二十五
ようやく腹の細かい痙攣が止むと、つららはそろりそろり私の手の甲をさすった。
「おおきにおました。生まれて初めて強うイカせてもろた」
たがいに上着を脱いで胸を接した。大きい、脇に垂れている乳だった。萎れてはいなかった。
「ぼくもひさしぶりだったから、とても気持ちよかった。それに、つららが何の抵抗もなく自然にからだを開いてくれたから感激した。ありがとう」
「きょう神無月さんがおいでになったときから、ずっと期待しとったんです。こうなってほしいと祈っとったんです」
つららは強く抱き締めてきた。そして遠慮がちに唇を求めた。幼いキスだった。
「最中に名前を尋かれたときはびっくりしました」
「ぼくは出すときに名前を呼びたくなるんだ」
「……へんな名前やろ?」
「いい名前です。途切れず長く連なる……ツラツラが語源です。長生きしてほしくてつけた名前でしょう。ぼくは凛とした冷たい感じがいいと思う。長寿を願う名前には〈千〉がつくことが多いんだけど、つららはめずらしい」
もう一度きつく抱き合う。つららは柱時計を見上げ、
「十一時を過ぎたど。そろそろ帰らんと。シャワーを浴びてですか?」
浴びたらどうですかという意味だろう。奥ゆかしい物言いだ。
「浴びない。つららがいやでなければ舐めてもらう」
「いややおまへん」
彼女は丁寧の上にも丁寧に舐めた。
「ええ形ですなァ」
「奇妙な形だと思うけど」
「めったにあらへんええ形です。刀のように反っとって、カリが大きい。こんなの見たことあらへん。そのせいやったんですなァ。……あかん、帰るのがどんどん遅なります」
つららはもうひと舐めして立ち上がり、服を着にかかった。
「わ、へらへと出てきた。なんかうれしい。初めてやわ、こんなに出てくんねや」
便所にいって、すぐ戻ってきた。
「つららは年とった人ばかりとしてきたんだね」
「……三十代からこっちずっとそうやった」
「初体験は?」
「三十三。そっから数えても、あいだを置きもって、二人としかしとらん。長く付き合っても二、三カ月。二人目は三十九歳のときやった」
事情は訊かない。彼女もだれかの子として、いまここにこうしてつつがなく暮らしているのだ。居間の炬燵でインスタントコーヒーを振舞われる。
「邦画と洋画のベストスリーを挙げるとすると、何?」
「生きる、血槍富士、切腹……なつかしい風来坊、去年観た私が棄てた女。洋画は、街の灯、素晴しきかな人生、道、サウンド・オブ・ミュージック、テキサスの五人の仲間、キリがあらへん」
すらすらと言った。
「ぼくの好きな映画ばかりだ」
もう一度口づけをした。
「……送っていきたいんやけど、人に見られたら厄介やから、ここでお見送りするわい」
つららは式台に立って、
「おおきにおました。……もういっぺんお逢いできたら……お話だけでも。その日はお休みします」
「来週の木曜日、練習が終わったらきます。四時か五時。夕食を作ってほしいな。シーズンに入ってもときどき逢えますよ。阪神戦のホテルは芦屋の竹園だから」
「ほんまけ、うれしい!」
握手して別れた。車と人の絶えた2号線を渡る。ガードをくぐり濠端の大通りに出る。ホテルの玄関の飢えこみの陰に背広の男が一人立っていた。
「ご苦労さまです。来週の木曜も練習のあとで映画に出かけます。帰りはもっと早いと思います」
「は! 用向きはけっこうです。とにかく道を歩くときは、くれぐれもあたりに警戒なさってください」
気の荒い気質をおくびにも出さずにからだを折る。
「わかりました」
部屋に戻り、シャワーを浴びて、すぐ床についた。西海つららの顔を思い出せない。特徴のない顔だったが、街で出会えばわかるくらいの親しみは持てたはずだ。
†
二月十四日土曜日。六時半起床。曇。五・九度。ルーティーン。どんどん便がふつうになってくる。十六年間の不調が一挙に好調に転じるとは思えないが、この頻度が増してくれるように願う。
きょうからランニングを国鉄線路沿いに逆方向へとることにする。高木が、
「区切りのいいところまでいってみよう」
出勤途上の勤め人たちや、登校する小中学生や高校生と行き交う。小学生たちには、ガンバレ、と声をかけられる。やがて道がガードに貼りつくように狭くなる。途中の脇道の奥に石鳥居が見えた。江藤が、
「神社やろう、いってみんね」
胸がさわさわ鳴る。右手に背高の天文科学館が見える。脇道の先にいき当たる。石段の右下に、人丸山から湧き出る亀の水。からだは亀だが顔が竜の石像から水が強く流れ出している。短い石段を登り、鳥居をくぐってさらに石段を駆け登っていく。三十秒で広い境内に出る。飛鳥時代の柿本人麻呂を祀った神社だとタテカンに書いてある。歌碑が三基並んでいる。崩し字なので読めない。だれも由緒を知りたい顔をしない。目の前に本殿。柿本神社の大きな扁額。賽銭は投げず、全員一礼して駆け戻る。人丸前駅に出る。ここまでホテルから十分。一枝が、
