四十九         

 五時を回り、アイリス組とアヤメの中番が帰ってきて、座がかしましくなった。直人が狂喜乱舞する。素子がトモヨさんに、
「NHKの『こんにちは奥さん』観た? 朝の八時四十五分から一時間」
「午後の再放送で観ました。三日連続の放送でしたね。母と子の性教育を考える、というテーマで」
「赤ちゃんはどこからくるの、だれが教えるか、ゼロからの出発、わけわからんよね」
「性交、受精、妊娠、出産、そんな言葉を並べるだけで、男と女のからだの仕組さえぼかして説明してましたね。からだの反応のことはこれっぽっちも言わないんです。生殖の仕組のことばかりを説明して、性の喜びのことは隠す。何も教えたことにならないわ。考えたら幼児にそんなこと教えるのは無理ですよ。大人になったって教えるべきことじゃないでしょう」
「鈴木健二なんか、奥さんの一人がオチンチンと言っただけで大喜びして、オマンコ、入れてこする、イクなんてことは針の先も言わん。欺瞞やが」
 カズちゃんが、
「去年の十二月に、民放でスウェーデン製の幼児向け性教育番組をやってたわね。やっぱり欺瞞。そんなに教えたくないなら、自分で学ぶようにって法律で決めればいいのよ」
 千鶴が、
「去年あたりから少女雑誌に性教育の記事がバンバン載るようになったんよ。ただの流行やないの」
 睦子が、
「性教育が永遠のテーマということは、教育では永遠に解決しないってことですね。教育で解決しないなら、実践でいくしかありません。解決してくれるのは、性交適齢期だけですね」
 パチパチと拍手が上がる。イネが幣原に子守を交代して戻ってきて、
「オラなんか適齢期遅かったじゃ。去年だすけ」
「解決したでしょ?」
 カズちゃんに言われて、
「した」
 笑い声が弾ける。
「キョウちゃんは深い意味での教育者ね。年齢関係なくみんなを適齢期にしてしまう」
 今度はみんな笑わずにまじめな顔でうなずく。トモヨさんが、
「ねないこだれだ、役に立ってます。このごろは、読み聞かせようとすると、直人が勝手にぜんぶしゃべってしまうんです。それで、寝ないんです」
「ハハハ、暗記しちゃったんだな。えらいぞ、直人」
 膝の上の直人の頭を撫でる。二切れ目のアップルパイを手づかみで食べている。サアサと言いながら、賄いたちが厨房へ立っていく。一時間もしないうちに夕飯だ。トモヨさんは幣原と子守を交代するために離れへいった。ファインホースから戻った菅野に主人が印税の話をする。
「孤児院や養老院や精神病院は、愛知県や遠征先の県から選んで、その施設の規模に応じて簡単に寄付できますけど、貧しい人、病人、老いぼれて一人暮らしなんてのは、ボンヤリしすぎてるからどこに寄付すればいいかわからないですね」
「義捐品のリクエストがきた団体から選べばええんやないか?」
「そうですね。何百万円単位になるでしょうから、しっかり選ばないとね。しかし神無月さんらしいや。印税をぜんぶ寄付するなんて作家、聞いたこともないですよ」
 うなずき合いながら見回りに出かけた。キッコが千佳子に、
「日本史の試験してくれる?」
「いいわよ。年代?」
「いろいろ」
 睦子と三人で縁側へいった。直人がキッコの膝に乗る。睦子が、
「私、去年まで使った年表と参考書持ってるから、取ってくる」
「私も」
 二人で二階へいった。私はキッコに、
「応仁の乱のときの将軍は何代のだれ?」
「八代足利義政。そんな簡単な問題でなく」
「はい、すみません」
 カズちゃんが笑いながら、
「どこで、だれとだれが」
「京都で、細川勝元と山名宗全が」
「どうして起きたのか」
「六代将軍の義教が赤松満祐に殺されて、室町幕府の体制が揺らぎはじめ、七代義勝が病死、ますます揺らぎ、八代義政が幕府体制の立て直しを図ったが、側近が言うことを聞かなかったので政治が混乱した」
「つかみがちゃんとできてるわね」
 千佳子と睦子が降りてきた。睦子が、
「名大の日本史は古代から近現代までまんべんなく出題されるのよ。全問題数は二十問前後。夕飯になるまで、穴埋め問題みたいなものをやりましょう」
「じゃ、一問目。奈良時代の行政に関して。中央に□、地方に□が、官人の養成機関として置かれた」
「大学、国学」
「はい、よし。次、足利直義について。まず足利直義はいつの時代の人?」
「南北朝時代」
「じゃ問題。足利直義は将軍の□から裁判権などをゆだねられ、幕府の政務を分担した」
