十

 九時から十一時四十五分まで、一昨日のメニューどおりの練習に入る。一塁側ブルペン奥で高木とキャッチボールをしたあと、ライトからレフトまでポール間ダッシュを三十メートル刻みで片道のみやる。センター122標示の下で三種の神器。観客は芝生席に少し空きがあるくらい入り。
 昼めしのあと、実戦式フリーバッティング。主審マッちゃん。きょうウォーミングアップのとき少し話をした。
「神無月さんにとってホテルは監獄みたいなものじゃないかって、仲間内で話してたんですよ。ひょっとしたら野球のフィールドも」
「フィールドも?」
「はい、巨大な神人が、狭くて、年じゅうずっとショーをさせられてる。天を駈け回れば何百年も、いや永久に生きられるのに、たった数年しか生きられない。どれだけストレスが大きいか」
「象徴的な話ですね。ぼくは小さな人間です。狭いところが好きなんです。狭いところでゴチョゴチョ動いてるのが好きなんです」
「そうですか、初耳です。……ただ、神無月さんがチームメイトと仲良くやっている図には、とても大きなものを感じますけどね」
「大きな幸福の図だからでしょう」
「あの、神無月さん、迷惑じゃなければ、なぜお母さんと離れてファンのお宅で暮らしていらっしゃるのか訊いても?」
「はあ……常識の中で生きている人たちに迷惑をかけるからです。ぼくにはその気がなくても、彼らに対して失礼なことばかり言ったりしたりすることになる。彼らもぼくに同じようなことをするようになるでしょう。野球選手の神無月郷としてがんばっていても、その気力を挫かれることも起きてくるにちがいないんです。ぼくは彼らに変人と見られているとわかりますから。変人のぼくは彼らにとって役立たずです。彼らの中でぼくの味方をする人がいても、彼らの中にいるかぎり、負けます。ぼくは彼らといっしょにいないほうがいいんです」
「私は彼らの一人かもしれないけれど、味方でいたい」
「ぼくも松橋さんたちの味方です」
 明石高校の放送部員のアナウンスがやわらかく流れる。
「中日ドラゴンズ明石キャンプ、合同練習二日目です。いまや明石の街はドラゴンズ一色です。地元の高校生としてうれしいかぎりです。なお、私たち明石高校の放送部員の活動はきょうまでです。高校生の場内アナウンスという、明石球場初の試みをさせていただけたことを中日ドラゴンズのかたがたに心より感謝いたします。プロ野球というものを間近に見て、そのすごさを感じられる場で活動させていただけたことを部員一同名誉に思っています。きょうもがんばります。さて、本日の練習メニューは……」
 フィールドで動き回っている選手を折々、背番号や経歴や成績ともども紹介する。選手たちはスタンドに手を振る。
         †
 一時半から実戦式フリーバッティング。一番手ピッチャー小川。硬骨漢。いつでも辞める気でいる男。
「最初に登場するピッチャーは小川健太郎選手、背番号13。なお審判は、チーフアンパイア松橋さん、一塁塁審柏木さん、二塁塁審富澤さん、三塁塁審丸山さん、レフト線審竹元さん、ライト線審岡田さんです。一番目のバッターは井手峻(たかし)選手、背番号36」
 フリーバッティングなので一番バッターと言わない。内角速球空振り、真ん中スローボールファール、外角スライダー空振り、三球三振。静寂。
「二番目のバッターは日野茂選手、背番号6」
 浮き上がる内角シュート空振り、外角カーブファール、真ん中低目ストレート見逃し、三球三振。パチパチ。ベンチに退がる背番号6が萎んでいる。
「三番目のバッターは新人谷沢健一選手、背番号14」
 小川が膝の屈伸運動をする。私たちも固唾を呑む。初球外角ストレート、三塁側内野スタンドへファール、二球目サイドスローから内角ストレート空振り。少し内側に曲げた手首を絞って刀のように薙ぎ下ろす。大振りではない。三球目真ん中高目ストレート、薙ぎ下ろして当てた。詰まったゴロが三遊間深く転がり、一枝は捕っただけで送球をあきらめた。内野安打。大きな拍手。記念すべきプロ入り初安打だ。ベンチも水原監督も拍手している。谷沢は口角に皺を寄せて長谷川コーチと握手する。
「四番目のバッターは江島選手、背番号12」
 外野手は守備位置を深くする。外角低目ストレート、見逃しストライク、外角高目ストレート空振り、内角高目ストレート空振り、三球三振。さすが小川。お仕事終わり。スリーアウトということでランナーもいったんベンチに戻る。
「ピッチャーは水谷則博選手に代わります。五番目のバッターは江藤省三選手、江藤慎一選手の弟さんです。背番号28」
 温かい拍手。初球、お辞儀をするストレートを打って、太田の前に痛烈なライト前ヒット。大きな拍手。長谷川コーチとタッチ。今年はやりそうだ。
「六番目のバッターは千原陽三郎選手、背番号43」
 インコース直球ファール、同じコースにカーブファール、三球目外角ストレート、詰まって私への浅いレフトフライ。
