二十二
「さあ、二十本打って帰ります」
則博と土屋が本多監督に願い出て、マウンドの防球ネットへ走る。これも同期の竹田和史が、
「五球だけお願いします」
とマウンドに上がる。去年の明石で小山オーナーからスタミナ不足を治せと叱られた左腕投手だ。中日にはドラフト下位だったが、直球で勝負できる大型左腕と期待されて入団している。初めて対戦する。一球目から百四十五キロ前後の速球。ホームベースの範囲内の棒球なので、へろへろ球に見える。センターの九十七メートルフェンスにライナーで打ち当てる。二球目右中間フェンスに、三球目左中間フェンスにライナーで打ち当てる。四球目内角低目の速球。ライトボール下にライナーで打ち当てる。選手たちの拍手が止まなくなった。五球目、真ん中低目の速球を流し打って、レフトポール下にライナーで打ち当てる。コーチ陣の叫び。
「マジックー!」
本多監督が、
「手品はそれでオッケー。フェンス越えていいぞー!」
則博が緊張した顔でマウンドに上がる。サウスポーの彼の得意球は、外へ切れこむカーブとスライダーだ。直球は百三十七、八キロで内角にくる。カーブとスライダーはセンターから左の森の向こうへ、直球はセンターから右の森の向こうへ叩き出した。すべてするどく振らなかったので、百四十メートルは飛んでいないはずだ。
「まいりました!」
水谷則博は帽子を脱いで深々と辞儀をする。井上コーチが、
「ぜんぶ軽く振ってたな。神業!」
則博は土屋とタッチ交代した。電話連絡でも受けたのか、いつのまにか一軍コーチ三人もケージ後ろに集まっている。長谷川コーチが、
「土屋、打たすな。ぜんぶきわどいコースを投げて打たさんつもりでいけ。ストライクは入れるな!」
土屋は長谷川コーチの言に従って、左右、高低、すべてベースすれすれか、ベースから外れるボール球を投げてきた。ベースから遠く外れる球は掬い上げや屁っぴり腰で右中間か左中間へ打ち返し、ベースに近いボール球はすべて森の彼方へ叩き出した。
「まいりました!」
土屋も帽子を取って礼をした。パラパラと何人かの選手たちが顔を高潮させて走ってきて、私に握手を求めた。泣いている者もいた。長谷川コーチは、
「驚いたろう? しかしもっと驚くべきことは、この打撃王でさえ公式戦では三割五分近く抑えられてるという事実だ。今年はもっと抑えられるだろう。ボール球を多投されるだろうからね。水谷も土屋も打たれたのは、ボールにキレ、つまりするどい動きがないからだ。切れがなければ入れようと外そうと、しっかり見極められて打たれる」
杉山コーチが選手たちに、
「いいものを見たね。励みにしてくださいよ。神無月くんは自己鍛錬の意味もあってきょうきたんだろうが、無意識に、きみたちを励ます意味もあったんだろうと思う。どうして下から上がってくる選手が少ないんだろうと疑問を感じてね。どうですか、背骨がシャキッとなったでしょう。自分がサボっていると痛感したでしょう。自己鍛錬を弛まずすれば、奇跡的な技量の持ち主になれる可能性がある。その技量も鍛練を怠ればすみやかに衰えていく、と示唆したかったんじゃないかな」
「オス!」
私は礼をしてベンチに戻り、スパイクを運動靴に履き替えた。フリーバッティングが再開した。ここからピッチャー陣の投げこみと併行して二時間はやるだろう。特打特守を入れれば四時間か。気が遠くなる。森下コーチが、
「じゃな、金太郎さん、俺たちホテル戻るさかい。またあした練習でな」
「はい、失礼します」
杉山コーチが、
「きょうもいい目の保養させてもらった。ありがとう」
「とんでもない」
長谷川コーチが、
「目ぼしい選手いた?」
「いえ、きょうのところは」
「だよね」
三人は本多監督たちに挨拶してバックネット裏から帰っていった。本多監督がやってきた。
「杉山コーチの言うとおり、たしかに自主練習なら第一球場で何人かと組んでできる。きょう神無月くんがきたのは、ほんとに二軍の状態に疑問を持ってたからだね。きみが守備練習しててもバッティング練習してても、真摯に近づいて教えを乞おうとした連中はいなかった。身の程知らずにただ挑戦したがった。きみが自分の技量を見せつけて喜ぶ人間じゃないということは一見してわかったはずなのにね。……申しわけない、がっかりさせてしまって。……たった二時間で顔つきの変わったやつもいたのは事実なんだよ。これからは気力のあるそいつらを鍛えることにするよ。一人でも多く一軍に上げるようにする。どうせ辞めていく怠け者は放っておいてね」
「はい。江藤さんたちも……ぼくも、永遠に野球ができるわけじゃありません。戸板や谷沢のような、すぐ一軍でプレイできる人材が毎年入ってくることはマレです。二軍で発見された、あるいは二軍の経験を基に覚醒した選手がすべてです。発見されるためには、覚醒するためには、サボっていちゃだめです。ぼくの倍も三倍も練習しているのに、どこかタルんでる。守備一つ、バッティング一つ、工夫がないんです。練習量に安心し切ってる」
