二十八  

「中さん」
「はい」
「ブイ2に向かっての一年になります。去年のいまごろに比べて気持ちの変化、ちがいというものはあるんでしょうか」
 中はキョトンし、
「去年に比べたら順調だったなという思いがあります。長期休養を余儀なくされたりして、優勝に向かってという精神状態でありませんでしたから」
「なるほどねえ。高木さん、来シーズンは今年の優勝の翌シーズンになりますから」
 圓生落語の易者みたいなことを言っている。
「ですね」
「それを考えると、周囲の期待も去年より大きくなってくると思うんですよ」
「当然そうでしょうね」
「そんな中でプレッシャーみたいなものはないんですか」
「さあ、やってみないとそれが出てくるかどうかわかりません。少なくともいまのところプレッシャーはないですね。私たちが最下位から優勝したように、どこが優勝してもおかしくないので、うちがぜひ優勝しなければという圧迫感を抱きようがないです。やることをやるだけです」
「でも、そういう意味では、やることをやって、ま、だいたいこの、オープン戦最終戦までにベストにもっていければいいかなと各チームの選手は言いますが、そういった意味では順調にいけそうですか。どうです、木俣さん」
 水原監督は呆れて目をつぶった。
「からだをしっかり作ろうと思います。シーズンに入ったらまたコンディションがちがってくるでしょうが、ま、一年間しっかり戦えるように調整していきたいと思います」
 木俣はどう答えたらよいのかわからないという表情で真摯に答える。
「そうでしょうねェ。江藤さん」
「お」
「来年連覇するために必要なものは何だとお考えですか」
「必要なこと……うーん、水原監督の肝っ玉と、神無月郷の神通力やろうのう。わしら全員の力もファームから出てくる選手の力も、もちろん必要ばってんが、決め手はその二つやろう」
「そうですねえ。小川さん」
「はいはい」
「連覇に向けて小川さんは何が必要だとお考えですか」
「慎ちゃんの答えじゃ足りんの?」
 会場が爆笑の渦を巻いた。フラッシュが束になって飛んだ。
「神無月選手は警戒されると思うんですよ」
「そりやそうだろうね。それで金太郎さんが長期不振になったら、俺たちが一団となっても苦しいペナントになるだろうな。だから慎ちゃんは、水原監督の度胸と金太郎さんの神通力と言ったわけよ。警戒されたら金太郎さんは、ホームランを半分にして、有効打を打ちまくるよ。それこそ神通力だから、スランプはない。怖いのは、デッドボールによる長期欠場だね」
「ありがとうございました。それでは選手個々のかたがたの来年の抱負をお聞きしてから、会場の質問へと移らせていただきます。では水原監督からお願いします」
「来年ではなく、今後の願い―グランドに立てるかぎり、中日ドラゴンズの選手たちのそばにいたいね」
「中選手」
「三塁打を一本でも多く」
「三塁打を一本でも多く!」
 川久保が復唱する。なるほどね、と、そうでしょうね、と、ありがとうございましたの三フレイズで誠意のない受け答えをしていた偽善が最高潮に達する。
「では、江藤選手」
「ほうやのう、ワシも〈来年〉やのうて〈この先〉にしとくばい。情の篤い、利口な同僚とこのまま野球をやっていたいのう。情の篤い、利口なファンに応援されてな」
 水原監督の言葉と同様、これは長すぎて復唱できない。
「高木選手」
「右に同じ」
 これもぜったい復唱できない。聴衆がざわめきはじめた。ここに至ってCBC側も司会の人選ミスに気づいたようだが、もはやどうにもならない。水原監督が、
「高木くん、ヤカンを冷まそうか」
「はい。連覇でみんなの笑顔」
「連覇でみんなの笑顔!」
 川久保はホッとした顔で復唱する。
「菱川選手」
「わがチームつづくかぎり、ウチテシヤマンの日はなし」
 復唱できない。
「太田選手」
「木のみ見るべし、森は見ず」
「木のみ……?」
「森ばかり見る人が多いという、神無月さんの警告です。木をしっかり見ていれば森は自然と見えてくる。視野は狭くせよ。優勝よりも一勝、一勝よりも一投一打に集中します」
 もちろん復唱できない。
「一枝選手」
