四十

 カズちゃんが、
「立て板に水だったわね。よほど時間の使い方がじょうずなのね。寸暇を惜しむ、か。キョウちゃんのモットー。とにかく、文学、音楽、映画。鑑賞をやめないのね。ところで『天井桟敷の人々』でバチストの奥さんナタリー役、だれだったっけ」
「マリア・カザレス」
「ツーと言えばカーね」
「ちょっと冷えてて魅力がないね。北村席にはいないタイプ。目が大きいだけの冷たい三角顔だからだと思う」
「たしかにきれいなのに目立たなかったわね。『舞踏会の手帖』のマリー・ベルもそうだった。キョウちゃんの好みがよくわかったわ。あたかも美人美人してて、女っぽさにかけた顔が嫌いなのね。だからそれだけたくさん女優の名前が挙がったのよ。それにしてもよく憶えてる。私も半分以上知らなかったわ」
 丸信子が、
「島崎雪子はどうですか」
「島崎?」
「『めし』という映画の……」
「ああ、東京から大阪に家出してきた」
「そうです。上原謙の姪っ子役」
「女房の原節子が少し嫉妬するやつだね」
「はい。とてもきれいだと思いますけど」
「役柄なのかもしれないけど、我の強そうな感じがしたなあ」
 素子が湯呑茶碗をいじりながら、
「色気を感じるのは、どういう基準なん?」
「じつは顔は丸くても三角でもいいんだ。少女らしいかわいらしさが、顔の底に沈んでるような―たとえば若山セツ子」
 座の女たちが自分の顔をさすった。三上が、
「若山セツ子って、青い山脈の丸眼鏡の子ですね」
「うん、実質、主役だった」
 カズちゃんが、
「谷口千吉っていう監督と結婚したけど、彼が八千草薫と浮気して別れたのよね」
「若山セツ子よりも八千草薫を取ったのか! わからない心理だなあ」
「人それぞれ、女らしさを感じる本能がちがうからよ」
 NHKニュース、ニュースの焦点。そろそろ十時になる。女将に、
「お父さんたち遅いですねえ」
「毎年こうや。酔っ払って夜中に帰ってくる」
「隠し芸なんかやるんですか」
「耕三さんはドジョウすくい、菅ちゃんは野球知識クイズ。これも毎年や。ほかの人は手品や楽器演奏や歌まねをするみたいやな。国鉄会館に五十店舗くらいの主が集まるそうやから、挨拶やら、隠し芸やら、来年の抱負やらでなかなか終わらんのよ。そのあとも二次会をやってくるで、ご帰還は一時二時やな」
「中村区に商店会ってどのくらいあるんですか」
「六つやな。駅西銀座、笈瀬本通、大門、西柳錦、広小路西通、広小路名駅。耕三さんは区長やから、年に二度くらい各商店街の代表者の寄合いにも出るけど、忘年会は駅西銀座商店会やね」
 鬼警部アイアンサイドが始まる。カズちゃんが、
「じゃ私たち帰るわ。キョウちゃんはゆっくりしていきなさい。どうせあしたはランニングお休みでしょう」
「うん。でも夜更かしはみんなに迷惑だから、ぼくも帰る。大晦日はここで深夜映画でも観ながら寝るよ」
「そうね、NHK以外は四時までやってるから」
 一家の人たちにお休みなさいを言い、ジャッキを撫で、玄関を出る。文江さんと節子とキクエが門まで送ってくる。節子に、
「今年は救急の当直はないの」
「はい、キクちゃんも完全休日。しばらくおかあさんといっしょに北村さんでのんびりさせてもらいます」
「おたがいそうしよう。じゃ、お休み」
「お休みなさい」
 三人に手を振る。
「あしたはいよいよ大晦日か! 去年は高円寺だったね」
 素子が、
「ほうやった。キョウちゃんがウトウト寝てまって、うちらだけでお寺にいってきた。それから年越しソバ食べて」
「みんないたよね」
「節ちゃん、キクちゃん、法子さん、それからお姉さんと、うちと、千佳ちゃん」
 カズちゃんが、
「ムッちゃんは勉強がんばってて、これなかったわね」
「あれからもう一年経っちゃったんだ。早いなあ」
「そこだけを思い出せば、似たような思い出の点がサッとつながるから、早く過ぎたように思えるけど、実際は長かったのよ。毎日のトレーニング、キャンプ、オープン戦、公式戦……そして優勝」
「そうだね。どれも似てない。来年からは似たことばかりになる。時間が早く過ぎるぞ」
 メイ子が、
「神無月さんはどの点も似てません。やっぱり長い一年になると思います。おかげで私のような人間は、一年を十年に感じて生きられます」
 百江が、
「私も同じですよ。うれしいこと。お嬢さんは、この十年間、どういう気持ちで神無月さんと暮らしてきたんですか」
