四十六

 カズちゃんは、
「……みんなが才能にあふれてキラキラ輝いているように見えて、とつぜん憂鬱に襲われたのね。キョウちゃん……愛があれば〈人類〉じゃなく〈一人〉に貢献できるわ。ほかに何も要らないのよ。愛のない人が貢献できるのは〈人類〉という抽象的な総体に対してだけ。私たち具体的な一人ひとりに貢献してくれるのは、愛のある人だけよ。たとえばキョウちゃんが物理学者であっても、文学者であっても、芸能人であっても、野球選手であっても、愛がないなら、ただの一人にも貢献できない。そんな人、アタマがあろうと、技芸があろうと、鍛える動機があろうと、私たちには要らない人間よ。そういう人たちに引け目を感じちゃだめよ。〈人類〉に貢献したいなんて、幻の最たるもの。一人の人間はほんの少しの人にしか貢献できないの。その結果が文明的に〈人類〉に貢献することはマレにあるかもしれないけれど。何百回も言うわね。キョウちゃんは生きてるだけで〈一人〉に貢献できる人よ」
 みんなテレビどころでなくなった。キクエが、
「キョウちゃんが自分を不足のある人間だと思ってることには耐えられない。和子さんの言う幻を抱いて世間に打って出た人たちと、自分の価値を比べないでね。比べものにならないんだから」
 文江さんが、
「キョウちゃんの気持ちが萎れたら、ここにいるみんなの気持ちも萎れるんよ。青森の人も東京の人も萎れるんよ。それ犯罪者やが。神さまが犯罪者になったらあかん」
 女将が、
「大した人やねェ、神無月さんは。いろんなことが憂鬱のタネになるんやろう。一生えらそうにできん人やわ。お母さんやお父さんのことで悩み、自分にアタマがないて悩み、女がかわいそうやて悩み、職人さんのバットをけなされたて悩み、お仲間がクビになりそうやて悩み、もうキリがあれせんな。悩んでも結果が変わらないことがほとんどなんで、憂鬱になるのもわかるわ。器の大きい人やから、もっともっとて詰めこんで、満杯になってまって具合が悪くなるんやろう。パンと弾けんだけすごいもんや。好きにすればええ。私らは、神無月さんが好きにしとってくれるから楽しく生きとるんよ。いっしょにごはん食べるのも、お話するのも、テレビ観るのも、がんばって野球しとる姿を見るのも、唄う声を聴くのもぜんぶぜんぶ楽しいんよ。それだけはわかっとってね。何してもええ。パンと弾けんようにだけしてくれればええ」
 気分が解れて涙が湧いてきた。素子が、
「また泣く」
 と言って私の肩を抱いた。
「ええがね。ぜんぶ神無月さんなんやから。二人の子供の親らしのうて、すごくええわ。そうやって生きとって」
 言いながら女将は目を拭った。トモヨさんが、
「お天気のように変えられないこともあれば、今夜のおかずのように変えられることもありますよ。できれば、変えられることで悩んでくださいね。あ、郷くんの好きなベルトクイズ」
 私はティシュで涙を拭き、笑って画面に目をやった。みんなも明るく目をやった。浅丘ルリ子と渡哲也が出演していた。
「正月とはいつからいつまでのことでしょう」
「一月一日から七日」
「残念。三十一日までです」
「年神さまを招き入れる目印は?」
「門松」
「正解」
「門松を飾っておく期間のことを何と言うでしょう」
「松の内」
「正解」
 簡単すぎるという不満が上がる。
「三択問題です。鏡餅を備えるのは何のため? 一、食べ物に困らないように、二、むかしは正月に食べるごちそうだった、三、年神さまの居場所」
「二」
「残念。三です。お迎えした年神さまの依(よ)り代(しろ)、つまり居場所が鏡餅です」
 難しくなった。
「鏡餅の上に橙を載せるのはなぜでしょう」
「家が代々栄えるという縁起物だから」
「大正解!」
 クイズは気持ちを明るくする。
「初日の出を拝む風習は明治時代から盛んになりましたが、それまでは東西南北を拝んでいました。これを何と言うでしょう」
「……」
「時間切れです。四方拝と言いました。では、元日の早朝に汲む水のことを何と言うでしょう」
 若水! と座敷じゅうから声が上がる。
