四

 則武に戻り、牛巻坂数枚。百江が戻って掃除している。倒立腕立て五回。一升瓶左右十回ずつ。庭に出て素振り内角高目、外角低目五十本ずつ。百江のいれたキリマンジャロ一杯。百江と笑い合いながら蒲団を叩く。仮眠、六時まで。いっしょに北村席へ。
 ジャッキが土間でめしを食っている。直人とカズちゃんとカンナを膝に抱いたトモヨさんと並んで夕食。カンナがついに離乳食を始めた。
「一日に何回?」
「二回です。この二日ほど慣らしました。だいじょうぶのようです。メニュー表も作って厨房に貼りました」
 おかゆ、白身魚すりつぶし、ニンジンと豆腐すりつぶし、固ゆでの黄身すりつぶし、リンゴのすりつぶし、ヨーグルト、どれも少々。先の細いスプーンで与えている。
「おかゆは十倍がゆ、シラスや、納豆や、鶏レバーをすりつぶしてあげることもあります」
 直人は、トロトロ卵オムライス、チキンソテー、ポテトサラダ、コマツナの和え物、春雨スープ、刻みリンゴ、すべて適量で。私たちは、鮭の味噌焼き、牛肉とコマツナの炒めもの、ポテトサラダ、豆腐とアオジソのサラダ、トマトとニラと春雨のスープ、めし。トモヨさんに尋く。
「保育所の誕生会は毎月、何日?」
「第二月曜日です。今月はクリスマス会もあるので、子供たちは大喜びでしょう」
 睦子が、
「毎月出し物を準備しなくちゃいけないので、保母さんもたいへんですよね」
 素子が、
「保育所も幼稚園もいったことあれせんから、見てみたいわ」
 カズちゃんが、
「クリスマス会にいってきなさいよ。夜にもう一度席でやるけど」
 千佳子が、
「私は保育所はいきませんでしたけど、幼稚園はいきました。幼稚園の出し物なら憶えてます。紙芝居、影絵、人形劇、手品、クイズ」
 子育ての経験のある百江とメイ子が同時に、
「イス取り!」
 三上ルリ子は子供をかよわせたことがないようで、何も言わない。カズちゃんが、
「私はどっちもいったことがないのよ。いじめられそうで、いきたくなかった」
「保育所や幼稚園て、カズちゃんの時代からあったの?」
 女将が、
「明治大正のころからあったんよ。幼稚園のほうがだいぶお金がかかってな。公立やといまの一万二、三千円、私立やと五、六万やな」
 そんなに金がかかったのか。城内幼稚園は私立だった。義一がすぐやめてしまった理由もやっとわかった。私の学費はだれが出していたのだろう。母はとうてい出せない。君子叔母さんか? 英夫兄さんか? サイドさんか? たぶん君子叔母さんだろう。菅野が、
「お嬢さんがそういう気持ちになるということは、やはり偏見みたいなものがあったんですか? むかしはいまより大らかだと思ってましたが」
 きょうの私たちの話の流れで訊いているようだ。
「むかしのほうがきつかったのよ。置屋の娘、置屋の娘ってね。キョウちゃんの飯場の息子と同じ。おとうさんおかあさんもいかなくていいって言ってくれたし」
 法子のことを思い出した。バーの娘―。
「人が人に偏見を持つ時代を振り返ったら、原始時代までいっちゃうのかなあ」
「人間て、他人と比較して少しでも自分を立てたい生きものだから。……菅野さんもここに鞍替えするとき、親戚からいい顔されなかったでしょう?」
「まあ……しかし、私は、神無月さんとその周りの人以外には何の期待もかけてませんから」
 主人が、
「神無月さんはワシらをヤワでない人間にしてくれたわ。人の顔色なんか窺ってもしょうがあれせん。天下泰平がいちばんや」
 菅野は心から納得したように、
「はい」
 と応えた。夕飯が終わる。直人を中心に五、六人連れ立って風呂へ、主人と菅野は見回りに、残りのほとんどの者がテレビの前に坐った。私は髪を刈りに太閤通へ向かう。
「散髪してきます」
 ジャッキが数寄屋門までついてきた。映画館建設予定地を眺めながら過ぎる。アヤメの広い庭の仕切りの生垣から七、八メートル離れた敷地だ。程よく土が乾いている。そこから十メートルばかり隔たった角地のトタン張りの屋敷は改築中だった。いつもの床屋に入る。二席が満席。待ち客一人。座席の客は、風呂代が三円上がったなどと店主と話している。待ち客は漫画週刊誌を読んでいる。中日スポーツの広告欄。