「来年の抱負? 鬼に笑われちゃうから確定事項しか言わない。俺は三十歳になる。三十歳越えのロートルがますます増える。若返りには時間がかかる。ロートルパワーを増大させるしかない。俺もその一人だ。がんばるよ」
「ロートルパワー増大!」
 そのへんで、という厚紙が舞台袖で掲げられる。
「ではスタジオ内の聴衆のみなさまから質問をいただくことにします。××アナウンサー、客席を回ってください」
 そう言って川久保はもう一方の袖へ引き下がった。一人の少年が立ち上がり、女性アナウンサーがマイクを手に近づく。
「神無月選手、バッティング上達のコツを教えてください」
 フラッシュ。
「上達のコツではなく、練習のコツを言います。不得意コースの素振りをしつこくすること。ただしホームランを打つつもりで。―その練習量が増えれば上達はついてきます」
 次々と少年が立ち上がる。フラッシュ、フラッシュ。
「江藤選手、肩や肘を痛めたら、もう治りませんか」
「中学までなら、一年ぐらい休めば治る。高校生以上も、何年も使わんば治る。勇気を持って休むことやな。きちんと走りこみばつづけてな」
 ―江藤はまるで理想の母親だ。少年と鼓動が同調するかのようだ。たがいを求め合う感覚に圧倒される。
 私の母……彼女を見つめる眼が私のモットーを築き上げた。人間的に単純ながらも、誠実で繊細に生きろ。彼女は逆の人間だった。神無月選手、とまた立ち上がった。
「たくさんお金をもらって怖くありませんか」
「ほとんど好きな人のために役立てます。少なくもらってもたくさんもらっても、同じことをします。だから怖くありません。好きな人に使うので慈善活動ではありません。納得ずくのエゴで、きみのお父さんお母さんと同じです」
 十人の親しい人たちがうなずいていた。次の少年は、
「星野投手、尊敬するピッチャーと苦手なバッターを教えてください」
 フラッシュ。
「尊敬とか苦手という意識を持って選手を見たことがないんです。プロ野球選手はみんなすごいなあといつも思ってます。だから打たれても打ち取っても、へえ! という感じがするだけです」
 次の少年は、
「水原監督に質問します。とても才能のある人と、とても努力をする人と、どちらをたくさん起用しますか」
 何発もフラッシュ。
「才能ある人と努力をする人は同じ人です。才能のない人は努力しません。努力しない人は才能がありません。だから、どちらかを起用すれば、両方起用したことになります」
 少年は満足そうに座った。次の少年が、
「トレーニングにも食べ物にも詳しい野球博士と呼ばれる木俣選手に質問します。野球をするには体力が必要です。そのためには食べ物が大事です。どういうものを食べればいいでしょうか」
 フラッシュ。
「肉、魚、野菜、好き嫌いを言わず、お母さんが作るものは何でも食べなさい。ただし肥満のもとになる間食を減らすこと。お菓子類は筋肉をつけません。すべてきみの好きな野球をする体力をつけるためです。食べることのほかに練習でも体力がつきます。野球ゲームの前にまず食事と練習ありき。その鉄則を守れば、立派な野球選手になれます」
 菱川が指名された。フラッシュ。
「去年まで菱川選手はよく練習をサボっていると新聞に載っていましたが、今年急にまじめになったのはなぜですか」
「いやあ、ハハハハ、お恥ずかしい。自分に努力をする心が残っていることを神無月選手に教えてもらったからです。と言うより、野球が大好きだと気づかせてもらったからです。好きこそもののじょうずなれ。水原監督の言った、じょうずと努力は同じものだということです」
 高木に質問。フラッシュが二発、三発。
「大曽根中学校三年生です。野球部で一生懸命野球をやっていますが、勉強も一生懸命やっています。成績は上のほうです。夏の大会のあと名電工からスカウトがきて、父や母はせっかくのチャンスを大事にして野球をやりなさいと言いますが、ぼくはなんだか不安で、つい勉強をしてしまいます。名電工にいっても確実にレギュラーになれるかどうかわかりませんし、このまま勉強をつづけて、なるべくいい高校へいき、いい大学へいって、いい会社に入ったほうが確実な人生のように思えるんです。高木選手は小学校中学校と成績もよかったと聞いています。でも、野球の名門校にいき、野球をやりつづけました。不安な気持ちになったことはありませんでしたか」