「三択です。年明けに社寺に参拝する行事は初詣。これはもともと家長が神社に籠もる風習でしたが、その時期はいつからいつまででしょう。一、大晦日の朝から元日の夜、二、大晦日の夜から元日の朝、元日の朝から一月三日の夜」
 カズちゃんが、
「三日間も籠もってられないわよね。いちばん短いやつじゃないの?」
 言ったとたん、解答者が、
「二」
「正解。もともとは年籠もりと言い、家長がその年の豊作や家内安全の祈願のため、夜通し氏神神社に籠もる習慣でした」
 クイズがつづく。
「おせち料理を重箱に詰めるようになったのは明治時代からですが、なぜ重箱に詰められるのでしょう」
 女将が、
「めでたさを重ねるゆうことやろう」
 そのまま正解だった。クイズは愉快だが、そろそろ腹に余ってきた。正月に関する知識はいくらでもあるだろうが、これ以上はいらない。ジャッキを連れて直人と庭に出る。カズちゃんもいっしょに出てくる。今年初のボール遊び。
「直人、向こうへボールを投げてごらん。きっとジャッキが追いかけるよ」
 直人がエイと投げると、ジャッキが走っていって飛びつき、咥えて戻る。直人は大喜びし、またエイと投げる。カズちゃんが、
「トモヨさんはすばらしいことを言ったわ。あした雨が降るかどうかとか、世間の人はアタマを使って上昇するのに心を砕いているとか、きょうは性欲がないから女の尻を見ても気分が乗らないとか、なんでこんなに社会に関心なく生まれちゃったんだろうとか……そういう自分では変えられないものに意識を向けて悩んでしまう人は、主体性のない人なのよ。キョウちゃんはちがう。主体性のかたまり。過去とか他人のことで悩むのはごく一過性のもので、一日のほとんどを明るい気持ちで、自分が人に影響を与えることができる範囲のことに努力と時間を注いでる。そのエネルギーは積極的で明るいものだから、影響されて幸福になる人がうんと増えるの。キョウちゃんがハナから気に入らない人とか、自分にはとうていできないことをしてるって感動するような人は、じつは他人のことばかり気にして、他人と肩を並べたり出し抜いたりすることに努力と時間をかけてる人なのよ。そういう人は主体性がないので、周りの目ばかり気にして、被害者意識にまみれてる。だから、人のせいにする態度や、皮肉な態度ばかりとるようになるの。西松の所長がお母さんに影響を与えたように、上昇志向の人間にしか影響を与えられないから、周りを気にしないで明るく生きてるような人を一人も幸せにできないってこと」
「……他人を変えようとするアプローチをしながら生きてるってことだね」
「そう。キョウちゃんはそんなことはいっさいしない。理想的な愚か者。愚か者というのは、良くも悪くもないありのままの人のこと。だから周りの人間にフラストレーションが起こらない。信頼しか湧いてこないのよ。……愛してる人たちからぜったい離れちゃだめよ。毎日少しずつ生き延びてね」
「うん……社会や、政治や、家族も他人だね」
「そのとおりよ。自分が受ける仕打ちも同じもの。変えることはできないわ」
「ありがとう、カズちゃん。きょうもカズちゃんの頭のよさにやられた」
「こらこら、感動しちゃだめ。キョウちゃんが遠ざかっちゃう。私は上昇志向の人間じゃないですからね」
「純粋な感動だよ」
 二人肩を並べて、直人とジャッキの交歓を見守った。
「―いちばん影響を与えることができる対象は、自分自身だね」
「そうよ、だからキョウちゃんは、自分の知識や技術、ふだんの習慣や心がけといったものに意識を集中するの。自分を高めることで、他人に影響を与え、幸福にするの」
 幣原が玄関から直人とジャッキを呼び寄せる。カズちゃんが、
「松坂屋の年末セールにいったとき、弥次喜多道中すごろくを買ってきたわ。数量感覚がまだ鍛えられてないから、少し難しいけど、直人は喜ぶと思う。来年はカルタを買ってあげようかな」
