十六
メールの隣の日本料理店うずしおで仲間たちと晩めし。去年来訪した東大連中と食った店だ。男の子にサインしてやったことを思い出した。去年は愛想を使ったマスターも今年は話しかけもせず熱心に料理を作っていた。ゴチャゴチャとうるさい皿出しなので、新鮮な刺身と野菜天ぷらだけで大盛りのめしを食いはじめる。だれも酒を飲まなかった。このホテルはラウンジバーというものを備えていないので、酒好きの彼らはめいめい外の酒店などで調達したアルコールを部屋に持ちこんでいるのにちがいない。大酒家の江藤は公言したとおり、本格的に酒を控えているようだ。
「松本の腰、よう見抜いたのう」
小川が、
「監督が目を丸くしてたよ」
太田が、
「高木さんが事情を話したら、金太郎さんに見離されたらドラゴンズでは生きていけなくなるよ、危ないところだったね、と言ってガハガハ笑ってました」
菱川が、
「江藤さんが、恐ろしかぞって言ったときは、ほんとに恐ろしくなった」
「中学のとき、とつぜん教室の椅子から立ち上がれなくなったことがあるんです。素振りのしすぎです。担任に整骨院に連れてってもらいましたが、ビリビリ電気を当てるだけで何の効果もありませんでした。素振りの数を減らしてみたら、何日もしないで治りました。それからはいっさい腰痛は出ません。彼はむかしきつい運動をして一時的な腰痛が出たんだろうと思います。とっくに治ってますよ。そんなわけで、彼の場合はきつい運動を避けようとするための口実だろうと思ったんです」
「きょう百本やり切ったんやけん、もう言いわけできん」
木俣が、
「早投げは変わらないだろうがね」
一枝が、
「それで打ち取ってくれれば内野はラクだけど、秀孝みたいな球威がつくまではなかなか勝ち星は増えないと思うよ」
秀孝を流し見ながら言う。秀孝は茶碗蒸しを掻きこむのに夢中だ。戸板は神妙に店内を見回しながら少しずつ箸を動かしている。木俣が戸板に、
「寮では先輩に外へ連れてってもらったのか」
「ラーメン、餃子、焼肉なんかに。こういう落ち着いた日本料理店は初めてです」
「ちょっとしたタニマチに誘われたりなんかするだろう」
「菱川さんに警戒警報を発令されてますから、乗らないようにしてます」
高木が、
「クニじゃそうもいかないだろう」
「はい。一月はたいへんでした。三本木は十和田市に属していて、真ん中に十和田市街を抱えたドーナツみたいな形をしてる町です。田んぼや畑だらけの町です。ファンクラブなどというシャレたものはありません。ただ、十和田市街のほうに一つ大きな後援会があって、そこのイベントに何度か引っ張り出されました。野辺地はどうですか」
私の顔を見る。
「後援会なんかないですね。まずぼくに寄ってこないです。名古屋の椿町に小さな後援会が一つありますが、一時間かそこら出席してすませました。金銭的援助は断るから、参加を強制しないことという約束を取りつけてね」
「……はあ、強い人ですね」
一枝が、
「強いと言うより、人嫌いなんだよ。限定的な人好き。わがままと言われることに無関心な人間」
小川が、
「万民平等を図るような社会的正義や法的正義が究極の正義じゃなく、限定的に人を愛することを究極の正義にする人間がいるんだよ。それが金太郎さんだ。その愛情に掬い取られなければドラゴンズじゃ生きていけないと監督は言ったわけだ。松本は何かを感じたろうけど、感じてないやつもけっこういるぜ」
菱川が、
「でっかい愛がなけりゃ、人間ごときちっちゃな生物は生きていけないよ。愛で少し大きくなれる」
高木が、
「寄ってこられるのと愛されるのとはちがう。谷沢も戸板もこの何日か見ていて、報道陣も含めて金太郎さんに寄ってくる人間が少ないとわかっただろう?」
「はあ……」
「新人連中も二軍連中もそうだ。なぜだと思う? ほとんどの人間が生きる力として愛というものを信じてないからだよ。愛なんて単純なものだ。好きだ、そばにいたいという感情だ。それがあれば人間は生きていける。ましてや、相手もそう感じてくれてるとわかったら、何百年でも生きていたくなる。そういう明るい気持ちになった人間だけが努力するし、成功もするんだよ」
江藤が、
「ドラゴンズはそうゆうやつらばっかりたい。ガッチリ生きていっとる。新人で金太郎さんのそばにいたがるんは谷沢と戸板ぎりばい。この二人は野球選手としていっちょまえになる。今年一年見とればわかる」
木俣が、
「さあ、あしたもピッチリ練習して、あさっては十時から紅白戦だ」
戸板が、
「いよいよですね。出られるかなあ」
一枝が、
「一軍ぜんぶで三十五人はいるんだぜ。出れるどころか、出なくちゃいけないに決まってるだろう」
谷沢がグイと肩を張り、天井を見上げた。
†
二月七日土曜日。晴のち曇。汚れ物を詰めこんだ二つのビニール袋を段ボール箱に入れる。腹に抱えて一階に降り、フロントに出す。クリーニングから上がったユニフォームを受け取る。
