五十二
「……いつかお話しようと思ってたんですが、神無月さんは〈四番マッコビー〉の印象がよほど強いので、そう憶えてるんでしょう。じつはマッコビーは二本なんです」
「え!」
「五打数三安打二ホームラン、短打一本はライト前のヒット。彼の打球はほとんど猛烈なラインドライブで長距離になるので、パワードライブと呼ばれてます。一回に巨人の伊藤芳明からスリーラン、六回に中日の大矢根からツーラン。神無月さんの記憶のとおり、二本とも一直線の場外ホームランです」
「……そうですか。ホームランがパカスカ出たので、ほとんど彼が打ったと記憶してたんですね」
「そうでしょう。六番を打ってた右バッターのアルーが二本、あとの一本はだれか忘れましたが、ピンチヒッターが打ってましたね」
「日本の二点は森徹ですか?」
「野村です。ツーアウト一、二塁から、サードのダベンポートのエラーで満塁になったところへ野村がレフト前ヒットを打ちました」
「ピッチャーはマリシャルだったでしょう?」
「いえ。彼は一年目の新人で、評判の高かった選手ですが、それほど起用されませんでした。その日投げてたのはサンフォードです」
何もかも記憶の外だ。結局、自力で思い出せたのは、マッコビーが二本の場外ホームランを打ったということだけだった。
「ぼくは、マッコビーの二打席を試合全体の印象として記憶してたんですね」
「それはそうですよ。一回どしょっぱなの場外スリーランはショックです。六回の場外ツーランがダメ押しのショックになったでしょう。マッコビーはその後どんどん偉大な選手になっていったんですが、十年後の神無月さんの華々しい開花と照らし合わせて考えると、運命的な出会いだったと言えますね」
主人が日米野球ハンドブックという小冊子を取り出して、
「昭和三十五年の記録が載ってます。初戦巨人戦一試合、全日本戦十五試合、ぜんぶで十六試合戦って、日本の四勝十一敗一分け。長嶋は最初の三試合しか出場してません。後楽園だけ。五打席立ってノーヒット。二戦と三戦は代打です。第六、七戦の後楽園には姿を現しませんでした。長嶋以外の巨人軍の選手や、ほかのチームの有力どころは小刻みにほぼ全試合出場してます。長嶋だけ出ていない。いつもの謎の欠場です」
長嶋の話になった。北村席に訪れて以来の反感が胸の底にある。菅野が、
「打撃不調だったわけじゃないんです。たしか三十五年の長嶋は、首位打者を獲ってますよ。大洋の優勝で日本シリーズがなかったし、休養はじゅうぶんだったはずです。シリーズを戦ったばかりの大洋と毎日の選手が出ずっぱりだったのにね」
私は、
「純粋に大リーグのパワーを見たくなかっただけだと思います。とんでもないものに刺激を受ける体質じゃないんですよ。それを避けたくなるという……」
「おっしゃるとおりでしょうね。昭和三十年代最大の国民的英雄にしては少し小さい感じがします」
「国民的という言葉にはミーハー的要素が混じりますから、その要素のない英雄は永遠に国民的と言われません。金田正一、中西太、稲尾和久、江藤慎一、王貞治、尾崎行雄、権藤博、江夏豊……数え上げればきりがない。こういうまぎれもない英雄たちに共通しているのは、わが身をいとおしまない玉砕精神です。長嶋は野球の天才ですがミーハーですから自分自身の見映えを大切にします。際立ってすぐれた他者にはあこがれない。そんなことしたら玉砕してしまうからです。彼の尊敬する人間は川上哲治だということですが、川上の時代には大下弘も小鶴誠もいたはずです。しかし突出した人間は遠ざける。川上は無難です。だから長嶋はたぶん川上を尊敬していないんじゃないかな。〈打撃の神さま〉を尊敬する世情に倣っただけだと思います。世に倣うのは、自分の立ち位置を気にし、わが身を大切にするからです。彼はだれも尊敬していないし、だれにもあこがれていない。彼は芸能人です。野球のじょうずな、格好のいい、愛嬌のある芸能人。当然多くの国民に愛されるでしょう」
いちばんきついことを言っている。長年敬愛してきた人物だっただけに、幻滅の度合いが激しかったからだろう。主人が、
「王さんもあの修錬を考えると玉砕肌だとわかるんやが、大勢(たいせい)には逆らえんタチのようやな。二十五日の訪問を土壇場で断ってきたやろう。その後、何の連絡もしてこんし、年賀状すらこんかったでにゃあ? 少し長嶋に似たところがあるで」
私は、