 くだらないテレビを止めて、しばし直人とすごろくに興じる。直人は六までの数をすぐに覚え、ふりだしのお江戸日本橋から上がりの京都三条大橋まで二十個、おのずと頭に入れていく。ゲーム中にキッコが帰り、菅野がやってくる。直人の対抗者が次々と代わっていくが、三回のうち二回は直人が勝つ。なかなかのやり手だ。五十三次を相当はしょっているが、それでも知らない土地名がある。日本橋―藤沢―小田原―三島―吉原―蒲原―興津―岡部―大井川―金谷―掛川―浜松―舞坂―赤坂―桑名―四日市―神戸(かんべ)―相の山―伏見―三条大橋。
 二十個のうち九個もある。直人は訊いてこないが、知りたくなる。特に、同名の場所がある吉原と神戸と赤坂が知りたい。カズちゃんが小声で、
「失敗だったかな。ヤジキタ道中だから仕方ないけど、大井川とか神戸とか、相の山とか伏見とか、宿場名じゃなく土地名もあるわね。早いうちに正確な五十三次のすごろくを買ってこなくちゃ」
 吉原と赤坂は実際の宿場町か。
「これでいいと思うよ。コマも少ないし、ヤジキタは物語だもの。男色とか梅毒とかリアルに書いてあるらしいね。読んだことないけど」
「そうなの? 私も読んだことない。千八百年ころに書かれた十返舎一九の滑稽本よ。原文が難しくて、だれも読まないし、読めないわ」
 十四、五人相手にしたところで、直人が飽きてしまった。二時間もやったので大人はとっくに飽きている。『チータと歌おう! チビッコ大行進』へいってしまった。それにも飽きて、昼寝となった。大人は『東西お笑い大会』。出場メンバーを見てガックリ。はかま満緒、林家三平、前田武彦、横山ノック、鳳啓助、京唄子。座布団を枕に寝転がって睡眠不足の穴埋めをする。四時から電話が鳴る五時半まで熟睡した。法子からの電話のようだった。長話の電話を切ったあと、カズちゃんが、
「働き慣れた店を離れさすのは忍びないので、結局だれも連れてこないって。残務整理が少し長引いてるから、それが終わったあと、十七日の土曜日に名古屋に帰ってくるらしいわ。内田橋の酔族館は十二月の二十日に完成してたって。八月の地鎮祭から五カ月かかったわね。立派なお店でしょうね」
 簡単にまとめた。ローリングストーンズ狂いのミハルの雰囲気を思い出した。顔は浮かばなかった。つれてくる予定だった女の名前も顔も思い出せなかった。つまり法子以外のだれ一人の顔も憶えていないのだ。
 つづけて電話が入り、もうすぐ青空の職人がくるという。これまで鮨を心からうまいと感じことがないので気乗りがしなかったが、起きて歯を磨いた。幣原に断り、ジャッキを連れて玄関を出る。庭を一周させて小便と大便をさせる。大便はスコップで掘った穴に埋めて土をかぶせる。門を出て椿神社までいく。時おりファンが、こんにちは、と声をかけてくる。私を見慣れているからだろう。それ以上の面倒がないので挨拶を返す。狭い境内に入って、存分に土のにおいを嗅がせる。大人しい犬だ。鎖を無理に引っ張るということがない。しゃがんで語りかける。
「おまえは野辺地のジャッキか?」
 首をかしげる。その首を抱く。シロが目に浮かぶ。
「十五年生きろ。ぼくも三十五まで生きる。おまえは百歳。カズちゃんは五十歳だ。それだけ生きれば、みんなじゅうぶんだ」
 根拠のないことを言って涙を浮かべる。ジャッキの目も心なしか潤む。愚か者同士の抱擁。帰りもジャッキは鎖を牽かずに私の足もとをチョコチョコ歩く。こんにちはのファンにまた一人遇う。


         四十七         

 数寄屋門のガレージにライトバンが一台停まっている。横腹に『青空』のプリント。門でジャッキの鎖を解き、幣原のめしが待っている玄関へ走らせる。
 厨房では包丁握った職人四人が、分厚くて大きな俎板を前に大わらわだ。調理は三人。レンジの前を動き回る。中に雑じって賄いたちが皿鉢を準備している。卵焼きのいいにおいがする。レンジのアラ煮は鯛のようだ。キッチンテーブルに大小の空の鮨盥が十枚と言わず重ねられている。覗きこんでいる私に気づき、
「あ、おじゃましてます」
「神無月選手、お帰りなさい」
「美男子だァ!」
「お初にお目にかかります」
 七人が揃ってお辞儀をする。頭領格が、
「食事が終わったら、サインをいただけるでしょうか」
