三十七
ドアがノックされた。オオと応えて木俣が出る。高木が顔を覗かせた。
「金太郎さんもいたのか。自販のジュースを買いに出たら、声が聞こえたからさ」
木俣が愉快そうに事情を話す。
「おもしろそうだな、参加させてよ」
「おお、こっちから頼むよ。俺もあと一問で終わるところだったからさ。じゃ第六問。三塁ランナーがホームスチールした、ピッチャーはきちんとプレートを外してホームへ送球した、バッターがそのボールを打ってレフト前ヒット。この判定は?」
「おいおい、そんな難しいことやってたの。……わかんねえなあ。打者アウトで、ホームスチール成立せずって言いたくなるけど」
「何アウトかで規則がちがってくるんだよ」
「そうなんですか! ぼくは高木さんの説にします」
木俣はニヤニヤしながら、
「モリさんはツーアウトだったら正しい。正規の牽制球を妨害したことになるから、とにかく守備妨害になる。ノーアウト、ワンアウトだと走者がアウト、そこでボールデッドなので打撃は成立せず。もとのカウントから再開。ツーアウトだとバッターがアウトでチェンジという規約だ」
「ピッチャーが投手板を踏んで投げてたら、牽制球じゃなく〈投球〉ですから、インプレイですね」
「そう。もし、打者が打つ前にキャッチャーがピッチャーの投球をホームベースの前に出て受けたら、打撃妨害でバッター一塁へ、三塁ランナーは得点承認」
高木が、
「ふだんめったに起こらないことだから、クイズみたいに純粋に楽しめるな」
「モリさん、そういうの何かないですか」
「牽制球の直後にピッチャー交代できるか」
「できない。だめですよ、そんな簡単なの」
「ぼく、知りませんでした」
「いいなあ、そういうの。ホームランばかり打ってりゃ、ルールなんか要らないよ」
「だからクイズになるんですよ。第七問、頼みます」
「よし。プロじゃまず起こらないことだけど、高校野球なんか観てると、ピッチャーと野手が交代して、また何人か処理したあと、もう一度同じ面子で交代することがあるよね」
「あるある」
「三度目の交代はどうなる?」
「はあ……許されるような気もするけど」
「ぼくも、そういうの観た気がします」
高木は得意然とうなずき、
「じつはダメなんだ。たいてい三度目で終わってるから、審判も気づかないようなんだけどね。投手は二度目のマウンドに上がったら、もうそれ以外の守備位置にはつけないって規則がある」
「ドンドンいきましょう」
木俣が、
「金太郎さん、十一時を回ったよ。次の問題で最後にしよう」
「はい」
高木が、
「よし、俺も達ちゃんも経験したやつでいこう。何年か前の広島戦だったか大洋戦だったか忘れたけど、同点で九回裏ノーアウト満塁、三塁ランナーは中さんだったな。俺が凡退して、広野、江藤と連続フォアボールで満塁になってた。その年一年間だけ中日でプレイしたスチブンスというバカでかい外人が、フェアグランドへ高ァいキャッチャーフライを打ち上げた。三塁の塁審がすぐインフィールドフライを宣告した。その場でスチブンスはアウト」
私は身を乗り出した。
「それでワンアウトになるだけかと思ったら、キャッチャーが落球してボールがコロコロ転がった。中さんがホームに突進してきたんで、キャッチャーはボールを拾ってホームベースを踏むと一塁へ送球してアウト」
「一種のトリプルプレーですね。で、延長戦」
「いや、中さんがホームを踏んで得点が認められ、サヨナラになった」
「覚えてますよ。俺、八番に入ってた」
「どうしてサヨナラなんですか」
木俣と高木は笑顔で見合い、
「インフィールドフライのときは、ランナーは進塁の義務はないんだよ。だからキャッチャーは塁を踏むんじゃなくて、中さんにタッチしなくちゃいけなかったんだ」
「なーる! タッチされるかどうか、中さんの賭けだったんですね」
「そういうこと。中さんは頭の回る人だから」
「楽しみました。ありがとうございました!」
高木が、
「さあ、寝るか。あしたは八時まで寝てるよ」
「ランニングは控えましょう」
木俣が、
「また何か考えとくよ。こっちこそ楽しい時間をありがとう。じゃ、お休み」
「お休みなさい」
高木と二人で廊下へ出、手を振って別れた。なんだか胸がいっぱいになっていた。
†
二月二十二日日曜日。七時起床。薄曇。三・三度。厄介な一日になる。どう気温が上がっても、七、八度止まりだ。芯を食いそうもないボールは無理をして打ちにいくのはやめよう。
枇杷酒から始まるルーティーン。ふつうの軟便。シャワー。歯磨き。洗髪。だいぶ髪が伸びてきた。名古屋に帰ったら散髪だ。
新しいバットのフィルムを二本剥がし、バットケースにしまう。三週間使った三本は汚れ物を詰めた段ボール箱に載せて、あしたフロントに出す。宅配業者が布に巻いて、うまく荷造りしてくれる。その料金はきちんと取られるので遠慮することはない。ほかの仲間たちは、球場に預け置いて運送業者に任せる。私はダッフルと、小バッグかスポーツバッグ、それとバットケースはたいがい携行する習慣だ。