「それは否定しませんが、器の大きさでははるかに王さんのほうが上です。人間的にもぼくの好みだし、いつかおたがいにいききできる間柄になれると思います」
菅野が、
「別にいききしたくないでしょう?」
「はい。ドラゴンズのメンバー以外は」
三人で大笑いする。
直人母子が帰ってきた。裸になってウルトラマンのミニ人形をたっぷり抱えた直人を風呂に連れていく。直人は人形をドサッと湯船に投げこむ。柔かいプラスチックの人形だ。よくわからない心理だが、つまんで昆虫のような面相を見つめながら、直人のかたことの説明を聞いてやる。聞き取れない。それでもうなずく。からだを洗ってやる。彼のほうが人形のようだ。
主人たちが早ばやと夕方の見回りに出た。寝転んで新聞の映画欄を見ると、駅前の名古屋グランド劇場で『泳ぐひと』という洋画をやっている。三、四カ月遅れのリバイバル上映のようだ。バート・ランカスターは好きな俳優だし、何より題名に惹かれた。豊田ビル二階か。まだいったことがない。二階席もある大きな映画館らしい。
一家の集まるテーブルで夕食を手早くすませ、トモヨさん母子三人が離れに退がってから、ブレザーを着る。連れを募ったがだれもいなかったので、のんびりした気分で出かける。
二階席で観る。オープニングの音楽がこの上なく美しい。
奇妙な映画だ。徹底した不条理劇だが、胸を打つ。
夏の終わり、一人の海水パンツ姿の中年男(バート・ランカスター)が林の中から高級住宅地に現れて、友人や知人のプールを順繰りに泳ぎ渡って自宅へ帰ろうと計画を立てる。愛する妻ルシンダを目指す道ゆきなので、ルシンダリバーと名づけた。そもそも、この発端の意味がわからない。
行路をさえぎる垣根を越えては、さまざまな邸宅のサファイア色の水に飛び込んでいく。プールの持ち主たちの態度から、男はかつてかなり地位のあった裕福な人間だとわかるが、彼らが与えるのは上べだけの好意か、反撥と軽蔑をにおわせる応対だ。男が裕福で身分が高かったのは、遠いむかしの話だったようだ。では、林から現れる前、男はいままでどこにいたのか? わからない。精神病院だろうと当たりをつける。どうも破産したらしいということが、彼の腰巾着だったとおぼしき人びとや愛人の豹変ぶりから嗅ぎ取れる。境遇の激変に耐え切れず、精神に破綻をきたし、その種の公的な施設に拘禁され、そこを脱走してきた……。水泳パンツ一つで!
いく先々のプールで冷遇されながらも、ようやく、予定していた最後のプールにたどり着いた。市民プールだった。ここでも徹底して嘲笑されながら、芋を洗うような人混みの中を泳ぎ切る。罵りの声を背に受けつつ崖をよじ登り、ついにわが家の庭に立った。荒れ果てている。ひどい寒さに襲われる。風が吹きつのり、激しく雨が降りはじめた。錆びついたノッカーで扉を叩いても、だれも出てこない。割れた窓ガラスの隙間から覗きこむと、人けのない薄暗い部屋に置き捨てられた調度や空箱が見える。もぬけの殻。見上げると、雨樋が外れている。どうしたことだろう。男は扉に凭れ、慟哭しながらノッカーを叩きつづける。
むかし彼の家のベビーシッターをしていた少女が、男に飢えた妖しい女に変身していたり、とつぜんヌーディストの爺さん婆さんが出てきたり、自分のものだったワゴンがどう回り回ったものか知り合いのプールサイドで使われていたり、急に馬が現れたり……。こんな難解な象徴にあふれた映画は趣味ではなかったが、一時間半、止みがたく惹きつけられた。
一つだけ読み解けたと思える象徴があった。孤独な少年が水のないプールをさびしそうに見下ろしている場面から閃いた。水というのは羊水の象徴だろう。リアスの壁から栄養を供給されながら生きるモラトリアム生活。隠れ蓑の羊水は、現実に向き合えないがゆえの避難所と考えられる。避難所を追い出されてたどり着いた現実の場所は、雨降りしきる無人家の戸口。いや、人生は理屈合わせのパズルではない。
それにしても、オープニングロールの音楽と林の木漏れ日は美しかった。私の中でこの映画は傑作と決まった。満ち足りた気分で帰る。
則武の居間でカズちゃんたちがテレビを前に歓談していた。ブレザーをジャージに着替える。
「ファンに囲まれなかった?」
「うん、すぐ暗闇に入ったから。不条理なのに名作と感じる映画だったよ」
「暇なときに観ておくわね」
火曜映画劇場が終わって、鬼平犯科帳が始まるところだった。