「いいですよ。その代わり、その小さい盥にぼくだけのリクエストのネタを入れてください。ぼくのサインは、ほら、座敷のあそこに坐っている書道のお師匠さんが創ってくれたものです」
 文江さんを指差すと、こちらを向き、ぼんやりと厨房にお辞儀を返す。
「神無月さんのリクエストは?」
「イカ、赤身、赤貝、トリガイ。ワサビ入りでそれぞれ四つずつ。アナゴはたれで、シャコもたれで、四つずつ。ほかに卵焼き二切れ、ガリをたっぷり、あら煮は汁だけ」
「承知しました!」
 エプロンをしたトモヨさんとソテツと幣原が笑っている。二卓並べて待ち構えている座敷にいって、金魚に餌をやる。バケツに水を汲んで、網で糞取りをしようとすると、キクエが、
「フンは頻繁に取らなくていいんですよ。もう一度金魚が食べて消化しますから。それでも最後にカスが溜まるので、それをひと月に一回ぐらい掬えばいいんです」
「そうなの。でもきょうはいちおう取っておこう」
 節子とすごろくをやっていた直人がやってきて、網にあおられて浮き上がるフンの様子を眺める。わざわざ網に入りこもうとする二匹を追い払うのがたいへんだ。せっかく掬ったフンを逃してしまう。文江さんが、
「魚ってお茶目なんやね」
 頭領格が座敷に顔を出し、
「握りの準備にあと十五分ほどかかります。もうしばらくお待ちください。前菜をお持ちしますので、そろそろビールでも始めてくださってけっこうですよ。後片づけはきちんとして帰りますので、お手伝いしていただく必要はありません。出たゴミはここの容器に捨てさせていただきます」
「じゃ、ビールいくで」
 主人の声に、栓を抜いた瓶ビールが賄いたちの手で運びこまれる。みんなに丁寧についでいく。前菜が出る。スルメイカのぬた和え、マグロハム、うまい。やがて最初の大盥が三枚出た。私の前にも小さい盥が一枚用意される。
「ワサビは静岡産の本ワサビです」
 賄いたちもみんな卓につき、めいめい小皿に醤油をさして食いはじめる。菅野が中トロを頬ばり、
「おお、最高ですね! 握りがやさしいし、シャリもいい。酢も砂糖も控え目だ」
 主人が菅野の横顔を見て、そばにいた店員に、
「三人前の折詰も帰りにお願いしますわ」
「わかりました」
 菅野が、
「うちは二人前でいいですよ」
「キッコにも残しといたらんと。帰ってくるの九時過ぎやろう」
「旦那さん、あたしもう帰ってまっせ。あしたまで四時前に帰ります」
 テーブルから主人に手を振る。
「ほやったか。おまえ小さいで目につかんかったわ。じゃ青空さん、折詰は二人前な」
「へい」
 私はゆっくりと好物のトリガイから始める。いける。ガリを齧る。少し辛めで、シャキシャキと新鮮だ。直人は卵焼きを握って、ウルトラセブンの画面の前に坐る。さらに盥が三つと刺身の盛り合わせが出る。主人がシャコをうまそうに食う。
「ガリ、もっとください」
「へーい」
 鯛のあら汁がつづく。私の前には澄まし汁のようなものが置かれる。すするといい味だ。お新香の小皿が点々と並び、大きな茶碗に茶がつがれていく。トモヨさんたちもやってきて、女将といっしょにトロをつまむ。私はアナゴに移る。ときどきくさみの少ないアラ汁をすする。これなら鮨もいいものだと見直す気になる。漁村出身の近記れんがもっぱらイカとタコに精を出している。さすがに舌のいいキクエは赤身専門。カズちゃんは煮エビ煮アワビに手を出す。節子母子は並べられた順番にきちんきちんと食べていく。素子が、
「キョウちゃんの桶はお好みやね。店員さん、うちにも同じものをお願い」
「ほーい、お好みがあったら、ネタがなくならないうちにドンドン注文してください」
 主人夫婦が、
「ヒラメの昆布締め」
「へい。愛知の天然ヒラメです。塩で食べてもおいしいですよ」
 メイ子が、
「コハダください」
「へーい、佐賀のコハダです。米酢と赤酢を混ぜた割酢で締めてます。当日仕入れの当日仕こみです」
 ヒラメが出てくる。ソテツが品出しをする職人に訊く。
「どうしてヒラメって昆布で締めるんですか」
「血と内臓をきれいに掃除して、摂氏二度で何日か寝かせるとヒラメの旨味成分のイノシン酸が増えます。そこを昆布で締めてやると、昆布の旨味成分のグルタミン酸が加わるんです。コリコリした歯応えではなく、ネットリした食感になります」