「足利尊氏」
「はい、次。中世から近世にかけての荘園や村の支配に関して。①村では、本百姓が名主、組頭、百姓代などを勤め、年貢の納入は村の責任とされた。②荘園の管理をまかされた地頭は、一定額の年貢納入を請け負うようになった。③半済令によって守護は年貢を荘園領主と折半し、それを配下の武士に分け与えることを認められた。これを次代順に並べよ」
「本百姓は江戸時代、地頭は鎌倉時代、半済令は南北朝時代だから、②③①」
 えらく難しいことをやっている。キッコはスラスラと解く。これで数学ができるのだから、まず当確ではないか。千佳子が、
「江戸時代の教育に関していくわよ」
「はい」
「○×問題。岡山藩の作った閑谷黌(しずたにこう)では庶民の入学も許された」
「……○」
「正解。幕府が江戸に作った懐徳堂からは町人出身の学者も生まれた」
「×。懐徳堂は大坂。町人の出資でっせ」
「オッケー。次の四つのうちから誤っているものを一つ選べ。①沖縄戦では、ひめゆり隊など女子生徒の看護要員から多くの死者が出た。②未婚女性からなる女子挺身隊が軍需工場に動員された。③鈴木貫太郎内閣のもと、諸政党が解散し、大政翼賛会が結成された。④サイパン島の陥落以後、そこを基地とした本土空襲が本格化した」
「③がまちがい。鈴木貫太郎は原爆投下のときの内閣で終戦の折衝にあたった内閣。大政翼賛会が結成されたのは昭和十五年第二次近衛文麿内閣のとき。日独伊三国軍事同盟を結びながら日米衝突回避に努力、ならず、第三次内閣解散。直後に日米開戦」
 すごいやつだ。みんなこうして受かっていくのだ。
「基本は文句なし。あとはちょこちょこ書かせる記述問題ね」
「それから資料分析問題。あしたから何問か見ておきましょ」
「お願いします」
 トモヨさんがカンナを抱いて座敷に出てきて、夕食になった。私の惣菜の中にだけ明石のタコ蒲鉾が混じっている。幣原が、
「みんなでいただきました。おいしかったです。神無月さんの分だけ残しておきました。どうせ明石では食べていないだろうと思って」
 齧ってみると、タコ風味があるだけの変哲もない味だった。豚肉と高菜漬けの餡かけごはん、ピーマンとニンジンの卵スープ。カンナはそれを細かく砕いて重湯で、直人は大人と同じもの、スープは二人とも同じで量がちがうだけだった。私たち大人には薄切りチキンカツとキムチが余分についた。カズちゃんが、
「百江さんが持ち帰った小鯛は、焼いてもお茶漬けにしてもおいしかったわ。お茶漬けは直人にも大好評だった」
「あれはチームメイトみんなのお土産なんだ」
 百江が、
「ほんとに親切にしていただきました。いっしょに散歩したり、外食したりしてほんとに楽しかった。帰るときには水原監督にもやさしくお声をかけていただいて」
 女将が、
「毎年キャンプのときはいけばええが」
「はい、ありがとうございます」
 素子が、
「北陸遠征はうちやよ」
 睦子が、
「百江さんと素子さんの先取特権ですものね。そう決まってますものね」
「ムッちゃんもいきたいん?」
「素子さんが病欠のときに」
 女たちがドヤッと笑った。千鶴が、
「百江さんが病欠にときは、うちがいくわ」
 姉の素子が、
「あんた、今年から高校生やろう。早い早い」
 もう一度ドヤッときた。トモヨさんがカンナにゆっくりプレートを食べさせている。直人は小児椅子にきちんと座ってスプーンやフォークを使っている。
 主人と菅野が帰ってきた。テーブルに向かい合いビールになる。イネとソテツが皿を運んできて、ソテツがおさんどんにつく。キッコと千佳子と睦子は、ごちそうさまでしたを言って二階へ上がった。トモヨさん親子三人と幣原が風呂へ去る。十年一日どころか、二十年変わるとも思えない。主人がコップを手に私にニッコリ笑いかけ、
「ホームランバッター神無月さんの理論、ボールの中心より下を打つことを〈掬う〉と言ったのは有名やが、何だかそれだけじゃないように見えるんですがね。あのバットスイングを見てると」
「からだの軸を揺らさずに回転をしっかりする。振り出す直前に左手を寝かしてレベルスイングを意識しつつ両手を絞りこむ。それだけです。そのほかに自分のからだがどんな細かい動きをしてるのか、まったくわかりません」
「……天才なんやのう」
 菅野が、
「ほかに言いようがないでしょう」
「ボールにバットを当てて飛ばす。その方法は十人十色でしょうが、ぼくは自分のいちばん打ちやすい方法で打ってるだけです」
