四
会食の終わりに、足木マネージャーから全員にキャンプのメニュー表が渡された。投手と野手は別メニューだ。野手メニューをザッと見ると、九時のウォーミングアップから始まり(ここで三種の神器をしておこう)、ダッシュを適度に交えたランニング、キャッチボール、シートノック、投・内連繋、バントシフト(バッターは全員、バントをするのは野手全員)、十二時昼食(館内二階メール)。ここまで三時間、ピッチャー陣は一、三塁側のブルペン下と、ファールゾーン奥のブルペンで各自投げこみをしている。
一時半、実戦式フリーバッティング(参加ピッチャーはそれぞれスリーアウトを取るまで。九回制)。その間、内野フェンス前でのティバッティング・トスバッティングは、各自自由に行う。三時、コーチに指示された者の特打・特守。以上、一日行程は四時までに終了。夕食各自自由にとること(館内館外で)。館外の場合足木マネージャーに領収証を提出のこと。
休養日は月曜日と金曜日。ホテルチェックアウト二月二十三日月曜日午前十一時。
†
あしたのユニフォームと用具類をソファに並べ、小バッグから特殊眼鏡をダッフルに移し、シャワーを浴びる。手と足の爪切り、耳垢取り。
机に向かい、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』を読む。ごく短い五章立ての作品だったので、十分ほどで読み終えた。かぐや姫や桃太郎の育ての親はかならずしも善人ではないという、たあいもない物語だった。孤独な海の生活に未来を見出せない孕み人魚が、人間社会に望みを託して海辺の村に女児を産み落とす。人間たちに愛されて幸福になってほしいということらしい。
―これは捨て子だろう。何より夫の存在が見えない。海の生活を孤独と考えたのは彼女だけの事情のようだ。
女児は爺婆に拾われ、慈しまれながら美しく成長していく(性を抹消された者は慈愛に満ちる)。半身がウロコの美少女の噂はやがて広まり、見世物商人に目をつけられる。人魚は不吉な生きものだと彼は爺婆を口説き、大金を出して引き取る話を持ちかける。終局爺婆はその話に乗る。偏見と欲にまみれた人間社会と言いたいのだろうが、平凡な袋小路の思想だ。わが子の幸福を願いながら親人魚はそういう不幸な成り行きを逐一見守っている。彼女の余裕が解せない。早いうちに連れ戻して〈正常な〉人魚社会に慣れさせるべきだ。人間に対する信頼を裏切られたと知った親人魚は、海を荒らして復讐する。村を一掃するほどの激しい復讐だ。徹底的に人間のサガを悪と見かぎったわけだ。信頼する時間が未練たらしく長かったのは、自分の寂寥を人魚社会の普遍だと思いこんだからだろう。首をひねる。母と子は別人格だ。母の普遍を子は特殊と見るだろう。一を知って十を知ることはできないのだ。
ともあれ、人魚が自然現象を左右できるほど力のある海神だとするなら、その神通力によって人間社会にユートピアも実現できるはずだ。彼女はそこに希望を託すべきだった。
ベッドに入り、あしたに向けてリセットボタンを押す。
†
二月一日日曜日。七時起床。カーテンを引くと青空。一・五度。ルーティーン。メールで一般客に混じって食事をするのは避け、喜春のバイキングにいく。ジャージ姿がズラリ。太田、菱川と同席。名も知らぬ地魚の干物、卵焼き一切れ、筑前煮、ウインナー、何かの佃煮、マメ入りヒジキ、味噌汁、お新香、ドンブリめし。太田が、
「紅白戦と交流戦は、サンテレビで生中継するそうです。その日だけは入場が有料になります」
菱川が、
「ネット裏百五十円、その他のスタンド席百円、芝生席五十円。去年と同じ。練習日はすべて無料」
木俣がやってきて、
「おまえら細かいことよく知ってるな。阪急と二十二日に交流戦があるようだぞ」
「そっちのほうが細かくないすか」
解散して部屋に戻り、ユニフォームに着替える。館内スリッパを脱いで運動靴を履き、帽子をかぶる。尻ポケットにお守りとタオルを入れ、ダッフルとバットケースを担ぐ。ラウンジに集合。全員フロントに鍵を戻す。食事会で挨拶しなかったなつかしい顔に次々出会う。小野、江島、千原、江藤省三、門岡、水谷寿伸、水谷則博、伊藤久敏……。
玄関前で報道陣に取り囲まれる。
「さ、いきましょう」