 夫婦が得意そうに食う。キクエが、
「この赤身は?」
「ニュージーランド産のミナミマグロです。醤油、みりん、酒で漬けたヅケもありますよ」
「それもください」
 木村しずかが、
「ウニって夏のほうがおいしいって聞いてるけど、このウニおいしいわね」
 頭領格が、
「はい、積丹のキタムラサキウニは絶品です。塩水に漬けただけの無添加ウニですから。うちも塩水パックで仕入れた同じものを一年じゅう使ってます。店買いのウニはミョウバンという保存料が入っているので苦くなるんです。塩ウニは形は崩れやすいですが、ほんとにおいしいですよ」
 キッコが、
「タレのツブガイ、柔かくておいしい!」
 千鶴が、
「それなのにコシもある!」
 幣原が、
「直ちゃん、アナゴを食べてごらんなさい。甘くておいしいわよ」
「うん!」
 うまそうにモグモグやる。ガリとアラ汁は苦手のようでトモヨさんに回す。
「お子さんには、車エビと甘エビのおぼろ丼を作りました。シャリの上には卵のおぼろも散らしてあります。どうぞ」
 これも喜んで食う。すぐに眠くなりそうだ。その前にというわけで、トモヨさんのペースが少し速くなった。カズちゃんが笑う。カンナはテーブルに手を突いて立ち、卵焼きをベチャベチャ舐めている。ガラス徳利の冷酒が何本も並ぶ。主人がソテツに、
「沖縄にも鮨はあるんか?」
「ありますよ、馬鹿にしないでください。炙り石垣牛の握り、ゴーヤ巻」
「ゴーヤ! 苦いやろう。食いたないな」
「ぼくも」
「ま、神無月さんまで。あの苦味がいいんです。ほかに塩マグロ」
 菅野が、
「ゲテモノばかりじゃないの」
「赤身、ブリ、イカ、シメサバだってちゃんとあります。カニ握り、カニ味噌軍艦巻」
 女将が、
「白身魚はないの?」
「ヒラメのようなタマンというのがあります。エンガワと梅肉の軍艦は最高です。ほかに白身ではイラブチャー、ヤイトハタ、マーマチ。沖縄で獲れる魚でグルクンというのが有名で、刺身はもちろん、煮魚でも唐揚げでおいしく食べれます」
「ウミブドウもあるんやろ」
「はい、軍艦で食べます。沖縄には青空さんのような江戸前鮨のお店もありますよ。……と言っても、こういう鮨の知識はこちらにきてからつけたんですけど」
 笑いが上がる。ソテツの話にメモをとっていた頭領格も笑った。
「貧乏家庭では、鮨なんか食べれません。これ、ほんとにおいしい!」
 笑いに温かみが増した。頭領格が、
「いずれうちも沖縄に店舗を出す計画があります。江戸前の味を知ってほしいですから」
 直人は甘ダレのシャコに手を出し、これが案外好みらしく、二つペロリと平らげた。それから『ジャンケン・ケンちゃん』を観にいった。
 案の定、八時に近くなって直人のコックリが始まり、トモヨさんが風呂へ連れていく。幣原もすでに眠っているカンナを抱いてついていった。カズちゃんに、
「カンナのおむつ替えって、いつやってるの」
「離れや居間にいって、七、八回は替えてるわ。トモヨさん、幣原さん、ソテツちゃん、イネちゃんたちがね。気づいたらみんなやるわ。私も何回かやった」
 イクラと数の子とサーモンと煮ハマグリの売れがはかどらないおかげで、八時からの肝っ玉かあさんの前に陣取った賄いたちのごちそうになった。十枚以上の盥のほとんどが空になった。残った分は、正月も稼ぎに出ている何人かの女たちの夜食になる。白身魚の練り物の留椀が出た。厨房の職人たちが呼ばれ、座が賑わう。女将が、
「きょうはようやってくれて、ありがとね。正月なのにご苦労さんやったね」
 頭領格が、
「いえいえ、青空には毎週定休日がありますから、盆正月だからと言って特別に休むことはありません。それに北村席さまとは去年からのお約束でしたし、じつは、シーズンオフの神無月選手を見てみたいというデバ亀根性もありましてね。きょうはたっぷり拝見させていただきました」
 別の一人が、
「ご注文される人数の規模もちがいますし、みなさんすごい食べっぷりで、握り甲斐がありました」