「もの足りないけど引き返すか」
「そうしようじぇ」
江藤の一声で、ガードをくぐり、反対方向の道を引き返す。木俣が先頭に立って引っ張る。高架沿いに六分で南口のガードまで走り戻る。太田が、
「こっち側の道も退屈してきましたね。あしたは目先を変えて、明石川沿いを海のほうまでいってみますか」
谷沢が、
「何キロぐらいですか」
「二キロ弱」
戸板が、
「ちょうどいいですね」
小川が、
「いってみよう。どうせそっちも二、三回走れば飽きるだろうけどな」
私は、
「月金の休日は、九時からにしましょう。二十三日の月曜日は勝手にチェックアウトですよね」
高木が、
「十一時までにな」
バイキングで朝めしを食って出発。球場は八分の入り。人びとの顔がフェンスの間近にある。ウォーミングアップ前にあしたの紅白戦のスタメン発表。本多二軍監督が、
「先攻紅組、一番ショート西田、二番サード竹内、三番センター江島、四番ライト谷沢、五番ファースト千原、六番セカンド省三、七番キャッチャー新宅、八番レフト井手、先発田辺、控え渋谷、松本、川畑、佐藤。後攻白組、一番センター中、二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番サード菱川、七番ライト太田、八番ショート一枝、先発星野、控え小川、小野、水谷寿伸、若生。両軍とも代打代走要員なし」
十時、念入りなウォーミングアップに入る。野手と投手では方法が異なるので区画を別にして行う。野手は十項目ほどある。サイドステップ肩回し(肩のほぐし)、ジャンピング肘回し(肩甲骨のほぐし)、ジャンピング対角線(胸のほぐし)、クロスタッチ(太腿と尻のほぐし)、開脚タッチ(内転筋のほぐし)、リズミック股割(股関節のほぐし、捕球動作に利するため)、切り返しバック走(後方捕球動作に利するため)、ダッシュアンドストップ、といったものだ。投手は投手で別の区画で、肩の動きと体重移動を考慮した独特のウォーミングアップをやっている。
それらに参加しているのはほとんど控え以下の連中で、レギュラーは自由にやる。小川の勧めたジャンピングスクワットとジャンピング腕立て伏せは、危険な気がしてやらないことにした。倒立腕立てもやめる。やり慣れた三種の神器に集中する。あとは三十メートルダッシュ十本(二分休みを挟みながら)、素振り百八十本(三十秒休みを挟みながら)。
控えたちに雑じりトスバッティング二十本、ティバッティング二十本。則博、門岡、大場をバッティングピッチャーにして、レギュラーたちとフリーバッティング三十本。ボールのかなり下をレベルに叩いて高いフライでホームランを打つ練習。二十一本をぎりぎり芝生席に落とした。午前のスケジュール終了。
メールで昼食。ベンチで弁当を食うのは数日で飽きがきた。会話なしでものを食うのは嫌いではないが、ときによりけりだ。よほど人に倦じているときか、食事のあとに差し迫ってやりたいことがあるときにかぎられる。ビーフカレー二皿。江藤が、
「変わった練習しとったのう」
「ボールのかなり下を叩いて距離を出す力加減を確かめてました。九本がフェンスの前に落ちて、二十一本がスタンドイン。強く振ったボールだけがスタンドに入りました。常に強く振ることを心がけなければいけませんね」
「おお、ズルしたらいけんばい」
江藤はステーキ一枚を食い、カレーは一皿でやめた。
「あしたの夕方、百江がきます」
「百江さんが? ほうね。どっか食事に連れていったらんとな。ワシらがドッといっしょにいったら、百江さん気ば使うて小そうなってしまうやろう。二人でいってきたらよか」
「それでもいいんですけど、翌日の散歩に太田を誘うつもりです。去年も三人で大阪をぶらぶらして映画を観たりしましたから、気心が知れているし、百江もぼくと二人っきりで食事するより肩が凝らないでしょう。今夜は一晩いっしょにいてやります」
「そればっかしは二人っきりでないとな、ハハハハ。タコも金太郎さんにお供ば頼まれてうれしかろう。言っといちゃる」
一時から内野守備練習。ノッカーは水原監督。私たち有志は球拾いに外野に立つ。ダブルプレーが喜ばしい見ものだ。暇を見つけて、ファールゾーンでクッションボールの練習をする。森下コーチにフェンスに当ててもらう。当て方が微妙にうまい。難しいクッションを作る。森下コーチはせっせとライトにも走っていって、太田や谷沢にも同じことをする。中は、木俣の二塁送球が低すぎて高木や一枝のグローブの下を抜けてくるとき以外は暇にしている。