「そうねえ、心から愛してるという気持ちのほかに……腫れ物に注意って気持ちかしら。細心の注意で痛みを与えないように接しなければって。でもキョウちゃんは予想以上にタフな人で、いつも笑ってて、どこも痛くないって態度で通したの。私があらたまって気を配る必要はなかったわ」
 素子が、
「でも―」
「そうね。……たしかに一度激痛に悩まされたけど、ぐんぐん元気になったわ。野球という特効薬があったし、そして、大勢の人の愛情が鎮痛剤になってくれたからよ」
「みんな体裁をつけずに正直に接してくれたおかげだよ。わざとらしい同情や期待よりは正直な気持ちでぶつかってくれるほうがよっぽどいい。同情や期待は、結局、ウソだからね。……みんなありのままでいてくれて感謝してる」
 素子が、
「こんなんでええなら、この先もそうするで」
 私は四人の女と顔を見合わせて微笑んだ。
         †
 インスタントラーメンを食いながら、アイアンサイドのつづきを観る。
「このレイモンド・バーって、ペリー・メイスンをやった人だよね。西松の飯場で一度しか観たことがないけど、特徴のある顔だから憶えてる。何歳ぐらいかな」
「五十過ぎてるわね。ペリー・メイスンは四十歳から五十歳にかけてでしょう。逃亡者と重なるようにしてやってた時期もあったわね」
「東京にいたころ、昼のテレビ映画で『青いガーディニア』というのを観たことがある。殺される色事師の役。若かったな」
「もともと売れない映画俳優だったけど、演技力は確かだから、『陽のあたる場所』や『裏窓』にも出てるのよ」
「へえ。でもこのアイアンサイドはパッとしないね。一話ごとに法廷で事件が解決されるペリー・メイスンのほうが楽しい」
 メイ子が、
「偶然そういうスッキリする回を観たんじゃないんですか。無罪は勝ち取っても、真相はウヤムヤになることが多かったですよ。陪審員制度というものが障害になるんです。スパッと真犯人をペリーが名指しするときは気分がいいですけど、そうでないときは欲求不満になって」
「……欲求不満て、次回に期待をつなぐから、番組は長つづきするよね。逃亡者もそうだった。片腕の男がかならず逃げちゃってね。きょうの深夜映画は?」
 素子が週刊テレビガイドを開き、
「やってる。美空ひばりの『旗本退屈男・謎の竜神岬』。ゲイリー・クーパーのアリゾナの天地。どっちも一時からや」
 ラーメンのツユをすすり終え、
「時代劇と西部劇か。きょうはご就寝といこう」
「まだ眠くないから、11PMでも観ながらお話して寝ましょう」
 百江が、
「私はもう寝させてもらいます。あした早く京都へいかなくちゃいけないので」
「息子さんね」
「はい。一日に元旦礼拝をいっしょにします。一月一日は教会暦で聖母マリアの記念日になっていて、主イエスの命名日と割礼日になっているそうです。礼拝を兼ねて聖餐式を行なうと言ってました。どういうものか知りませんが、いっしょにやってきます」
「もちろん神社へは初詣にいかないのよね」
「カトリック系の半数以上の人が初詣にいくようですけど、息子はプロテスタントなのでいきません。私はキリスト教徒じゃないので、一人で明け方に近所のお寺へ初詣にいってきます」
「こちらに帰ってくるのは?」
「二日の夜に帰ってきます」
「ほかの子供たちのところへはいかないの?」
「はい。娘たちの家庭は、息子の世界とは別物ですから。……息子の世界にはこちらの世界と似た神聖なものを感じます。あの……」
「なに?」
「家も土台がすっかり直りましたし、もう住めると思うんです」
「戻りたいの?」
「ぜんぜん。そうじゃなくて、人に貸して、少しでも収入を得て、その分息子に送ってあげたいと思うんです」
「いい考えね。商店街の不動産の知り合いにおとうさんから話を通しておいてもらうから安心して。貸家の値段も決めてもらうから、気長に待っててね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします。じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい」
 百江は姿勢よく二階へ昇っていった。
「メイ子は?」
 私が尋くと、
「いつかも言いましたけど、三上さんと同じで、しょっちゅう帰ると、口さがないご近所に目引き袖引きされて、家族に迷惑がかかります。……北村にお勤めして以来、年に一度はお盆に帰らせていただいてますし、正月は両親と子供にお年玉を送るくらいですませることにしてます」
「そう……。よし、じゃ夜更かしだ」