 また一人が、
「ここの台所は万全です。広いうえに、食器、調理器具が整っていて大助かりでした」
 頭領格がお辞儀をして色紙を差し出す。ためらわずサインする。〈宴の一夜 昭和四十五年元旦 青空さんへ〉と添える。
「ありがとうございます。店の鴨居に飾らせていただきます」
 コーヒーになる。めいめい畳に散ってすする。ガスストーブの換気をするために縁側の戸が開けられ、紫煙が立つ。涼しい空気が入ってくる。主人がテレビのチャンネルを替える。『巨泉まとめて百万円・プロ野球選手大会』。高田繁、森昌彦、江夏豊、田淵幸一、岡村浩二、梶本隆夫、松原誠……。職人たちが画面に目をやり、
「神無月選手はこういう番組には出ないんですね」
「はい、出ません。命のムダ使いです」
 菅野が、
「神無月さんからチーム合同でないかぎりテレビ出演はすべて断るように言われてます。ドラゴンズの選手も球団方針で、だれ一人テレビには出ません」
「そういうのって、いさぎよいですね。人には分があります。映像で夢を与える人や、歌で夢を与える人、芸ごとや腕前で夢を与える人や、スポーツで夢を与える人……それぞれ本分を尽くすべきですからね」
 カズちゃんが、
「どんな分を持った人も、真心でしか夢を与えられないの。あなたたち職人さんもね。分の境界線を越えると、ウソくさくなる。真心がなさそうに見える。この野球選手たちみたいにね。キョウちゃんも分を越えてコマーシャルに出てるけど、あれはバット職人の久保田さんの会社と、大学時代の友だちが勤めてる会社に義理を果たしただけ。義理と人情でしか動かない人なの」
「ときめきますね」
 主人が、
「こいつら、神無月さんやドラゴンズの選手とちがって、からだも顔も引き締まっとらんもんな。なんかたるんどる」
「ときめきませんね」
「神無月選手は、ガタイは当然すごいですが、前腕の太さがふつうじゃないですね! これじゃバットスイングが見えないはずだ」
「とにかく美しいですよ。典型的な野球選手体型のうえに、映画俳優そこのけの美男子。そんな男がホームランを打ちまくるんですから、痛快この上ないですよ」
「テレビなんか出なくたってちっともかまわない。球場にいて写真を撮られてるだけで、テレビの何十倍もの宣伝効果があります」
 職人の一人が周囲を見回して、
「女のかたたちもまぶしいくらいの美女ばかりで、ちょっと異様な雰囲気ですね」
「門のところで面接して入れとるでな」
 主人が軽口を叩いてみんなを笑わせた。


         四十八

 女将が、
「ちょっと青空さん、延長になっとるよ。そろそろお開きにして腰を上げんかね」
「そうしましょう」
 職人が三人ほど席を立って後片づけにかかった。厨房とライトバンを何往復かする。頭領格が、
「延長料金はけっこうです。楽しい思いをさせていただいたのに、社の方針があって割引できないのが残念です」
「あたりまえやがね。あんたら使われとる社員やもの。また何かの折はお頼みしますよ」
「はい、喜んで駆けつけさせていただきます。今後ともよろしくご贔屓のほどお願いいたします」
「じゃ、こっちきてちょ。お代金払うで。領収書お願いね」
「はい」
 女将が帳場で頭領格に支払いをすませ、玄関土間に集まった七人の職人に主人が心づけを渡した。一家が式台に見送る。
「ごちそうさま」
「とてもおいしかったです」
「またきてね」
「神無月選手、来年からもご活躍お祈りしております」
「ありがとうございます。きょうはごちそうさまでした」
 カズちゃんが、
「ほんとにごちそうさま。いいお仕事だったわよ。今年も神無月選手の応援よろしくね。この人の美しさは球場でひときわ映える美しさだから、なるべく球場にいって応援してくださいね」
「わかりました。じゃ、失礼します」
「お疲れさまでした」
 職人たちが玄関外へ姿を消すと、カズちゃんは両親と居間へいって楽しげに話しはじめた。ソテツやトモヨさんたち賄いは台所に入って細かい片づけをする。残りの者たちは座敷に戻り、テレビのつづき。プロ野球選手クイズ大会は終わり、次の歌番組が始まっている。もういいかげん臨界点だ。文江さんが、
