名古屋西郵便局。名古屋西高。
「ここまで十六分。きょうは土手道まで付き合います。帰りはジョグで戻りましょう」
「はい。これ、ずっと笈瀬川筋なんですね」
「そうです。名塚あたりに水源があって、中流が笈瀬川、下流が中川と呼ばれました」
右に天神山公園を見ながら左の細道へ斜行。浄心につづく広い通りを横切って直進。児玉小学校。
「このあたりからもう笈瀬川筋と呼ばなくなります」
西陵商業高校。
「ザ・ピーナッツの母校です。二年生でここを中退しました」
「名古屋と言えば、ザ・ピーナッツですね」
「はい、森徹のファンで、一度対談したことがあります」
「映画にも出てましたね。名古屋にきて西松の飯場に入ったばかりのころ、可愛い花という映画を観た記憶がある。ほのぼのとした出世物だった」
「そんなものまで観てたんですか」
「野球部の練習が冬にかかってたせいで、けっこう早く帰れることが多くて、年末に一人で神宮前日活にいったんだ。裕次郎映画をやってないかと思ってね。やってなかったからその映画を観た。入場料七十円だったかな。五年生になる前に裕次郎映画を三本観た。まず、世界を賭ける恋のリバイバル。これで裕次郎映画は打ち止めと思ったし、人にもそう語ってたけど、結局その冬に二本観たことを思い出した。男が命を賭ける時と鉄火場の風。それからはまったく観なくなって、去年池袋の文芸坐で、敗れざるものという傑作に遇った。オリンピックの年の十月末に作られた映画だった……」
「その年は、神無月さんにとっては映画どころじゃない年でしたよね。十月というのも怖い一致だ」
「うん。裕次郎の傑作はそれ一本だよ。機会があったら観といてね」
「はい」
大通りに出て、左右を見て渡る。何かが足りないと思ったら、ずっと市電の通らない道路を走っていたと気づく。だだっ広い砂地の児玉公園。庄内川用水にいき当たる。小橋を渡って北上をつづける。工場と集合住宅が向かい合う長い直線路になる。春日井製菓の工場もある。信号を渡って、名塚中学校。まただだっ広い砂地の新福寺公園。バックネットがあるので野球場を兼ねているのだとわかる。灰味がかった青空に綿雲が浮かんでいる。
三
信号を渡って、円福寺。向かいに庄内小学校。ついに道が行き止まりになる。左折。隘路の向こうに土手が見えた。土手に登る坂道を探して直進。見慣れたアスファルトの土手道に出る。空が高い。
「ここまで三十四分です。県道202号」
遠くに野球場が見える。そこまで五百メートルはある。トコトコ走っていってみるとちゃんと駐車空間もあった。
「やっぱり迎えにきてもらわないとだめなようですね。帰り道の見当がつかない。迷いそうだ」
「ね。堀越の昇竜館から走ってきただけでも、相当なランニング距離ですよ。二キロはある」
固そうな土のグランドを眺めて帰る。土手を降り、昇竜館まで徒歩でいく。それだけで二十分かかった。玄関戸を開け、出てきた大友寮長に挨拶する。
「ここまでランニングできたんですか!」
「はい。下見に」
娯楽室や食堂から顔を出す連中がいて、大騒ぎになる。
「ヒエー! 神無月さんだ!」
「俳優じゃん!」
「なんかちがうわ!」
菅野と応接室に引き入れられ、大友と握手する。大友は菅野に、
「有名な北村席の菅野さんですね」
菅野は頭を掻く。寮母が茶を持ってきた。五人以上の選手たちも釣られて入ってきて辞儀をした。見知った顔がいない。彼らのすべてが帰郷しているとは思えない。私に会いたくないのだ。ふだんの鬱屈を考えると当然の話だ。私を好んでいても顔は出しにくい。大友が、
「七、八人に増えましたよ。午前だけ大幸に出ないで河川敷へ回るやつもいます。十日には江藤、菱川、太田、星野が帰ってきます。この話をしたら、ぜったい参加すると言ってました」
「ただ走って、キャッチボールをするだけなのに」
「神無月さんといっしょにやりたいんですよ」
十時。私は湯呑を置いて立ち上がった。
「それじゃ十四日に」
「ハ。ほんとにケガには気をつけて」
