七
左側の信号を渡り、十メートルほど直進して左折。頭上に〈桜町本通〉の看板。少しいって右折し、百メートル余り進むと、奥まった駐車空間の向こうに、清潔そうな白暖簾を垂らした格子戸が二枚立っていた。戸の背後に二階家が建ち、その前面に松と榊の大木が控えている。格子戸の脇の板目の厚板看板に達筆で菊水本店と墨字で書かれ、風雨のせいで少しかすれている。七十年のあいだに何べんも書き換えられた大看板だろう。
格子戸を入るとさらに玄関戸があり、そこにも洗いざらしの白暖簾が下がっていた。菊水鮓と端に小さく染め出してある。鮓(すし)という字がめずらしい。戸を開けて入る。コの字形の長大なカウンター、大小のテーブル席、小上がり席、座敷席。広々とした店内が何十人もの客で賑わっている。白服の職人が六人、七人、仲居が五人ほど。女将らしき年増もいる。一目で頭目とわかる中年の男が、
「へい、五人さま、いらっしゃい! お、ドラゴンズのみなさん、ようこそいらっしゃいました」
「いらっしゃいませ!」
配下の職人たちが声を合わせる。
「江藤さま、水原監督から電話が入っておりました。いったらよろしくと。どうぞ、どうぞ、小上がりのほうへ。八人用の掘炬燵になってます」
店内に大拍手が上がる。
「きょうはすごかったど」
「さすがプロやな! 巨人のころから見てきたけど、ケタ外れの迫力や。化け物の集まりやな」
「あさっても観にいくわい」
「ありがとうっす」
江藤が頭を下げる。私たちも頭を下げる。壁に有名人のサインはいっさいない。仲居がメニューを持ってくる。頭目が、
「さ、何になさいますか」
私は反射的に、
「おまかせで」
「お飲み物は」
私はメニューを見て、
「八海山を一升」
江藤が、
「それと、芋焼酎の黒霧島ば一合」
「へーい」
付き出しなどむだなものはなく、栓を抜いた一升瓶と焼酎とコップにつづいてすぐ一品目が出される。刺身盛り合わせ。新鮮な魚介が山盛り。皿の下に仲居がメモ書きを挟んでいる。クロダイ、アカエイ、マゴチ、アワビ、イイダコ、マダコ、ウマヅラハギ、オニオコゼ、トラハゼ、シロギス。アワビ以外どれがどれだかまったくわからないが、とにかくうまい。あっという間に五人で平らげる。ニギリになる。イカにウニを載せたもの、メイチダイ、中トロの三品。
「うまか。酒が進むのう」
八海山の合間に黒霧島をチビリとやる。菱川が、
「ほんとにうまそうですね。正月以来の酒ですか」
「そんたうり!」
そのとおりの意味だろう。語呂がいいのでチーム内限定で流行りそうだ。秀孝が、
「あしたのフリーバッティングの目玉は谷沢でしょう」
太田が、
「あとは江島さんと千原さんも怖い」
「省三と言うちくれや」
「すみません、忘れてました」
「正月もバット振っとったけん、今年はよか成績ばあぐると思うばい。非力やけんホームランは打てんばってん。おんなしような身長と体重で、モリミチはよう打つのになあ。齢もおんなしぞ」
私は、
「高木さんのほうが一歳上ですよ。だから省三さんはもっと打たなくちゃダメです」
「才能がちごうとるやろう。才能ゆうんはどうしようもなかけんなあ」
「……去年の打率はどのくらいだったんですか」
「二割五分。今年は七分以上打ってほしか」
焼酎をグビリといく。
「四打数一安打。十分な才能です。近いうちに三割打てます」
太田が、
「神無月さんの言うことは当たりますからね」
菱川が、
「ほぼ百パーセント」
「うれしか。省三にもゆうちゃろ」
赤身の鉄火巻、蒸しアナゴ(甘いツメ)、ノドグロ(炙ってある)、紫蘇入り新香巻きが出てきた。どれもこれもうまい。空になったコップを太田に差し出す。菱川が、
「太田、つぐのは三分の一にしとけ。担いで帰らないといけないようになる」
秀孝が、
「神無月さん、そんなに酒弱いんですか」
「ビールでもコップ三杯だ。ときどき破目外すけど、すぐ寝る」
私は、
「あした休みだから、だいじょうぶです。オールスターの博多でもつぶれませんでしたよ。太田、もう一杯」
江藤が、
「博多の老松やな。あんときは巨人や阪神の連中がおったけん緊張したんやろうが……ばってん、よかよか、あとコップ半分飲ませちゃり。つぶれたら部屋まで運んじゃる」
客たちの拍手と笑い声が聞こえた。
「おもろいこと聞いた。天下の神無月選手はゲコですか」
女将が元気な明るい声で、
「かわいい! ますますあの大きなホームランが不思議」