終日つつがなく。ベテランたちの特打特守には参加しなかった。内野の特守をしている選手たちを眺めながら、蓬(よもぎ)色の芝の上で五十メートルダッシュを休み休み十本やった。腰と下肢の筋肉の張りが最高潮になっている。
あしたはランニングなしとみんなで約す。
晩めしのあとフロントで氷を二袋もらい、ベッドに寝そべってバスタオルを当てた上から両腿、ふくら脛、腰を十分ずつ冷やす。バスタブに湯を溜めて、十分ほど浸かる。湯上りに痛みを確かめながらゆっくりストレッチした。だいぶ張りが和らぐ。帽子の縁を洗って湯船の蛇口に掛け、早めに寝る。
†
二月八日日曜日。七時半起床。九時間寝た。小雨。六・四度。試合開始は十時か。グランドは少し湿り、芝が濡れる程度だろう。筋肉の痛みが七、八割がたなくなっている。ルーティーン。ふつうの軟便。
八時喜春の間に集合。朝めしをしたためながら、宇野ヘッドコーチの紅白戦スタメン発表を聞く。
「先攻紅組、ベンチは三塁側、監督杉山悟、一塁ベースコーチ長谷川良平、三塁ベースコーチ太田信雄、一番センター江島巧、二番ライト谷沢健一、三番キャッチャー木俣達彦、四番ファースト江藤慎一、五番サード太田安治、六番ショート一枝修平、七番セカンド江藤省三、八番レフト伊熊博一、九番ピッチャー松本幸行(ゆきつら)、リリーフ伊藤久敏、小野正一、小川健太郎、渡辺司、田辺修、川畑和人。代打代走要員は竹内洋、坪井新三郎。つづいて後攻白組、ベンチは一塁側、監督本多逸郎、一塁ベーコーチ森下整鎮、三塁ベースコーチ井上登、一番ショート日野茂、二番センター中利夫、三番サード菱川章、四番レフト神無月郷、五番セカンド高木守道、六番ファースト千原陽三郎、七番キャッチャー新宅洋志、八番ライト西田暢(とおる)、九番ピッチャー戸板光、リリーフ水谷寿伸(ひさのぶ)、星野秀孝、門岡信行、佐藤進、渋谷幸春、若生和也。代打代走要員は井手峻(たかし)、金山仙吉」
だれにも出発点はある。そこから人は力を尽くしながらも流れのままに生きる。流れ着く場所が希望どおりの場所か、意外な落胆の場所かのちがいがあるだけだ。しかし、それも運命だ。かつて運命など浮薄な言葉だと思っていた。いまはその言葉の重みを素直に受け止められる。生を享(う)けたことも運命だし、その出発点から先も運命だと胸に沁みてわかる。部屋に戻り、ユニフォームを着る。ここ数日使ったバットはソファに立てかけ、新しくフィルムを剥がしたバットを二本、ケースに収める。掌の土手で叩いてバットの響きを聴く選手が多いけれども、私はやらない。馬鹿げている。どんな響きがしようと、入念に材質を選び丹精こめて作られたバットは信頼すればいい。あとはこちらの技術だ。芯を食わせればかならずボールは飛んでいく。
九時。ダッフルとバットケースを担ぎ、ホテルの玄関に集合。小雨の中を出発する。宇野ヘッドコーチが、
「試合前の練習は、紅、白、フリーバッティング十分ずつになってるが、べつにやらなくてもいいぞ」
やらないことにする。ユニフォームの胸を張り、監督コーチ以下三十人余りで濠端を歩いていく。明石駅のほうから本多二軍監督以下十人ほどが歩いてくる。太鼓門近辺はすでにすごい人だかりだ。私たちのゆく手をじゃましないので歩きづらくはない。上品なかけ声もかかる。
「明石にきてくれてありがとう」
「寒いで、きばってケガせんでね」
人だかりは尽きずに球場正門までつづく。園内に群がる人びとの数はたぶん去年より多い。記録破りだろう。しかし球場に入場できるのは一万二千人強と決まっている。歓声や嬌声を背に受けて正面玄関から入る。杉山コーチが、
「きょうはヘルメットをかぶるように!」
一塁側ロッカールームでグローブの具合をこぶしで確かめ、スパイクの紐を固く結び、帽子をかぶる。バットを手にベンチ入り。霧雨のグランドを眺める。土はしっとりと焦げ茶色、芝は薄茶にわずかな緑が萌えている。砂が撒かれて整備の終わったグランドで打撃練習をする者はいない。だからケージは用意されていない。グリーンのフェンス、超満員のスタンド、傘がチラホラ、黄色いファールポール、スタンドの向こうに明石城址の石垣と一双の櫓、森の緑。場内放送の声が柔らかくこだまする。
「あいにくの雨の中、ご来場くださいましてありがとうございます。十時より紅白戦開始でございます。十一時ごろには雨が上がるとの予報が出ております。グランド状態は良好です。本日の場内アナウンスを務めさせていただくのは神戸女子大学放送部三名でございます。トップバッターの××でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
湿った空気の中に晴朗な声が流れる。小雨が霧雨に変わり、青空が覗きはじめた。どんどん青空の面積が大きくなってきた。土が乾いてくる。
「試合開始まであと五分でございます。両軍のスターティングメンバーの発表をいたします。先攻は三塁側紅組、一番センター江島巧、センター江島、背番号12、二番ライト谷沢健一、ライト谷沢、背番号14、三番キャッチャー木俣達彦、キャッチャー木俣、背番号23、四番ファースト江藤慎一、ファースト江藤兄、背番号9」
