三十四
カズちゃんたちが帰ってきた。トモヨさんはじめほとんどの女が両手に紙袋を提げている。幣原におぶわれて眠りこけていたカンナが、居間のベビーベッドに移される。直人は紙袋を私たちに掲げ、
「ひゃく、ふたつ、ひゃくごじゅう、ひとつ!」
と叫ぶ。パズルのピースの数だろう。五つまでしか数えられないとトモヨさんから聞いているので、百とか百五十の意味も知らず〈たくさん〉と言いたいだけなのだ。一人で縁側の畳にいき、パズルの箱を開ける。千佳子と睦子が寄り添う。
―直人は伸びのびと、虐げられずに育っている。
二歳四カ月。そのころの私はどこにいたのか。だれも語らない私の暗黒時代。愛された記憶どころか、この世に存在したという記憶すらない。自覚したことはないけれども、ある意味精神的に虐げられて暮らしたということなのかもしれない。本で読んだか、だれかが(水原監督だったか)言うのを聞いたことがある。
「幼いころに不当に扱われた経験をすると、自分を弱い小さな存在だと思いこみ、自分以外のだれもが大きい強者と感じられるようになる。だから自分のために闘ってくれる存在を求める」
記憶が始まった四歳のころに、私は激しい無力感に襲われ、自分を救いがたい矮小な存在に感じた。そのころ善夫や義一といっしょに撮られた写真をばっちゃに何枚か見せられたことがあるが、私は唇を引き結び、不安とも不機嫌ともつかない表情をしていた。
それからいままでどうにか生き延びたということは、大勢の人びとが私の代理で闘ってくれたということだろう。その人たちがだれとも覚えず、私の胸底に本能的な感謝の念が植えつけられた。だからいま私は、正体の知れなかった彼らに報いるために自力で闘っている。あのころ闘えなかった自分を責めながら―。
私は睦子に、
「冬休みに入ったの?」
「はい、きょうから一月七日まで。それから三月の終わりまで秋学期ということになってますけど、一月二十六日から二月八日まで期末試験で、二月の九日から四月の十日までは授業休業です。追試は二日ほどあります」
「プロ野球だと、ちょうどキャンプから開幕までの期間だね」
「大学の授業は正味七カ月。そこはプロ野球と似てますけど、休暇期間が比べものにならないくらい多いです。すみません」
「ハハ、謝らなくていいよ。野球よりずっときびしいことをやってるんだから当然だ」
†
十二月二十九日月曜日。晴。一・七度。ルーティーン。百三十キロ二回で止め。菅野と西高正門までランニングのあと、牛巻坂三枚ほど。則武一家は大掃除。十時過ぎ、
「いってきます」
と名大生二人とイネが挨拶にくる。めいめい手に大小のボストンバッグを提げている。
「駅前から空港バス?」
「ンだ」
睦子が、
「小牧空港まで三十分です」
「青森行は一日三便しかないからたいへんだね。何時の飛行機?」
千佳子が、
「十一時二十五分。乗ってしまえば一時間二十分で青森です。イネさんがたいへん。青森空港から青森駅、そこから野辺地に出て、野辺地から大湊線で田名部まで。私たちより二時間も多い旅」
「ぜんぶ汽車さ乗って帰ってらったころに比べだら、うだでラグだでば」
カズちゃんが出てきて三人に三万円ずつ餞別を渡す。びっくりしながらも、みんなうれしそうに受け取る。
「ちゃんと親孝行してらっしゃい」
「はい!」
カズちゃんと駅前ロータリーまで見送る。三人がバスに乗りこむ。手を振るときはいつも最後だと思って顔を見つめながら手を振る。
「きょうから正月三日まで日赤はお休みよ。いってきてあげたら?」
「うん。連絡がきたの?」
「二、三日前にね。二人ともだいじょうぶな日ですって。あした救急外来でお昼から夜の七時までお勤めするみたい。そのあと二人とも北村席でゆっくりすごすわ。文江さんもくるって」
「年末は賑やかになるね」
「二十九日と三十日は大河ドラマの総集編もあるし」
「天と地とか。大晦日の紅白だけは観ておこうかな。それから竹井だ」
「一月には法子さんが帰ってくるわね」
「うん、楽しみだ。二月はヒデさん」
「いろいろ、忙しくなるわよ」
則武に戻り、自転車で新樹ハイツへでかけていく。性欲はないが、どうにかなるだろうと楽観する。