  名宝会館21日(日)改築オープン。同ビル収容の名古屋宝塚劇場、名宝スカラ座、名宝文化劇場、名宝シネマも改築オープン

 偶然だが吉兆を感じる。順番がきて慎太郎刈り。
「やっとストーブリーグですね。一年でいちばんくつろげる時期でしょう。今年は目の回る活躍でしたから」
「はあ、今月はまだ少し忙しいんです。一月になってやっと落ち着きます」
 押美さんが三日に訪ねてくる予定があるだけだ。床屋の女房が、
「イオノ、いい小説ですね。毎回泣けてしまって」
「騒がれてるようですが」
「関係ありません。野球選手は野球選手。分を知らないと」
 首の毛を払い落としてもらい、五百円を払う。
「散髪料も来年から六十円上がります。すみません」
「散髪屋さんの責任じゃないですよ。この十年でどれくらい上がりました?」
「十年前は百六十円でしたから、四百円ですね。組合が取り決める値段ですから逆らいようがありません」
「安いものです。じゃ、また二カ月後に」
 店を出るととっぷり暮れている。市電に注意しながら太閤通を渡って、マキノ映劇へいく。一本立て。脱走山脈。象に乗って山越えか。観る気なし。しかしせっかくきたのだから観ていくか。十三日土曜日はオールナイト二本立て。青春の鐘、花ひらく娘たち。舟木一夫と浜田光夫。中商講演のあとか。観にきてもいいな。七時四十五分から一時間四十分の映画。出るのは九時半。あと十分で開映だ。三百五十円の入場券を買って入る。売店で前田のクラッカーを買う。
 闇の中で幕が開く。胸が踊る。ミュンヘンでナチスの捕虜になったイギリス兵ブルックスは、動物園の飼育係に配属される。平和主義者の彼は喜んでこの仕事をする。とりわけメス象のルーシーをかわいがる。象は平和の象徴だ。おもしろい設定だ。見映えの無骨なオリバー・リードが主役ブルックス、絡み役のアメリカ兵パッキーは、きょう字幕で初めて知ったマイケル・ポラード。ジェームズ・キャグニーによく似ている。快演だ。
 動物園が空爆され、ブルックスはルーシーをオーストリアへ疎開させるための同行を命じられる。武装親衛隊の意地の悪いドイツ兵を道中で誤って殺してしまった彼は、脱走を余儀なくされる。たまたま脱走が重なったパッキーと協力し合いながら、ルーシーを連れて中立国スイスへ亡命することになる。ここから象との濃密な友情物語が展開する。フランシス・レイの美しいテーマ曲が胸に沁みる。観た甲斐があった。
 最後の山越えのシーン。二千数百年前、カルタゴのハンニバルも象に乗ってアルプスを越え、イタリアへ進軍した。映画の題名はハンニバル・ブルックス。イメージはかなり異なるが、サウンド・オブ・ミュージックの『すべての山に登れ』が重なった。
 北村席に戻ると、ジャッキが背中を丸めて数寄屋門まで走ってきた。カズちゃんたちは則武へ帰っていて、睦子と千佳子も部屋に戻っていた。座敷では相変わらずテレビ組と麻雀組が賑やかにやっていた。優子や木村しずかといったアヤメの遅番組が帰ってきて、厨房のテーブルに準備してある惣菜を電子レンジで温め直した。座敷の賑わいが増した。居間のテーブルで主人と菅野が夕刊フジを読んでいる。覗きこむと主人が、
「すべて、こともなしですわ」
 菅野も、
「神無月さんが言ってたとおり、四海波静かです」
 彼らの脇に腰を下ろし、何の話だろうと思いながら新聞を覗きこむ。

    
川上監督続投
      
正力亨オーナー〈複数年契約〉表明
       須藤コーチ一軍入閣牧野ヘッド留任も明言
 
 巨人正力亨オーナー(51)が八日、川上哲治監督(49)の続投決定を表明した。リーグ五連覇は逃したが、昨季まで四連覇の手腕をあらためて評価。複数年契約を提示し、内諾を得た。来季は須藤豊二軍守備コーチ(32)の一軍首脳陣入閣と、牧野茂一軍ヘッドコーチ(41)の留任も明言。通算十年目も選手と首脳陣の世代交代を進めていく。
 ファンにV逸謝罪
 来季も川上ジャイアンツでシーズンを迎える。正力オーナーは「大事な勝負どころで勝てなくなってしまって優勝争いから脱落したことは、ファンのみなさまにたいへん申しわけなく思っております」とV逸を謝罪した。そのうえで「来季、川上監督に続投を要請して、内諾を得ました」と明言。つづけて「須藤くんに来季は一軍のベンチにコーチとして入ってもらって、牧野ヘッドと三人を中心に力を合わせてチームを立て直してほしい」と明かした。須藤コーチの役職は作戦や守備などを軸にチーム力を検討し、向上させていくためのものとつけ加えた。
 変わらぬ信頼関係
 リーグ五連覇を逃したが、川上監督への信頼は揺るがなかった。正力オーナーは「神無月問題後大失速したが、ざっくばらんに言わせていただくと、多少勇み足のきらいはあったにしても、あれもひとえに巨人軍を愛する川上くんの情熱のなせる業であったと理解している。今後はそのあふれる情熱を活かし、選手ともども心身を涵養する意気ごみで勝っていってほしい。また指導者も育ててほしいとお願いしてやってきているんですけども、その点に関しては力を尽くしてくれている」と評価。「結果が出ていないのでいろいろ批判もあろうかと思いますけども、私の立場からは川上監督に対する信頼感は寸毫も変わっていない」と言い切った。
 正力オーナーは最後に「戦力補強が手薄だったことに今年の敗因があったとは思っていない。チームの投打には波がある。その波をどうやって乗り切っていくかがいちばん大事なことだと思う。それに失敗すると肝腎な勝負どころでミスが露呈される。昨季まで監督業通算九年で六度のリーグ制覇と六度の日本一を成し遂げてきた川上体制だ。長嶋、王といった主軸に対して、来季も球団の伝統と指揮官としての帝王学を学んでもらうためにも続投の結論に至った」と唇を結んだ。