ウインドブレーカーを着た水原監督を先頭に八時半出発。みんなで堀端の緑を眺めつつ歩いていく。中部銀次郎の銅像。県立明石公園と彫りこんだ岩。正門入口。濠を渡り、すぐに石垣が始まる。彼方に櫓が見える。サクサク砂利道を進む。多種類の大木小木を並木にするように切られた遊歩道になる。櫓垣の下に広大な芝地。櫓の上に白雲混じりの高い青空がある。常緑樹の群れの中に枝だけの桜の大木が雑じる。球場へつづく道を歩く。私たちを認めた人たちから嬌声が上がる。彼らはすべて球場へ吸われていく。きょうからだろう、出店が軒暖簾を接して並んでいる。からあげ亭、福玉焼、りんご飴、くじびき、ボールすくい。遊歩道に防球網が張られている。去年は見かけなかった。
球場正面到着。入口の壁に《第一野球場》の文字。幅広のコンコースから一塁側と三塁側に分かれてロッカールームに向かう。自然、気心の知れた者同士に分割される。私たち仲良し組は一塁側へ。一枝が、
「この球場の土と芝の整備を請負ってるのは、後楽園球場の阪神園芸だ。中日球場と同じくらいプレイしやすいぞ」
去年だれかから、甲子園球場と同じ土を使っているとは聞いたが、同じ業者が整備しているというのは初耳だった。ロッカールームでスパイクに履き替え、椅子二列の小暗いベンチに入る。予備のバットが長方形の木箱に十数本並べられている。ヘルメットも用具棚に並んでいるが、だれも使わないだろう。グランドに出る。すでに審判員たちがウォーミングアップをしている。マッちゃんの顔もある。カメラ記者が十人以上うろうろしている。中の二人が近づいてきて、
「すみません、中日スポーツでーす。今季の選手名鑑作りのために写真を撮ります。一人ずつ順にバックネット前にお立ちください」
バックネットの下の空間には金網張りの四枚ガラスの室が十余りも連なっている。それぞれの室の中で人がうろうろ動き回ったり、じっと坐ってグランドを眺めたりしている。 報道か何かの関係者なのだろうが、その員数に驚く。連なる室の両脇はベンチ、さらに鉄製の無数の出入口だ。人やものが出入するためのものにはちがいないが、多すぎる。
二手に分かれ、監督以下全員、入れ替わりつつ写真を撮られていく。そのあと、櫓を背景に集合写真も撮られた。
スタンドの見物客は四分ほどの入り。内野のファールゾーンが広い。両翼100メートル、中堅122メートルの文字を眺める。太田に、
「こんなに広かったっけ」
「フィールド面積は甲子園球場よりも広いんですよ」
外野フェンス上部の金網はない。バックスクリーンはなく、芝の上に突き立っている緑のスコアボードは手書き式。十回まで枡が切られている。芝生席の向こうは森だ。
「照明塔がない球場だったね」
「櫓の眺めに影響するということかららしいです」
「照明がないから練習も四時までに切り上げるわけだ」
広島球場の原爆ドームとちょうど同じように、三塁側スタンド後方には明石城の櫓が望まれる。巽やぐらと、もう一つは何という名前だったか。球場の周囲をこんもりと多種類の樹木が取り囲んでいる。外野芝生席の内部にも等間隔に桜の大木が植えられている。春夏には木陰を作る。レフトスタンドの森の向こうに天文科学館の頭が突き出している。
バックネット裏にわずかに腰もたれ付きの座席があるくらいで、あとはすべての座席が板敷きだ。席板は内野の中間ぐらいまで延び、そこからは仕切りの金網を境に一段低くなって外野芝生席につづく。ぜんぶ埋まれば一万二千人収容できる。低い吊り式ネット。少し高く舞い上がったファールボールはネット裏へ飛び出ていってしまう。ネット裏最頂部には長方形のカウント掲示板が二本足で立っている。その掲示板にはストライクのランプが三つついている。それを見た瞬間、去年興味深く観察した明石球場の細部が少しずつ甦ってきた。
スコアボードの時計が九時を指した。だれからともなくウォーミングアップが始まる。スタンドの観客から喚声が上がる。試合開始のような緊張感だ。菱川と組んで入念な柔軟体操。しばらくして三種の神器に移る。百回ずつ。江藤たち五、六人が集まり、倣う。片手腕立ては初日左右五回ずつ。太田と菱川が倣う。軽くできるようになっているのに驚く。ひそかに鍛練したのにちがいない。
「あしたから一回ずつ増やしていって、十回で止めますよ。十日で五回へ戻り、二十日で十回へ戻る。ちょうどキャンプが終わるころでしょう」
「おす!」
ハンドマイクの声があわただしくなる。フェンス沿いのランニングにかかる。二十人ほどの集団になる。審判団も混じる。三周する。ここで審判団は離れ、私たちは三十メートルダッシュ、二十メートルジョギングの組合せを五回。
グローブを手に外野の枯れ芝の上に縦列する。戸板とキャッチボール。
「お願いします!」
「おしゃ!」
からだを大きく使って十メートル二本、二十メートル三本、三十メートル五本。低いボールを投げるよう心がける。
「ヒョー!」