「もう寝ましょうわい。一日テレビは観とれんわ」
 節子が、
「鮨おいしかったわねえ。あんなにお腹いっぱい食べたの生まれて初めて」
 キクエがうなずき、文江さんと節子を風呂に誘う。キッコや素子やメイ子も立ち上がった。木村や近記たち五、六人の女が雀卓についた。北村席にいつものゆるやかな時間が戻ってきた。寿司折を二つ持った菅野が、
「神無月さん、あしたから開始ですね」
「はい、いつもどおり」
「則武に八時にいきます。じゃ、みなさん、お休みなさい」
「お休みなさい」
 菅野は玄関戸を引いて出ていった。千鶴が、
「あしたは百江さんが帰ってくるが。なんかうれしいなァ」
「ふうん、女同士の友情がしっかりでき上がってるんだね。本物の友情は揺るがない」
「神無月さんのオーバーな表現、大好きや」
 家族三人が茶を飲んでいる居間へいく。カズちゃんが私にも茶をついで、
「どう? 少しはくつろいだ気分になった?」
「くつろぎすぎちゃった」
「そのくらいでキョウちゃんはふつうの人のテンションなのよ。一年間このテンションでお願いね」
「うん。……お父さんお母さん、いまさらですが、こういうイベントにふところを痛めないでください」
 女将が、
「またつまらん心配して。いつも耕三さんのポケットマネーですんどるがね。女子供の心配なんか神無月さんに似合わん。いいかげんお金のことを言ったらあかんよ。こっちが気兼ねしてまうがね」
 カズちゃんが、
「おかあさん、教えて安心させてあげなさいよ。キョウちゃんは女じゃないけど、子供なんだから。いくらかかったの」
「十二万円だがね」
「一人五千円くらいね。良心的な値段じゃないの。銀座や渋谷であれだけおいしいものをあんなにたくさん食べたら、軽くその倍よ。出張料も入れてその値段なら、とても安いと思うわ」
「ほんとにそうや。だから気兼ねしてまうんよ」
 主人が、
「水原監督のときよりずっと安かった。びっくりしたで」
「心づけはいくらずつあげたの?」
「三千円」
「職人さんはそっちのほうがうれしいでしょう。どう、キョウちゃん、これで納得した? 心配することなんて何もないのよ」
 主人が、
「神無月さん、いつも心配してもらってほんとにありがたいけど、金のことは何も考えんでええですよ。自分の給料の使い途を考えとればええんです。足らんようになったら、かならず援助しますからね。映画館なんて、すばらしい使い途や」
「よくわかりました。すみません、ごしょごしょ細かいことを言って」
「じゃキョウちゃん、帰りましょう。あしたからランニングよ」
「うん」
 素子が顔を出し、
「私はもう二晩泊まってくわ。千鶴と話をしながら寝たいし、あしたは百江さんを飛行場まで迎えにいきたいから」
「わかった。じゃおとうさんおかあさん、お休みなさい」
「お休み」
 カズちゃんは女たちが風呂から戻ってきてガヤついている座敷を覗き、
「みなさん、あと二日、とことんゆっくりしましょう。お休みなさい」
「お休みなさい」
 文江さんと幣原がジャッキといっしょに門まで送ってきた。文江さんが、
「ええ正月やった。ありがと、和子さん、キョウちゃん。あしたの朝は家に帰って、そろそろお習字の稽古するわ
「そうね、テレビばかり観ていられないわね。あしたは銀座商店街の初売りよ」
「それは若い人にまかせるわ。今夜はええ初夢でも見ましょうわい。あしたは書初めを申しこんどる生徒が四、五人くるで、お題は〈初夢〉にしよう」
 幣原が、
「私はいつも神無月さんの夢しか見ません」
 カズちゃんが、
「みんなそうよ。姫始めは正月二日が習慣だけど、キョウちゃんを巻きこまないようにしましょう。少しずつ、ボチボチね」
「もちろんやがね。大事なキョウちゃんやもの」
 門前で手を振る。今年初めての夜道を歩く。
「少し本でも読んで寝ようかな」
「そうね。私もそうする」
 メイ子が、
「私はお洗濯してから寝ます」
         †
 二日に百江さんが帰ってきて、ふだんのトレーニング生活に戻った。ランニング、筋トレ、素振り。単調な生活が私の単純な脳味噌にピタリと合っている。 