木俣、江藤といった名前に大喚声が上がる。
「五番レフト太田安治、レフト太田、背番号5、六番ショート一枝修平、ショート一枝、背番号2、七番セカンド江藤省三、セカンド江藤弟、背番号28、八番レフト伊熊博一、レフト伊熊、背番号25、九番ピッチャー松本幸行(ゆきつら)、ピッチャー松本、背番号48」
守備に散る。紺の制服の審判団も散る。喚声が上がる。レフトの守備につき、芝の濡れ具合を歩き回って確かめる。新芽の生えかかった枯れ芝がほとんど水を吸い、わずかに水滴を載せている。霧雨を見上げ、裸眼に受ける。中となつかしい遠投キャッチボール。ライトの西田は加わらない。
「つづきまして後攻は一塁側白組、一番ショート日野茂、ショート日野、背番号6、二番センター中利夫、センター中、背番号3、三番サード菱川章、サード菱川、背番号4、四番郷、レフト神無月、背番号8」
守備位置の背後から突風のような喚声に押される。
「五番セカンド高木守道、セカンド高木、背番号1、六番ファースト千原陽三郎、ファースト千原、背番号43、七番キャッチャー新宅洋志、キャッチャー新宅、背番号19、八番ライト西田暢(とおる)、ライト西田、背番号39、九番ピッチャー戸板光、ピッチャー戸板、背番号11」
去年まで徳武がつけていた番号だ。二軍打撃コーチの彼は、第一球場にはほとんど顔を出さない。彼の新しい背番号も知らない。ひっそりと引退して二軍ピッチングコーチをしている山中も同じだ。コーチにもなれずに引退する選手は、たいていスカウトやスコアラーに転身するべくしばらくがんばるが、やがてすっかり姿を消してしまう。巷にひそんだそういう人びとはキャンプに姿を見せることもない。
「なおアンパイアは、主審岡田功(この人の球審にあたることは多い)、塁審は一塁富澤宏哉(ひろや)、二塁松橋慶季(よしき)、三塁竹元勝雄、線審はライト柏木敏夫、レフト丸山博。以上六名でございます」
高校野球のようなサイレンが鳴る。一番江島が打席に入る。喚声が立ち昇る。岡田の白い右手が上がり、プレイボール。日本シリーズ以来ひさしぶりの実戦だ。戸板の投球練習五球はすべてフォーク。おもしろい。新宅が二球逸らす。
「一回の表、紅組の攻撃は、一番センター江島、背番号12」
戸板伸び上がるように振りかぶる。初球、外角低目へ目の覚めるストレート。ストライク。岡田球審の甲高いコール。二球目内角膝もとへ高速シュート、空振り。三球目真ん中高目からするどく落ちるフォーク、空振り。三球三振。大喚声が上がる。江島が小走りに三塁ベンチへ戻る。
二番谷沢、胸もとストレートを二球つづけて空振り、外角へ高速カーブ、空振り。三球三振。大喚声。戸板のからだのどこにも力が入っていない。右腕の星野秀孝が現れたようだ。バックネット裏の最前列に腰を下ろしている水原監督が満足げにうなずいているのが見える。
三番木俣、二球つづけて内角ストレート、どうにか当てて三塁線へゴロのファール。三球目真ん中高目のストレート、チップファール。四球目外角へするどく曲がるスライダーを空振り。三者連続三振。矢継ぎ早のフラッシュ、嵐のような喚声と拍手。すばらしいデビューだ。ダッシュで一塁ベンチへ戻る。
十七
松本の投球練習は立ち投げに毛の生えたような身のこなし。五球すべて高目のストレート。よく見ると、いちおう上体を前傾し、腕は強く振っているのだが、球威はなく、ホームベース上でお辞儀をする。
「一回の裏、白組の攻撃は、一番ショート日野、背番号6」
日野がバッターボックスに入ったとたんに松本は振りかぶる。ちょっと待て、と日野はボックスを外す。もう一度入ったとたんに、振りかぶり投げ下ろす。いったん静止しているのでボークではない。日野は仕方なく見逃す。外角カーブ、ストライク。初球を打たないでただ待ちつづけていればいいとすぐ気づく。ところが日野は懲りずに外す。餌食だ。二球目、真ん中顔の高さのクソボールをあわてて振ってピッチャーゴロ。
「いっしょになって焦ってどうするんだ!」
杉山紅組監督の怒鳴り声。見た目とちがって短気な人なのかもしれない。そのほうがなんだか楽しい。
二番中。初球胸もとのストライクを見逃して、そのままバッターボックスに立ちつづける。二球目外角高目ストレート、三塁スタンドへファール。三球目外角低目に落ちてくるシンカーを労せずひっぱたいてショートの頭を越える左中間の二塁打。新宅がベンチから、
「それが決め球なら、ストレートをもっと磨け!」
きびしい野次を飛ばす。長谷川コーチが不安そうな視線をマウンドに当てている。
三番菱川、初球外角カーブを見逃しストライク。二球目フワッと内角へ落ちてくるカーブを痛打して三塁ベースぎわを抜ける二塁打。中生還して一点。
「四番、レフト、神無月」