戸板の声が何度も上がる。四十メートル十本。彼の伸びのあるボールがグローブのネットに刺さる。一度グローブのポケットにはまったとき、痺れるほど痛かった。五十メートル十本までで終わり。計三十本。毎日この本数でいいだろう。高木に、
「あしたのキャッチボールお願いします」
「オケ。立ち投げ段階のときのピッチャーとキャッチボールするの、きついだろう」
「はい、痛くてポケットで捕れません」
「立ち投げはキャッチャーとやればいいんだよ」
ハンドマイク持った宇野ヘッドコーチのきびしい声が飛ぶ。
「生き残りども! 生き残っても練習しかないぞ!」
笑いながら水原監督が出てきてシートノックを始める。
「自分なりに工夫してやりなさい! 気持ちを引き締めて!」
「ウス!」
まず外野から。私と井手(うそ!)、中と江島、太田と谷沢。ゴロの打球を三本ずつセカンドへ。私と中と太田は少し山なりのノーバウンドで返す。井手は山なりのワンバウンド。江島と太田と谷沢の肩がいい。一直線に返す。ゴロの打球を三本ずつサードへ。私はふつうの一直線で、井出は弱い肩のワンバウンドで、中と江島と太田もふつうの一直線のワンバウンドで、谷沢は私と同じように強い一直線のワンバウンドで返す。定位置より少し後ろのフライが上がった。バックホーム二本。私は一本を強い一直線のワンバウンドで、井手はゆるいスリーバウンドで(肘も肩もボロボロのようだ)、中はふつうのワンバウンドで、江島は強いけれども山なりのワンバウンドで、太田と谷沢は強い一直線のワンバウンドで返す。スタンドの拍手。二本目、私はこの一本とばかりツーステップすると地面を低く滑空させるノーバウンドで返した。木俣がミットを高く差し上げた。スタンドの割れんばかりの拍手。内野の選手たちも拍手している。ほかの外野手たちはまねできないとでも言うように、一本目と同じ軌跡で返球した。報道関係者がフェンスぎわをうろうろしている。マイクを突き出す記者もいるが、だれも相手にしない。
「広報は私です!」
と言いながら、足木マネージャーが走ってきたりする。
私はプロ野球の〈ひとしなみ〉の選手を栄達の目指にしていた。フィールドで活躍する一般の〈成功者〉に漠然とあこがれていた。しかし中日ドラゴンズの四番バッター森徹のホームランボールをこの手に受けたとき、一般の成功者ではなく際立った栄達者が人生の目標になった。ところが、マッコビーに出会って、その目標をあきらめた。何が起こったのか? 実力の差を感じたことは精神の構図としてたしかにそのとおりだったが、われも彼も含めてどんな栄達にも果てがないと思い知ったからだった。際立った栄達者も神ではない。栄達とは無縁の超えられない神が天上にいる。それを直観したとき、私は自分の存在を下界のひとしなみの幸福者の列に並べるだけで安堵したのだった。中学、高校と破目を外して高揚した時期もあったけれども、その安堵が絶えず心の底を流れていた。
私はいま栄達者として讃えられている。しかし、どんなにすばらしいホームランを打ち、どんなにみごとな返球をしようとも、それに虫の営みほども関心を抱かない神が天上から私を見つめている。心のどこかを閉じないと、ふつうの感情を殺してしまおうと覚悟しないと、神の存在を忘れることはできない。私は天上を見上げず、地上に拘りながら毎日一からやり直す。そうしろと直観が囁く。私が苦しいときに救ってくれた人びとに心を閉じてはいけないと囁く。彼らの思いに従えと囁く。彼らは自分に誠実に生きる私を愛している。私が気になるのは、自分が直観に従わない不まじめな行動をすることだ。そのせいで大切な人を失ったら、私には生きる術がなくなる。痛む心を抱えて生きるしかなくなる。
外野手はベンチに退がり、内野シートノックが始まる。内野守備はプロ野球の華だ。サード菱川と入団二年目の坪井新三郎(キャッスルホテル組がこちらに回されている)、ショート一枝と入団四年目の日野(これもキャッスル組)、セカンド高木と二年目の江藤省三、ファースト江藤と七年目の千原。レギュラーの手品のような捕球と連係プレイ。新しいユニフォームが焦茶色の土の上で躍動する。控えが連繋に加わると少し見劣りするのは愛嬌とする。菱川と江藤の上達ぶりに目を瞠る。併殺時の江藤の送球を見ると、肘は完治しているようだ。投手と内野手連繋プレイになると投手側にミスが多くなる。さすがに小川、小野、秀孝、戸板は反応抜群で、ノーミスで終了した。
