二十二 

 十二月十七日水曜日。菅野と日赤を往復したあと、一日机に向かった。二十枚ほど書けた。北村席で夕食を終え、夜九時過ぎに文江さんの家にいって二、三時間すごした。最近ではもう老若どの女も、手っ取り早く行為をすませて会話の時間を長くとるように気を配っている。肉体の時間も、言葉の時間も、表情は常に柔和だ。心身の生活がおのずと調和したという雰囲気を醸(かも)していた。きょうの文江さんは、癌の完治を話題にした。
「全摘がよかったみたい。遠隔再発というのもなかったのよ」
「何、それ」
「肺とか、脳とか、リンパ節、骨、膣などに再発すること。手術から三年半、これで三年生存を達成したから、あとは五年生存。それを達成すれば、死ぬとしても癌が原因でない可能性がほぼ百パーセントになるらしいわ」
「よかったね、ほんとに」
 二人服をつけて、独習部屋の表彰状や、階段の壁に貼ってある生徒たちの墨跡を見ていく。秀樹くんのものもあった。
 どんなに遅くなってもかならず則武に帰ってカズちゃんといっしょの蒲団に寝る。深夜に戻った則武の蒲団で、カズちゃんが、
「キョウちゃん、このごろほんとに自然体になってきたわ。人よりもかなり早く〈したい盛り〉が終わったみたい。もうだれにも気を使わなくていいと思う。いままでは声をかけられるのを待ってしゃにむに応えてあげてたけど、これからはひと月に三回でも五回でも、自分がしたいときに、自分がしたい人にだけ声をかけてあげなさい。女はずっと〈したい盛り〉だし、愛情に満足してればずっとセックスを忘れていることもできるから」
「うん、ぼくもそうしようと思ってた。みんなセックスを愛の短い挨拶としか考えてないってことがわかってきたんだ。女は言葉や視線がほしいんだね。もちろんからだもほしいだろうけど、男よりもはるかに堪え性がある」
「そうよ。ほかにほしいのは、そばにいる安心感。できれば肌の温もり。……こうやって朝まで肌寄せ合って寝られるのは私だけね。死ぬほどうれしいわ。……キョウちゃんは性的な豪傑よ。いつもだれか相手がいる人のことを豪傑って言うの。そういう人は、ダイナミックに人生を展開していくわ」
         †
 十二月十八日木曜日。六時起床。曇。枕もとのタイメックスはマイナス一・七度。硬く勃起している。温かいカズちゃんを抱き締め、胸を含む。カズちゃんは朝のキスを黴菌だらけと言って避ける。指と手のひらでたがいのからだじゅうを愛撫し合う。自然と交合する。挿入したとたん、尿意が去って快感だけになる。カズちゃんも同じだ。一分もしないうちにそれがくる。
「いい?」
「出して」
 カズちゃんは烈しく昇り詰め、私は強く射精する。いつまでも膣が事後のケアをするようにうごめく。抜いても隆々と屹立している。
「私も治まらないみたい。もう一度」
「うん」
 二度目は長くなる。カズちゃんは二十回と言わず果てた。愛液を何度も飛ばし、私が射精するとき少し失禁までした。
「ああ、すごかった。私、よほど溜まってたみたい。ありがとう、キョウちゃん。もう当分だいじょうぶよ」
 六時半。カズちゃんは歯磨きへ。私もうがい、歯磨き、ふつうの軟便。カズちゃんと交代で。二人でシャワー、洗髪。全身に石鹸を使う。からだをよく拭い、寝室へいき、下着を替える。朝のジャージになる。カズちゃんはきちんと身支度して台所へ、私はジム部屋へ。片手腕立て右二十回、左十回。胸筋背筋鍛練のあと、百キロバーベル二回で止め。
 四人でオーソドックスな朝食。一汁三菜。ホウレンソウ、大根、シメジ、油揚げの味噌汁。塩鮭、トマトとカイワレが添えてある。卵焼き三切れ、油揚げヒジキとホウレンソウのお浸しが添えてある。ニンジンと福神漬けの和え物。百江のレシピだろう。
「うまい、幸せだ」
 カズちゃんとメイ子もにっこりうなずく。
「百江さん、名人ね」
「ほんとに」
「牛乳を入れて溶いて、砂糖を少々、塩一つまみ」
「私たちにもいろいろなレシピを教えてね。好きな人においしく食べてもらうことって、生きている充実感の中でも最高のものよ。そうだ、キョウちゃん、小山オーナーに北村席からと言って、お歳暮を持ってって。岐阜の名宝ハム。紙袋に入れて北村に置いてあるから。ありきたりだけど、感謝の気持ちは伝わると思う」
「わかった。ぼくを野球でくるんでくれる最高責任者だもの、お歳暮ぐらい贈らないとね」
「キョウちゃん……」
「ん?」
「焦って書かないことよ」
「焦るどころか、ぜんぜん書いてないのといっしょだよ」