「振り遅れることはあるんやろか」
「インハイとアウトハイのスピードボールでときどき。そういうときは詰まります。凡フライになることが多いです。ボールが伸びてくるので手の絞りこみが遅れるからです。百五十キロ以上を予想してても、伸びてこられると遅れます。なるべく手を出さないのがいいですね。菅野さん、この三週間、ちゃんと走ってましたか」
「もちろん。西高か日赤まで。その二つ以上のコースはないので、新コースは開拓できませんでした。それ以上に距離を延ばすなら、日赤から鳥居通りを突っ切って庄内川沿いの凌雲寺までいって、太閤通を引き返すという道しかないですね」
「へえ。何キロぐらいですか」
「往復ちょうど十キロぐらいですね」
「凌雲寺で一休みして、一時間十五分か。いいじゃないですか。あした試しに走ってみましょう」
「ほい。私たちのスピードはどの程度のものですかね」
「十キロ前後でしょう」
 風呂から上がったトモヨさん母子にお休みなさいをする。イネも一緒に離れに退がる。主人と菅野のおさんどんが終わり、賄いたちがテーブルにつく。主人夫婦と菅野が帳場へ引き揚げ、女たちがテレビと雀卓の前に座る。私が〈女たち〉と言うのは、常に七、八人から十数人いるトルコ嬢のことだ。好きな時間に好きなだけ稼ぎたいトルコ嬢たちは、勝手に出かけていって勝手に帰ってくる。だからかならずいつの食卓にも隅のほうに彼女たちが何人か混じっている。帳場以外では北村一家と口を利き合うこともめったにない。そういう〈壁の花〉的な女の特徴はなかなか覚えられない。自力で住居を確保できるようになると席から出ていき、ポチポチ顔ぶれが入れ替わり、いつの間にか無縁の人になる。
 カズちゃんのおどけた目配せで客部屋へいき、素子と幣原と褥をともにする。二人はめいめい短時間の快楽に声を抑えて集中し、寝物語もせず、私に余計な負担をかけまいとする。私は安全日の幣原に射精する。行為のあとで二人は自分たちと私の汚れの処理をしてから、座敷に戻ってしばらくテレビを観る。周囲にとぼけ顔をしているわけではなく、北村席にいるときは歯を磨くような習慣に従っているというふうを振舞う。気心の知れない〈女たち〉に多少気を使うからだろう。そのあいだに女たちは三々五々、順繰り部屋に引き揚げていく。風呂に入る者もいる。


         五十         

 九時半を回って、一人二人の女たちやアヤメの遅番四、五人が帰ってくる。丸信子や木村しずかの顔がある。彼女たちの食事をチラチラ眺めながら、しばらくカズちゃんとアヤメ組の歓談に耳を傾ける。温かな空気が流れる。
 十時過ぎ、かよいの賄いたちが帰る。私は座の者たちに挨拶し、カズちゃん、素子、百江と則武へ帰る。幣原も送ってくる。アイリスの前で素子が、
「キョウちゃん、さっきはありがとう。ものすごくからだが軽くなったわ」
 幣原が、
「私も同じです。ありがとうございました」
 私は、
「席でするのは、ちょっと落ち着かないし、だれにともなく遠慮しちゃうみたいだね。ねえカズちゃん、睦子も千佳子もこれからは則武に呼んであげようよ。緊急のセックスなんて精神的に応えるよ」
「そうね、堂々としてられるのはトモヨさんくらいね。北村は大所帯だから、なかなかコッソリというわけにはいかないものね。三人とも十分もしないうちに出てきたからびっくりしちゃった」
 素子が、
「声上げれんかった。ちゃんと感じたけど、たっぷり満足はできんかったわ」
 幣原が、
「私はもともとあまり声を上げないタチですから、じゅうぶん満足しました。ありがとうございました」
「これからはかならず則武でしましょ。少しでも気兼ねをするのはからだによくないわ。アイリスの二階も気兼ねでしょ」
「うん。うちは則武がええ」
「私もやっぱりそのほうが安心です」
「じゃ、お姉さん、あした八時半ね。お休みなさい」
「お休みなさい」
 幣原も、
「私も失礼します。お休みなさい」
「お休みなさい」
 二人と手を振って別れた。百江が、
「神無月さんはいつまで名古屋ですか?」
「四日の午前に静岡の草薙に移動するまで」
「一週間ですね。別の意味でたいへんでしょうけど、おからだを痛めないようにがんばってくださいね」
「だいじょうぶ。これもぼくの一つの生甲斐だから。今夜はカズちゃんと寝るよ」
「がってん承知のすけ。ゆっくり寝ましょう。きょうは危ないから、百江さんお願いね。十日ぶりでしょう?」