グローブやスパイクは磨きすぎないようにしている。このキャンプでも一度しか磨かなかった。脂ぎってしまうからだ。グリース塗りは、ひと月かふた月にいっぺん。そうやってカズちゃんのグローブを五年間使ってきた。修理に出したのは一回だけ。カサカサに乾いてヒビ割れるなんてことは、何年も放置していないと起こらない。消耗品のバットは試合前の乾拭きですます。動物の骨で磨く必要などまったくない。
テレビを点けると、ときどき私の馬鹿な顔が映るので、コマーシャルのないNHKに回す。自分は美しくない。鏡よ鏡、というのが万人の思いだと言うが、美的感覚がおかしいのだろう。美しいのは他人だ。
九時。メールでみんなと朝食。焼魚、卵焼き、ウインナー、ホウレンソウのお浸し、レタスサラダ、みんなのまねをしてトレイに盛る。どんぶりめしと味噌汁は別に持ってくる。和やかな雰囲気の中で箸が動く。最奥のテーブルで監督たちがやはり和やかにめしを食っている。太田が、
「ブレーブスは高知でキャンプ張ってるらしいす。去年の南海もきのうの夜にキャッスルに入ったらしいですよ。からくるので、大阪に飛行機できて、そこから貸切りのバスに乗ってきたって」
江藤が、
「意気に感じんといけんな」
私は、
「去年の南海も高知県のキャンプからきたんでしたね」
「ほうやったな」
「森下コーチが去年言ってましたが、南海は県南の大方(おおがた)球場にキャンプするそうで、高知空港に出るのに二時間近くかかるそうです。阪急は県中部の高知球場でキャンプしてますから、飛行場まではチョイでしょう」
「飯田さんは苦労して練習試合をしにきたんやのう。西本さんもほうやろう。遠路はるばるにはちがいなか。ありがたかことばい」
高木が、
「全力で戦わないと申しわけがないね」
ユニフォームに身を固めて部屋で待機。十時半喜春の間に集合。宇野ヘッドコーチがスターティングメンバーを発表する。みんな立った姿勢で聞く。
「キャンプ最終日になりました。阪急との交流戦で有終の美を飾ります。しっかり飾ってほしい。つまり、ビュンビュン投げて、パカスカ打ってほしい」
ドヤッと笑いが上がる。
「いつものとおり、サインなし。各自申し合わせてやること。目標十点以上。阪神タイガースの御用達のサンテレビが、完全実況中継をやるらしい。ただの交流戦の実況は初めてのことだそうだ。その映像は中京テレビに配給される。名古屋のファンも観ているんだよ。つくづく日本一になれてよかったと思う。入場料収入の四十パーセントが球団の収入になりますが、芝生席無料を考慮すればほとんどなきに等しいので、慈善感謝試合と思ってください。しかし、ドンと花火だけは派手に、やっぱり目標二十点にしようか」
ふたたび大笑い。
「じゃいくぞ。先発松本幸行、バンテ星野、あとは自発的にブルペンで肩を作った選手に出てもらう。休養したいやつは無理をしなくてよろしい。じゃ、打順。いつものとおり。控え、谷沢、江島、省三、千原、新宅。以上」
出発。濠端の沿道にカメラマンやファンが勢揃いしている。太鼓門を入ってからも少年たちのかけ声がつづく。大人や子供たちの顔が輝いている。触ったりサインを求めたりするファンはいない。球場前のものすごい人だかり。
正面ドアから一塁側のロッカールームに入り、スパイクに履き替える。ベンチから見納めの球場を眺める。低いスタンド、周囲の木立の緑、白い櫓。すでに五分の入りのスタンド。目の前で阪急の選手たちが動き回り、そろそろウォーミングアップを切り上げる様子だ。縦縞のユニフォーム、胸に濃紺のBravesのロゴ。日本シリーズで対戦しているのに見知らぬ顔が多い。
フェンス沿いにランニングしていた審判員たちが引き揚げ、バッティングケージが引き出された。ドラゴンズのフリーが始まる。水原監督とコーチ陣がケージの後ろにつく。彼らの周囲にキャンプ取材の新聞記者やカメラマンが群がる。ピッチャーは佐藤進と土屋紘。控えから打っていく。五本交代で二巡り。谷沢と江島が二本、省三が一本スタンドに入れた。メリハリのある涼しい声が、
「打球にご注意くださいませ」
とアナウンスする。ネット裏にサンテレビと朝日放送のカメラが控えている。その下方の席に、オーバーを着てスカーフをかぶったつららが行儀よく坐っていた。客が増えてくる。控えの次にきょうのレギュラーがきょうの打順で打っていく。五本交代で二巡り。みんな五、六本ライナーでホームランを打つように心がけている。一枝でさえ三本打った。私はスコアボードの右と左へ二本ずつ、ライト場外へ二本、左中間と右中間を抜く当たりを二本ずつ打った。阪急ベンチの眼が皿になる。
「阪急ブレーブスのバッティング練習でございます」