キクエの部屋を訪ね、四つの腕に抱きつかれる。二人の女が蒲団を敷く。二つの尻を撫で回しているうちに欲望がたちまち高まり、救われた気分になる。安心して全裸になり仰向く。二人はじゅうぶん時間をかけて私を撫で回し、私の愛撫にも応える。二人交互に私を迎え入れ所有する。ひさしぶりにたがいの真皮に触れ合いながら、交接の感覚を堪能し合う。十分もかからないでたっぷりとした交歓は終わる。二人は身動きできないほどになっている。
寝物語で同僚たちの結婚話が出る。節子が言うには、看護婦は四十五歳を越えても半数は結婚しない、生涯結婚しない女も三十パーセント以上いる、スキルアップ、キャリアアップを優先しているから、勉強の妨げになる結婚を嫌うからだ。そのうえ、給料も高いので、経済的な安定を求めて結婚する必要がない。節子に、
「結婚にあこがれてる?」
「ぜんぜん。キョウちゃんと長い人生をすごせる理想的な仕事に就いたなって、ホッとしてる」
「私も。正直な気持ち」
「そういう女の人たちは、結婚を避けてるなら、生理的要求は?」
と尋くと、男と付き合っていないわけではない、そちらはきちんと処理している人が多い、でも、ほとんど家庭持ちの医療関係者が相手で、自分たちほど理想的なパートナーのいる人はいない、と笑った。
「出世のスピードって、どうなってるの?」
キクエが、
「七、八年から十二、三年で、たいてい主任になります。主任になるとだいぶ手当が上がって、夜勤が減ります。二十年から三十年で婦長、三十年以上で部長。部長職は病院に一人です。このあいだのようなマネジメント研修を受けておくことも昇進に影響します。節子さんみたいな実力者がいま中村日赤に五、六人いて、来年か再来年には主任になる人がポツポツ出てくると思います。私は最低あと五、六年後ですね」
将来の話をしているうちに、またおのずと興奮が高まってきて、二交目。さらに安堵する。節子もキクエも心ゆくまで体力を絞り切った。
「お腹すいたわ!」
三人でシャワーを浴び、食事に出る。太閤通りの万里という二人のいきつけの小ぎれいな喫茶店に入る。先客は三人。みんな一人客だ。私はスパゲティ定食(ナポリタンに目玉焼きと海苔三枚が載り、紅生姜が添えられている。めし一膳、味噌汁)、きちんと腹を満たす。キクエは唐揚げ定食、節子はラーメン定食。コーヒーもついてそれぞれ三百円という安さに驚く。甲高い声のオバサンが一人で切り盛りしている。焼きそばもできるようなので、今度通りかかったら食ってみよう。
「山口が池袋の豊島公会堂で初リサイタルをしたよ。睦子たちが聴きにいった。水原監督もいたそうだ」
キクエが、
「新聞で見ました。キョウちゃんの命の恩人が、立派な芸術家になってうれしい。キョウちゃんの言葉だと、立派な芸術家であってうれしい」
節子が、
「山口さんのレコードは発売されたものをぜんぶ持ってる。五枚。今度のリサイタルのレコードが手に入ったら六枚目になるわ。『山口勲・天才の中の天才』というアルバムには禁じられた遊びやアルハンブラの想い出のようなポピュラーな曲も入ってるけど、ほんとにごくふつうに弾くの。それなのにものすごく感動する。バリオスの大聖堂という曲は特にすごかった」
「山口の演奏には真の感動があるんだ。ただうまいだけのプロが多い中で、彼は正真正銘の芸術家だね。彼の端正な音楽は技巧を超えてるんだ」
新樹ハイツまで自転車を取りに戻り、二人に手を振る。
「じゃあしたね」
「はーい、あしたの夜」
†
北村席の女たちもせっせと大掃除に精を出していた。だれもいない座敷で、NHK午後の名画劇場を観る。昭和二十三年のイギリス映画『四重奏(カルテット)』をやっていた。全四話、監督四人のオムニバス。サマセット・モームの初期の短編を並べたもので、七十四歳のモーム自身が冒頭で自分の〈創作解説〉と〈人間解説〉をしていた。
私は自分の人生で起こったできごとを何らかの形で反映させた。経験から発想を得たときには、それを素材にして創案する必要があったが、多くの場合、人びとを表面的にあるいは深く観察し、それらを基にして独自のキャラクターを作り上げた。実際私の作品では事実と虚構が交錯していて、思い返してみると区別がつかない。
二十代のころは批評家たちから残忍な男だと、三十代では軽薄、四十代では皮肉が過ぎる、五十代では達者と言われ、六十代になると深みがないと言われた。それらを受け流してわが道を作品とともに歩みつづけてきた。自らの人生を見つめながら。