一時半から外野守備練習。ノッカーは杉山コーチ。ゴロもフライも遠投のつもりで、セカンド、中継ショート、サードへ低い返球をする。合わせて十五本。バックホームは手首を意識して半速球を二本、手首と肩を意識してスピードボールを三本。かならずスタンドから拍手が上がる楽しい時間。ノーバウンド返球はしなかった。
二時。ピッチャー陣総出でバント守備練習。これも楽しい見もの。二時半からケージ二つで控え陣の特打。外野守備には井上コーチや岩本コーチに混じって、トレーナーたちも立つ。谷沢、江島、省三、千原、新宅、日野、坪井、竹内、西田、伊熊、井手。たっぷり一時間打つ。ベンチで見守る。井手はまともに打球が飛ばない。腰の据わらない手打ちだからだ。教えてやりたいが、拒絶のバリアーがあるので近づけない。
特守。真っ先に宇野ヘッドコーチに五十本連打でしごいてもらう。正面のゴロは一本もなし。右に左に動かされるが、筋肉痛はない。十本ぐらい外野へ抜けていった。そのたびにベンチやスタンドに笑い声が上がった。ほかのレギュラーの特守はなく、日野と省三と井出が受けた。省三の動きがよかった。井手は特守のあと、盗塁の練習をさせられていた。
四時半。すべて終了。太田コーチの大声。
「よし、あしたは十時からウォーミングアップ、十一時試合開始!」
独りでゆっくりグランドを一周する。スタンドに手を振りながらベンチへ。一日が終わった。充実。
股間が張っている。まずい。昨夜の交接が刺激になって、からだが連日の排泄を生理的に求めている。陰茎を上に向ける。勃起しても亀頭を上に向ければ、股間カップのふくらみと思われるので支障はない。ホテルまでの帰路をどうにかやりすごす。
部屋に戻り、シャワーを浴び、ジャージを着てベッドに横たわる。三十分ほどウツラウツラしただけでなんとか治まった。〈進化〉したのか〈衰え〉たのかわからない。とにかくよかった。
喜春の間で会食があると太田が知らせにくる。球団の公式パートナーである松坂屋の副社長が陣中見舞いにきたのだと言う。仕方なく出ていく。会食が始まってすぐ副社長が、
「松坂屋の副社長鈴木正雄でございます。株式会社松坂屋は、お客さまの豊かな暮らしを永続的に支える企業でありたいと考えています。また、中日ドラゴンズへのサポートを通じて、応援セール等により、店頭、チームともに盛り上げを図ると同時に、地域に根ざした企業として地域社会との関係強化をさらに強めてまいりたいと思います」
と、キャンプとは関係のない短い挨拶をし、ドラゴンズチーム宛ての金一封を水原監督に手渡した。水原監督は、
「ときならぬお見舞いに、選手、スタッフ一同、感激しております。チーム宛ての見舞金は一軍二軍に分配し、食膳のスタミナを増す費用に当てさせていただき、たっぷりと元気をいただいて、後半も充実したキャンプを送りたいと思います」
と答礼して笑いを誘った。副社長がフロント陣といっしょについたテーブルに江藤と小川と高木と木俣と私が呼ばれた。とんぼ返りで帰ると言う鈴木と握手させられた。鈴木が去ったあと、隣のテーブルに五人座らされ、
「あしたの始球式、木俣くんと金太郎さんでよろしくね。モーレツ市長で有名な吉川政雄というご仁だ。全国初の幼稚園二年保育を行なったり、ハエや蚊の対策にヘリコプターを導入したり、市役所建替え、学校・福祉施設の新設なんかをどんどん推し進めてる人らしい。でね、若いころに少し野球をかじったことがあるみたいで、かならずホームベースにボールを届かせるから、金太郎さんに打ってほしいと言うんだよ」
「わかりました」
江藤が豪快に笑い、
「一球しか投げんけん、一発で決めんば」
「はい。がんばります」
それからはいつもの夕食になった。ステーキがメインだった。
二十六
本を読む気がしなかったので、二週間ぶりにテレビを点けた。NHK、関口宏司会のステージ101、これを見ただけでもうチャンネルを回す気がなくなったが、本を読む気は湧いてこないので、サンテレビに回してベッドに寝転がり、ぼんやり眺める。何でもやりまショー、右門捕物帖、……ぼんやりしてきて寝入る。
ふと目覚めると十時三十五分。痛いほど勃起している。これはもうなす術がない。今夜はどうにか寝ているうちに鎮まったとしても、あしたの紅白戦の最中にまたこんなふうになったらと思うと不安が去らない。
意を決して部屋を出る。階段を下り、裏口から出てガードをくぐり、裏通りを歩いて2号線へ出、つららの家を訪ねる。引き戸を小さく叩く。すぐに寝巻姿に散らし髪のつららが出てきて、