「なかったです。野球しか好きでなかったですから。……人間にはその選択肢しかないと思い知らされるときがあります。たとえば、自分が人物画を描くのがいちばん好きな画家だと思ってください。その心を知らない人びとに批判されることもあるでしょう。なぜ静物画を描かないんだ、なぜ風景画も描かないんだ、なぜいつも人物画ばかり描いてるんだってね。もっといろいろな選択肢を試したらどうかってね。その画家本人も説明できないでしょう。彼だって、ちがう絵を描いてみようと思うにちがいない。海にいって大海原の絵を描こう、朝の窓から射す光の中で果物や花の絵を描こう、思いのままに色彩を並べて抽象画を描いてみようか、とね。そして描きはじめる。でも、どこかしっくりしないんだね。気がつくといつの間にか人間の絵を描いている。どうやっても彼にはそれしか描けないんだよ。彼の絵をだれが気に入らなくても、それは彼の絵なんだ。彼にも心残りはあると思う。ほかの画家たちのいろいろな絵を見ておかなければというね。……人間はヤワな生きものじゃない。どんなところにいようと、別の道を選んでみようという冒険心がある。そのときはその心に従えばいい。とにかく、いまいちばん好きなことをやるんだよ」
「よくわかりました。名電工にいきます」
 会場から感嘆のため息が洩れた。高木もまた理想的な母だった。私は思わず遠慮がちに拍手した。トークショーにきてよかったと思った。ついに太田に質問がきた。
「太田選手は内角打ちが夏ぐらいからとてもじょうずになりましたが、秘訣は何ですか」
 フラッシュ。
「渋いことを言うね。インコースを打つのは低目以外は窮屈なので、得意な人っていないんですよ。みんな工夫して打ってるんです。そのあたりを言ってみます。いちばん簡単なのは、打席の立ち位置をホームベースから離すことです。いままでよりラクにスイングできます。ただ、アウトコースの見極めが難しくなります。江藤さんや菱川さんのようにアウトコースが得意な打者は対応しやすいと思いますが、それでも外角速球への対応が非常に難しいです。外角ギリギリをファールできる技術があればなんとかなりますけど、なかなかね。ファールを打つ練習が並大抵じゃありません。神無月選手のようにボックスの前の線ギリギリに構えるというのが最良の方法です。ピッチャーは当てたくないので、ギリギリには投げてこなくなります。それでも投げてきたらインステップして、払い打ちします。ファールにするつもりでね。もっときびしく投げてきたら、当たっちまえばいいんですよ。頭と手に気をつけてね。さらに技術的なことを言うと、肘をじょうずに使うことです。俺は春先から夏にかけてなかなかできませんでした。からだに巻きつけるようにバットを振り出して肘を抜く感じです。何百回、何千回と練習する必要があります。インコースに山を張っていれば、ステップで簡単に対応できます。でもアウトコースにやられちゃうね。結局、ボックスのかなり前に出て、インコースがきたらファールするつもりでいるくらいがちょうどいいかな」
「ありがとうございました」


         二十九

 しばらく客席から手が挙がらなかったが、列中ほどの老人男性がおそるおそるアナウンサーを呼んでマイクに口を寄せ、
「いつもすばらしい言葉を語られる神無月選手にお伺いいたします。私、戦前の一リーグ時代からのドラゴンズファンです。ドラゴンズに関してはこと細かに憶えているというののが常々自慢でしたが、この数年記憶が途切れることが多くなり、いやな予感がして医者に診てもらったところ、進行性の脳障害とわかりました。いわゆるボケですね。自分ではその意識はないのですが、いずれドラゴンズのことも周囲の人びとのことも忘れていくのだろうと覚悟しております。きょうは体調もよく、記憶の途切れもないので、妻と娘に手を引かれてこのスタジオに出かけてまいりました。記憶がつながらないときは、ドラゴンズの思い出も、日々精進、子供たちに夢、奔放不羈といったような言葉に分断されて思い出されます。場ちがいなお願いでまことに申しわけありませんが、いま、頭がまともなうちに、人間的に敬愛する神無月選手からひとこといただいておきたいのです。きっと、ときどき記憶が戻ったとき、その言葉が余生の励みになると思うのです。どうかよろしくお願いいたします」