「書いてるわ。いまのペースでじゅうぶん書いてることになるわ。おまけに頭の中でだっていつも書いてるでしょう。でも焦ってる。芸術の才能は枯れないわ。いつだって書き出せる。からだが力強く思いどおりに動いて満足な結果を引き出せる期間は、とても短いのよ。きっと十年もないでしょう。だからそれができるうちは、野球の才能を燃やし尽くすことに没頭してね。そこで観察したことや考えたことや感じたこと、悟ったことや理解したことをうんと心に蓄えて、いつか野球から離れて書き出すときの大きなエネルギーにしてほしいの。キョウちゃんは特別な人よ。いまも特別すぎるほど特別な人だけど、もっと特別になれる人。ものごとは最善を尽くした人に、いちばんうまくいくようにできてるの。……人生は思ったよりも長いわ。焦らないでね」
 かならずしも出発点と着地点は一致しない。私はプロ野球という夢に没頭したあと、別の夢を追うことになるだろう。―芸術。一家をなす素質はないかもしれない。少なくとも野球のような天稟(てんぴん)はない。野球は得意だし、いっしょに野球をやる仲間たちに本能的な愛情を覚える。しかし、芸術は得意ではないけれども、人間を慈しむありように本能を超えた真実の愛を見出す。
 私はいろいろな感情を経験した。絶望も経験したし、歓喜も経験した。無為にも冒されたし、倦怠にも蝕まれた。……いまも蝕まれている。そのことを忘れたことはない。生まれて間もなく拒絶され、その後も拒絶につきまとわれてきた。愛そうとする者からでき損ないと見られ、拒絶されてきた。拒絶されることからのみ、自分が何者か、何がほしいかを教えられてきた。そのことを決して忘れようと思わない。
 私が何より望むもの、それは日常生活の真剣な実践と、その実践を不本意な環境の中で自分の理想に近づけようと奮闘している人間の誠実さを描くことだ。その誠実さこそ人間の真実だと納得させる作品を提示することだ。提示しなければ人間の崇高な価値は見すごされる。かつて、芸術なぞ現実の真剣な生活に比べれば取るに足らないものだと考えたことがあった。それはちがう。芸術は彼らの真剣な営みに価値を与え、彼らを慰撫するものだ。彼らの誠実さは現実生活の中では目の前を通り過ぎるだけで、深い感銘を持って認識されない。彼らに目を留めた者が、彼らに恥じない真剣さを持って記録しなければならない。彼らに対する深い関心と愛情を口頭で宙に飛ばすだけでなく、表現の場に腰を据えなければならない。
 私は生まれながらの芸術家でないとわかっている。天稟と技能がない。険しい道をたどることが思いやられる。道の途上で、予想もしない困難を経験するのが目に見えている。それをものともしない情熱が自分にあると信じたい。作品を拒絶され、やめたくなっても、真剣な人びとを描こうとする関心を途切らせない情熱が自分にあると信じたい。社会に要らない作品だと拒まれても、その作品を描き切ることで誠実な人びとに報いようとする愛が自分にあると信じたい。真剣で誠実な人間は讃えられるべきものだし、そうされることを待っている。彼らに報いるためには、彼らに対する愛と関心をみずからの内に確実に探り当て、創造物として奔出させなければならない。その時間は私が生きているあいだはたっぷりある。急ぐ必要はない。
「ゆっくり、地道に書くよ」
「そうよ。こつこつ、一日一日を心とからだに合ったように経験していけば、書く時間は自然に降ってくるわ。書くようにでき上がってる人なんだから」
「信じてもらえてうれしい」
 私が描きたいのはあなたたちだ。あなたたちを描くたゆまぬ努力の中で、人間を愛することを学びたい。それができれば、あなたたち以外の人びとにも愛着が湧くだろう。自分の頑迷さが否定するものに美を見出せるようになるだろう。
「いきますよう!」
 菅野の声だ。
「ほーい!」
 百江が菅野をキッチンに上げ、
「きょうは遅くなりますね」
「小山オーナーの家にいけば二日がかりです。オーナーの自宅は品川なんですよ。これまで彼の家に呼ばれたのは、たまたま東京にいた幹部だけでしょ。名古屋の別宅は中日ビルの中にあるみたいだし、きょうは名古屋のどこかで食事をしながら話をするつもりじゃないかな。私は中日ビルから引き返します。帰りはタクシーを拾ってくださいね」
「了解」
 カズちゃんが、
「明るい野球小僧でいるのよ」
「うん」
 メイ子が、
「則武のほうに帰って、すぐお休みください」
「そうする。じゃいってきます」
「いってらっしゃい」
 走りだしてすぐ菅野が、
「禁煙しました」
「え!」
「まじめにからだを鍛えたいので」