 火曜大阪発藤本義一の11PMをやめて、新日本紀行にする。今年七月に放送した月夜間(つきよま)の港―長崎県五島―の再放送。雄大で繊細なテーマ音楽。日本の横顔(素顔だったか?)のほうがより悲しい響きがあって好みだけれども、これはこれでよい。
 男たちがひと月に五日間だけ戻る奈良尾という港町の話。満月を挟んで漁を休むわずか五日間だけの帰宅。月夜間が近づくと、女たちは念入りに化粧をする。月夜間美人と言うらしい。帰り着いた男たちは声を合わせながら網上げをし、船の掃除をし、給料を受け取る。二十五日働いてせいぜい五万円の安給料に驚く。妻や子供たちとの対面。子供は男の膝を離れない。そばの寝床には新生児もいる。夜は元締めの会社が催す宴会。カラオケ。森進一の港町ブルース。しっかり今年流行の歌だ。流行は陸海ことごとく侵食する。空にほとんど円に近い月。翌朝、カトリックのキリスト教徒たちが教会に集う。漁師たちの姿もある。迫害を受けた土地であることを思い出す。遊園地で遊ぶ父と子。あっという間の五日間。神主のお払い。かけ声を上げながら網の積みこみ。家族に見送られて数百キロ彼方の東シナ海へ出航。鋳型で固められたような生活。しかし、生活と呼べる生活。素子が、
「この男たちの一人がキョウちゃんやったらって思う。それでもキョウちゃんは似合う」
「月夜間美人が見つからないから、暮らせない」
 メイ子が、
「そうですよ、ぜったい暮らせません。ほとんど全員、金歯のおばちゃんですから。でも攻めてこられたら、いやいやでも応えてあげるでしょう。そうなると、男たちの袋叩きに遭って殺されます」
 カズちゃんが、
「おもしろいこと言うわね。キョウちゃんは美醜に敏感なのよ。ぜったい応えないでしょうね。ただ、性格のいい女には美醜と関係なく応えてあげると思う。……でも、性欲だけの女に夜這いをかけられることも確実だから、苦労が多くなるわ。子供のうちに助け出してあげないといけなくなるかもね。それにはやっぱり野球かな。脱出の手段て、才能しかないのよ」
 素子が、
「その前に野球に目覚める環境が必要やがね。この島に野球なんかあれせんやろ。やっぱり、漁師が似合うなんて言っとれんかったわ。こんな場所で生まれたらオワリやが」
「だいじょうぶよ、ラッキーが起こるから」
「幸運が重なっていまがあるって、つくづくわかるよ。ありがとう」
 素子が、
「だれにお礼言っとるの。さ、ほんとに寝よまい」


         四十一
 
 十二月三十一日水曜日。六時半起床。マイナス一・七度。少し眠い。蒲団が暖かい。硬く勃起している。隣の部屋で百江の足音がしている。全裸になって、襖を開けるとシュミーズ姿の百江が蒲団を上げるところだった。
「キャッ、神無月さん―」
「小便勃ちだけど」
「オシッコしてきます?」
「いや、このまま」
「はい、いただきます」
 百江も裸になって蒲団を敷き直す。ひさしぶりに股間に屈みこむ。薄茶色に湿っている小陰唇を含み、大きめのクリトリスに舌を使う。しだいに硬くなっていき、
「ああ、神無月さん……幸せ、イキます……」
 慎ましく腹をふるわせる。挿入し、心地よさそうな収縮を十度ほど味わってから吐き出す。階下を慮ってか、百江は極端に声を殺して私を抱き締める。律動に合わせて三度、四度と陰阜を跳ね上げる。歯を磨いていないことを気にして口づけを避けるので、頬にキスをする。
「ありがとうございました、私ばかり……申しわけありません」
 陰茎をティシュで丁寧に拭い、自分の股間も拭うと、下着とシュミーズをつけて二階の洗面所へいった。私はもう一度自分の布団に戻った。二度寝をする。
 小半時して、階下からひとしきり百江とカズちゃんたちとの会話が聞こえてきた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。息子さんによろしくね」
 玄関戸の閉まる音がした。
 八時。耳鳴りがほとんど聞こえない。体調がいい。起き出して階下へいき、うがい、軟便、シャワー。限界になっていた小便をシャワーといっしょに噴き上げて流す。
 新しい下着とジャージを着、庭に出て、冷えびえとした芝の上で三種の神器。カズちゃんたちも出てきて、腕立て伏せだけまねをする。全員五回もできずにへこたれる。
「なんじゃ、それ」
 カズちゃんは笑いながら、
「百江さんすごく喜んでたわよ。夜の営みって言うけど、セックスは朝したほうがいいって記事が、主婦と生活に載ってたわ。アメリカの性科学(セクソロジー)の女性博士が発表した論文」