続々と知った顔が出てくる。ヒゲのサングラスサード森本、小太りのキャッチャー岡村、四角いからだのライト長池、背番号40をつけた振りのするどい小男は福本だろう。ケージの後ろに西本監督と二人のコーチが貼りついている。バッティングピッチャーは大柄なオーバースローの背番号46。菱川が、
「あいつ、島根の浜田高校出身の佐々木誠吾って言うんですよ。三十八年の中国大会の準決勝で、うちの倉工と当たって負けました。三十九年に阪急に入って、ゼロ勝、七勝、ゼロ勝、五勝、へんなリズムでボチボチやってたんですが……。そうか、バッティングピッチャーやらされてるのか。いい変化球持ってるのにな」
控え選手も一とおり打ち終わって、ケージが鉄扉に引き入れられ、ドラゴンズの守備練習になった。外野から、セカンド送球一本、サード送球一本、バックホーム一本、みんな山なりでない程度の適当な強さのワンバウンド返球をする。スタンドの反応はない。内野守備練習になると拍手がある。
阪急の守備練習のあいだに、ロッカールームにホテルから弁当が配給される。試合前なのでめしを少なめにしてある。太田が、
「交流戦のアナウンス、最初東海テレビの女子アナウンサーが立候補したみたいですけど、阪急の広報に押し切られたそうです」
小川が、
「阪急の広報も暇だなあ。中日の広報なんてこの時期、球団の宣伝やら、松坂屋との球団関係商品の販売打ち合わせで大忙しだろう。ウグイス嬢も駆り出されて、出張してくる暇なんかないよ」
江藤が、
「よう知っとんな。だれから聞いたんか」
「太田コーチと森下さんは情報通だからな」
「タコと仲良しやな」
太田が頭を掻いた。
三十八
十二時四十分、グランドに出る。観客席が立錐の余地のない満員になった。アナウンスが流れ、場内が静まる。
「みなさま、こんにちは。まもなく、この超満員の明石第一球場において、中日ドラゴンズ対阪急ブレーブス、交流試合を開始いたします。昨年の日本シリーズの再戦になります。両チーム監督は、中日ドラゴンズ水原茂、阪急ブレーブス西本幸雄でございます」
プロの声だ。アクセント、抑揚、それと一語一語の間がすばらしい。下通嬢に勝るとも劣らない。
「先攻、阪急ブレーブス、一番、センター福本、センター福本、背番号40、二番ショート、阪本、ショート阪本、背番号4、三番サード、森本、サード森本、背番号9、四番ライト、長池、ライト長池、背番号3、五番レフト、矢野、レフト矢野、背番号23、六番ファースト、石井、ファースト石井、背番号6、七番キャッチャー、岡村、キャッチャー岡村、背番号29(日本シリーズで退場を喰らった男だ)、八番セカンド、山口、セカンド山口、背番号1、九番ピッチャー、三輪田、ピッチャー三輪田、背番号19」
太田が、
「でかい男です。百八十三センチ、七十八キロ。ドラ一の新人ですよ。名古屋の春日井出身で、中商から早稲田、大昭和製紙。スリークォーターで、けっこう速いです」
「つづきまして、後攻、中日ドラゴンズ、一番センター、中、センター中、背番号3、二番セカンド、高木、セカンド高木、背番号1、三番ファースト、江藤、ファースト江藤、背番号9、四番レフト、神無月、レフト神無月、背番号8、五番キャッチャー、木俣、キャッチャー木俣、背番号23、六番サード、菱川、サード菱川、背番号4、七番ライト、太田、ライト太田、背番号5、八番ショート、一枝、ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー、松本、ピッチャー松本、背番号48。球審久喜(きゅうき)、塁審一塁岡田、二塁道仏、三塁松橋、線審ライト沖、レフト柏木。以上でございます」
数秒の間があって、場内に歌声が流れた。無骨で音痴な『東京流れ者』だった。渡哲也の声にちがいない。
「ただいまより始球式を行ないます。バッターは阪急ブレーブス福本豊さん、キャッチャーは中日ドラゴンズ木俣達彦さん、マウンドに立ちますのは、兵庫県淡路島出身、映画無頼シリーズで有名な、日活のスター渡哲也さんでございます。渡さんどうぞご登場ください」
野球選手ほども身長のある慎太郎刈りの男が、一塁側の鉄扉から岡田塁審とともに出てきた。ジャージに運動靴、赤いセーターを着ている。野球帽をかぶらず、グローブも持っていない。大歓声の中でその顔をはっきりと思い出した。何年か前テアトル新宿で、『逢いたくて逢いたくて』と『愛と死の記録』の二本立てで観た役者だ。裕次郎とちがって笑顔の似合わない男だった。
歌が止む。マイクを持った女性係員がマウンドに走っていく。渡にマイクを手渡す。
「こんにちは。場ちがいなところへやってまいりましたワタクシは、渡哲也こと、本名渡瀬道彦、津名郡淡路町出身、二十八歳、役者としてまだ六年目のカケダシ野郎です。野球も知らないワタクシが始球式などやるのはおこがましいですが、俳優業に就いていたことで、華やかなプロ野球選手の集いにわずかでも華を添えることができ、ひいてはこうして郷土のお役に立てることを喜んでおります。運動は空手と柔道しかやったことがありません。福本さんまでボールが届くかどうか心配です。……届かせます」