「七番目のバッターは、新人坪井新三郎選手、背番号60」
 百六十八センチ六十五キロの小兵。ストライク、ボール、ストライクと低目を三球見逃し、ツーワンから内角高目のカーブをセンター中の前にポトンと落とすヒット。拍手。ワンアウト一、三塁。省三のキビキビした好走塁が目についた。
「八人目最後のバッターは新宅洋志選手、背番号19」
 外角のゆるいカーブを二球見逃したあと、内角ストレートを強打。サード菱川への痛烈なゴロになる。みごとに掬い捕って、高木へ矢のような送球をする。高木ファーストへジャンピングスロー、悠々ゲッツー。喚声と拍手が沸き上がる。美の極致。外野守備陣もグローブを叩いて拍手する。
「ピッチャーは小野正一選手に代わります。背番号18。バッターは一番目に戻って井手選手」
 井手は初球内角顔のあたりの速球を打ちにいって、止めたバットがボールの芯に当たり、運よくセカンド後方へポトリと落ちるテキサスヒット。長谷川コーチは塁上の井手と握手せず、しゃれた皮手袋をはめとしている後ろ姿を呆れ顔で見つめている。
「バッター、日野選手」
 いつまでもスイングが安定しない頭打ちの男。なぜか二軍の試合ではいい打率を残しているようだ。低目カーブ、低目速球、切れのいいドロップであっけなく三球三振。スタンドの観客は、一軍レギュラーピッチャーと控え選手との実力差を目の当たりにして感嘆のため息をつく。木俣が何気なく一塁の江藤へ素早い送球をした。手袋を見つめながらボンヤリ立っていた井手は送球に気づきもせず、タッチアウト。笑い声混じりの拍手。江藤がうれしそうに内野へボールを回す。
「バッター、谷沢選手」
 注目の二打席目だ。初球、外角をかすめるカーブを見逃しストライク、二球目同じコースを三塁側芝生スタンドへファール、三球目、四球目、内角高目ストレートを見切ってボール。やるな。外角に的を絞っているようだ。五球目、外角へ落ちるカーブに合わせ切れず、一枝の頭上へショートフライ。予想した外角だったのに口惜しいだろう。
「ピッチャーは新人戸板光選手に代わります。背番号11。バッターは江島選手」
 秀孝を線対称にしたような投げ方。頭上低く振りかぶり、腕を引き絞って胸を張り、鞭のように柔かく手首を叩きつける。故障しない投げ方だ。初球真ん中高目のストレート、速い! 江島見逃してボール。二球目外角低目へパワーカーブ。江島はつんのめるようにして左手一本で合わせる。
「オー!」
 喚声が上がる。センター後方へ大飛球がフェンス目がけて伸びていく。中ジャンプしてグローブの先で捕球。戸板は驚いたように中が跳びついたセンターフェンスのあたりを眺めている。片手であそこまでと思うかもしれないが、バッティングはインパクトがすべてなのだ。
「バッター、江藤省三選手」
 ツースリーまでファールで粘り、ど真ん中のストレートに詰まりながらもサード菱川の後ろへポテンヒット。戸板はスパイクで懸命にマウンドを均す。
「バッター、千原選手」
 レギュラー以外の選手はみな、今年が正念場だと思ってがんばっている。そして心の隅のどこかであきらめている。その影を見せてはいけない。初球内角低目のストレートを痛打して、ライト太田へのライナーのヒット。目の覚めるような直線だ。私は胸の内で拍手する。ワンアウト一、二塁。戸板はプロの洗礼を受けている。控え選手相手でもプロは生やさしくないのだ。
「バッター、坪井選手」
 小兵の坪井は内角速球にバットを折られて高いバウンドのファーストゴロ、江藤、ベースを踏む余裕がなく、省三が向かうサードへ送球。間に合わないか? いや、ぎりぎり封殺した。三塁コーチャーズボックスの水原監督が拍手する。ツーアウト一、二塁。フリーバッティングに〈代打〉というのはおかしいが、井出に代わって伊熊が出る。
「井手選手に代わって、バッター、伊熊博一選手、背番号25」
 このあたりの選手は戸板の敵ではなく、たちまち三振。
「ピッチャーは星野秀孝選手に代わります。背番号20。バッターは日野選手に代わって
 高木時夫選手、背番号31」
 二軍コーチ兼任の高木時だ。埼玉県立浦和高校出身の秀才。右投げ左右打ち。右で打つことが多い。秀孝は内外の速球で高木時をツーワンと追いこみ、真ん中高目の高速ストレートで三振を取った。
「バッター、谷沢選手」
 ストレートを使わず、パーム五球連投で三振。きりきり舞い。
「ここでドラゴンズファンのみなさまにサービスです。杉山一軍コーチが飛び入りでバッターボックスに入られます。きっちりアウトカウントに計算されます。杉山コーチ、がんばってください」
 杉山はバットを掲げて応えた。背番号61、百八十センチの長身が右バッターボックスに立つと、場内拍手喝采になった。四十四歳、かつての本塁打王。少し背中を丸めて、グイと後方へ腕を引いて構える。杉山は、のめったり、反り返ったり、クルクル回って三球三振だった。場内大爆笑。スタンドへ帽子を振ってベンチへ退がる。構えの自然さが目に残った。