ノロノロ走り出す。真っすぐ東へ。環状線に出る。くねくね曲がった道をいくので、往路の倍走っている感じになる。二キロほど走り、八坂荘の辻から曲がって美濃路へ。ここまで三十数分。往路分は走った。スピードを少し上げる。菅野に声をかける。
「だいじょうぶですか」
「だいじょうぶです」
花屋を過ぎて、白山神社前でストップ。十時四十分。私は大きな石製の『白山神社』を標柱を指差し、
「桶狭間の戦いのとき、信長がこの神社で戦勝祈願の参拝をしたと聞いてます。ちょっと寄ってみましょう」
「はあ、小さいころからよく聞かされてきた話です。この美濃路は、いまの名古屋城である那古野城と清須城を結んでいた道なんですよ。信長は那古野城で生まれたと言われてます。清須城は信長が居城にしたお城です。桶狭間の戦いを目前にして、信長は早朝、清須からここに馬を飛ばして戦勝を祈りました。織田家は代々白山権現を信仰していたからです。願かけをしたあと清須に舞い戻って、昼下がりに『敦盛』を舞いました」
「人間(じんかん)五十年、ですね」
「はい、ジンカンです。人の巷という意味です」
「化天のうち、もゲテンでなくケテンですね」
「はい、神さま仏さまの世界、という意味です。人の世の五十年なぞ、神や仏の世界と比べたら、夢幻のようにささやかな一瞬のものだ。―化天の時間は人間世界の二十八万八千倍の長さと言われています」
私は絶句した。菅野は憑かれたようにしゃべる。
「人間なんか生まれてもあっという間にかならず死んでしまう。これを悟りの極致と考えないならば、情けないことこの上ない。……翌朝未明に、信長は桶狭間に向けて出陣しました。途中、八時ごろ熱田神宮に軍勢を集めて戦勝を祈願しています。たった三千人で二万五千人の敵を打ち破らんという祈願です」
いつだったか、信長塀のことで、よしのりと山口からそんな話を聞いたことがある。
「桶狭間というのは、いつかみんなで浴衣を買いにいった有松のあたりです。みごと戦いに勝って凱旋した信長は、帰路この白山神社に太刀を奉納しました。残念ながらその刀は名古屋空襲で焼失しました」
石の角柱に挟まれた門を入ると、参道のすぐ右手に瓦屋根つきの大きな手水舎、熱田神宮より大きいかもしれない。左手に二股に伸びる榎の大木、注連縄を巻いてある。根方に古びた末社。
「この末社は、お菓子の神さまを祀ったものです」
「は……」
よくわからないまま、つづいて社務所。
「御朱印を授けるところです」
これもよくわからないまま、狛犬と灯籠に迎えられて、やはり注連縄を垂らした石鳥居をくぐる。
「御朱印というのは、参拝して神さまと縁を結んだ証明書です」
菅野は問う前に答える。
「縁は結ばなくていいですね」
「はい、神さまのコネは要りません。ふつうに死にたいですから」
「敬意を表して参拝だけしましょうか」
境内は意外に広い。拝殿の賽銭箱の前面に神紋が彫られている。亀甲枠の中の花に金色の彩色が施されている。
「瓜の花の神紋です」
二人で百円を投げて手を拍つ。拝殿の扉がコンクリート造りで大きく開いているので、拍手(かしわで)の音が高らかに響いた。拝殿の前にデンと腰を下ろしている狛犬の、大胸筋の盛り上がり方がすごい。筋トレでもしたのかと思われるほどだ。
拝殿の脇に稲荷が祀ってある。赤い奉納幟のスポンサーが、ほとんど春日井製菓だ。なるほどお菓子の神さまか。赤鳥居の先にも賽銭箱。くどい敬意は無礼なので、賽銭投入はしない。門を出ると、神社前に鰻屋がある。宮宇(みやう)。見覚えがある。
「鰻を食っていきましょう。少しアルコールを入れて」
「はい。タクシーで帰りますか」
「そうしましょう」
十一半時開店と書いてある。まだ四十分ほどある。
「菅野さんはこのあたりの生まれでしたね。実家が見たいな」
「そんなものに興味ないでしょう」
「興味あります。菅野さんの実家ですから」
菅野は西高に向かって歩き出した。
「天神山公園の裏手です。牛巻病院そっくりの宮田医院という建物があって、その真ん前です。いまは両親と兄貴夫婦、それから子供二人が住んでます。私はその一丁北の児玉のあたりに住んでます。十四日にランニングするときにお教えします」
