三十四
部屋に戻り、館内スリッパを運動靴に履き替える。ふと、机に開きっぱなしにしてあるジャン・クリストフに目がいく。良書はそうあれとだれが祈らなくても永遠に残る。作文は、よこしまな祈りに応えていっとき世を風靡することがあるかもしれないが、神に罰せられてたちまち滅びる。
十時出発。江藤、高木、木俣、菱川、秀孝、太田、私。徹底して休息をとりたかったのだろう、谷沢はいなかった。緑、高い空。
球場管理人がご一党さまという感じで玄関の通過を認める。去年は出入自由だったが、今年はきびしくなっている。高校野球の時期に盗難でも起きたのだろうか。
ランニング開始。最初の三周をみんなに先んじて走り、五周を抜かされながら走り、十周を足どりの緩んだ彼らに追いつくように走り、ラスト二周を根の尽きそうな彼らに並びかけて走る。七、八キロ程度の距離なので、みんな完走する。
ぞろぞろ歩いて一周してから、それぞれ自分のペースで三種の神器。私は背筋を丁寧にやった。机に向かうことでいちばん弱るのは背筋と腰筋だからだ。肩のストレッチをやったあとでキャッチボール。十球ごとに相手を交代していく。二巡して終了。ベンチに備えてあるバットで、全員軽く腰と肩を回すだけの素振りを百本。木俣が秀孝の投球を三十本受けるのを見終えてから球場を出る。真昼。もっと空が高くなっている。太田が、
「この八年、神無月さんは一瞬も努力を怠ったことがありませんね」
「宝くじを買うみたいな努力はしてないね。そういう、運を天にまかせる努力も必要だと思う。運で救われてきた人生だけど、積極的に運を信じようとする人生は送ってこなかった」
「根っから怠惰が嫌いなんですね」
「根っから小心なんだ。怠けていると不安になる。……名古屋の小学校に転向した最初の日に、担任の教師から授業中の姿勢のよさを褒められた。そのときぼくは、もの心ついて以来自分がどれだけ小心に暮らしてきたか思い知った。それと同時に、そんなに長いあいだ小心だったのなら、曲げられない性質だとも思い知った。小心は他人を気遣う心持ちなのでラクじゃないし、あらかた報われない。そのうえ、他人に気遣ってぱかりで自分をないがしろにするので、つけこまれやすい」
「小心か……。ワシは金太郎さんをビクビクしとる人間やと思わん。そう見えるのは、本能で人に合わせるごつ、人一倍やさしか人間やからと思うとる。ワシも小心者やが、やっぱり細こう人に気ば使うてしまう。ばってん、人のことばかり気にしよったら疲れてしょむなかけん、なるべく自分ぎり努力ばしようと決めとる」
「そうですね。疲れるのでついラクをしたい気になります。でもラクをしたら、せっかく小心に生きて保ってきた自己が崩壊します。ぼくはよく人の怠惰を責めますけど、それで自得している彼らを見て自分の人生に疑問を抱きたくないからなんです。……江藤さんと同じように、ラクをしないことは自分だけに課したい。小心さを人に押しつけようとは思わない。ましてやそれで人を導こうと思わないんです」
菱川が、
「だいじょうぶですよ、神無月さん。俺たちみんな小心者ですから、導かれたんじゃなくて、自分で目覚めたんですよ。小心者しか目覚めません。俺たちは小心者同士の奇跡の団体です」
「小っちゃな気も、合わせれば大きくなります」
秀孝が言うと、高木が、
「そういう算数じゃないだろう。一人ひとりがどこかへ飛んでしまう」
「すぐれた単品のまま協力する、ですか?」
「そう、多勢にして総合力をでかくするんじゃなくて、小さい優秀な弾丸で戦って仕留める、と言うより、小さいまま個々が活躍する。あらたまったことじゃない。だから巨人のような集合的な権力体にはいつまでもならない」
メールのテーブルにつく。私は、
「清潔で美しいオハジキですね。伝統という幻のオブラートでくるまれていない。あらたまったことじゃないので、活動範囲も自由」
二千五百円の和洋折衷コースをこつこつ食う。ステーキも刺身もサラダも品目に雑ざっている。平皿にライスをたっぷり盛ってもらう。江藤が、
「ほやけん、余計一人ひとり脱落せんようにがんばらんといけんっちゃん。自分一人の力はでかかと信じてな。監督コーチに相談やものの掛け合いばしたり、ほかの選手にやってもらおうなんちゅう他力本願は、いっちゃんいけん。だれからも融通してもらえんたい。ピッチャーもバッターも一人で戦わんといけんっちゃけんな」
木俣が、
「結局、小心というのは、自分ががんばることはもちろん、ほかの一人ひとりの様子にも細かく気を使うということだな。ちっともわがままじゃない。それこそ強豪チームが目指してるチームプレイというやつだ」
高木が、