合わせて十五分間堪能して、バント練習に移る。ベンチやブルペンにいる投手全員がランナーになる。投手陣の走りこみ練習だと思えばいい。太田コーチの投げる球を私たち十五人ほどが次々にバントしてはボックスの後ろへ下がる。バッターはそれですむが、ランナーになるピッチャーはラクではない。ベースを踏みそこなったり、ファーストベースで足がクロスしたり、接触を避けて腰をひねったりする危険が待ち構えているプレイなので、繊(こま)かい注意力が試される練習になる。こういう練習こそ基本中の基本なのだ。腰の悪い松本幸行は参加しなかった。愛する野球をつづけるために〈無理をしない〉よい心がけだ。
五
十一時四十五分。ホテルへ引き揚げる。水原監督がベテランたちを振り返り、
「野球をやってないときのきみたちは、ただのおっさんだね」
小野が、
「はあ、最近、鏡を見てつくづく思いますよ、ただの馬面のオッサンだってね。この顔で野球の才能がなく生まれてたら、馬子にも衣装なんて言われる人生だったろうなあ」
ベテランたちがニヤニヤたがいの顔を見つめ合った。
メールで昼めし。十二時から一時まではドラゴンズの貸切りになっているようだ。お替わりのめしは、それぞれのテーブルの真ん中に置かれた櫃から自分で盛るようになっている。お勧めメニューは天ぷら御膳、肉御膳、肉・天ぷら御膳、肉・天ぷら食べ放題御膳の四種類。
監督、コーチ、中、小野は天ぷら御膳、ベテラン連中のほとんどは肉・天ぷら御膳、私は肉御膳、食い放題は菱川、太田、秀孝、戸板だった。戸板の顔をじっと観察し、あらためて記憶に焼きつける。高校時代に帽子の庇の下にチラと覗いた孤独なするどい目は笑顔の中で和み、こけていた頬に少し肉がついたせいで、本来のカドのない性格が滲み出ていた。いわゆるイイ男なのがうれしかった。食通の江藤が、
「ここの名物はビーフカレーぞ。トロトロに崩れとる牛肉がうまか」
「あしたはカレーにしましょう」
水原監督が、
「私もそうしよう」
一時半から実戦式フリーバッティングになった。一人のピッチャーがスリーアウトを取るまで投げる。守りの野手は、内外野ともすべて控え選手。ファースト千原、セカンド省三、ショート日野、サード坪井、レフト井手、センター江島、ライト谷沢、キャッチャー新宅。主審も塁審も線審もつく。帯同六人全員だ。主審丸山、一塁松橋、二塁岡田、三塁竹元、ライト富澤、レフト柏木。
ピッチャーは八人、星野(左)、小川(右)、松本幸行(左)、水谷寿伸(右)、小野(左)、戸板(右)、水谷則博(左)、渋谷幸春(右)。九回に秀孝が二度目の登板をすることになる。バッターは八人で回す。中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝。
一塁コーチャーズボックスに長谷川コーチ、三塁コーチャーズボックスに水原監督が立つ。場内アナウンサーに県立明石高校放送部の女子生徒が駆り出されている。
「ピッチャーは星野選手、バッターは中選手です」
素朴な愛らしいアナウンスを背中に中がバッターボックスへ向かう。大歓声。観客が七割程度に増えている。
秀孝が振りかぶる。初球外角低目へ百四十キロほどの〈抜いた〉ストレート、チョンとセーフティバント、坪井うろたえ、片手で捕ろうとしてハンブル。中、悠々セーフ。高木の初球、中セカンドに向かって二歩ほど踏み出したところへ、秀孝の絶妙の牽制に遭ってアウト。中は満足げにベンチに帰ってくる。
「秀孝うまいなあ、牽制。今年はだいぶアウトにするぞ」
あらためて高木の初球、伸びのいいストレートが真ん中高目にきた。待ってましたとばかり強振するが、フロートした分打ち損ねてキャッチャーフライ。高木はベンチに戻って頭を掻きながら、
「一人目に秀孝はまずいだろ。自信なくしちまう」
「何ばゆうちょる」
江藤がのしのし出かけていって、三球三振で帰ってきた。場内大笑い。
「速かあ! 九回には目が慣れるやろう」
ピッチャー二人目小川。ブルペンから小走りでやってくる。
「バッターは神無月選手」
轟音のような喚声。小川が勘弁してというふうに、両手を合わせて礼をする。場内大爆笑。初球、天井から落ちてくるようなスローボール。私も空に向かって高く打ち上げる。
「オーライ、オーライ」
小川と坪井が落下点に走り寄る。
「危ないぞ、捕れん、捕れん、俺にまかせろ!」
新宅がみごとにキャッチする。ホームプレートの真上だった。ワハハハという笑いがスタンドじゅうから上がる。新宅が、
「手品みたいな楽しいことしないでよ」
「みんな喜んでくれると思って」
「ホームラン以外、期待してないよ」
「ワシャ喜んだぞ!」
江藤の大声が飛んできた。
木俣、内角シュートを打たされて浅いレフトフライ。菱川、外角カーブをうまく叩いてライト前ヒット。谷沢の堅実なゴロ処理に感心した。初ヒットに一瞬スタンドが盛り上がったが、つづく太田がチップ三振を食らって、歓声がため息に変わった。