「ピッチャー、水谷寿伸選手に交代します。背番号25。キャッチャーは木俣達彦選手から高木時夫選手に代わります。バッターは、江島選手」
 江島はワンワンからの内角シュートを見逃し、ワンツーとしてから、外角カーブを今度こそ芯で捉えて、右中間芝生スタンドに打ちこんだ。ライトスタンドの観客が総立ちになって拍手する。センターの中が微笑みながら、ボールの落ちたあたりを見つめている。後継者の成長がうれしいのだ。江島は三塁を回って水原監督とタッチし、抱擁の恩恵にあずかるきょう一人目の選手になった。
「バッター、江藤省三選手」
 省三は、ここを攻めどころと思ってか、初球から果敢に打っていく。チップファール、空振り、大根切り三塁芝生席へファール、バックネットオーバーファール、レフトポールすれすれのファール。そして五球目、空振り。
「ヒャー!」
 どよめく落胆の〈歓声〉。省三の真剣味が野球ファンをたっぷり楽しませたのだ。
「バッター、千原選手」
 千原も張り切ってバッターボックスに入る。新しい喚声が上がる。前の打席に痛烈なライト前ヒットを打っているのを観客が憶えている。盛りを過ぎたベテラン水谷寿伸も気力を取り戻し、初球、二球目とカーブでカウントを整え、三球目、クイックモーションのスローカーブでセカンドゴロに打ち取った。
「坪井選手に代わりまして、バッター、竹内洋選手、背番号55」
 けっこう上背のある男が出てくる。聞いたこともない名前だ。キャッスルホテル組だろう。去年の二軍戦で目にしたことがあったかもしれない。水谷寿伸は得意のスライダーを一つ二つ混ぜて苦もなく三振に打ち取った。
 水原監督が三塁コーチャーズボックスからホームベースに小走りでやってきて、松橋に守備の交代を告げる。女子高生のアナウンス。
「ピッチャー、松本幸行選手に交代します。背番号48。ただいま守備についているメンバー全員の選手交代をお知らせします。キャッチャー吉沢岳男二軍コーチ、背番号71、ファースト千原選手、セカンド江藤省三選手、ショート日野選手、サード坪井選手、レフト伊熊選手、センター江島選手、ライト谷沢選手。ここからのバッターは、中選手、高木選手、江藤選手、神無月選手、木俣選手、菱川選手、太田選手、一枝選手の八人です。松本選手のあとのピッチャーは、渋谷幸春選手、背番号35、もう一度小川選手となります」
 ワー、オーという歓声。観客は大喜びだ。これも水原監督の明石市民へのサービスだろう。私たち八人はベンチに入った。
 おとといのフリーバッティングで私は松本に当たっていない。三人のうち一人出塁してくれれば、精妙なコントロールで有名な彼と対決できる。
「バッターは中選手、背番号3」
 松本の取っては投げちぎっては投げが始まる。ボールそのものをよく見ると、百三十キロ前後のノロクサ球だ。コースは? ホームベースの端や角をすれすれにかする。高さはほとんど膝から下だ。ボックスの足の位置を工夫すれば百パーセント打てる。ただ、ときどきシンカーが混ざる。
 中初球、内角ストレート、足もとへファール。ベースに近く、後ろのラインへ下がって打つバッターは苦労するだろう。被本塁打も四死球も少なそうだ。すぐに二球目、外角シンカー、空振り。三球目、ど真ん中直球、驚いて振ってピッチャーゴロ。こりゃ、たいへんだ。
「バッター、高木選手、背番号1」
 初球、内角ドロンとカーブ。三塁線ファール。ふーむ、タイミングが早すぎたか。取っては投げ二球目、外角シンカー、バットの先でファール。次は内野へズバッと百三十キロか、シンカーを落とすか。それとも外角遠くへ外すか。取っては投げ三球目、結局外角高目へ外し球。ツーワン。考えたら吉沢がキャッチャーだ。一筋縄ではいかない。吉沢から返球を受けてすぐワインドアップ、たちまち四投目、外角低目へボール球がスーッとくる。叩いた。ノロいので叩ける。千原の逆シングルのミットが届かず、一塁線を速い球足で抜けていった。谷沢のまじめな返球を横目に、スタンダップダブル。よし、私まで回る。松本と対決できる。
「バッター、江藤選手、背番号9」


         十一

 バッティングサークルに入る前、私は中と話した。中が、
「ベーブ・ルースやルー・ゲーリックのいた一九二○年代や一九三○年代はバッティングの時代と言われて、打率四割越え、ホームラン五十本越えなんて選手がチラホラいたんだけど、四○年代以降はピッチングの時代になって平均打率二割五、六分に落ちたんだ。現代とほとんど変わらない」
 江藤、初球外角高目ストレート、バックネットへファール。
「そうなんですか、知りませんでした」
 二球目、外角低目カーブ、ボール。
「その時代にレッドソックスにいたテッド・ウィリアムズという右投げ左打ちのバッターはね、四割を一度記録し、四○年代から五○年代の十九年間に平均打率三割四分四厘、ホームラン五百二十一本、三冠王二度、首位打者六度なんてとんでもない記録を作って、史上最強の打者と言われてる」