「北村席では?」
「吸います。社長たちに気兼ねさせてしまうのでね。ほかでは吸いません」
「なんだ、局地禁煙ですか」
「ハハ、そうです。社長も女将さんもあまり本数は多くないほうだし、好都合です」
「女の人たちは?」
「彼女たちもほとんど吸いませんね。直人やカンナに気を使ってるんでしょう。タクシーを流していたころはひっきりなしでした。お客さんが勧めるくらいですから」
 日赤から折り返す。西高の便所裏で大前に一服吸わされたとき、一瞬頭の奥が重苦しくなった。あの感覚を思い出している。
「頭が気持ち悪くなることはありませんか」
「体調が悪いときにはね。頭痛がくることもあります。スポーツにはぜったいだめですね。特に神無月さんは心臓が完全でないから厳禁」
「はい、吸いません」
「ドウモスイマセン」
 走りながら右額に手をやる。思わず笑った。
「五百野、第十五回。さぶちゃんの五十円玉。市電道までさぶちゃんを追っかけて……泣きました。精神的にお母さんと切り離された場面です」
「思いこみ作文です。自分はクロコにして、もっと美しい他人を描かなければ。じゃ、四時までに席にいきます」
 北村席の前で別れた。則武に戻る。焦っているわけでもなく、やはり机に向かった。
         †
 四時。紺の背広にノーネクタイで北村席を出発。十一分で中日ビル到着。
「じゃ、帰りはタクシーでお願いします」
「はい。ありがとうございました」
 屋上の回転展望レストランを振り仰ぐが、社屋に隠れて見えない。玄関を入ると、優勝パレードのときに見た得体の知れない天井画。エレベーターで球団事務所のある六階に上がる。ドラゴンズの歴代有名選手のユニフォームがところどころのガラスケースに展示してある廊下を進む。Dragons と紺色のロゴを貼りつけた大ガラスドアの前のベンチに座る。押しパネルの自動ドアだ。十一月にも記者団に囲まれながらここに座った。一メートルほど先にさらに手押しのガラスドアがあり、その奥に何人かカメラマンがうろついている。そこを縫うようにして、背広とネクタイで正装した日野と井手がやってきた。契約更改の帰りのようだ。カメラマンがついてくる。私は腰を上げ、廊下の端から階段の踊り場へ退避してやりすごした。彼らはこぞってエレベーターのほうへいったようだ。しばらく廊下の物音を窺う。物音が途絶えたので、ロゴの前に戻って自動ドアを入る。もう一枚のガラス戸の向こうで小山オーナーが手を振っていた。彼の後ろに村迫と、十一月の契約更改のときに会った遠藤という男がいた。
「約束の十分前だ。礼節のある時間にきたね。いらっしゃい」
 握手する。
「いつもながら大きくて硬い手だ。包みこむようだね」
 つづけて村迫と遠藤とも握手。
「この四日間は二軍の契約更改だった。いまの二人で終わり。さ、お茶でも飲んだらめしを食いにいこうか」
 女子事務員の手でローテーブルにコーヒーが出される。フィルターで落としたうまいコーヒーだ。


         二十三

「生活のかかっている二軍選手との交渉というのは難航するものなんでしょうね」
 私が言うと遠藤が、
「いえ、難航しません。一軍選手とのあいだに太い線引きをされている二軍選手は、交渉の余地はないんですよ。ポンポンと終わります。管理部長の私が一人で対応し、金額提示して判を捺させる。保留したら戦力外です。中堅でも常時一軍でない選手はほとんど同じ待遇ですね。本来オーナーや球団代表が出てくるのは準レギュラー以上で、きょうはオーナーに神無月さんとの約束があったので出向いてきました」
 村迫が、
「大物選手の場合は事前に予備交渉することが多いんですが、ことしは予備交渉もなく全員一発サインでした」
 私が要領を得ない顔をしていると、遠藤が、
「大物選手は大幅減俸という最も難しい事態が生じやすいので、予備交渉が必要になるんです。だいたい一悶着起きますから」
「……ぼくは予備交渉なしで当日に言い渡してください」
 三人ドッと笑い、小山オーナーが、
「減俸は、一億超えの選手の場合は最大四十パーセントまで、一億以下の場合は最大二十五パーセントまでです。江藤くんの場合は、よほどのことがないかぎり減らないし、神無月くんの場合も来季、三冠すべて二十傑にも入らないなんて事態が起きたら、十パーセントほど減るでしょうが、一冠でも獲れば増えますよ。事前交渉の必要はもともとないですな。さ、出かけますよ」
 遠藤が、
「じゃオーナー、私は失礼します。きょうはこれから家族と食事に出かけますので」