「たとえばどういうところだね」
「守備なら、捕球から送球までのむだなステップを省く。長嶋のまねをしてるんでしょうが、長嶋はチョコチョコと小さなステップで送球のタイミングを計ってるだけで、大きいむだなステップはしてません。バッティングなら、ピッチャーの投げるコースに狙いを定めたら打球の方向をイメージして思い切り叩く。ピッチングのことは門外漢ですが、総じて肩が弱く、手首と肘と肩の連動もうまくいっていないような気がします。力まかせに投げているのに球が遅くて、キレない。遠投で肩を強くし、星野秀孝のように連動だけで軽く投げるよう工夫すれば、投げこみは百球くらいですみます。地肩の強さなんてものはサボればすぐなくなります。ぼくは三十メートルから四十メートルのキャッチボールをまじめに連動を意識しながら、二十本くらい投げるようにしてます。投手も野手もキャッチボールを欠かさないこと」
「ほかに思いついたことを言ってくれないか」
「特守は体力を維持するために、時おり、まあ一週間にいっぺんくらい、五十本でいいでしょう。プロ野球選手はマラソンランナーじゃないんですから。千本ノックなんてのは膨大な時間のむだです。コーチがサド的に愉しんでるだけでしょう。そういうコーチはどんどんクビにすべきです。守備練習は、ゲッツーの4―6は試合前だけ、ふだんは三塁からセカンドベースへ、一塁からセカンドベースへの練習だけでじゅうぶんです。それも十本程度で足ります。特打は要りません。打球を飛ばす娯楽になってるようですから。日常的に九コースを想定した素振りを二十本ずつやればじゅうぶんです。フリーバッティングは試合前もふだんも十本程度。ミートの感触をつかむだけ。滑りこみ練習は危険です。疲れた状態でやると脚に致命傷を負います。いったんワザが身についた人間は実戦で滑りこむだけでいい。何周もやるベーランは愚の骨頂です。実戦でそんな状況など一生に一回も訪れません」
「ふうぅ、ものすごい観察眼だね。畏れ入った。ところで九コースの素振りというやつをみんなに見せてやってくれないか」
「わかりました」
本多コーチはバッティングケージ前に選手たちを集めて車座にし、少し説明してから私に実演を求めた。
「インコース顔の高さからいきます。アウトステップするしないは各自工夫してください。肘をこめかみへ引いて、利き手の手のひらで押しこむ」
二十本振って見せる。みんな食い入るように見つめている。
「インコース腰の高さ、肘を背中へ引くイメージで、利き手で押しこむ」
二十本。
「インコース低目、ゴルフドライバーの衝突角をイメージしてゴルフスイング」
二十本。風切り音がすごくなる。車座からため息が漏れる。
「真ん中顔の高さ。なるべく手を出しませんが、出してしまった場合の振り方。肘をあごへ引いて、利き手で絞る。インコースは絞れませんでした。よくインコースは肘を畳むという人がいますが、畳んではバットを振れません」
二十本。
「真ん中腰の高さ。ふつうの素振りです。利き手の絞りを忘れずに。ここばかり振っている選手が多いですがまちがいです」
二十本。風切り音が最大になる。
「すげえ!」
「見たこともないバットスピードだな!」
「真ん中低目。からだを伸ばしてゴルフスイングするのでなく、ほんの少しからだを低くして、レベルに振り抜く感じ。利き手はキッチリ絞ります」
二十本。私の鬼気迫る様子に、監督、コーチ、選手たちが驚愕の表情を浮かべている。
「アウトコースの高目。踏みこめないのでなかなかホームランにならないコースです。江藤さんや菱川さんの得意コースで、けっこうスタンドへ持っていきます。両手で絞りこみ、虫取り網を振る要領で」
二十本。風切り音が弱まる。
「アウトコース腰の高さ。踏みこみ、両手で絞り、しっかりレベルに振り抜く。インコース低目の次に得意コースです」
二十本。風切り音が最大に戻る。
「すごすぎだ!」
「人間が振っとるんか!」
「最後に外角低目。ほとんどのピッチャーが決め球にするコースなので、打てないとだめです。小学校のときここを空振りばかりしてたので、とことん考えました。突っ立ってつんのめりながら振ってたとわかりました。近づけばいい。からだを極端に低くして、利き手を絞ってレベルに強く振る。苦しい鍛練になりました。直立してつんのめって打つんじゃなく屁っぴり腰で草を薙ぎ払うように振ります」
二十本。風切り音は最大に近い。みんな口をポカンと開けている。
「以上、たった百八十本ですが、だらだら五百本振るよりはるかに疲れます。五百本、千本などという先達の自慢話は忘れて、この百八十本を信頼してください」
いっせいに拍手、歓声。
「じゃ、帰ります。今度は一軍のグランドでお会いしましょう」
「ありがとうございました!」
「死にもの狂いでやります!」
監督、コーチ連中が握手する。選手たちが握手する。
「ライバルは人間じゃありません。自分の技量です。さよなら」