「ワシらもかわいかァて思うとります。ばってん、金太郎さんは心臓も弱かけん、無理させられんのです。食の細かったのも、去年の夏ごろからようやく改善されてですね、それはよかけんが、腹下しの体質は先天的なもんやけん、やっぱり食うのも無理できんのです。ガラスのからだでホームランば打ちよるんです」
「江藤さん、ぼくの下痢体質のこと、だれに聞いたんですか」
「だれて……ぜんぶ知っとうよ」
太田が小声で、
「和子さんですよ。俺も菱も知ってます」
「―じゃ、コップ半分」
大笑いになった。客たちにも笑いが温かく伝染した。
マグロのカマがドンとテーブルの真ん中に一皿、それとアナゴの棒寿司が出された。平らげるのに時間のかかる代物だとわかった。私はすでに満腹になっていた。
「金太郎さん、もう顔にきとるばい。食いが進まんごたる。ワシらの話を聞きながらチビチビやっとればよか」
私はシッカリしていたが、小上がりにやってきた客や職人たちと彼ら四人が酒盃を交換したり、飲み食いに時間を費やしたりしているあいだ、言われたとおりチビチビと酒をすすった。秀孝が、
「江藤さん、レコード百枚も買って、だれかに配るつもりですか」
「そんなつもりはなか。買うということが重要たい。監督に対する親愛のしるしたい」
三人の若者は深くうなずいた。私にもよくわかった。親愛を表わす一つの方法として、そういう形もあるにちがいないと思った。江藤は客たちに、一枚でも買うようにと宣伝しながら相好を崩した。客の一人が、
「ここにいるみんな買いますわい。お孫さんがレコード出したとは知らなんだ。宣伝打っときましょ」
別の一人が、
「水原監督はいつまでも格好ええな。格好ええと言や、菱川選手と太田選手の背番号、4と5も格好ええですよ。からだが引き締まって見えるわい」
「ありがとうございます!」
また別の一人が標準語で、
「プロ野球選手というのは選びに選ばれてグランドに立ってる人たちですよね。人生大満足、鼻高々で生きていらっしゃるんでしょう?」
菱川が、
「そういう選手が多いですね。プロと言えない中途半端な連中ですよ。俺も去年までそんなやつでしたが、神無月さんにグワンと打たれて、危うく中途半端を脱しました。打ちのめしてくれる天才に出会わないと中途半端のままです」
「そんたうり!」
江藤が叫んだ。
「ワシも、三割二、三分の首位打者を二年連続で獲ったちゅうくらいで、天下取った気でおったっちゃん。菱とおんなしように金太郎さんにぶん殴られて、人間変わってしもうた。一年かぎりかもしれんが、今年のような成績はもう挙げれん。ばってん、天狗になっとったころよりはよか成績を挙げながら引退でくるやろう」
太田が、
「三割八分二厘、七十本。神無月さんが引退したらもうだれも追いつけない成績ですよ」
「夢のごたる。今年は三割五分、五十本は打ちたいのう」
太田が、
「俺たちは三冠五傑を狙います」
秀孝が、
「ぼくの最優秀投手賞もお忘れなく」
店内に拍手が巻いた。江藤たちはカマと棒寿司を平らげ、一升瓶も空にした。最後に麩の赤だしが出た。トドメのうまさだった。私の分の棒寿司が残ったので、江藤は土産の折にしてもらった。
「監督に届けちゃるばい」
私は小上がりから降りて会計をした。二万二千円と存外の安さだったので、三万円払った。
「歓待していただいたお礼です。取っておいてください。ところでみなさん、ぼくは酔ってませんからご心配なく」
また新しい拍手と笑いが沸いた。
†
二月二日月曜日。七時起床。八時間以上寝た。酒っ気はない。晴。二・四度。休日。ちゃんちゃんとルーティーン。少し下痢気味だった。ハブ酒をほんの一口含む。フロントでもらった大きな茶封筒に北村席の住所を書き、『ねないこだれだ』を入れ、ジャージに運動靴でロビーに降りる。五百円札といっしょに封筒をフロントに預け、郵送を頼む。
玄関に出ると、きのうの四人が立って談笑している。
「さあ、いくばい。帰ってめしば食ったら、もう一眠りたい。きのうあれから水原監督と少し飲んだけん」
「棒寿司、喜んでくれたんですね」
「おう、大好物やそうや」
「ぼくは朝めしのあとは、球場へいって三種の神器と素振りをします」
菱川と太田が、
「付き合います」
公園正面口に向かって歩き出す。太田が、
「きのう、菊水のカウンターに男が二人いて、大して寿司も食わずにビールばかり飲んでたでしょう」
「そう? 気づかなかった」
「ベンチの上やロビーでもよく見かける男たちです」