「そんな学問があるんだね」
「学問は何でもありよ。その博士の話では、朝すると、感覚をするどくするオキシトシンが出る、行為そのものの興奮のせいで免疫が向上し、風邪などの感染を防ぐ抗体の働きが強くなる、オーガズムの刺激でエストロゲンのレベルが高まり、肌、髪、爪などのコンディションがよくなる、睡眠中、男のからだにはテストステロンという男性ホルモンが蓄積されるから、起き抜けに三時間程度の行為に耐えられる精力が用意されている、そう書いてあったわ。私たちがこれまでしてきたことは理に叶ってたのね」
「人間のからだの生理はすべて、愛を学ぶために神が用意したものということかもしれないね。基本的には合意があれば、いつしたっていいってことなんだろう。朝でも昼でも夜でも同じだと思うよ。朝することに尻ごみする人を安心させるために書いた論文だと思う。……いましたい?」
「いつだってしたいけど、姫始めまでがまんする」
「うちも」
「私もそうします」
 みんなで階段と廊下の掃き掃除をして、北村席へ。
「きょうは朝から晩までテレビになるわよ」
 トモヨさんは厨房で住みこみの賄いたちとおせち料理の準備に忙しい。文江さんや節子たちも手伝っている。直人は相変わらず溌溂と座敷を走り回っている。主人と菅野がいない。
「おとうさんたち、無事に帰ってきた?」
 カンナを抱いていた女将が、
「べろんべろんでな。昼まで寝とるやろ。菅ちゃんも客部屋で寝とる」
 金魚のフン取りをし、餌をやる。やりすぎると消化不良を起こす。遅めの朝食を十人ほどでとる。いつもの半分以下の人数だ。
「年末せっせと励む人もいれば、里帰りする人もいるんですね」
「ほうや。うちは遊郭やのうて、むかしから置屋だでね。お女郎さんは、盆正月も、一歩も外へ出れんかったんよ」
 九時、東海テレビ、奥さまスタジオ小川宏ショー。ジェスチャーをやっていたアナウンサーだとすぐわかった。露木茂と松村満美子という愛想のいいアナウンサーが両脇に控えている。作り笑いは性格を一律にする。いわゆるアナウンサー面。
 テレビ漬けの一日が始まる。ソテツが、
「きょうはおせちの準備でたいへんなので、お昼はきしめんで、夕食は親子丼です。あしたの夜は、大名古屋ビルヂングの青空さんにきてもらってお鮨になります」
「はーい!」
 みんな上の空で返事をする。やたらに結婚式場のコマーシャルが流れる。カズちゃんが、
「年末年始の名古屋の風物よ。結婚式場商売繁盛。名古屋の結婚式は全国的に見るとお金をかけるほうだから」
 山口から電話。
「おう、山口、テレビ観たよ!」
「サンキュー。二十八日、二十九日、三十日と凱旋コンサートってやつをやってきた。沖縄、熊本、大阪。きょう三鷹に戻ってやっと落ち着いた。一月は、六日、七日とサントリーホールだ。それでしばらくお休み。と言っても、レコードの吹きこみを挟みながら練習の明け暮れになるけどな」
「芸術家は安楽椅子に座ってられないさ。おトキさんは元気?」
「ああ、ベリー・ファイン。きのうから西荻窪のほうにいって、正月料理の手伝いをしてる。すっかり山口家の一員だよ。菊田さんと福田さんの不動産事務所、細かいところまで完成したようだ。正月は法子さんの送別会を兼ねて吉祥寺で飲むって」
「法子はそろそろ名古屋に帰ってくるんだね」
「初旬に北村席に顔を出すそうだ」
「そうか。これでみんな古巣に戻ったことになるね」
「そうだな。俺もすぐにでもおまえに会いたいけど、名古屋公演までオアズケだ」
「そのときは二、三日ゆっくりしよう」
「ああ。林もいく」
「楽しみにしてるよ。……おまえがギターを弾けばいいだけの生活になってほんとにうれしい。出会って以来の願いだったから」
「俺はおまえのプロ入りで一年早く願いをかなえてもらった。それが大きな励みになった。……ただ、一介のギター弾きの生活にしてはちょっと忙しすぎる。来年からはコンサートを減らすよ。おまえとちがって自由意志で〈試合数〉を減らせるからな。おまえぐらいキツイ思いをしてマトモにやっていける自信はない」
「あたりまえだ。ぼくはただの運動選手、山口は芸術家なんだよ。体力じゃなく技能が勝負だ。最高のものを提供するためには、体力を鍛えるよりずっときびしい技術鍛練が必要だ。商業活動で忙しくしてちゃいけない」
「相変わらず納得のいく解決策を与えてくれるな。じゃ、和子さんに代わってくれ」
 カズちゃん、女将、トモヨさん、素子、文江さん、節子、キクエ、ふたたびカズちゃんと順に受話器に耳を当てる。