 私は天井から吊るされたマイクに少しでも近づくように立ち上がった。フラッシュがしきりに光る。遠く老人の顔を眺めながら涙が湧いてきた。
「記憶がつながらない、途切れてしまう、思い出そうとしても気力がつづかないというのは、たいへんな苦しみでしょう。悲しく、恐ろしいことでしょう。人生も終わりだと思ってしまうでしょう。でも……ほかのだれかが憶えています。あなたの代わりにね。あなたの記憶は死なないんです。終わらないんです。もちろんあなたのこともだれかが憶えています。あなたも終わらないんです。ときどきでもあなた自身の記憶が甦るかぎり、私たちドラゴンズの野球少年どもは、あなたの記憶の一コマ一コマに恥じないよう最高のプレイをしていると信じてください。どうかその一コマを思い出の日々を生きる励みにしてくださいね」
「泣いてくださってるんですね。その涙は忘れようがない。死ぬまで何度も思い出します」
 水原監督がハンカチを目に当て、江藤がこぶしを握ってうつむいた。メンバーの全員が頬を拭いはじめると、会場がどよめき、拍手が嵐のように鳴った。老人に付き添ってきた二人の女が彼の肩を抱いていた。川久保がふたたび舞台の袖から現れ、
「ありがとうございました! すばらしいお言葉でした。一筋の道を生きる人間の底力を目のあたりにしました。感動いたしました! いたらない質問ばかりしてご迷惑をおかけしましたが、どうかお許しください」
 クレーンカメラの下方にいた男が腕を回した。川久保が、
「そろそろ三時半になります。本日のトークショー、お開きの時間をとっくに超えました。水原監督はじめドラゴンズの選手のかたがたの聞き応えのあるトーク、たっぷりお楽しみいただけたものと思います。後半はとりわけ盛り上がりが際立っていて、司会の無力さを思い知らされました。これはひとえにドラゴンズのかたがたの、紋切り型ではない特殊なトーク力の賜物であり、一般のトークショーとは趣を異にするものです。大人はおろか少年たちまで聞き入りました。すばらしいことだと思います。ドラゴンズのこの種の会合にはかならず呼んでいただけたら幸甚です。それではあらためてお一人お一人に拍手をいただきたいと思います」
 星野秀孝選手! 拍手。立ち上がり辞儀をする。十一人の名前が次々と呼ばれていく。ドラゴンズの歌がかかり、退場。控室に向かう。その途中、腰を屈めて後退するカメラマンたちのフラッシュに炙られる。入室するときも後頭部から炙られる。
 テーブルにつくと、全員にコーヒーが出され、土産の紙袋を足もとに置かれる。
「お食事をなさりたいかたは、地下のレストランでご自由にどうぞ」
 みんな手を挙げて応える。中が、
「ドラゴンズが特殊なんじゃなくて、〈今年の〉ドラゴンズが特殊なんだよ。私も十五年目で新天地を得た心地がしてる」
 水原監督が、
「私も野球生活数十年で、初めて楽しい土地にきた気がするなあ。その気分に浸ってる私たちは特殊かもしれないね」
 江藤が、
「金太郎さんは自分のことのように受け止めるけんな」
「自分のことだからですよ」
 小川が、
「いい意味で視野が狭いんだよ。たまらんな。たまらん人間だ」
 菱川が、
「おれもそう思います。広い視野なんてものはないですよ。それが俺たちの住む世界です。いま目の前に見えるものが、自分の人生なんです」
 太田が、
「賛成! もろくて、不安定で、すばらしい世界、それが人生です」
 水原監督が、
「言葉の洪水だね。そこまで同胞たちが言葉を蓄えてるプロ野球選手なんているもんじゃないよ。巨人も東映も言葉らしい言葉はなかった。生きてるという感じは言葉からくるからね。やっぱり新天地だな」
 高木が、
「つい、あのお爺さんはかわいそうだと思ってしまったけど、金太郎さんがしゃべったあとは、彼の人生は残酷じゃないって感じられましたよ。彼の死んでた世界が生き返った」
「ぼくの話は理に落ちることが多いので、情が薄いと取られるんじゃないかって、いつもヒヤヒヤしてます」
 一枝が、
「情はいやというほど篤いよ。金太郎さんは詩人だからな」