 三球目、内角低目シンカー、ファール。
「はあ」
 四球目、内角低目カーブ、ボール。
「四年前に野球殿堂入りしてる。彼の背番号が9なんだ。慎ちゃんはそれを喜んで、背番号8を金太郎さん譲ることにちっともこだわってなかったんだよ」
「……そうですか。うれしいです」
 五球目、外角高目ストレート、ボール。ツースリー。松本の投球間隔が短いので高木は走れない。
「テッド・ウィリアムズは大きい人ですか」
「百九十センチ、九十三キロ。金太郎さんよりふた回り大きい。金太郎さんは大リーグのすべての記録を破ってるよ」
 六球目、外角高目カーブ、一塁側場外へファール。
「マッコビーより小さいですね。王さんも長嶋さんもぼくより小さい。中さんも高木さんも木俣さんもONより小さい。納得です。野球の才能は身長と関係ありません」
 七球目、内角低目のシンカーを叩いてサードライナー。手こずって、してやられた。戻ってくる江藤と笑顔でタッチ。
「コントロールがよかけん、何でも打っていくしかなかばい」
 ツーアウト一塁。初球を真ん中に投げてこないことだけは確かだ。切れる変化球はないので、ベースから少し離れてボックス中ほどに立ち、アウトステップ、インステップをする心構えだけを作る。バットを振り切ること。ツーアウトなので高木は盗塁しないから、長打だけを狙う。
 初球、スッと外角へカーブ。踏みこむが、ボール一つ外。見送る。マッちゃんが、
「ボッ!」
 と短く言う。取っては投げの欠点は、短時間しか思考しないので〈微妙さ〉に限界が生じることだ。たとえばベースの端っこに投げようとか、低目いっぱいに投げようとか、胸もとを突こうとか、ただ投球のことだけを考えるのがせいぜいのところで、いま何アウトか、ランナーが何塁にいるか、何人いるか、バッターの立ち位置はどうなっているか、単打を狙っているか長打を狙っているか、自軍の守備は浅いか深いか、といった投球以外の要素をいっさい考えられない。だからこそコントロールがよくなる。江藤が呟いたように、クソボール以外はぜんぶ振っていくというのが正解だ。打者側に、内外、高低、遅速を処理する技術があれば足りる。ピッチャーの考えや、彼を囲む守備側の状況を推理する必要はない。この男は、この投球間隔を反省しないかぎり、あるいはバッターの打撃技術が全体的に低下しないかぎり、今シーズンも来シーズンも活躍できない。
 二球目、外へシンカー。踏みこんでふつうにひっぱたく。落ちの少ない変化球なので簡単に捕えられる。芯を食ってセンターへ舞い上がる。コーラスのような歓声。何秒もしないで白球はバックスクリーンのないスコアボードを越え、森の中へ隠れた。長谷川コーチとタッチ、
「今年も断トツホームラン王!」
「はい!」
 セカンドの省三が、
「兄同様、ついていきます!」
「はい!」
 水原監督と抱擁。
「命をありがとう。愛してるよ」
「はい!」
 ホームまでのラインに沿って、タッチ、タッチ、タッチ。キャッチャーの吉沢コーチと握手。ベンチの仲間たちとタッチ、タッチ。江藤に、
「やっぱりぜんぶ振るしかないですね」
「ほうやろ」
「腰のためというより、打者に考える時間を与えないためにやってるようですから、考えずにぜんぶ振っていけば何の障害にもなりません」
 一枝が、
「当然ノーサインだから、キャッチャーは苦労するだろう」
 次打者の木俣が、
「いや、あそこまでユル球ならノーサインでも苦労はないだろう。というより、新宅が言ってたけど、ピッチャーへ返球するときにサインを出すらしいぜ」
 私は、
「いちいちバッターボックスを外す打者がほとんどだから、構えで立ち遅れるんでしょう。じっとボックスを外さないで、ぜんぶ振ればいいんですよ。バッティングセンターでボックスを外す人なんていないでしょう」
 木俣が打席に立った。高木が、
「なるほどなあ。金太郎さんみたいに見抜くやつはほとんどいないだろうから、あいつやってくれるかもよ」
 松本は相変わらず取っては投げをやりだした。木俣はボックスを外さずじっと待つ。ツーナッシング。スーッと内角高目に外しにきた。マサカリ一閃。打球がレフト芝生席上段へ一直線にスッ飛んでいった。吉沢がマウンドへ走っていく。投球間隔のことではなく、コースと球種に哲学を持てという内容にちがいない。木俣は水原監督と抱擁し、私たちとタッチ、タッチ。江藤が、
「お客さん喜んどるばい」
 菱川、太田とホームランがつづき、四者連続。スタンドは大騒ぎだ。松本はスリーアウトまで降板できない。あと一人。八番打者一枝。俺も一発と力み返って、レフトフェンスぎりぎりの大フライ。観衆の和やかな笑い。
「ピッチャーは新人渋谷幸春選手に代わります。背番号35。バッター、中選手」
 スリークォーターの変化球投手。スライダー、シュートのキレがよく、ナックルも持っているというベンチの話。太田が、
「四国電力から中日ドラゴンズにきたのは、島谷に次いで二人目ですね」