江藤が私に、
「護衛ね?」
「はい、ありがたいです」
「ワシらも護られとるけんな。ほんなこつありがたかばい」
「今年はだいじょうぶだと思うんですけどね」
「油断は禁物ばい。くだらんことに巻きこまれて野球ばできんごてなったら、元も子もなかけんな」
正面口の石垣から走り出す。散策路を道なりに剛ノ池のほうへ向かう。第一球場の傍らを抜け、枯れ芝と冬枝の中を走って池の端にたどり着き、落葉した樹林の中を反時計回りに走る。繋留されているスワンボートが樹間に見える。右に常緑樹の雑じった淡い緑の林、左に池。井之頭公園を数十倍に拡大した感じ。木柵と木のベンチで設えた巨大なボート乗り場を過ぎていく。ユリカモメが何十羽も飛来して、無人のスワンボートの屋根にとまっている。池の辺の芝地に点々と無数のベンチ。腐食しかけているものが多い。果てもなく大きい池に見えてくる。公衆便所裏の繁みにメタセコイヤのとてつもない巨木が佇立していた。
やっと池のもう一方の端まで到達し、距離を伸ばすために宏大な千畳芝とやらを周回する。ここも芝は枯れている。芝の東端に落葉したポプラが何本か立っている。対岸の遊歩道に出る。走りつづける。目の前を走る秀孝の繰り出す脚の動きが美しい。まだだれの息も上がっていない。対岸にボート乗り場が見える。ようやく池の出発点に戻った。ここまで正面口から八分足らず。
「まだ千二、三百メートルやろう。よしゃ、もう一周!」
黙々ともう一周し、少しスピードを上げて人けのない遊歩道を走り正面口に戻る。汗は額に滲む程度。まったく疲れていない。ホテルに向かって堀端を歩き出す。秀孝が、
「最高のウォーミングアップですね。スムーズに練習に入れます」
菱川が、
「これで十六、七分なら、公園の外周りで迷ってたら一大事でしたよ。正解でした。キャンプのあいだつづけましょう」
「雨以外はな。合羽がないけん、風邪ひくとやばか」
太田が、
「ちょっと足りない気がしますから、コースについてはもう少し考えますか」
「あと十分ぐらいほしかな」
八
喜春の間でバイキング。たっぷり食う。菱川が、
「ドラゴンズは三週間ちょいのキャンプだけど、ほかのチームはほとんど四週間やるんですよ。第一クールから第四クールまで」
太田が、
「そうらしいすね。第一クールで徹底したトレーニング、第二クールから投手陣の投げこみ、第三クールで紅白戦、第四クールで緻密なことをやると決まってるらしいです。中日はぜんぶ自主練みたいなものですからね。そんなふうに杓子定規じゃない」
菱川が、
「自主練習っぽいのは一軍だけで、二軍はずっと第一クールみたいなもんだよ」
ジャージのまま、太田、菱川と第一球場へ。グローブを指したバットを担ぐ。一時間ほどのあいだに、かなり見物客が増えている。正面口の石垣が終わってすぐ左手に屋根付きの小さな建造物があって、全面のガラス窓に遮られた内部にさらに竹のスダレが垂らされていて、いったい何があるのかわからない。立て札に〈とき打ち太鼓〉と記されている。したがってこの開放門を太鼓門と言うらしい。通過。今度はじっくりと園内を見物しながら歩く。蝋梅(ろうばい)の黄色い花がきれいに咲き揃っている。ほのかにいい香りがする。桜で有名な公園に桜はまだ咲いていない。宮本武蔵が設計したという庭園。それに隣接するひぐらし池に水鳥がたくさん浮かんでいる。兜(かぶと)日時計から二つの櫓(やぐら)を眺める。
「あの櫓、何て言ったっけなあ」
太田が、
「右が巽櫓、左がひつじさる櫓です」
「乾坤一擲のコンの字だよね」
「さあ、よくわかりませんけど、方角のことじゃないですかね」
大木、小木、芝地、ほかにはトイレと公衆電話以外何もない道なので、すぐに球場に到着する。
「櫓の向こうにはいろいろ池や施設があって見どころがあるんですけどね」
第一球場の正面玄関を入り、広い回廊からネット裏の階段を上がってスタンドに出る。
「球場全体を見ておきたい」
最上段まで登る。菱川がフィールドを見下ろし、
「うお、広いなあ!」
ネット裏席は十九段あり、下九段が背凭れあり(紺)、通路を挟んで上十段が背凭れなし(緑)。内野席は板敷き(オレンジ)、下九段、上三段。ほかは芝生席。
回廊に戻り、ベンチを通ってグランドへ。トレーナー姿の六人の審判員たちが、外野の芝生でストレッチをしたり、走ったりしている。遠くの彼らにいちおう挨拶をして、ベンチ前でキャッチボールを始める。三人とも手首だけで山なりのボールを投げることに徹する。それでもかなりグローブに手応えを感じる。