ここです、と菅野が少し離れたところから指差した。瓦屋根の年季の入った二階家で、板塀に格子戸の門、小庭にはルーフ付きのガレージもしつらえられていた。道の向かいは建物三軒分もある広い駐車場で、その奥に四階建ての宮田医院がそびえている。牛巻病院に似ていたが、もっと大きくて殺風景な感じがした。屋上の給水塔は錆びつき、壁も薄汚れている。建ってから三十年も経っているように見える。医院の脇にアパートの物干し場らしきものが見えたが、よしのりや吉永先生の友人が住んでいたアパートではないかと思った。
「年に何回も訪ねません。仲が悪いわけじゃないんですが、居心地が悪くてね」
「お堅いんですね」
「父は高等小学校時代から秀才で、五中、いまの熱田高校卒のエリートでしたからね。西区役所に定年まで勤め上げました」
「花の木の役所ですね」
「ええ。むかしは円頓寺商店街の先の五条橋のあたりにありました。兄は烏森の松陰高校を出て近鉄百貨店に勤め、いまは紳士服販売部の課長をしてます。私はこれまでお話したとおり、中卒で肉体労働者になりました。そういうやつが、のんびり太平楽で暮らしてると……ま、そういうわけです」
「はあ……」
ジョギングで宮宇に戻り、一番客で入る。二番客、三番客が続々と入ってくる。菅野はタオルで顔を拭き回しながら、
「やっぱり腹へってましたね」
「へってました」
「グッタイミングです」
「はい。たしかこの店は二度目ですね」
私も顔や首を拭く。
「いや、私は初めてです」
「そうか、カズちゃんときたんだった。花の木からバット担いで天神山公園まで散歩したときだ。その帰りに偶然見つけた。ここで食ってから、名古屋まつりに出かけた」
「十月ですね」
「うん、高二の秋だったな。……うなぎ丼しかないんで驚いた」
「ほんとですね、うなぎ丼しかない」
「ときどきこようって約束したんだけど、結局こなかった。もう三年も経っちゃった」
品出しは少し時間がかかるだろう。うなぎ丼二人前と肝焼きと肝吸いを注文する。あのときと同じ男二人で焼いている。三百五十円だったうなぎ丼が五百円になっている。三年前は三百五十円を高いと感じたが、いまは五百円を安いと感じる。映画館建設費は高いとも安いとも感じない。金を出して買えるものに対する感覚そのものが怠惰になっているとしか思えない。そのことを菅野に言うと、
「高い安いといえる価格規模の品物には、経験に基づいた適切な感覚が働くんでしょうね。三年前の鰻丼三百五十円は高いほうだったでしょうし、いまどき五百円の鰻丼は確かに安いほうです。車や家や電化製品など超贅沢品の値段は、常に初体験なので、感覚の働きようがないわけです。受け入れるしかありません」
二合徳利の清酒がテーブルに載る。猪口で乾杯する。カリッとした焼きの強いうなぎが出てくる。
「うまい!」
「うまいですね」
小ぶりな肝焼きも美味。肝吸いも美味。
「……北村席に勤めてることも、ご両親やお兄さんと気まずくなった原因ですか」
「はあ、庶民の偏見は相当なものですからね。……神無月さんには、あの種の人間には遠慮してほしくないんですよ」
食べ尽くし、飲み干し、店を出た。タクシーを拾って北村席に帰った。千鶴がジャッキの鎖を引いて数寄屋門から散歩に出るところだった。
「だいたいどのあたりを回るの?」
「椿神社までいって帰ってくるだけです」
「クネクネ歩いても、五、六百メートルぐらいだね」
「はい。神社のツバキにオシッコかけたら帰ってきます」
「ウンコは?」
「席の庭の木のあいだにするので、シャベルで穴を掘って埋めとる。旦那さんが栄養になるって言ってました」
昼食の最中の座敷で、芥川賞やら、直木賞やら、能天気な単語が飛び交っている。
「五百野の中間評が載ってます。めし食ってからゆっくり」
「鰻、食ってきました」
「まあ、ずるい」
ソテツに睨まれる。女たちが笑う。菅野とシャワーを浴びにいく。