「ありようなことを言うと当然そうなる。だから勝ち進めたんだ。あえてがん首揃えてチームプレイなんてノボリを立てることはないんだな。そんなことをするとプレイに甘みが出る」
「鍛練すれば実力は上がる。ばってん、化けたなんちゅうこつ言われて喜んどったらいけん。そぎゃん文句には踊らされんようにせんといけん。みんな少し前の成績との比較論やろうが。人間が化けたわけでなか。無責任なおだて文句は聞かんようにせいや。成績なんちゅうものは上がったり下がったりするもんたい。比較するのは虚しか。鍛練あるのみばい」
つい先刻戻ってきて隣のテーブルでカレーを掻きこんでいた小川が、
「そんたうり!」
とスプーンを挙げた。一枝もいてニコニコしていた。それを潮に私たちは解散し部屋に戻った。シャワーで汗を流し、パンツ一つで暖房の効いた部屋のベッドに寝そべる。ここからが休日だ。ドアがノックされ、ボーイが茶封筒を持ってきた。
「中日新聞社から郵便物のお届きものです」
「ありがとう」
受け取って開けると、アカ入れをした校正第一稿のゲラと、校正どおりに印刷し直した第二稿のゲラだった。机に背を正して座り、第一稿と付き合わせながらじっくり三時ごろまでかけて第二稿を読了する。いっさい校正の必要なし。大明石二丁目の郵便局に出かけて、大封筒を買い、中日新聞社文芸部宛てに書留で郵送する。
†
夕食のあと、廊下の端の木俣の部屋を訪ねた。ノックをすると木俣はボロ布を手にぶら提げた格好でドアを開けた。股引姿だった。
「よろしいですか」
「おう、いいぞ。ミットを磨いてた。持ち合わせだけど、ネスカフェ飲む?」
「はい、いただきます」
彼は股引の上からジャージを穿き、
「どうした?」
「はあ、どうという用事でもないんですが、野球の実戦での盲点とか、心構えみたいなところを教えてほしいと思ってきました」
木俣は部屋備えの魔法瓶の湯をカップに注いで、二人分のコーヒーをローテーブルに置いた。
「ブラックでいい?」
「はい、いただきます」
「いい心がけだよ。野球ってけっこう面倒くさいところがあるもんな。ストライク、ボール、投げた、打っただけでないヤバ感じがしてきたわけだ」
「そのとおりです」
「ドカンという大砲が羅針盤みたいな知識を身につけたら、怖いものなしになるな。自分が経験したことから五つ、六つくらいは質問できると思うぞ。じゃ、さっそくいこう。一問目。一死二、三塁、打者が深いセンターフライを打った。このとき三塁ランナーが心がけるべきことは」
「タッチアップしてホームインすること」
「それはあたりまえ。心がけることだよ」
「はあ……。あ! 猛スピードでホームインすること。二塁ランナーもタッチアップした場合、三塁でタッチアウトになったら三塁ランナーが先にホームに到達していなければ得点は認められませんから」
「正解! 二問目、無死満塁。バッターはどんな球を狙うか」
「……もっとも打ってはいけないのは内野ゴロ。狙うのは高目の球。三振、あるいは内野フライで零点、外野フライだとあわよくば一点取れます。うまくいけばホームランもある」
「正解! 金太郎さんみたいに低目でもフライにできる選手なら問題ないけど、慎重を期して高目を狙うのがいいね。三問目、ノーアウトでバッターがレフトの左、ややライン寄りにヒットを打った、ふつうなら二塁打にならないコースなのに二塁打になった、なぜか」
「レフトが左利きで方向転換してステップしなくちゃいけないから、セカンド送球がワンテンポ遅れたか、右利きでノーバウンドのセカンド送球をしたのにショートがカットしてワンテンポ遅れたかのどちらか」
「大正解! 金太郎さんみたいに強肩のレフトなら、だれもカットに入ろうとしないから問題はないんだけどさ。もういいんじゃないの」
「考えてわかる問題じゃなく、ルール的な盲点の問題をお願いします」
「うーん……あ、これはどうだ。ワンアウト一塁、ショートに強いゴロ、うまくさばいて二塁へ送球したボールが逸れ、セカンドがグローブに当てて弾いた、セカンドはあわててボールに飛びついて利き手で握り、空のグローブでセカンドベースにタッチした、アウトかセーフか」
「アウト。タッチプレーじゃなく封殺プレーなので、からだの一部がセカンドベースについていればよい」
「もう、教えることはなさそうだな。じゃ、最後に難問。これはできなくていいよ。あしたの夜もやろう。何問か考えておく。―同点、ツーダン満塁、打者フォアボールで押し出しサヨナラ、と思ったとたん、守備側がアピールして、二塁走者が三塁を踏まなかったら得点は成立しないと言いだした。アピールは正しいか」
「……お手上げです」
「正しくない、サヨナラは成立が正解。押し出しフォアボールサヨナラのケースでベースを踏む義務があるのは三塁ランナーがホームを、フォアボールのランナーが一塁を、の二人だけ。一塁ランナーも二塁ランナーも次塁を踏む義務はないんだ」