芸能人特有の媚びのない、好感の持てる男だった。彼は岡田塁審からボールを受け取ると、照れたふうに福本に向かって辞儀をし、素手で振りかぶった。かなりいいフォームで一球を投じた。山なりだが、百キロ以上はあるボールがホームベースを通過した。福本がゆるく空振りをした。大拍手。渡はだれもがやるように四方に辞儀をし、それからマウンドを駆け下りてきて福本と木俣に礼をし、さらに左に右に両ベンチ前へ走ってきて、あわてた様子もなく深々と頭を下げた。選手たちも礼に応えて深く頭を下げた。渡はマウンドへ駆け戻り、もう一度四方に手を振ると、女性係員に連れられて鉄扉へ去っていった。
水原監督が、守備につくよう促した。松本がマウンドに登り、キャッチャーボックスにしゃがんでいた木俣と投球練習を始める。福本が打席に入り直す。いつものサイレンが鳴った。
「阪急の攻撃です。バッターは一番、センター福本、背番号40」
「プレイ!」
久喜のコール。間を置かず、福本がしっかり構える前に松本の投球。ど真ん中ストライク。福本が驚いている。気を取り直して低く構えた。すぐさま二球目、真ん中低目、カーブに見えた。キン! ライト前ヒット。太田が素早く二塁へ返す。福本、一塁コーチとタッチ。ヘルメットを脱がない。二番阪本。息をつかさず松本の投球。外角ストレート、ボール。福本盗塁。速い! 木俣送球するもまったく間に合わない。すぐさま三球目。福本を見ていない。キーン! 左中間真っ二つ。中からの送球の中継に立つ。送球を受けて振り返ると、阪本は二塁ベースを蹴ろうとし、すでに福本はホームインして三塁ベンチへ迂回していた。観客の歓声を聞きながら、阪本を防ぐためにショートの位置に立っていた菱川へ一直線の返球をする。ひさしぶりの興奮。プロ野球!
ピッチャー交代。星野秀孝。何気ない速球で投球練習。三番森本。あっという間に三振。四番長池、速球、速球、パームで三球三振。石井、初球の内角ストレートに詰まって、私の前へテキサスふうのフライ。スライディングキャッチ。喚声、拍手。ダッシュでベンチへ戻る。三輪田の投球練習。変化球ばかり。
「一回の裏、中日ドラゴンズの攻撃は、一番センター中、背番号3」
ボックスの前ライン近くに立つ。初球、内角高目ストレート、ボール。二球目内角低目スライダー、いただき、ライト線へ低い打球がスッ飛んでいく。三塁打コース。ホーバークラフトが低い姿勢で滑っていく。三塁へ美しく滑りこむ。一塁ベンチの大喝采。三十三歳。福本にまったくヒケをとらない。水原監督とうなずき合う。
二番高木。初球内角シュート。腹をかするデッドボール。西本監督が手を挙げて出てくる。ピッチャー石井茂雄に交代。偶然だが水原監督を鏡に映したような采配になる。新人を二人に投げさして、主力に交代。石井茂雄。背番号20。シゲボールというシンカーで有名。三十一歳、十四年目の大ベテラン。投球練習。前足を伸ばさず一気に倒れこんでいって、右腕を大きく高く引いて鞭のようにしならせて振り下ろす。球が速いので目に心地よい。彼とはシリーズのとき西宮で二度対戦して、敬遠とホームラン。たしかバックスクリーンへツーランだった。一年前の中日球場のオープン戦ではライト中段へソロではなかったか。二十何点か取って勝ったと憶えている。
三番江藤。お掃除してしまう気がしたが、左中間を高いフライで抜く二塁打ですましてくれた。中生還、高木は三塁を回ったところで自重した。私に還してもらえると思ったのだろう。期待に応えて、シゲボールを右中間へ引っ張る。今年の目標の一つである三塁打。上体を斜めにして自分なりに美しく滑りこむ。一対三。木俣、目くらましの超スローボールを叩き下ろしてレフト前へヒット。一対四。西本監督は動かない。菱川、外角カーブをライト前ヒット。ノーアウト一、二塁。太田、内角シュートをレフト線へ二塁打。木俣還って一対五。ノーアウト二、三塁。一枝センター後方へ犠牲フライ。菱川生還、一対六。ワンアウト三塁。秀孝、セカンドゴロ、太田生還、一対七。ツーアウトランナーなし。ここでピッチャー交代。
「石井に代わりまして、ピッチャー山田、背番号25」
ブルペンでじっと戦況を見つめていた、バネのありそうな中肉中背の選手がマウンドへ走っていく。西本監督は、彼に打者九人全員を観察させてからチェンジしたかったのだろう。それほど適応力のある男だということだ。投球練習は何ということもなくストレートを放っている。折れたからだを一度弾み上げて投げこむアンダースローだ。腰は完調のようだ。バッター中。
「プレイ!」