ゆっくりベースを五周。三塁側ファールゾーンの芝生で三種の神器百回ずつ。片手腕立て六回ずつ。素振り九コース二十本ずつ計百八十本。彼らには屁っぴり腰二十本がきつそうだった。審判団たちは親睦を図らないように、寄ってこなかった。ただこちらを眺める顔に微笑があった。
「休日ごとにこれをやりましょう」
菱川が、
「毎日屁っぴり腰をやらないと」
「屁っぴり腰にする必要がないときは思い切り踏みこむ。その素振りも練習するほうがいいです。とにかく素振りを五百本も千本もするのは愚の骨頂です。わざとからだを壊そうとしてるとしか思えない」
太田が、
「最大百八十本、真ん中の素振りをしないなら百二十本」
「うん、二百本以上になるといずれかならず腰を痛める。中一のとき椅子から立ち上がれなくなったことがある」
グローブをバットに差して担ぎ、引き揚げる。彼らは玄関口から北のほうへ向かおうとした。
「園内見物ですか? ジャージ姿はまだしも、バットとグローブはちょっと……。持ってってあげますよ。フロントに預けておきますから」
菱川は、
「ありがとうございます。でも見物じゃないんですよ。第二球場にいって、二軍の練習を見ようと思って。キャッスル組はきょうもやってるはずですから」
太田が、
「彼らは金曜だけ定休です。打ちこみにちょっと参加してきます」
ふと心が動いたが、二軍選手の練習に見るべきものはないと思い直した。
「そうですか。じゃ、ぼくはこれで」
「また晩めしで」
部屋に戻り、ドリッパーでガテマラをいれる。『雪国』にかかる。青高以来の再読。と言うより、読み出してすぐ放棄したので、初読になる。
書き出しが思わせぶりで好きになれない。石原慎太郎のへたな小説よりはマシだと考えて無理に読む。冒頭、葉子の声を〈悲しいほど美しい〉と表現するが、陳腐だ。読み進む気力がぐんと低下する。池部良(島村)と岸恵子(駒子)が共演した映画を思い出す。あれも観つづける気力を低下させる映画だった。顔や体温ではなく指でだけ憶えている女を男は愛することができない。私にとってはその一点に収斂する作品なので、あらゆる美文が冗長に感じられる。逞しい谷崎は読み継がれていくだろうが、繊弱な川端は教科書の中に名前だけ残る作家になるだろう。真昼に読了。彼のものはこれをかぎりにもう読まない。
ブレザーにオーバーをはおり、革靴を履いて、エレベーターへ。メールでグリーンカレー。深みのある味。満足。一階に降りてフロントに鍵を預ける。木や花をじっくり見たいという気分になり、第一球場の北側庭園を目指して散歩に出る。
中部銅像を囲むカイズカイブキをたたずんで眺める。生垣でよく見かける常緑樹だ。正面入口へ。花壇にサンゴジュの常緑の長い葉の繁み。石垣上のアキニレの木を見上げて太鼓門を入る。燈籠の背後に榎の大木。エノキは枝(え)の多い木で、よく道具の柄に使われることからその名が付いたと図鑑で読んだことがある。石垣の園路沿いにクスノキの緑。案内所の手前にポピュラーなケヤキの落葉樹。
午前より多少人出が増している。手荷物を提げているカップルや家族が多いのは旅の途次に立ち寄ったということだろうか。公衆便所脇にヒマラヤ杉の巨木。武蔵の庭にイヌツゲやウバメガシの緑の丸い葉群れとシダレヤナギ。ひぐらし池の向こう岸にトベラの丸い葉群れ、春には白くてかわいらしい花が咲く。こちらの岸にはハマヒサカキの楕円の葉群れ。
園路を球場に向かって進む。名前のわからない樹木が続々と視界に入ってくる。その中にアラカシやシラカシ、クロマツ、ナギの木が雑じっている。広場の中に立っている何本かのこんもりとした木はマメツゲだ。二つ目の公衆便所脇に見慣れた枇杷の木が立っている。
第一球場の玄関口到着。目の前にラクウショウの大木。北へ進路を変え、坤櫓の石垣の西端を過ぎて広い遊歩道をいく。この時期しか見かけないセンペルセコイアのピンクの小花。常緑樹で世界一高くなる木と言われている。白い花を群らがり咲かせている潅木の名がわからない。
剛ノ池の手前を右に曲がり、イチョウの下を通り、桜堀の南岸に出る。常緑のカクレミノに雑じり合って、開花前の桜の木や、落葉したイロハモミジとアメリカフウの木が並んでいる。秋には紅葉が美しいだろう。本丸跡地へつづく石段を登ってみる。第一球場と庭園と市街地を見下ろす。ビルの背が低い。跡地の敷地一帯に桜に雑じってクロガネモチやモチノキ、クワ、ヤマモモが植わっている。ポツンと棕櫚の木。潅木はモッコクだ。ビャクシンが緑の絨毯になって地面を這っている。櫓と櫓をつなぐ帯郭沿いにシナノガキ。帯郭の屋根瓦が陽にきらめく。たかーい、たかーい、と叫ぶ子供の声が聞こえる。