「おとうさんと菅野さんは二日酔いで寝てるのよ。電話あったこと伝えとくわ」
 名古屋公演、おトキさん、菊田さん、福田さん、法子さんなどと何度か話題にし合ったあと、
「よいお年を」
 と締めくくった。
 小川宏ショーに飽きてチャンネルを回すと、ジョン・ウェインのリオ・ブラボーが始まったばかりだった。リッキー・ネルソンとディーン・マーチンが出ている。寝転がる。直人が私の胸の前に同じように寝転がる。主人公扮する保安官と××一味との戦いという定番。コマーシャルカットを挟んで二時間の要約版なので、腰を据えるほどではない。キッコがソテツの作った弁当を入れたカバンを提げて河合塾へ出かけていく。
「カズちゃん、この女優、だれ?」
「アンジー・ディキンソン。オーシャンと十一人の仲間に出てるわ。気に入った?」
「唇が好きじゃない。西部劇って、協力者もなく孤立して悪人と戦う真昼の決闘のようなパターンと、積極的な協力者といっしょに戦うこの映画のようなパターンと二種類あるけど、悪に屈しないという意味では同じだから、スッキリ度は変わらないね」
「人間世界の理想を描いてるからよ。悪は正義に滅ぼされる。でも、現実はそれと逆だから、正義漢は超人でなくちゃいけないのね」
「勧善懲悪じゃなく、理想の超人に拍手してるわけだ」
「そう。だから正義は狂気じみててもいいってこと」
「悪はもともと狂気だからね。狂気には狂気をってことか」
 いつの間にか直人はパーマンのパズルをやっている。優子と信子が見守る。親子丼のいいにおいがしてくる。主人と菅野が起きてきた。女将に、
「ビールと、砂糖をかけた梅干くれ」
「はいはい、迎え酒やね」
 二人で風呂へいく。カラスで上がってきて、ビール。カズちゃんと素子が二人につぐ。親子丼がドンドン出てくる。ドンブリを置くだけなのでおさんどんはない。桂小金治アフタヌーンショー、ゲスト波越徳次郎、指圧の心は母心、ソテツが切り替える。NHK教育は六時間にわたる三つの演奏会、切り替える。NHK総合も夕方までニュース、テレビ小説信子とおばあちゃんの再放送、アポロ11号月面着陸再放送、切り替える。ベルトクイズQ&Q、切り替える。桂小金治に落ち着く。素子が幣原に、
「今夜はどんなふうに観ていくん?」
「レコード大賞か、年忘れにっぽんの歌を途中で替えて、紅白歌合戦、ゆく年くる年」
「それで固定やな。TVガイドに歌集もついとるよ。あ、ここにも金田が出とる。やたら金田正一って出てくるがや」
 トモヨさんが、
「紅白には呼ばれてないみたいよ」
 主人が、
「紅白に呼ばれるスポーツ選手は、相撲とりぐらいやろ。千代の山、若乃花、朝汐、若羽黒、柏戸、大鵬、佐田の山、栃ノ海、北葉山、つい三、四年前に鶴ヶ嶺が出とった」
 菅野が、
「長嶋や王には声がかかってませんけど、かなり以前に金田、秋山、七、八年前に山内、中西が呼ばれてますよ。おととしは西本監督。四、五年前にボクシングのファイティング原田が出てます」
「去年、江夏がゲスト席に座っとったな。今年は鶴岡御大らしいで」
「王、長嶋、神無月さんが呼ばれないのは、基準がよくわかりませんね」
「そんなもん、ないんやないか。気に入らん人間は呼ばんのよ」
 ソテツが、
「清水寺の鐘の音を聞きながらおソバ食べて、椿神社に初詣にいってきます」
 素子が、
「うちらは栄生の蕎麦屋さんにいってくるでね。法ちゃんの親戚の竹井って店」
「ぼくは竹井から帰ってきてから、もう一杯もらう。あしたの朝の雑煮とおせちが楽しみだ」
 トモヨさんが、
「今夜も少し食べていいですよ」
「いや、あしたにとっとく」
 カズちゃんが、
「お蕎麦屋さんから帰ってきたら、北村で夜更かししましょう。あしたのお雑煮のお餅はだいじょうぶ?」
 幣原が、
「はい、塙さんのところで搗いたのが切り餅で届きました。松葉会さんのほうにも届けたそうです。塙さんにはあした、おせちのお重を三つほどお返ししておきます」
 トモヨさんがカンナに乳をやりながら、
「直人、お昼寝よ」
「はーい」
 幣原がついていく。主人と菅野が見回りに出る。
 中京テレビ奥さま劇場、昭和三十三年の果しなき欲望。今村昌平の傑作だという前説がある。四人の男と一人の女が穴を掘る話。
 戦時中に軍医だったなんとか中尉が防空壕に埋めた時価六千万円相当のモルヒネ。彼の発案で、従兵三人とモルヒネの詰まったドラム缶を十年後に掘り出して山分けしようと約束したようだ。―この設定がどうも。いつどこで約束したのだ? どうやって売りさばく気だ?