「ほい、あさってCBCで」
「はい、客席のほうにおります」
 遠藤はそそくさと立ち去った。男子職員が前に立って私たちをエレベーターに導く。三人が乗りこむと、職員は深々と辞儀をした。小山オーナーが、
「自宅にきて女房の手料理を食ってほしかったんだが、品川区の旗の台なんでね、年内に東京でそのチャンスを作れなかったので、今年は仕方がないね。きょうは村迫くんお勧めの店にいこう」
「はい」
 玄関前にオーナーつきの黒塗り車が停まっていた。村迫は助手席に、オーナーと私は後部席に乗った。村迫が運転手に、
「新栄の丸小(まるこ)。五時から五時半に予約を入れてある。八時ぐらいに迎えにきてちょうだい。その足で神無月さんを竹橋町の北村席へ送ってあげて。私たちはタクシーを呼ぶからいいよ」
 意外に早く帰れそうだ。
「承知しました」
 村迫は煙草を吸いつけ、
「丸小は明治の半ばから、小出商店という名で精肉と製氷を生業にしていた店だったんですが、昭和の二十年代にすき焼き専門店になりました。いまの店主は三代目です」
「村迫さんは名古屋出身ですか」
「生粋の名古屋っ子です。実家は八事にあります。南山を出て、少し英語ができるということで、中日新聞名古屋本社の事業局に勤めておりましたが、三年前に球団代表に推(お)されました」
 小山オーナーが、
「ドラゴンズの台所を預かる仕事はたいへんだよ。よくやってくれてる」
 中日ビルから広小路通を東へ三分ほど走って、すき焼きの看板を出している丸小に着いた。小座敷に通され、まずビールで乾杯。予想以上に会話を弾ませながら、うまいすき焼きコースを食った。黒毛和種というのがよくわからず、食席に侍(はべ)った女将に尋くと、明治大正から役用(えきよう)として飼育されてきた牛で、戦後に肉用として改良が進んだと言う。小山オーナーが、
「とろけるような味わいですな」
「当店は肉質が最高と言われる鹿児島牛を使っております」
 そう言って耳障りなお愛想も使わずに丁寧な辞儀をすると、調理番の仲居を残して去った。スッキリした気分になる。オーナーが、
「天下の神無月を知らない人もいるんだなあ。愉快だ」
「天下は広いです」
「たしかにね。やっぱりファンあっての中日ドラゴンズだね」
 三人、香の物と味噌汁でめしを一膳食った。村迫が、
「中商の講演、CBCで観ました。いつもながらの名講演でした。オーナーともどもフロント全員が感動しておりました」
「ありがとうございます。口が滑りすぎないようにいつも注意しています」
「もっと滑ってください。人間が謙虚にできてますから、いくら滑っても神経に障るところがない」
 小山オーナーは一服つけて、
「そのとおり。いつも天真でいてください。その天真さがたとえどんな不祥事を引き起こしたとしても、すべてドラゴンズが握りつぶします」
「芸能界に近づきませんので、その心配はご無用です」
「ほんとに、なんという人間なんだろうなあ」
 それからは選手一人ひとりの話題に移っていったが、とりわけ打撃陣の躍進には目を瞠るものがあるとオーナーは言い、江藤、木俣、菱川の名を挙げた。
「仲間を褒められるのがいちばんうれしいです。自分が褒められるのは居心地が悪いので聞き流します」
「素直に聞き入れることも必要では?」
「それに見合った人間だと思えるときがもの心ついてから一度もないからです。ただ、大したものでもない自分を肯定されることはうれしい。すべてが肯定的に動いているときには、ぼくはそれを心から喜んで行動しますが、常に胸の底に否定的なものをしまっています。防衛本能と言うより、宿命論みたいなものです。だから否定的なことが起きてもそれを肯定できます」
 村迫が、
「つまり、鳥のように何も考えていないということですね」
「そういう宗教的な象徴の話ではなく、ぼくはただ観念して生きてるだけです」
「野球選手としては?」
「観念しています。用いられれば、仕事を最善の状態でやり遂げられるように尽力し、用いられなければ、去る。どの人間関係においても、一人ひとりがその気持ちでいれば、気まずい思いをする人はいなくなります。人は他人のために生きてるんですから。当座の命の存続以外、自分のために生きてる人はこの世に一人もいないと思います」
 二人、目を潤ませた。自分のために生きている男の例として浜野百三の話題が出た。小山オーナーが村迫に、
「今年の彼の巨人での成績は?」
「零勝三敗です。このオフは、十二月から藤田コーチが付きっ切りで大改造に励んでるそうです。少なくとも十勝は挙げてもらいたいということで」