沸き上がる歓声、連続してまたたくフラッシュ。外野手全員ゆっくりフェンスぎわまでバックする。ボックスに立ったとたん構える間もなくゆるいストレートがやってきた。もったいないのでチョンと合わせて、セカンドの後方に落とす。打たないと思っていた松本はびっくりしてライトを振り向いた。焦ったライト谷沢が突進してきてボールをグローブの先で弾いた。菱川生還、私は歩くように二塁へ。ゼロ対二。二塁手の省三が背中に声をかける。
「神無月さん、こういうこともやるんですね」
「松本さんが調子に乗ってるみたいだったんで、初球だってやられるんだということを警告しました。敵にとって困った人にならないと。でも、お客さんは喜ばないので、よほどのときにね」
「バッターボックスに入ってすぐ放られると、初球は確実にカウントをとられちゃいますね。たしかに毎回それじゃやばいです」
五番高木、初球真ん中高目ストレート、見逃し、ストライク。二球目見逃し、内角低目シンカー、ストライク。三球目外角へ落とすシンカー。中と同じように見定め、ファーストの頭上へ打ち返す。ファールラインをかすめて飛んでいく。高木は疾風のように走って三塁へ滑りこむ。谷沢がハンブルでもすればランニングホームランだった。私生還、三点目。杉山監督が三塁ベンチを飛び出してくる。岡田球審がネット下に走る。
「紅組ピッチャーの交代を申し上げます。松本に代わりまして、ピッチャー伊藤久敏、ピッチャー伊藤、背番号16」
これが松本幸行のデビューだ。戸板と対照的だ。しかしガッカリすることはない。成功の岸の草を一回つかみ損ねただけだ。挫折の大海に流れこむとはまだ決まっていない。私は中に、
「初球を見逃して、打席を出ずに、二球目から打ってくる打線には松本の〈つかんでは投げ〉は効きません。コントロールがよすぎるからです」
「それがわかったとすれば、大きな収穫だね。わからなければ、このまま何年か苦労するよ」
伊藤久敏、駒澤大学から入団して四年目、二十五歳、左の速球派、カーブとスライダーもいい。めずらしい左投げ右打ち。去年は六勝四敗。中日ピッチャー陣の中では勝っているほうだ。
六番千原。最終的に靴屋の実家に逃げ場所があるという油断から、徹底して野球に打ちこめないでいる。スイングの鈍さにどこか甘えがにおうのでわかった。逃げ場所があると考えるのは、いまの場所に不安があるからだ。野球対する未練が不安を凌げば変身できる。いまのままだと江藤の控え選手で終わってしまうかもしれない。千原はサウスポー特有の外角へ逃げるカーブとスライダーにひねられて、ツーツーから三振。打撃云々の前に、選球眼が粗すぎる。
七番キャッチャー新宅。伊藤の球を投げこみで受け慣れているせいか、ボールの見極めがいい。ツースリーまでファールで粘る。結局内角ストレートを空振りして三振。高木残塁。ゼロ対三。
雨がすっかり上がった。傘が一つ残らず畳まれる。冬の終わりの透き通った陽射しが落ちてくる。わずかな風が吹き、肺をすがすがしくする。
二回表、紅組の攻撃は四番の江藤から。球界を代表する大選手にストロボが連続して焚かれる。戸板の正念場だ。初球外角低目へ猛速球、見逃すかと思った瞬間、バチンと叩かれる。あっという間にライト西田の頭上を越えて満員の芝生スタンドに突き刺さった。球場の隅々まで歓声が上がる。江藤は長谷川コーチとタッチすると、肩を怒らせながら悠然とベースを回る。きょう初のホームランに三塁ベンチの連中が大喜びして迎える。観客が酔い痴れるまではもう少し時間がかかる。江藤が太田コーチと握手する。一対三。新宅が戸板のところへ走っていく。しゃべる内容の察しはつく。内角を攻めようということだろう。初球から外角というのは弱気すぎてすぐ読まれる。
五番太田。肩の力が抜けている。内角は危ない。太田は内角打ちが得意だ。初球、新宅は外角に高速スライダーを要求した。バットの届くところだが空振り。二球目、内角胸もと速球、ファールチップ。臨機応変。すばらしい。三球目、そのボールよりも一つ高いところへ速球。空振り。理に適った配球だ。新宅のインサイドワークはむかしから定評がある。それにしても戸板はコントロールがいい。要求されるところへかならず投げこむ。ワンアウト。
「ウエ、ウエェェ!」
私はうれしくなってレフトから声を上げた。レフトスタンドがざわざわ笑った。
六番一枝。シュート打ちのうまい燻し銀だ。内角のツボにくればホームランもある。初球内角高目ストレート、ボール。二球目外角高目カーブ、ボール。新宅も一枝の渋いバッティングを警戒している。三球目真ん中低目へゆるいストレート。外しにいったボールだが、一枝は思わず手を出し、ショート日野へのゴロ。日野無難にさばいてツーアウト。これまで新宅を少し軽んじる気持ちがあったけれども、ダルマのように眉の太い老け面にしみじみと〈惚れ〉直した。ツーアウト。
七番江藤省三。二十七歳。百七十二センチの小兵。兄とちがってグリップを余してバットを振る。踏みこみも兄と同様アウトステップだが、兄より歩幅が狭く力感に欠ける。打率は二割七分前後でけっこういい。初球、二球目、三球目とド真ん中高目のストレートで三振。私たちはいっせいに一塁ベンチへ走り戻った。ダッグアウトの真上にたむろする少年たちの声援にみんなでグローブを掲げる。本多監督は好投した戸板の肩を叩いて労う。