第一話、テニス選手がギャンブルでマグレ当たりをする話、『人生の実相』。ギャンブルにたけた父親が友人のギャンブル仲間に「マグレなのもわからず、自分の知恵だと過信してる。身を滅ぼすだけだ」と愚痴ると、仲間の一人が「幸運に恵まれるのは、知恵や金より価値がある」と諭す。慰められた。
第二話、自分を前途有望の天才と信じるピアノ青年の話。両親や親族、恋人たちがほとほと手を焼き、パリに留学させることにするが、二年経っても芽が出ない。そこで帰国させ、当代一流の女流ピアニストに実力を判定してもらうことにする。彼女に有望だと認められたら勉強をつづけてよいという条件だ。青年は彼女の前で得々とピアノの腕を披露する。聴き終えた女流ピアニストは青年に言う。
「何と言ってほしいの?」
「一流のピアニストになる可能性はありますか」
「ぜったいに無理です。熱心に学んだことは認めます。テクニックがあるし、音も華やかだし、でも魔力に欠けてます。一流になるには魂と情熱がなくては」
青年の顔が引き攣る。ダーク・ボガードという好きな俳優だけに、私の気持ちも暗くなる。
「―芸術を極めることは難しい。悪いけど、あなたは譜面どおりに弾いているだけ。あなたに才能があると思えば、ほかのすべてを捨てるように説得します。芸術はかけがえがありませんから。富や権力や地位と比べるのは意味がないんです。まったく。……でも勉強はむだじゃなかった。ピアノを弾くのは楽しいし、ふつうの人とちがって立派な演奏を理解できる。ただ、偉大なるアマチュア以上は期待しないこと。芸術において、プロとアマの差は測り切れません。でも私も誤ることがあります。ほかのかたにも訊いてみることね」
「必要ありません。納得して受け入れます。お忙しいのによくきてくださいました。一つだけお願いが」
「何かしら」
「ぼくのために一曲―」
女流は技巧も音色も卓越した音楽を奏でる。青年は窓を見上げながら耳を傾ける。やがて演奏する女流を振り向き、涙を流す。女流が帰ると、青年は自室で猟銃自殺する。胸を締めつけられた。その一方、山口のことを思いながら心の底から安堵した。そこでテレビを消した。
三十五
主人、菅野、私の三人、夕食をとらずに、駅西銀座の椿町商店会会館へ徒歩で出かけていく。二階の二十畳の大座敷に上がる。中村区の中でも、鳥居通から東側地区の商店主や工場主や、医者、弁護士、会計士といった富裕者二十数人が集まっている。拍手で迎えられる。宗近棟梁の顔もあった。長テーブルに豪華な前菜、箸、ビール瓶、伏せられたコップ、鴨居に《中日ドラゴンズ・神無月郷くんを励ます会》の横断幕。主人が私を上座に坐らせ、初対面の男たちが一人ひとり自己紹介して畳に叩頭する。
「以後お見知りおきを」
「末永くよろしくお願いいたします」
「きょうの日を楽しみにしておりました」
いちいち礼を返す。医師が、
「これまで失ったものが多かった人生だと聞いております。その一つでも取り戻すよう尽力させていただきます」
「お気使いありがとうございます。しかし、失ったものの長いリストはだれでも持ってます。……それが人生というものです。何も取り戻したいと思いません。個人ではなく、会の未来に目を向けましょう。私も単なる参加メンバーの一員として扱ってください」
全員で平伏した。区長よりひとこと、ということで、主人が仲間を見回しながらあらたまった挨拶をする。
「かく神無月選手は謙虚におっしゃっておりますが、当会の名称はあくまでも神無月郷激励会であり、神無月選手支援を目的とする会でございます。神無月選手に会の一員として活動してもらう意図はまったくございません」
一座の暖かい笑い。
「ではあらためて、みなさま、神無月郷くんを励ます会発足、まことにおめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