「不動産屋さんの手を煩わさないで百江さんちの借家人が決まったわ。アイリスのウェイトレスさん二人が共同で借りることになったの。家賃二万円だから、いい具合に折半できるでしょう?」
「へえ、よかったね」
百江が真ん中のソファにチョンと座っている。私を見上げ、
「お嬢さんがお給料から一万円ずつ徴集して、私に渡してくれることになりました。お風呂入ってますからどうぞ」
「ありがとう」
メイ子が、
「睦子さんたちは二十六日から来月の八日まで学期試験だそうで、しばらく部屋籠りがつづくそうです」
「あの二人ほんとによく勉強するわ。感心」
鬼平が始まったので私は風呂へいった。
二都物語の雑読。中巻の半ばあたりまで。地の文の説明はきわめて難解。圓生の蛙茶番を聴きながら寝る。地口に注意すればこれも難解。この世はわからないことだらけだ。
†
一月二十一日水曜日。七時半起床。晴。マイナス零・九度。ルーティーン。ジムトレをせずに朝食。キュウリの千切りと天カスを載せた冷奴、セロリの和風漬け、昨夜のうちに仕こんでおいたケンチン汁。どんぶり一杯のめし。
百江は十二時から四時までの中番なので蒲団干し当番。カズちゃんとメイ子がいっしょに出勤する。菅野と太閤通に出て大鳥居往復。
「何か球界の話題はありますか」
「一月は野球界に何も起こりません。五日にアトムズがヤクルトアトムズに名義変更、六日に荒川尭が暴漢に襲われ、七日に広岡が広島のコーチになり、十一日に阪神が近鉄から鎌田実を獲りました。そのくらいです」
「鎌田って?」
「阪神に十年いて、近鉄に三年、それが古巣に戻ってきたんです。今年三十一歳。鎌田、吉田、三宅で鉄壁の内野陣と言われました。ファースト遠井の打球もほとんど鎌田が取ってやってたんです。バックトスとジャンピングスローで有名です」
「バックトスは高木さんのオハコじゃないの?」
「鎌田のほうがずっと先です。近鉄時代は三原監督に封印されてました。高木さんも北村の宴会で言ってましたが、今年水原監督に叱られたそうです。一回だけミスしたことがあったときで、こら、ミスするならやるなって。じゃあミスしなけりゃいいんだって開き直って、ますますやったそうです」
「高木さんらしいや。でもミスしたのは一度も見たことがないなあ。微妙なところだったんでしょうね。それを見抜く水原監督の眼力もすごい」
「鎌田は顔のあたりを平気でひっぱたく悪球打ちで、好球を打ちミスすることが多いから、打数がものすごく多くて打率が低いんです。ホームランも毎年二本か三本。阪神入団から十三年で、二十本ぐらいしか打ってません」
「三十一ならこれからも守備でますます貢献するでしょう」
「今年は相当出てきますよ」
牧野公園で菅野と別れる。則武に帰り着いてシャワー。百江を呼んでいっしょに湯船に入り、一交。前になり、後ろになり、時間をかけ、最後に彼女が縁に尻を落として開脚した股間に安心して吐き出す。百江も安心して途切れず声を上げる。前向きにつながったまま抱き合う。私がソッと抜くと、百江はもう一度ゾッとからだをふるわせる。そのまま胸に抱き寄せ、湯に浸かって乳房を握り締める。
「ごちそうさまでした。ありがとうございました」
「息子さん元気だった?」
「はい、付き合ってる人がいるようで、今年じゅうに会わせると言ってくれました。これでほんとうに心置きなく子離れができました。私も神無月さんのお世話が毎日できてとても幸せよって教えて、親離れさせてあげました」
「おたがいの幸せを確かめることで、一人前の人間同士として距離を置くことができるわけだね」
「はい。……じゃ、私は上がります。お蒲団は干したので、洗濯ものを干して十一時に出かけます」
「ぼくは湯を抜いて、ザッと洗ってから出るよ」
「すみません、お願いします」
五十三
ひさしぶりに音楽部屋にいき、レコードを聴く。一枝の送ってくれたクラシックを一枚ターンテーブルに載せる。スメタナ連作交響詩―我が祖国。およそ九十年前の楽曲。LPの表と裏、第一曲ヴィシェフラドから一時間十五分すべて聴くことにする。
十四分で第二曲へ。モルダウ。繊細な音の連なり。瀬と渕。水の流量。うねり。クラシックの精髄。ザ・ビーチ・ボーイズやビリー・ホリデイにも劣らない。十二分間、一枝のホクロ顔を思い浮かべながら聴く。第三曲へ。シャールカ。百江が玄関の戸を開けて閉める音がした。第三曲の半ばからウトッときた。これはならじと起き上がって机に向かう。二都物語で頭と心を整えてから、真昼まで牛巻坂を一枚だけ進める。庭へ出て素振り百二十本。三種の神器。ジムトレ。バーベルと倒立腕立てなし。北村席へ出かけていく。ポークソテーとどんぶりめしを食う。
