三十一
山門に入りこむ。入ってすぐ左に、小さな赤鳥居が連なる五社稲荷神社。賽銭箱の両脇に石の狐が一対向き合っている。参道を進む。右に手水舎、左に柿本人麻呂の歌碑二基と遠山英一という人の歌碑一基。二基は読めない。太田がパンフレットを差し出す。
「ここにくると思って、ホテルで仕入れときました」
まず遠山英一だ。宮内省の御歌所寄人(おうたどころよりうど)。職掌はわからないが、明治時代の皇室関係のえらい人のようだ。
『冬の夜のくらき入江に大空の星かげ見えて千鳥なくなり』
これはひどいんじゃないか。情操が紋切り型すぎる。歌に面積と体積がない。むろん質量もない。人麻呂の読めない字のほうはどうだ。
『天離(さか)るひなの長ぢゆ恋ひくれば明石のとよりやまとしまみゆ』
『大君は神にしませば天雲(あまぐも)の雷(いかづち)の上に廬(いほり)せるかも』
そんな字が書いてあったのか! 太田が、
「どういう意味ですか」
「あまさかるはヒナの枕詞で、意味はない。ヒナは都から遠いところ。大宰府のあった北九州か、出雲攻略のための石見(いわみ)、つまり裏日本の島根だろうな。どちらも奈良を往復するのは海路だ。柿本人麻呂は飛鳥時代の天武持統文武朝に下級官吏として仕えた人だから七世紀終盤だね。都が置かれたのは飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)。六九四年に藤原宮に遷都した。遠い海路を通って恋しい畿内へ帰ってきたんだよ。明石海峡から陸地が見えた時の喜びだ。『大君は』の歌は読んだとおり。天皇は神さまなので空の雲のかみなりの上に仮の家を造って住んでいるんだよ」
参道の奥へ進んでいく。人麻呂顕彰碑。石亀の上に乗っている。何百字あるか知らないが、一息で読むと亀が動くと伝えられている。拝殿。阿吽の狛犬と燈籠。賽銭箱、三本の太綱。ここでも五人小銭を投げ入れ参拝。柿、桜、梅のご神木。それぞれいわれがある。
山門へ戻り、ふたたび緑に包まれた坂道をくだる。迷路のような木陰の下の石段を延々と下りていき、ついに亀の水に出る。百江が片手に掬って飲む。男たちもまねる。
「ヤア、歩いた!」
菱川が両腕を伸ばす。太田が、
「一時間半歩きましたよ。百江さん、だいじょうぶですか」
「ぜんぜん平気です」
鉄道のガードのほうへいかずに、細道を右折して住宅街に入る。
「あ、あれ」
秀孝が振り返って道の外れを指差す。天文科学館が竹のように空に突き立っていた。進みつづけ、結局ガード沿いに出た。菱川が、
「野球クイズ。百江さんも参加してください。勘でいいです」
「はい」
「一般的にいちばんバントしにくいコースは」
秀孝が、
「内角高目」
「正解。ポイントを前にするのが遅れるから」
百江はキョトンとしている。
「打者のハーフスイングにキャッチャーが文句をつけるとき、忘れてはいけないことは」
太田が、
「走者の動き。文句を言ってるあいだに走られるかもしれないから」
「正解。無死、あるいは一死一塁、ヒットエンドランのサインが出たとき、バッターがやってはいけないことは」
秀孝と太田が、
「フライを打つ」
「空振りする」
と答えたが、
「ブブー、セカンドベース寄りにゴロを打つでした」
私は、
「そうか、一塁ランナーが走るとセカンドかショートが二塁に入るから、たちまちゲッツーだね。なるべく一、二塁間か三遊間にゴロを打つようにすればいいわけだ」
太田は感心した顔で、
「神無月さんは本能で野球をやってるから、細かい一般則の知識はないけど、考える野球となるとピタッと当たってますね」
「細かいルールを知らないから、なぜプロ野球選手でやっていけてるのかわからない。でも、そのつどするべきことは理解できる。野球はなんとかそれですむけど、社会的には年相応にわかるべきことをわかっていない。理解しようとしないからね。……故意じゃないんだ」
秀孝が微笑しながら、
「ネジは確かに外れてると思います。そのおかげで俺たちは助かってます。でもそれだけで神無月さんを語れません」
百江が、
「ほんとによく外れてくれました。外れてなかったら救われない人がたくさん出ます。ふつうの人は右顧左眄して世間を渡っているので、ほとんどの人を救えません。それにしてもみなさん、すごいですね。そんなことをいつも頭に入れながら野球をやってるなんて」
太田が、