 高木が、
「ドラフト下位まで同じだ。こいつはほんとにやるよ」
 中、高木とするどい変化球で打ち取られたが、江藤がフォアボールを選んでくれたおかげで打順が回ってきた。おととい対戦していないピッチャー。投球練習四球。ベンチで見るのとボックスで見るのとでは差がある。案外スピードがある。百四十キロ以上出ている。
 バッターボックスに立つ。まず彼が初球を入れてくるタイプか外してくるタイプかを観る。入れてきた。真ん中低目速球。球質はけっこう重い。二球目、外す必要もないのに外角に外してきた。ナックル。地面スレスレ。ワンワン。場内が静まり返る。三球目、得意のスライダー。ストライクなので軽く振る。千原の右へファール。次はシュートにまちがいない。四球目、やはりシュート。アウトコースぎりぎりのストライクなので振る。三塁線へファール。五球目、胸もとにストレート。ボール。ツーツー。腕が遅れて出てくるのが気にならなくなった。フリーバッティングで二者連続フォアボールにはしたくないだろう。六球目、真ん中高目から内へ入ってくるカーブ、釣り球だ。一塁スタンドへライナーのファール。
 もう投げる球は得意のスライダーしかない。どこへ入れる? 打ち取るためには私の好きな内角低目を突いてボール球にするはずだ。それを打とう。ゴルフスイングをイメージして待つ。七球目、予想どおりスライダーが曲がってくる。なんと外角だ。低い。しかし打とうと決めている。踏みこみ、しゃがんで屁っぴり腰で振る。少し詰まった。球が上がらない。レフトポールに向かっていくが失速する。伊熊が猛烈に前進する。ツーアウトなので江藤がグングン走る。伊熊スライディング。ワンバウンドで胸に当てる。サードの後方へ大きく逸れる。江藤が三塁を回った。坪井より早くカバーに入ったショートの日野がボールを拾ってバックホーム。いい肩だ。江藤、足から滑りこむ。どうだ?
「アウー!」
 マッちゃんの右手が高く上がる。怒号のような喚声。これはプロらしいミモノだ。私は二塁ベース上に立ち拍手した。スタンドも拍手した。日野が根気よく使われつづけている理由がわかったような気がした。情けない垂れ眉面の評価が少し上がった。私はベンチに駆け戻りながら、
「やりますね、日野さん」
 と声をかけた。日野は恥ずかしそうにグローブを振り、サンキューです、と言った。
「ピッチャーは小川選手に代わります。このスリーアウトでフリーバッティングは終わりです」
 木俣レフトライナー、菱川大きなライトフライ、太田三振で、楽しい実戦式フリーバッティングが終わった。
 外野席の観客を喜ばせるつもりで、私はポール間ジョギングを五往復した。途中から有志も混じって、けっこう派手なパフォーマンスになった。観客は大喜びした。私は太田に、
「魚もいいけど、たまには焼鳥も食いたいな」
「いいすね」
 江藤が聞きつけ、
「紅白戦のあとでいかんね。次の日が休みやけん、ゆっくりでくるやろ」
「はい!」
 やがて場内アナウンスに促され、白ブレザーに黒ズボンで正装した楽隊が指揮者とともにダッグアウトの両端の鉄扉から出てきて、マウンドに整列した。五十数人。大太鼓、小太鼓、チューバ、ホルン、シンバルまでいる。
「中日ドラゴンズのみなさま、ほんとうにお疲れさまでした。一昨日につづき、きょもすばらしい実戦練習を見せていただき、ありがとうございました。放送部一同充実した一日でした。スタンドで観戦なさっているみなさまも同じ気持ちだったと思います。私たち明石高校生は、この二日間の中日ドラゴンズの選手のかたがたのパフォーマンスにささやかなお礼を差し上げたいと考え、大正十五年設立の伝統ある明石高校音楽部による演奏をお楽しみいただくことにしました。中日ドラゴンズのかたがたを歓迎する意を表して、小崎一男先生の指揮で、ブランケットのサンブル・エ・ムーズ連隊行進曲を演奏させていただきます」
 監督、コーチ、選手たちが二つのベンチ前に立ち並んだ。よく耳にする勇壮で有情な吹奏楽が流れ出した。だめだ。太鼓の響きを聴いたとたん涙がこぼれてきた。江藤が、
「金太郎さん!」
 自分も腕を目に押しつける。
「行進曲は弱いんです」
 水原監督はタオルを出して顔に当て、菱川や太田たちは涙を垂れ流しにした。その様子を見ていた楽隊の目にも涙が光った。一瞬のうちに涙によって深い交流がなされた。
 楽隊が引き揚げ、観客たちもぞろぞろ帰っていくと、杉山コーチが、
「きょうの特打は谷沢、江島、千原、省三、三十本以上五十本まで、工夫して、念入りに打ってくれ」
 森下コーチが、
「それが終わったあと、特守は坪井と伊熊。素振りをやりたいやつは、球場ですましていくように。喜春で晩飯のやつは六時までには戻ってこいよ」
         †