「来月からいよいよシネマ・ホームタウンの工事にかかるんやが、地鎮祭はどうしますか。やるなら豊國神社から神職さんを呼びますが」
主人が尋く。
「お父さんのお考えは?」
「施主の気持ちしだいなんやが、ウワモノが無事に建つように祈願する行事やから、やることで安心感は得られるでしょうな」
「みんなで安心しましょう」
主人はニッコリ笑い、
「そうですか。うちはこれまで建てた家はぜんぶ豊國さんにやってもらっとります。地鎮祭は大安、先勝、友引の日の丑の刻、十一時から十三時のあいだにやるのが望ましいとされとりますので、その日程に合わせましょう。おトク、暦見て」
「今週はあわただしすぎるで、来週やな。ええと、二十五日の日曜が大安、二十七日の火曜が先勝、二十八日の水曜が友引。三十一日も大安やけど、神無月さんがキャンプにいく日やからあかんわ」
「二十五日やな。四日もあれば、神主さんと建築会社のスケジュールも合わせられるやろ」
「建築会社って、宗近工務店じゃないんですか」
「宗近棟梁の会社は映画館みたいな大物は建てんのです。名古屋の大手の生川(なるかわ)建設さんがやることになっとります。熱田区の千代田町にある株式会社です」
「ぼくも出席したほうがいいですよね」
「施主やからね。神主がうなっとるあいだ、ただ立っとればええですよ。三十分くらいのもんですから。準備や後片づけは建築会社がやります。地鎮祭に出てくるのは、神主、設計者、建設労務者を仕切る棟梁、現場監督といったところです。日曜やから和子たちも出たがるんやないか」
「みんなくるで、ゾロッと。直人までな。でも、地鎮祭はテントの中でやるで、関係者以外はあかんことになっとるから、こさせんようにせんと」
「さっそく豊國さんのほうに連絡しとくわ。神職さんは建築会社とつながっとるで、おたがいに連絡とり合うやろ」
「費用は?」
「安いもんや。神主に初穂(はつほ)料三万円、車代五千円、供え物代一万円、出席者への祝儀五千円。これは受け取らんのがしきたりやな。ほかに、隣近所七、八軒の挨拶回りで渡す手土産は、二、三千円くらいの菓子と、添えタオルでええやろ。工事が始まると、騒音や工事車両の移動で迷惑をかけるでな。まあ、ぜんぶで十万といったところやな」
「最後にお神酒(みき)を飲んで、お供え物を食べるんよ」
「どういうものですか」
「施主がぜんぶ用意するんやが、米一合、清酒一升か二升、鰹節、スルメ、昆布、野菜三種類、果物三種類。こういうのはその場では食べれんから、酒のつまみを買っとかんとあかん。供え物は工事頭やその配下たちが持ち帰ってくれるやろう」
主人が、
「用意すると言えば、お神酒をつぐ茶碗も要るな」
「あたりまえやが」
「背広を着るんですか」
「普段着でええよ。ジャージはやめといたほうがええ。テントに入る前に手水桶から掬った水で両手を洗うことと、鍬(くわ)入れのとき、エイエイエイと三回言いながら盛り土を崩すように鍬を入れるのを忘れんでな」
「エイエイエイですね。近所回りは?」
「地鎮祭が終わったらすぐ工事関係者がやるでええ」
†
二十五日日曜日。大仰で退屈な地鎮祭に耐える。主人が式進行役の司会をしていたので安心だった。鍬入れのエイエイエイもなんとかうまくやった。儀式の終わりに、施主からひとことお願いします、と言われてうろたえたが、
「私にとって北村席のあるこの地は真のふるさとです。そのふるさとに、むかしなつかしい映画を上映する映画館を建てたいと思い、案を口にしたところトントン拍子に建設の話が進み、きょうの地鎮祭にまで漕ぎつけることができました。こうしてつつがなく会式も終わり、安堵しております。工事一式を引き受けてくださった生川建設さま、および作業に携わってくださるタクミのみなさまがたに心から感謝し、工事の安全と映画館の無事完成を祈りまして、以上挨拶の言葉とさせていただきます。本日はまことにありがとうございました」
としゃべって乗り切った。お神酒を一口飲み合って解散した。テントの外に一家の人びとがたむろして待っていた。数寄屋門まで歩きながら、カズちゃんに、
「東京に二日ほどいってくるよ」
「〈義理〉を果たしてくるのね」
「うん。上板橋、吉祥寺(なぜか川崎と言えなかった)。向こうに連絡しといて」
「オーケー」