 私は紙袋を持って椅子から立ち上がり、
「じゃ、菅野さんが駐車場で待ってますんで、ぼくはこれで」
 水原監督が、
「一月初旬のゴルフ以外は、私は東京の自宅にいるから、何かあったら電話してね。番号は菅野さんが知ってるから」
「はい、じゃみなさん、失礼します」
「おお!」
 手を振って、玄関へ向かった。報道陣に取り囲まれたが、振り切って駐車場へ急いだ。目を赤くした菅野が迎えた。
「会場にいったんですね」
「いちばん後ろで立ち見しちゃいました。千佳ちゃんたち三人も泣き腫らした顔でさっき帰りました。ご老人一家、記者たちに囲まれて特別室にいきましたよ」
「へんな美談に祀り上げられなければいいけど」
「美談ですから、問題ないです」
「この土産、何ですかね」
「名古屋のお菓子でしょう」
「菅野さん持って帰ってください」
「了解。もらって帰ります」
         †
 主人が、
「実況を延長してくれたおかげで、いちばんいいところを観れましたよ。最初はひどかったですな」
「川久保潔なら何も準備してなくても許されるという感じでしたね。ドラゴンズのメンバーのようにウィットがあれば別ですけど。次からは心してやってくるでしょう」
「あのお爺さん、頭ハッキリしてるように見えましたけどね」
「だれもが他人の人生と隣り合わせですけど、どれくらい知ってるでしょうね。おたがいのことを……何を知ってるのかな。ああいう人に遇うとそれを思い知らされます」
 女将が、
「三ヶ日いくまでゆっくりしやあせ」
「はい」
 寝そべった背中に直人を乗せながら応える。アヤメの遅番組が出かけた。カンナを背負ったトモヨさんといっしょに幣原がジャッキの夕方の散歩に出かけた。私は菅野と二人で直人の手を引いて牧野公園へいく。ゆっくりなどできない。睦子と千佳子もついてくる。四人で見守り、滑り台をさせる。直人は飽きずに自分で短い階段を昇って、五回、六回と滑る。下で迎えてやる。菅野と交代でシーソーの相手をする。何がそれほどうれしいのか直人は大きな笑い声を上げる。ブランコ。危ないので鎖を握って寄り添う。早い日暮れがくる。
「菅野さん、直人をお願いします。ちょっと名鉄にいってきます」
「あ、千佳ちゃんの誕生日ですね」
 菅野と直人を先に帰し、千佳子と睦子と三人で名鉄百貨店へいく。千佳子は、
「私、二十ワットの蛍光灯スタンドを買っていただければ」
「そんなので?」
「はい」
 ばっちゃに買ってもらった大きなスタンドを思い出した。長くて幅広い電灯の傘に埃が積もっていた店の者が汚い雑巾で拭いた。十五の冬の切ない侘びしさが甦った。
 売場を歩いてもあの原始的な鉄製のスタンドは見つからなかった。千佳子は、少し背の高い、柱の角度を調節できる黒いスタンドを買った。台座がズッシリとした鉄板でできていた。
「これで机に広げた参考書もぜんぶハッキリ見えます。ありがとう、神無月くん」
 千佳子はスタンドを収納した箱を大事そうに抱えて、弾むように歩いた。睦子がその背中を見つめ、
「きょうが千佳ちゃんの誕生日だってこと、すっかり忘れてました」
「来年からぼくもぜんぶ忘れることにした」
「え?」
「顔と言葉と行動だけを憶えていることにする。付属物はその人じゃない」
 夕食。ひさしぶりにぜんぶの惣菜に手をつける。カズちゃんたちの快適な食欲。素子はあまり箸が進まない。女将が、
「あんたらよう食べるね。ジャッキどころやないわ」
 カズちゃんが、
「カンナもペロリと食べるようになったわね」
「直人もな」
 千佳子が、
「ジャッキも急に大きくなってきました」
 主人が、
「シェパードぐらいになるんやないかな。春になったら外に小屋を作ったらんと」
 みんなドシドシめしのお替わりをする。
「おとうちゃん、おふろ」
「よし、いこう。歯も磨くんだぞ」
「うん」
 トモヨさんが、
「郷くん、洗える?」
「もちろんだよ」
「バスタオルと着替えを置いときますからね。髪を乾かすのは私がします。カンナはあとで入れますから」
 頭に手順を浮かべる。服を脱がせる、からだに湯をかける、洗う、いっしょに湯に浸かる、風呂から出てタオルで拭く、ベビークリームを塗る、着替えをする、よし。私が口を結ぶのをカズちゃんたちがニコニコ見ている。菅野が、