「いつもは頭に入れてませんよ。一般論を記憶してるだけです」
菱川はつづけて、
「じゃ、次。ツーダン満塁、バッターの狙うべき球は」
私は、
「最も投げられる確率の高い球、つまり相手ピッチャーの得意球」
「正解!」
「でも、いつも相手ピッチャーの得意球を打つ鍛錬をしてれば、どんなボールでも打てますよ。ぼくたち、いつもやってるでしょう」
「そんたうり!」
太田が叫んだ。菱川が、
「それで勝ってきたようなものだものね」
店一軒ない道を二十分歩き、明石駅前に出た。一時。昼めしどきだ。とにかく店がない。繁華な南口に出るのは気が進まないので、駅舎のあたりをうろうろする。私は、
「グリーンホテル裏のキャッスルにいってみませんか。おもしろいものが食えるかもしれませんよ」
たちまち賛成ということになる。グリーンホテル脇のガードをくぐり裏手に出る。一分もしないで、小さなレンガ造りのホテルに着いた。小さいと言っても、グリーンヒルの半分はある。小ぎれいな玄関から小ぎれいなロビーへ入る。しっとりと清潔な光沢のある寄せ木の床。カウンターも木造りだ。ロビーに余計な観葉植物もなく小ざっぱりしている。二軍連中は練習に出払っていて姿がない。一人掛けのソファを付け並べてLの字にした長椅子に一般客が何人か座っていた。
五人で入っていくと、フロント係は私たちが一軍の選手だとすぐに気づいた様子だったが、その気配をオクビにも出さずに丁寧に辞儀をしただけだった。一階奥にレストランがあるが閉まっていた。太田が、食事はできないかと訊くと、無料朝食バイキングの一食のみで、昼と夜は付近の食べ物屋で間に合わせてもらうことになっていると答えた。
表へ出て、秀孝が、
「すみません、忘れてました。去年のキャンプ、ぼくここのホテルだったんですよ。昼めしはここで買っていった焼きそばパンを食い、夕食はホテルのすぐ裏の小松という店で定食を食うか、街へ出てました」
太田が、
「俺もキャンプ初期は二軍だったけど、神無月さんの付き人みたいな感じでグリーンのほうに泊まらされてたからなあ。こういう待遇だったとは知らなかった」
百江が、
「その小松というお店にいってみましょうよ」
「そうしましょう」
一も二もなくみんな賛成する。一分も歩かずに〈お食事処小松〉の暖簾の前に出た。厚い格子の板戸を開けて入る。思ったより広い店内だ。
「いらっしゃいませ!」
愛想のいい店主と女将が声をかける。四十代半ばか。テーブルに中年客が三人固まってビールをやっている。ご近所同士だろう。
「フエェ、ドラゴンズ!」
「でっけえなあ!」
カウンターに座る。主人夫婦が頭を下げ、
「星野さん、おひさしぶりでした」
「去年はお世話になりました」
「大出世、おめでとうございます。欲気のない人なので、心配しとったんですよ」
「江藤さんと神無月さんに引き上げてもらって」
私は、
「江藤さんがずっと推薦してたところへぼくが注目しただけで、もともと星野さんにズバ抜けた実力があったからです。日本最速ピッチャーですからね」
女将がカウンターの端に坐っている百江を掌で示し、
「こちらさんは?」
百江は、
「神無月さんのおうちで女中をしてる者です。キャンプ中に様子見舞いに伺いました。健康の具合などを確かめに毎年かならず一度はくるんです。タニマチのかたがたに報告しなければなりませんから」
無難にこなす。菱川と太田はニコニコしている。主人が、
「菱川さんもようやく花開きましたね」
「花も花、大輪ですよ。目覚めるのに六年かかりました。立ち上がらない者は、屈するのみ。マルコムX」
「菱川さんはそんなものまで読んでるんですか」
「秀才の高木時夫コーチが言ってた言葉です」
客が、
「日大で八時半の男とバッテリーを組んどった選手やね。コーチになったんか。芽が出んかったんやな」
「吉沢さんが近鉄へ移籍するまでは小川敏明さんと二人で控えをやってましたが、吉沢さんが出てからは二枚看板の正捕手みたいなものでした。そこへ木俣さんが現れてパー。小川さんは大洋移籍、時夫さんは新人の新宅さんと二枚控えに回ったと。プロ野球の世界というのはそういうものです。弱肉強食。マスター、ビール、コップで一杯ずつ」
「へーい」
ビールで乾杯すると、注文が始まる。私は牡蠣フライ定食、菱川は肉野菜炒め定食、太田は日替わり定食、秀孝は鰻重、百江は五目うどんだった。私と菱川と太田はどんぶりめしを頼んだ。二人三脚で調理にいそしみはじめる。客の一人が、
