五十八
草城を読み進める。ミヤコホテルと題する連作を見る。セックスを扱ったセンセーショナルな作品と言われたそうだが、果たして?
けふより妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻(め)と居りぬ
枕辺の春の灯(ともし)は妻(め)が消しぬ
薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻(め)の額(ぬか)に春の曙はやかりき
うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や触れし手は触れしまま
失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり
どれもこれもあたりさわりがない。セックスなどさらさら描けていない。中に一句、目立ったものがあった。
おみなとはかかるものかも春の闇
しかしこれにしても、女体の神秘に舌なめずりしているのみで、その神秘の持ち主への感激がない、慈しみがない、感謝がない。むろん愛がない。つまり〈かかるもの〉が描けていない。たぶん吉井勇の、
君とゆく河原づたひぞおもしろき都ほてるの灯ともし頃を
という歌からヒントを得て書いた連作だろうが、人事の掘り下げが浅く、常識の域を出ていない。モダニズムというのはこんな常識的なものではないだろう。常識は流行を作れても、流行を超える個別を作り出すことはできない。個別の輝きを生み出すためには、啄木のローマ字日記のように、境界スレスレの、あるいはそれを超えた捨て身の冒険をしなければならない。
キッチンにいき、テーブルの上に畳んで置いてあった中日スポーツを見る。三月のオープン戦の日程が載っている。中日ドラゴンズの対戦部分だけを確認する。
三月一日(日)中日球場南海戦
三月三日(火)中日球場広島戦
三月五日(木)静岡草薙球場近鉄戦
三月八日(日)後楽園球場巨人戦
三月十日(火)東京球場ロッテ戦
三月十二日(木)後楽園球場東映戦
三月十四日(土)中日球場ヤクルトアトムズ戦
三月十八日(水)平和台球場西鉄戦
三月二十二日(日)川崎球場大洋戦
三月二十四日(火)甲子園球場阪神戦
三月二十六日(木)中日球場サンフランシスコ・ジャイアンツ戦
三月二十九日(日)西宮球場阪急戦
全十二試合。例年より少ない。試合間隔も移動も、今年のオープン戦はラクにできている。ノートにメモする。
ひと月後に来日を控えたマッコビーのインタビュー記事が載っていた。
「カンナヅキって何者? という思いでいっぱいだ。チームのみんなも彼を観にいくことをいちばんの楽しみにしている。アメリカのいろいろな新聞で何度も特集記事を出しているが、ベーブ・ルースやロジャー・マリスの三倍もホームランを打つ人間がこの世にいるということが信じられない。この目で見て、その存在を確かめて帰国したい」
†
午後の一時を回って、北村席へ出かけていく。
「おとうちゃーん!」
直人がジャッキとボール遊びをしている。駆けてきた直人を抱きかかえて人間風車をする。直人の甲高い歓びの声に混じって、母屋の裏から蒲団を叩く音が聞こえてくる。週日なので優子や信子や三上といったアヤメの早番と遅番の女たちもいて、庭の枯葉を竹の熊手で生垣ぎわへ追いこむように掃いている。三上に、
「集めた葉っぱはどうするの? 生垣に集めても、そのうち風で飛んじゃうだろう」
「草や枯葉はスーパーのビニール袋に、小枝は段ボール箱に詰められるだけ詰めて、ゴミに出します。詰め残しはほっておきます」
主人と菅野が庭石を歩いて数寄屋門に向かう。なぜか女将も混じっている。ボールを直人に投げてやりながら、
「お義父さんお義母さん、きょうは何かあるんですか」
主人は上機嫌に私を振り向きながら、
「駅西の知り合いの弁護士のところにいって、ちょっと話をしてきますわ。遺産分与について教えてもらおう思ってな。まだまだ先のことやろうけど、仕組みやら手続の方法やら知っとかんと、遺産分割協議書ゆうのが作れんらしいで。協議書がないと銀行が分配金を振りこんでくれんのやと」