「第一期会長を務めさせていただくことになりました、中村区区長を務めさせていただいている北村耕三でございます。神無月郷という前途有為の若者を表立って支援できることとなり、あらためて身の引き締まる思いであります。昭和二十九年の初優勝より、ドラゴンズの成績がしだいに不本意なものとなるにつれて、われわれのようなタニマチ筋の者たちの支援活動も長らく制限されてまいりました。実質、何一つ中日ドラゴンズに対する協賛活動はなされてきませんでした。本年度は、中日ドラゴンズのチーム成績が正常に復するどころか、二度目の優勝を手中にするほどのピークに達し、わが椿町商店会も勇躍一丸となってさまざまな貢献活動を行なうことが可能となりました。来年以降県内各所にもろもろの激励会が発足するものと思われます。それを見こんで、他の選手たちへの賛助はそちらの激励会にまかせ、われわれは神無月郷くん一人に絞った支援をまっとうすることにいたしました。いっぽう、わが会の活動方針の主要なものに〈子供の不遇の解消〉と〈実感できる奉仕活動〉が挙げられております。この点においても、神無月くんのふだんの尊志を継ぎ、中日球場で催される全試合に対して子供たちの球場招待、同くんの指定する教育施設への野球用具等の贈与といった、身近な奉仕運動の掘り起こしを考えております」
拍手。
「なお、毎年十二月下旬をもって定例会を催す所存でございますが、その際、神無月選手の出席を無理強いしないこと、会合する定員を三十名以内に絞ること、この二点を厳守したいと考えます。一般の芸能人や野球選手と異なり、神無月選手は派手な催しを嫌うからです。神無月選手、本日のご出席ありがとうございました。心より感謝いたします。会員一同貴君の今後の末長い活躍を祈念しております。以上をもって神無月郷くん激励会発足の辞とさせていただきます」
大拍手。私は頭を下げた。北村席から出張してきた女たちがビールをついで回る。菅野の乾杯の音頭。会合という得体の知れないしきたり。飯場の長床几に腰を下ろすのと同じ気持ちでいつも腰を下ろしている。前菜をつまみながら、ビールのつぎ合い。つづいて和洋中の主だった料理の運びこみ。
励ます会代表と紹介された壮年の男が立ち上がり、
「第一回会合の決定事項として、竹橋町の映画館建設の件、全会員五十数名の醵金により全面支援をすることにあいなりました」
と述べた。また大拍手。私その男に、
「ちょっとお待ちください。映画館を作ることはあくまでも私的な趣味にすぎませんので、全面的支援はごく部分的なものに改めてください。たとえば新聞広告、無料上映の催しに対する賛助といったようなものです。支援の心を持ち寄って集まってくださるだけで、たいへんありがたいことだと思っています。可能なかぎり、年に一度の会合には参加させていただくつもりです。くどいようですが、表立って援助をちょうだいするのは社交的な場の飲食にかぎらせていただき、高額の資金援助はいっさい受けません。あくまで貴会との関係は精神的なものとさせてください」
和やかな拍手とともに了承が成り、酒と食事になった。心にもない将来の抱負を語ったり、愛する同朋の月旦をしたりしながら、ビールをコップに十杯ほど空けた。
会もたけなわを過ぎて、大きな色紙に文江サインをし《有魂・有情》と添えた。さっき観たばかりの映画の影響が大きかった。色紙は代表者の手で額に入れられ、会館の主廊下の入口に掲げられた。写真屋が入って、ストロボが焚かれた。二時ごろに散会し、三人で北村席に戻る。賄いの女たちは後片づけで残った。
帰り道、主人が下駄を鳴らしながら、
「お疲れさまでした。気苦労だったでしょう」
「いえ、申しわけなさでいっぱいでした」
「援助を受けることを根っから好まない神無月さんが、北村席の支援だけは快く受けてくださる。ほんとうにありがたいと思ってます」
「ただのタニマチとはちがった特殊な関係ですから、この五年来、遠慮なく支援をちょうだいしてます。家族だと思ってますので、何の違和感もありません。ただ、この五年間の義捐金は軽く一億円を超えてるでしょう。金銭でお返しするのはご好意を仇で報いることになりますから、直接そういうことはしません。ただ、何の方法も思いつかないので、ぼくのすべての物品の収益は北村席のみなさんと共有の財産にするということで、私の感謝のしるしとさせてください。どうかお願いします」
「わかっとります。その志は、常々プール金を細かく役立てさせてもらうことで、ありがたく実行してます」
「ほんとに実行してますか?」
「まちがいなく」
「かならず用立ててくださいね。それがなければ、ぼくはまったくの〈用なし〉になってしまいますから」