「太田選手は神無月選手と中学は同級やったって?」
「はい。野球部がいっしょでした。神さまですから、ただ拝んでました。神無月さんに伝説は不用ですよ。いつもリアルタイムの神さまですから」
「わかる、わかる。天馬やからね」
一人ひとりめしが出てきて、箸が動きはじめる。エノキの味噌汁がうまい。シメジよりはエノキのほうが好きだ。好きなものを味わっていると、生きている喜びを感じる。彼らもうまそうに味わっている。人でも動物でも、食べている姿は美しい。食べることはすばらしい。シロ……彼もちゃんとものを食っているだろうか。
「いいお店ですね。うどん一品に、ヒジキとキンピラとお漬物までついて、ぜんぶおいしい。もう少ししたら二軍のかたたちがいらっしゃるんでしょう」
「夕方にドッとね。キャンプの時期だけ、料理人を一人余計に雇うんです」
主人が私に、
「二軍の練習に参加したんですって? 人間じゃないって、連中大騒ぎでしたよ。それまではめしのあと腰を据える人が多かったんですが、このごろは夜遅くまでそこの駐車場でバットを振る人が増えましたよ」
私はビール二本と、鶏肉とナスの味噌炒めを二人前頼んだ。秀孝が、
「弱肉強食ですか。ぼくはそんな意識なかったけど」
「俺も」
太田がうなずく。菱川が、
「運三分。努力しないやつはその三分がつかめない」
百江が、
「運てありますよね。菱川さんの言うとおり、努力が引き寄せるものでしょうね。神無月さんは努力の人です。かたまりです。ふだんの努力がものすごいので、本番をラクラクとやってるように見えるんです。とんでもない努力が、運だろうと何だろうと引き寄せるんです」
太田が、
「神無月さんはむかしから本番のほうがラクだったんですよ。みんなとはしゃいでいればすみますからね。そのせいで本番を楽しみすぎて肘を壊したんだと俺は見てます。悪運の始まりです。そのとき、ラクにものごとをやっちゃいけないって気づいたんでしょう。ラクにやると運に見放される。それでむちゃくちゃ努力して本番に望むようになった。もとはと言えば、神無月さんが努力するのは、悪運に見舞われていた最中に、周囲の努力家たちに感動して、彼らを見習うようになったからです。人間はこうでなくちゃいけないって学んだんです。となるとケタ外れの能力のせいで、その努力もケタ外れのものになる。それでますます本番がラクになるというわけです。神無月さんが努力するのは野球だけじゃないですからね。驚いて見守ってるしかありません」
菱川が、
「そうなんだ。野球で努力するくらい何てこともないって思えてくる。自分に恥じない人間であろうとする努力がいちばん苦しいってわかってくる」
秀孝が、
「明るく、清く、正しく、ですね」
百江が目を拭った。
三十二
女将が、
「すばらしい人たちやね。畏れ入ったわ」
主人が、
「二軍の選手たちが感動したのもそこやろな。野球でないところやろう」
客が、
「阪急戦、喉が痛なるほど応援するわい」
「ありがとうございます!」
ごちそうさまを言い、百江が支払いをして外へ出た。太田が、
「百江さん、ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
菱川と秀孝が頭を下げる。
「どういたしまして。安いし、おいしいし、いいお店でしたね」
菱川が、
「グリーンよりもうまかったです。キャンプ中にもう一回食いにこよう」
「毎晩くればいいですよ。夕食の外出は自由なんですから。ただ、人と話すのがね」
「そうです。むかしは調子に乗っていたからそのほうが楽しかったんですが、いまは煩わしい気がします。神無月さんの気持ちが痛いほどわかってきました。仲間たちといくようにします。話しかけられるパーセントが減りますから」
太田が、
「じゃ、五時くらいまでゆっくりしますか。五時三十五分と六時五分があります」
「三十五分の電車で帰ります」
「わかりました。五時十五分に江藤さんたちと玄関にいます」
めいめい部屋に戻った。百江と二人、することは決まっている。百江はひどく燃え盛って唇を求めてきた。全裸に剥き、胸や臍や陰部を舐め、小さなアクメを確認し、挿入して激しく動き、大きなアクメの節々で体位を変え、それを一巡り終えてから、今朝よりも少し濃くなった精液を吐き出した。そして二人手を握り合って一時間ほど仮眠をとった。