「十勝? ハードルが高すぎる。性格を叩き直すのが先じゃないか」
「肩と投球フォームが先でしょう」
 肩の筋肉はウエイトで多少つけられるだろうが、投球フォームはどうだろう。彼のことは思い出すと不快になる。寛容になれない。
「相当うちにぶつけてくるね」
「はあ、見えてますね。あの性格を利用して」
 デザートのアイスクリームとコーヒーが出た。村迫が、
「金田の引退試合は、来年四月二日、ヤクルトとのオープン戦だそうです」
「完投を目指すんですか」
「引退試合は九回のうち一回投げるだけです。来年の開幕初戦は四月十二日、後楽園の巨人戦ですよ。がんばりましょう」
「はい!」
「江藤くんたちと何日か合同練習したみたいだけど、今月はそれでおしまいでしょう?」
「三ヶ日で三日ほど走る予定です。走って、食って、寝て、それを三日やって今年は締めくくります。もちろん大晦日までランニングと筋トレは欠かしません」
「尋常ならざる鍛練ですね。一年間ほとんど休まない」
「プロですから」
 小山オーナーがニッコリ笑い、
「来年こそ、東京の自宅にきていただきたい」
「機会があればかならず参ります」
 村迫が、
「どうか来年も中日ドラゴンズをよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
 もう一度ビールで乾杯し、外に出た。女将と仲居数人が見送った。二人のフロントと握手し、玄関前で待っていた黒塗りの車に乗った。
「じゃ、あさってCBCで」
「はい」
 二人に頭を下げ、手を振った。八時。夜のネオンの街を走る。行き交う車のライト。市電のライト。美しい街に暮らしている。運転手がポツリと、
「驚きました」
「は?」
「ご尊顔を拝見できて光栄です。きょうは楽しみにしておりました。オーナーから驚くなよ言われてましたが、驚きました」
「大勢の人のツラを汚して生きてきましたから、その分、てめえのツラが助かったのかもしれません」
「ハハハ、一流のしゃべり方をする人だから、それも驚くなと言われてます。驚きます」
 笹島から道案内をする。北村席の数寄屋門で降りるとき私は、
「足になっていただき、ありがとうございました」
 と言った。運転手は、
「もったいないです。では失礼します」
 とだけ言って去った。
「お帰りなさい」
 カズちゃんたちが出てくる。ジャッキの頭をなぜ、座敷に合流する。きょうはトモヨさん母子と幣原がいない。睦子たち勉強組もいない。主人夫婦や菅野がいる。女たちに混じってテレビを観ている。木曜日。肝っ玉かあさん。北村席の連中はふるさとの歌まつりを観ない。みんなの後ろの畳に足を投げ出す。百江が座椅子を、イネがコーヒーを持ってくる。主人が、
「どうでしたか、オーナーとの食事は」
「すき焼きの丸小にいきました。うまかったです。村迫さんもきました。来年は東京の自宅にぜひって小山オーナーが」
「シーズン中の東京遠征しかないですな」
「はい」
 菅野が、
「丸小からタクシーですか?」
「いえ、オーナーの車で門まで送ってもらいました」
「オーナーたちもいっしょに?」
「丸小の前で別れました」
「運転手と二人きりで気詰まりじゃなかったですか」
「口数の少ないいい人でした」 
 肝っ玉かあさんが終わり、九時前のコマーシャルと天気予報。腰を上げる者とテレビの前に居残る者に分かれる。このあとは決まっている。九時からはNHK銀河ドラマ、九時半から検事霧島三郎。
 私はコーヒーを飲み終え、天気予報を途中にしてみんなに挨拶する。カズちゃんと素子と連れ立って、メイ子と百江が待っている則武に帰る。右側のふくらんだ半月が曇り空の奥に輝いている。素子を抱き締めてキスをし、アイリスの前で別れる。彼女も勉強組だ。
 女三人はテレビ、私はカズちゃんの部屋の机に。貴重な書棚があるから。
 自分は書くべき人間ではないということを思い知り、確信するために、いつも気紛れに一冊を引き出して読む。昭和三十七年刊中公新書『日本の名著―近代の思想』。五十の名著が挙げてある。著者渾身の選別だろう。その中で私が読んだことがあるのは三つのみ。読んでみて内容(わけ)がわかったので読み通し、名前の残像が残っている本だ。福田英子、妾の半生涯、石川啄木、時代閉塞の現状、坂口安吾、日本文化私観。この三つ以外に列記してある本は、著者名や書名からして、書店の棚で目に留まらないものだった。こうして書き連ねられた書名を熟視しても、どうしても食指が動かないものが大半だ。