手を振りながらベンチ脇の通路から帰った。
気力の衰え、技量の衰え、怠惰の習慣をいちばん恐れているのは私だ。その恐怖を解消するために二軍のグランドを訪れたのだったが、詮ずるところ気まぐれにすぎない。気まぐれが美談めいたものに仕立て上げられてしまった。それどころか、成りゆきで体裁つけた一家言まで吐いた。気が重い。
森の道で何人もの人から声をかけられる。頭を下げて通り抜ける。
―明るい気持ちになろう。私が明るく生きなければ、だれが明るく生きられる? 明るく、そしてきびしくなければだめだ。きびしい道を歩きつづけて初めて、その道の上で明るくなれる。
ホテルに戻ると、仕上がったユニフォームを受け取り、シャワーを浴びて、三時間の仮眠をとる。七時に起き出して、ラウンジに降り、のんびりソファに腰を下ろす。めしどきなので、同僚たちの姿も一般客の姿もない。テーブルに置いてある神戸新聞をめくる。〈人類の進歩と調和〉をテーマに、日本じゅうが大阪万博で沸き立っている、ボウリングがブームの兆し、レジャーの多様化、ビューティフルな時代(意味不明)、見るべき記事はない。映画の斜陽化というコラム記事に釣られて、神戸近辺の映画館の宣伝を見る。明石市にも映画館があるのかと目を流すと、四軒あった。港区の同じ場所に、明石東宝、明石松竹、明石東映、白鳥座。東宝は『社長学ABC』と『クレージーの殴り込み清水港』の同時上映、松竹は『男はつらいよフーテンの寅』と『ひばり森進一の花と涙と炎』の同時上映、東映は『血染の代紋』、白鳥座は『イージー・ライダー』。斜陽化云々に関わらず、どれも観る気なし。ふらりと映画館街のヒヤカシにいってみたくなった。映画館のガラスケースに納まったピンアップ写真は大好きだ。
フロントにいき、明石東宝の場所は遠いかどうかを訊く。明石駅南口から歩いて三、四分で国道2号線に出る、その交差点角の住友銀行を右折してすぐダイエーがあり、その脇だと言う。
てくてくいってみる。駅前からダイエー脇の通行量の多い路地を抜ける。あった。明石東宝という綺麗な看板文字。両脇に三軒の映画館も並んでいる。各劇場の正面に掲げられた絵看板と立看板が目にやさしい。保土ヶ谷の映画館街を思い出させるたたずまいだ。切符売場を眺めて歩く。いちばん由緒ありそうな明石東宝に入ってみることにする。五百五十円。もぎりに半券を渡されて、踊り場につづく御影石の広い階段を昇る。もう一曲がり昇って、だだっ広いロビーの空間に出る。品数の少ない質素な売店。ウィンドー横の小机にパンフレットが置いてある。不二家のミルキーを買う。横浜のころはこういうことはしなかった。自転車屋に父を訪ねた帰りに一度だけチャンスがあったが、硬貨を落としてしまった。
ドアを開けて暗闇に入る。クレージーをやっている。上映途中に入っていく闇の静けさが胸に沁みる。明るい画面は眼鏡をかけていない裸眼に負担がない。克明ではないが、ふつうの鮮やかさで見える。
最後列の真ん中あたりの席に座って、前方の薄闇を透かし見る。二十八席掛ける八列か。二百二十四席。中央通路でそれが左右に分けられている。ガラ空き。一、二、三、四……十六人しかいない。すばらしい。映画の陽が斜きかけていることをありがたく感じる。陽が沈み切るまでわがもの顔でスクリーンの残照を堪能できる。シネマ・ホームタウンも十年もすればこうなるだろう。そのときは最後まで客の一人でいよう。
二十三
植木等やハナ肇のドタバタが終わり、館内が明るくなる。床も壁も緑色。壁に小型スピーカーが三対。きれいな映画館だ。客がポツポツ入ってくる。三十人ほどになった。年配客のほかに中高生の姿もある。子供がいない。不満だ。
十分休憩。ロビーに出ると、売店の五十年配の売り子から拝むようにサインを求められた。色紙を差し出しながら唇に指を当てているのは、静かにしますからね、という意味らしい。奉公ずれしていないたたずまいに好感を持った。気分よく書く。苗字を尋ね、西海さんへと書き添えた。瀬戸内らしい苗字だ。女はしゃがんで足もとにしまい、
「おおきに。がんばってください。来週も観にいきます」
と頭を下げた。
「紅白戦を観にきてくれてたんですね、ありがとう。ここは古くからある映画館ですよね」
「はい。もともとあった映画館を社長の柏木さんが買い取ったんが昭和二十八年です。うちはそれから三代目の店員です。オリンピックの年から勤めとります」
「オリンピック……六年前ですね」
「はい」
ポップコーンやコーラを買いにくる一人、二人の客に彼女は、毎度、と言って手渡している。
「お客さんが少なくて居心地がいいです。ホッとします」
「プロ野球選手は人気商売やから、気苦労も多いやろ。ウィークデイはこの時間あたりからはお客さんが退けてまうけど、ここは有名な四軒並びの映画館やから、昼間は年じゅう商売繁盛なんよ。土日は特にあつかましいからたいへんです。明石市は周りを神戸市と淡路市に接しとるから、明石市内にかぎらず神戸市の西区や垂水区からいらっしゃるかたもおるし、淡路島の岩屋から船に乗っていらっしゃるかたもおります。船で十五分です」