目覚めると百江は私のものを口で清め、一人でシャワーを使い、身づくろいをした。私もブレザーを着た。
「あと一週間ですね。神無月さんが名古屋に帰られたら、いつものとおり一日一日を楽しみにしてすごします」
「ぼくも」
ロビーに降りると、江藤、中、高木、小川、木俣、一枝、それからきょういっしょに散歩した三人、その中に雑じって水原監督が立っていた。
「百江さん、おひさしぶりです。相変わらずおきれいで、いい年のとり方をしていらっしゃる。きょうはすてきな散歩をなさったそうですね」
「とても楽しかったです。お若いお三かたの濃やかな心遣いに慰められました」
「そうですか、よかったよかった。うちの荒くれどもも、たまには女の人のお役に立てるんですな。見直しました。名古屋ではまたちょくちょくご厄介をかけます。北村席のかたがたにどうぞよろしくお伝えください」
「はい、いつなりとご訪問ください。お待ちしております。お孫さんのレコード、北村一家で聴きました。かわいらしいお声」
「いやあ、ハハハ。ちょっとした孫自慢のつもりが、こいつらの義理堅さに遭って辟易しましたよ。おかげさまでいい売れゆきのようです。じゃ、私はここで失礼します。お気をつけてお帰りください」
「わざわざお見送りありがとうございました。おからだご自愛ください」
「痛み入ります」
水原監督は頭を下げ、エレベーターへ去っていった。百江はしばらくお辞儀の姿勢を崩さずにいた。
江藤が百江の肩を叩き、玄関を出ると脇に立って歩き出した。
「あと一週間、じっくりトレーニングを積みますばい」
「がんばってください。おケガをしないように。福岡には?」
「キャンプが明けたら、三、四日寄って帰ります。あとは平和台のオープン戦のときですかのう」
小川が並びかけ、
「慎ちゃんのいまの生甲斐は金太郎さんと野球をすることだから、なかなか家に帰らないんだよ。寮が定宿だからさ」
中も前に立ち、
「私たちも慎ちゃんと同じ気持ちだけど、なんせ家が名古屋だからせっせと帰るわけ。健太郎もモリも達ちゃんも修ちゃんも同じ」
「小野さんは名古屋に別宅があるんですよね」
「あるばい。金山の三間の平屋に住んどる。女房は東京。孤独が好きな人やけんな、よう一人で車ば乗り回してドライブしとうごたる」
「静かなかたでしたね」
太田が太鼓門の真向かいに延びる通りを指差し、
「ガードをくぐって南側へ出ると山陽明石駅です。山陽本線に乗るとごちゃごちゃ乗換えが多くて時間がかかります。国鉄の急行のほうが乗替えなしで早く着きます」
「はい、去年と同じですね」
駅の構内に入り、百江が切符を買うのをみんなで見つめる。みんなで中央改札口の前に立つ。木俣が、
「遠路はるばるご苦労さまでした。新大阪からの乗換えはだいじょうぶですか」
「はい、問題ありません」
一枝が、
「練習しすぎないように見張ってるんですが、なかなかね」
「努力するのが趣味のような人ですから、ただ見ていてあげてください」
高木が、
「女はどうします」
「それは慈善活動ですから、止めてはいけません」
あたりの人びとが振り返るほどの大笑いが上がった。秀孝が紙袋を二つ、三つ差し出し、
「これ、江藤さんやぼくたちが選んだ明石土産です。タコの切り身と〆た小鯛も入ってます。北村席の人たちと召し上がってください」
私と百江が眠っているあいだに仕入れてきたのだろう。
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます。ほんとに何から何までありがとうございました」
一人ひとりと握手していく。私のときだけさりげなく握手したのがうれしかった。百江は紙袋を両手に提げ、お辞儀をしながら階段を昇っていった。
腹がへっている六人はコンコースを通って南口へ去り、腹がへっていない四人はホテルへ戻った。ラウンジでコーヒーを飲む。一般客がチラホラいる。太田が私に、
「昭和十九年の秋から二十一年の夏までほぼ二年間、プロ野球が活動停止してた時期があったんですよ」
「知ってる。太田の言いたいこともわかる。二年間、野球以外のことしかできない時期があったかということだろう」
「はい」
「ないね。小学校四年から一度もない。なんと幸せなんだろうね」
「はい。あしたからまた猛練習ですが、練習できるのがうれしくてしょうがないです。サボるなんて信じられない」
菱川が、