 三酔人経綸問答、国体論及び純正社会主義、文化価値と極限概念、美と集団の論理、国家構造論、風土、「いき」の構造、日本的霊性……。
 桑原武夫以下十五名の学者たちが選んだ本。題名の意味が不分明なばかりでなく、おそらく意を決して読み出しても、一ページ、いやへたをすれば一行もわけがわからない本だろう。そういう意味不明の一ページを眺めるとき、学術から離れてものを書くなどという大望は捨てなさいと背中を慰撫される。やさしい慰撫の手だ。日常の買物のメモ書き程度の作文を書くだけにとどめなさい、と。
 各著者の紹介文を拾い読みして、永遠に本を閉じる。


         二十四

 十二月十九日金曜日。七時起床。晴。一・三度。うがいからバーベルまでのルーティーン。シャワーを浴びて朝食。イワシの丸干し、しらすおろし、さつま揚げ、アサリとジャガイモの味噌汁、どんぶりめし。
 菅野と近鉄米野(こめの)駅までランニング。竹橋町の信号を渡ってひたすら南下する。
「十分ほどです。初めての道も混ざります。気分転換になりますよ」
「はい」
 板造り、トタン造り、せいぜいモルタル造りの古い家並を走る。いつか睦子たちときた柳街道に出る。〈仕出し〉のペンキ字がかすれている遊郭めいた旧家がある。
「あの二階のバルコニーの形と土台のタイル貼りからして、むかしの遊郭でしょう」
「ふーむ、大きさからしてもそうでしょうね。妓楼を閉じて仕出し屋になり、いまはふつうの民家になったというやつですね。角上楼に似てます」
 玄関の四枚戸の上の明かり取りが、桟を阿弥陀籤ふうの組子にしたガラス障子になっている。あたりには完全な廃屋もけっこうあるが、例外なく一軒一軒が大きい。大門だけでなく、先日の飯田屋敷もそうだったが、周辺に妓楼がチラホラ散らばっていたことはまちがいないようだ。直進する。新築中の大小の家屋も目につく。いわゆる立派な家というのがない。直進する。これも睦子たちと歩いた笈瀬本通かっぱ商店街にぶつかる。赤い郵便ポストが目に暖かい。自販機が町並に馴染まない。安兵衛成果。
「伊勢湾台風のころからやってる八百屋で、ありとあらゆる新鮮な野菜や果物を売ってます。袋詰めで百円、五十円、二十円。ビックリするほど安いです。鮮度が悪いので北村では仕入れてません」
 ユタカ堂薬局、サタケ電気、気分直しに行き止まりの多い細道に入りこむ。くねくね走る。トタン家、板家。戦後と変わらぬ町並のようだ。庭というものがほとんどない。横浜の高島台で庭のある家を初めて知ったくらいで、むかしは庭のある家などほとんどなかった。架線が何本も見える道に出た。掘っ立て小屋のような米野駅舎。ここまで十一分。
「帰りましょう」
 線路沿いに走り戻る。ここはいつか菅野と走った戦後の町並だ。遠くに名古屋駅のビル街が見える。
「ここ走りましたよね」
「走りました」
 一人でも走った。見覚えのある柳街道の辻に出る。目の先に見えるのが太閤通だ。笹島のガード横の自転車屋に出る。市電や車に注意して渡る。食い物屋の並ぶケバ立った通りを走る。この数年のあいだにすっかり様変わりして、映画で観た近未来都市の姿が髣髴とする。とつぜん青森高校の野球部室の青い籠を思い出した。この五年間一度も思い出さなかった。薄汚れた硬球が百球ほど詰まっている青い籠だ。あれが三籠積んであった。泥臭い出発点。東大の部室には十籠はあった。その脇の板仕切りにバットが二十本ほど立ててあり、得体の知れないキャスター付きの鉄製ボックスが並び、棚にはベースが積んであった。プロ野球のロッカールームより胸躍った。野球選手はただグランドで遊び、あの泥臭い部屋で生涯を終えるのが似合っている。……近未来都市には、あの部室も、土のグランドもないだろう。そんな場所で生涯を終えたくない。
 大小のビルと立木とマンションに取って代わられている蜘蛛の巣通りを初めて抜ける。抜けた先の椿町交差点もビル街だ。その中に十メートルに五メートルほどの小ぶりな〈椿神社〉を発見する。則武の椿神明社ではない。
「こんなところにも……」
「私も知りませんでした」
 安兵衛青果の倉庫がここにある。もう少し先へいって後藤商店に突き当たる。
「ここか」
 この経路を走ったのは初めてだった。左折。牧野小学校。右折。牧野公園の東端。
「帰りは二、三分多くかかりましたね」
「それでも十五分かかってませんよ。知ってるようで知らない道が多くて驚きました。建物もそうでしたね。あらためて公園の周りを歩いてみますか」
「はい」
 東北の角から時計回りに歩きはじめる。小さな福屋ホテル。何もの? 