「合格点。肩を休めろ。アイシングはしなくていいぞ」
寒いのでビール売りもアイスクリーム売りもいない。そして鳴り物もない。肌寒い日の花見だ。野球選手という花を見ながら感嘆の声を上げる遊山気分の人びとの中で野球をしているのが快適だ。
「二回の裏、白組の攻撃は、八番ライト西田、背番号39」
西田、戸板、日野とつづくこの回に伊藤久敏を攻略するのは無理だ。西田、サード太田へのフライ。戸板、懸命に振って三振。日野、セカンドゴロ、ボールが弟から兄へ渡ってスリーアウト。
三回の表、水谷寿伸登板。江藤と同期の十二年目のベテラン。十八歳で県立愛知商から入団。二十二歳で入団した江藤より四歳年下の二十八歳だ。入団直後に肩を痛めて五年間くすぶり(一軍のバッティングピッチャーをやっていたようだ)、昭和四十年、四十一年と二年間だけ十勝以上を挙げて復活した。それ以来ふたたび低迷期にある。とは言え、毎年五勝前後を稼いで重宝されている中継ぎ投手だ。球は松本よりは速い。カーブとシュートがキレる。本多監督がマウンドで投球練習を見守る。一回はもつだろう、と思っている表情だ。
紅組のバッターは八番伊熊。万年一割打者。ノッポの中肉。入団四年目の二十一歳。強豪中商の四番打者で、則博の二年先輩になる。左の強打者の触れこみでドラ一で入団したが、一軍登録の幸運にあずかりながら鳴かず飛ばずのままきょうまできた。今年なんとか助かって残留したが、打撃力の貧しさには目を覆う。今季かぎりでまちがいなく姿を消す選手だ。今シーズンはほぼ出場機会はないだろう。新宅が中腰で構える。脆くも初球のインハイを打ち上げてセカンドフライ。寂寥の思い。
「九番伊藤久敏に代わりまして、ピンチヒッター井手、背番号36」
これも入団四年目、二十六歳。一年目に一勝したきりで二軍に定着した男。残した〈記録〉と言えば、一勝四敗、防御率5・18のみ。練習の虫だという噂は聞こえているけれども、努力好きの私にもうなずけないものがある。去年初めて井出に明石公園で出遇ったとき、彼は同期選手の悪口を言い、私には皮肉を言った。六大学で活躍したくらいでプロでやっていけるわけがないという物言いだった。その口調と雰囲気から察して、野球が好きな男とは思えなかった。野球が好きでなければ、いくら努力をしても実らない。水谷寿伸の初球、真ん中カーブ、腰の据わらないスイングでクルリと空振り。小中学生のようなスイングだ。腰が据わっていて芯を食えば、そのゆるいスイングでもスタンドインすることはある。彼がなぜプロ野球にいつづけようとするのかわからないが、ひょっとしたらホームランを一本打つまでと決めているのかもしれない。二球目、内角低目のストレート、空振り。井手に与えるには贅沢な配給だ。彼はボールを見ていない。くるボールを振りつづけるだけだ。三球目外へ切れるスライダー、空振り。この男はどんな努力をしているのだろう。素振りをするだけでは努力にならない。ただの運動だ。
「一番、センター江島」
水谷寿伸の最初の難関だ。ドラゴンズで最も意外性のあるバッターは太田や菱川ではなく、江島だ。どの球種、どのコースを打ってくるかわからない。凡打かホームラン。二割前後の打率。このままなら、放出まであと一、二年に思われる。中の後継者はおそらく谷沢になるだろう。初球、真ん中低目のストレート、ボール。二球目、真ん中高目のストレート、バックネットを越えるファール。三球目、外角高目カーブ、直接バックネットへファール。何でも振ってくる。失投以外はミートできないタイプだ。ただ、しっかりしたスイングなのでピッチャーは怖い。四球目、外角へするどく落とすカーブ。空振り三振。今年のスタメンが憂慮される。チェンジ。観客が気の早い弁当を使いはじめた。
「紅組のピッチャー、伊藤に代わりまして小野、ピッチャー小野、背番号18」
飄々とした投球練習。肩はじゅうぶんに回っている。完調子ではないのだろうが、八分のできには見える。速球がいい。
「三回の裏、白組の攻撃は、二番センター中」
「中ァ、走るの無理するなや!」
「ヒットでええど」
スタンドの声援がこなれてきた。個々の選手に対して自由に応援している。レギュラー陣一人ひとりへの拍手はかなり大きい。とりわけ、江藤と私に対しては大喝采になる。ワル照れをせずに、人に愛でられる喜びをあるがまま受け入れること。
小野の初球。真ん中高目から外角に落ちるドロップ。見逃し、ストライク。小野が好調だ。中がヘルメットをかぶり直す。シーズン本番のような緊張感が全身にみなぎる。新宅が、
「内角低目は狙ってこない。膝に当てたらたいへんだもの」
となると、中の狙いは真ん中と外角の上中下、それと内角の胸もと。顔と膝はないと読む。ただし、内角低目にきたら思い切り振ると決めているはずだ。スムーズにバットの出るコースだからだ。二球目、真ん中低目ストレート、見逃し、ボール。三球目、外角高目ストレート、からだを低くして見逃し、ボール。ワンツー。