初球、外角へストレート、ボール。速い! 中がビックリしてボックスの外へ出、素振りを一度した。二球目真ん中ストレート、空振り。浮いてくるのだ。三球目、真ん中ストレート、ファールチップ。中はボックスの少し後ろへ下がった。四球目、外角シュート、空振り。トットッとベンチに下がってくる。
「速い。打てないな。もう一打席だめなら交代だ」
二回表の守備につく。秀孝続投。七番岡村。三振。八番山口、ショート深いところへ内野安打。九番山田、三振。一番福本、三振。
二回裏、高木。ツーツーから三振。江藤、初球、バットを折ってサードゴロ。私に一心にベンチの期待が集まった。浮いてくる、食いこんでくる、外へ逃げる、そして速い。対策はないか。よし、外へ逃げるボールをチョン。あわよくば屁っぴり腰。初球、内角胸もと浮き上がる速球、ストライク。ここを打ったら江藤のようにバットが折れる。球筋を観るためにまだ前に出ない。二球目、膝もとへ高速スライダー、ストライク。三球目、外角顔の高さのストレート、ボール。四球目、真ん中顔の高さへ外し球、ボールだが球の弾性を見るために軽く打つ。ライトポールぎわへ大きなファール。飛ぶ球質だ。山田の顔が赤くなった。一塁ベンチが立ち上がっている。水原監督のパンパン。小細工してきたら放りこむ。速球勝負なら打ち取られるかもしれない。五球目、外角のストライクコースへぐにゃりと落ちてきた。低すぎるので屁っぴり腰は効かない。チョンとバットを出す。サード森本の頭をライナーで越えた。
「オーッシャ!」
杉山コーチの叫び。スタンディングダブル。ぬか喜び。木俣、チップ三振してチェンジ。
三回表。秀孝続投。二番阪本から。詰まったサードゴロ。三番森本。当てた。セカンドフライ。四番長池、パームを空振り三振。秀孝を打てない。
三回裏。菱川。初球外角ストレート、踏みこまず手打ちして、いい当たりの一塁線ファール。二球目外角カーブ、同じ振り方で空振り。三球目、同じコースへさらに大きなカーブ。いつもなら流す菱川が、踏みこんでレフトへ引っ張った。
「おー、技あり。いや、一本いったな!」
井上コーチの言葉どおり、伸びて、伸びて、場外へ飛び出した。長谷川コーチとハイタッチ、水原監督と抱擁。場内が沸く。みんなこれを見たかったのだ。一対八。山田はふたたび速球一本に切り替えた。こうなると打てなくなる。太田サードフライ。一枝三振。
四回表。秀孝はお役御免で、ピッチャー渋谷に交代。どうなんだろう。秀孝とのスピード差に面食らってくれればいいが。五番矢野。内角に沈むシュートを掬い上げて、レフト上段へソロホームラン。二対八。やっぱりそのスピードでは、内角勝負は危ない。木俣はすぐに悟って、外角中心に切り替えた。六番石井、外角スライダーを打ち、高いバウンドで一、二塁間を抜けていくヒット。七番岡村、外角カーブを打って浅いライトフライ。八番山口、小兵なのに去年九本もホームランを打っている。二球外角の変化球で攻めてワンワン。三球目、木俣は一転内角のストレートを投げさせ、ショートゴロ。きょう初の6―4―3ゲッツー。転がってくる石井を避けて高木がジャンピングスローをする。ヤンヤの喝采。私たち選手にとってもすばらしい目の保養になる。
四回裏。観客の関心は山田対中日打線の一点になる。
「渋谷に代わりまして、バッター谷沢、背番号14」
大歓声。谷沢に山田の速球はまだ打てない。菱川に投げたようなカーブを投げてくれればなんとか当てられるかもしれない。ぐにゃりのシュートはまったく無理だ。私もチョンがやっとだった。
初球浮き上がるストレート、当たりもしないのに反り返ってよける。ボール。二球目、何の変哲もないど真ん中の速球。手が出ない。さっきのフロートボールが効いている。太田に、
「社会人のころ、山田は被本塁打が多かった?」
「さあ……でも、回転数が多くて球が軽いから、うまく当てると入っちゃうと聞いたことはあります」
「さっきのぼくのファールがそうだよ。恐れるに足らずだ。かすりそうもないスピードボールは見逃して、いまのど真ん中みたいな失投を待って、チョンとミートすればいいんじゃない?」
簡単にはいかなかった。谷沢はまた次の内角で反り返り、四球目の真ん中フロートボールに手を出してキャッチャーフライに終わった。
「一番中に代わりまして、バッター江島、背番号12」
ここは意外性の男が成果を上げるかもしれない。江藤がすでに見抜いていてアドバイスする。
「かならずタルか球がくるけん、そればきちんと打て。こんかったら、見逃し三振すればよか」
江島はツーワンまで打てそうもない球は見逃し、四球目、カウントをとりにスッと外角低目に入ってきた甘い速球をジャストミートした。
「ほれ、いったっち!」
打球は目の覚める勢いで飛んでいき、たちまちライトの木立に消えた。山田は片膝を突いて口惜しそうにライトの林を見ていた。太田コーチが、