「笹島ドヤ街の名残です。ホテルというより民宿ですね。いまはきれいな旅館になっているので、近辺の労働者じゃなく、名古屋に途中下車した人が駅前をうろうろ歩いてここにたどり着くというパターンが多いですね。門限があるホテルなので温泉マークには使えません」
 マンション、さらにマンション。公園の生垣沿いに西へ曲がりこんでもマンション。
「やっぱり何もないか」
「ほら、アヤメがありますよ」
 その向こうは映画館建設用地の一部。角地の二軒のトタン造りの民家のうち、廃屋に近い一軒はすでに解体にかかっている。二軒に見えたのは、太閤通に面したほうが商店の母屋で、その裏の解体中の一軒は用途を終えた倉庫だったようだ。かなり大きい。菅野が、
「あの倉庫は菓子問屋だったころのムダものです。いずれ駐車場か何かに普請し直す予定でいたんでしょう。簡単に売ってもらえました。あの土地も含めて一月の終わりは土質調査が終わります」
 西側の辺をたどって北村席へ戻る。公園の西側の短辺は席の正面と同じ長さだ。奥行きもほぼ同じ長さがあり、敷地の広さは公園のほぼ半分だ。杜と大小の庭と母屋と、ファインホース、景品小屋、北村夫婦の離れ、トモヨさんの離れ、洗濯場と洗濯小屋、それだけが敷地内にある。土地の顔らしい宏壮な屋敷だ。カズちゃんたちがアイリスへ出かけていくのにぶつかった。手を振る。
 八時四十分。散歩を終えてめしもすませたジャッキが直人と庭を走り回っている。カンナを抱いて見守っていたトモヨさんが、
「お帰りなさい」
「ただいま」
 座敷の隅にクリスマスツリーが電球やモールで飾りつけてある。女将が、
「電飾にスイッチ入れるのは二十三日の夜にするわ。二十四日から神無月さんが出かけてまうで」
「すみません」
「プロ野球選手やもの、しょうがないわね」
 菅野とシャワー。睦子と千佳子、トモヨさん母子が登校するころ、菅野とソテツら賄いたちはめしになる。主人と菅野が午前の見回りに出ると、北村屋敷は掃除洗濯になる。女将の帳場に銀行や商店会はじめ、いろいろな〈台所〉関係者が出入りする。私は安心して則武へ向かう。アイリスに立ち寄る。レジのメイ子とタッチ。一瞬店内がドヤッとするが、あえてカウンターに座る。金曜日のこの時間に少年たちはいないので、サインを求められることはない。
「サントスとバタートースト」
「かしこまりました」
 素子が応え、男子店員に告げる。
「はい!」
 張り切って返事をする。少し離れた席にいた中年客が、
「神無月選手にも疲れというものはあるんですか」
「ええ、キャンプの終わりころと、オールスターが始まるころには、少し筋肉が張っている感じがしましたが、ほかは何ともなかったですね」
「やっぱり強靭なからだなんだなあ」
「鍛練が趣味ですから」
 カズちゃんが、
「あしたのCBCのトークショーは中継だから、特別お店も土曜開店して、テレビを流しっ放しにするわ。アイリスとアヤメの子以外はみんなスタジオに見にいく予定」
「みんなと言っても三、四人だね」
「そう、ムッちゃん、千佳ちゃん、キッコちゃん……」 
「ちっちゃな椿神社を発見したよ。菅野さんも知らなかったって。椿町の信号を入って百メートルくらいきたところ」
「ああ、国鉄会館の前ね。十坪ぐらいの土地に、小さいお社があるだけの神社。繁みがきついから中に入れない。ふつう通り過ぎちゃうわ。通勤する人や帰宅する人が手っ取り早く掌を合わせるだけのものよ。椿神明社の支店みたいなものね」
「支店に出会ったのも何かの縁だ。本店にお参りして帰るよ」
 遠巻きに見つめる視線に圧力を感じるので、トーストを食い、コーヒーを飲み干し、ごちそうさまをする。カズちゃんと素子が、ありがとうございましたと言う。カウンターの男たちやカウンターの客たちまで頭を下げる。レジへいく。代金を払い、メイ子とタッチ。
 神明社の鳥居を入る。入口の立札に縁起が書かれているが、文字が薄れていて、この一帯は伊勢神宮の神領で、という部分しか読めない。もちろん薄れていなくても全体を読む気はない。鬱蒼とした木立の下に四匹の狛犬。鳩がいる。猫もチラホラ。社務所はあるが宮司(ぐうじ)は住んでいない。参道を行き止まりにある小さな本殿までいき、賽銭を投げてかしわ手を拍つ。神信心はなく、何のためにしているのかというためらいもあるが、一連の作法が好きなので自然とやる。
 仮眠をとり、二時から四時半まで机に向かう。静かな時間。