ピッチャーが新人松本幸行に代わった。大きな四角い顔、百八十二センチ、八十キロの大柄、高校を出て社会人に四年。私は彼の一匹狼の雰囲気に惹かれた。群れず、媚びず、しかし孤独だとは感じさせない顔だ。百三十キロいくかいかないかのスピードのピッチャーをドラゴンズが獲った理由はすぐにわかった。その投球テンポと制球力のよさだ。キャッチャーから返されたボールを捕ってすぐ振りかぶり、ツツーと絶妙のコースへ速球とも変化球ともつかない球を投げる。一枝、中、高木とすべて内野ゴロだった。一枝が、
「ユキツラは俺と同じ大阪人なんだけど、つかめないおかしなやつでね。今朝、めしのとき、ドラゴンズの親会社って何やっとるんですかね訊いてきた。答える気にもならなかったよ。こっちが黙ってると勝手にしゃべるやつでな、捕ってすぐキャッチボールみたいに投げたら悪い腰が痛まないとか、オヤジは行幸て名前つけたかったらしいが、天皇陛下に畏れ多いから、ひっくり返して幸行にしたとかな」
背番号27の水谷寿伸が出てきた。ベースコーチ二人が手持ち無沙汰な顔で立っている。江藤が、
「寿伸に悪かばってん、そろそろいくばい!」
「オース!」
言葉どおり江藤は二球目の真ん中シュートを巻き取って、レフト最上段の防球ネットに当てた。柏木の白手袋がクルクル回る。今年最初のタッチと抱擁。私は内角低目のスライダーを掬ってライト場外へ叩き出した。富澤の白手袋がクルクル回る。タッチと抱擁。スタンドがやんやの喝采になる。木俣、サードの頭上を越える二塁打、菱川痛烈なセカンドゴロ、省三が胸に当ててこぼし、内野安打。一、三塁から太田がセンター江島へ深いフライ、木俣タッチアップから生還して三点目。一枝、ショート日野へ平凡なゴロ、ゲッツー。
小野が出てくる。いくら肩に不安があるとは言え、スリーアウトを取るくらいの打者数なら、小野のボールはめっぽう速い。中、ツーワンから三振、高木ツーナッシングからファーストライナー、江藤初球を打ってライト谷沢へ詰まったフライ。五回分が終わった。
戸板登場。背番号11にベンチとスタンドの目が注がれる。手首をしならせ、軽く投球練習しているが、百五十キロは出ている。ただ、秀孝のような伸びがない。未完を感じさせる。木俣が、
「いいな。このひと月で自然とフロートするようになるだろう。百六十くらいいくんじゃないか」
江藤、初球の真ん中高目のストレートを叩いて左中間を真っ二つに割る二塁打。私は内角高目を攻められ二球つづけて一塁線へファール。バットを折る。三球目内角低目のカーブ、ボール。四球目真ん中低目のカーブ、ボール。五球目外角低目の渾身の速球。読みどおり。屁っぴり腰で叩いて、左中間の芝生席にライナーで打ちこむ。瞬間、戸板はパッと爽やかに笑った。場内にも爽やかな拍手が上がった。五点目。木俣内角高目のストレートに詰まってサードフライ。菱川、同じく真ん中低目のストレートに振り遅れてショートボテボテのゴロ。太田ツースリーまで粘ったが、外角低目のストレートを空振り三振。
スリークォーターの左腕、水谷則博登板。ん? おかしい。速球を投げようとしてフォームがばらついている。速球は彼の持ち味ではない。百四十キロ前後の沈む珠だ。これは打たれる。一枝ワンワンから内角カーブを左翼芝生席へ、中内角高目のストレートを一直線にライト芝生席上段へ、高木初球内角低目のストレートをギシッと左中間芝生席へ、三者連続ホームランで八点目。江藤初球の外角低目ストレートを打ちひしいでライトフェンス直撃の二塁打、私は真ん中低目のカーブを右中間の場外へ叩き出した。長谷川コーチと三度目のタッチ、水原監督と三度目の抱擁。十点目。スタンドがドンチャン騒ぎになる。一塁コーチャーズボックスから長谷川コーチがマウンドへ走っていく。何やら話し合い、すぐに続投と決まる。ここから則博の外角スライダー多投が始まった。投球フォームも滑らかになる。木俣、菱川、太田、おもしろいようにバットの先にひっかけて内野ゴロになる。たちまちスリーアウト。則博が〈分〉を知った瞬間だった。
渋谷幸春登板。中肉中背。オーバースローの本格派という触れこみだが、スリークォーター気味で球速はそれほどでもない。百三十キロ後半。変化球も切れない。ただ、からだの動きより右腕が一呼吸遅れて出てくる。タイミングを合わせづらそうだ。一枝、シュート、カーブ、ストレート、スライダーのコンビネーションにやられて三振。中、真ん中高目のスライダーを叩いてライトライナー。高木、外角のナックルを引っかけてセカンドゴロ。