宇宙語だ。彼らが門の外に消えると、入れ替わるように睦子と千佳子が帰ってくる。直人の捕り損なったボールが彼女たちの足もとに飛んでいく。私は直人とジャッキといっしょに走っていき、千佳子に、
「ローバーは快調?」
「はい、半年点検も異常なしでした」
直人がエイと遠くへボールを放る。ジャッキが駆けていく。睦子が、
「郷さん、もしよければ……」
「わかってる。今月の四日だったから、だいぶあいだが空いたね。二月からひと月できなくなるし、きょうしておこうか」
三人の声は、ジャッキと駆け回っている直人にも、落葉を掻いている女たちにも聞こえない。睦子が、
「お願いします! よかったわね、千佳ちゃん」
「はい、おとといあたりからウズウズしてたんです」
「ごめんね」
「そんな……私たちこそごめんなさい、わがまま言って。きょうはムッちゃんが危ない日なので、私に出してくださいね。二階の部屋や客部屋は思い切り声が出せないから、できればトモヨさんの離れで」
「そうしよう」
直人はボールを放りっぱなしにして、優子たちの掻いている熊手に興味を示し、走っていって箒木を奪った。ぎこちない仕草がかわいらしい。睦子と千佳子と私は、枯葉の袋詰めや箱詰めに参加した。ジャッキもボールを見かぎり、袋からこぼれた葉っぱを銜(くわ)えて走り回る。信子に、
「落ち葉を焚いたらいけないの? 穴を掘って燃やせばいいと思うけど」
「町内会で禁止されてるんですよ。近所迷惑ということと、飛び火のせいで火事の危険があるということで」
落ち葉を詰め終わったビニール袋や段ボール箱を、みんなでガレージの脇の空き地まで運んでいく。直人も袋を引きずる。大きな塵芥箱にビニール袋を放りこみ、段ボール箱はその横に積み上げる。優子が直人に、
「さ、おててを洗いましょう」
空き地に一対の水道が備えられている。優子はその一つで直人の小さな手を洗ってやる。私たちも倣った。ジャッキも蛇口の水をぺろぺろ嘗めた。三上がジャッキを抱き上げ、私は直人を肩車する。直人が空を見上げる。きょうもいい日だ。優子が仲間たちに声をかける。
「お蒲団、取りこみますよ」
ぞろぞろ裏庭へいく。蒲団を濡れ縁に投げるのを見物する。厨房から賄いたちが縁側に出てきて、どんどん蒲団部屋へ運んでいく。二階から下りてきた女たちが自分の蒲団を選び出して自室へ担いで上がる。
座敷に落ち着くと、トモヨさんやソテツやイネが人数分のコーヒーを持ってきた。トモヨさんがカンナを抱いている。直人は千佳子と睦子の両ももに跨るように収まり、二人の顔を見上げながら、パズル、パズルと急かしている。彼を抱き取りにきたトモヨさんに千佳子が赤い顔で耳打ちする。トモヨさんはニッコリうなずき、
「お姉ちゃんたちは試験のお勉強で少しのあいだ忙しいから、じゃましちゃだめよ。パズルは晩ごはんのあとでおかあちゃんとね」
「うん。ぼく、ひとりでパズルする」
直人はパズルのピースを箱から打ちまけてあぐらをかく。私は立ち上がって離れへ向かう。近記や木村たちにポンとやさしく尻を叩かれる。
「気が向いたら私たちもお願いね」
寝室ではなく書斎に蒲団を敷いて、全裸で横たわる。おとといイネと馴染み合った性器が黒々と回復している。睦子の顔を思い浮かべただけで屹立した。睦子と千佳子は二階で普段着に着替えてから離れにきた。黒っぽいスカートが明るい色に変わっている。千佳子に先を譲られた睦子は、私の疲労を気を使って愛撫を求めず、スカートと下着だけ脱いで仰向く。
「もう濡れてますから入れてください」
脚を開き、すぐに交接の姿勢をとった。私はうなずいて挿入し、滑らかに抽送しはじめる。千佳子は全裸になって睦子の横に肩を並べた。睦子は七、八回強く達して千佳子にあとを譲った。千佳子は上になり、遅く、速く、好みのスピードで好きなだけ達すると、最後に素早く陰阜を前後させて私の射精を誘い出した。亀頭の律動に合わせながら、子宮を深く押しつけて上半身を硬く直立させる。そのままぶるぶる痙攣に身をまかせて、やがて腹筋を強直させて高い声を上げると、ドサリと倒れこんできた。乳房が脂汗にまみれている。私はティシュを当てて千佳子から離れ、傍らに横たわっている睦子の脚を開いて、クリトリスのアクメを与えた。快楽の量が千佳子よりも足りないと思ったからだ。