「こんなものでしょう。驚くまでもないですね」
「はあ、何も、いっさい変わりないです」
「あしたはどのあたりを流しますか」
「ひさしぶりに日赤あたりまでいってみましょうか」
「そうだね」
 十時を回り、厨房や座敷の人たちに帰りの挨拶をする。菅野と玄関を出て庭石を歩いていると、睦子と千佳子が赤い顔をして追ってきた。
「今夜?」
「はい!」
「二人とも危なくない日なので」
 菅野が楽しそうに笑った。クラウンで則武まで送ってもらう。百江が起きて待っていた。カズちゃんもメイ子も起きてきた。
「あら、お二人さん、溜まっちゃったの?」
「はい!」
「お風呂沸かして入ってね」
 メイ子が、
「あとでラーメン作ります。食べながら11PMでも観ましょう」
 カズちゃんが、
「二人、十三日の土曜日空いてる?」
「はい、すっかり空いてます」
「十一時からの中商の講演、いっしょにいって聴いてきて。キョウちゃんはあとで何も話してくれないから」
「わかりました」
「それからキョウちゃん、キクエさんが十一日から三十日まで、東京に二十日間の研修にいってくるらしいわ。幹部看護婦養成の研修ですって。定員五十名に応募して選ばれたみたい。あしたの午後二時くらいにここにくるって言ってた。出発の準備があるから四時ごろまでに帰るって。危険日ですって。百江さん、早番だからもう帰ってるわね」
「はい。だいじょうぶです。またごちそうさまをさせていただきます」
 千佳子が愉快そうに笑った。睦子が、
「からだだけ、早く百江さんみたいになりたい」
 百江が、
「だめだめ、さびしくなりますよ」
「節子は応募しなかったの?」
「ちがうの。キクエさんが言うには、節子さんはとても優秀で、中村日赤では出世コースに乗ってるから研修の必要がないんですって。キクエさん、この研修を終えたらようやく節子さんの足もとにたどり着けるって言ってた」
 メイ子が、
「二人ともすごいですね」
「キョウちゃんの女だもの」