「はい。ついこのあいだしていただいた感じなので、少し贅沢ですけど。メイ子さんや私はいつも則武にいますから、睦子さんたちに比べたらほんとに恵まれてます」
「そろそろメイ子ちゃんも酔族館から帰ってくる時間ね。気が回らなかったわ。きょうは三人いっしょに寝ましょう」
         †
 二月二十四日火曜日。七時起床。アヤメ早番の百江はいない。百江は来週も早番だと言っていた。カズちゃんは私と同時に起きた。一足早く起きたメイ子が階下で立ち動く物音がする。
「さあ、歯を磨いて食事の支度をしなくちゃ」
 曇。マイナス一度。きょうは五度までだな。うがい、歯磨き、しっかりした便。明るい気持ちになる。シャワー。かすかな耳鳴り。好調。
「百江さん、張り切って出かけました」
 メイ子がうれしそうに言う。カズちゃんが、
「私もからだじゅう快晴」
「お嬢さんはほんとうに慎ましいです。ふた月も空くことはザラですから」
「連チャンのこともあるわよ。みんなと同じよ。メイ子ちゃん、お酒だいじょうぶ? 無理に飲まされてない?」
「コークハイというのをちびりちびりやってますから、ぜんぜん平気です。それに私、ホールを回ってることのほうが多くて、お客さんの注文を受けてばかり。ラクです」
「触られない?」
「品のいいお客さんばかりで、たまに触られても膝ぐらいです。何も感じません。法子さんのまねして、下着二枚穿いてますし」
「繁盛してるの?」
「すごいです。一日七十万から百万円の売り上げがあります。月にすると二千万以上。法子さんは凄腕です。ホステスやボーイの質がいいうえに、誠実な客扱いなので、あっと言う間に人気店になりました。開店前のミーティングや教育も欠かしませんし、選び抜かれたホステスさんは客と浮ついた付き合いもしません。何百人かに一人、しつこいお客さんもいますが、能勢さんが、ここはその種の店ではないと丁重に追い払ってくれます。松葉さんの息がかかってる店だということは、その筋の人たちには知られてますから、そういった人たちはぜんぜんきません。バンドがときどき演奏することで、クラブふうの雰囲気満点のお店になってます」
「長く勤めたい?」
「いいえ、そういうお店だからこそ気を張り詰めてなくちゃいけなくて、帰るころにはくたくたです。トルコ嬢の才能はあっても、ホステスの才能はないみたいです。お酒が飲めないのが……。法子さんのお姉さんの小夜子さんが気の毒がって、今月いっぱいでいいですよ、この先の従業員教育なら私ができるからって言ってくれて。自分でお手伝いを申し出ていて何ですけど、甘えることにしました」
「よかったじゃない。それがいいわよ。お酒は少しずつ疲れが溜まっていくから」
 ウインナー生姜焼き、キャベツ炒め、おろし納豆、板海苔、目玉焼き、トマト二切れ、ナスの味噌汁。ごちそう。二膳食う。コーヒー。
「ランニングの帰りに菅野さんと床屋に寄る。それから則武でゆっくりシャワーを浴びてから北村席にいく」
「文江さん、きょうは一時から河合塾ですって」
「じゃ、床屋の帰りにいってくる。節子とキクエは?」
「最近連絡ないわね。忙しいんだと思う。そのうち電話がくるわよ。キョウちゃんが戻ってきたことはわかってるんだから。そうだ、雅江さんから今月の中ごろに一度連絡あったわ。五百野、すばらしかったって。一家で感動して読み終えたって。時間があったらいつでも遊びにきてほしいって言ってた」
「四月四日の土曜日に泊まりがけでいくって、電話しといて。千歳公園の夜桜でも見ようって。翌日、北村席のみんなといっしょに酔族館へ飲みにいく約束をしたから都合がいい。五日の五時か六時に内田橋で待ち合わせよう。ひと月以上も先のことだから、忘れないようにメモしといて」
「五時にしましょう。内田橋の向こう側のたもと。五時半から十一時半の営業時間らしいから。メイ子ちゃんもいく?」
「私は遠慮します」
「じゃ、おとうさん、菅野さん、素ちゃん、名大生二人、看護婦さん二人、それと私の八人でいいわね。ハイエースでいくわ」
「名大生四人になるかもしれないよ。キッコとヒデさん。ぼくを入れて十一人。ハイエースに乗り切れない分はクラウンだね。その日は光夫さんのツテで、フランク永井がくるらしいよ」
「そう! ああいう人たちは顔が広いから。夜霧の第二国道。楽しみ」
「唄ってくれるかな」
「さあ。『おまえに』はいやね。あのしっぽりした低音に演歌は似合わない」