「ヨ!」
「バッティングチャンス!」
「さ、イケ!」
バッティングにチャンスも何もない。打てる球を打つ、それだけだ。四球目、真ん中高目高速カーブ、少し振り遅れて三塁スタンドへファール。五球目、内角低目にきた! 遠慮した分少し甘く真ん中寄りになる。ガツン! ライナーだ。大きい。谷沢がライトボールに向かって爆走する。
「いったか!」
「入ったでしょう」
谷沢フェンスに達してジャンプ! キャッチ。
「アー、捕られた!」
ライト線審柏木のこぶしが縦に振り下ろされる。喚声。拍手。ライナーで百メートルフェンスを越えるのはけっこうたいへんだ。
三番菱川。彼のライト打ちは名人芸の域にある。外角の甘い球はもちろん、多少きびしい球でもやっつける。外角なら釣り球でいくしかない。内角の甘い球も払い打たれてしまうので、真ん中や内角は高目のスピードボールか、縦の変化が有効だ。高木が叫ぶ。
「ヒシ、撫で打ちするなよ!」
初球、真ん中、顔の高さから落ちるドロップ。見逃してストライク。小野は実戦さながらの真剣さだ。二球目、外角すれすれへフォーク。ブンと振る。ボールの上をチップしてバックネット下へゴロで転がるファール。三球目、内角胸もとストレート、見逃し、ボール。菱川は外角のカーブかフォークを狙っているようだ。四球目、外角ストレート、見逃す。ぎりぎり入ったか。
「ボ!」
岡田が右手を外へ振る。次は? 懸命に考える。わからない。小野は振りかぶり、胸を反らして踏み出し、腕を強く振って外角高目へ外してきた。いや、そこから急激に真ん中ストライクコースへ曲がり落ちてくる。ドロップだ。
「ウワッ!」
という声を上げて菱川は空振りをした。私も、
「やられたァ!」
と大声を上げた。木俣がボールを三塁へ回す。次々に内野に渡っていく。江藤兄から小野へボールがトスされる。
十八
私の打順だ。ネクストバッターズサークルからホームベースへ歩いていく。重なる喚声。高まる喚声。ツーアウト、ランナーなし。ホームランしか狙わない。ベンチの仲間もわかっている。外野手がまたバックする。
「ヨー!」
「ソレ! 一発!」
「ほい、場外!」
ホームベースに正対する位置に立って構える。ワインドアップ、腕が弧を描くように回転する。初球外角ドロップ、ストライク。二球目も同じだろう。問題はそこからだ。三球勝負でくるなら、内角低目へフォーク。それもストレートと見まがうほどのスピードを乗せてくるはずだ。二球目、外角へするどく曲がるカーブ、ストライク。もう一球ここへくることはない。屁っぴり腰が怖い。バッターズサークルから高木の声。
「親分、考えてるよー!」
ほんとうに考えている。木俣がパンパンとミットを叩く。
「さ、小野さん、こい!」
木俣は私の足がずれるかどうかを見ている。少し中腰になるのがチラと見えた。三球目、真ん中高く外す。もう一球外すだろう。木俣の蛮声。
「さあァ、小野さん、勝負!」
四球目、やはり中腰になる。外角遠く外した。ツーツー。スタンドもベンチも固唾を呑んで静まり返る。高木が、
「ヨ! 金太郎さん、いっちょいけ! ピッチャー、ラクになっちゃおー」
五球目、内角腰のあたりめがけて渾身の速球。しかしこれはフォークだ。ススッと前へ出る。脛めがけて落ちてくる。落ち切らせない。両手を絞って叩き上げる。瞬間、小野はニッコリ笑ってバンザイをした。木俣が、
「やられたァ!」
ベンチが、
「よっしゃ、よっしゃ!」
「ギュン、ギュン、ギュン!」
白球がライトスタンドの仕切りフェンスの向こうへ消えていく。柏木の右手がゆっくり回る。怒号のような歓声。森下コーチと両手でタッチ。
「こっから一号や」
三塁を回って井上コーチとタッチ。その手を引き寄せられ、抱き締められた。球場内に笑いが湧き上がる。ベンチも笑っている。バッターボックスに向かう高木とタッチ。
「小野さんうれしそうに笑ってたぞ。金太郎さんに打たれると、みんなああいう顔になるな。俺たちにはきょうの小野さんは打てない。やられてくるよ」
カーブ、ドロップ、ストレート、高木はすべて内角低目を攻められ、サードのハーフライナーに打ち取られた。一対四。
「四回の表、白組のピッチャーは水谷寿伸に代わりまして、星野秀孝、ピッチャー星野、背番号20」
待ってましたという歓声と拍手。秀孝は弾むようなステップでマウンドに上がる。ゆる投げ二球のあと、スピード豊かな速球を三球。それだけで新しい拍手が湧いた。
「紅組のバッターは、二番ライト谷沢」
秀孝は気持ちよさそうにワインドアップをして、いとも簡単に内角高目の速球を投げこんだ。空振り。谷沢はそのスピードのすごさにビックリしたようだった。二球目、もう数センチ高い胸もとへ速球。空振り。三球目。胸もとから落ちるパームボール。空振り、三球三振。最優秀防御率投手の力をまざまざと見せつけられ、谷沢はかえってサッパリした顔でベンチへ走り戻った。すぐに江藤や木俣から、江夏より速いんだなどと聞かされているだろう。慰められても仕方がない。あしたからスイングスピードと動体視力を磨くよう努力するだけのことだ。