「知りませんでした!」
「選手でも知らないやつが多いよ。特に一塁を踏まなくてもいいと思ってるやつが多い」
「ありがとうございました! じゃ、またあした」
「おお、あしたな。……金太郎さん」
「はい」
「……俺たちを捨てないでくれ。どんなにさびしい気持ちを抱えててもいいから、さびしい顔のままでいいから、俺たちから去らないでくれ」
「どうしたんですか、木俣さん。突拍子もない」
「怖いんだよ、金太郎さんがいなくなるのが。いなくなりそうで怖いんだ。いやな勘があるんだよ。金太郎さんが着々と死に向かってるようで怖いんだ。絶頂期の天下人が死ぬなんてことはまずあり得ない。でも金太郎さんは例外だ。発作的に死んじゃいそうな気がする。北村席で山口さんからむかしの話をチラッと聞いたときには心臓がつぶれそうだった。学業も順調で、野球でも全国を騒がせたというのに、その冬にだぜ。いまと状況がそっくりだろ。……このまま生きつづけてほしいんだ。野球をして、歌を唄って、小説を書いて生きつづけてほしい。たとえさびしくて、悲しくて、空しい金太郎さんでも、そういう金太郎さんといっしょにいられるだけで俺たちは幸せなんだよ」
木俣はポロリと涙をこぼした。私も目を潤ませた。
「ほら、もらい泣きしたくなるということは、図星だった証拠だろ。……金太郎さんがときどき夜独りで出歩くことはみんな知ってる。ヒヤヒヤだよ。海へいって飛びこむんじゃないか、暗い森の中へいって首を吊るんじゃないか……。映画にいったらしい、女とデートしてるらしい、そんな話を聞くと死ぬほどホッとする。昼間二軍の練習に出たらしいなんて話になると、みんなで大笑いだ。そうやって生きてってほしいんだ。いくらでも付き合うからな。引っ張り回してくれよ。どこでもいくから。先棒でも後棒でも担ぐからさ」
私は顔を覆った。木俣は洟をすすりながら私の肩に手を置き、
「握手だけじゃさびしいって、水原さんが言ってたぞ。皮肉ったらしいマスコミや、ファンの中の目引き袖引き連中に気を差してるんだろうが、まったく気にしなくていいのにって。だれが何を言ったって金太郎さんと生きてくつもりだからってな。……金太郎さんの笑顔はこの世のものと思えないくらいかわいくて、きれいなんだ。人生の苦労が滲み出てるからだろうな。輝いてる。その輝きに身も心も隅々まで洗われるんだ。ありがとうって叫びたくなる。―松葉会だけじゃないぞ、目を離さないのは……俺たちみんなで」
「安心してください。女とのドジごしらえの関係にはわれながら呆れてますが、いますぐこうというわけにもいきません。いや永遠にいかないないでしょう。それも含めてこの数年、生きてることが楽しくて仕方ないんです。ぼくのほうこそ江藤さんや木俣さんたちに去られるんじゃないかってヒヤヒヤしてます。女たちにもね。ぼくはものごとを曲げて押っつけるロクデナシですから……。去られると思うと、さびしさと空しさでいっぱいになるんです」
「ほんとだろうな、信用していいんだな」
「信用してください」
「よし、ちょっと安心した。金太郎さんが生きてさえいれば文句なしだ。さ、あした一日練習して、あさっては阪急戦だ。月曜日はいっしょに名古屋へ帰ろう」
「はい」
「あしたも野球クイズやるぞ」
「はい!」
木俣の部屋を出て、あらためて涙が湧いてきた。喜びの涙だった。机で開く古今の良書からは得られない涙だった。
三十五
二月二十一日土曜日。六時起床。晴。六・一度。ルーティーン。快適な軟便。きわめて体調よし。シャワー。
七時からランニング。木俣の提案で、明石公園のお別れジョギングになる。きょうは谷沢がきている。江藤が、
「きのうはこんかったの」
「東京の彼女と大阪で合流してデートしてきました」
菱川にこぶしで尻を突かれている。剛ノ池を二周する。太田が、
「あしたの始球式は渡哲也らしいすよ」
「なんでか」
「淡路市出身らしいす」
小川が、
「無頼シリーズ、ぜんぶ観たよ。裕次郎より渋いな、華やかさはないけど」
テレビの芸能ニュースで見た覚えがかすかにあったが、よく思い出せなかった。
「今回はぼくじゃないですよね」
高木が、
「だいじょうぶ、ふつうに阪急の一番バッターだよ」
ホテルに戻って、メールでバイキング。とりどり食っておく。特にガンモの煮つけとヒジキ。足木マネージャーがやってきて、
「あした業者がきますから、ユニフォームやヘルメットは置いていってけっこうです」
「ぼく、ユニフォームは段ボール箱に詰めて名古屋に送りますよ」
「そういう人はそれでけっこうです。バットなんかも置いていっていいです。ぜんぶ中日球場のほうに届きます。あさってのチェックアウトは午前十一時」