秀孝の〆。江藤真ん中高目のフロートボールをチップ三振。私、真ん中高目のフロートボールに的を絞ってどうにか捉えたが、ライトの谷沢へフェンスぎりぎりのフライ。木俣チップ三振。秀孝は大エースになった。審判が集合する。全員で、
「お疲れさまでした!」
「ご苦労さまでした」
「あしたもよろしくお願いいたします」
「こちらこそお願いいたします」
アナウンスの声。
「本日の練習はこれで終わりです。月曜日と金曜日は選手のかたがたの休養日です。あさって九時から練習開始です。どうぞお暇を見つけて、ご近所、お友だち、ご家族お誘い合わせのうえ、ご見学にいらしてくださいませ。私たち明石高校放送部はあさってもフリーバッティングの放送をさせていただきます。なお、八日と十五日には紅白戦が、キャンプ最終日二十二日には阪急ブレーブスとの交流戦が行なわれる予定です。こぞってご観戦にいらしてくださいませ。紅白戦の選手紹介はサンテレビの女性アナウンサーが、交流戦の放送は西宮球場の女性アナウンサーが担当することになっています」
場内のいっせいの拍手。喚声。子供たちの嬌声。宇野ヘッドコーチが、
「よーし、お終い! あしたは休日。あさって午後のフリーバッティングは、きょうと攻守交替でやります。ピッチャーは田辺修、若生和也、川畑和人、佐藤進、門岡信行、川内八洲男、渡辺司、土屋紘。どういう順番でいくかは自分たちで決めてください。しあさってからのフリーバッティングは平常どおり行ないます。ピッチャー陣もふだんの投げこみに戻します」
杉山コーチが、
「きょうは特守特打なし。ホテルに帰って休んでください」
水原監督が、
「みんな、すばらしかったよ。惚れぼれするほどすばらしかった。さ、帰りましょう」
ぞろぞろベンチへ入っていく。スタンドのほうぼうから励ましの声がかかる。ロッカールームでスパイクを運動靴に履き替え、荷物を担いで正面玄関から出る。記者たちの一部は球場外周沿いの売店に向かう。私たちにカメラを向けている記者に尋く。
「夜食に菓子類でも買うんですか」
「あそこで明石焼きふう玉子ごはんというやつを食っていくんです。これを食わないと明石にきた気にならないと言ってね」
「毎日食えるじゃないですか」
「われわれは交代制できてるんで、ゆっくりしてられないんですよ」
江藤が、
「球場めしゆうやつたいね。明石名物タコおこわ、〈勝〉ちゅう字を入れたドラ焼きもあるっちゃん」
「明石公園はランニングコースもありますよね、これだけ広いんですから」
「さあ、どぎゃんやろねえ、ワシ明石は初めてやけん」
水原監督が振り向いて、
「公園内にも二、三キロ程度のコースがあるけど、外苑を巡ると四キロくらいになるよ。……私ごとで恥ずかしいんだが、先月、孫の由実子が『花のメルヘン』という曲を出してね、いや、唄ってるのはダークダックスなんだけど、曲のアタマでケラケラ笑う声と、ちょっと科白を吹きこんだんだよ」
中が、
「チラとラジオで聞きました。かわいらしい笑い声でした。科白がよく聞き取れなかったんですが、何と言ってるんですか」
「三歳だから、舌っ足らずでね。私は暗記してますよ。ジジバカちゃんりんと思って聞いてくださいな。……これはね、ママにきいたおはなしなの。大きいお花や、小さいお花がいました」
監督は真っ赤になった。私はボロリと涙を落とし、彼の手を握った。
「ああ、金太郎さんはどんなときでも泣いてくれるね」
江藤がガバと小さい監督を抱き締めた。フラッシュが光った。
「よか話ですばい。ワシ、百枚買いますけん」
「一枚でいいですよ」
江藤は百枚買うだろうと思った。
「私、十枚買います」
「俺、五枚」
「ほんとにきみたちは―」
何、何、と言いながらみんな寄ってきて、事情を知ると、自分のふところに見当をつけて口々に最大限の数を言った。私も百枚買おうと決めた。
六
水原監督は話題を替え、
「中日新聞社から『五百野』を一冊いただけることになりましたが、もちろん自前で何冊も買いますし、ほうぼうの知人にも紹介しようと思ってます。―みなさんも買ってくださいよ」
「オース!」
「来週が最終回ですね。お父さんのいる自転車屋に着いたところから。……野間文芸賞の候補になってるようですが」
「候補に挙げられることを辞退しました」
監督はさっきよりもよほど真剣な目になって、
「……金太郎さんらしいね。きみを排斥してきた人たちに手のひら返して愛でられたくないんでしょう」
「いえ、偉大な先人にすまないと思うからです」
「五百野は立派な文芸作品です。読書家の老人の言うことを信じなさい」
「はい」
公園の正面口に出た。水原監督は、