サッパリして座敷に戻ると、トモヨさんに中日新聞を差し出された。上段半ページを割いている。秋山駿という評者の名前が記されていた。
これは新聞小説ではない。私小説でも大衆文学でも純文学でもない。既成の枠組みを超えた新しい色鮮やかな〈何か〉である。最も大衆的な文学とされてきた新聞小説というジャンルが、戦後二十年経ったいま、あらためてその意義を問い直されている。
かつて荒正人は、大衆文学の粋である新聞小説を〈娯楽味の強いもの〉と〈教訓色ないしは社会色の濃いもの〉の二通りに分けた。中野好夫は〈読者の興味を引くために一回一回ずつのサスペンスを残すとか、山を作るとかしなければならない〉と述べた。
しかし、神無月郷の『五百野』は新聞小説ではないのでいずれにも当たらない。娯楽味も社会色もサスペンスも、かつての文学的な教条も考えず、激しい寂しさに包まれ、他者と触れ合うことを渇望しつづける少年の心理をひたすら思いつくままに露呈していくだけである。おそらく羅列される事件は彼の体験を大幅に潤色したものであろうから、私小説ではない(狡知を凝らして実体験と信じて読ませる力量は相当なものである)。道徳訓や世間智を述べている箇所もないので、倫理小説でもない。歴史をなぞった知識の開陳や哲学的な美意識の押しつけもいっさいないので、教養小説でもない。彼が自作を〈作文〉と公言する所以である。
つまり神無月郷は、自分と同様世間も価値を認めないであろうと諦視していた自作を〈作文〉として発表する格好の場を得た、いや、彼に発表の他意はない。価値があると思っていないのだから。たまさか手を差し伸べた後援者の新聞紙面に自室の机を見出したというところであろう。いまもって彼は自作発表の事実に見向きもしないと噂されているし、週に一度新聞に載る自作を読んでいるふうがないとも仄聞した。かなりの推敲を凝らして書き上げ、机の隅に積んだ原稿に、まったく未練を持たないのである。
彼を新聞小説の書き手に登用した新聞社側の考えを推察すれば、執筆依頼は単なるおためごかしの後援ではなかったことは明らかだろう。おそらく、彼の原稿を前にして一目で特異な才能を見抜き、しかもその推敲を重ねた文章が大衆向けの自伝ふうの作文や感想文の類ではなく、精緻な〈文学〉であると理解したものと思われる。プロ野球選手の後援に事寄せて、あるいはそれをにおわせて作品を依頼したほうが、固陋と言えるほど自虐的で、文壇嫌いの神無月郷の了承を得やすいと考えたのにちがいなく、そして彼の〈文学〉が安易に読者の興味を惹きつけようとする娯楽味や、教訓性ないし社会性を打ち出していないところにこそ、新聞小説として発表する真の狙いがあると判断したのだろう。一部の読者に迎合しようとする娯楽に偏ったり、政治に傾いたり、個よりも全体社会を打ち出したりする現代の文学傾向、ひいてはそういう文学者に対する批判がこの登用に看取されるのである。
神無月郷によって〈作文〉と分類された五百野は、〈私〉にまつわる事件の狡猾な語りが、これまで紋切り型であった〈母と子〉、〈父と子〉の普遍めいた関係を特殊な虚構の刃で切り崩している。これは彼がこの作品を、多様な読者とその読書行為を想定して書かれた多様な〈美観〉を備えた物語にしようとしているからと思われる。要するに同作品は、今日既成の文学が問い直されつつある風潮の中で、現行文学に対する危機意識がじゅうぶんに表れた作品と言えるのである。いや、文学者連にかぎらず、風潮に取りこまれた庶民の動向をもするどい眼差しで観察する視点が随所に見受けられる。何よりも、五百野は神無月郷が抱きつづけてきた芸術の使命に関する問題意識を明示している重要な作品であることはまちがいない。
既成の文学も未来の文学もない。芸術があり、芸術家がいるだけだ。私は芸術家ではない。となれば、書いたものは作文だ。菅野が、
「いくら褒めてもむだなのに……」
ポツリと言った。私は、
「中日新聞がくれるならもらいます。見出した人が称揚するべきでしょう」
主人夫婦がうなずいた。