         五

 風呂場に入ったとたん千佳子は早急に私を求め、睦子の前で激しく昇り詰めると、この上なく満悦して湯船に沈んだ。射精しない私に少しも不満気な態度をとらなかった。気づかなかったのかもしれない。
「予備校、ちゃんとかよってる?」
「はい。合間を縫ってという感じで。公認会計士のコースに切り替えるというのを一年早めて、法律の試験勉強コースに区切りをつけようと思ってます。サブスクールの勉強で経済の細かい知識をつけ、大学の勉強で法律の浅い教養をつけるつもりです」
「そう、すごい充実だ」
「スタンド敷きでき上がりました。二枚。北村と則武で使ってください。トモヨさんと和子さんに渡しておきました」
 ニッコリ笑うと私たちを残して先に上がり、手を振って出ていった。
「千佳ちゃん、郷さんのことを愛しすぎてるから、このごろ、からだよりも心のことしか考えられないんですって。たまらなくほしくなるときだけ抱いてもらって、あとはとにかくそばにいたいって。私のほうがたまらなくなる回数が多いかもしれません。死ぬほど愛してることにかけては、だれよりも自信があります。……みんなそうだってわかってますけど」
 睦子とは私の寝室でゆっくり丁寧に交わった。声も反応も、恍惚の表情まで、まったくカズちゃんと同じになってきたことに驚く。きちんと射精した。
「オープン戦と開幕のあいだに、万葉歌碑を歩くって計画、忘れてたでしょう?」
「忘れてた」
「いく気あります?」
「ある」
「千佳ちゃん、キッコちゃん、それから青森からやってくる秀子さんも誘いたいです」
「千佳子の運転でちょうどクラウンに乗り切るね。どこを回るつもり?」
「まだぜんぜん決めてません。全国で二千くらいの歌碑があるそうですけど、それは一生かかっても回りきれないので、十年ほどは愛知県だけに絞ろうと思ってます。北陸・中部地方でいちばん歌碑の多い県は愛知県です。百五基あります。来年の春は一宮市にしようと思ってます。萩原町に十四基もあるので、そこへいってみましょうか」
「そうしよう」
 居間へ降りてこの話をすると、カズちゃんが地図を出してきた。萩原町の位置を確かめる。
「名駅から車で一時間かからないわね。土日にかけてなら乗せてってあげる。私も興味あるからぜひいきたい。宿はこじんまりした古い旅館がいいわね。一宮って、泉というところがもと遊郭なの。いい旅館がありそうね。秀子さんとキッコちゃんは置いてきましょう。名大に受かってたら、四月は忙しい時期になるから」
 みんなで就寝前の会話を楽しむ態勢になる。十一時十五分から、ウーシャバダバの11PMが始まる。画面を流しながら会話がつづく。
「どんなことでも自分で没頭するのはいいけど、人に教えるのはぼくの分にはないと思うようになった」
「教えるキョウちゃんはきっと格好いいと思う。でも、余計な人間関係ができちゃうわね。教える相手にしても、性質のいい人ばかりとはかぎらないし。キョウちゃんは動くのがぜんぜん似合わない人なの。独りで机に向かっていること以外は、みんな似合わない。医者も、弁護士も、先生も、サラリーマンも、人と関わる仕事はみんな似合わない。キョウちゃんは樹だから。樹が動き回るのはおかしい」
「でも、そうなると、野球選手も似合わないということになるよ」
「野球も、歌も、文章を書くことも似合うわ。動き回るというのは、生活のために齷齪するということよ。樹はどっしりとして、生活なんか考えない。キョウちゃんは樹のようにどっしりとして、野球をしてたでしょ。だから、一瞬一瞬が絵や写真になるくらいきれいだったのよ。労働はちがう。どんな高尚そうな労働でも、根もとに齷齪した生活があるから、美しい瞬間などないわ。……ほうら、もう涙が浮かんでる。泣き虫さん。……正直なところ、しなくてもいい苦労をさせたくないだけなの。いやになったらやめること。それも大事な処世術よ」
 百江とメイ子が野菜たっぷりのインスタントラーメンを作ってきた。みんなですすりはじめる。千佳子が、
「神無月くんは、しなくてもいい苦労を進んでするし、いやになってもやめない人だと思う。たしかに似合わない感じ。でも、動き回る人なんです。齷齪はしてませんけど」
 睦子が、
「千佳ちゃん、私もそう思う。郷さんぐらい勤勉で、誠実な人はいません」
 西松の社員も、飛島の社員も、寺田康男も、山口も、カズちゃんや睦子たちも、みんな勤勉で誠実な人間だ。ホンモノの手本は身近にいる。彼らの心意気を師表にし、油断なく身と心を磨いて、いつかささやかな達成の幸福感に浸れるように励まなくては。
「どうしたの、きびしい顔して」
「しっかり生きようって、覚悟してた」
「いままでしっかり生きてこなかったてこと? キョウちゃん、あなたは自分が怠け者だと思ってるようね。どうしてそう思うのかしら。西松の飯場で、毎晩素振りしてたことを思い出してごらんなさい。大将さんの見舞いにかよいつづけたこと、一人の女に打ちこんだこと、あんなつらい環境の中で、名門高校に受かり、名門大学に受かり、野球選手になり……それはぜんぶ勤勉と誠実さが運んできたものよ。おまけに才能があるのに驕らないのは、まじめさの最たるものよ」
 私は何度もうなずき、
「驕らないだけでなく、その才能の果実をもっと手に入れるよう努力しなくちゃって、決意してたんだ」
 カズちゃんは私の両手を握り、
「もっともっと人のためになりたいってことね。なってください。私ももっともっと力添えをします」
 ラーメンのあと、睦子と千佳子のいれたコーヒーをみんなで飲む。
 テレビの横に小さな本立てが置いてある。見覚えのない文庫本が並んでいる。ほとんど西洋の小説だ。手に取ると、どれも読みこんでいるのがわかった。カズちゃんは微笑みながらコーヒーをすすり、
「最近買った本ばかりよ。メイ子ちゃんも買い足したりしてね」
「時間があるときは私も読ませていただいてます。難しいですけど、一生懸命読んでるうちに感動しちゃうことが多いです」
 百江が言う。ユゴーの『死刑囚最後の日』を開き、読みかける。すばらしいものだとただちにわかったので、自分の部屋に借りていくことにする。
「これ借りてくね」
 カズちゃんがテレビを消した。
「さ、きょうは就寝!」
 五人の女が立ち上がり、メイ子と百江は自分の部屋に去り、千佳子と睦子はカズちゃんの部屋にいった。私は勉強部屋の机にいき、ユゴーを開いた。