「オッケー!」
トレーニング最終日の観客は四割方だった。あしたはギッシリ満員になるだろう。周回が終わって、キャッチボールになる。柔らかな陽射しの下の黒土がすがすがしい。白い櫓と杜の緑のコントラスト。ときおり浅葱色の芝に三々五々腰を降ろして談笑したりしながら、ノンビリした練習になった。ランニングと三種の神器だけはしっかりやった。
昼めしはメールでカレー。常に仲間と行動を共にするように心がける。
午後からシートバッティング。審判団も出てくる。主審は柏木、一塁丸山、二塁富澤、三塁竹元、レフト岡田、ライト松橋。このままあしたの布陣だろう。ピッチャーは一イニング交代。小川、小野、星野、伊藤久敏、水谷寿伸、戸板、松本、田辺、渋谷。これもあしたの布陣だ。水谷則博と佐藤と川畑、それとたぶん土屋が控えにつく。バッターは五回までレギュラーと控えのみ。凡打でもシングルでも二塁打三塁打でも、そのベースからベンチへ戻る。どのバッターも二、三打席で終わるだろう。一塁打からホームランはすべてただのヒットとし、得点は数えない。守備は五回まで二軍選手、六回からレギュラーだけがつく。六回からは控え、二軍選手たちがバッティングをする。彼らには楽しいときだ。九回の表まで攻撃し、裏の攻撃はないという取り決めだ。
観客が増えはじめる。子供たちの甲高い声援。ウグイス嬢の場内アナウンスはない。
「ハーイ、真剣に、真剣に!」
水原監督の檄。マウンドに小川、キャッチャーは金山、バッターボックスに中。二球目ストレートをキャッチャーフライ。二番手高木。初球を叩いてサードゴロ。坪井さばいてアウト。ファーストは知らない顔。三番手江藤。三球目を叩いてレフト伊熊への大きなフライ。
ピッチャー小野に代わり、四番手私。初球を打ってライト高木時夫へ高いフライ。五番手木俣。初球を叩いて痛烈なレフト前ヒット。六番手菱川。ツースリーまで粘ってライトファールフライ。七番手太田。外角ドロップで空振り三振。
ピッチャー星野に交代。八番手一枝。ツーワンから空振り三振。九番手谷沢。ワンワンから三球目を打ってセカンド西田へポップフライ。十番手千原。ストレート、パーム、ストレートで三球三振。
ピッチャー伊藤久敏に交代。十一番手江藤省三。何球かファールのあと、高いセンターフライ。センターは井手。十二番手江島。初球を右中間へライナーのホームラン。観客がドッと沸く。十三番手新宅。ツーワンからセンター前ヒット。十四番手ふたたび中。初球をライトへワンバウンドのヒット。十五番手高木。二球目を日野へショートライナー。十六番手江藤。ツーナッシングから左中間を真っ二つに破る二塁打。十七番手私。初球をスコアボード右へ高く舞い上がるホームラン。ドッと歓声。十八番手木俣。ワンナッシングからレフト最上段防球壁に当てるホームラン。ドッ。十九番手菱川。初球を打って、ファースト右を破る二塁打。ピッチャー水谷寿伸に交代。二十番手太田。初球を叩いて左中間を破ろうかという大飛球。センター井出が好捕。二十一番手一枝。高いバウンドでピッチャーの頭を越えるセンター前ヒット。二十二番手谷沢痛烈なセカンドゴロ。カーブを掬った一打だったが、バットコントロールのよさの片鱗が見えた。この数日の特打でカーブの打ち方を研究したのにちがいない。
ピッチャー戸板に交代。二十三番手千原。初球まともにミートしてライト前ヒット。二十四番手江藤省三。剛速球にキリキリ舞い、三振。二十五番手江島。得意の初球打ちもピッチャーゴロ。二十六番手新宅。速球に手も足も出ず、ヘッドアップして三振。
ピッチャー松本幸行。レギュラー控え組最後のバッティングになる。二十七番手中、三度目の打席。初球内気なく見送り。二球目外へ逃げようとするカーブを叩いて左中間へ三塁打。すぐにベンチに戻る。歓声がふくらんだと思ったら、スタンドがいつの間にかほぼ満員になっている。二十八番手高木、ノースリーから一塁へセーフティバント。一塁手が焦ってハンブルエラー。高木二塁へ滑りこんでスッと立ち、そのままベンチへ戻る。二十九番手江藤。無理やりタイミングの合わない初球を叩いて、センターライナー。三十番手私。タイミングの合わない初球スライダーを叩いてレフトライナー。三十一番手木俣。これも無理やり初球を叩いてサードファールフライ。
レギュラー組が守備につく。種類のちがった拍手が湧く。華麗な守備に対する期待のこもった拍手だ。正式の試合では六回表に当たる。ピッチャーは田辺。