「二十歳の大男の父親か。おもしろいなあ。おいしかった、ごちそうさまでした。さ、社長、お茶を飲んだら出かけますか」
「おし」
 トモヨさん母子とイネが離れへ退がり、名大生二人とキッコが二階へ上がる。テレビ組と自室に引き揚げる連中に分かれる。勝手口からの客の応接に備えて女将は帳場へ。菅野が主人に、
「栄あたりに無許可営業店が増えてきたらしいですね」
「ああ、違法や。ほとんど警察に黙認されとるようやが、摘発対象になってまう。大門あたりにそんな店ができる気配が出てきたら、とばっちり食らわんように、それこそ松葉さんに摘発してもらおまい」
「きょうは空き部屋点検まで手を回しますか」
「床の隅をな。〈水〉商売はカビが大敵や」
 私はなぜか主人と菅野を門まで送りたくなり、縦格子の玄関戸を引いて出る。主人が、
「この仕事も五年、十年がええとこやろ」
「私は社長一代を守り通すつもりです。松葉さんや警察と仲良くしてね。世間の風当たりもだんだん強くなるでしょうし、直人の代になったら、松岡旅館や角上楼のような料亭にすればいいじゃないですか。従業員も料理人もたくさんいるんですから」
「ほうやな」
 つづいていたものが途絶えるのはさびしい。恐怖はない。すべては目覚めから始まって就寝で途絶える。何十年の人生も、一日に見立てられる。
「菅野さん、あしたのランニングは十時から。ひさしぶりにゆっくり寝ます」
「オッケー」
 門前まで送って二人に手を振る。


         三十

 庭石を戻り、黒く光っている池に近づく。縁にたたずむ。丸に教えてもらうつもりでいた『白い珊瑚礁』を不意に思い出した。メロディと一番の歌詞を覚えている。唄ってみる。

  青い海原 群れ飛ぶカモメ
  心惹かれた 白い珊瑚礁
  いつか愛する人ができたら
  きっと二人で訪れるだろう
  南の果ての海の彼方に
  ひそかに眠る白い珊瑚礁

 歌声が夜空に昇っていく。パチパチと拍手の音がしたので振り返ると丸と天童がいた。
「いっしょに唄います」
「うん、唄おう」

  まことの愛を見つけたときに
  きっと二人で訪れるだろう
  南の果ての 海の彼方に
  ひそかに眠る 白い珊瑚礁
  まことの愛を見つけたときに
  きっと二人で訪れるだろう


 四人で拍手し合う。
「とつぜん思い出して唄いたくなった」
 信子が、
「高く澄んだ声がしたので、思わず出てきちゃいました」
 優子が、
「空に斬りつけるような声。強くて、切なくて」
 座敷に横たわり、テレビ組に加わる。画面に顔は向けているが、観ていない。部屋の調度を見ている。傍らに寄り添ったカズちゃんの膝に手を置き、薄い朱塗りの柱を眺めながら、
「名古屋に舞妓っていないの?」
「京都の祇園みたいに舞妓や芸妓が住みこみで勤めている置屋は、屋形と言って、芸能プロダクションみたいなものね。そういうのは名古屋にはないの。名古屋の置屋は個人営業で三味線や太鼓や踊りをする人を呼びつけるだけ。うちにいるような女の子の中にはそういう芸を習って身につける人もいて、お茶屋の宴会に出張することもあったけど、いまはお茶屋そのものがなくなっちゃったから、どこかの会合場所に出かけていってちょっと芸を見せるだけね。基本は枕商売。名古屋にも芸妓を派遣する名妓連というのがあって、そこには何人か舞妓さんもいるんだけど、どこどこに出張したという話はあまり聞かないわね。むかし置屋をしていた料亭でときどき踊るくらいじゃないかしら。河文みたいなね」
 下部がガラス、上部が明かり障子の縁側の戸を見やる。縁廊下から庭へ降りる前にもう一枚大ガラス戸がある。野辺地の合船場はこれが板の雨戸だった。掛軸下の花瓶や、襖の裾の墨絵のほかには、駅裏の旧家に立ててあった屏風や几帳や衝立(ついたて)のような古風な仕掛けは、ふだんは納戸部屋に片づけてある。特別な会合の際に出す。箱型の玄関灯のついた数寄屋門には瓦が載り、土間の鴨居には水原監督の書いた〈誠心〉の扁額を掛け、玄関口から式台に上がる板敷きには美しい障子衝立が置かれている。欄間も、一階二階の部屋ごとの調度も古色を帯びている。そのせいで単なる大屋敷の趣は免れている。ただ、この旧式の家にも文明の波は確実に寄せている。駅裏の家で使っていたホウキモロコシの箒は廊下の掃き出しに使われるくらいで、各部屋の掃除はほとんど電気掃除機でやる。洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ、エアコン。生活の労を省く便利品や、耳目を愉しませる音響や映像機器はありがたいとは思う。しかしこの家の隅々まですっかり〈文明の風景〉になったら、気持ちの安らぐ場所がなくなる。そんな偏屈な考えは捨てようと、菅野と約束したばかりだけれども、不安な感覚は消えない。