賑やかに地鎮祭の話をしている座敷に声をかける。
「吉祥寺の家の本やレコードを整理してきます。必要なものはこちらに送るよう手配します。二日したら帰ります」
「いってらっしゃい!」
みんなで応える。駆け寄ってきた直人の頬にキスをする。カズちゃんに言われてオーバーを着て出た。
名古屋駅の売店で〈一九七○年 ドラゴンズ イヤーブック〉を入手。表紙は私の打撃写真、見開きは江藤と木俣のポーズ写真。いつ彼らはこんな写真を撮ったのだろう。次ページは、レギュラー一人ひとりの小ぶりな写真と、入団以来の成績と、長めの紹介文。次ページはベンチ入り選手のさらに小ぶりな写真と二行程度の紹介文。つづくページにドラゴンズや他チームのメンバー表。新幹線でペラペラやりながら、キャンプまで秒読み段階に入ったことを実感する。
その夜から上板橋と吉祥寺を一泊ずつして回り、きちんと〈義理〉を果たしていく。御殿山にいく前にアヤのところにも忘れずに寄る。川崎のネネには連絡しなかった。シーズン中にいくらでも逢えると思ったからだ。
上板橋に向かう途中、池袋の駅通路の売店で、スポニチプロ野球手帳(定価三十円)を手に入れた。小バッグにしまう。
†
サッちゃんは、ふくよかで愛らしい石原母子と馴染み、勉学に家事に子育てに、何の過不足もない生活をしているようだった。愛嬌のある顔をした石原ユキネは相変わらず水準以上に肥っていた。美しさではサッちゃんの足もとにも及ばなかった。
「大学の春休みに、ユキネちゃんとサトシと三人で万博にいってくるつもりなの。三泊ぐらいしようかな」
ね、サトシ、と呼びかけながら抱き上げる。まさにかわいい孫をかわいがるお祖母ちゃんの相好だ。サトシは直人ぐらいに成長していた。私にはなついた様子を見せなかったけれども、それがかえって直人への愛を深くした。
「直人ちゃんもかわいくなったでしょう」
「ああ、かわいいね」
「オフは忙しい?」
「あれやこれやかな。講演したり、後援会に出たり、人に会ったり。一日ゴロリというわけにはいかない」
「そんな中をよくきてくれたわ」
サッちゃんは家事や子育てに関心がいく分、性欲もすっかり褪せたようで、終始やさしい母親のような目で私を見ていた。それでも、いっしょに風呂に入って肌を寄せ合ったり、寝床で愛撫をし合ったりしているうちに、ようやく欲望が燃え上がってきたようで、これまでどおり狂おしく求めた。そうなると肉体の反応は往時のままで、家じゅうに響きわたるような高い声を上げて悶え狂った。
丁寧な交合のせいでほとんど意識をなくしたサッちゃんは、もう寝物語さえできなかった。彼女が寝入ったあと、プロ野球手帳をペラペラやった。
読売ジャイアンツ、川上監督の目算―弱いと指摘された投手陣も、倉田、山内、松原に新人小坂と小笠原が伸びてきたので、高橋一三、堀内を軸にじゅうぶんいけそうだ。打線では柴田が心機一転して新打法を身につけたのが心強い。強敵中日ドラゴンズを前にして優勝は至難のことにはちがいないが、モットーの極限への挑戦を胸にぜひとも実現させたい。
浜野の名前は挙がっていなかった。二軍暮らしが決定したようだ。
新戦力―小坂、阿野と早大バッテリーが揃って入団したのはめずらしい。小坂は四十三年秋に八勝して優勝の立役者になった。大学での通算は二十二勝、高松商時代には二度甲子園にも出場している。神宮で二勝を残し早稲田を中退して入団した速球派の小笠原とともに期待される逸材だ。阿野は同じ四十三年秋に、四割四厘で首位打者となった。本塁打は通算八本。大竹は高校三年間で三十ホーマーの記録を誇っている。
ほとんど知らない名前だった。二ページ目。TBSエキサイトナイターの大活字の横に巨人の戦力表。去年とほとんど変わらない。中に、新人の小坂敏彦、小笠原照芳、松尾輝義、阿野鉱二、所憲佐、大竹憲治、河埜和正、荻原康弘の名前がある。小笠原の背番号は45だった。
翌日の午前、うまい朝食とコーヒーを振舞われた。
「ごちそうさま。じゃ、これから吉祥寺に回るから」
「菊田さんと福田さんによろしくね。私も勉強がんばってるって伝えて」
「うん」
「また気が向いたら寄ってね」
「そうする」
上板橋の改札でサッちゃんはユキネ母子といっしょに手を振った。今回の彼女の豹変ぶりには目を瞠ったが、重い肩の荷が一つ下りたような気がした。