ブザーが鳴り、
「じゃ」
「ごゆっくり。この映画が社長シリーズ第三十二回目で、来月上映される続編が最終作になるんよ」
「そうですか。それも名古屋のほうで観てみます」
館内に戻る。八時五分から最終回上映だ。社長学だけ観て帰ろう。
幕が開く。森繁、小林桂樹、加東大介か。吉冨さんを思い出す。缶詰を使ったオープニングが華やかでいい。洒落ている。食品会社の話。大豆から作った代用肉の試食会から始まる。味覚音痴で大食漢の小林桂樹と森繁との掛け合いにさっそく笑う。加東大介と藤岡琢也がニギヤカシ役。藤岡の役どころはこれまで三木のり平だったはず。ストーリーはそれぞれの出世人事へと展開する。小林が社長に昇進するというのがメインのようだ。たぶん頓挫するだろうと思ったら、実現した。森繁の大社長就任は頓挫し、会長というある種の閑職に就く。続編で挽回するのだろう。
みな台詞回しが達者で、うまい役者だと感じる。森繁の付き人役の関口宏は大根だ。枯れ木も山の賑わい。そしてお決まりの親会社の大社長東野英治郎が出てきて、出世話の進行役になる。熟女役に草笛光子、司葉子、池内淳子、団令子は定番。この四人の年齢はカズちゃんと一、二歳前後するだけだ。司葉子は同年齢。小林の妹役で齢の離れた内藤洋子が出ている。大根。彼女は関口宏の恋人役もする。台湾人バイヤー小沢昭一の登場。名人芸。で、台湾ロケ。現代の台湾の街の雰囲気がほんのわずかだが見られる。街は明るいけれども、政治的なスローガンが諸所に瞥見された。
売店の女に、
「もう一度くらい観にきます」
と挨拶すると、
「木曜日から二週間、加山雄三の『蝦夷館(やかた)の決闘』です。二時間以上の映画やから一本立てです」
「そうですか。時間を見つけて最終上映に合わせてきてみます」
「ちょっと待ってくれてや」
スケジュール表を見る。
「ちょうど八時からです」
「わかりました。お休みなさい」
「お休みなさい」
帰り道、ふと、森繁が網野参太郎(アミノ酸)、小林桂樹が丹波久(タンパク)というシャレに気づいて笑った。
帰り着くと十時に近かった。玄関ドアの脇に背広が一人立っていて辞儀をした。気配に振り向くと、もう一人の背広が上体を折った。そうして、私を追い越し、ドア口の背広といっしょにエレベーターへ姿を消した。
出かける前と同じようにロビーのソファに落ち着いた。明るい気持ちになっている。人恋しいな。そう思っていたところへ、江藤と高木と木俣が玄関から入ってきた。江藤が、
「夜の散歩ね。後ろ姿が見えとったばい」
「映画を観てきました。明石東宝という映画館で、森繁の社長シリーズ」
「ワシらも菊水にいってビールばひっかけてきた。このホテルは酒ば出す店がなかけん」
高木が、
「聞いたよ。第二球場で二軍や一軍半を励ましてきたんだって?」
「勝手な解釈です。からだを動かしたくて。一回こっきりの気まぐれです。もういきません」
三人ソファに腰を下ろした。木俣が、
「江藤さんに十年選手の話を聞いてたんだよ」
「はあ、ボーナスか移籍かってやつですね」
「うん、田宮コーチが昭和三十三年に十年目を迎えて、ボーナスの少なさに不満で移籍のほうを選択したんだ。球団がグズグズ渋らなければ、阪神を縁のものと思ってる田宮コーチは残留するつもりだったんだけどね」
高木が、
「千五百万。年俸と同じくらいだったらしい。阪神側も移籍されちゃ困るってんで、じりじり二千五百万まで上げたらしいけど、結局三千万で大毎に移籍した」
「ボーナスってそんなに出るんですか」
江藤が、
「そげんしか出んちゅうことばい。金太郎さんに金の話ばかりして悪かと思うばってん、が、ワシは十年目のおととし五千万もろうた。同期の板ちゃんも、ちゃっかり同じだけもろうとる。利ちゃんはたしかオリンピックの年に三千万もろうとる。モリミチが今年十年目たい。最低ワシくらいは出るやろうもん。高木時夫も十年目ばってん、スズメの涙ぐらいしか出んやろのう。金田は昭和三十四年に生え抜きの選手だけが取得できるA級十年権ば使うて、一億近いボーナスばもろうた。その三年後に、生え抜きでない十年選手が持てるB級の権利ば再取得して移籍権ば残した。翌年にその権利を使うて巨人に移籍した。何言っとるかわからんやろ」
「はい」
「わからんでよか。で、国鉄がサンケイに身売りした三十九年に、その権利を使うて巨人に移籍した。中日は一億円で誘ったばってんが、八千万円の巨人にいった」
「巨人にいきたかったんですね」
高木が、
「知ってのとおり移籍料のほうがボーナスより金額が高いということなんだ。俺はボーナスをもらって残留するよ。どこにも出ていきたくない」
「伊藤竜彦さんは何年目だったんですか」
「ワシと同期やけん去年で十一年目やった。水谷寿伸もそうや。ワシといっしょに二人とも二千万円くらいもろうた。移籍せんちゅう条件やったが、竜彦はトレードに出された」