 十年後に集まった従兵は四人に増えている。中尉の従兵だったと主張するどこかの英語塾教師小沢昭一だ。彼以外の三人は顔見知りだとわかるが、こいつは約束の場にいなかったはずだろうと思ったら、裏門で見張りをさせられていたと言い張る。そこへ一人、得体の知れない渡辺美佐子が加わる。彼女は先ごろ死んだ中尉の妹と名乗る。四人の男(殿山泰司、西村晃、加藤武、小沢昭一)と一人の女。紅一点の渡辺美佐子が主役になるのは見えている。 
 防空壕のあたりにはいまや商店街が延びていて、防空壕の真上が肉屋になっていた。彼らは空き店舗を借りて不動産屋を装い、そこから肉屋へ横穴を掘ることに決める。喧々としゃべり合う科白がほとんど聞き取れないのが難。黒澤の映画にもこれが多い。小沢昭一はいい。彼は何に出演してもいい。おばさん面の渡辺美佐子には人が言うほどの色気がないので、悪女ぶりに無理がある。オープニングタイトルで筆頭にくる長門裕之と中原早苗は脇役。観る気が失せた。


         四十二 

「替えよう」
 スターカレンダー、ミヤコ蝶々。替える。メロドラマ海は燃えていた。替える。NHK教育メトロポリタン演奏会、替える。NHK劇場中継、替える。女たちはテレビと厨房をいききして、けっこう楽しくやっている。老眼鏡をかけた女将は居間で、せっせとお年玉袋(ぽち袋)を作っている。止宿している女たちと大晦日出勤の賄いたちにあげるご祝儀だ。三千円ずつ入れている。私はカズちゃんに、
「ちょっと出てくる」
 あてはない。テレビの前にいたくないだけだ。玄関で下駄を履き、やさしい顔をしたジャッキの頭をなで、戸を引いて出る。金原―子宮口が亀頭を舐める独特の反応を思い浮かべる。……長いこと逢っていない。その事実を思い浮かべただけで、彼女の肉体の反応に興味はない。だから勃起の気配がない。
 駅西のガード沿いに歩く。涼しい風が爽快だ。右は新幹線の高架。高架下にいろいろな店が埋まっている。左は河合塾の大ビルディング。何度か浅野と歩いた道、文江さんと夜食を食いに出た道。この五年間変わらない風景。五年前節子が追ってきた則武のガードをくぐり、信号を直進する。名駅一丁目の電停に出る。菅野とのランニングコース。啓明高校を過ぎ、押切北の交差点から花の木へ曲がりこむ。一本道を歩く。商店のない住宅街だが、ポツンと床屋があったりする。ここまで二十分。金原と交わった小寺。なつかしさは感じない。ふた曲がりして金原宅到着。逡巡したが、玄関戸を開ける。
「こんにちは……」
「はーい」
 ぷっくり肥った金原が出てきた。不意に勃起の兆しを感じた。
「あ、神無月くん! きてくれたん」
「だいぶ逢ってなかったからね」
「ありがと。ようきてくれたわ」
「名誉市民賞のときの花束贈呈、ありがとう。うれしかった」
「あの半月ほど前、名古屋市役所のほうから西高にお願いがきて、学校じゅう大騒ぎになったんやて。同窓生を代表して花束を贈るのはだれがええやろって。いろいろ同級生に連絡して立候補式でやってみたんやけど、だれもやろうとせんので、私が名乗りを上げたんよ」
「あのとき、そのうちいくって約束したからね」
「神無月くんが顔を近づけてくるんであせったわ。ほんとに神無月くんは天真爛漫な人やから」
 人はたがいの都合であっけなく離れていく。それを習慣と考えて正当化してはならない。
「……少し肉づきがよくなったね。女らしくなった」
 自嘲気味に微笑み、
「肥っても、その気になる?」
「かえって、なる」
「うれしい! おかあさんとおねえさんは、正月の食糧の買い出しに出かけとる」
「おせちの準備だね。忙しいだろうから、すぐ帰るよ。顔を見たからもういい」
「そう言わんと、上がって。二時間ぐらい帰ってこんから、一回できるよ」
 私はその場で全裸になった。同時に屹立した。
「わァ、やることが相変わらず少年やね!」
 金原は私を連れて自分の部屋にいき、いそいそとベッドのシーツを直した。ベッドの周りは二年前と同じように散らかっていた。ときおり私のものを見ながら、
「ほんとにグロやね。アタマがビクビクしとるが」
 小夜子はパンティ一枚になって横たわった。少し肉のついた下腹はふくよかで、わずかに下着の跡のついた皮膚がつやつやと美しい。金原はそっと下着をベッドの下に脱ぎ捨てて無毛の股を開いた。長くて黒い小陰唇、中指の先ほどもある大きなクリトリス。胸は掌ですっぽり隠し切れるくらい小ぶりで愛らしい。