「ありがとう、郷さん。もうすっかり満足です」
千佳子は朦朧として身動きができなかったので、睦子と二人でシャワーを浴びにいった。抱き合って口づけを交わす。
「あんなふうにグロッギーにならないコツがあるんです」
「どんな?」
「最後に奥にグッと入れないようにするんです。郷さんのグングンを子宮に当てないようにして、膣の真ん中へんで受けるの。でも、郷さんに出してもらえる日は、私もああなります」
「そう言えば、カズちゃんもそうしてる」
「でしょ?」
「どんなことも深い知恵があるんだね」
「フフ、気をつけてキャンプにいってきてくださいね。特に、走り出すときと止まるときに注意してください。それから、ウェイトで筋力をつけすぎないように。野球というスポーツに必要なのは、柔らかくてしなやかな筋肉です。ガチガチの鎧のような筋肉は意外と脆くて、瞬間的に筋力の最大値を引き出す俊敏な動きに耐えられずに壊れることが多いんです。郷さんは生まれつき柔らかでしなやかな筋肉に恵まれてます。それを持続するような運動だけで必要十分。ランニング、ジョギング、適当な距離と回数のダッシュ、多すぎない素振り、三種の神器。それをつづけていればオールライトです。倒立腕立てや、ダンベルや、バーベル、一升瓶といったものは、たしかに強い筋肉を作りますけど、野球をするには余計なものです。間隔を置いたジムトレも気分転換にはなるでしょうけど、やっぱり余計です。からだを鞭のようにしならせるためには、余計なところに筋肉をつけてはいけないんです」
「研究したね」
「はい。ベースボールマガジン社から出版されてる『コーチングの科学的原理』という本をこのひと月かけて読みました。アメリカ人のジョン・バンという運動力学者の書いた三百ページ以上の本です。そこでいろいろなスポーツの力学的な分析をしてますが、特に野球の技術の分析という項をじっくり読みこみました」
「すごい能力だね」
「能力じゃありません。努力です。郷さんのことが心配でがんばりました」
「試験勉強もあるのに、ありがとう」
「どういたしまして」
睦子はタオルを絞って、私といっしょに千佳子の様子を見に戻った。千佳子はまだグッタリ仰向いていたが、表情を見ると具合はよさそうだった。睦子は首と胸の汗を拭いてやった。
「だいじょうぶ? 千佳ちゃん、苦しそうだったわよ」
「ありがとう、だいじょうぶ。欲張りすぎちゃった。死ぬかと思ったわ。周りを気にしないでするとこうなるのね。……神無月くんでなければぜったい無理だけど」
「周りじゃなく、自分のからだを気にしないでするとそうなるの。周りなんか最初から気になってないでしょう。シャワー浴びてきたら? 夕ごはん食べて勉強にかかりましょ」
「うん、ちゃんと食べて、ちゃんと勉強しよ」
五十九
玄関土間にいき、久保田さんから届いていたバットを一本取り出し、ツヤと重さと握りの太さを確認してから、中日球場用のバットケースに二本しまう。明石には十本届いている。中日球場のコーチ室に置いてある去年のバットはフリーバッティング用に使うことにしよう。グローブの脂の滲み具合、スパイクの硬さも確認する。
夕食後、睦子たちが去ると、直人が眠くなるまでトモヨさんといっしょに百ピースパズルに付き合った。見物は食事を終えたアヤメの中番組とカズちゃんたち則武組。私はただの拾い役で、つまんだピースを持ってキョロキョロ盤面を探っていると、直人はダメと言って私の指先から奪い取る。仕方なく次に拾ったピースを直人の目の前に差し出すだけの役回りになる。すると彼は、それはここ、それはここ、と小さな手ではめていく。純一な競争心に打たれる。幼いころの私にはこれがなかった。いつも引いた気持ちで、あたりを神経質に見回していた。何ものにも没頭できなかったからだ。野球に打ちこみはじめてからは、まるで視野狭窄のように視点を定めることができるようになったし、野心や大望とは縁のない人並みの競争心も持てるようになった。