 一月三日の昼下がりに、寸暇を縫うようにして押美さんが北村席を訪れた。大柄で角張ったからだ、凛々しく整った眉、知性と情熱を偲ばせる視線の強さは往時と変わらなかった。彼は私としっかり握手をしてから、中日ドラゴンズ編成部所属の押美ですと一家の前で名乗った。菅野と名刺交換をした。カズちゃんが、
「その節はいろいろお世話になりました」
 と頭を下げた。押美さんも深く辞儀を返した。この人が押美さんかという好奇心に満ちた眼が彼を取り囲んだ。
 押美さんは彼女たちが期待したような肝心の思い出話はほとんどせず、あえてスカウトの職掌の説明ばかりをしながら、自分を引き立たせない慎ましい態度をとっていた。
「これから東北のほうへ回らなければならないので、すぐにおいとまします。年じゅう暇なしです。オフと言っても、高校・大学・社会人の練習の視察、主催者たちのパーティへの出席のスケジュールが詰まってますし、この二カ月は自主トレやキャンプに帯同してドラフト指名選手の視察をしたり、春以降は、秋のドラフトに向けて他球団と入団交渉権をめぐる駆け引きに奔走しなければなりません。有望な選手を見つけ出すために、一年じゅう学校や企業を巡って歩き、ときには海外にもいくこともあります」
 噂に聞くような対人馴れしたスカウト風も吹かさず、意識して私との距離をとっている様子があった。ベタベタした関係はチーム内の私の行動を拘束すると思ったのだろう。深い配慮を感じた。
「神無月さんが大出世してくれたおかげで、私もどうにかスポーツブローカーの身分を脱してプロ野球のスカウトになることができました。ありがとうございました」
「それは押美さんの人格と才能の賜物です。ぼくがこうしていまプロ野球選手でいられるのは、押美さんが要所要所で野球選手としての針路を示し、挫けないように励ましてくれたおかげです。こちらこそありがとうございました」
「……どこまでもでき上がった人ですね、神無月さんは」
「母に対する押美さんの一喝を折に触れて思い出しました。ぼくの背中を押しつづけたのはあの一喝です」
「あの場面ではだれもが怒鳴りたかったでしょう。西松の社員のかたがたの無念そうな顔が忘れられません」
 カズちゃんがまぶたを押さえた。主人が、
「押美さんは東北地区担当ですか」
「は、今月は。最終的に関西地区担当になると思います。ではそろそろ」
 押美さんは二杯目のコーヒーを飲み干し、一家のみんなに丁寧に辞儀をすると、早々に引き揚げていった。
 夕方、睦子と千佳子とイネが帰ってきた。青森土産をドッサリ抱えていた。彼女たちは一家の人びととごく自然に抱擁し合った。夕食のテーブルは彼女たちのふるさと話で賑わった。イネの下北訛りがなつかしかった。青森高校の話も出て教師たちの消息も大まかに知れた。石崎先生は今春転任したという話だった。古山と仲のよかった佐久間が北海道大学へいったということ以外、同級生たちの消息は知れなかった。特に女生徒たちの消息はまったく知れなかった。また竜飛旅行の話が出た。文江さんが、
「キョウちゃんがこちらに転校する前の話やね。幸せに暮らしとってよかった」
 と言うと、
「私もホッとした」
 と節子が言った。カズちゃんが、
「キョウちゃんはいつも明るい人なのよ。どれほど救われたかわからない」
 キクエが、
「もう、何百人もの人を救ってるでしょうね。救って、人生もすばらしいものに変えてあげるんだから、最強」
 それからしばらく歓談して、文江さん親子とキクエは菅野に送られて帰っていった。トモヨさん母子三人が離れへ退いた。後片づけの合間に座敷にきたソテツに手を握って求められ、彼女の部屋で姫始めをした。五分とかからなかったが、北村席の厨房のヌシと年の始めに交わることに象徴的なものを感じた。―ここに根を生やした。その思いだけが強く、性的な歓びはなかった。そのことにも神聖な気分が伴った。座敷に戻り、一家の人たちとグラスを重ねた。少し酔ったので、そのまま北村席の客部屋に泊まった。



(次へ)