「猛練習は究極、勝つためだとは思うけど、そんなことを考えずに練習してるような気がする。ただ、負ければチームは暗くなるんだ。ここ何年も経験してる。あの明るい江藤さんや健太郎さんまで暗くなる。そのころに比べて、いまの明るさはすごい」
秀孝が、
「明るく、清く、正しく」
私は、
「それと、きびしく、ね。練習には勝ち負けがないから純粋に楽しめる。試合になると勝利というものへの明確な方向性が出てくる。戦いだからね。負け戦はだれも望まない。プロ野球はサドンデスじゃないので、全試合勝たなくていいという余裕がある。だからこそ、野球ゲームとして楽しめるんだ。それこそ幸福だ。高校野球まではそれがない。大学野球はサドンデスじゃないけど、試合数が少なすぎるんでサドンデスみたいなものだ。プロ野球の試合になって初めて心ゆくまで楽しめる。ただ、負けがこむとサドンデスの気分に戻ってしまう。それで暗くなる。暗くなったらもう野球を楽しめない。練習すら楽しめなくなる。負けてもいいけど、負けすぎないようにしないと」
「ほんとですね、負けることに慣れたら、次にやってくるのはあきらめの境地ですからね」
「生老病死という定まったものに対する諦念は理解できるけど、勝負ごとというゆくえの知れないダイナミックな喜びに対するあきらめは、人間の生命の凋落そのものだね。ところで、阪急戦のウグイス嬢はどうなってるの。あの声こそ生命の喜びだ」
太田が、
「去年の南海との交流戦と同じように、西宮球場のウグイス嬢がくるようです」
菱川が、
「西宮は観客の呼び出しもウグイス嬢がやってました。いい声でした」
「日本シリーズで西宮にいったから憶えてます。澄んだやさしい声でしたね。クリーム色の球場で、外野の日除けか雨除けみたいな波型の屋根が印象深かった。スコアボードもクリーム色だったね」
「内野の銀傘もすごいです。上層スタンドもありますし」
秀孝が、
「両翼九十一メートルで中日球場と同じなのにラッキーゾーンがあるんですよ。だから球場面積は甲子園球場と同じ広さです。ラッキーゾーンにブルペンがあって、半球のリリーフカーもそこから出てきてました」
私は、
「阪急のシャレね。両翼が九十一メートルならラッキーゾーンがあろうとなかろうと、ホームランの飛距離は同じですよ。中日球場は日本一狭いなんて言われる筋合いじゃない。狭い広いの目安は、どのくらい飛べばホームランになるかであって、両翼のメートル表示じゃない。その意味で後楽園も広い球場になる。狭いというのは明石第二球場や川崎球場のような野球場のことであって、その他の球場はすべて広い」
太田が、
「神無月さんはいつも場外へ飛ばす気持ちでバッターボックスに入るんだって、よく言いますよね。狙いはフェンス越えじゃないって。俺もそういう気持ちでバッターボックスに立つようにしてます。西宮球場のナイター観たことありませんけど、日本一、二を争う照明の明るさだそうです」
秀孝が、
「神無月さんはどこの球場を明るく感じますか」
「日本一は東京球場、二位は中日球場ですね。広島球場は意外に明るい。甲子園と川崎は人が言うほど明るくない。後楽園はふつう」
夕飯を終わった選手たちが三々五々ロビーに降りてくる。二階のメールからそのまま自分の部屋に帰ってしまう選手も多い。太田が、
「俺たちもめし食っておきますか、軽く」
「ひさしぶりにナポリタン食いたいな」
「いいすね」
メールへいき、ナポリタンの大盛りを四人前注文する。
†
火曜日、水曜日と晴れ上がり、快適な低気温の中で早朝ランニングと球場合同練習。ウォーミングアップのあと、ゆっくり三種の神器、ダッシュ三十メートル十本、特別な運動は増やさない。江藤らレギュラーバッター七人と、素振り百八十本、丁寧に。屁っぴり腰のときのみんなのかけ声が腹に響く。ビーフカレー。
午後からのバッティング練習には参加せず、六、七人の仲間の外野守備にくっついて走り回る。二盗の練習十本。三盗の練習十本。尻をドスンと落とさずに右足の横脛を利用して滑りこむコツを少し体得する。特守に参加して、ノック五十本を受けて終了。球場出口で数十人の子供たちにサイン。
二夜かけて、ジャン・クリストフ、曙、三、読了。技芸の進展、人に褒められたいがためにものす芸術作品の無意義であることの自覚、そして祖父の画竜点睛に助けられた最初の栄光。
十九日木曜日。曇。きょうから気温が上がりはじめた。仲良し組とランニング。ステーキとサラダとどんぶりめし。