 二月四日水曜日。六時起床。曇。一・七度。ルーティーン。ふつうの軟便。ユニフォームをフロントに出す。翌日仕上がりのクリーニングを頼めるせいで、ユニフォームは二着で三週間やりくりできる。帽子は毎日ザッと汗落としをすればいい。下着やアンダーシャツ、ソックスといった小物は一週間ごとに北村席へ段ボール箱に入れて送り返す。ほぼ入れ替わりに新しい段ボール箱が届く。百江の旅の荷も軽くなる。
 七時から二越橋折り返しランニング。参加者二十名。きのう対抗試合をした二十五人のメンバーのうち、水谷寿伸、松本幸行、小野、伊熊、坪井の五人が欠けているだけ。日野もしっかり参加していた。
 ホテルに戻って、朝食前の新聞。

 鬼神の目に涙

 という記事が写真つきで大々的に載っている。明石高校吹奏楽部の演奏にドラゴンズの面々大感激と書いてある。キャンプ誘致の経済的効果云々、十五日の紅白戦には明石市長が参席して祝辞を述べ、始球式をする予定とも書いてあった。面倒くさい。


         十二 

 エレベーターで二階へ昇り、メールのバイキングへいく。江藤と長谷川コーチのいるテーブルに同席する。巨人と阪神と中日とヤクルトは金持ち球団だという話をしていたようだ。広島も大洋も恐ろしく貧乏で、パリーグで金持ちはロッテと阪急くらい、あとはぜんぶ貧乏だとしゃべっている。身に覚えがあるし、おもしろそうなので、耳を立てながら食った。長谷川コーチが、
「一流選手と二流選手で給料格差があるのは仕方ないね。住む家が豪邸とアパートだとしてもね。がまんしなくちゃいけない。ただ球場設備の格差はがまんできないものがあるからねえ。藤井寺球場と広島球場は特にひどい」
「そういや広島球場は市民用も選手用も駐車場がなかけんな。ソゴウデパートの駐車場しかなか。球団からチケットもらってそこにいれた覚えがあるばい。もう車は乗らんごてなったばってんが」
「藤井寺なんか、照明はないし、フェンスが中日球場より低いし、周りは団地で鳴り物応援が制限されてるから、客がぜんぜん入らない。川崎とドッコイドッコイだ。ダフ屋が入場券を正規の値段より安く売ってるってんだから悲惨だ。選手用の風呂は五右衛門、寮なんかその団地の谷間に建ってる二階建ての長屋だもの」
「ほんとうと?」
「ほんと。寮食は家庭の料理よりまずくて、肉は切れないし、海苔巻きばかり出すという話も聞いたな」
「東映フライヤーズの寮も、十日連続でサイコロステーキを出したと張本が言うとった」
「カープはインスタントラーメンだね。食い物がまずいから、選手が金を出して備蓄してもらうんだ」
 おもしろすぎる。
「広島球場のトレーナー室は球場の軒下みたいなところだから、狭い狭い。高校野球の環境のほうがいいくらいだ。ロッカーも狭いなんてもんじゃないから、バットが振るスペースがない。練習用ブルペンが内野スタンドにあるんだけど、天井が低いうえにへんにカーブしてるんで変化球が投げられない。室内バッティング練習場もカーブしてるから、どこからボールがくるんだとなる。練習場の隣が喫茶店だから、よくそこでサボったもんだよ」
「フライヤーズのフランチャイズは後楽園球場なんやが、巨人と部屋を並べて造られとるロッカールームの仕様がちごうとるげな。都市対抗やらフットボールやらの試合があるときはそいつらが使うけん、荷物を持って帰らされるごたる。どこか直してほしい箇所があるときは、フライヤーズの選手が球場に陳情してもまず通らないから、巨人の選手のだれかに訴えて、そいつから上に言ってもろうて直すそうや」
 三人笑いながら腰を上げた。昼めしに帰るのが億劫なので、レストラン弁当を買って406号室に戻る。明石球場のベンチで食うことにした。
 一日しっかり練習スケジュールをこなす。練習中にも長谷川コーチにときどきくっついて話を聞いた。
「市民球場の風呂は、五右衛門とは言わないけど、プラスチックの一人用でね、何十人も入るから、延々とロッカールームで待たなくちゃいけない。若手が入るころには湯は真っ黒、とても浸かれないからシャワーだけになる。ロッカールームは狭くて汚いしね。高校の部室だね」
「はい、知ってます」
「食堂も異常に狭い。交代で食わなくちゃいけないから焦るよ。そうそう、巨人戦に勝つと賞金が出るよね」
「え?」
「巨人戦だけに賞金を出してる巨人贔屓のスポンサーがいるんだよ。そうか、その種のものは金太郎さん、ぜんぶ球団処理にしてるそうだから知らないんだね。ベンチ全員で二十万円くらいを分けることになってる。せいぜい七千円くらいのものだものだけどね。巨人の勝利賞金は驚くなかれ、二百万なんだよ。一人七万か。それだけでレギュラーは暮らしていける」
「なんか品がないですね」
「少なくとも、私は羨ましくないね」
 ベンチで昼めし。コンパクトで、めしも惣菜も適量。あしたからこれでいく。きょうはベンチに私と小野の二人だった。
 フリーバッティングは五十本打った。左、左中間、中、右中間、右と十本ずつ打ち分ける。ホームランは七本ずつ三十五本。ライナーで芝生に打ちこむことを心がけた。
 シャワーを浴びてジャージを着、本でも買いに出ようかなと考えていると、カズちゃんから電話が入る。