席に戻ると、座敷に女たちがわんさと集まって『天と地と』の総集編を観ている。二日間にわたって八話に分け、計八時間でダイジェスト版を放送すると女将が言う。幣原と優子は直人のパズルの相手をしている。則武の掃除を片づけたカズちゃんやメイ子や百江や素子が、ドッカとみんなの〈恒例の〉時間の中に腰を下ろしているのがおかしかった。去年はこの時間を高円寺ですごした。
私は台所へいき、テーブルで歓談していたトモヨさんに、
「きょうとあした、姫納めするよ。離れにいるから、あいだが空いちゃった人は、二、三人ずつきて」
トモヨさんが大きく笑い、ソテツと千鶴がパチパチ手を叩いた。かよいの賄いたちが羨ましそうな顔をした。
全裸のからだを大の字にして蒲団で待つ。性器が萎れている。これもギャンブル。ギャンブルにもいろいろある。風呂場に水音がする。股間を清めている。
私のものを口で丁寧に勃起させたトモヨさんが上になり、お先に失礼しますね、と二人に断り、私の唇を離さないまま尻を振り立て、激しく達して転げ落ちた。その様子に興奮したソテツが同じ騎乗位で狂ったように達し、千鶴が後背位を求めて二人に負けず劣らず激しく達した。二分と経たない短い時間だったので、だれにも射精をせずにすんだ。すでに風呂場で水音がしていた。台所で私がトモヨさんたちにかけた声が漏れ聞こえたのかもしれない。
「郷くんありがとう。死ぬほど気持ちよかった。姫始め、待ってますね」
ソテツは、
「私、乱れすぎてごめんなさい。腰が勝手に動いちゃうんです。そうなるともうイクのが止まらなくなって」
千鶴が、
「私は最初にしてもらったバックが最高。お尻をしっかり握ってもらって、女である幸せを感じるんよ」
礼を言って出ていった三人と交代で部屋に入ってきたのは、驚いたことに近記れんと木村しずかの二人だった。木村が、
「一生に一度だけでもと、お嬢さんにお願いしてきました。どうかよろしくお願いいたします」
いつかソテツが美しいと評した二人の顔を眺める。豊頬の顔がたしかに愛らしい。私はうなずき、
「目をつぶってるから、好きなようにして愉しんで」
近記は、はい、と応え、
「夢のよう」
と言いながら、射精前の硬度を保っている私のものに頼もしげに頬ずりしたり舌をつけたりした。木村は遠慮がちに私の胸をさすりながら、唇に唇を押しつけた。
「五年待ちました。ほんとうに神無月さんと結ばれるんですね」
その言葉を聴きながら近記れんは私のものを腹の奥深く収め、たちまち悶え乱れ、
「嘘! 嘘!」
とうめきながら五度、十度と達し、木村を思いやって名残惜しげに離れた。ふるえる尻をさすってやった。
「……愛してます。夢のよう」
ともう一度言った。木村しずかは正常位で待ち受け、
「す、すごい!」
と一声発すると、連続で気をやり、私の尻をしっかり抱えながら、
「イクウウウ!」
と叫んで精を受けた。膣の反応で快楽の大きさがわかった。愉悦の発声はそれ一度きりで、私が律動するたびに木村は声を殺し、蒲団を噛んで慎ましく痙攣した。小声で、
「うれしい、好きです、これからもずっと好きでいさせてください」
離れたあともなかなかふるえ止まなかった。
三十五歳の木村と三十三歳の近記が礼を言って去ったあと、私はシャワーを浴び、小半時仮眠をとった。
†
玄関で主人が女将に、
「きょうは塙さんの銀馬車のほうにも顔を出してくるわ。歳暮の挨拶をかねてな。晩めしはいらん」
菅野と出かけていった。陽光のかけらがほしくて私も外に出た。ジャッキの鎖を握って牧野公園を一周する。ベンチに腰を下ろす。ジャッキが足もとに伏せる。
希望―心の底にだれかがいる。顔も名前も思い浮かばないその人びとと再会できるだろうか? すでに再会しているのかもしれない。この妙チキリンな感覚をつかまえるのは難しい。恐怖? 時間が無情に過ぎていくのが? ちがう。幸福を感じる力まで失うのではないかという不安がよぎる。
キッコがやってくる。ジャッキの頭を撫で、私に並んで座る。
「ぼんやりして、何してんねん」
「ただボンヤリしてた。河合塾は?」
「きょうあしたは三コマ。二十九日から大晦日まで五コマ。正月も同じ。一日二日が三コマ、三日から五日までは五コマ」
「一コマ何分?」
「百分」
「たいへんだ!」
どの女もカズちゃんの顔に見える。この女も再会した女か?