木俣が、
「俺、健太郎さん、修ちゃん、千原もヒシも七年目だ。門岡が九年目。山中さんは九年目でコーチになった。吉沢さんは九年終了でトレードに出された。小野のさんも大毎の九年目から、トレード、トレードの連続だ。移籍料だけでB級の自由移籍権しかもらえない」
「小野さんらしい運命だと思います。十年目のボーナスって、球団がどれだけその選手を大事に思っているかの証ですね。少ないのは誠実でない」
「そんたうり!」
木俣が、
「金太郎さんも野球をやりつづけて、たっぷりもらうか?」
「水原監督が辞めるまであと九年あればいいんですが……」
「七十歳まではやってほしいのう」
「そう願いましょう。どんな人間でもぜったいに勝てないのは、時代と年齢です。監督の在任期間中に十年目を迎えることができれば、いただけるなら金額はいくらでもいいです。いただけないならいらないです。とにかく、去年出会ったレギュラーの人たちと一年でも長く野球をやりたいです。一人欠けるつど気力がなくなっていくでしょう。監督が辞めたら、野球を辞めます」
「それに間に合わんと辞めるやつもおるやろのう。小野親分、利ちゃん、それからワシや。移籍も出るかもしれん。くどいようやが、ワシらの命運と金太郎さんの気力ば結びつけたらいけん。日本球界の巨星やけんな。燃え尽きるまで輝かんといけん。とにかくワシらもからだを壊さんように、一年でも多くがんばらんば。ヨシャ、明日も七時から走るばい」
握手し合って解散した。
閉店まぎわのうずしおにいく。話しかけられるカウンターを避けて、離れたテーブル席で食う。大盛りめしとお新香、刺身三品、シイタケとオクラの煮物、茶碗蒸し、赤だし。満腹。
本を読まずに、歯を磨いて、就寝。
†
二月十日火曜日。六時半起床。晴。マイナス一・二度。ルーティーン。めずらしくふつうの便。シャワー。七時から仲良し組でランニング。太田が、
「きょうは一日じゅう零度前後らしいですよ」
高木が、
「キャッチボールとフリーバッティングは注意しないとな」
秀孝が、
「投げこみの日ですから、ウォーミングアップから気をつけます。ノックで下半身をいじめてから」
「五十球前後にしろよ。二百、三百投げたらだめだ。それで肩やられて退団した選手が何人もいる」
小川が戒める。一枝が、
「ウォーミングアップに、ジャンピングスクワット、ジャンピング腕立て伏せを入れろ。力強さと敏捷さがつく。小柄な俺がもってるのはそのおかげだ」
菱川が、
「大リーグじゃ、どんな反復運動も百回以上やったらだめだと言われてる。それを超えると筋繊維が破壊されて、全力で素早く動けなくなるかららしい。そうなってからはもうトレーニングにならないんだって。靭帯、腱、関節に負担がかかって故障につながるわけだ」
谷沢が、
「鍛えられるんじゃなく、損傷するということですか」
高木が、
「スポーツ選手の鍛練は二十二、三歳から本格的にやれというのが定説だ。二十二歳くらいから二十六歳まで身長体重が増える。そこまで適切なトレーニングで土台を作っていれば二十六歳くらいからかならずパフォーマンスが変わるという説だ。うなずける」
江藤が、
「秀孝が花開いたんは、高校時代にハードな練習をしとらんかったからやなかね」
「そう思います」
†
火水木と三時からの特守にかならず参加した。五十本。午前中のウォーミングアップは二時間かけてやった。三種の神器のほかにジャンピングスクワット、ジャンピング腕立て伏せを十回ずつやった。自分のからだが一ミリずつ、百グラムずつでも、二十代半ばまで成長すると知ってうれしかった。百八十四センチ、八十四キロまでいく。プロ野球の世界ではさほど目立った大きさではない。ただ、筋力もアップする。それは楽しみなことだった。バッティング練習は、少し暖かかった十二日だけやった。
十日の午後に五百野のゲラ第一稿が届いた。十二日まで夕食後、四、五時間を使って、アカを入れながらゲラを読了した。誤字、脱字、段落ちミスなど十数箇所、書き直しはほとんどなかった。
十三日金曜日、休日。グリーンヒルホテルの南、二号線を渡ったところにある郵便局に出かけ、ゲラを中日新聞社に書留で郵送する。
午後までジャン・クリストフを読んですごした。
クリストフの頑健さ、喧嘩の強さ、しかし自身の凶暴性を自然界の妖気に重ねて絶えざる恐怖を感じる神経的な緊張が描かれる。そして、友の死を契機についに死の恐怖に打ち倒される。しかしそれは生への嫌悪によって和らげられ、そのことが彼に生き延びる勇気を与えた。そういう闇の中で彼の生涯を照らすべき光明が星のように輝きだした。聖なる音楽だった―。
ピアノに目覚めた。クリストフの関心を知ったメルキオルに根気のいい鍛練をされることになった。近所の素人合同演奏会に連れていかれたときは、物陰に隠れて聴き役に徹した。彼は傑作にも駄作にも感激した。非常な生命の力がひそんでいると感じたから。