「ああいう姿を見せちゃいけない。自信過剰のイケイケだけじゃだめだ。カウントを整えるのも神経を細やかにやらないとね。一球でポキリだ」
宇野ヘッドコーチがうなずき、
「案外ツブレやすい男みたいだね。今後大活躍するとは思うけど、チームを牽引するには勇猛かつ繊細でないと」
二対九。ワンアウト、ランナーなし。二番高木。すっぽ抜けデッドボールのトラウマを抱えている高木は、アンダースローから浮き上がってくる内角球には極端にアウトステップする。と、そのボールがするどく曲がって真ん中に入る。そのせいで第二打席は三振だった。第一打席によく腹をかすらせる勇気があったものだと思う。あの気持ちに戻ってほしい。
「高木さーん、山田は四死球ほとんどないですよー!」
声が届かない。ネクストバッターズサークルで私の声を聞きつけた江藤が、タイムをとって高木に告げにいった。高木はコクリとやり、平行スタンスに戻して、いつもの静かな姿勢で構えた。
三十九
初球、外角カーブ、ストライク。平行スタンスのままだ。二球目、ストレートが胸もとに迫ってきた。高木はこらえる。真ん中へ曲がる。いつものギシッという打撃音が響いた。左中間コースだ。ツーバウンドでフェンスに当たった。大歓声の中を高木は二塁ベースへ滑りこんだ。山田は極端に情けない顔で西本監督のほうを見やった。水原監督と同じようにミーティングをやらないことで有名な監督だ。がんばろうな、と、ヨッシャ、しか言わないと、去年田宮コーチがチラッと言っていた。練習メニューもいっさい作らないというから驚きだ。それでどうしてあんなに強いのかとだれかが訊いたら、田宮コーチは、練習のハードさが球界ナンバーワンだからだと答えた。西本監督は、
「やれ」
とひとこと言うと、一日中練習を常に眼光するどく観ているらしい。それだけに底知れない怖さがあるのかも知れない。
江藤の狙い球はわかっている。常に挑戦だ。甘いことをやっていたら、きついことができなくなる。つまり、彼の狙いは、バットを折られた内角シュートだ。アウトステップを大きくしすぎるとファールになる。インステップするとデッドボール。腕を縮めて上体を回転させるしかない。しかし、うまくミートしても、まず百メートルのフェンスは越えない。長打を狙う江藤がそのコースを打つはずないと思って山田は投げこんでくる。
初球、真ん中高目ストレート、明らかなボール。追いこまれたらたいていの打者がヘッドアップして振ってしまうコースだ。二球目、外角にシュートを落とす。ストライク。ホームベースへ曲がり戻ってくるほどのすごい曲がり方だ。三球目、真ん中高目から外角へ落ちるカーブ、ストライク。文字どおり急カーブ。狙っても打てない。くるなら次だ。四球目、真ん中から胸もとへシュートが曲がってきた。アウトステップしながら腕を縮めてクルリ! どうにかミート。サードの頭を越えてレフト線へ飛ぶ。伸びない。それが幸いして、ライン上でポーンと弾んだ。高木生還。江藤二塁へ。二対十。第一目標の十点は取った。西本監督が手を挙げた。
「アンパイア、ピッチャー梶本!」
大木梶本隆夫、十七年選手、三十四歳、佐藤製菓のボッケ。秀孝と同じようにパームを投げる。ただ秀孝ほどは落ちない。それよりフォークがするどく落ちる。スリークォーターからスッと軽く投げるストレートはまだ百四十キロ近くある。米田と同様肩と肘を一度も壊したことがないことで有名だ。だれが出てきても同じだ。打てる球がきたら打つ。ストレートでは勝負してこない。パームかフォーク。いずれもボックスの前に出れば処理可能だけれども、パームはホームベースのかなり前からゆるくて揺れてくる。うまくミートするのは至難だ。フォークに的を絞ってジリッと少し前に出る。
初球、内角低目ストレート、ワンバウンドしそうなくらいのクソボール。ここへフォークを落とすつもりだな。キャッチャーの岡村が梶本へ返球しながら、
「あんたは目がええなァ。ボールがゆっくり見えるんか」
「ゆっくりは見えませんが、シャッターを切るみたいに見える瞬間はあります」
「かなわんな。ワシ、水原監督の高松商業の後輩じゃわい」
「そうですか。この際、関係ありませんね」
「気は心、はあかんか」
「はい」
アンパイアの久喜のかすかな笑い声がした。
「さあ、こい!」
予想どおり、同じコースへストレートに見せかけたボールがきた。大きく前に出る。ストレートに見えているうちにバットを繰り出す。落ちかけた。ゴルフドライバーの角度をつけてミートする。
「まいったわい!」
打球がブッ飛んでいき、瞬く間に緑の木立の向こうへ消えていく。長谷川コーチと強いタッチ。
「キャンプ、五本目だぜ!」
「もう一本いきます!」