「カズちゃんのこと好き?」
「めちゃくちゃ好きやな。神無月さんと同じくらいベッタリ好きや。あたしらはみんなお嬢さんにとことん入れこんどる。神無月さんの女房で、守り神で、同じ心臓を持った、たった一人の心中相手やさかいな。みんな何もかもわかってお嬢さんに感謝しとる。自分が神無月さんにお嬢さんと思われて愛してもらっとるって。身代わりでなくお嬢さん本人と思ってな。あり得んて思うやろうけど、神無月さんにはあり得るんよ。直人やカンナやジャッキやってせや。自分じゃわからへんやろうけど」
「じゃ、ぼくはもうみんなに再会してるんだね」
「え? ようわからんけど……逢いたかった人に逢っとるゆうこと?」
「うん」
「ほうよ。お嬢さんに逢ったらそれでぜんぶやが。神無月さんはいつも逢いたい人にしか逢わん。逢いたい人に逢うのが神無月さんの信念や。愛の信念。……神無月さん、愛って何?」
「ぼくにもよくわからない。なかなかたどり着けないものだろうね。たどり着けるような終着点はなくて、きょう一日がその断片にすぎないってことはわかる。断片を少しずつ重ねていけば、どんなに遠くてもいつかはたどり着けるような気がするけど、別の隔たりがあって、いき着くのは無理だとも感じるんだ。きょうの愛を維持するという架け橋が脆いということだね。それがきのうとあしたの残酷な隔たりだよ。きのうとあしたとの距離を当然だと思う心。きょうの愛情を忘れてしまう心。その心さえ捨てれば、かならず〈きょう〉という橋が架かって、愛にいき着ける」
「すてきな信念やな―。お嬢さんも、あたしたちも、一生懸命信念持って生きとる人を放っとけへん。神無月さんは周りに流されんと、ひたむきに人を愛しとる。だれもまねできんことや。世間の人は人生の意味も考えんと、ただ生きとる。少しでもラクに生きようとして、損得ばかり考えて金を稼いどる。食べて、寝て、死ぬだけ。そんなことには目もくれん神無月さんといっしょにおると、あたしも何か見つけられる気がするんよ。さ、ジャッキ、帰るで」
三十六
庭の池の面に陽のかけらが映っている。ジャッキが玄関へ走っていく。飛び石を歩きながらキッコが、
「神無月さん」
「ん?」
「あしたを知ることができるやろか。自分に何が起こるか知ることができるやろか。できんよね。そう思うとわけものう悲しなるわ。まだ何も起きとらんのに。……あたしらにも何か起こるんよね。たとえば、死んだりとか―。わかっとっても、認めるのが怖いわ」
「ぼくたちは、もうずっといっしょにいるみたいな気がする。キッコ、広い世界の中で運命の相手だとなぜわかるんだろうね。同じ時代に生まれたのも偶然なのに……。もしぼくたちがちがう時代にいたら、ちがう人を愛するのかな」
「そんなことあれへん。何百年前でも、何百年後でも、世界の果てまで探しても、あたしが愛するのはたった一人だけや」
「じゃ……きょうでも、未来でも、いつ死んでもいいじゃないか」
「うん、ほうやな。そう考えると怖くあれへんわ」
「ぼくたちは出会うまでのあいだ孤独だったんだ。カズちゃんもトモヨさんも素子も、みんなみんな孤独な時間をすごしたあとで出会って、独りでなくなった。いっしょに希望を見つけた。そうなったからには、そのあとはたとえ居場所がちがっても、きのうやあしたが立ちはだかってもかまわなくなる。きょう出会って、心をかよわせ合って、いっしょに眺める世界の美しさは、過去や未来と関係ないからだよ。でも世界の美しさというのは出会って共感するだけじゃ見えてこない。愛し合って初めて見えるものだ。とすると、たしかにキッコの言うように、愛する人間がいなくなる未来を考えると恐ろしいね。この世界が美しく見えなくなるなんて耐えられないものね。結局ぼくたちに未来のことは何もわからないけど、少しだけわかることがある。おたがいの人生の中におたがいを絡み合わせて生きてるってことだ。解きほぐせないくらいね。きょうまでが天寿なんだ。愛する人間はいなくならないんだよ。これほど頼もしい世界はないんじゃないかな」
「世界はきれいなままなんやね」
「うん」
池のそばで私たちはそっと手を握り合った。
天と地との総集編が終わったところだった。カズちゃんが、
「おもしろくないドラマね。あしたはもう観ないわ。ゲップが出そう」
遠くから蒲団を叩く音がし、厨房がやかましくなる。大掃除を終えた廊下も部屋もピカピカだ。カンナのお乳の時間。離乳したと言っても、ときどきは求められるまま与えているようだ。トモヨさんが、