 おのずと濡れてきた陰部を目で確かめて、挿入する。前触れもなくすぐ入ってこられたので、金原はヒャッと声を上げた。温かい膣に包みこまれる感覚をじっと確かめる。迫ってこない広い空間のままだ。ひさしぶりの交接に驚いたからだろう。少し動く。反応はない。金原のまじめさがよくわかる。上の壁を掻き戻すように数度往復する。やがてわずかに壁が動いたので、大きく往復を始める。
「あああ、これや、これがほしかったんよ」
 すぐにうめき声が高くなり、空間が狭くなる。
「あ、好きやよ、神無月くん、イク、イク、イクイクイク!」
 強く達した。合わせて大きく往復する。金原はひとしきりふるえると、上になり、私と両手を合わせて、深く尻を落とす。
「あああ、気持ちええ! 愛しとる、死ぬほど好き、イク、あ、あ、やばいやばい、イクウウウ!」
 激しく尻を振り立てる。箍のように締まってくる。
「やばいやばい、浮いてまう、あああ、イク、イクイクイク、イックウウ! あ、イクイク、イクウウウ!」
 私は下からときどき奥を突き、素早く引く。
「う、気持ちええ、すごく……ええ、やばい、またイッてまう、ああ、やばい、イッてまう、イクイク……」
 中途にして引き抜き、金原を下にしてクリトリスの始末をつける。
「あかん、気持ちよすぎ! イク、ああ、イクウウウ!」
 アクメに達したとたんにふたたび挿入する。金原は私の尻を引き寄せ、狂ったように陰阜を打ちつけてきた。
「あああ、気持ちええ! あかん、イク、イクイクイク、イックウウウ!」
 自動的に腰を前後させる。
「あ、あかんあかん、イク、イッてまう、イク、イク、イク、イイイックウウウ!」
 深く挿し入れ、子宮口になぶられながら射精を引き寄せる。
「あ、く、くる、神無月くんがくる、きてきて、いっしょにいっしょに、あああ、イイイックウウウ! あああーん、神無月くん、もうあかん! やばい、やばい、あ、イクイクイク、イイックウウ!」
 迫ったので素早く抜いて、腹の上に吐き出した。
「う、うれしい! イグウ! ううう、気持ちエエエ! あかん、ものすごつよイッてまう、おそがいおそがい、イーグウウウ!」
 腹を縮めて心ゆくまで痙攣する。尻が何度も跳ね上がる。私は腹や尻をさすってやった。金原は私の背中をさすっている。ようやく落ち着くと、
「出してくれてよかったんよ。……でも外に出してもらってよかったわ。九十パーセントだいじょうぶな日やけど、世間で言われてるほど確実な安全日ゆうのは、ほんとはないんよ。神無月くんの子やったら、私は地獄に落ちても産むよ。でも、神無月くんを地獄に落とすようなことはしたない。……こんなにつよイクのたいへんやわ。からだがつらくてかなわん。でもうれしい。チャンスがあったら、これからもぜったいしてもらうね」
 金原は腹の上に付着している精液を大事そうにティシュで拭った。それから私のものを念入りに舐めた。
「きょうはわがままさせてもらって、ありがと」
「ぼくのほうこそ」
 二人でシャワーを浴びにいった。
「神無月くんは野球のスーパーマンやけど、女のほうもスーパーマンやね」
「ふつうだと思う。ただ、キザないい言い方をすると、自分の中になんだか求道的精神があるようなんだ。女を幸福にしたい、そのためには女体の生理をしっかり知らなければいけない、というね。だから、出会った女は、好みなら手当たりしだいって感じになる。ただ、気取った女にはぜったい勃たない」
「さばさばしとるね。そういうこと聞くとホッとする。少しでも気に入ってもらえたゆうことやから」
「ぼくは生まれつき引いた人間なんだけど、世間的な道徳観念はゼロでね。ぼくの恋人には道徳的なことを悩むような人間がいないので助かる」
「神無月くんが道徳に縛られとらんゆうことで、心底安心するんよ。人間て、もともと道徳が嫌いやもん。神無月くんが世間を気にするような男やったら、いくら美男子の有名人やからゆって、セックスなんかせん。……もちろんたくさんの女の一人ゆうのは、嫉妬はあるよ。けど、そんなものより、女を喜ばせたいゆう神無月くんの気持ちを尊重することのほうが大切やもん。神無月くんとそういうチャンスがあるときは、不道徳は承知のうえで気持ちいいオマンコせんと。……なんで神無月くんとしたなるんやろ……神無月くんのフェロモンがからだの奥を刺激するんやろな。とにかく神無月くんが自然すぎるから、どんなに後ろめたいことしても、人に隠すほどの秘密に感じられん。でも、しっかり隠さんとあかん。神無月くんに迷惑がかかるで」