午前中、吉沢さん相手にトスバッティング、百本。
「一定してボールの下を斬る技術は、やっぱり神業だね」
一人でティバッティング、百本。途中で載せ役に新宅がきた。
「二十本ずつ、ほんの少し下を打つようにしてるね。もうだれも到達できない境地だよ」
ボールの中心から下、ミリ単位のグレードを見取って当てる訓練。ボールが真上に上がったところで終了。そのボールを新宅はパンと素手で受けた。
フェンス沿いにスピードを乗せてジョギング、ストライドを大きく、一周ごとに二分休みを入れながら五周。ストライドを小さく五周。
「よ、田淵!」
と仲間たちから声をかけられる。
午後からフリーバッティング、則博相手にストレートを五十本打つ。すべてセンターへ。特守に雑じってノック八十本。四時終了。やや疲れる。きょうも子供たちにサイン。
フロントで新しいユニフォームを受け取り、部屋に戻ってシャワーを浴び、汚れた下着やアンダーシャツやストッキングを段ボール箱に詰め置く。ジャージを着る。ロビーに降り、ビニール袋に詰めたユニフォームをフロントに出す。あしたの午後受け取る最後のユニフォームになる。鍵は預けず、玄関に出る。背広に挨拶される。
「たしか映画でしたね」
用向きは告げなくていいと言いながら、しっかり憶えている。
「はい。多少早く帰ります」
三十三
つららの家に向かう。一歩一歩疲労が抜けていく。この街の夜景もきょうが見納めだろう。大切に見る。
迎え入れられた土間で、つららの笑顔をじっくり観察する。目縁に三本の皺、下まぶたに一本の皺、わずかに目立つ法令線。目尻と口角が少し下がり、むかしはシャープだったにちがいないあごが丸い。顔の立体感が淡いのは老いてゆく人間の宿命だ。どちらかと言えば老け顔だが、どこか望月優子に似ている。とたんに性欲が湧いた。
「どないしたんですか、じーっと見て」
「今度逢うまで記憶しておきたいから」
「うれしいこと言うてくれる。阪神の年間スケジュール表がデイリースポーツに載っとったから、ドラゴンズの遠征してくる日程を調べたんや。五月一日から三日、六月十七、十八日、七月四日、五日、八月二十二、二十三日、九月二十六、二十七日。十月は調整試合になるやろうから日程は決まってまへん。決まっとる日程も、雨で崩れることがあるんや。九月まで毎月一回、芦屋に逢いにいくことに決めた。ドラゴンズの定宿(じょうやど)の芦屋竹園旅館に部屋をとる」
「ほんとの忍び逢いになるよ。竹園には仲居の愛人が一人いるから」
「かまいまへん。その人と約束せん日に、なんとかお逢いできるやろ」
「知り合ったのも何かの縁だ。かならず逢うからね」
「おおきに。さ、夕食にしよ。一生懸命作りました」
居間に食卓が用意される。明石はタコと鯛とアナゴだ。ビールを一本抜いた。タコの酢のもの、タコの天ぷら、鯛のアラ煮、蒸し焼きのアナゴ、鯛めし。ビールで乾杯。
「鯛めしの塩かげんがいいねえ」
「うまく炊けました」
「海鮮ものは、刺身よりも調理したもののほうが好きだな」
「うちはどちらも」
途中で熱あつの茶碗蒸しを持ってくる。具はシイタケ、ニンジン、タマネギ、ジャガイモ、鶏肉。変わっている。しかし美味。
「どれもこれもうまい。掛け値なし」
「バンザイです。おおきに」
二杯お替りして、箸を置いた。つららは一杯。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さま」
つららはテレビを点け、台所に後片づけに立つ。NHKニュース。きのう発表されたニクソン・ドクトリンの解説。ベトナム戦争の泥沼化、アメリカの過度な軍事介入を抑制する政策、米中接近、ベトナム和平、冷戦下の米ソ二大国の対立構造の崩壊、などと言っている。いつものとおり、チンプンカンプン。炬燵から台所を覗くと、つららのスカートの尻が見えた。食事中に治まっていた勃起がぶり返してきた。
「つらら」
「はい」
「勃っちゃったんだけど」
「どうしましょう。あと五分待ってくれてや。片づけを終わってからトイレにいってきます」
「いかなくていい。いますぐきて」
「はい」
私はテレビを消す。つららはあわてて台所からやってきて隣の部屋に蒲団を敷くと、全裸になって横たわった。
「きょうはよく見せて。まだ見てなかったから」
「え? あ、はい」
ジャージを脱いで屈みこむと、つららは素直に脚を開いた。