 八時に迎えにきた菅野とランニングに出発。椿神社からスピードを乗せ、一気に鳥居通り四丁目まで。十一分。信号を渡って直進。スロージョギング。すぐさま閑静な住宅街になる。歯医者と薬局ぐらいしかない。九分。ふつうのジョギングへ。草薙町。民家、マンション、庭、アパート。城屋敷町。七分。二車線の道に車がときどき通る。スピードを上げる。大型衣料店。引率された幼稚園児の集団が通る。枯草色の土手が道の外れに覗いた。
「あそこで片道ジ・エンドですね」
「オシ!」
 土手に到達。七分。計三十四分。庄内川沿いに二分ほど走り、太閤通に出る。アスファルトの坂道を全力で一本目の辻まで走りくだる。
「凌雲寺に寄って帰りましょう」
 左折して短い参道を歩き、松に覆われた寺号標の前に立つ。臨済宗妙心寺派集慶山凌雲寺。その下に説明板がある。
『この寺は永正年中(一五○四―一五二一)後柏原天皇の代、将軍足利義澄・義稙(たね)の時代に、稲葉地城主津田豊後守によって創建され、南溟紹化大和尚を開山とする。豊後守は織田信長公の伯父にあたり天文五年(一五三七)に没した』
 室町末期か。江戸開幕の百年も前から七十年前にかけての話だ。松並木の参道を歩き山門に至る。解説板に、信長が幼少のころこの寺で手習いをしたと書いてある。山門を入ると手入れのいい潅木のむぐら。境内に芝が敷いてある。半枯れ。立派な鐘楼、手水鉢。本堂にいたる。集慶山の額。賽銭箱はない。瓦に織田家の家紋、織田瓜(うり)。本堂の正面に池がある。岸の処々に石仏が置いてある。
「飽きてきましたね」
「うん、戻ろう」
 太閤通へ駆け戻り、ダラダラ坂でスピードを上げる。坂下の稲葉地車庫に始発・終着の市電が格納されている。系統番号2。この市電は稲葉地町から市内の目抜き通りを走り抜けながら、東山公園までロングランする。鳥居西通。歩道橋に登り、中村公園・笹島方向を見やる。歩道橋を降り、大鳥居の前を走り過ぎていく。灰色の街並。低く建てこんでいるが、なつかしい。楠橋。中村保健センター。ジョギングに戻す。一時間経過。大門通。太閤通三丁目。中村区役所。名古屋太閤郵便局。笈瀬通の電停を目前に左折。建設中の映画館、アヤメ、牧野公園。
「一時間二十二分。少し寄り道しましたから、やっぱり一時間十分から十五分ですね」
「ペース配分がよかったのか、ぜんぜん疲れませんでした」
「床屋に寄っていきましょう」
「アイアイサー」
 いつもの理髪店へ戻る。客はゼロ。私は、
「十分でお願い。汗だくなのですぐ北村へ帰りますから。洗髪、髭剃りなし。菅野さんは丁寧に」
 十五分で終了。菅野を五分待ち、引き揚げる。北村席へ戻って二人でシャワー。髪をしっかり洗う。家内は掃除洗濯布団干しの真っ最中。直人はいない。菅野は主人と一回目の見回りへ。面接が四人いるという。茶を飲んでいる女将に、
「トモヨは?」
「帳場でカンナのオムツやっとる。してあげるん?」
「はい」
「もう少しで戻ってくるで待っとりゃあ。ひと月以上空いたで、泣いて喜ぶよ」
「おかあさんは満足してますか」
「この何年かは、一週間にいっぺんはしてもらえとる。神無月さんのおかげやわ」
 私は刈り上げた後頭部をさすった。数分してカンナを抱いて出てきたトモヨさんに女将が、
「お情けいただけるよ」
「わ、うれしい!」
 カンナを女将に預け、離れへ急ぐ。背中と尻に喜びがみなぎっている。母屋から離れへ曲がる渡り廊下でスルスルと下着を脱ぎ、
「あ、がまんできないので一度お願いします」
 手すりをつかみ、スカートをまくって大きな尻を突き出す。私もすぐに屹立しズボンとパンツを脱いで濡れそぼった秘部に挿入する。
「あああ、すてき、待ってたんです、ううう、走る走る、ク、ウ!」
 たちまち達した。ガクガクとふるえる尻から抜き取り、横腹を抱いて寝室へ移動する。トモヨさんは蒲団の上に仰向けになり、原を収縮させながら私を待つ。口を吸い、挿入する。
「あ、電気! すぐ、イキます、ク! 愛してます、愛してます、うーん、痺れる、イックウウ!」
 猛烈な締めつけに私も迫り、いつもの早漏状態になる。トモヨさんは察知し、
「ああ、うれしい、ください、うんとください、わわ、走る、強くイク、強くイク、ああああ、イク、イイグ!」
 吐き出した。口を合わせ、律動する。
「あああ、好き好き好き、愛してます、だめえ、イッックウ!」