「あら、神無月さん……」
床に入ったところだったようだ。私は土間に入って玄関戸を閉め、生理的な事情を説明し、その場で下半身を曝す。つららは髪を撫でつけるのもそこそこに、
「まあたいへんやがね! すぐに部屋に入って。ああ、うれしい!」
ジャージの下を脱ぎ捨てて蒲団に仰向けになる。つららも灯りを落として心安く全裸になったので、顔に跨がせてシックスナインの形をとる。亀頭を含んでもらってようやく落ち着く。
「く、苦しい。お口いっぱいやから離しますね」
暗い部屋で舌先に襞と硬いクリトリスを感じながら、
「一度イッて」
「はい、あ、あ、あ、イク!」
目の上で痙攣する尻を押してやり、むこう向きに跨らせる。両手を尻に添え、深々と引き落とす。
「ああ、ホッとした。ありがとう」
「う、うち……もうすぐ……」
「好きなだけイッて、つららが何度かイッたら、ぼくもイクから」
「はい、あ、イク!」
つららは狂ったようになって何度もからだを引き攣らせる。
「あ、わかる、わかります、神無月さん、イッてぇ!」
射精する。つららは規則的に膣をうごめかせてしっかり私の精を搾り取った。結び合ったままふるえ止まないので、彼女の尻を抱え上げて抜き、横たえる。
「あー、死ぬほど幸せ!」
肩を抱き寄せて口づけをする。
「五十三のおばあちゃんにこんな幸せがやってくるやなんて、思ってもみまへんでした」
「齢なんか気にしてないところがつららのいいところだよ」
「いいえ、やっぱり気にしとりました。……もう二度と逢えんと思っとりました」
「このまま泊まってく。朝の六時に帰る」
「はい! おおきに」
少し寝物語をしようと思った。
「クニはどこ?」
「淡路島の洲本市です」
「学校も?」
「はい、兵庫県立洲本実業高校。うちは五人兄妹の三女で末っ子やったので、一人だけ学校にいかせてもらえました。母は三十七でうちを産みました。父は三十八。うちが昭和十年に卒業したころ、実業高校は洲本町立商業学校と言っとりました。おととし南海ホークスに入った西岡という選手も実業出身です」
「西岡三四郎だね。去年の明石の交流戦で一打席当たった。セカンドゴロを打ってバットが折れた。高校出てからどうしたの?」
「実家が米農家やったけど、うちは商業高校を出たので、農協に勤めました。当時は農業会って言っとりました。勧められた結婚もせんと、そこの経理に十年まじめに勤めました」
「男っ気なし」
「はい。お金を貯めて島を出ることが夢やったから。終戦後、二十九のときに大阪に出ました。阿倍野区の食品会社の経理に勤めることができました。三十四歳まで働いて相当お金も貯めました」
「そのときも男っ気なし」
「いえ、三十三のとき上役の人に囲われるみたいになって、子供を一人堕ろしました。それで翌年逃げるように明石にきて、貯金をはたいてこの家を建てて、ウォンタナの魚商店の経理に勤めました。十二年間。四十七歳まで」
「十二年で男二人。二人目はたしか三十九歳のときだったから、十四年前だね」
「はい。うちの話をよう憶えてくれとるんですね。でも神無月さんたら、男のことばっかり。自分以上の男はいないってわかっとるもんやからでしょ」
「まさか。つららは禁欲的に暮らしてきたんだなあって思って。……二人目の男はいい人だったんだね」
「はい、家庭持ちで、気の小さい人やったけど、あと腐れなく別れてくれはりました」
「ご両親は亡くなったの?」
「父はもう十年も前に八十一で。母は今年九十です。兄や姉たちの家を回りながら暮らしてたんですけど、いまは次女の家に落ち着いてます。家業は長男と次男が継いでます。二人ともそろそろ七十近くになって、跡継ぎの代になります。姉たちもみな、六十代と五十代です」
「つららは、あとは明石東宝に骨を埋めるだけ、と」
「はい」
私は蒲団をまくって自分のものを見せる。
「まあ! もうそんなに。何度かつづけて出すと半月くらい落ち着くと言っとりましたけど、女にとってはすごい幸せやで。いただきます」
「こんどは木曜日。四日間がまんしてね」
「はい。女は一度すれば、半年でも、十年でも、ほんとに長いこと忘れていられます。もちろん毎日でもすることができるけど」
「毎日! ちょっと男は無理だなあ」
つららは微笑しながら顔を見合わせるように跨ってきた。
†
五時半起床。排便。ふつうの硬さの便。体調のいい証拠だ。引き鎖式の水槽から水が勢いよく便器にほとばしる。シャワーで尻を洗う。指で歯を磨く。起き上がろうとするつららを押し留めて、
「ゆっくり寝てて。じゃ木曜日」