「こんなふうに見られるの初めてです。とてもうれしいもんやなァ」
淡い陰毛、ポチンと頭を見せた小さいクリトリスの包皮、黒っぽく色づいた縦長の小陰唇、赤味の濃い前庭。やはりあたりまえの美しい性器だった。安堵して口を這わせる。
「あ……」
百江より長い時間がかかるが、ふるえはじめるとそれは確実にやってきて、一瞬間、臍の下が縮まる。挿入する。
「ああ、愛しとる!」
これも百江や素子たちより摩擦の時間が長くかかるが、よんどころなくやってくる。そしてカズちゃんたちと同じようにいただきの収縮を反復する。やがて慣れない快感に抱き合い、静かな時間の訪れを待つ。
「オシッコしてきます」
尿意はアクメのあいだだけは堪えられるが、それが去れば喫緊の問題になる。勢いのよい洗水の音をさせると、すぐに戻ってきて傍らにもぐりこむ。寝物語が待っている。
「洲本の実家にはときどき帰ってるの?」
「はい、お盆と正月に。四軒を回って歩くのがたいへんです。実業の同窓会にもときどき顔を出します」
「けっこうマメなんだね」
「はい。……このまま死んでくものと思っとりました」
「だれだってこのまま死んでいくよ。このままというのは、きっとひどいままと言いたいんだろうけど、ひどいままというのはそんなになくてね、みんなけっこういいままなんだよ。どんなままか―ほんの少しのちがいは、人に遇う数のちがいだと思う。気が散る数が多くなって、さびしくない。永遠の独居房にいるのでないかぎり、人はいいままで死んでいくよ」
「そういう考え、初めて聞いた。そう言われると、うち、いままでいいままやったと思うわ。神無月さんに遇って、いいままのレベルが上がった」
「おたがいにね」
「そうやとええけど。……うち、神無月さんのレベル下げんようにがんばる」
「要らない気遣いだよ。ぼくは上がる一方だ。遇う人、一人ひとりが贅沢品になってる。港のほうへ散歩に出てみよう」
「はい……」
「人目なんかどうでもいいから。つららだって、あとで困るわけじゃないだろう。映画を観にきた神無月に気に入られて、散歩を誘われたって自慢すればいい。詳しいことを話す必要はないわけだから」
「はい」
桜通を出て、銀座商店街を南へ歩きはじめる。
「このアーケードが終わるまで銀座通りって言うんよ」
「どこまでつづいてるの」
「中崎という洲の島」
「遇う人が贅沢品になると言ってましたけど、人に遇うのは煩わしくないですか」
「気に入らない人は煩わしいので、避けるようにしてる。どんな人とも昵懇にするという理屈はわからないでもないけど、何ごともほどほどでないとね。ただ、節度もほどほどでないといけないと思うから、気に入らない人間を打ちのめすといったような、破目を外すことも大切にしたい。そう願ってるだけで、破目を外す事態に立ち至ったことは数えるほどしかないけどね」
「うちとのことも破目を外したうちに入りませんか」
「入らない。気に入った人間だから打ちのめさない。気に入った人間とかならず昵懇にするというのは、ふつうじゃないけど、世界に害悪を与えることでもない。顰蹙される程度ですむ」
「明石は好きですか」
「大都会じゃないから好きだな。名古屋のいま住んでいる場所も好きだ。大都会のような華々しい景色のこしらえ方をしてないから、ふつうの美しさがある。大都会は華々しい造りだけど、あたりまえの美しさがない。賑やかで華々しいところに人は寄っていく。ぼくはそういう人間を好まない」
「野球場は華々しくないのに美しいですね」
「うん。ネオンで飾り立てられて、賑やかで華々しくなったら、野球そのものが死んでしまう」
アーケードが途絶えて銀座通りが終わり、名もなき通りの疎らな家並の向こうに夜空が広がった。
「あっちが海です」
さびしい通りへ右折する。民家に貼りついた感興の湧かない寺がある。通り過ぎて橋を渡る。錦江橋の標示がある。橋の半ばから船溜まりが見下ろせる。たくさんの漁船が係留されている。
「大昔からある橋です。このあたり一帯が中崎です。海に囲まれてます」
「きた覚えがある。新聞記者やカメラマンたちとこの洲をぐるっと一周した。太田といっしょだった。北詰に戻って海を目指そう」
北詰から西へ進む。突き当たりに、淡路島岩屋行のフェリー乗り場がある。少しいって西進をつづける。船溜まりを眺めながら入江に沿って南へくだる。防波堤のせいで海の眺望が展けたり遮られたりする。コンクリート堤の陰から石の大燈籠の笠の部分だけが見えた。