三塁を回る江藤が水原監督とタッチしている。私は二塁を回りながらその江藤とピースサインを交わす。三塁をふくらんで回り、小さな監督とぶつかるように抱擁し合う。オーというスタンドの喝采。ホームランと抱擁―観客も監督も私たちも心待ちにしているものだ。まだホームランを打っていないチームメイトはこれをしたくてウズウズしている。
「愛してるよ、金太郎さん」
「ぼくもです、監督」
ホームイン、仲間たちと握手、タッチ、抱擁。二対十二。ワンアウトランナーなし。木俣が打席に立つ。谷沢が、
「みなさん、何者ですか」
江藤が、
「野球が好きな野球小僧たい」
五番木俣、初球パーム、空振り。二球目外角高目ストレート、空振り。江藤が谷沢に、
「見とってみ、次の球、打つけん」
「ほんとですか?」
「おお、岡村もネクストボールに苦労しよるな。梶本はめったに高目は投げん。いまの高目は伏線ばい。たぶん内角低目のスライダーかカーブやろう。アウトステップして掬うっちゃ」
「でも木俣さんは叩き下ろす打法で―」
「それは宣伝やろうもん。大学時代から掬うのがうまかったとたい。掬うのがうまかけん、上からも叩けるっちゃん。ダウンアッパーちゅうやつばい。金太郎さんも利ちゃんも、基本は掬い上げばい。体裁ば気にしてダウンスイングぎりしよるやつは、そこで頭打ちくさ」
三球目、江藤の言ったとおり内角低目にカーブがきた。木俣はアウトステップし、ソリャア! と大声を上げながら叩き上げた。ピンポン玉になって飛んでいった。
「すげえ!」
「怪力!」
きれいな弧を描いて林の向こうに消えた。丸いからだが軽快にダイヤモンドを回る。私たちはホームへ飛び出していく。丸いからだが小さいからだと抱擁し合う。二対十三。西本監督がゆっくりと主審のもとに向かう。
「阪急ブレーブスのピッチャー交代を申し上げます。梶本に代わりまして、ピッチャー米田、背番号18」
中が、
「お客さんは楽しくてたまらないだろうなあ。私たちもこんなに楽しいんだから」
六番菱川がバッターボックスに立つ。
「もっといけ!」
「ほれ、ドンドンいけ!」
米田の球が重くて速い。たちまちツーナッシング。菱川、外角カーブに喰らいついてセカンド強襲ヒット。しかし太田、セカンドゴロ、ゲッツー。
「五回の表、阪急ブレーブスの攻撃は、九番ピッチャー米田、背番号18」
人間機関車。三十二歳。強打者だ。打率は低いが、ホームランが多い。十四年間に二十六本も打っている。金田が二十年間で三十八本だ。大差ない。渋谷続投。初球、二球目と何気なく見逃してストライクツー。三球目、外角カーブをスコンとライト前へ。ここまで簡単に打たれるとピッチャーはやるせないだろう。
一番福本、ほかの阪急選手とどこかちがう。気迫だろうか。屈んで構える姿がバネそのものだ。太いふくら脛、スリコギのように短いバット。打ちそうだという雰囲気が芬々(ふんぷん)とただよっている。初球、外角高目へシュート、大根切り、三塁スタンドへするどいファール。二球目、内角高目へ速球。キン! バネが解き放たれる。中の弾丸ライナーを見ているようだ。狭いライト芝生席の観衆の中へ一直線に突き刺さる。思わずため息が出た。この男、すごい選手になる。四対十三。
二番阪本、初球をセンター前にクリーンヒット。渋谷のワンテンポ遅れの投球フォームと、変化球主体の球筋に目が慣れてきたのだろう。パリーグ優勝チームの底力が出る。
三番森本、粘ってフォアボール。四番長池、四十本塁打の三割打者とは言え、彼がいつどこで華々しく打っているのか、去年のオープン戦も日本シリーズも、目覚ましい打撃を目にした記憶がない。肩が強く足も速いと聞いているが、それも目にしたことがない。初めてテレビで観たときは、その異様な構えとダウンスイングを心底気に入った。プロで対戦して、見方が変わった。杉山四郎が多少改良された、筋肉の硬い〈ドンクサイ選手〉という印象になった。ファール、ファール、見逃し三振。
五番矢野。いま一つ当てにならない感じの男だ。二軍かベンチ常連の雰囲気と言えばいいだろうか。初球顔のあたりでのけぞらせて、二球目外角高目、ジャストミートしたがライトライナー。セカンドランナー、タッチアップせず。六番石井。初球、内角ストレートに振り遅れて右中間ポテンヒット。阪本ホームイン。五対十三。ツーアウト一、三塁。渋谷はもう限界だろう。湿り気味とは言え、パリーグの覇者の底力を知っただけで新人にはじゅうぶんだ。七番岡村。イヤな予感がする。ツースリーまで粘る。四球目、ど真ん中高目。アチャー! お、打ち損なった! 中から交代したばかりの江島へのフライ。江島は慎重に落下位置を見定め、無難に捕球する。チェンジ。
トンボが入る。ネット裏にテレビカメラがでんと据わっている。つららを見る。満足そうにグランドの整備員たちを眺めていた。
五回裏、米田続投。バッターは一枝から。初球、内角ストレート。引っ張った、レフトの左、ライン寄りにするどい打球が飛ぶ。矢野が疾走してワンバウンドで抑える。一枝が二塁へ走った!