 金原はひとりしみじみうなずきながら、
「……神無月くんは不思議な人やね。とっても純で、まじめで、色っぽい。私は相当警戒心が強いし、身持ちもええほうや。それが一目見たとたんにコロリとまいってまったんやから、不思議としか言いようがないわ」
「たしかに金原は身持ちがいいね」
「ほうよ、人は見かけによらんのよ。……神無月くん」
「ん?」
「神無月くんは、もうめちゃくちゃ有名になってまったんやから、いいかげん自重せんとあかんよ。堅いこと言うみたいやけど」
「自重か……。いつも考えてることだな。有名無名と関係なくね」
「……私らみたいなもんと付き合っとったらあかんゆうこと。機嫌取らんでええの。せっかく拡がった世界が狭なるよ。神無月くんは歴史に残る人間なんよ。気ィ使って自滅したらあかん。女のほうも甘えたらあかんけどな……私、甘えすぎとった。神無月くんにおだてられて甘えとった。……神無月くん、八方美人をやめて、形だけでも整えるんよ。野球で人を喜ばせることで精いっぱいやゆうことを忘れんようにな」
「ぼくのこと思って言ってくれてるって痛いほどわかるよ。……でもぼくは、ぼくを愛してくれる人には気を使って生きるつもりなんだ」
「しょうのない男やね。じゃ、気ィ使っても疲れんようにだけはして。疲れて滅入ってまったら痛ましすぎるで」
 金原は自転車を牽いて那古野まで送ってきた。
「金原は、やっぱり大学院に進むの?」
「うん、大学に残って気ままにやりたいで」
「来年、青森高校から一人受けるよ。たぶん文学部」
「まだあの二人とも親しくなっとらんで、一人増えても二人増えても同じやな」
 北村席に帰り着いて四時半。幣原がジャッキを散歩に連れて出るところだった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 幣原の背中を見送り、すぐテレビ仲間に加わった。ことしのスポーツ界(フィルム構成)。私ばかりが映っていた。遠いむかしのことに思える。直人が風呂をせがむので、いっしょに入る。からだを洗う。この子が生まれたのも遠いむかしに思われる。抱いて風呂に入る。
「おとうちゃん」
「ん?」
「だいすき」
「おとうちゃんも直人が大好きだよ」
「おかあちゃんもだいすき」
「おとうちゃんも大好きだ」
「じいじもばあばも」
「ああ、みんな大好きだ。大好きだと楽しいね」
「うん、たのしい」
         †
 夕食になる。ソーセージのトマト煮こみスパゲティ、目玉焼き載せ。直人も一心に食べる。カンナは重湯とプレートのおかず。カンナの入浴にトモヨさんと幣原がついていく。金魚に餌を忘れずに。直人はパズル。一時間だけ夜更かしが許される。
 座敷にベビーベッドを用意し、カンナを遊ばせる。優子と信子が見守る。六時、直人のリクエストでパーマン。六時半、各局ニュースの時間。新聞のテレビ欄をなぞって暮らすめずらしい一日。主人と菅野が長い見回りから帰ってくる。ビールを飲みながらスパゲティ。菅野が、
「ごちそうさまでした。じゃ、私はこれで失礼します。みなさん、よいお年を。二日の朝からきます」
「よいお年を!」
 テーブルにみかんがドッサリ載る。七時CBC、第十一回輝く!日本レコード大賞。初めて観た。帝国劇場からカラー放送。司会高橋圭三と浅丘ルリ子。耳に馴染んだ曲、馴染まない曲が垂れ流される。合間のクレージーキャッツ、ドリフターズ、コント55号がやかましい。直人、カンナ、途中退場。
 森山良子『禁じられた恋』、超駄。いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』、駄。水前寺清子『365歩のマーチ』、超駄。高田恭子『みんな夢の中』、優。千賀かほる『真夜中のギター』、駄。内山田洋とクール・ファイブ『長崎は今日も雨だった』、優。はしだのりひとこシューベルツ『風』、可。ピーター『夜と朝のあいだに』、超駄。加藤登紀子『ひとり寝の子守唄』、超駄。弘田三枝子『人形の家』、超駄。青江三奈『池袋の女』、可。森進一『港町ブルース』、超駄。佐良直美『いいじゃないの幸せならば』、駄。二曲除いてクズ歌ばかりだった。ここでもゲストに金田正一がいて、大賞の作詞者の岩谷時子にトロフィーを贈呈していた。作曲者のいずみたくには大鵬が贈呈していた。残念な気がした。



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