 連続的に締めつけが止まなくなったので、私の律動も止まない。トモヨさんは跳ね上がりつづける。
「ぬ、抜いてください、もうストップ! イケません、クウウ!」
 痙攣しているあいだに素早く抜いた。こうすれば一つ前のアクメに紛れて新しい刺激が緩和される。こんなに長く女に接していて、初めて気づいた。もとの高潮に紛らせてやれば数度波が寄せてきてやがて平らかになる。苦しめなくてすむ。抜いてと言われる前にこうすればよかったのだ。


         五十一

 私はトモヨさんに寄り添い胸をさすった。
「ふうぅ、郷くん、ありがとうございました、ほんとにごちそうさま、からだじゅうの血がきれいになってサラサラ流れてます。ごめんなさい、乱れすぎてしまって……私、いちばんみっともない女になっちゃったんじゃないかしら」
「ぜんぜん。イクときはみんな同じだよ。それに女が乱れることをみっともないと思ったことがないしね。ぼくにからだが一つしかないものだから、ひと月、ふた月って放っておくことになっちゃう。そのほうが気の毒だ」
「郷くんは一生懸命がんばってます。がんばりすぎなくらいですよ。みんな感謝してます。女は四十、五十になると、肉体的に相手にされなくなります。女はまだまだできるんですけど、男のほうが女の衰えたからだに嫌気が差しちゃうんです。そういうふうにならない郷くんはスーパーマンです。どこかネジが外れてるんでしょうけど、そういう郷くんにほんとに感謝してます」
「ネジは外れてないと思うよ。人間として自然な気持ちだと思う。愛する人がお腹をすかしてると思うと気がかりだろ? 睡眠だってそうだ。寝が足りてないと思うととても心配になる。食欲や睡眠欲は一日だって放っておけないのに、性欲は何カ月も放っておけるというのは不自然だ。性欲を大したものだと思ってないということだよね。自分であれ他人であれ、そんなもの満たされなくても〈命〉に関わらないと思ってるということだよね。たしかに命には関わらない。性欲は生命維持の生理じゃないから。でもぼくはね、命に関わるもののほうが、人間というものに対する価値としてはそんなに大したものじゃないと思うんだ。学習欲、向上欲、性欲といった、からだじゃなく〈心〉に強い影響を与えるもののほうが、はるかに価値は高いと思う。自尊心や愛が関わってくるからね。それは〈生かされる〉んじゃなくて〈生きよう〉とする生命欲に直結していると信じてる。だからぼくは、愛する人間や気に入った人間のそういう欲望は、生命欲として高い価値のあるものだと思ってるんだ」
「……すばらしい考え方」
「すばらしくも何ともない。あたりまえの考え方だ。セックスの快楽だけ採り上げて難詰するのはどこかおかしい。ぼくもいまなお、その難詰を恐れて萎縮しているところがある。性的な快楽を得る対象を広げるのは、社会の通常の習慣に反するという引け目があるからだと思う。でもこの数年、そういう引け目を持つのは自分だけに留めておくべきだ、相手にまで押しつけちゃいけないと考え直して、どうにか心の折り合いをつけてる。舌がおいしいと感じるのも、セックスをしてからだがふるえるのも、よく寝てスッキリしたと感じるのも、ものごとが理解できてうれしいと感じるのも、希望を達成して満足するのも、すべて快楽だ。社会秩序云々に拘らず、一つの快楽を難詰するならすべての快楽を難詰しないと理屈に合わないことになる。命に直結する快楽だけを思いやって、直結しないものを思いやらないのは、生き意地が張っててみっともないし、それ以前に理不尽だということだね。命に直結しない欲望にこそ生甲斐を感じて、人間は生きてきたはずなんだ。だからこそ赤ん坊も生まれて人間集団が形成されてきたし、文化文明が発展して社会制度が整ってきたし、学問や芸術が人間同士の軋みを和らげてきたんだろう」
「そのとおりだと思います。大手を振って人間はすべての快楽を得なくちゃいけないと思います。それでこそ理想の社会ですね」
「うん。セックスだけは秘密でする快楽だから、大手を触れないところがあるけどね。大手を振ると、ひっぱたきにくる人が多いから」
「そうですね。フフ、しっかり秘密にしましょうね。さ、そろそろお昼ごはんですよ。食欲を満たしましょう」
 トモヨさんは温かいタオルで私のものを清潔にすると、みずからもシャワーで秘部を清めた。そうして二人、明るい顔で女将とカンナのもとに戻った。
「楽しんだ?」
「はい、とても」