「おいおい、修ちゃん、だいじょうぶか!」
左膝を畳んで滑りこみ、ぎりぎりセーフ! フラッシュが瞬く。絵になるからだ。ベンチの指笛と拍手。場内の喝采。一枝の膝も尻もほんの少ししか汚れていない。みごとなスライディングだ。プロ野球選手! いつか彼らといっしょにいることに慣れるときがくるのだろうか。
「渋谷に代わりまして、バッター千原、背番号43」
背番号に力がない。私は声を投げた。
「千原さーん、思い切っていこう!」
こちらを向く気配はなかった。静かにバッターボックスに入る。何かを感じたのだろう、米田はマウンドから振り返って牽制する構えをした。一枝のんびりと戻って、膝の汚れをはたく。初球、外角高目シュート、バント! 空振り。なんということを! 少しでも役に立ちたいという気持ちからだろうか。コーチャーズボックスの水原監督が不機嫌な顔をしている。二球目、外角高目ストレート、バント、一塁方向ではなく真っすぐマウンドの前へ転がって勢いがなくなった。岡村あわてて拾って一塁へ送球。間一髪アウト。一枝三塁へ。千原はそそくさとベンチの奥へ引っこんだ。胸が痛んだ。バッター江島。
「タクミ、いっちゃえ!」
初球、外角高目ストレート、ボール。二球目、真ん中高目ストレート、ハーフスイングのバットに当たって一塁スタンドへファール。江島は主審の久喜に、ストライクかと訊いている。ボールに決まっている。それからしきりに足もとを均す。だめか。投球間隔の短い米田の三球目、内角デッドボールくさい胸もとのストレートを振って、バットの根っこに当たるファール。三塁ランナーの一枝が退屈そうだ。四球目、顔の間近へ外し球。五球目、内角低目速球、バックネットへファール。六球目、真ん中高目ストレート、三塁スタンドへファール。米田はストレートしか投げてこないし、江島はファールしか打てない。千原がサッパリした顔で戻ってきてベンチに座った。七球目、もう一度真ん中高目ストレート。ギンッ! セカンドライナー。ランナー動けず。無意味な粘りだった。千原が私の背中に、
「水原さんに睨まれちゃった。金太郎さんをガッカリさせちゃうし」
「打ってほしくて起用してるのに、二度とあんなことしちゃだめです。もっと競った試合をしてるときにはチームの勢いをなくしちゃいますよ」
「うん、馬鹿なことしちゃった。ヒット打ちゃ一点入るのにね」
「三年前に二割八分も打ったでしょう。おととしは二割七分、十四本、オールスターにも出たスラッガーじゃないですか」
「おととしは広野さんがいなくなって、杉下さんと本多代行にほとんど全試合出させてもらったからね」
「実力です。タナボタってわけじゃありません。とにかく、一試合、一試合、全力でいきましょうよ。あした辞めても悔いがないように」
「うん、そうだね。ありがとう」
ベンチが耳を澄ましていた。だれも千原に声をかけなかった。
二番高木、初球真ん中、外し球カーブ、反り返ってよける。二球目、内角胸もとストレート、ボックスを外してよける。ツーボール。三球目、外角低目シュート、つんのめって見送る。ストライク。じわじわと米田の真価がわかってきた。四球目、ど真ん中ストレート、ストライク。びっくりして手が出ない。五球目、内角ぎりぎりストレート。ストラックアウト。トラウマを利用された。チェンジ。守備に走る。
「中日ドラゴンズの選手交代を申し上げます。ピッチャー渋谷に代わりまして戸板、ピッチャー戸板、背番号11」
期待の新人へ大きな拍手。
「六回の表、阪急ブレーブスの攻撃は、八番セカンド山口、背番号1」
山口富士雄、百七十センチ、七十四キロ、二十七歳、八年目、典型的なユーティリティプレイヤー。岡村と同じ高松商業出身。プロで野球をする人間に出身は関係ない。
戸板の投球練習。身贔屓からか、球は走っているように見える。百八十一センチ、七十八キロ。顔は……似た俳優を思いつかないが、川地(かわち)民夫を多少髣髴とさせる。仲間内の紅白戦では上々のできだったけれども、パリーグの手だれ連中相手にどこまでやれるか。
「ウエー、イグゼー!」
私は大声を上げた。