それでもつららは起き上がって寝巻を着、式台まで送ってくる。
「きょうは応援にいきます。バックネット席」
「ホームラン打つからね」
「はい」
唇だけでキスをして玄関を出る。
ホテルの裏口から入り、こっそり部屋に戻って、もう一度シャワーを浴び、歯を丁寧に磨く。洗髪。爪を切る。耳の掃除。注意しながらナショナルをあてる。陰茎の居心地の悪さがすっかり消失している。小さく納まり、身動きが自在にできる。腹の奥にまだ精力の燠(おき)が残っているので、今夜の百江もじゅうぶん悦ばせることができる。
七時からランニング。鷹匠町の信号を西へ二十メートルほど進み、森本酒店を左折。ガードをくぐり、最初のT字路を右折。右に住宅街、左に巨大な大観小学校のブロック塀を眺めながら道なりに進み、明石川の堤防沿いの道に出る。去年宇賀神の車で走った道だ。大観小学校の金網を左手に見ながら走る。去年見渡せた校舎群は、今年はさまざまな石造りの設備や建造物で見通しが悪くなっている。広々とした土の校庭は健在だった。
右手の明石川は堤防とガードレールで視界が遮られている。明石大橋に出る。四者線の大道。左手を見ると、ビル街に包まれた繁華街になっているのでこれが国道2号線だとわかる。ここを真っすぐいけば明石東宝、そしてつららの家だ。
車に注意して渡って、さらに直進。堤防が高くなって川の姿が消える。住宅街が次の橋までつづく。大観橋。道を渡り、ふたたび住宅街へ。川沿いの公園が増える。樹齢を数えたくなる巨木が連なっている。
「この道はよかのう」
江藤が初めて口を利いた。小川が、
「うん、学校あり、住宅あり、アパートあり、大樹あり、喫茶店あり。あしたから一週間、この道だな」
私は一枝に、
「あっちのほうはどうしてるんですか」
「俺や健ちゃんは、ホテルに頼んで呼んでもらってる。二時間六千円。小野親分と慎ちゃんはぜったい禁欲。モリと達ちゃんは大阪に女房を呼んで逢引きだな。フロント連中のことは知らない。タコたち若い連中は西明石まで出かけていくんじゃないか」
菱川が、
「おととい大挙していってきました。スッキリしました」
秀孝が、
「ぼくもいきました。朝勃ちが小便しても治まらなくなったら、そろそろのサインです。むやみに出かけることはしません。結婚したら、江藤さんたちを見習います」
谷沢が、
「星野さんは童貞じゃなかったんですね。そう見えたんだけど」
「去年、三好さんに大須に連れてってもらって―」
「ぼくも学生時代は相当遊びましたけど、いまは東京に好きな恋人がいるので、ひたすら禁欲です」
私がいちばん不純に思えた。江藤が、
「金太郎さんの顔色が曇ってきたばい。穴があったら入りたかて思うとる顔ばしとる。金太郎さんがモテるのは金太郎さんの責任でなか。ワシらも金太郎さんごつモテたら、同じようにしとる。金太郎さんよりもっとえげつのうスケベったらしくな。女の数の問題やない。金太郎さんの女関係はまこと美しか。責任なかことに痛ましかほどの責任感ば持って応えとる。女に応えることに命ば張っとる。ワシらにはできん。みんなわかっとうよ」
谷沢が、
「すごいなあ。神無月さんはそっちの豪傑みたいですね」
「そぎゃん話やなかぞ。いずれわかってくるばい。金太郎さんにケチつけたら承知せんけんな!」
江藤の剣幕に小川や高木が明るく笑った。一枝が、
「そんたうり!」
太田が、
「女の数なら神無月さんの上をいく男はいくらでもいるでしょう。数をこなすだけならね。野球界にもたくさんいる。神無月さんのように引き受けただけの女を命懸けで幸福にしようとする男は一人もいない」
菱川が、
「それを女のすべてが快く理解してる男も一人もいない。神無月さんの偉大さは測り知れないですよ」
谷沢は、
「やっぱり天馬ですね」
「そう思うちょればラクだし、ほぼ正解ばってんが、天馬のさびしさば感じられたら大正解ばい」
とつぜん道の向こうに視界が展(ひら)け、堤防と道のあいだが広大な緑地になった。堤防がくの字になってゆく手を塞ぎ、空以外の景色がなくなった。小川が、
「あの空の下がぜんぶ海だな」
道が堤防に沿ってくの字になる。芝生のように柔かそうな緑地もくの字に曲がる。大樹や潅木が密に植えられ、百日紅の木が群生している。磯のにおいがしてきた。太田が、
「この一帯が川端公園です。引き返しの道になりますけど、先っぽまでいきましょう。入り江が見えます」
道に隙間なくブイやとぐろを巻いた縄が積み上げられている。入り江の前で九人、潮の香りを胸いっぱい吸いながらたたずんだ。
「似島(にのしま)もこういう静かな海やったのう」
「はい」