一番手大柄の竹内洋、背番号55。ワンツーからさっそく長打。右中間を破る三塁打。足も速いようだ。たぶんプロ入り初のロングヒットを打った男が感激してベンチへ戻っていく。二番手西田、背番号39。内角シンカーをうまくバットに乗せたが、レフトフェンスぎわで私のグローブに捕まった。三番手日野、背番号6。あっけなくサードゴロ。四番手伊熊、背番号25。セカンドの頭へライナーのヒット。大ものを狙わなければもう少し生き延びるかもしれない。五番手金山、背番号50。ベンチ前へファーストファールフライ。江藤の守備に拍手喝采。
ピッチャー渋谷に交代。六番手坪井、背番号60。センター前クリーンヒット。今年はときどき使われそうだ。七番手高木時夫、背番号31。低目のスローカーブを振って三振。
シートバッティングという迅速で効率のいい練習方法にため息が出る。レフト線審の岡田に近づいて、
「すばらしい練習のやり方ですね」
私が声をかけると岡田は、
「毎年キャンプでしかやらないんですよ。今年はこれが最初で最後のシートバッティングだな」
八番手井手。非力なスイングでショートの頭へライナー。九番手堀込、背番号57。去年はちがう番号だった気がする。
ピッチャー水谷則博に交代。がんばれよ。ライトへ浅いフライ。サクサク進む。十番手同期の三好真一、背番号54。三振。よーし。十一番手、背番号51。中肉中背。ファーストを守っていた知らない顔だ。サードの菱川の背中へ走っていって、
「だれですか」
と訊くと、菱川は振り返り、
「村上真二、三年前のドラ四」
「どうも」
守備位置へ走り戻る。村上は前屈みになってバットを寝かせて構える。あえなく三振。
最終のピッチャー川畑登板。十一人で人材は尽きたらしく、バッター竹内に戻る。三遊間サード寄りの強いゴロ。菱川ダイナミックにさばいて一塁へ矢のような送球。長嶋よりも躍動感がある。大拍手。バッター西田。ファール、ファールで粘って、きょう初のフォアボール。西田はベンチへ戻る。バッター日野。ランナーがいたらゲッツーで終わりだったなと思ったとたん、日野は初球を打ってショートゴロ。一枝高木コンビの華麗なダブルプレーが見られなかった。バッター伊熊。構えから見て、明らかにホームランを狙っている。伊熊が好球を待っている隙に、則博はスイスイと外角カーブでツーストライクをとる。三球目ど真ん中の速いストレート。気負ってブンと振る。ドン詰まりのライトフライ。太田前進。おお、ポテンヒットになりそうだ。しかし高木が最後の見せ場を作った。太田に向かってスライディングし、腿のあいだでキャッチ。大喚声が上がる。一時間五分のシートバッティングが盛んな拍手で締め括られた。
宇野ヘッドコーチがメガホンで、
「十五分休憩ののち、守備練習を行ないます。明石キャンプの最後の練習になります」
足木マネージャーがメガホンを受け継ぎ、
「あしたの中日ドラゴンズ対阪急ブレーブス交流戦は、午後一時からでございます。試合前に両チームとも公式戦どおりの練習時間がございます。正確にはそれがキャンプ最後の練習となります。なお、始球式は映画俳優の渡哲也さんが投球されることになっております。どうぞご期待のほどよろしくして、ご家族ご友人お誘い合わせのうえお出かけください」
何かぎこちないが立派な口上に聞こえた。一塁側ロッカールームで水原監督が、一軍選手たちに向かって頭を下げた。
「他球団のようなスケジュール尊重のキャンプでなかったけれども、各自、根気よく、たゆまず、確実な成果を積み上げられたキャンプだったと見ました。控え、そして二軍選手たちの覚醒がすばらしかったと感じている。きょうの一軍二軍対抗戦を見てのとおり、覚醒はすぐには力に結びつかないが、潜在能力を引き出すことには利する。この一年で有望な選手が予想以上の数で出てくるものと思う。一軍選手の諸君に感謝します。よく二十日間、控え以下の選手たちの範となるべく、誠実に鍛練を重ねてくれました。朝のランニング、居残り練習、特打特守、休日練習、何よりも練習の合間に親睦にいそしむきみたちの姿は、未来に望む選手たちを励ました。今年もそういうきみたちといっしょにペナントレースの山と谷を渡っていくことに、心の底から喜びを覚えます。中日ドラゴンズ選手間にあっては一蓮托生、個々の人間間にあっては慈愛と好奇心と未練。とにかく私たちはいつまでも離れないよ、いいね!」
「オース!」
「心得た!」
木俣の声だった。谷沢が顔に腕を当てて泣いていた。戸板も秀孝も泣いていた。太田コーチが、
「あしたの試合後、喜春の間で阪急チームともども、コーヒーとケーキです。阪急さんが引き揚げたのち、ひとっ風呂浴びて、同じ喜春の間で会食です。一、二軍合同」
「ヨシャ!」
グローブとスパイクをダッフルに詰め、運動靴を履き、監督を先頭にロッカールームを出る。球場の正面口で大勢の大人たちや子供たちにつかまり握手攻めに遭った。人垣の後ろにつららがいて、小さくお辞儀をすると立ち去った。