 
死刑囚! 私はその考えといっしょに住み、いつもそれと二人きりでおり、いつもその面前に凍えあがり、いつもその重みの下に背を屈めている。むかしは、というのもこの幾週かが幾年ものように思われるからであるが、むかしは私もほかの人びとと同じように一人前の人間だった。どの日にも、どの時間にも、どの分秒にも、それぞれの思いがあった。私の精神は若くて豊かで、気まぐれな空想でいっぱいだった。そして楽しげにその一つひとつを、秩序もなく際限もなく、生活の荒くて薄い布地を無尽蔵な唐草模様で飾りながら、次々に拡げて見せてくれた。若い娘、司教のきらびやかな法衣、たけなわな戦争、響きと光に満ちている芝居、夜はマロニエの広い茂みの下のほの暗い散歩。私の想像の世界はいつもお祭りみたいだった。私は自分の望むものを何でも考えることができた。私は自由だった。

 なんという想念のはばたき! なんという言語の羅列の適切さ!
 こういう文章を私も書ける日がくるのだろうか。期待しないほうがいい。期待せずに心を明るく保ち、希望を持って励まなければならない。目をつぶった。読んだばかりの文章を思い浮かべるだけで、底知れない充実感に満たされる。
 人間というのは、どの分野においても、なんと偉大な業績を上げることだろう。彼らの末席に連なって生きられたら! 偉大であろうとは思わない。懸命に何ごとかを達成しようとする姿勢を貫きながら生きる……その時間を一秒でも長く持ちたい。偉大な人びとの心意気を模範とし、彼らに引け目を感じない生き方をしたい。
 明け方カズちゃんが蒲団に入ってきた。耳の端にかかるほつれ毛が愛らしい。私はキスをし、右手で胸をつかみ、左手で襞を触る。カズちゃんの背中に力がこもる。舌を強く吸ってくる。やがて、そのままブッと息を吐き出し、尻を痙攣させる。
「……ああ気持ちよかった。魔法みたい。オチンチンはおあずけ。そのうちゆっくりいただきます」
「西松のころ、カズちゃんはいつ、ごはんを食べてたの」
「唐突ね。お昼は二時ごろ。お母さんもそうよ。夕食は、家に帰ってから亭主といっしょに。毎日つらかったわ」
「そのころ遇ってたら、その家から連れ出してたのに」
「あんなこと言って。とっくに遇ってたわよ。キョウちゃんは野球少年。私は三十女。毎日がつらいなんてこと話せるわけないでしょ」
 私は、あっ、と思い当たり、
「……アレが、最初の打ち明け話みたいなものだったんだ」
「そう。ああしてもらって、とってもうれしかったのよ。キョウちゃんが指を入れたとき思わず電気が走って焦ったわ。キョウちゃんのこと、こんなに好きだったんだってわかった。それからキョウちゃんは、私の一生の男になったの」
 私はカズちゃんの肉づきのいい腕を握り、
「一生離れないからね」
 と言った。カズちゃんはしっかり私を抱き締めると、もう一度キスをして蒲団から出ていった。二度寝に入る。
         †
 十二月十日水曜日。八時起床。晴。快晴。二・一度。階下に気配なし。うがい、軟便、シャワー、歯磨き、洗髪。パラソルなし。コーヒーをいれて一杯。テーブルに新聞。小さな記事。

  
板東に自由契約通告
 中日ドラゴンズ板東英二投手(29)は中区の球団事務所を訪れ、小山武夫球団社長から自由契約の通告を受けた。同投手はこれを受け入れ、他球団からの請求がなかった場合、今年かぎりで現役を引退することとなった。プロ十一年間で七十七勝六十五敗、甲子園での投球過多で選手生命が縮まったと言われている。