 北村席へ出かけていき、ジャッキを庭に放し、直人と風呂に入り、本を読んでやり、新しく仕入れたというパズルをするのを見てやり、みんなと夕食をとる。庭から戻ってきたジャッキも食事。あとで散歩に連れていってやろう。
 夕食後も直人は千佳子たちとパズルに興じる。カズちゃんが、
「お父さんが古もの好きのキョウちゃんのためにって、昭和十年代の歌謡曲全集っていうLP十枚組を買ってきたのよ。ステージ部屋で聴いてみたら」
「へえ、楽しそうだな」
 主人が、
「この家は三十代の女が多いから、みんなもなつかしがるんやないかと思ってな」
「まず、解説書を見ます」
 菅野たち五、六人と音楽部屋にいくと、裏表合わせて二十曲ずつのLP十枚、びっしり詰めた分厚い箱が置いてある。一番上に解説書。読まずに昭和十年の曲と歌手の名前を見る。カズちゃんたちは解説書を読んでいる。
 ダイナ(ディック・ミネ)、白い椿の唄(楠木繁夫)、旅笠道中(東海林太郎)、小さな喫茶店(中野忠晴)、ハイキングの唄(楠木繁夫)、夕べ仄かに(松島詩子)、大江戸出世小唄(高田浩吉)、無情の夢(児玉好雄)、船頭可愛いや(音丸)、二人は若い(ディック・ミネ&星玲子)、夕日は落ちて(松平晃&豆千代)、野崎小唄(東海林太郎)、馬賊の歌(リズム・ボーイズ)、真白き冨士の嶺(松原操(みさお))、ゆかりの唄(ディック・ミネ)、緑の地平線(楠木繁夫)、明治一代女(新橋喜代三)、雨に咲く花(関種子)。私は声高く読み上げる。
「じゃ、きょうは、昭和十年からいきます。まず知ってる歌を」
 雨に咲く花をかける。関種子。知らない。素朴な声、かすかなビブラート。井上ひろしよりはるかにいい。針を上げ、私は、
「すばらしい」
 丸が、
「すてき」
 カズちゃんが、
「ブルースでなく、タンゴだったのね」
 歯を磨き終わった直人とトモヨさんもやってきた。主人が、
「ミス・コロンビア、松原ミサオの真白き冨士の嶺をお願いします」
 千佳子が針を落とす。これもまた童謡ふうの極端に素朴な唄いぶりだ。
「すばらしい……」
 みんな聞き惚れている。千佳子が針を上げると、私は主人に、
「いいものをありがとうございました。コツコツ聴いていきます」
 女将が、
「いまの真白き冨士の嶺やけどね、私が生まれた次の年に、鎌倉の逗子の七里ガ浜で開成中学の学生が十二人も死んだんよ。明治四十三年。ハレー彗星がきた年やが」
 睦子が、
「七十六年周期ですね。今度は一九八六年」
「ほうなん? ハレー彗星のことなんか憶えとらんし、事件のことを知ったんも十年もあとやった。逗子の開成中学ゆうんは、海軍の息子さんたちが入る学校でな、鉄砲も置いたる。そこは気性の勝った腕白者のことや、海鳥を撃って鍋にして食おうゆうことになって、海軍からもらい下げた六人漕ぎのボートに無断で乗って、七里ガ浜から江ノ島まで出かけたんよ。天気のええ日やったのに突風にやられて転覆して、乗っとった十二人ぜんぶ死んだんだがね」
 私は主人に、
「食糧事情が悪かったわけではないでしょう」
「ええもん食っとったやろな。そこは腕白者の冒険というやつでしょう。漁師が止めるのも聞かんかったそうですから」
 一説には、と菅野は言い、
「開成中学は海軍肝煎りの学校で、ローティーンから二十歳過ぎの学生までいて、その手の熟し方は早かったみたいですね。逗子の鎌倉女学校に病み上がりの女教師がいて、彼女と相思の関係にある学生が彼女に栄養をつけさせてやろうと言い出して、同調する者たちが出かけたと……」
「どうやってその二人が知り合ったんですか。まあ、縁は異なものですから、妙なチャンスがあったのかもしれないですね」
「そう言われればたしかにおかしいな。鎌倉女学校は開成中学の系列校だったらしいですけど、相思の関係というのはデマかもしれません。……詳しいことは謎ですね。ただその女教師がこの歌の作詞をしたというのは事実のようです」
「六十年も前のロマンスか、わくわくするなァ。できるなら噂どおり恋愛関係であってほしい」
 みんなドヤドヤ笑った。トモヨさんも笑った。直人も釣られて笑った。イネに抱かれたカンナもニッコリした。土間でジャッキがフォンと吠えた。女将が、
「海軍がらみやから、とにかく大事件やったんよ。嘉仁(よしひと)親王まで捜索の様子見にきたゆうんやから」
 主人が、
「二年あとの大正天皇や」
 大正天皇と聞いて、軍国主義国家の長として時代に翻弄された病弱でナイーブな男、ランドセルや神前結婚式の始祖としか思い浮かばなかった。



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