三番木俣、カーブ、シュート、パームで三球三振。四番江藤、内角高目のストレートを三つつづけて三球三振。長嶋のようにヘルメットが飛んだ。
「四回の裏、紅組のピッチャーは小野に代わりまして、小川健太郎、ピッチャー小川、背番号13。レフト伊熊に代わりまして竹内洋が入ります。レフト竹内、背番号55」
小川の投球練習。スローボール五球。場内大笑い。菱川が、
「竹内ってのは金沢高校なんですよ。昭和三十九年の選抜のとき二回戦で当たって、うちの倉敷工業は負けてるんです。二人とも第一回ドラフト前の三十九年に中日から声をかけられて、四十年に同期入団です。やつは捕手で入ったけど、木俣がいるんじゃね。去年まで二軍暮らし。今年ようやく上げてもらえた。チャンスをものにできればいいけど」
「菱川さん、二軍は?」
「最初の一年だけです。外野手であちこち守れるし、ときどきデカいのを打てるから使ってもらえました。あいつはおととし二十四試合も使ってもらったのに、一安打でした。とにかく打てないんです」
場内アナウンス。
「白組のバッターは、六番ファースト千原」
初球、超スローボール。千原は彼らしくもなくエイヤと打ち上げ、一塁スタンド場外へファール。拍手と笑いが止まない。二球目、一転してド真ん中にスピードボール。振り遅れたが、どうにか芯を食った。代わったばかりの竹内へ深いレフトフライ。
七番新宅。シュート、シュート、カーブで三振。
八番西田。真ん中高目のストレート二球、内角へグニャリと曲がるシュートで三球三振。小川には小さいシュートもある。驚きのピッチングだ。チェンジ。
「白組のピッチャー、星野に代わりまして、門岡、ピッチャー門岡、背番号24」
巨人の高田に似たヤサ男。ただし大柄だ。江藤がキャッチャーをしていたころからのベテラン。その当時はストレートとスライダーがよかったと聞いた。いまは見る影もない。この回は点を取られる。観客には楽しい見物になる。
「五回表、紅組の攻撃は、五番レフト太田」
ベンチ前とボックス前でブンブン素振り。バットがすっかり波打たなくなった。ホームラン覚悟で左中間寄りに深く守る。太田、初球の内角高目のカーブをバッティング練習のように軽く打ち上げる。速度を増したボールがレフトスタンド上段に舞い落ちる。二対四。
六番一枝。初球、おあつらえ向きの内角シュートが低目にくる。ピシリと叩きつける。低い打球が三遊間を抜け、私の前に転がってくる。捕球してセカンドの高木へ返球する。
七番江藤省三。ワンワンから外角高目のストレートを打って右中間の二塁打。三連打。ノーアウト、二塁、三塁。観客はワクワクして立ったり坐ったりする。だれでも打撃戦が大好きだ。
八番竹内。上背があってガッチリしている。菱川と同期らしいが、同じようにスラッガーに成長することを期待されて入団したのだろう。初球から力まかせに右に左にファールを打ち、外角のカーブを見逃して三振した。そのカーブだけがストライクだった。スタンドは呆れて黙りこんだ。じっとしていればフォアボールで出塁できたのだ。使われて花開くというタイプではない。このまま消えていくだろう。
九番小川。彼はバッティングがいい。このチャンスに一点で終わったらあまりにもさびしい。打つだろう。初球、レフトにさりげなく大きなファールを打ったあと、外角低目のカーブをカツンと叩いて、西田の右深くへシングルヒットを打った。二者生還。四対四の同点。嵐のような拍手。ここで白組はピッチャー交代。
「門岡に代わりまして、佐藤進、ピッチャー佐藤、背番号29」
ガタイのしっかりした右ピッチャーが登板する。いかつい顔。金田が巨人に去ったあとのサンケイのエース格。変化球を一とおり投げられるピッチャーということで知られている。先日のバッティング練習で防球ネットへピッチャーライナーを何本も打ち返し、最後にスコアボードにぶつけてやった投手だ。スリークォーターからのスライダーがよかった。去年暮れにヤクルトを自由契約になり、今年中日に拾われた。一度はユニフォームを脱いだ男。意気ごみは並々ならぬものがあるにちがいない。
ワンアウト一塁。バッターは一番に戻って江島。佐藤は意外なことにストレートを軸にして投げてきた。ストレート三、変化球一。そのストレートがけっこう速い。案外今季活躍するのではないか。江島はツーツーから決め球のスライダーを打って、ライトフライに仕留められた。ツーアウト一塁。
二番谷沢。初球、内角スライダー見逃し。ストライク。佐藤は二球目のセットポジションに入ろうとする。小川が一塁ベース付近でピョンピョン跳びながらスパイクを打ち合わせ、泥を落とす格好をしている。ユーモラスだ。佐藤はそれを気にしながら投球動作を始動した。と同時に小川が二塁に向かってダッシュした。佐藤は一瞬躊躇すると投球動作を中断して一塁と二塁を振り返った。
「ボーク!」