月曜日の午前の東上線は座れる程度にすいていた。ときどき目引きされるのには慣れているので気にならない。窓外の景色を眺めながら退屈をつぶす。池袋のホームの雑踏を縫って、山手線で馬場に出る。東西線に乗り換える。チラと詩織のことがよぎったが、振り払った。
吉祥寺で降り、御殿山にいく前にアヤに電話して、夕方までいると伝える。セドラのドアを開けて出てきたアヤは狂喜して二階へいざなった。すぐには肉体を求めず、私にスクラップブックを預け、ゆっくり歯を磨き、髪を直し、シャレたスラックスを穿き、パフをはたいた。
「いせやにいきましょ。まず腹ごしらえよ」
と笑う。目が大きい。
ひさしぶりに公園口通りを歩く。相変わらずゴミゴミしている。煙をもうもうと立てているいせやに入り、人目につかない二階の店内席に座る。アヤはビールを一本注文し、つまみをあれこれ注文する。
「一年間ご苦労さまでした。最後まで大活躍だったわね。三冠王おめでとうございます」
「ありがとう」
乾杯。ミックス焼鳥、自家製シューマイ。
「長い一年だった」
「私も。でも楽しかった。いつもテレビで逢えたから」
「これからも年に何度かこれるよ」
「無理な約束はしないで。いつでも待ってるから」
手作り餃子、鶏の唐揚げ、豚の生姜焼き。
「神無月さんのおかげで商売繁盛。神無月はいつ顔出すんだってうるさいの。フラッとしかこないから、何年でも待ちなさいってかわしてる」
「酒が強ければ、吉祥寺にくるたびに寄ってもいいんだけど、勧められた酒は悪酔いするからね」
「そうよ、お店にはこなくていいわよ。客の話に合わせるだけで疲れちゃう。……スクラップブックを作りながら、かなり野球を覚えたわ。ルールの細かいところは理解できないけど、断トツで世界一美しいスポーツだってわかった。それを壊すような動きをする選手は例外なく二流だということも」
「どんなスポーツも、一流選手は美しい。そこだけを観るしかないね。あとは観なくていい。ただの専門家になっちゃう。専門家が醜さの後押しをするんだ」
「名言ね」
たがいにビールを飲み干す。
「食べ物はこれくらいにしときましょ。御殿山の夕飯が食べられなくなるわ。さ、小腹ができたところで、帰りましょうか。そろそろ……」
「うん、そろそろ……濡れてきた?」
「やだ」
二、三組の客が遠くにいる空間を見回す。
五十四
セドラに戻り、一階の廊下奥の風呂に入る。私のものを見下ろし、
「最初に遇ったときとおんなじ。繁みから頭だけ突き出してる不思議なオチンチン。でもだいぶ太くて黒くなったわ。前よりちょっとグロテスク」
「使いこんでるうちに少し成長したんだね。筋肉と同じだ。背も伸びたし、体重も増えた」
アヤが湯船の縁に腰を下ろして開脚したので、脱毛の効いた陰部を舐める。クレバスの周りだけ形よく毛が生えている。
「ああ、なつかしい感じ」
と言いながらすぐに昇天する。後背位で一交。
「大きい! 怖い! あ、あ、あ、イックウウウ!」
膣の襞から熱い湯を滲み出しながら、子宮を存分にうごめかせて烈しく達する。
「さあ、挨拶が終わったよ」
抜こうとすると、
「だめだめ、神無月さんもちゃんと出して、私、一回じゃいや、もっとたくさんイキたい」
そのとおりにする。アヤの幾度目かのアクメに合わせて私もきちんと吐き出す。
「あああ、うれしい!」
私の律動に合わせて腹を縮め、尻を痙攣させる。右手で胸をつかみ、左腕で収縮する腹を抱き締めてやる。
「愛してる、死ぬほど愛してる」
引き抜くと、門渡からクリトリスに向かって精液がゆっくり流れていく。アヤは立ち上がり、振り向いて抱きつく。
手桶の湯でたがいに性器を清め、湯に浸かる。
「何ごともなかったような顔」
「アヤも」
「何ごとでもないことだからね、きっと」
「愛し合う者にだけ意味のあることだよ。大ごとだと思う」
「そうね、とってもうれしい」
バスタオルでよくからだを拭き、裸のまま二階に上がる。買ったばかりのようなピカピカのステレオの前に肩を並べ、ナットキング・コールを聴く。モナリザ。
「渋いね。やさしく唄いすぎだけど、レイ・チャールズよりはいい。コールが声を張って歌うランブリング・ローズは絶品だ」
「こっそり見せるそういう知識のほうが渋いわよ」
口づけをしているうちに勃起してきて、もう一交。アヤをとことん満足させ、律動するふりをして射精は控えた。一度の行為で彼女の膣が敏感になっていたので、それが可能だった。
「あまり出なかったみたい」
「連続だったからね」
「薄くなっちゃったのね。かわいそう。でも私はもうたっぷりいただきました。ほんとにありがとう」