カンナがイネに連れていかれた。眠くなった直人もトモヨさんの踵についていった。庭が夜の中に沈んでいる。座敷から洩れる光に照らされた水仙が美しい。二十歳八カ月と二十四日。二人の子の親で、二人の子を愛しいと感じている。彼らの将来のことは何も考えていない。いや正確に言うと、彼らの将来のことに思いは及ばないけれども、自分の将来はこうなるだろうとは感じている。
―彼らと長い年月いっしょに遊び、たぶん楽しく遊び、たぶん彼らのいちばんのお気に入りになり、彼らのまとめ役になって、そしていずれ置き捨てられる。
私は彼らの感覚からすればへんなやつで、かなり面倒なやつだろう。彼らは成長して大人になり、自分のその感覚をまちがいないと得心する。へんだと感じたまま、面倒だと感じたまま、彼らは私の知らない世界へ去っていく。長年いっしょだったのに置き去りにされると、自分がもともと用なしの、メンコやビー玉のような玩具だったとわかる。不満はない。もともと彼らの成長に資するような役目などなく、飽きのきた玩具のようにただ置き捨てられて当然だとわかっているからだ。しかし、私だけの思いがある。だれにも告げない、だれにも気づいてほしくない思いだ。
―玩具は温かいし、心を落ち着けるための慰めになるし、いつでも捨てることができる。慈しんでいるあいだは害を及ぼさないので、安心のいく所有物でありつづける。私はそうあることを喜ばしく思っている。
一家と頭を並べて『樅ノ木は残った』を観ているカズちゃんの背中に、
「北村席はすばらしいところだね。もうどこへもいかない」
と呟いた。カズちゃんは画面を見つめたまま、
「ありがとう」
と応えた。
「二十年で、憶えているだけでも八回引っ越した。最後がここ」
「憶えてるだけ教えて。知ってるけど、もう一度」
「熊本から東京、東京から野辺地、その二回は、旅を憶えてないから数えない。野辺地から古間木、古間木から横浜、横浜から名古屋、名古屋から野辺地、野辺地から青森、青森から名古屋、名古屋から東京、東京から名古屋。まっとうな人間と出合う難しさは知ってる。だからもうどこへもいかない」
「終(つい)の棲家がここでいいの?」
「ここは世界じゅうのどこともちがう。ここしかない」
女たちの後頭部がうなだれ、主人と女将が立ってきて私の膝に手を置いた。
「ありがとう、神無月さん」
「どっかへいったら承知せんよ」
人生には大切なことがある。何を望み、何を信じ、何をする必要があるかと考えることだ。望んで信じないこともあれば、信じてやらないこともあれば、しているのに望まないこともある。その自家撞着を突き破るのは、習慣を喜ぶ心だけだ。
†
一月三十日水曜日。七時半起床。朝から雨。三・五度。春まだ遠い気温だ。うがいから始まるルーティーン。ジムトレはオミット。
カズちゃんが北村席から持ってきたアサヒグラフをペラペラやる。中身の知れたバカ面が写っている。添え書きも空しい。百江が覗きこみ、
「ほんとにきれいですね。直人ちゃんの拡大版」
メイ子が、
「親子とはいえ、ここまで似るものかしら」
カズちゃんが〈玉ポン〉の味噌汁を出してくれる。固まっている黄身がうまい。彼女たちはふだんの朝食。
「今夜はキヌギヌの別れはなしよ。あしたはすがすがしい気持ちで出発してね」
「うん」
ビニール合羽を着て菅野とランニング。日赤まで軽く流す。
「明石では、寝て起きてトレーニング、寝て起きてトレーニングをまじめに三週間やる」
「しっかり食べることも怠けないでくださいね。映画館のほうは気にしないで、私たちがきちんとやりますから」
「まかせます。ファインホースは何か目立った申し入れはありませんか」
「毎日何かかんか電話が入りますが、契約の自動延長のようなものがほとんどです。ミズノとマツダのほうは手続をしました。似島のほうには酒とビールをドッサリ送りました」
「広島球場のホームラン賞も似島に振り込まれることになってるよね」
「はい、広島市の少年たちの優待にも一部回すよう書類を書きました。そうだ、足木さんから連絡があって、中日球場の日曜日婦女子優待が市議会で決まったそうです。中日ドラゴンズ協賛ということでした」