通路を抜けて二の丸へ。老婆たちに頭を下げられ、下げ返す。シャシャンボの緑葉。ハゼノキの落葉樹。秋は葉が真っ赤になる。桜の下に朽ちかけたベンチが並ぶ。老夫婦が一組座ってはるか遠く海を眺めている。二の丸から下へ降りる階段沿いによく公園樹で見かけるネグンドカエデが並んでいる。降りずに道なりに東の丸へ進む。アオキの鮮やかな緑。
土手に突き当たり、引き返して桜堀の園路へ戻る。ヤマガキやヤブニッケイの樹林の下を歩く。
名も知らぬ木立の群れを進んで第二球場のほうへ近づいていく。五分ほどで到着。レフトポールぎわの簡易な外柵から眺める。十数人の選手たちが午後の練習をしている。去年も感じたが、野球盤。引き返す。滑り台が二つと、得体の知れない遊具が二つあるきりの寂れた公園を見てから、木群れの下を第一球場へ歩き戻る。老人集団と家族連れが多いことと、そこにもかしこにも数かぎりなく桜の木が植わっていることが印象に残った。
ホテルのラウンジで一休み。二、三人の客にサインを求められる。応える。フロントでクリーニングの上がったユニフォームと鍵を受け取り、406号室へ戻る。仮眠。
†
五時に起きて、うがい、歯磨き。夕方のニュースを点ける。ミズノとマツダの宣伝のあと、一般のニュース。スポーツニュースはほとんど明石キャンプの情報ばかり。他チームの情報も少しある。ただし巨人と阪急のみ。新人紹介で数秒間、小笠原照芳と山田久志が映った。照芳は力強いスリークォーターになっていた。尾崎のような投げ方だった。対戦が楽しみになった。山田は変則的なアンダースローだったが、どうという感じも抱かなかった。
六時半、江藤一行四人がやってきて、南口の羅生門という店で焼肉を食おうということになる。高木、小川、一枝が加わり、私を入れて八人、ジャージ姿の徒歩でいく。大明石町の食い物屋が固まっている界隈で、ついに『お好み焼道場』発見。羅生門が路一筋向こうの曲がり角に見える。小川がニヤつき、
「食前〈食〉、食っとこうや」
サッと暖簾をくぐる。カウンターの前に赤エプロンで立っていた三十代から四十代のおばさん四人が、
「キャー、ドラゴンズ!」
と喚声を上げる。カウンターの中にオヤジが三人。客はまだ一組しかいない。店内が広いので卓を分けて八人悠々座れる。四人掛けテーブル二手に分かれ、小川は明石焼きとミックスお好み八人前を注文。
「おやつだから、食ったらすぐ出るよ。ホテルのめしが待ってるからね」
じょうずな言いわけをする。
「はーい」
「ほーい」
ここではビールを飲まない。江藤が、
「あした実戦フリーバッティングで守備がきつかけんな」
焼肉屋では飲むだろう。六、七分で明石焼き十個とミックスお好みのセットが、目の前の鉄板の上に供される。この店の明石焼きはタコ入りで、スープではなくソースを塗って食べる期待どおりのものだった。プロ野球選手八人はものも言わず五、六分で平らげた。
「ごっつぉさーん!」
水を飲み干し、腰を上げる。私は、
「有名な店なので、一度きてみたかったんですよ。あした、もしこられたら、見物楽しんでください」
ふたたびおばさんたちが嬌声を上げる。高木が、
「練習日はいいから、日曜日のオープン戦にはぜひ」
店主らしき男が、
「はい、どうせ店が空になるでしょうから、かならず観にいきます」
小川が苦笑いし、
「キャンプ見物ごときで商売サボっちゃだめよ。休みの日にしなさい」
と言いながら会計した。おばさんたちがまた笑った。
「ありがとうございました!」
通りへ固まって出て、
「さ、肉だ!」
菱川を先導にして羅生門へ向かう。塀も戸も黒っぽい板造りの店に入る。ここも大きな店だ。高級焼肉店のイメージ。きちんとした仕切り衝立のある四人掛けテーブル十五卓。十二人用掘り炬燵一卓、四人用掘り炬燵二卓。六割方の客が入っている。いききしている店員全員で、
「らっしゃいませー!」
「オー!」
一瞬店内の一部がざわついたが、すぐに落ち着き、男子店員の静かな応対で長テーブルの掘り炬燵席に案内される。店のいちばん奥の人目の届かない場所だった。お仕着せを着た責任者ふうの男子店員が注文をとりにくる。