ロビーでユニフォームを着たまま、晩めし前の夕刊を眺めていたとき、『五百野はるか』という書評が目に入った。書いたのは神戸新聞の文芸担当部員のようだった。二月八日で東奥日報紙連載小説五百野が終了したのを残念に思うことと、全編に甚く感銘を受けたことから書き起こしていた。素朴な、衷情のこもった文章だった。
野球選手の書いた出世物と思って読み始めたことを連載一回目にして恥じた。ひとことで言って、強烈だ。しかも繊細で美しい。母親に関する描写が無慈悲すぎる箇所も処々あるが、それでもなお強烈ないい文章だ。自分の評言に言葉が少なすぎることを作者に対して申しわけなく思うほどだ。しかしみずから願い出て書かせてもらっている寸評なので完遂しなければならない。
すぐれた表現力に舌を巻く。特に父子の初めての邂逅のシーンはすばらしい。父の愛人の描写、逃避行によって再起しようとして叶いそうもない父の様子、男と女の運命的な深い愛情のにおい、それを見つめる八歳の少年の悲しみ。すべてがひしひしと伝わってきて、自分もその場にいるように感じるのだ。
語りかけてくる。リアルだ。実際のできごとだからリアルなのでは? と思って一行一行に目を凝らすと、登場人物がすべて実名なのに、明確な創造物であることが見えてくる。これは詩だ。真実を的確に表現した詩だ。たとえ自伝だとしても、十年以上も経って何ができる。詩を書くことしかできない。
そこまで読んで考えこんだ。私の文章は膨大な資料に基づいて〈美〉を創造する芸術ではなく、もちろん自伝でもなく、奇妙な〈作文〉だ。そこでは日付や場所、名前、社会情勢などの詳しい情報が重要なのではない。大事なのは私があの日々に小さなアタマで何を想っていたか、それは詩以外ではあらためて語れないということだ。肌で感覚し直し、詩語に抽象しなければ語れない。そのためにわずかな想像の才能を享けたのだ。想像力を働かせ、創り出した人間の経験を自分の統治下に置いて語ること。架空の人間の経験を捕食すること。捕食者は〈あたかも〉や〈事実臭さ〉の中に自然に溶けこむのが鉄則だ。真の事実は芸術より奇妙だが、事実めいた作文のほうがさらに奇妙だ。私はおそらく奇妙な人間だろう。奇妙な人間は奇妙な趣味と心中しなければならない。ただ……その趣味が人を傷つけるとわかったら、いつでも棄てる。
愛とは大いなる呪いだ、という大仰な、何もスッキリさせない常套句が出てきたところで読みやめた。部屋に戻ってシャワーを浴び、ジャージに着替えてフロントに降りる。きょう着たユニフォームをカウンターに差し出し、クリーニングから上がったユニフォームを受け取る。
「この新しいユニフォームは部屋のソファに置いといてください」
「承知しました」
三十六
メールへいく。江藤たちに混じって和む。ビールを飲み、肉天膳を食う。並外れた架空の中に暮らしている人びとと架空の時間をすごす。心中の時間。心中の条件は私自身も架空の一員であること。この趣味は棄てるのは簡単だ。私の架空性が薄れて、人を傷つけはじめればいい。才能の衰えを自覚することで作文よりもその兆候をしかとつかまえられるので、退出が容易だ。
部屋に戻り、芸術の詳細で難解な〈美〉に浸る。朝、一、つづき。メルキオルの浪費の陰のスポンサーだった祖父の死によって、クリストフ一家を津波のように貧困が襲ってきた。父と母と子の労働がたつきになった。しかし不品行で飲んだくれの父は家に稼ぎを入れない。それどころかこれまで以上に母と子の稼ぎにも手を出し、ついには家の調度まで売るざまだった。母子はヘソクリでどうにか口をしのいだ。そのヘソクリも探し出されて持っていかれた。
ふしだらな父にも稼ぎがあるというのが不思議だが、名高い音楽家だったジャン・ミシェルの七光りで楽団員の籍をどうにか保っていた。よく遅刻したり、欠勤したり、演奏中に笑い出したりするので鼻つまみの存在だった。解雇は時間の問題に思われた。クリストフはいまや、楽団のヴァイオリンの第一奏者になっていた(どういう種類の楽団だったかこの数週間のうちに忘れてしまった)。
やがて父は馘首され、曲がりなりにも成功者のクリストフが一人で家を背負うことになった。家庭教師をしたり、楽団で演奏や指揮をしたりした(彼が宮廷楽団に属していたことを思い出した)。困苦と時間の欠乏の中で、クリストフは芸術家たらんとする思いを研ぎ澄ませていく。
父の嫉妬。彼はクリストフのことを陰で罵り歩いていた。その悪行はクリストフの二人の弟たちにも感染した。父は息子の成功を挫こうとしていた。クリストフは腹も立てなかった。なぜなら父はじぶんのやっていることに自覚がなかったし、失意のためにひねくれていたからだ。
―佐藤すみの姿に重なった。