岡田球審は両手を上げ佐藤に一、二歩近づいて宣告した。小川は労せず二塁へ進塁が許された。これはさすがにボークとわかったが、ボークというのは細かい規定が十何種類もあって判断が難しい。私が知っているのは投球動作の中断ぐらいだ。偽投はややこしくてよくわからない。追々実戦で覚えていくしかない。
ツーアウト、ランナー二塁。谷沢は初打点を挙げられるだろうか。二球目、肩口から真ん中へ流れるシュート、バックネット後方へファール。両手の握りを離さない美しいスイングだ。三球目、内角高目ストレート、ボール。四球目、外角低目シュート、ボール。
―次はスライダー。
と思ったとたん、内角低目へスライダーが切れこんだ。払った。みごと! 西田は数歩左へ動いただけで、ポール脇へ突き刺さる打球を見送った。歓声、拍手。私も中もグローブを叩いて祝福した。六対四。おもしろくなってきた。
三番木俣。ツーアウトランナーなし。ホームランしか狙わないだろう。初球、真ん中高目のストレート、絶好球。わずかにボールが縦に動いたように見えた。勇んで振って、高いバウンドのサードゴロ。菱川前進してさばいてアウト。チェンジ。
五回裏、小川続投。白組の打順は九番ピッチャー佐藤から。初球、ひょいと投げた外角カーブを打たされてセカンドゴロ。一番日野、初球、ひょいと投げた内角シュートを打たされてショートゴロ。二番中、初球、グイと投げた真ん中高目のストレートを叩いて、センター定位置へのフライ。三球でスリーアウト。
六回表、佐藤続投。四番江藤から。佐藤は直球をボール球として捨て、変化球の多投に切り替えた。見送られることが多いので球数が多くなる。江藤ツースリーから外角のスライダーを叩いてファーストライナー。彼は難しいボールを叩こうとする研究心旺盛の熱血漢だ。これがペナントレース本番で生きてくる。
五番太田、ストレートのボール球を見送り、カーブ、シンカー、シュートはよくファールで粘って、ツースリーから真ん中低目のカーブを叩いてセンター前にゴロで抜けるヒット。
六番一枝、ボールツーから得意のシュート打ち、私の前に痛烈なヒットを転がす。ワンアウト一、二塁。
七番江藤省三、打率のいい男。変化球にうまく対応できるのでそうなる。速球には強くない。初球、内角足もとのシュート、二球目外角低目のスライダー、いずれもファール。バットの届くストライクの変化球は見逃さずに振る。佐藤はそれを見抜き、バットの届かない変化球はファールを打たせたり見せ球に使ったりして、きょういちばんのスピードボールで決めた。省三は内角高目の速球を空振り、三振。
「八番竹内に代わり、バッターは坪井新三郎、背番号60」
二十三歳、角面の好男子。百六十八センチの小兵。大阪のPL学園を卒業してからPL教団で硬式野球を始め、名古屋へ転籍して富士製鐵名古屋で野球をつづけた変り種。事情は知らない。小川と言い、星野と言い、中日はこういう選手が多い。去年暮れ、ドラフト外で入団した。富士製鐵では三番を打って和製大砲と呼ばれていたらしい。どう呼ばれようと、打てなければ意味がない。
初球、外角届かないところへカーブ、ストライク。二球目、同じコースへカーブ、バットの先端に当ててファール。三球目、内角胸もとストレート、空振り三振。試合のテンポが速い。
「六回裏、紅組の選手の交代を申し上げます。ピッチャー小川に代わりまして、渡辺司、ピッチャー渡辺、背番号22」
十九歳、中肉中背、細面、小物顔。宮崎高鍋高校から石川島播磨に一年。エースだったようだ。浜野の背番号を受け継いだということは、期待の度合いが大きいということだろう。法元スカウトが太鼓判を捺したそうだ。ピッチング練習を見る。スピードは? まずまずだ。カーブが大きく曲がる。ブレーキはない。
「白組のバッターは、三番サード菱川」
「さ、この回でぶっ潰しますよ!」
私はランナーを溜めるつもりでいる。菱川も同じ気持ちのようで、ワンスリーまでじっくり見たあと、外角曲がり損ねのカーブを叩いてライト前ヒット。木俣がキャッチャーボックスから、
「金太郎さん、カンベンな。有望株の新人に自信失わせたくないから」
と私の横顔に声をかけ、なりふりかまわず立ち上がり、敬遠しようとする。外角遠く一球外す。不満のどよめき。
「紅白戦やろが! 敬遠の練習してどうするんや!」
「コーチ何考えとんだ!」
「木俣ァ、しゃれかい!」
「自軍同士の練習試合で何やっとるんや! どっちが勝ってもええやろ」
たしかに敬遠はよくない。三塁ベンチから杉山監督の声が飛ぶ。
「工夫して打ち取れ!」
木俣が腰を下ろした。江藤兄がマウンドに走る。ひとことふたこと言って走り戻る。渡辺、セットポジションから二球目、外角低目へシュート、ストライク。これで渡辺の面目は立った。勝負する姿勢を見せたからだ。三球目、同じコースへホームベースの外から曲がりこむカーブ。踏みこみ、屁っぴり腰で叩く。広い球場の左中間を低い打球があっという間に抜いていく。スタンドの不満が一瞬のうちに歓声に変わって立ち昇る。スタンディングプダブル。菱川三塁へ。ノーアウト二塁、三塁。二塁ベースに立ち、塁審のマッちゃんと微笑し合う。