 退職金の先払いと見なされる〈契約金〉ではなく、活躍に対する純粋な対価である〈年俸〉の記事が板東の記事よりも目を引いた。
 ―各球団、来季の年俸が一千万円の大台を超える選手はほんの一握りで(王貞治七千万円、長嶋茂雄八千万円、野村克也四千万円は特例)、大リーグでさえ一億円を超える選手が一人もいない現状で、来季の中日ドラゴンズは有力選手のほとんどが一千万円を超えている。一億を超える選手も二名出た。
 なぜ一千万円が〈大台〉とされているのか理由がわからないし、王や長嶋や野村の給料が特例とはまったく思わない。選手にしても野球をやれさえすればカネなどどうでもいいとは考えられないのか。
 ―今年度の球場収入が他球団の五倍から十倍であったわが球団側から見れば、利益の適切なパーセンティージを正直に還元しているにすぎない。したがって、来季以降球場収入が減った場合、あるいは、選手個々の活躍の度合いが下がった場合は、彼らの収入にマイナスとして撥ね返ってくるのは当然だ。いずれにせよ、来季の俸給は優勝チームにふさわしいものにした。
 還元と言われるとホッとする。小山オーナーの語りは明快だ。
「いきますかァ!」
 菅野と日赤までランニング。牧野小学校から昭和通りへ。丸正串カツ店、杉戸呉服店、金時湯、環状線。横断して、中島郵便局、トルコ街、中村日赤。十五分。玄関前の小さなロータリーに初々しい看護婦姿がたむろしている。中に少し先輩風を吹かすふうの節子がいる。世間をにおわせない清楚なたたずまいだ。思わず頬がゆるんだ。
「節子さんですね。……神無月さんは、ほんとうにやさしい目で人を見ますね」
「楽しそうだ。すばらしい」
「神無月さんのおかげで、節子さんはいまああやって立ってるんですよ」
「そんなことはないよ。……でもうれしいな」
「節子さんもキクエさんも、いつだって神無月さんにありがとうと言いたいでしょうね」
「いつか、葵荘で節ちゃんの投げやりな気持ちを叱ったことがあった。どうしてもまじめに勉強してほしかったし、それで彼女が大好きな看護婦という仕事に復帰してほしかったから」
「節子さんもそれで目が覚めたんでしょう」
「まだぼくの心に自分の人生に対する、なんか整理のつかない……ヒガミみたいなものが残っていた時期だった。曲がりなりにも母子で力を合わせて人生を立て直そうとしている二人と、まともな生き方のできない自分とを比べて、なんだかたまらなくなってしまってね。人を叱れるような、そんな―。親子で支え合う世界……心からうれしい」
 菅野は何も言わなかった。節子たちが病院の大きな玄関を入っていくと、ポンと私の尻を叩き、
「さ、いきましょう」
 帰路、環状線を渡って金時湯の裏手一本南の細道を走り戻る。車一台ギリギリだ。金時湯の赤茶けた煙突の威容をしばしたたずんで見上げる。期待どおり古民家の並ぶ道。商店は一軒もない。時おり、五、六階建てのマンションが迫ったりする。あっという間に牧野小学校の通りに出る。北村席到着。十三分。菅野が屈伸運動をしながら、
「きょうはスムーズな走りでしたね」
「そうですね。ちょっと三種の神器をやります」
「やりましょう」
 ふたりで牧野公園に入る。まず腹筋。
「おとうちゃーん!」
 トモヨさんに手を引かれて直人が門前の道をいく。
「おー、直人ォ! いってらっしゃい!」
 トモヨさんが頭を下げる。
「楽しくやるんだぞォ!」
「うん、いってきまーす!」


         六

 土間で朝めしを食っているジャッキの頭を撫でる。尻尾だけで応える。菅野とシャワーを浴びたあと、掃除洗濯であわただしい賄いたちに気を差して、二人でアヤメにいく。開店以来二度目の顔出しだ。レジの百江がビックリする。
「いらっしゃいませェ!」
 頓狂な声をあげたので、店内の客たちが注目し、私の名を呼び捨てにしながらざわめいた。寄ってくる客に優子や近記が、
「サインはできません! サインはサイン会か球場でどうぞ」
 今年はもうそんなイベントはないし、球場に出かけるチャンスもないのに、カズちゃんに教えられたとおりの紋切りで応えている。菅野が、
「食事をしたらすぐ帰ります。カツ丼二丁!」
 客たちが席を立って握手を求めにくる。十人ほどの握手ですんだ。それでようやくざわめきが鎮まった。ウィークデイで午前中は客が少なく、小中学生の子供もほとんどいないので助かった。小上がりに腰を下ろす。
「ええ男やなあ」
「お人形さんみたいね」
「目の保養になったがや」
 三上ルリ子がカツ丼を運んできた。
「ごゆっくりどうぞ」
 私は笑いかけ、
「それは無理みたいだね」
 表で聞きつけた客が徒党を組んで入ってくる。たちまち満員になった。この時間にめしを食いにくるのは、出社の遅い独身者か、楽隠居の夫婦者がほとんどで、飛びこみでないかぎられた常連客が多い。しかし満員になってしまった。菅野と急いでカツ丼を掻きこむ。早めしは苦手だ。それでもがんばって食い終えた。
「来年も頼むぞ!」
「二百本!」
 試合数よりもはるかに多い。私は、
「七十本!」
 と応えた。
「それで勘弁したるわ」
 和気に満ちた笑いが拡がる。百江に勘定を払う。小声で言う。
「午後はお願いね」
「はい」
 ニッコリ笑って応える。
「じゃ私は、少しファインホースの所員たちと電話確認の仕事をしてから、午前の見回りに出ます。午後は帳場の手伝いと、羽衣と鯱の応募者四人ほどの面接です」
「がんばってください。ぼくはちょっと机に向かってから、四時過ぎに席にいきます」
 数寄屋門の前で手を振って別れる。
         †
 百江にコーヒーをいれてもらい、一時過ぎまで牛巻坂を四枚余り。ユゴーの中ほどにかかる。その二十六。私は死んではならないと思わせる数行にいき当たる。