 掛軸下の花瓶に活けてある紅白のバラを眺める。詩興が湧き、放り出してあった直人の画用紙にクレヨンで書きつける。カズちゃんも寝転び、あごを両手で支えて見入る。

  失われていく世界と向き合い
  失われない記憶を探す
  草の靡き、風に鳴る葉、水面のきらめき、大木のやさしい影
  揺籃の中で記憶を探す
  冷たく灰ばんだ風景に凍えそうなとき
  揺籃へ戻って目を閉じ
  あれらを知っていた日々の喜びに包まれる


「相変わらずダイヤね。何カ月ぶり? 詩を書いたの」
「さあ。……北村席をいつまでもユリカゴにしておいてね」
 カズちゃんはうなずいて画用紙を破り取り、四つに折ってスカートのポケットに入れる。
「清書しておくわ」
 後片づけをしていた賄いたちも引き揚げてきて、食事をしながらテレビを観る。めずらしくNHKが映画をやっている。チャプリン。カキカキと画面が動く。素子がカズちゃんの腿に凭れてその画面を見つめる。カズちゃんが、
「チャプリンはサイレントにこだわった人だから」
「おととしの伯爵夫人が最初?」
「中途半端だけど、街の灯も、モダン・タイムスも、独裁者もトーキーよ」
「どうしてそこまでサイレントにこだわったんだろう」
「バスター・キートンもそうだけど、おもしろおかしい登場人物でしょう?」
「うん」
「ああいうキャラクターが活躍できなくなって、科白に牛耳られる舞台劇になっちゃうのが怖かったみたい」
「独裁者以降の映画は、殺人狂時代、ライムライト、ニューヨークの王様……」
「そして伯爵夫人。山高帽の浮浪者はもう出てこないでしょう?」
「ほんとだ。でも、フランク・キャプラのころにはもう舞台劇を超えて立派な芸術になってるよね」
「そうね、チャプリンの怖がっていた舞台劇の欠点を克服して、サイレント以上の表現を身につけたのね。部分的なトーキーが始まってからたった十年よ」
「最初のトーキーって?」
「ジャズシンガー。私が小学校に入るころだったと思う」
「お姉さんは知らんことがないんとちゃう? びっくりするわ」
 メイ子が、
「百科事典ですね。頼もしいわ」
「チョッと早いけど、百江さんを待たずに帰りましょう」
 きょうも月夜の道。素子がギュッと腕を握ってくる。
「……そろそろでしょ、素ちゃん」
「うん、出せる日やし。後ろからチョチョッとしてもらえればええわ。それだけで何回もイッてまうで。則武の庭で、ええ? キョウちゃん」
「うん、素子がそう言っただけで勃っちゃったから」
「ありがと」
 カズちゃんとメイ子が玄関を入り、私と素子は庭へ回った。素子は下半身だけ裸になり芝に膝を突いた。明かりのない庭の中で素子の白い尻が浮き上がる。私もズボンと下着を引き下ろし、待ち受けている素子の膣へ滑らせる。
「あ、キョウちゃん、ええ、すぐイク!」
 一度気をやったところで腰を止め、股間に指を使う。
「ああ、愛しとる、愛しとる、イックウウウ!」
 安心して動き出す。アクメが数回繰り返されたところで吐き出す。私の律動に合わせてまた数回痙攣がつづく。
「キョウちゃん、ありがと、ありがと、も、あかん、イグウウウ!」
 どの女よりも短い数分に素子は全力を絞り切る。私は素子の尻に恥骨を密着させながら、二つの乳房を握り締める。じゅうぶん握り締め、膣のふるえが治まってから離れる。素子はもう一度心地よく腹を縮めてから、私の腰を抱き、性器を含む。
「ありがとう、キョウちゃん、死ぬほど愛しとる」
「ぼくも」
「うれしい」
 抱き合う。二人、服と下着を持って玄関に入る。メイ子は一本のタオルを素子に渡し、もう一本のタオルで私のものをやさしく拭う。素子は自分で股間を拭う。カズちゃんが私の着替えを持って出てきて、