「いらっしゃいませ、中日ドラゴンズのみなさま。ようこそお越しくださいました。みなさまのおかげで、いま町じゅうが盛り上がっております。どうか二十二日間無事に練習に励まれ、つつがなくキャンプを終えられるよう祈っております。きょうはおいしいお肉をたっぷり食べていってくださいませ」
三人ぐらいがメモ用紙を持ってやってくる。江藤の、
「上カルビと上ロースば三人前。めし大盛り」
を皮切りに、肉好きの菱川が、
「はらみ、らんぷ、くりみ、いちぼ、それからホルモンは上ミノ、センマイ、ぜんぶ二人前ずつ、めしはドンブリで」
秀孝が、
「ぼくは五色ナムル、レバー、ユッケ、塩カルビ二人前、鞍下(くらした)ロース二人前、ごはんはどんぶり」
高木が、
「霜降りの少ないロースだな。食通か。俺は特上ロース、特上カルビ、モツ盛り合わせ、めしはふつう盛りで」
一枝が、
「ビビンバの大盛り、カルビスープ、キムチ盛り合わせ」
太田が、
「テッチャン、小テッチャン、明太子キムチ、石焼きビビンバ大盛り、最後に冷麺」
小川が、
「もやしナムル、豆腐サラダ、ソーセージ、カルビうどん、淡路鶏をタレで。それからサッポロ生、大ジョッキで八つな」
私は、
「角切りヘレ、海鮮盛り合わせ、辛口キムチ、ワカメスープ、めしは大盛りで」
メモ係三人は、少々お待ちくださいませ、と言って去った。すぐに生ビールがくる。
「カンパイ!」
九
私は、
「こういうところの食事代のマネージャー申請はどうなってるんですか」
江藤が、
「領収書は一人五千円までしか切れん。それを越えた分は自腹たい。心配せんでよか。ワシが全部払うけん。領収書分はちゃんと返してもらうっちゃん」
小川が、
「遊興費でない食事代はいままでぜんぶそうしてきたんだよ。例外だったのは、オールスターのときの博多の老松くらいだ。水原監督の太っ腹の餞別を慎ちゃんが使い切った」
高木が、
「羨ましい話だなあ。今年は俺もオールスターに出るよ。木俣も菱も太田も秀孝も」
「戸板もな」
男たちがひたすら肉をむしゃむしゃ食う。みごとな食いっぷりだ。焼き板の上の肉がだれの所有物か区別がつかなくなる。江藤が、
「水原さんのレコードな、よか売れゆきだそうだ」
高木が、
「中日スポーツに載ってた。読んだ」
「金太郎さんの五百野も、予定発売部数を超えた予約が入ったちゅうが」
「発売前に増刷というめずらしいことが起きてるそうだよ」
太田が、
「五百野はそうなってあたりまえですよ」
一枝が、
「五百野を読むと身がよじれる。いい音楽と同じだ」
菱川が、
「ああいうすばらしい作品を書いた神無月さんに訊きたいことがあるんです」
「すばらしいという評価は聞かなかったことにします。身の上話をちょっと脚色して仕上げた学校作文といつも言ってるのを信じてください。いずれそういう定評になるでしょう。……で、何を訊きたいんですか?」
「このオフに倉敷に帰ってたとき、むかしつるんでた同級生と町のリバイバル館で黒澤明の『生きる』って映画を観たんです。二時間半、がんばって観ました。癌でもうすぐ死んでいく市役所課長の話で、彼が夕焼け空を見上げて『ほう、美しい。夕焼けがこんなに美しいものとはこれまで知らなかった。しかし、私にはもうそんな時間はない』というシーンがあります。俺泣きました。映画館を出て、そいつにその話をすると、そんな場面があったことすら思い出せないようで、この映画は男一匹、死にぎわを飾る格好よさを描いてる、そういうべたべたしたところじゃないと言うんですよ。つまり俺の感動した場面なんか何とも思ってなかったようで」
みんな聞き耳を立てはじめた。
「べたべたとか、湿っぽいとかいうのは、感性に欠けた人の言う常套文句です。菱川さんがぼくの感想を訊きたいのは、同じ人間でそこまで感じることがちがうのかなあって不安に思ったからでしょう―。じつはぼくもその場面に強く打たれました。わざとらしいゴンドラの唄のブランコの場面じゃなく、あの夕焼け空を見上げたときに発した科白のせいで『生きる』という映画は傑作になったと思います。……そんないつでも見られるものに感動する瞬間があるのが人間です。あたりまえのことが特別に思われるんです。実際、最後になつかしく思うのはそういうことでしょう」
私は七人の顔をゆっくり見回し、
「人は何かをじっくり見つめたり、じっくり聴いたりすることをやりすごして生きていくものです。だから何かにハッと気づいたときに、何もしてこなかった自分を恥じて心がふるえるんです」