幼いころから私は、何かの障害を感じると下痢をした。健康診断のたびに頻脈という赤紫の判を捺され、朝礼で立ちくらみ、激しい運動で嘔吐し、風邪に極端に弱い体質を思い知らされ、弱視に罹った。
かすかな成功の光明が見えたとたん、虹を渡ってきた使いを追い返され、悲しみの癒えぬ間に左腕を失い、成功を願う光明は薄れ、遠島ですべてを失った。決算の叶わなかった暗い森を出て以来、絶え間ない耳鳴りに悩まされ、突発的にしつこい頭痛に襲われる。頭痛はたいてい読書か酒のあとにやってくる。耳鳴りと頭痛のことはだれにも語らない。語っても理解されない。
ガラスのからだ。それが私の基盤だ。一見強健に見えるけれども、苦痛の入りこむ割れ目をこしらえられると、たちまちそれがふくらんで全体を破壊してしまう。脆弱な基盤の上で私の考えてきたことは何だったろう。日常的に野球をやって暮らしたいというおぼつかない未来だった。わずかな光明の見えたいま、私は善良な人びとにだけ愛情の絆を感じている。絆を緩めない腹心の人びとを常に求めている。
クリストフは困苦と修業の中で眼を傷め、心臓を傷め、内臓を痛めた。彼は不幸だ。永遠の途上にいる。
『彼は自分を判断し、現在自分が創っているものの無価値と、現在の自分の無価値とをよく知っている。けれども彼は、将来いかなる者になるか、いかなるものを創るか、それに確信を持っている。……しかしいかなることをなし、いかなることを考えようとも、そのいずれの思想も行為も作品も、完全にはおのれを含有し表現してはいない。彼はそれを知っている。自分は現在あるがままの自分ではなく、〈あしたあるだろう〉自分だと。……その未来の中にこそ彼は生きている』
苦しい修業の日々の中でクリストフは楽譜に向かう。彼は愛する楽匠らのことを、消え去った天才らのことを思う。そして彼らの作品から発せられる偉大な心の愛を感得する。愛を発することこそ彼らの幸福だったと信じる。
『光栄に満ちた畏友らの幸福の一反映にすぎないものですら、かくも燃え立っている。彼らのようになろう。そういう愛を放射しよう。その思いの数条の光は聖い微笑みで彼の惨めさを照らした。ああ、もし彼が他日、愛するそれらの人びとと等しくなるならば、すべては幻にすぎなかったことがわかるだろう』
朝、一、読了。小バッグの底にしまう。九時。木俣の部屋を訪ねて野球クイズ。
「さあ、やろうか。メモとっといた」
ローテーブルを真ん中に、向き合う。まずコーヒー。
「水原さんの気持ち、よくわかっただろう」
「わかりました。未練という言葉が沁みました。決して離れません」
「おお。じゃ第一問」
メモを見る。
「無死一塁で、ベンチ前にファールフライが上がった。キャッチャーが追いかけ、捕球後にベンチ内に倒れこんだ。このときの判定は?」
「アウト」
「もっと詳しく」
「打者アウト。そのあとキャッチャーがボールデッドの範囲に踏みこんだから……」
「だから?」
「ボールデッドになって、一塁ランナーは二塁へ進塁が許される」
「よし。飛球を捕ったあとボールデッドの箇所に踏みこんだり倒れこんだりしたら、塁上走者は一つ進塁が許される。記者席も同じだ。ランナーが二人以上いるときはそういう危険は冒さないほうがいい」
楽しくなってきた。
「第二問。同点で九回裏、ワンアウト、ランナー三塁。ふつうはスクイズをさせるが、監督はヒットエンドランのサインを出した。なぜか」
「バッターがバントべたか、スクイズバントの格好をしたときに外されてランナー挟殺の危険を避けるため」
「五十点。ランナーはスタートを切るわけだから、バッターがミートべただったら結果はスクイズを外されたのと同じになる。正解は、バッターがバントべたで、ミートじょうずであったから」
「なるほど。ミートしてゴロさえ打てば、ピッチャーゴロでないかぎりホームインできますね」
ズンズンおもしろくなる。
「第三問。ランナーなし、センター前へ小フライ、ポテンヒットになりそう。センター前進、セカンドとショートが追いかける。この際の注意点は? ランナーなしの場合と、三塁の場合を言ってみて」
「まずランナーなしの場合、二塁がガラ空きになって二塁打になる可能性があるので、ピッチャーが二塁カバーに入る」
「正解」
「ランナー三塁の場合、うーん、ホームはあきらめて、ファーストが二塁へ走る。二塁打にしないため」
「大正解! 第四問。ランナー二塁、バッター一、二塁間ヒット、ただしファーストの伸ばしたグローブをくぐったヒット。野手の動きは?」
「オーソドックスですね。引っかけかな? ふつうのライト前ヒットとちがってピッチャーは一塁に走ってるからキャッチャーのバックアップにいけない」
「うん」
「キャッチャーのバックアップはサードが入る」
「うん」