「シネマホームタウンの基礎工事が始まったわ。八月中に完成の予定よ。メイ子ちゃんは
 きょうまでで面接のお手伝いが終わって、あしたからホステスさんのお客さん接待の予行演習をするようよ。十日の火曜日からいよいよ酔族館の営業開始だって。メイ子ちゃん、ちょっとシビレルって言ってた」
「結局ホステスさんは何人集まったの?」
「身もとの確かな十二人。一週間かけて選び抜いたのね。三十歳以上が五人、二十五歳以上が五人、二十歳以上が二人。これからもっと増えると思うけど。ママはもちろん法子さん、チーフホステスは法子さんのお姉さんの小夜子さん、メイ子ちゃんはサブチーフ。四月五日まで勤めてお役御免」
「男のメンバーは?」
「ぜんぶ松葉会さんが手配してくれたのよ。チーフ格のボーイ長が松葉会の能勢さん。彼が信用できる素人さんのボーイを七人集めたの。そのうちカウンターが二人、ホールが五人。ホールはあと二、三人はほしいみたい。厨房は牧原さんの紹介で料理人を三人、下働きを五人雇ったらしいわ。大所帯ね。法子さん、がんばってほしいわ」
「ノラはどうなるんだろう」
「法子さんのお母さんと、これまで片腕だったヨシエさんという人がつづけるらしいわ。花輪の件は、水原さんのほうは心配ないし、神宮小路からも神宮商店会からも出るでしょうし、牧原さんも贈ると言ってたから、北村席も一つ贈ることにしたわ」
「―みんな順調だね」
「順調、順調。千鶴ちゃんとソテツちゃんの熱田高校定時制の件も、素ちゃんの栄養学校の件も順調よ」
「順調すぎて怖いね」
「怖いことなんかないわよ。『ねないこだれだ』届きました。直人すっかり気に入っちゃって、毎晩、何度もおねだりして、トモヨさんたいへんみたい」
 下着とユニフォームのアンダーシャツやソックス類を一週間分、段ボール箱で送ってくれるように言う。
「百江は十五日に一回だけきてくれればいい、十六日に明石の町をいっしょに散歩してから夜の電車に乗せる。長旅はジンワリと疲れるからね。五十のからだにはきつい。それに汚れ物は段ボールで送ればすむとわかったから」
「了解よ。夢中で練習に精出してるのね。わかるわ。百江さんも感謝するでしょう」
 明石駅南口の本屋に出かける。新潮世界文学24―25、ロマン・ロラン(十九世紀から二十世紀にかけて生きたフランスの作家だと知っている)の『ジャン・クリストフ』(新庄嘉章訳)を買ってくる。たしか数年前に読み挿していた作品なので実質初読になる。店内でページを繰って、雨の中を訪ねてきた老爺と、揺籃にいる赤子と、ベッドに座ってそれを見守る母親の描写から始まることを確かめた。記憶どおり。大長編だが、一年あれば読み継いでいける。
 夕食はメールの和風弁当を買って部屋に持ち帰る。揚げ魚、天ぷら、卵焼き、握り鮨、巻き寿司、稲荷寿司、練り物、サラダ、新香、すべて入っている。栄養じゅうぶん。外食の誘いや会食でもないかぎり、毎日これにしよう。
 机に姿勢を正し、ジャン・クリストフを開く。第一巻、曙、一。
 ……赤ん坊が目を覚まして泣く。その様子の描写。老人のジャン・ミシェルは赤ん坊を醜いと感じ、それを口に出す。母親のルイザは不満そうにするが、子供が醜いことを認める発言をして抱き締めた。老人は、これから顔つきは変わるから安心しろ、この子が立派な正直者なってくれれば何の問題もないと言う。ひとしきり、ルイザの夫であるわが息子の不実をなじる。遊蕩人の息子はまだ家に帰ってこない。外で酔いどれているのだ。
 二人の会話のうちに状況説明がなされる。この老人のクラフト家は代々音楽家を輩出してきた名家であり、資産はないが近隣から尊敬されていた。息子のメルキオルもすぐれた音楽家である。ルイザは貧しい、教養のない、美貌でもない女である。この家の女中をしていた。息子はルイザと男と女の関係になった。なぜそうなったのか、老人も、周囲の人びとも、息子自身にもわからなかった。老人は一目会ったときからルイザを気に入っていたので、身分ちがいの結婚を許した。ルイザはそのことを感謝している。
 著者は息子の心理を『意に反する意地悪い楽しみ』とか、『自由に解き放された舟は真っすぐ暗礁を目がけて進んでいく』と表している。私は、息子はおずおずと彼を眺める女の沈んだ瞳の底に神秘を見出したのだと思った。息子は才能を磨くこともなく、どこか生活に不満を覚えながら身を持ち崩していった。神秘に打たれた息子にとって、そんなことはどうでもいいことだった。
『彼はただ自分の役目を演じたのである』
 この赤ん坊がジャン・クリストフだった。彼の苦労の一生が予感された。
 描写は速い。クリストフは赤子から幼児になっている。『一日の迷宮の中に自分の道を見出しはじめる』。目覚めたクリストフは天井に踊る光を眺めてうれしくなり笑う。メルキオルの怒鳴り声。スズメが囀り、鳩が喉を鳴らし、クリストフも高らかに唄い出す。父親がどなり、クリストフを打つ。