江藤が掌の土手で目を拭った。高木が、
「すごくよくわかるなあ」
と言って洟をすすった。秀孝が、
「ぼくもめちゃくちゃよくわかります。感動というのは、時間がゆっくりになったときにやってくるものですからね。そういうことが、その友人にはわからなかったんでしょう」
太田が目の縁を指でいじりながら、
「その市役所課長は、しかしもうそんな暇はないと言わないほうがよかったですね。それは自分の胸にしまって、夕陽だけに浸ってればよかった」
一枝が、
「それから坦々と日常の行動に戻る、か……」
「はい」
私は、
「その人は菱川さんの寛大さに甘えて、自分の価値観を押しつけたんだと思います。人間の情感というものに価値を見出せない人だからです」
菱川が、
「そいつもいつか同じようなときに同じようになつかしく思うときがありますかね」
「いえ、そうは思えません。なつかしく思うくせに、格好悪いから意地でも言わないという一種の美学とはちがいます。頭の良し悪しともちがいます。人が生きるのに情緒は役に立たないという、どこかで聞きかじった価値観を信奉したせいで、ふとした瞬間になつかしさを覚える感性が育たなかったんですよ。価値観のちがいは大きい。人間の情感を大切に思う勇気を持つか持たないかで、菱川さんとその人の感性のレベルがそこまでちがってしまったということです。言ってみれば、勇気のレベルのちがいです。不安に思うことはありません。菱川さんに批判される要素はない。ぼくたちの愛しい人です」
江藤が、
「それでじゅうぶんやろうもん。そぎゃんクセの悪かやつに近づかんようにしとけ。そんくらいの努力はせんといけんぞ」
ビールと肉のお替わりもなく、すっかり満足した私たちは、江藤をレジに残し、店員と客たちに律儀に挨拶して表に出た。菱川が、
「ああ、気持ちがスッキリしました。ぜんぶピシッと決まった感じです。神無月さんはいつもこんな感じで生きてるんでしょうね」
「なかなかそうはいきませんよ。世間道徳に合わない生き方をしてるんで、居心地が悪いんです」
「女ですか?」
「それはごく一部です。罪悪感というのは精神世界のものですから」
江藤が出てきて、私の最後の言葉を聞きつけ、
「金太郎さんは自分を心の淡か人間と思うとるばい。それを勝手に罪と思うとる。……父親やろうが、母親やろうが、親戚やろうが、友人知人やろうが、ぜんぶ愛さんば人間失格やと思うちょる。……最低限の人間にかかずろうて世間的に生きとれば、人は安らぐもんたい。ばってん、金太郎さんは安らがん。おのれの安らぎが最後の目的やなかけんよ。そんな人間の心が淡かはずがなかろうもん。ちかっぱ濃か心の人間たい。―ワシャ、金太郎さんにこの身を預けちょるよ。おまえらもその一人やろう」
「はい!」
「オス!」
「そのとおりだ!」
高木が、
「いっしょに齢とらせてくれよ」
と言いながら私をきつく抱き締めた。
†
ホテルのラウンジでみんなでコーヒーを飲んだ。太田が、
「朝のランニング、鷹匠町の信号を西へ真っすぐいって明石川に出て、岸沿いに北上するコースがいいんじゃないかと思うんです。きょう菱川さんと軽く走りながら調べてきたんですけど、川沿いにふたこし橋までいき、そこから県道を引き返して鷹匠町の信号までくると、ちょうど三十分でした」
私は、
「いいですね、それにしましょう」
一枝が、
「球場でちょっとダッシュするくらいですむな。よし、決まった」
高木が、
「球場でランニングをやると決めてるやつもいるから、自由参加ね」
秀孝が素朴な目で、
「江藤さん、今夜はどのくらい足が出たんですか」
「くだらんこと心配すな。毎日外食するわけやなかけん。おまえらも今年から高給とりやろ。食う金に糸目つけたらいけんぞ」
「オス」
一枝が、
「先輩と食いにいくときはかならずおごってもらえよ。おごらん先輩とは二度といくな」
菱川が、
「新人たちにはぜったい金を出させたらだめだぞ。ふところ寒いんだから」
江藤が目に力をこめて、
「タニマチ気取りの連中の誘いは断るべし。悪か道が待っとるけんな。戸板や谷沢ごたる有望な後輩がそういうやつらに誘われたら、できだけ防波堤になっちゃれ」
「オス」
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二月三日火曜日。六時半起床。晴。ちょうど零度。ルーティーン。やはり下痢便。