服をつけ、二人おいしいフィルターコーヒーを飲みながら、アヤのスクラップブックを見る。キャンプからの写真が揃っている。
「こんなに前からスクラップしてたんだね。ありがとう」
「東大時代の秋のころのもあとから雑誌で集めたわ。何ページもないから、別のアルバムに大切にとってあるの」
一枚一枚の写真を眺めながら一年間を振り返る。アヤはページを繰りながら、
「いつ見ても輝いてる……。こんな人に出会ったのね。ギター弾いて歌ってたおかげ。もし弾いてなかったらと思うと恐ろしくなる」
「出会う者同士はどうやっても出会う運命なんだよ。今年の一回目の出会いは散歩で終わらせよう」
「賛成。でも人目があるわ」
「このあたりはトルコ街じゃないから、親戚だと思われるぐらいだよ」
肩を並べて北口へ向かい、二十年以上の歴史のあるハーモニカ横丁を三十分近くぶらついてから、駅のコンコースを抜け、南口へ出る。
「エックスカ月後」
「はい、エックスカ月後」
ソッと握手して別れた。
御殿山の玄関戸を開け、明るい声で呼びかけた。
「ただいまあ!」
すでにカズちゃんから私の訪問を知らされていた雅子とトシさんは、嬌声を上げ、喜びを全身に表して抱きついてきた。サッちゃんやアヤに輪をかけた美しさだ。老いを知らない彼女たちの喜びは、すぐ子宮に直結する。スカートを探り、指を這わせるだけで、二人はすぐに反応して下着を脱ぎ、キッチンテーブルに肘を突いて尻を向けた。サッちゃんやアヤとはまったくちがう〈女〉として屈託のない速攻の対応だ。この二人に逢うと私はたちまち勃起する。反応の華やかさを熟知しているからだ。アヤに二度目の射精をしなくてよかったと心から思った。私はズボンとパンツを下ろし、まずトシさんに挿入してすぐに雅子に移り、二人に一度だけアクメを与えてから寝室に直行した。
真昼から昼下がりにかけて、思い出話を挟んで三度交接を繰り返した。三度とも射精をこらえられなかった。一回一回射精するまでの時間は彼女たちの絶妙な反応に呼応して短いものだったので私はまったく疲労しなかったが、勃起を促す興味を途切らせることのない彼女たちのなまめかしい反応と無尽蔵の体力に驚いた。
「相変わらずすごいね、二人は」
トシさんが、
「いやになります?」
「いや、ぜんぜん。あんまりみごとなんで、ぼくも興奮して何度でも勃っちゃう。あと五年はお相手できるよ、たぶん」
雅子が、
「年二、三回の遊園地遊びみたいなものですから、うれしくてうれしくて、思い切り遊んでしまいます」
「もう数え切れないほどイキました。でもまだまだだいじょうぶです。また夜にお願いしますね。年に二、三回ですから」
トシさんはお茶目な顔でそう言って、少し衰えの見える首をさすった。私もお茶目な顔で、がんばります、と返した。
三人でシャワーを浴び、防寒をしっかりして井之頭公園に出かけた。アヤと眺めたのと同じ商店街を眺め、煙の立ちこめるいせやを通り過ぎて石段を降り、池の周囲の冬木立を眺める。茶店でみたらし団子、武蔵野でサントス。習慣の欠けらに幸福を感じる。
「菊田不動産は好調?」
「絶好調。福田さんの勉強も絶好調」
「サッちゃんが、自分も勉強がんばってると伝えてくれって言ってた」
「あの人は勉強が好きなのはあたりまえだけど、ほんとに子供好き。キョウちゃんの子供がほしかったでしょうね」
「法子さんも言ってましたよ。産める状況になったら産みたいって」
反対口のサンロード商店街奥までいって西友に入り、地下一階で食材の買い物をした。雅子が、
「ここはおととしできた百貨店で、午前の十一時から夜十一時まで、年中無休です。化粧品、服、眼鏡、薬、お酒、食品、たいていのものが揃います」
サンロードの人混みを歩く。買物袋を提げたトシさんが、
「キョウちゃんに遇って、一年半経ったのね。あっという間だった」
「私は一年と三カ月。やっぱりあっという間でした。でも、人生の中ではいちばん長い充実した一年でした」
「ほんとね。毎日生きてることを実感できたわ。もちろんいまも」
トシさんは買物袋を式台に置くと、
「ちょっと福田さんとお店の様子を見てきます。二時間ほどで戻ります。待っててね」
「うん。そのあいだに本とレコードを整理したいから」
雅子が、
「今夜はカレーですよ」
「楽しみにしてる」