菱川と太田と秀孝がなつかしそうに海面を見つめた。一枝が、
「そういう楽しいことは、俺たちにも声をかけろよ」
高木と小川が、そうだそうだ、と言う。秀孝が、
「神無月さんのドラマにはよほどファイトがないと出演できないですよ」
谷沢が要領を得ない顔で私たちを見た。高木が、
「それがきっかけで、広島球場のホームラン賞は地元の施設に寄付することになったんだったね」
谷沢にかいつまんだ話をする。谷沢はいたく感動した面持ちで、
「ぼくももっとホームランを打てる技術を磨いて、ささやかなりとも子供たちに貢献できるようにします」
ひとしきり青黒い海面を堪能してから引き返す。九人の規則正しい呼吸の音だけがする。呼吸を合わせる。えも言われぬ連帯感。
鷹匠町の交差点に戻って腕時計を見ると、七時から三十分も走っていなかった。
二十七
十時。晴天。五・七度。満員。おびただしいフラッシュの中、ウォーミングアップがグランド各所で始まる。神戸女子大学放送部員のアナウンスが流れる。
「本日は県立明石第一球場にご来場まことにありがとうございます。中日ドラゴンズのキャンプも第二クールまで終了し、いよいよ最終クールを迎えることになりました。その中間締めとも見なされる紅白戦二回戦でございます」
喚声、大拍手。
「この試合は、ドラゴンズの将来を担う後進の実戦練習をより本格的で真剣なものにするために、レギュラーメンバーと控えメンバーとの熱闘の形をとることにいたしました。コールド制ではございません。両チーム全力でぶつかり合い、得点できるだけ得点するという激しい打撃戦をご期待くださいませ。なお、キャンプ打ち上げ日の二十二日日曜日は対阪急交流戦を行う予定でございます。どうぞこぞってご来場ご観戦くださいませ」
阪急が日本シリーズの対戦相手であることを忘れていた。その情報を放送しなかったウグイス嬢も、まったく失念していたか、あるいはもともと野球に関する知識に疎いかのどちらかだろう。ウォーミングアップ十分で終了。バッティング練習十五分。内外野守備練習十五分。ネット裏の中段の席につららが坐っていた。目が合うだけにした。ブルペンに二人ずつピッチャーが入り、バラバラとトンボが走る。
「紅白両軍のスターティングメンバーを発表いたします。先攻紅組、一番セカンド江藤省三、背番号28、二番ファースト千原陽三郎、背番号43、三番センター江島巧、背番号12、四番ライト谷沢健一、背番号14、五番キャッチャー新宅洋志、背番号19、六番ショート日野茂、背番号6、七番レフト伊熊博一、背番号25、八番サード坪井新三郎、背番号60、九番ピッチャー田辺修、背番号33。つづきまして後攻白組、一番センター中利夫、背番号3、二番セカンド高木守道、背番号1、三番ファースト江藤慎一、背番号9、四番レフト神無月郷、背番号8、五番キャッチャー木俣達彦、背番号23、六番サード菱川章、背番号4、七番ライト太田安治、背番号5、八番ショート一枝修平、背番号2、九番ピッチャー小川健太郎、背番号13。アンパイアは、主審松橋、塁審一塁岡田、二塁柏木、三塁富澤、線審ライト丸山、レフト竹元、以上でございます。なお、試合開始に先立ちまして、明石市長吉川正雄による始球式が行なわれます。バッターは神無月選手、キャッチャーは木俣選手です」
サイレンが鳴り、私以外の白組メンバーが守備に散る。ベンチ脇の鉄扉が開き、眼鏡をかけた髪の濃いワイシャツ姿の男が一塁塁審岡田に伴われてマウンドにやってきた。小川が一歩退き、私はバッターボックスに立つ。
「明石市長吉川正雄による始球式でございます。神無月選手に実際に打ってほしいという市長のご要望でございます」
男は岡田からグローブとボールを受け取り、帽子をかぶりなおしてワインドアップをした。ヤッ、と放る。とてつもなく遅いボールがホームベース目がけて飛んでくる。ショートバウンドするとわかったのでボックスの先端へ移動した。外角のベースの外側へ落ちそうだ。踏みこまず屁っぴり腰になり、バウンドして跳ね上がったところを気合こめて振った。喚声を連れて打球が低く左中間へ伸びていき、フェンスすれすれを越えて芝生席に突き刺さった。大歓声。市長がバンザイをし、握手をしに駆け下りてくる。
「爽快、爽快、血が沸きましたよ。真剣に打ってくれてありがとうございました」
私の手を握り締める。木俣とも握手する。そうしてスタンドに手を振り、球場係員に導かれて、いつの間にか現れた数人の背広たちといっしょに鉄扉へ戻っていった。かなり大きな拍手が上がった。暖かい市民だ。
小川の投球練習。外野のキャッチボール。内野のボール回し。