「まだ何か?」
「ライトがバックホームしないでファーストに返球しちゃったら?」
「……サードが三本間に走る」
「オッケー! ただし本塁寄りにね。じゃ、そのときショートは?」
「三塁へ走る。三本間挟殺があり得ますから」
「満点。じゃ、ルールをいくつかやろう。零点でいいよ」
木俣はもう一杯コーヒーをいれた。
「一問目。打者ドラッグバント、一塁へ走る、打球がきちんと転がらずにフェアグランドに投げ出されたバットに当たった。判定は?」
「へえェ……」
「偶然ならばプレイ継続、わざとならバッターアウト」
「握ってるバットにフェアグランドでもう一度当たったらアウトというのは知ってました」
「それは有名だね。ルール第二問。ワンアウト走者なし、打者フォアボール、キャッチャーパスボール。そのボールがベンチへ入った。ランナーにはいくつ塁が与えられるか」
「フォアボールの一つと、ボールデッドの一つで、合計二つ」
「ちがうんだな。フォアボールや三振アウトが確定したときのボールが、スタンドやベンチに入ったり、ネットやマスクに挟まった場合は、ボールデッドで塁一個与えられるだけ。ただ、キャッチャーが触ったボールがベンチに入っちゃったら、インプレイと見なしてもう一個塁が与えられる」
「うへえ、難しい!」
「さ、次いくよ。三問目。ランナー二塁、セカンドベース寄りのゴロ、打球が審判に当たってボールがファールグランドまで転がった。二塁ランナー生還、打者は二塁へ。さあ判定は?」
「そのままでいいと思います」
「条件を加えてみるね。塁審がセカンドより前にいた場合と後ろにいた場合とを分けて答えて」
「?……。審判は石ころと見なす、つまりただのイレギュラーバウンドとしか知りません」
「それは審判が守備者を妨害しない場所にいた場合なんだ。妨害する位置にいた場合には当たった瞬間にボールデッドになる。打者に一塁が与えられ、打者に押し出されるランナーには塁一個が与えられ、押し出されないランナーは塁に留まる。つまりこの問題の場合は、ランナー一、二塁でプレイ再開だね」
「推理するのじゃなく、知ってるか知らないかの問題はきびしいですね」
「ルールだからね。もっとやる?」
「はい、もっともっとやりたいです」
「知っといて損はないからな。じゃ、四問目。これはほんとに難しいぞ。ランナー二塁、三盗を仕掛けて成功したと思ったら、主審がランナーに二塁へ戻るよう命じた。考えられる理由は」
「ええ? まったくわかりません」
「主審の捕手妨害だよ。キャッチャーが三塁送球のとき主審に触っちゃったんだね。 主審もキャッチャーも黙ってればそのままなんだけど、主審が自己申告した場合はランナーはもとの塁へ戻される。キャッチャーが申告した場合は主審がどうするか決める。ふつうはどうもしない。自己申告はめずらしいよ。俺は経験ない」
「セーフのタイミングを無効にするために、わざと主審に触れるやつもいるかもしれませんね」
「見たことないけど、あり得るね。あ、それから、三盗がアウトになった場合はそのまま審判に対するお咎めはなしだよ。インプレイ」
「三塁送球がバッター自身かバットに当たった場合はどうなるんですか」
「ナッシング。キャッチャーのミスとしてそのままインプレイだ。バッターがへんな動きをしたのが原因だと審判が判断したら、守備妨害でアウト」
「審判が偉大に思えてきました。毅然とした態度もうなずけます」
「うん、腕のいい審判は神聖だ」
「キャッチャーも知識の宝庫ですね」
木俣はメモを見下ろし、
「それほどでもないさ。もう少しでメモも終わりだ。また名古屋で折を見て、こういうクイズをやろう。金太郎さんとやると、手応えがあって楽しい。真剣だから。じゃ第五問。ピッチャーが投球にかかってボークを宣告された、しかしそのままなげでしまった、バッターがそのボールを打った場合、判定は?」
「それ知ってます。プラスの結果になったらプラスのまま、マイナスの結果になったらボークにして、テイクワンベース」
「お、ひさしぶりに正解。プラスの結果とマイナスの結果を知っておくのも大切だ。ヒット、四死球、エラーなら出塁してインプレイ、ランナーがいたらそれぞれテイクワンベース。そのほかはピッチャー投球したとたんにぜんぶ出塁、バッターが打撃してマイナスの結果になってもぜんぶ出塁。ボークだとわかったら、バッターは打ったほうがいいんだ。すべてよしだから。じゃ、もしボークのときの投球が一塁牽制で、それが暴投になったらどうなる?」
「難問きましたね。暴投は攻撃側プラスだから、テイクワンベース。ボールが転々としてランナーがそれ以上走っちゃったらどうなるのかなあ」
「ワンベース与えられる以外は通常プレイだから、アウトセーフはもとどおりになる」