ある日、ピアノを弾いているクリストフを観察していたメルキオルは、クリストフが神童だと気づいた。調教がきびしいものになった。ドイツじゅうを連れ回って金儲けしようと思ったからだ。
暴力を伴った鍛練に嫌気が差し、反抗し、打ち据えられ、自殺しようとまでする。そのとき流れるライン河に感動した。自分を信じ、何ものにも止められず、天気も、喜怒哀楽も、何ごともどうでもよく、常に自分の力を楽しんでいる、この河のようだったらどんなに愉快だろうか。
『緑色の満々たる河水は、ただ一つの思想のように一体をなして、脂ぎって光る模様を見せながら流れつづける』
曙、二、読了。
六時まで仮眠。メールで江藤たちとオムライスの晩めしを食ったあと、明石東宝へ出かける。最終上映が八時からだとすると、いまラスト前の回を上映中だ。あのおばさんと三十分でも話ができる。映画館の仕組みや組織について、従業員の視点から興味深い話が聞けるかもしれない。上映が終わってから喫茶店なんかで話をすれば、彼女の帰宅が遅くなる。
玄関を出ると背広姿が少し離れた後ろに立った。私は、
「映画を観てくるだけなのでご心配なく。十時半には終わりますから、十一時には帰ります。や、ちょっとものを食ってくるかもしれません。それでも十二時までには帰ります。あしたは六時半起きですから夜更かしはできません」
と声をかけた。男は頭を下げ、玄関へからだを引いた。
二十四
夜六時五十分。二・二度。ジャージに運動靴。少し冷えびえとする。歩き慣れた道をたどって南口へ出、ネオンの目立ちはじめる国道二号線を右折して明石東宝の前に立つ。武士二人が斬り合う蝦夷館の決闘の絵看板を見上げる。通りの反対側を振り返ると、魚の棚(ウォンタナ)商店街入口の大看板が見える。
もぎりに切符を切られて館内に入る。人けのない回廊。奥まった場所に売店があり、老眼鏡をかけたおばさんがショーケースの向こうのスツールに腰を下ろして、一心に週刊誌を読んでいる。
「今晩は」
「あら神無月さん、約束を守ってくれたんやね」
「はい。最終上映に間に合わせてきました」
おばさんは眼鏡を外してケースにしまった。
「あと二十分くらいで休憩です」
「少し話がしたくて。場知らずで申しわけないけど」
「いいえ……私もお話をしたかったです」
快活に立ち上がり、ショーケースの端から廊下へ出てきて、パンフレットを置いた小机の脇のベンチに坐るよう勧める。私から五十センチほど離れて尻を落ち着ける。小太りの大きな尻だ。ゆるめの制服がしっくり似合っている。そのまま何とも言わない。あらためて顔を見る。年相応に皺もシミもあるが、恥じている様子はない。メリハリのない顔つきに安堵させるものがある。
「六年もお勤めなら、映画館のことは詳しいんでしょうね」
「多少は……」
「働いてる人は、もぎりの人、売店の人、フィルムを回す人」
「社長兼支配人の柏木さん、営業回りのマネージャー、計理の人、設備点検の人、お掃除の人。お掃除のおじさんはこの裏に住みこみやけど、もぎりと売店は早番と遅番の交代制です。私はたいてい遅番です。交代でやっとると生活のリズムがとれまへんから、そうさせてもらっとる」
「家庭があると当然そうなりますね」
「……独身です。映画館に裏方で勤めてる人って、既婚者は少ないんよ。都会も田舎もシフト制の仕事に就いとる人はほとんどそうやないやろか。生活のリズムが安定せんから出会い自体がめったにのうなるし、人と予定が合わせづらいから、長う付き合っとってもなかなか結婚に踏み出せんゆうことやと思います」
むかしの自分のことを言っているのだろう。
「家族のリズムも壊すと……」
「はい。裏方さんは男も女もたいてい家を出て、一人暮らしをしとって、まじめで、それなりに協調性があって、何かしら趣味を持っとる人が多いです」
「どんな趣味ですか」
「本とか、音楽とか、ガーデニングとか、食べ歩きとか。その反対に自炊料理に凝っとる人もいます。映画を趣味にしとる人は案外少ないね。私は無趣味です。強いて言えば、この映画館で上映する映画をかならず観ること」
皺を深めながら明るく笑う。歯を見た。美しい。
「家は近いんですか?」
「菊水のすぐそばです。ここから五分」
「その店、このあいだみんなと食べにいきました」
「高かったやろ」
「さあ、先輩がおごってくれますから」
西海さんは腕時計をチラリと見て、
「さ、休憩ですよ。……あの、門限は……何時やろ……」
「十二時までに帰ると言ってあります」
「映画が終わったら、明石銀座の入口で待っとってもらえますか? 十時二十分までにはいきますで」
これ以上ないほど顔を赤くして小声で言う。
「はい。これは〈めったにない出会い〉ですね」
「……はい。勝手に引き合わせやと思っとります。気悪くせんといてくださいね」
「喜んでます」
月曜日よりも多い客がドアを開けて出てくる。玄関から入ってくる客は月曜日より少ない。場内を覗く。やはり三十人くらいいる。途中入場した人たちだろう。