 
十時だ。
 おお私のかわいそうな小さな娘よ! これから六時間、そしたら私は死ぬんだ。私はあるけがらわしいものとなって、医学校の冷たいテーブルの上に投げ出されるだろう。一方では頭の型を取られ、他方では胴体が解剖されるだろう。そうした残りは棺にいっぱい詰めこまれるだろう。そしてすべてがクラマールの墓地にいってしまうだろう。
 おまえの父を彼らはそういうふうにしようとしている。が、その人たちはだれも私を憎んではいないし、みな私を気の毒に思ってるし、みな私を助けることもできるはずだ。だが私を殺そうとしている。おまえにそのことがわかるかい、マリーや。落ち着き払って、儀式ばって、よいこととして、私を殺す。ああ!
 かわいそうな娘よ! おまえの父をだよ。父はおまえをあんなに愛していた。おまえの白いかぐわしい小さな首にいつも接吻していた。絹にでも手を当てるようにして、おまえの髪の渦巻きの中にしじゅう手を挿し入れていた。おまえのかわいい丸い顔を手のひらに載せていた。おまえを膝の上に跳んだりはねたりさしていた。そして晩には、神に祈るために、おまえの小さな両手を合わしてやっていた。
 そういうことをこれからだれがおまえにしてくれるだろうか。だれがおまえを愛してくれるだろうか。おまえくらいの年齢の子供たちにはみな父親があるだろう。ただおまえだけにはない。……