「紅組一回表の攻撃は、一番セカンド江藤省三」
江藤省三がバッターボックスに入る。構える。松橋のコール。
「プレイ!」
私も構える。小川初球、胸もとをえぐるシュート。ボール。気合がこもっている。省三が足もとを均す。二球目、内角膝の高さへストレート。ストライク。次だ。真ん中高目少し内寄りのパワーカーブだろう。三球目。もろにそれ! 空振り。つぎはどこでもいい、ゆるめのストレートで打ち取れる。小川はそうしなかった。四球目、真ん中高目の速球、空振り三振。打たせずに取る。ここからは打たせて取る快刀乱麻になる。千原、真ん中高目の速球でキャッチャーフライ。江島、真ん中低目スローボールでサードゴロ、菱川の豪快な送球。江藤の堅実なキャッチ。チェンジ。小川の背中を追いかけるように一塁ベンチへ走り戻る。つららを見やる。見分けられる顔になって、若返っている。不思議だ。
田辺修、二十五歳、百七十七センチ、七十五キロ。星飛雄馬。きょうの速球は百五十キロは出ている。変化球も切れる。近鉄七年間で立った十勝というのが信じられない。
一番中。ストレート二球でツーナッシングに追いこみ、三球目するどいスライダーでファーストゴロ。苦戦しそうだ。
二番高木。カーブ、スライダー、外角ストレートで三球三振。
「失投ば狙う」
そう呟いてバッターボックスへ。シンカー、ストレート、カーブ、ストレートで見逃し三振。
「待ったらいけん」
また呟いてファーストの守備へ走っていった。
二回表。四番谷沢。小川は小さいカーブと大きく曲がるカーブをつづけて、五球で三振に打ち取った。
五番新宅。外角のゆるいストレートでセカンドゴロ。
六番日野。スローボールで私の低位置へのフライ。チェンジ。初球のストレートを叩くと決めて走り戻る。
「まず一点取っておきますよ!」
バッターボックスへ走って入る。マッちゃんに帽子の鍔を上げる。飛雄馬の初球、外角高目シュート、ストレートではない。見逃し、ストライク。予定が狂った。強く振ってファールにしておけばよかった。危ないと感じて内側を狙ってきただろう。二球目、また外角高目シュート、強振してファールチップ。喚声が高まる。打席を外さず構え直す。三球目、やはり内角球がきた。スライダー。ストレートではなかったが打ちひしぐ。打った瞬間に場外とわかる。谷沢のはるか頭上を越えていく。これで彼から二打席連続場外となった。長谷川コーチとタッチし、大歓声の中、ダイヤモンドを回る。水原監督ときょうは握手のみ。観客の喜ぶ抱擁はしない。了解し合った目でうなずき合う。野球以外のものを見世物にすることは、少しずつ減らしていかなければならない。この行動がみんなの明るい士気に響かなければいいが……。
私の一発では景気に乗せられなかった。田辺の調子がよすぎる。木俣チップ三振。菱川ショートゴロ、太田セカンドライナー。
三回表。七番伊熊。アンダースローからの速いストレートでセカンドフライ。
八番坪井。スローカーブをピッチャーゴロ。
九番田辺。内角の猛速球で見逃し三振。小川は打者によってしっかり競れ方を工夫している。崩れることはない。問題は田辺だ。どうすれば攻略できるか。
「しゃにむに振っていくより、田辺さんが自信を持ってる直球に絞りましょう。直球ならぜんぶ振っていく」
「よし、直球だな」
一枝が勇んでバッターボックスに入る。田辺、初球、ピンと脚を跳ね上げてストレートをズドーン、ではなくカーブをグニャリ。もちろん見逃す。
「ストー!」
マッちゃんの裂帛(れっぱく)のコール。指をクルクル。二球目、外角へズドーン。打ち気を見せずに見逃す。ボール。三球目、内角へシュートをグニャリ。ストライク。四球目、内角へ豪速球、腰を回してコツーン、レフト前へライナーのヒット。
「ヨッシャ、いけいけ!」
「健ちゃん、どんどんいけ!」
小川、初球真ん中低目の直球を叩いてセンター前へ痛烈なヒット。
「オッケー、つづけつづけ!」
一番中、三球目の内角低目ストレートを叩いて、ライト線三塁打。三塁に滑りこんだ中に水原監督の拍手。二者還って、ゼロ対三。新宅はストレートを狙われていることに気づいて、急遽変化球攻めに切り替えた。二番高木、初球二球目と外角カーブ見逃し、ツーストライク。変化球は的を絞れば攻略しやすい。私は大声で、
「曲がりの方向を絞ってください。それ以外は打たない!」
「オケ!」
三球目外角カーブをファールで逃げ、四球目の内角高目シュートをハッシと打って、レフトオーバーの二塁打。中生還、ゼロ対四。渋谷にピッチャー交代。あっという間に田辺を引きずり下ろした。スタンドが狂喜する。
「連打だぞ、連打!」