幕が開く。オープニングのやたら景気のいい音楽。原作は柴田錬三郎か。三國連太郎と仲代達矢と島田正吾が出ている。中身に比例しない重い演技になりそうだ。
舞台は函館。唐突にアイヌの酋長(島田正吾)によるロシアの伯爵令嬢の誘拐。蝦夷館というところに拉致されたとわかる。幕府は大目付仲代に令嬢を奪還せよと命じる。仲代は公儀隠密三國に、令嬢など取り戻す必要はないから、用意したゴロツキを八人と協力してアイヌの砂金を奪えと命じる。私腹を肥やして幕府内の勢力を拡げるためだろう。毎度の獅子身中の虫。金子信雄が捜索の資金提供にあずかる商人越後屋役で登場する。大掛かりな金欲がらみの筋立てになるとわかる。ゴロツキの中に、武芸百般に秀でているのになぜか牢屋に囚われていた加山雄三が忍びこんでいる。三國と同じ公儀隠密だろうか。三國を頭目にする一行九人ははるばる蝦夷館へ出かけていく。外国絡みの幕末政治事情のほうは難しくてわからない。理解を捨てて、活劇だけを観ることにする。
捜索がアイヌたちの妨害に遭って難航する。その途上の闘争シーンが全編のほとんどのようだ。攻撃を受けながら、九人でひたすら岩だらけの山路をいく。湖で沐浴するアイヌの姫(倍賞美津子)まで出てくる。アイヌの攻撃は止まず、多勢に無勢、戦うことをあきらめた三國は、アイヌの酋長島田に謁見し、武器と砂金のバーター交渉でロシアに裏切られたと告白する彼に、金さえくれれば越後屋を裏切ってロシアとうまく交渉すると讒言して取り入り、配下のゴロツキどもに対しては令嬢を奪還する作戦をとりつづけるふりをする。アイヌの盆踊り。姫のみっともないバトン踊り。こんな映画をおばさんはきちんと観たのだ。奇特なことだ。ウトッと眠気がくるが眠らない。
姫の侍り女にゴロツキが夜這いをかけ、残虐な姫に仕置きをされる。加山が仕返しに姫に夜這いをかけ、彼女の残虐性をセックスで宥めて、令嬢救出に役立てようとする。ずんずん荒唐無稽な展開になるが、おもしろさは増す。じつは裏切っていたのは幕府でもロシアでもなくて、金欲にまみれた仲代に命令された越後屋が、ロシアとアイヌから武器と金を騙し取っていたとわかる。仲代の狙いはロシアとアイヌを戦わせて共倒れさせることだった。その命を受けた三國の謀略を阻止するのが加山の役回りだ。最後は、砂金を馬に積んで逃走する三國とそれを追う加山の闘いになる。加山は三國の両腕を切り落とし、したい寄る倍賞と馬に乗って去る。Z級の映画だった。
西海さんに目で挨拶をし、映画館を出て、明石銀座の入口で待つ。銀座と言っても、荻窪のそれのようなただの道路沿いの商店街だ。五分もしないで私服の西海さんがやってきた。肥っているがスカートの腰が高いので、ローヒールを履いた脚が長く見える。
「お待たせしました。ひどい映画やったでしょう」
「歴史に残る駄作だね」
「ウフフ、飢餓海峡の三船さんも、赤ひげの加山さんもかわいそうやったね」
よく知っている。
「宍戸錠や赤木圭一郎の映画よりもひどい」
五メートルほど先を左折し、東へ歩き出す。
「桜町本通です」
中華ソバ屋、マンション、信用金庫、スポーツ用品店、電器屋、菊水、マンション、個人住宅、有料駐車場。人っ子一人いない。辻にきて、
「ここです。見てのとおりのボロ家。三十五のときに二十五万円で建てた自分の家です。築十七年。あら、齢がばれてまった」
左角地のトタン張りのバラックふうの二階家を指差す。屋根は瓦だ。雨樋が縁どるように家の二辺に垂れている。電柱に桜町一○―一○とある。家の壁は一部モルタルで一部トタンだ。トタンは灰色に塗ってあり、錆びていない。奥壁にプロパンガスが縛りつけてある。私が三歳のころの二十五万円というのはどの程度の金額なのだろうか。公務員や銀行員の大卒の初任給が昭和二十年代後半に五千円から六千円くらいだったと、世相史か何かの本で見た記憶がある。明石の田舎で、安定して収入が見こめない状況で、おばさんの給料はもちろんそれ以下だっただろう。家の値段は年収の五倍以上だという知識がある。それから推察すると、二十五万円は決して廉くはない。爪に火を燈すようにして三十五歳まで貯めた二十五万円だったろう。たぶん月賦ではなく現金で買ったのだ。
道路に面した二枚戸の左右に、大振りの鉢植えが一つずつ置いてある。左にクロモジ、細い枝ぶりが美しい中低木だ。右にリージェント、高くならない木で、甘い実がたくさんなる。トシさんの庭にも置いてあった。
「クロモジとリージェントか。いい趣味ですね。無趣味じゃなくて、鉢植えが趣味じゃないの?」
「いいえ、近所の植木屋さんから名前も知らないで買って、ここに置いてもらったんです」
「ふつうは、白い花房が垂れるドウダンツツジとか、葉が小さくてかわいらしいオリーブとか置くものだけど、これは目に快適ですね。すっきりした姿勢のいい木だ」
「神無月さんは植物に詳しいんですね」
「それほどでも。花や木が好きなだけで」
表札に西海とある。