 クリストフは祖父のミシェルといっしょに教会へいく。厳かな陰気さに気が詰まる。オルガンの音、居眠り。家でもだれにもかまってもらえない。ときどき家から抜け出す。遠くへさえいかなければ放っておいてもらえる。観察。描写が美しくなる。
 祖父との散歩。二人の心は通じ合っている。祖父は孫を深く愛している。
『孫のうちに熱心な聴衆を見出すことは彼の喜びだった。自分の半生のできごとや、古今の偉人の話を語った』
 本を閉じる。合船場とじっちゃと私。
         †
 二月五日木曜日。六時起床。マイナス二・五度。窓の外に粉雪がチラついている。この程度ではグランドはぬかるまない。ルーティーン。軟便。手と足の爪にヤスリをかけ、ナショナルでヒゲを弱くあたる。グローブとスパイクにグリースをわずかに塗って、タオルでしばらく乾拭きする。
 道が濡れる程度の雪の中を何ごともなくランニング。十人弱。肩を労わるためにピッチャー陣はいない。控え選手たちもいない。
 明石球場の練習はすべてきのうと同じ。ただ、三十メートルダッシュは二本、守備練習のバックホームは一本だけに抑えた。ベンチの弁当仲間に江藤、菱川、太田が加わった。
 午後からカラリと晴れ上がった。ちょっと背中を丸め気味に構える高木の背番号1がケージに入っている。江藤、千原、菱川、谷沢、太田とつづく。きょうの寒さでは芯を食わないと掌に響く。気乗りのしないフリーバッティングには参加せずに、ケージの後方で素振りをしながらすごす。それを見ていた水原監督が、
「金太郎さん、目が悪いのによくがんばってるな。度数はどのくらいなの」
「裸眼で0・4か5です。近眼と弱視が合わさったもので、眼鏡をかけると0・7くらいになります。ほとんどのものがしっかり見えます。コンタクトレンズは眼球面で安定しないので、傷ついて乱視気味になると聞き、試さないことにしました。薄暗くなると眼鏡をかけても裸眼と同じ0・5ぐらいに落ちます。弱視は暗さに弱いので、薄暗い球場のナイターは多少つらいです。川崎球場は日本一明るい球場だという話を聞いたことがありますが、実際プレイしてみて日本一薄暗い球場だとわかりました」
「ほかの球場はだいじょうぶ?」
「はい。明るいです。明るい球場のナイターなら、昼間の近眼鏡をかけたのと同じ0・7に戻ります。ふつうの近眼鏡で動き回ると装着がブレますので、あの特殊眼鏡をかけることにしてます」
「じゃ、ふだんは、薄暮になるまでは0・4か5の裸眼でプレイしてるということだね」
「はい。不便はありません」
「不便はないと言ってもねえ。ボールはどの程度見えるの?」
「五十メートルくらいまではほとんど輪郭を認識できます、それ以上は、そのへん、あのへん、という感じで見ます。小さいころからそうなので勘が働きます」
「あのへん、そのへんねえ。小学校からその感じが変わらないなら、野球をするのに支障はないということだね」
「はい。ただ、ホームから外野手の顔がよく見えませんけど」
「そんなもの見えなくてもいいよ」
「はい」
「ちょっと打ってきなさい。お客さんは金太郎さんを見たくてきてるんだから。別に体調悪いわけじゃないんでしょう?」
「はい」
「おーい、佐藤くん!」
 水原監督は、ヤクルトから今年移籍してきた佐藤進をベンチから呼び寄せた。
「好きなように投げてがんばってみなさい」
 胸番号29をつけた男が元気な返事をしてベンチから飛び出してくる。去年まで田中勉がつけていた番号だ。太田がケージを交代し、レギュラーたちが水原監督に並びかける。太田が、
「三年前まで十勝以上を四年連続で挙げた準エースです。速球とシュートを武器にする本格派でしたが、この一、二年はちがいます。去年の六月に川崎で一試合だけリリーフ登板してます。その試合で神無月さんとも対戦してますよ」
「そう?」
「はい。ライト場外ホームランでした。百七十八センチ、七十五キロ、二十六歳です」
 まったく憶えていなかった。熊のようなオヤジ顔をしている。五球ほど投球練習。スリークォーターから右曲がり、左曲がり、縦落ち、いろいろな変化球を投げるが直球は投げない。カメラが集まってくる。
「十本お願いします」
 二十六歳のクマ男に頭を下げる。佐藤は帽子をわずかに上げた。初球、真ん中に直球を投げてきた。打ちやすいボールを投げてバッティングピッチャーの務めを果たそうとしているようだ。ピッチャー前の防球ネットにライナーを打ち当てる。実際に当たることはないのに、佐藤は身をすくめてよける。二球目、真ん中ストレート。さらに強く防球ネットへ。三球目、同じコース、防球ネット。
「カンベン!」
「そんな球では練習になりません。敵のバッターだと思って投げてください。打ち取るつもりで!」
 江藤が、
「徹底的に自信なくせや! 再出発やろが!」
 スタンドが拍手喝采する。



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