「明石港のむかしの灯台です」
得体の知れない工場群が堤防の内側につづく。欲求不満になる。
「結局大海原は見渡せないわけだ」
「そうやねえ。防波堤がきついから、一時間も歩かんとええ眺めのところは見つからん」
地震の多い土地柄だから仕方がない。海のほうへ散歩する必要がないとわかっただけでも歩いた甲斐があった。海の欠けらを見やりながら、網店や船材店のある夜道を戻っていく。桜町本通の入口まできて、
「じゃ、ここでお別れしよう」
「はい。明石から芦屋まで三十分もかからんといけますから、五月二日の午前に竹園旅館におじゃますれば、お昼前においとまできます」
「つららの家の電話番号は?」
「078―×××―××××」
暗記した。
「五月一日に部屋番号を教える電話を入れる。二日の十時ごろに堂々と部屋を訪ねてくれればいい。選手の部屋は午後に掃除するはずだからだいじょうぶ。都合がつかないのに無理をしてきちゃだめだよ」
「はい」
「セックスだけの逢引きになるけど、空しく思わないでね」
「お顔を見れるんですから、空しくなんかなりません」
「じゃ、さよなら」
「さようなら」
手を振って別れる。
†
406号室に戻って、つららの電話番号を手帳にメモし、ジャン・クリストフを開く。第二巻、朝、一。
クリストフ十一歳。楽器奏者として自活できるようになった。稼ぎは貧しい家に入れなければならなかった。名望が高まるにつれて、自分がよしとするものをよしとしない同朋や聴衆を冷笑的に見はじめる。みんな馬鹿に見えるのだ。彼はどんどんみずからの内部に沈潜していき、心のない無感動な人間と見られるようになる。
祖父の死。クリストフは、魂ではなく、〈肉体〉の死の恐怖にふるえ、嫌悪と激しい反抗の感情を心の底に蓄えた。死の破壊力のもとにあっては、どう苦悩しても詮がないとわかっていたが、嫌悪と反抗をやめなかった。
『以来彼の生涯は許すべからざる〈運命〉の獰猛さに対する絶えざる戦いとなった』
きょうはここまで。主人公のクリストフが私とまったく共通項のない別種の人間であることを理解する。別種人間探究の書と決める。
†
二月二十日金曜日。六時起床。晴。六・五度。ルーティーン。下痢と耳鳴り復活。かえって安心。ハブ酒を一口飲む。シャワー。洗髪。
一番客でメールへいき、適当にトレイに盛り、四階と同じ眺めの窓側カウンター席に座る。練習休日なので、八時九時まではだれも降りてこないだろう。それどころか午後まで帰ってこない連中もいるらしい。そのほとんどが控え組だ。このホテルはルームサービスをやっていないが、監督、コーチ、トレーナー、球団関係の賓客に対しては特別扱いをしているようだ。
めしのあと、江藤を訪ねて、ランニングの有無を確認する。
「健太郎と修ちゃんは昼帰りやろうもん。あとは走るばい」
「堤防でいき止まるような、海のない港のほうへは走る気がしないので、球場二十周とキャッチボールをしませんか。十時から」
「オシャ」
ロビーに降り、一般客の目の届かないソファに座って新聞の活字に目を走らせる。一字も頭に入ってこない。
百江との、つららとの、いや、女一般との肉体的な接触のことを思う。美しいものとして全的な情熱を注ぎこめないかすかな躊躇がある。むかしからあったのかどうかわからないが、いまは確かにある。高校のころに読んだロレンスの文章の一節が浮かぶ。
―情熱を失ったとき、美しさに対する鼓動は不可解で卑しいものに思われる。交接の美しさは知識の美しさよりも深い。
私は情熱をなくしたのかもしれない。いや、まだ失ってはいない。彼女たちが近くにいないと、私は悲しく、自分を空っぽに感じる。それが一縷の希望だ。彼女たちを殺す凶器は、私が子供らしい情熱をスッカラカンに失い、オトナぶって彼女たちを不要とする気分に身を沈めることだ。彼女たちが死ぬことがあれば、それは私のせいだ。
彼女たちを殺さない情熱の喪失もある。私の俸給、金……。金のほんとうの価値はその量ではなく、それに抽象される冷酷な力だ。それにたいする情熱は、私には生まれながらにない。冷酷な力が人間を救わないと知っている彼女たちには、私のその情熱のなさは根源的な救いになる。私は冷酷な力で他人に知られないことを願っているばかりでなく、気に入った人間以外に私そのものを知られないことを願っている。