「女の命の素やからね」
「はい」
「そうそう、さっき毎日新聞の臼山ゆう人から電話があって、三月一日付けで名古屋に異動になったから、いつでも訪ねてほしいって。毎日ビル二階の中部本社運動部ゆうところにおるって」
「三和銀行や名古屋大映のあるビルですね」
「大映はいちばん古いんよ。三一年からやから。少し経ってアスター、三十四年にホール劇場、地下劇場、松竹座がいっぺんにできた。地下一階に映画館が五つもあるんよ」
「そうですか。新しい映画が観たければ、毎日ビルの地下にいけばいいんですね。西高のとき、サウンド・オブ・ミュージックは隣のビルで観たなあ。臼山さんという人は東大の野球部の先輩です。三月に大坂本社から異動することは聞いてました。いずれ出世して東京本社にいくまでのつなぎでしょう。暇を見て訪ねてみます」
 十二時十五分前。主人たちが帰ってきた。アヤメの早番も帰ってくる。百江、天童、近記の顔。アイリスは店の賄いですますので、昼は帰ってこない。私は座のにぎやかさに紛れて抜け出し、文江さんのもとに向かう。
「忙しくしてる?」
「はーい、大忙し。きょうは主婦組で午後はびっしり。早くすませてお昼にしましょう。十二時半にお寿司が届くことになっとるから」
 二回の寝室の蒲団に仰向く顔色がいい。
「検査いってる?」
「はい、三カ月に一回、かならず。X線や内視鏡で転移の検診は特に念入りにやってもらっとる。胃も肺もお乳も腸も診てもらったわ。十一月には肝臓も診てもらったけど、ウィルスは見つからんし、脂肪が溜まるほど不摂生な食事もしとらんから、ピンピンやて」
「書道の腕を喜んでくれる人が増えたから、もう死ねないね」
「そう言ってくれるんはうれしいけど、生きとるのは、ずっとキョウちゃんを見ていたいからよ。さ、早よ入れて。四、五回強うイッたらうまく出してね」
 文江さんは約束をたがえて、もっと、もっと、と言いながら十回ほども強く達した。きちんと射精し、律動を少なくして、覚えたばかりのタイミングでじょうずに抜いた。小さい堅肥りのからだを長いこと抱き締めた。
 階下の風呂へ降りて、湯船に浸かり、用意してくれた下着をつけて居間に落ち着いた。大桶の鮨が届き、トロとハマチとカツオ、それからウニとイクラを文江さんにまかせてスッカリ平らげた。卵焼きは分かち合って食った。
 手習い教室の隣の、箪笥と鏡台の置いてある客部屋で、文江さんは藍色の着物を着た。
「オープン戦が終わったころ、またね」
「はーい」
 廊下へ笑いかける顔に手を振って玄関を出た。
 則武に戻り、机に向かう。まず中日スポーツ。

 昨年夏の甲子園で〈コーちゃん旋風〉を巻き起こした甲子園のアイドルこと、青森三沢高校の太田幸司が宮崎キャンプ入りした。近鉄入団発表時には近鉄本社にファンが殺到し、機動隊が出動するほどの騒ぎになったことは記憶に新しい。同時期にあった天馬神無月郷の電撃入団の影が薄くなったくらいである。
 そんなアイドルルーキーが、去る二月二十日に行なわれた紅白戦で初実戦登板となった。宮崎県延岡市の西階(にししな)球場は市の中心部から離れた辺鄙な場所にある。しかも金曜日という平日であったにも拘らず、コーちゃん見たさに一万人ものファンが詰めかけた。
 このフィーバーぶりで、紅白戦終了後に太田のコマーシャル契約が一気に二本も決まった。プロ野球選手と言えど、コマーシャルに出演するのは王・長嶋・神無月レベルのみ。新人の、そのうえ、まだ公式戦デビューもしていない選手のコマーシャル契約は、まさに異例中の異例だ。


 紅白戦の内容が書いてない。興味なし。牛巻坂にかかる。三月初旬までに河北新報の戸館学に渡す約束の初回原稿(序章および第一章1~4)を書き終え、机の右に置く。つづきの作業にかかる。思いついた短いシーンを書きつけて段ボール箱に落としこんでいく。五百野と同じやり方だ。結末部を決めておく。青森高校野球部入部だ。そこも書く。
 五時になった。北村席へ出かけていく。歩きながら各球場の旅館と訪ねてくる女を思い浮かべる。甲子園球場、竹園旅館、弁当あり、和室、設楽ハツ、五十三歳。そこへ西海つらら五十二歳が加わる。広島市民球場、世羅別館、弁当なし、館外に食堂があるので館内の食事は会食を除いてはルームサービス、バットを振れる和室、園山勢子、四十九歳。東京球場、後楽園球場、川崎球場、ホテルニューオータニ、弁当あり、もちろんバットを振れない洋室、柴田寧々、四十七歳。