牧野公園で菅野と別れ、則武に戻ってシャワー。キッチンパラソル。目玉焼きと味噌汁。
牛巻坂二枚。五百野の連載が二月の八日で終わる。牛巻坂は河北新報に発表することになっている。春のうちに書き上げようと予定していたが、夏になるかも知れない。寸暇を見つけてコツコツ文字を書く数カ月が始まる。
昼十一時、メイ子が酔族館に出かけ、中番の百江が出かけてから、薄化粧をしたソテツがやってきた。姫始めを彼女で始めたことを思い出した。
「もうがまんできなくなって。すみません」
「いいんだよ、遠慮しなくて。一月の姫始めをソテツで始めて、ソテツで締めくくることになる。なんか縁起物とセックスしてる気分だ」
「ほんとですか! うれしい」
廊下越しの寝室にいくと、ソテツは蒲団の上に横たわり、大きく脚を広げた。よく見てくれというつもりのようだ。黒々と生え揃った陰毛、かならずたっぷり濡れて光っている小陰唇、雅子より大きいクリトリス。そこだけ見ると年増の性器のようだ。外見だけではなく、中身も熟した女の反応をすると私は知っている。去年の七月に私と初めて接したときには、すでにハリガタでじゅうぶん訓練を積んで快楽に慣れている生殖器だった。
「ソテツのオマンコは中年女みたいにこなれてるから、安心してできる」
「褒めてくれてるんですか?」
「もちろん。ギスギスしてない、よく応えてくれる気持ちのいいオマンコだよ」
淫らな言葉だけでソテツはすっかりでき上がり、優子や百江と変わらない反射で私を歓待してくれた。ソテツは小半時のあいだに二度も交わってから、シャワーをゆっくり使い、晴れやかな口づけをして帰っていった。
夕方、雨の中、北村席にいき、幣原たちといっしょに、明石へ送った荷物のメモをもう一度確認する。手荷物はダッフルのみ。収めるものはグローブ、スパイク二足、タオル数本、書物二冊。枇杷酒を忘れずに入れる。オーケー、完了。安心。
六時から歓送会になった。予期していなかった。満艦飾の皿鉢のあいだにビール瓶が並ぶ。なぜか一口ケーキも全員に用意される。文江さん、節子、キクエ、塙夫婦と宗近棟梁と蛯名も呼ばれている。蛯名は、
「牧原親分から初陣のお祝いです」
と言って、厚めの熨斗袋を私に差し出した。私は丁寧に礼を言って受け取り、カズちゃんに渡した。睦子と千佳子は、ケーキにかぶりつく直人を膝に遊ばせ、みんなが箸をとると、自分たちの惣菜をスプーンやフォークで掬ってやったりした。カンナは幣原が面倒を見、ケーキではなく、六カ月の子供用のプレートが与えられた。
万博、黒ネコのタンゴ、ゲバゲバ、あっち向いてホイ、ムーミン。和気藹々と世間話がつづく。そのうち世界情勢の話になり、名大生に質問が集中する。ビアフラ戦争、イボ人虐殺、フランス、アメリカ、イギリス、ソ連、骨と皮に痩せ細って腹だけふくらんだ子供たち、あれを見ちゃったら気の毒でめしが食えませんな。まったく脈絡のない宇宙語が飛び交う。
やがて菅野が立ち上がり、
「キャンプにおける神無月さんの無事を祈って、乾杯!」
とやったとき、ここから先の宴会の主役にはなりたくないので、ビールを飲み干し、
「ありがとうございます、がんばってきます!」
と明るくひとこと言って、畳に根を生やした。
二人の子供の話、ジャッキや犬小屋の話、映画館の話、ドラフト新人の話、サンフランシスコ・ジャイアンツの話、風俗商売の話……。無愛想に見えないように、話しかけられる言葉に表情を崩して応対する。蛯名はひとことも私に話しかけずにただ笑っていた。玩具人間に言葉がないことを知っているのだ。うれしかった。
七時半を回って、蛯名と棟梁が一座の者たちに丁重な挨拶をして退出し、トモヨさん母子が風呂へいった。心細くなったが、ありがたいことに、それからも賄いたちが一座のみんなにビールをついで回って臨機に受け答えしてくれたし、主人夫婦や菅野が客たちに適当な話題を振ってくれた。さらにありがたいことに、八時あたりからカラオケになり、求められた一曲(石原裕次郎の俺は待ってるぜ)を唄って、また畳に根を生やすことができた。