一枝の怒声。菱川が、
「十点いくぞー!」
変化球ピッチャーの渋谷を攻略するには、バッターボックスの前で叩けばどうにかなる。三番江藤、初球外角すれすれのカーブ。ストライク。
「前で、前で!」
ネクストバッターズサークルから声を投げる。江藤はクローズドに前へいざり、二球目の外角カーブを叩いてライト前ヒット、高木還ってゼロ対五。私は初球外角低目のシュートを屁っぴり腰で打って、左中間フェンス直撃の三塁打。江藤長駆還ってゼロ対六。三塁に滑りこんだ私に水原監督の拍手。
渋谷から松本幸行にピッチャー交代。木俣、二球目内角高目の棒球を叩き下ろして、レフトの桜の木に当てるツーランホームラン。ゼロ対八。止まらなくなった。
ライト打ちの名人菱川、初球の外角シュートをしごき上げてライト芝生席に舞い落ちるソロホームラン。ゼロ対九。バッティング練習になった。ノーアウト。高木が、
「タコ、溜めてけ、溜めてけ!」
新宅がマウンドに走る。江藤が、
「洋志、しっかり考えちゃれや!」
松本はシンカーばかり投げはじめた。コントロールが定まらない。ノースリーからフォアボールで出ようとした太田は意外に速い真ん中ストレートでストライクを取られ、いきり立ち、次の内角ストレートを気負って打って詰まったレフトフライに終わった。木俣が拍手している。
「うまい! 松本案外スピードあるな。コンビネーションを考えて投げさせたら、そこそこやるかも」
一枝は外角カーブでファールを打たされ、胸もとの速球を空振りして三振した。小川、シンカーの連投にジレて、ピッチャーゴロ。
四回表。小川が太田コーチに、
「交代。秀孝や戸板を出したらシャットアウトしてしまう。少し点取らして、試合をおもしろくしましょうよ」
ブルペンで伊藤久敏と水谷寿伸が投げている。
「ピッチャーの交代を申し上げます。白組、小川に代わりまして水谷寿伸、ピッチャー水谷、背番号27」
アナウンスを聴きながらレフトの守備につく。目立たない水谷寿伸のことは、彼と同期の江藤からときどき聞いた。入団してすぐ肩を壊し、五年間帯同バッティングピッチャーをやっていたが、昭和四十年に復活して十五勝を挙げた。好調のときの球のキレはすばらしく、外角いっぱいに決まる快速球、内角をかすめるシュート、タイミングを外すカーブと、どれ一つとっても威力があった。スタミナがなくて、よく夏場に崩れた。この四、五年は五勝程度で安定した中継ぎをやっているが、球の威力は相変わらずある。
「あんまり知られとらんようやが、得意球はスライダーや」
紅組の打順は一番省三から。水谷はわざと球を散らす。省三はどっしりとした構えで落ち着いてボールを見極め、ツースリーから二球ファールで粘り、水谷が思わず投げこんだ真ん中真っすぐの失投をフルスイングで左翼席上段に叩きこんだ。スタンドが異様に盛り上がった。省三は一塁を回るとき兄に尻を叩かれ、うれしそうに右腕を突き上げた。
二番千原。初球、クイックモーションで外角ストレート、ストライク。二球目、スリークォーターからのスローカーブ。餌食になった。右中間を深々と抜いていく。堂々の三塁打。水谷は小川とちがいモーションと球筋が素直なのでゆるいボールはダメだ。
三番江島。意外性のバッター。打線をつなぐ意思は持っていない。初球のスライダーを引っかけて浅いライトフライ。ランナー還れず。
四番谷沢。水谷はうまく外角カーブを引っかけさせ、ボテボテのショートゴロ、省三ホームイン。二対九。ツーアウトランナーなし。谷沢はカーブが弱い。あしたは休日返上で特打だろう。
五番新宅。悪癖の片手打ちが今回は奏功し、内角低目のシュートを掬い上げて、レフトスタンドへソロホームラン。三対九。三点取れたらもういいだろう。水谷は六番日野を得意のスライダーで切って取った。
四回裏。白組も一番から。気づけばいつも、千年小学校の校舎の屋根に弾んだボールのことを考えている。あの屋根と空が一つの完結した世界だ。ベンチにいるとき、レフトフィールドにいるとき、バッターボックスにいるとき……。その世界を去ったことはおそらくないだろう。書物に心奪われるときも、休暇に遊ぶときも、流謫に嘆くときも、友情に感激するときも、それどころか女の褥でいそしむときでさえも、その世界の中をただよっているように思われる。―母親と二人きり、その世界には早くからいない。いや、才能なんかないとなじられて自尊心を失くしたときから確実に去った。逃げ出したのだ。
中、松本の二球目の外へ流れるカーブを流し打って、レフト前ヒット。
二番高木、三球目の真ん中低目スピードボールをしごき打ってレフト前ヒット。ノーアウト一、二塁。