七時。昨夜の肉仲間、ホテルの玄関集合。戸板と谷沢も加わり、十人。鷹匠町の信号まで腕を回したり振ったりしながら歩き、兵庫県立図書館所管前からいっせいに走り出す。先頭秀孝、真ん中江藤、最後方、私。私の前を高木と一枝が走っている。風景の記憶が始まる。左に森本酒店、喫茶あすなろ、ヘアサロンやまと、右に明石年金事務所。ガード沿いに信号直進。大敷地の工場群をなぞるようにやや右カーブ。世界に伸びるハカリ・ヤマトという三階建の社ビルがあるとこをみると計測機具を作っている会社のようだ。愛知時計の工場群とそっくりだ。
明石川の岸辺に出る。庄内川ほどの大きさだ。水量は少ない。鉄柵沿いの広い歩道を走る。洋式のランプ柱が連なる快適な道。大瀬子橋とよく似た嘉永橋。なかなか尽きない工場群のコンクリート塀に《大和製衡(株)本社》の標示板が貼ってある。高木が、
「計測機器では国内ではトップシェアだ。自動車の風洞天秤を独占的に作ってる」
「何ですかそれは」
「自動車が高速で走るとき、車体にかかる風圧の計測をする大型機械だ」
工場群がようやく終わり、民家やアパートの点在する道になる。広大な空き地がつづく。上南橋。川が二手に別れ、左は明石川、右は伊川。印象の薄い浅い川に沿って走る。ところどころ干上がっている。民家の密度が濃くなる。ふたこし橋。二腰橋と書く。鋭角的に右折。完全な住宅街に入る。ここまで十三分できた。
右に明石茶園場(さえんば)郵便局、左に明石市立市民病院。豪壮な病院で、道路沿いの開放庭にソテツの大木が等間隔に四本植わっている。中村日赤と同様、向かい側の道路に薬局が何軒も並んでいる。長屋ふうの大きな理髪店と大きな喫茶店。どちらも病院関係者や患者たちがかよう店だろう。
歩道が広い。戸板が先頭に出る。菱川、太田、高木、秀孝がつづく。私は江藤の前に。江藤以下、一枝、谷沢、小川。しかしみんなの足どりは確かだ。ようやく汗が噴き出してきた。左奥に明石公園の緑。道路沿いに商店。中国料理美味園、きのう見た阪田種苗店、理容ヤマカワ、左に明石陸上競技場、右に住宅、商店、鮨屋、飲み屋、マンション、大駐車場。左に濠と緑。延々と鷹匠町の信号までつづく。信号。七時二十五分。
「クールダウン!」
一枝の大声。歩きだす。小川が、
「ちょうどいい運動だ。東映時代を思い出すと、ウォーミングアップからして二時間だったからな。軍隊みたいに、オイッチニ、オイッチニって、グランド十周から始めてね。ドラゴンズはウォーミングアップは各自事由だ。継続が命という方針を貫いてる」
七時二十八分、玄関帰着。それぞれシャワーに引き揚げる。
うがい。ジャージ、下着、靴下、ぜんぶビニール袋に。シャワーを浴びる。新しい下着とジャージでメールのバイキングへ。一般客はいない。やはり七時半から八時半はドラゴンズの貸切りのようだ。店内に選手たちがビッシリ散らばっている。ドア口でプレートをとり、炒り卵、卵焼き、ウィンナーの切り身、鮭の切り身、焼きタラコ、麩とネギの味噌汁、板海苔、野菜サラダ、めしはどんぶり大盛り。レストランは二階角地なので景色がいい。濠を眺め下ろす席に着く。小野と木俣の卓に同席する。小野が、
「きょうのフリーは控え相手なんで、打たれたら恥ずかしい」
木俣が、
「そんな弱気でいたら、控え相手でも打たれますよ。谷沢は特に危ない。きょうは私がキャッチャーなんで、どんどんきびしいコース要求しますから、そのとおり投げてください。ふつうのスピードでいいです」
「オッケー、よろしく」
パン食は監督コーチたち。ほかは全員白米を食っている。朝からカレーの選手もいる。
「ちょっと待ってください。去年二軍の試合を見学したことでわかったことですが、控え選手や二軍選手の特徴は、絶好球でもファールしか打てない確率が高いことです。ふつうのピッチャー相手にです。ましてや一線級のピッチャー相手となると、ファールどころか空振りの確率が高くなります。常に三球三振を狙ったほうがいいです。コースはきびしくしなくていいでしょう。球速さえあれば三振か凡打をしてくれます。百三十キロ後半のスピードボールは多用すべきです」
木俣が、
「なるほど。小野さんそれでいきましょう。速球とパワーカーブと、フォーク、ドロップで三球三振を狙いましょう」
「ほいきた、それなら私程度の速球でもいけるね。今年で引退だから、年の始めの試(ためし)にはならないけど、最後の花道に踏み出すことはできる」
「はい!」