「ここを左回りに進んで、お堀が終わるT字路を左へ曲がっていくんです。登りくだりがあるけど、ゆっくり走って二十分くらいの適度なランニングになりますよ」
「はい、あしたから朝食の前に走ってきます」
江藤が、
「七時からやな。ワシもいくばい」
つづけざまに太田や菱川が申し出、有志がいちどきに十人余り集まった。水原監督が、
「洋式便所が普及しはじめて十年あまりになりますけど、キャンプ地によってはまだ和式のところもあるんですよ」
高木が、
「九州のキャンプ地がそうでしたね。筋肉痛でしゃがめなくなって、後ろに手をついてやってましたよ」
そうだ、そうだった、と大笑いになる。
ホテルに戻り、夕食までの解散。監督、コーチ、トレーナー連中のほとんどはラウンジのソファに腰を下ろしてくつろいだが、私たち選手は汗を流しに自室へ上がった。第二球場ではまだ練習がつづいているだろう。四階の廊下で江藤たちと別れる。
風呂場で帽子の内側の汗をザッと落として、洗面台の蛇口に掛ける。こまめに石鹸を使ってシャワーを浴び、新しい下着をつけ、ジャージを着る。きょう着たユニフォーム一式をホテル備えつけのビニール袋に入れ、運動靴を履いてロビーに降りる。フロントにビニール袋を預ける。
「仕上がりはあしたの午後になります」
「それでけっこうです。予備を持ってきてますから。クリーニングに出す人は多いんですか?」
「高木さんは毎日ですが、たいていのかたは週に一度です。休日の前日が多いですね」
ラウンジの一般客の中に選手たちの姿はない。宇賀神の顔も見えない。松葉会の組員がどこかから見守っていることはわかっている。
「ちょっと散歩してきます」
鍵を預ける。三時四十分。外堀沿いを駅へ向かう。水に降り注ぐ陽射しが暖かい。駅を越え、右折してガードをくぐる。閑散とした街並から賑やかな町並へ入る。古そうなコーヒー店でガテマラの挽き豆を買う。店員はハッと私に気づいたが、大人しく袋を私に渡して代金の四百二十円を受け取った。
「ありがとうございました!」
周囲の人たちに知らせようとでもするように大声で言う。
去年入った書店による。ここでガリバー旅行記を買った。幼児向けの書棚を見る。『ねないこだれだ』という小さな四角い本を手にとる。かわいい白い人魂(ひとだま)の表紙。開く。貼り絵の柱時計。
とけいが なります
ボン ボン ボン……
こんな じかんに おきてるのは だれだ?
闇に目二つ。動物の貼り絵がつづく。
ふくろうに みみずく
くろねこ どらねこ
いたずら ねずみ
それとも どろぼう……
ほっかぶりして袋を担いだ古典的な泥棒の絵。それから表紙の人魂の絵。
いえ いえ よなかは おばけの じかん
あれ あれ あれれ……
パジャマ着た男の子が熊の縫いぐるみを手に闇の中を歩いている。次ページに人魂。その次のページには人魂に手を引かれて闇の中を飛んでいく男の子。パジャマの裾が人魂の尻尾になっている。夜空に大小二つの人魂のシルエット。
よなかに あそぶこは おばけに おなり
おばけの せかいへ とんでいけ
おばけに なって とんでいけ
気に入った。愛の本質を感じた。三百三十円を払って買う。
ふたたびガードをくぐり、水原監督の言ったT字路へ渡る。走って二十分を歩いて確認することにする。公園の緑を左に道なりに進むと、右手に明石小学校の鉄筋校舎と校庭が見えてくる。いまの小学校で木造に出会うことはまずない。登り坂。市立博物館。明石原人。ふと、去年散歩した道だったことに気づく。左手が長い石垣になる。明石城の石垣ではないだろう。高級住宅街の象徴か。
坂を登り切り、いただきの向こうに寂れた風景が見えたので、公園の緑を振り返りながら左折。細いくだり坂。左に錦城中学校。学校の風景と別れるところから明石公園の緑の中に学校の敷地が紛れる。公園の樹林を左に、高級住宅街を右に細道をくだっていく。爽やかな大気だ。このまま進むと行き止まりの気配がしたので、行路を山の手へ戻す。住宅街をズンズン登っていき、広い二車線の道路に出る。小さな川の手前から公園の緑へ引き返すように川原沿いを歩く。さびしい田畑とまばらな人家と電信柱が連なるアスファルト道。大きい空が薄く青い。
ゆるく登ったりくだったりしながら、ふたこし橋という小橋のたもとに出る。住宅工事中の作業員がいたので、何という名の川か尋く。イカワと答えた。さっき巡り合った川と同じものだろう。橋を渡らず、緑の森を見失わないように進んで繁華な街筋に出る。種苗店や理髪店が並んでいる。森沿いに進みつづける。とつぜん左手にコンクリートの外塀がそびえ立った。明石陸上競技場という標示がある。そこを過ぎると外堀が始まり、木立の中に第一球場の外郭が見えた。戻ってきた。一時間。帰ってきた。明石公園駐車場。鷹匠町交差点。向かい側の通りに兵庫県立図書館の小さいビル。バスが曲がっていき、二十メートルほど向こうに高架電車の石垣が見える。五時を回っている。一時間以上歩いた。江藤たちにこのコースは勧められない。山の手の道が複雑すぎる。