 北村席の玄関に入ると、トモヨさんが、
「河北新報の戸館さんというかたから、三月四日の二時ごろ牛巻坂の第一回目二十回分の原稿を受け取りに上がるという電話がありました。三月九日から四月三日までの掲載分だそうです。それ以降の原稿受領方法の説明と、執筆契約もそのときにするそうです」
「わかった。カズちゃんに言って、実印を用意しといて」
「はい。それから、四月の開幕前に、上野さんと黒屋さんが遊びにくるそうです」
「わかった」
 アヤメの遅番組が出払ったころ、幣原がジャッキにめしを差し入れる。やがてアイリス組とアヤメの中番組が帰ってきて、賑やかな食事になる。名大生とキッコ、トルコ嬢が二階から降りてきて食卓に混じる。座敷でパズルをやっていた直人が幼児椅子に座る。カンナがトモヨさんの膝に座る。
 ベーコンとネギのチャーハン、チキンソテー、サバ味噌と水菜のサラダ、マイタケの味噌汁、白米は希望で。ニンジンとキャベツとクリームチーズのオリーブオイル和えも大皿で出ている。大人の皿には黒胡椒が振ってある。好き嫌いがあってあまり売れないが、私は好きだ。菅野が私に、
「名古屋市公会堂の山口さんのリサイタル、十四日土曜日の六時からの分でしたね」
「そう」
「千五百席のホールですが、まだ七百席以上空いていることがわかりました。三月一日からひと月間の全国デビューリサイタル開始で、六大都市二日間ずつ、十二日間です。東京を皮切りに、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸。二日やっては三日休みのひと月。名古屋は十六日から三日間お休みですけど、その間もリハーサルの連続でゆっくりできないそうです」
 主人が、
「すごい出世やなあ」
 菅野は、
「いきたい人、手を挙げて」
 主人、カズちゃん、素子、睦子、千佳子、私、そして菅野本人。メイ子も今月で酔族館に出勤する義務から解放されるので手を挙げた。八人以外の者は遠慮して手を挙げなかった。水族館へいく人数よりも少なくなった。どうせ翌々日には北村席で山口に会えるということもあるようだった。カズちゃんが菅野に五万円を渡す。
「念のために十枚買っといて。名大生二人増えるかもしれないから。入場料は二千円から三千円でしょう。帰りのごはん代も入れとくわね」
 菅野が、
「じゃ、あした公会堂までいってチケットを買ってきます。電話予約のきかない現金販売なんですよ。一階席から三階席までありますが、上にいくほど見にくくなるので、一階席の十列目から二十列目あたりの空いている席を連番で買っておきます。列と列のあいだの通路は広いので、頭で見えなくなることはありません。当日は満員になると思います」
「その近さなら、山口の一挙手一投足を見られるね」
「はい、そっくり見れます」
 メイ子は手早く食事をすますと、いってきますと言って出勤していった。私は箸を置き、
「菅野さん、いつかいった大幸球場は、電車だとどういけばいいですか」
「また物好きが始まりましたか?」
「いえ、二軍の試合はこの時期はやってないですよ。江藤さんが二軍選手といっしょに練習してるんです。一日、二日ぐらい参加してみたくて」
「乗せていきます」
「ダッフル担いで、電車でいってみたいんです」
 菅野はしきりに箸を動かしながら、
「やっぱり物好きだ。電車だと、うーん、いつか市電でいっしょに上飯田のほうまでいったでしょう。あの途中の大曽根で乗換えですよ。市電でいくのは複雑だし、時間がかかりすぎるから、名駅から中央線で大曽根へ出て、瀬戸線に乗り換えて、矢田で下車です。大曽根まで十三、四分、四番線から一番線に移動するのが五分ぐらいかかります。矢田は瀬戸線の次の駅ですから、乗れば一分です。どうモタモタしても三十分でいけます」
「いってみます」
「その前に、何時から練習してるか尋いてみないと」
 さっそく昇竜館の太田に電話する。十時ぐらいからアップして、二時には引き揚げるという答えが返ってきた。
「一軍の寮組はほとんど参加してます。でも物好きだなあ。俺たちはうれしいですけど」
 十時前にいくことを約す。電話を切り、
「物好きだって」
 菅野が笑いながら、
「やっぱり!」
「ソテツ、あした弁当作ってくれる?」
「はい!」



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