カラオケの途中で塙夫婦が主人夫婦と私に叩頭して帰っていき、節子母子とキクエが私と握手して帰っていき、名大生二人がそっと二階へ上がり、空いたテーブルが賄いたちに占領された。カラオケが終わり、一家の歓談になり、やがて片づけを終えたかよいの賄いや、非番のトルコ嬢たちがテレビの前に坐る。ザ・ガードマンが流れているけれども、そろそろ彼女たちの必見番組である蝶々・雄二の夫婦善哉(めおとぜんざい)が始まる。
「じゃ、神無月さん、私はこれで失礼します。あしたは太田さんと星野さんが九時半にここにきます。三人でコーヒーでも飲んで、少しゆっくりしてから出かければいいでしょう。十時に出ればラクに間に合います。そのときに明石までの切符をお渡しします。もちろんあしたはランニングなしです」
菅野が辞去し、北村夫婦が離れに退がった。カズちゃんたちと則武に引き揚げる。
「集まり自体はちょっと煩わしいけど、集まってくれる人たちの気持ちはありがたいね」
素子が、
「このごろみんな、キョウちゃんが気疲れせんように考えてくれとるで安心やわ。ほっといてくれるもんな。じゃ、うち、こっから帰るわ。お休み」
「お休みなさい」
アイリスの隘路から裏手へ回っていった。カズちゃんが、
「今年からアイリスは土曜日に休めなくなっちゃったから、素ちゃんやメイ子ちゃんに申しわけなく思ってるわ」
メイ子が、
「日曜定休と週休が四日ありますから、どうということはないですよ」
百江も、
「そうですよ、アヤメも同じです。いいえ同じじゃありません。アイリスより一日の労働時間が少ない分、ずっとラクです」
「遅番に当たることもあるから、そうも言えないんじゃない? どっこいどっいね。ほんとにがんばってもらって感謝してる。メイ子ちゃん、酔族館の様子はどう?」
「毎日五、六人の人が面接にきますけど、やっぱり若い人より、年配の人を選んでしまいますね。若い人も人格円満そうな人は二人選びました。もちろん法子さんと話し合ってですが、彼女の人を見る目にの確かさには感心します。いまのところ四人です。最終的に十人前後の予定です」
「見落としや見ちがいのないように、自分の目も信用してね」
「はい」
則武の居間に落ち着き、四人肩を寄せ合ってソファに座る。
「やっぱり、ひと月観られなくなるテレビを観ておきたくなるね」
「ホテルで観られるでしょ」
「練習終わってテレビ組というのはいやだから」
テレビを点ける。十時半。『こよい酔わせて』。十年一日のごとき深夜の歌番組。東京のどこかの芸者だという三浦布美子司会。出演島倉千代子、愛田健二。これはやめて、夫婦善哉(めおとぜんざい)にする。
「キョウちゃんのお母さんもよくこの番組観てたわよね」
「いまも東京で観てるだろう」
婆さん面で口が悪くて小うるさいミヤコ蝶々、どことなくとぼけたウィットのある南都雄二。よしのりを少し肥らせた面持ちのけっこうな美男子。司会の蝶々・雄二が一組の夫婦を呼んで、お名前は? お仕事は? お見合いですか恋愛結婚ですか? と訊いて番組が始まる。連れ合いに対する不満を聞いてやりながら、肯定したり叱ったり、ちゃかしたりしながら、澱みなく、おもしろおかしく番組を進める。不満はたいてい浮気だ。浮気話に乗じて、蝶々は雄二を皮肉らしくいじったりする。そこで笑いがくる。私は笑えない。蝶々の笑顔に青い炎が見えるからだ。カズちゃんたちも笑っていない。キョトンとしている。出演夫婦はふだんの角逐を忘れて和んでくる。この不思議な宥和(ゆうわ)がキモなのだろう。母もこのキモを嘗めて慰められていたのかもしれない。
「腹へった」
「ほんと、お腹すいたわね」
「はい」
私は酒の席ではほとんどものを食わないので、あとで腹がへる。絶えず箸を動かしていたカズちゃんたちはそれほどへっていないはずだ。女の胃袋は大きい。
女三人で野菜たっぷりのサッポロ一番味噌ラーメンを作る。キャベツ、モヤシ、カマボコ、チャーシュー、七味。うまい。ハラワタに沁みる。
もうニュース番組しか残っていない。女三人は風呂へ、私は寝床へ直行。
第十四章 休息から始動へ 終了
第三部 終了
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