「土地らしい、ロマンのある苗字ですね」
「神無月ゆうんも粋な名前やよ」
外にエアコンのファンが取り付けられていないのを見ると、炬燵か石油ストーブで暖をとっているのだろう。挿しこんでクルクル回す鍵で錠を開け、玄関戸を引き、一帖の土間に入る。見慣れている光景だ。初めての気がしない。女物の靴やサンダルや下駄が揃えて置いてある。下駄箱の上に黒電話が載っている。一帖の式台から細い廊下が二部屋分貫き、右に台所とガス風呂のガラス戸が連なり、左に六畳二間の障子が連なる。廊下の突き当たりは便所になっている。T字に折れる廊下の外れに階段があるのだろう。
「二階は八畳と六畳です。おととしまでご夫婦が間借りしとったんですけど、大阪のほうへ引っ越していきよりました」
障子を開けて六畳の居間へ招き入れられる。やはり炬燵が置いてあった。大きな正方形のテーブルが載っている。小物を並べた水屋があり、その横の物納れラックの上に十四インチの白黒テレビが置いてある。柱時計を見ると十時三十五分だった。彼女も私も目的は一つだから、早くすませようと思った。
「隣は寝室ですね」
「はい、箪笥やら鏡台やらファンシーケースやら、いろいろ置いたります」
襖を開けて見せる。そこも小ぎれいに整っていた。奥が四枚のガラス戸になっていて、カーテンが半ば引いてある。その向こうは小庭になっているのだろう。
「蒲団を敷いてください。しましょう」
「え、してくれはるんですか?」
「そのつもりできました」
「私も……なろうことならと思っとりました。おおきに」
惑いもなく、ふつうの調子で答える。西海さんはバッグを鏡台に置き、押入れから敷布団を下ろして敷く。シーツをきちんと延べる。尻の動きを見ていて勃起した。すぐに硬さが完全になった。ジャージのズボンとパンツをいっしょに脱ぎ、スカートの尻に近づき、スカートの奥の股間に手を回して湿り具合を探る。されるままにしている。クリトリスが硬く突き出し、複雑な襞がしとどに濡れている。
「もう準備ができてますね」
「はい……」
スカートと下着を引き下ろし、仰向けにして顔を見つめる。西海さんはやさしい目で見つめ返す。
「安心してください。一生だれにも言わん」
ごく自然に挿入する。ぬめぬめする膣に入りこむ感触をなつかしく感じた。一瞬西海さんの頬が輝いた。
「ああ、ひさしぶり……」
二週間しかあいだを置いていない私でさえなつかしく感じたのだから、西海さんはどれほどなつかしく感じたことだろう。私が動き出すと彼女は目をつぶり、摩擦の感触にしばらく酔っているようだった。それからかすかに上がるあえぎ声から、私の一往復一往復に感覚を呼び醒まされ、間遠(まどお)になった快感の訪れに関心を移したようだった。わざとらしい艶めいた声も上げず、極端に悶えることもなく、やがて小さくイクと呟き、弱いけれども確かな膣の反応を私に伝えながらいただきに達した。これがかつて彼女の習慣的なアクメの強さだったのだろうと思うと、無性に痛わしく、もっと大きな波を味わわせてやりたくなった。
「おおきにおました。若いころに戻りました」
心から満足しているようだった。
「今度は神無月さんがイッてください」
男が少し遅れて達するまで、一足先に達した余韻に浸りながら静かに待っているものと信じている様子だった。脂汗の浮いた胸をさすってやってから、裏に返し、腹を持ち上げて挿入する。
「らら、そんなこと―」
彼女はふたたび囁くように、
「そうしたほうがイキやすいんですね」
さらなる往復運動で自分のからだどうなるかは知らないようだった。気力が湧いた。私はアクメの名残のせいで引き締まっている膣をこそぐように往復する。たちまち、
「あ、どないしよう、気持ちええ!」
西海さんは待ち構えていなかった刺激に驚き、思わず高い声を上げた。
「ああ、うれしい! またイッてまう、あああ、神無月さん、うち、イク!」
喉を絞って尻を跳ねた。何度か尻を跳ねたあと、もうじゅうぶんだと私に知らせるつもりなのか、気丈にからだの痙攣を止めて私の放出を待とうとした。私は動きつづける。
「ううう、もうあきまへん、またイクウ!」
もう少しで彼女に高波がくると確信して動きつづける。とつぜん烈しく膣が収縮した。待望の強いアクメだった。ここまでかなり時間がかかったように感じた。
「イイイ、イク! うう、すごい、イク! あ、あきまへん、イク!」
「西海さんの名前は?」
「つらら、つらら、あああ、イクイク……」
「つらら、ぼくもイクよ」
「はい、も、も、あきまへん、ああああ、イクウウウ!」
最後の高潮に合わせて、私も安心して射精した。つららは二度、三度、四度と飽かず尻を跳ね上げ、脇腹を絞る。私は腹をさすりつづける。上着の上から二つの胸を握る。大きいけれども垂れている感触だった。痙攣の途中で引き抜き、仰向けに寝かせる。恍惚に満ちた表情で懸命に微笑みかけようとする。私は陰阜をそっと握ったり、ゆっくり腹をさすったりする。
「やさしい人……」