書斎にいき、二十冊くらい抜き出して廊下に積んだ。音楽部屋へいって、十枚ほどLPを取り出し、これも廊下に積んだ。レコード棚に残した中の一枚を聴いた。沢たまき。雅子が買ったものだろう。ベッドで煙草を吸わないで。アンニュイな曲だ。愛の行為のあとで一仕事終えたみたいにくつろがないで、という意味だろう。別れが示唆されている歌のようだ。
二人は五時ごろ戻ってきた。すぐに台所に入る。雅子に、
「廊下に積んである本とレコード、いつでもいいから則武のほうに送っといて」
「わかりました。あしたじゅうに送ります」
夕食は挽肉野菜カレーだった。上質の挽肉は歯をカチカチ刺激せず、野菜はとろとろに溶けている。
「うまい! 名人!」
「おいしいわね」
「おいしいです。うまくいきました」
二人はお替りした。私はさすがに腹いっぱいになった。食後のコーヒー。
「しばらくぶりに二人のオマメちゃん、見たい。トシさんの花びら、雅子のミルキー飴」
「はい!」
食器を片づけ、二人で下半身だけ裸になり、開脚した股間をテーブルに並べる。見慣れた図だ。無毛の性器と淡い陰毛の性器。クリトリスといっしょに眺めると、みごとな造形物だ。すぐに勃起してくる。私も下半身をさらけ出して二人に示す。
「きれい!」
「立派よ! 一度目のときにも中で気づきましたけど、カリが高くなって、お竿も太くなりましたね」
二人に交互に握らせる。トシさんに握らせながら花びらを覗く。ドンドン濡れてくる。指が私から離れ、
「キョウちゃん、私、もうあかん! うーん、イクウウ!」
花びらが開き、ガクッと痙攣した。花弁から出入りしている真珠にキスをし、今度は雅子に握らせて股間を覗く。とっくに濡れそぼって尻のほうへしたたり落ちている。大きなクリトリスが極限までふくらみ、ハッ、ハッ、と呼吸が荒くなったとたん、
「私もォ!」
と叫んで果てた。中指の先のような真珠を含む。舌の先でうごめいている。二人の性的な反応はまるで手品のようだ。彼女たちの回復を待って寝室へいく。二人合わせた嬌声の中へ一度だけ射精した。
†
トシさんと雅子の寝息が聞こえる。股間に熱を感じたので見下ろすと、亀頭縁が赤く腫れている。この二日間の酷使のせいだ。名古屋に帰ったら二、三日静かにしていよう。二人に挟まれた寝床で、プロ野球手帳のつづきを読む。
中日ドラゴンズ、水原監督の目算―機動力があり、緻密な野球ができるチームへの脱皮を十全なものにすることを目標とする。投手陣は戸板の加入で、打撃陣は谷沢の加入で充実した。戸板はローテーションに入れて、谷沢は江藤の控えとして使っていく方針だ。
新戦力―新人ビッグ3の一人である谷沢は、東京六大学で六季連続三割を打ち、通算三割六分二厘の連盟記録を残している。切れのいい速球派の戸板は昨年スポニチのベストナインに選ばれている。
†
一月二十七日火曜日。八時をかなり過ぎて起床。晴。二・一度。シャワーを浴びながら歯を磨く。股間を見下ろす。腫れが退いて薄いピンク色になっている。安心。キッチンへいくと、トシさんと雅子がせっせと朝食の用意をしている。
「おはよう!」
「おはよう、キョウちゃん」
「おはようございます。よく眠れました?」
「うん、熟睡した。きょうは二人、仕事だよね」
「はい、十一時から」
塩鮭の切り身、目玉焼き、ナスのおひたし、ニンジンと大葉の和え物、ワサビ菜ととろろ昆布の吸い物。梅干の肉が混ざっている。さっぱりしたおかずで二膳のめし。トシさんが、
「何時の新幹線?」
「東京駅十一時三十三分のひかり。名古屋に一時十四分に着く」
「私たち送っていけないけど、だいじょうぶね」
「もちろん」
雅子が、
「きのうは貴重な時間をありがとうございました。今度は遠征のときでしょうけど、うまく時間が空いたらいつでも寄ってくださいね」
「うん。シーズンが始まると少しずつ疲労が蓄積してくるから、エイッて気持ちがないとなかなかホテルを出られない。試合の翌日が空いたときなんかを狙ってくるよ」
「そういう日も、からだが億劫だったらやめてください」
「うん。ありがとう」
十時を回って帰り支度にかかる。トシさんにブレザーを着せられ、小バッグを持つ。玄関土間で一人ずつ別れのキス。吉祥寺駅まで見送られる。名残惜しさが募らせながら改札で手を振る。
ホームに上がって、トシさんの首もとの衰えを思い出す。このまま急速に凋(しぼ)んでいくのだろうか。北村席の女将の首や手はきれいだ。何かいいクリームでも使っているのかもしれない。女将に訊いてもしそうなら、手に入れて送ってやろう。