 二時少し前、キクエがやってきて私の胸にかじりついた。百江が、
「お風呂に入りますか?」
 とキクエに尋く。キクエは、はい、と答える。三人で風呂に入る。私はきょう三度目になるが、湯船に浸かるのは初めてだ。キクエのからだを直人のように抱き締める。百江がキクエの肩に手で湯を掬ってかけながら、
「研修に選ばれて、おめでとうございます」
「ありがとうございます。うれしいんですけど、これからはますます責任が重くなります」
「二十日間も遠征してたんでは、からだがもちませんよね。それでなくてもふだんから放っておかれてるんですから」
「それは少しも気にならないの。ただ三週間も名古屋から離れるとなると、急に死ぬほど恋しくなっちゃって。キョウちゃんとはいっときでも離れたくないんです」
 小さなからだから突き出ている大きな胸を握る。直人の顔ぐらいの大きさだ。乳首を吸う。百江が後ろから私の肩を抱く。キクエが私のものを握ってくる。
「たくましい」
 私はお返しに彼女の股間を愛撫する。
「……ここでください」
 キクエは立ち上がり、尻を向ける。百江が目を逸らす。挿入するとすぐに一波、二波が訪れ、三波四波で甲高い声が上がる。おもむろに百江も並んで尻を向ける。そうして横目でキクエの脇腹の筋肉の硬直具合を測りながら、同時に私の気配も察して、やさしく目顔で合図する。腰を落としそうなキクエから離れて湯に沈め、百江に移る。彼女はすぐに連続の強い脈動で応える。百江のいただきで吐き出す。瞬間百江はキクエを思いやって懸命に声を上げないようにする。代わりにからだで激しく応える。
「か、神無月さん、好き……」
 そっと抜いて湯に沈める。キクエと並んで頭を寄せ合う。何度も見た図―責任を果たし終えた満足感を運んでくる図だ。
「キョウちゃん、うれしかった、ありがとう」
「ありがとうございました」
 まだふるえている二人の胸を揉む。
「これで心置きなく東京にいってこれます」
「どこに泊まるんですか?」
 百江が尋くと、
「日比谷線の広尾駅のいくつかの指定マンションに分かれて泊まります。六本木とか恵比寿のマンションに泊まる人もいます。応募参加ですから、宿泊費、外食、自炊、全部自費です」
 私は仰天し、
「え! 最終的に選ばれたのに?」
「はい。でも十九日間で十万円くらいです」
「何で言わなかったんだ」
「ぜんぜん平気です。気を回さないでください」
「何言ってるんだ。気を回すも何も、そのくらいしかぼくの活躍のしどころはないだろう」
 からだを拭くと、すぐに二階に上がる。机の抽斗から紙幣をつかみ出す。二、三十万はある手応えだ。持って降り、居間のテーブルに置く。二人が風呂から上がってきて、目を瞠る。
「それで交通費から何からぜんぶ賄って。うんと贅沢に勉強してね」
「はい。いつもすみません」
「いつもじゃないよ。できるときだけだ。さ、もう一回戦」
「はい!」
「今度は百江もしっかり声を出してね。セックスぐらい気を使わずにしないと」
「そうよ、私はいつも節子さんといっしょに思い切り解放してます」
         †
「くれぐれも風邪をひかないように。これ、おなかを冷やさないロングショーツ、持っていってください」
「わあ、ありがとうございます。いつも買おうかどうしようかって迷ってたんです。少し年寄りくさいから」
「神無月さんのほかに見る人なんていないでしょう?」
「はい、節ちゃんだけです。彼女にも勧めちゃおうっと」
 私は、
「今夜出発?」
「はい、少し手持ちの荷物の整理をして、今夜九時三十九分のひかりに乗ります。お見送りはいいですよ。ガラガラのホームから最終のひかりにササッと乗りますから」
 茶を飲みながら三十分ほど歓談した。キクエは四時に則武を出た。椿神社まで送っていった。
 百江と二人きりになる。北村席に向かう。
「キクエさん、ほんとにうれしそうでしたね」
「うん、張り切ってたし」
「みんな生きいきとしてます。見習わなくちゃ」
「見習うことはない。〈みんな〉の中に百江もいるよ。しかし、ファンというのは、生きいきというより、物見高いゴンボホリという感じだね」
「ゴンボホリ?」
「駄々っ子」
「……サインは嫌いですか」
「見境なく自分の存在を誇示するのは、イヤだな。グランドなら見境がある。そういうことをする場所だから。……男の子はいい。ぼくの姿に未来の夢を重ねる。存在を誇示してやることが彼らの希望につながる」
「神無月さんはいつも真実を素朴にしゃべろうとする人ですね」
「真実という言葉は好きだけど、ぼくには真実はしゃべれないなあ。素朴とか単純というのは当たってる。素朴はナイーブとも馬鹿とも言われるんだよ。百江たちはそんなこと考えてもいないけどね。ぼくを馬鹿と考える人はめちゃくちゃ多いんだよ。それを前提にして聞いてね。……馬鹿のしゃべる簡単すぎる理屈は、馬鹿でない人の耳には不快に聞こえることが多いんだ。すくなくとも真実には聞こえない。馬鹿特有の屁理屈に聞こえるんだ。だから不愉快……。ぼくは単純な考えを口に出すだけで、複雑なことを説明したいわけじゃない。馬鹿にはそんな複雑なことを考える能力はないもの。馬鹿が真実を言えないのは、膨大な知識の総合体について無知だからなんだ。ぼくは自分が理解している範囲では無知じゃないよ。該博じゃないけど局部的な知識はある。万事に複雑な知識を築き上げた人からすれば、ぼくは当然馬鹿になる。ぼくが自分を馬鹿だとよく口にするのは、万事に通じた知識人の代弁をしているからなんだ。彼らは積極的にぼくを馬鹿だといわずにシニカルに、遠回しに馬鹿だと言う。社会的じゃないとか、正義漢だとか、純粋だとかね。そういう持って回った言われ方がいやなので、ぼくは自分のことを単刀直入に馬鹿だと言ってあげるんだ。言われる前に先走って手間を省いてあげるわけだね。……素朴なぼくを馬鹿だと思わずに愛してくれる人には、そういう言葉は意外な、自虐的な断定なので、肝を冷やしてしまう。だから大切な人にはもう言うまいと心に決めた」
「万事に通じた人なんかこの世にいるはずがないです。……万事を総合しなければ見えてこない真実もないと思います。神無月さんは、どんなときも真実をしゃべってます。……真実の行動をとってます」
 ガレージ裏手のファインホースに寄る。立派な玄関を備えた別棟が一つ増えている。いつの間に、と思う。職員六名にきちんと挨拶する。初期の人員の名前も顔も憶えていないが、二名ばかり増えている。ミニチュアバットの三脚に載った新品の硬式ボールが各人のスチール机の隅に置いてある。時おり電話がなり、メモがとられる。事務室内はガラリと模様替えをしてあり、目覚ましく広くなっていた。壁に文江さんサインと、パネル入り写真が七、八枚掛かり、右手の大きなドアから、もろもろの記念品やトロフィーや楯や賞状が展示してある別棟に入れるようになっている。室長ふうの男が、
「たった一年分ですけど、相当な数なので、見たいとおっしゃるかたにはお見せするようにしてます」
「そんな人がいるの?」
「けっこうおります。午前十時半から四時半まで許可しています。土日は受け付けてません」
 彼に案内されてギャラリーふうの室内に入ると、ガラスケースに納まったきらびやかな記念品のあわいに、《シーズン本塁打記録 1969年 168本 セントラル野球連盟》と書かれたポスターが貼られ、日付、球場、対戦チーム、対戦投手が細かく記してあった。その横の薄いガラスケースの中に、ホーム用とアウェイ用のユニフォームが吊るされていた。足もとに帽子とスパイクが置かれ、久保田バットが二本立てかけてある。壁には隈なくビニールで包装された新聞写真が貼ってあった。うれしいことに、青森高校時代や東大時代の写真も混じっていた。
「見物料を取るようなシステムにはぜったいしないでくださいね」
「はい、所長も常々そうおっしゃってます」
「みなさんのお仕事は何時までですか」
「六時までです」
「たいへんでしょうが、よろしくお願いします」
「何の苦もありません。神無月さんを称えることが私どもの使命です」
 職員みんなに挨拶をもう一度して出る。横門から席の庭に入る。すぐ池がある。ジャッキが飛んでくる。母屋の奥の裏庭で、賄いやトルコ嬢たちが蒲団と洗濯物を取り入れている。



(次へ)