堀の流れに沿って左折。織田家長屋門。信長の直系ではないようだが、織田一族にはちがいなく、明石藩の家老を長く務めた家らしい。江戸時代初期の建築だという。添いかけるように建てられた古い民家に郵便受けがあり、空調のファンまで据えられている。尾張の織田一族、けっこう生命力があるようだ。
ホテルのロビーに入り、鍵を受け取って、窓ぎわのソファに腰を下ろす。タコ焼屋にいくのを忘れていた。まあいいや、いつでもいける。濡れ髪の太田が寄ってきて座り、
「今年から後楽園球場はぜんぶ電光式のスコアボードになるようです」
「東京球場と同じになるのか。味気ないね。手書きの風情のおかげで、野球をやってるという気がするのに」
「はあ。スコアボードの下の端までの距離は百五十五メートルだということですから、神無月さんの電球破壊が何度かありそうですよ」
「一度でもあればいいね。今年のホームランは七、八十本止まりだと思うから」
「ややや、きょうのホームランを見てたら、研究される分を差し引いてもやっぱり百本は堅いと思いましたよ」
「サンキュー。公園外周コースは迷路じみた道もあって迷いそうだから、公園内のコースにするよ」
「散歩してきたんですね」
「うん、コーヒー豆を買いがてらね。あさって開始、休日は走らず」
「了解。神無月さんは走るんでしょう?」
「うん」
「俺も走りますよ。朝から出かけることはありませんから。そういえば、今年もガードマンふうの男を二人ほどロビーで見かけましたよ。一般の人とは明らかにちがう雰囲気なのでわかりました」
「そう。ありがたいね」
「でも、夜はやたらに出歩けませんよ。監視付きじゃ窮屈です」
「出歩けばいいさ。彼らも仕事ができて、かえって張り切るよ。じゃ、コース変更を江藤さんに知らせてくる」
「はい。晩めしどうするか決めてきてください」
コーヒー豆と本を自室の机に置いてから廊下に出、江藤の403号室をノックする。
「オウ」
ドアからギョロ目が覗き、
「お、金太郎さん、なんね」
同じ造りの部屋に招じ入れられる。テレビが点いている。
「テレビ明石のニュースば見よった。キャンプ一色たいね。で、なんね」
「朝のランニング、公園内コースに変更です。さっき歩いて確認してきました。外周りのコースは、坂の上あたりから道が複雑になっていて、まず迷います。ここまで帰り着くのに相当時間がかかるでしょう。園内の剛ノ池を周る短いコースを二周走るほうがいいと思います。三キロ弱ですが、練習前ですからその軽さのほうがウォーミングアップになります。みんなに伝えといてください」
「わかった。めしどきに言っとく。ほやったら七時半から走ればよかな。十五分ぐらいで終わるやろう」
「はい。あしたは予定のある人もいるでしょうから、あさってから」
「アイガッチャ」
「晩めし、どうします」
「広島みたいに探索してみんね?」
「おもしろそうですね」
太田と菱川と秀孝を誘う。新人は連れていかない。彼らは習慣を守るという大事な任務がある。
六時半、玄関前集合。全員ジャージに運動靴。江藤が、
「監督に聞いてきた。菊水ちゅう鮨屋がうまかて。巨人時代からの常客げな。去年のキャンプのときも三回もいったっちゃ。駅のあっち側やけん、ちいと歩くばい」
きょう何度も歩く道。夜風が冷たい。さっきのガードをくぐり、駅の南側に出る。
「ほう、こちら側は開けとるのう」
大きな信号の向こう側の道の両側にズラッと商店が並んでいる。アーケードが新しい。太田が、
「長嶋がきたころは、こういう屋根もない寂れた商店街だったでしょうね」
秀孝が、
「そういうのいいなあ。海峡の町、明石」
菱川が、
「開けちゃうと風情がなくなるんだよね」
「菊水ずしは明治三十年に店ば出したくさ、少なくとも六十年はやっとる店やろうもん」
私は、
「一八九七年ですから、七十三年ですね」
「期待でくっぞ」
太田が、
「明石漁港に毎日あがる瀬戸内の新鮮な魚、というやつですね」
「おう」
「きょうはぼくに払わせてください。足木さんに領収書を出すのが申しわけないほど高いでしょうから」
「おし、きょうはまかせたっち。何にしますかて訊かれたら、おまかせで、と答えるごて監督はゆうとった」
「わかりました」