「一年ぐらいこうしてると、生理がこないので便利なんです」
「何に?」
「ま、郷くん―」
その仕組みはわからないので訊かない。五時から月面着陸特番。宇宙服がスローモーションで跳ぶ。直人が食い入るように観ている。カズちゃんたちアイリス組や優子、信子が台所に手伝いに入る。やがて、節子とキクエ、文江さんがやってきた。キクエが、
「七時四十五分からNHK教育で、山口さんのデビューリサイタルの録画を放送しますよ。九時まで」
三人もやはり台所に入った。
「お辞儀をしては舞台の袖に出たり入ったりする山口を見たくないなあ。ライブというのはどうもワザとらしくて好きになれない」
女将が、
「見てあげなさい。晴舞台なんやから」
「はれぶたいなんやから」
直人が私の首にかじりつく。
食卓が整い、キンメの煮つけの皿が並ぶ。好物。キクエが手を叩いて喜ぶ。直人はクリームシチュー。カンナも二口、三口食べる。キンキを食べたくない大人には、豚バラと大根のカレー、生野菜サラダが用意されている。私はキンキもカレーも食う。
六時半のCBCニュース。スポーツニュースでチラと伊藤竜彦(29)のトレード通告の話題。かなり驚く。伊藤は中日の伊藤で終わりたいとトレードを拒否し中日残留を訴えたが容れられず、自由契約同意書にサイン。セリーグは即日自由契約選手として公示。近鉄三原監督が関心を示しており、川内八洲男投手(24)とのトレードが有力視されている。キッコが、
「伊藤さんて、うちにきたことある?」
カズちゃんが、
「なかったんじゃないかしら」
「江藤さんの同期だよ。静かな人だ」
女将が、
「お師匠さん、年末年始の予定は?」
「きのうから、来年の三日までお休み。四日からは県内の五、六個の書道展に向けて、河合塾とうちの教室で生徒たちの錬成会が始まります」
カズちゃんが、
「文江さんはもう応募しないの?」
「地元の書道展にはコツコツ出すつもりですけど、大きな団体の書道展には金輪際出品しません。寄付金とコネの世界だとわかって幻滅しました。一介の書道教師で生きていこうと思ってます。師範とか段位とか、そんなものは書家として認めないという仕組みもわかりましたから」
「どういうこと?」
「選考委員の弟子筋か、五百万円以上の寄付をしないかぎり、入選できないということです。入選の上の入賞となると、お礼金やら何やらで一千万円以上かかります」
「……そう。みっともない世界ね。悲しいわ。いいじゃないの、書家なんて言われなくても。書道が好きなんだからそれで満点よ。そういう先生じゃないと、学ぶほうも楽しくないわ」
「そう思います。雅号などというわざとらしいものもやめました。大きな書道展に出品するととんでもなくお金がかかるので、生徒には勧めてません。野心的な生徒にはほかの書道塾を勧めてます」
「知多の書道塾が文江さんの原点よ。駅西の立派な先生でいてちょうだい。知多には顔を出してるの」
「はい、先日お弟子さんといっしょに大掃除にいってきました。お向かいのかたに管理費を二万円預けました……」
「あの二階から外を眺めていた人は―」
「はい、亡くなったそうです。まだ三十そこそこで……。東京の親戚のかたとか伺いました。重度の気管支喘息だったというお話でした」
「療養にきてたのね」
杉山啓子、加藤信也……喘息は死病なのか。そっと食卓を離れ、庭に出る。とっぷり暮れている。都会の空に星がある。冬の星座。降る星をイメージしながら池の端で唄いだす。
木枯らし途絶えて 冴ゆる空より
地上に降り敷く 奇(くす)しき光よ
ものみな憩える しじまの中に
きらめき揺れつつ 星座はめぐる
涙が流れる。大きな拍手が起こる。あわてて目を拭いながら振り向くと、カンナを抱いたトモヨさん、直人の手を引いた文江さん、彼女たちを取り囲んで食卓のみんなが立っていた。思わずひるむ。カズちゃんが、
「つづけて、キョウちゃん!」
と鼓舞した。
ほのぼの明かりて 流るる銀河
オリオン舞い立ち スバルはさざめく
無窮を指差す 北斗の針と
きらめき揺れつつ 星座はめぐる
「すばらしい!」
門のほうから主人の声がした。菅野と歩いてくる。菅野は大声で、
「えぐります!」
文江さんが近寄って手を握り、濡れた目で見上げた。
「こういう心に沁みる曲を唄えるのはキョウちゃんだけやよ」
「おとうちゃんのこえ、きれい」
直人も明るい目で見上げる。