「素ちゃん、泊まってく?」
「泊まらんけど、もう少しおってから帰る。勉強があるで。お姉さんごめんね、きょうはわがままさせてもらって」
 式台で身づくろいする。
「何言ってるの。私たちは見るのも聞くのも感じるのもいっしょ。テレビ観て、ラーメン食べていきなさい。夕食進まなかったみたいだから」
「キョウちゃん見とったら、胸がいっぱいになってまって。お股やなくて……」
「CBCのお爺さんでしょ?」
「うん、キョウちゃんは見境なく人を救えるんやなあって。帰り道はそれと関係なく濡れてまった」
「関係あるのよ、ぜんぶ関係あるの」
 淀川長治解説の『引き裂かれたカーテン』を観ているうちに百江が帰ってきた。みんなのお帰りなさいの声に、ただいま、と明るく返事をして風呂へいった。
「ポール・ニューマンにサスペンスタッチは似合うなあ。ハスラーもすばらしかったけど」
「ミステリアスな感じよね。『長く熱い夜』もよかったわ」
 メイ子が、
「どこでだったかしら、私もその映画観ました。放火犯の濡れ衣を着せられた流れ者のポール・ニューマンが最後に疑いを晴らすという」
「そうそう、めでたく地主の娘と結婚するでしょう? あの女優はジョアン・ウッドワード。ポール・ニューマンの奥さん。長く熱い夜の前の年に『イブの三つの顔』でアカデミー賞を獲ってるわ」
「ポール・ニューマンは獲ってないの」
「ハスラーでイギリスのアカデミー賞を獲ってるわ」
「ハスラーのびっこの恋人役、何ていう女優?」
「パイパー・ローリー。哀愁のある目立たない女優よね。ミネソタ・ファッツはジャッキー・グリーソン。すごく貫禄のあるデブの美男子。もともと街のチンピラだった男よ。ハスラー以外は目立った映画に出ていないわ。それにしてもこのジュリー・アンドリュース、メリー・ポピンズやサウンド・オブ・ミュージックとは別人ね。セクシー」
「うち、どっちも観とらんが」
「いつでもリバイバルで観れるわよ」
 カラスの行水で風呂から上がってきた百江が、
「サウンド・オブ・ミュージックはいいですよ。何年か前、私も観ました。トラップ・ファミリー……。子供たちがかわいかったし、音楽は最高でしたね」
「百江は音楽、好き?」
「はい、神無月さんの音楽部屋から聞こえてくると、いつもじっと聴いてしまいます」
 映画が佳境に入った。核兵器開発の機密漏洩がらみのワンパターンである打々発止はここまで無視。科学者でありアメリカ諜報部員のニューマンとその秘書であり婚約者のアンドリュースにドイツ諜報部員の手が伸びる。しばしみんなで映画に入りこむ。追い詰められる二人、危機一髪のところで救い出される二人、めでたしめでたし。
 カズちゃんとメイ子と百江がインスタントラーメンを作る。百江が鉢を置きながら、
「神無月さんのそばにいられて、私、幸せです。……憎い人でしょうけど、お母さんに会える機会があったらなるべく会っておいたほうがいいですよ。永遠にいるわけじゃないんですから」
 そうだね、と言うと、
「いつかはかならず神無月さんのやさしさをわかってもらえます」
「ぼくは母にやさしくないよ」
「二年、三年にいっぺんでも、そばにいってあげるだけでいいんです。年とった女はそれはさびしいものです。相手からやさしさを望まない神無月さんならできるはずです」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんはお母さんに面倒をかけたくないのよ。最高のやさしさ。お母さんはキョウちゃんを生理的に受けつけないから。でも、百江さんの言うとおりにすれば、イヤなキョウちゃんに会うことで、さびしさだけは紛らすことができるかもしれないわね。時間をかけてチャンスを待ちましょう」
「さ、十一時やわ。うち、帰って、少し勉強して寝る」
「あしたは日曜日だからゆっくり寝てなさい」
「はい、お休みなさい」
「お休みなさい」
 四人で玄関に見送る。カズちゃんとメイ子は風呂にいき、百江は自室に上がり、私も書斎に上がった。




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