みんなで座敷に戻り、NHK教育にチャンネルを合わせた。
†
山口は長髪になっていた。拍手の中、スポットライトの当たる椅子だけのステージにやってきて、礼をし、調弦し、弾きはじめる。ときどき長髪が揺れる。弾き終わると立ち上がり、拍手の中で数度礼をし、袖に引っこむ。ふたたびギターを持たずに出てきて数度礼をし、引っこむ。またギターを持って現れ、拍手にまみれる。これはあわただしい。気の毒になってきた。語りはいっさいない。弾いては去り、再登場し、弾いては去る。直人は起きていられず、風呂に連れていかれた。
「山口、幸せだよね」
菅野が、
「だいじょうぶです。登り切ったんです。幸せですよ。そのうちしっとりしたステージをするようになります。ギターの腕、さすがだなあ。ド迫力」
三人のゲスト紹介は一瞬だけ、電報は割愛されていた。ただただ山口のギターを聴かせる番組だった。すばらしい徹底ぶりだった。これで天才ギタリスト山口勲の名前は、津々浦々に知れわたることになった。
番組のエンディング五分間の楽屋の撮影場面で、山口はインタビューに応え、
「俺はいつも神無月郷といっしょに生きてます。彼に聴いてもらいたくてギターを弾きつづけてきました。これからも彼が生きているあいだだけ弾きつづけます。三十歳まで生きてくれれば三十歳まで、百歳まで生きてくれれば百歳までね。自分が後生大事に抱えてるアイデンティティーは、彼が作り上げてくれたものなんです。だから大事に抱えてるだけでね。彼が存在しなければ意味がない。彼の周りの人間も俺と同じ気持ちですよ。命も彼への貢物です。ところで、四月初旬の名古屋公演には神無月に一曲唄ってもらって、全力で伴奏するつもりでいます。無理やり引っ張り出しても、かならず了解してくれるでしょう。そうなれば、学友の天才シンガー林郁夫も駆けつけると思います。林は神無月の歌を聴いて涙を流すことを人生の最高のボーナスにして生きてる男ですからね。林は歌を趣味に封じて、のんびり企業人になる予定でいますが、一度はヤマハあたりの音楽コンクールで道場荒らしをするでしょう。うまくおだてればプロになってくれるかもしれない」
座敷の全員が目を剥いた。主人が、
「菅ちゃん、予約チケット二十枚くらい買っといて」
「はい。会場と日程がわかりしだい、手に入れます」
「お父さん、ありがとうございます。……きょうぼくは、激励会の人にせっかく親切な言葉をかけていただいたのに、失うものが多いのが人生だ、失ったものを取り戻したいとは思わないなどと失礼なことを言いましたね」
「失礼でないわ。潔い言葉やと思ったで」
「……何かを失ったと考えるのは、自分の運命が隣人の愚行の積み重ねのせいだと考えるからだと思うんです。それって、ただ座って自分を憐れんでるだけです。周りはバカばかりだとね。そしてあきらめる。解決できるのは地球上で自分だけだからとね。……でも一人では何も解決できないんです。お父さんや激励会のような財を捨てた人たち、山口のような命を捨てた男たち、カズちゃんたちのような社会的な体面を捨てた女の人たち、そういう人たちの心寄せがなければ何も解決できない。そういう人たちがいるという事実だけでもうじゅうぶんなんです。それを励みに自力で運命を切り開けます。その上の過分な物質的援助など必要ありません。血を分け合うほど親密な北村席の人たちからは遠慮なく心身の援助はいただきます。それが愛し合うものの幸福だと信じてますから。―運命を変えるほどの愚行を犯したとするなら、それは自分なんです。ただ、愚かだとしても、まちがったことをしてきたとは思わない。自分の行動が正しいのかどうかは、感覚が教えてくれます。その感覚は痛みに直結してます……痛みはぼくを強くします。痛みに変わる前は怒ってばかりいました。怒りのせいで絶望し、すべてを潰したくなったこともありましたけどね。制裁を下したいという気持ちです」
「あたりまえですよ」
「でもそういう状況を変えたのはカズちゃんのひとことでした」
素子が、
「どういう言葉やったん?」
「いまを必死に生きろって」
カズちゃんが、
「私、そんなこと言った覚えがないわよ。それはキョウちゃんの心の中の声ね」
彼女はたしかにそう言いつづけたのだ。
「気概があれば、人間はほかに何も要らないわ。山口さんの言葉も、キョウちゃんの言葉も、おとうさんたちの言葉も、そのかたまりよ」
そう言ってカズちゃんは厨房の後片づけに加わった。