五十五         

 蒲団を叩く音がしない。午前の天気が悪かったからだ。主人が睦子に、
「どうやったですか、二軍の練習は」
「郷さんのバッティングがすごかったです。江藤さんたちは軽く流してました」
 千佳子が、
「あしたもいってきます。江藤さんたちもあしたまでらしいので」
 菅野が、
「矢田駅から遠かったでしょう」
 睦子が、
「歩いて十五分くらいです。いきはタクシーでいきました。道がわからなかったから。ソテツさん、お弁当おいしかった。ありがとう」
「あしたはサンドイッチにします。玉子、ハム、野菜」
 菅野が、
「江藤さんたちは寮のバスで球場にいったんですね」
「はい、二軍選手たちといっしょに。最後まで練習をやって帰ると思います。そのバスでみんないっしょに帰るので」
 菅野が、
「あしたは、いきだけでも車にしましょう。帰りの時間は不定でしょうから、きょうと同じように電車で帰ってくればいいですよ」
 千佳子が、
「ありがとうございます。私がローバーでいきます。いき方を教えてください」
 メモ帳を手にとった。
「広小路通を真っすぐいって柳橋に出る、左折、泥(ひじ)江町の交差点を右折、桜通です、そのままずっと直進して、高岳の二つ向こうの小川の信号を左折、ずずずーっと道なりにいって、東大曽根の信号を右折、矢田五丁目の信号で到着です。八キロ程度なので三十分でいきます」
「ありがとうございました。いけます」
 キッコが降りてきて、
「お帰りなさい。ああ、よう勉強した。休憩。ソテツちゃん、あたしにもひじき煮、もらえまっか」
「はい。お腹すいたでしょう。きしめんも作ります」
「おおきに」
 イネと幣原が私たちにコーヒーを持ってきてテーブルに置き、テレビの前へいった。
「三時のあなたをやっとるんかの」
 と言って、女将も座敷へいった。私は主人に、
「このごろ、女の人たちは稽古ごとをしてないんですか」
「踊りと三味とお茶はもうやっとりません。トルコの子は根気がなくてね。十年と言わずきてくれとったお師匠さんたちも張り合いがなくなったんやろう、向うから断ってきましたわ。切花はすっかりやめたわけやなく、二週間にいっぺん、日曜の午前にきてもらってます。ムッちゃんたちも喜ぶし、花を家に飾るのはええことですから」
 菅野がファインホースへ出ていった。音楽部屋で仮眠をとる。直人もいっしょに横たわる。厨房の足音がしげくなったところで起き出して、直人と風呂に入る。湯船にウルトラマンの小さなゴム人形をいくつも浮かべる。直人はその一つひとつの名前を言っていく。うなるほどの記憶力だ。いっしょに歯を磨く。子供用の柔かいブラシで私にまねさせるようにする。生え揃って間もない乳歯だ。口を指で開けて調べると、上の歯が十本、下の歯が十本だ。小学校に入るころに一本一本抜けはじめて、十歳ころまでには永久歯に生え替わる。
「さ、ちゃんと寒くないように服を着て、ジャッキと散歩だ」
「うん!」
 服を着て土間へいくと、幣原がジャッキに鎖をつけているところだった。アヤメの遅番組が、中番組が帰宅するのと交代で、いってきますと言いながら出ていく。
「ぼくたちが散歩させますよ」
「そうですか、じゃお願いします。ウンコ、オシッコは終わりました」
 直人は鎖を手に、喜び勇んで庭に出る。ジャッキは利口なので、直人を牽っ張ることをせず、横を歩くか、後ろを歩く。大人のときはたまに牽っ張る。牧野小学校裏門。三学期は終わっているらしく、校庭は閑散としている。後藤商店から笈瀬川筋に出る。鎖を代わり、おんぶしてやる。椿神社。駅西銀座をしばらく歩き、背中の直人に商店街を見せてやる。キョロキョロ観ているが、子供の目に興味を掻き立てる店はない。
 玉喜屋着物店の角を曲がって引き返す。直人が背中から降りて歩き出す。美容院や喫茶店を覗きこみ、マンションや二階建ての豪邸を見上げる。さいとう外科・内科。牧野小学校裏門に戻る。だれもいない校庭。
「入ってみようか」
「うん」
 ちょこちょこ走って校庭の真ん中に立つ。ジャッキといっしょに近寄り、
「あと何年か経ったら、直人はここの小学校に入るんだよ」
「うん」
「野球をやるのは、それから五年後だ」
「うん」
 と言いながら正門を指差す。正門のあたりにバックネットが見える。その傍らに桜の大木が数本立っている。もうすぐ蕾が開きはじめ、そして色鮮やかな満開になる。宿直の教師らしき男が出てきて、
「もしもし!」
「あ、すみません、すぐ出ます」
「おや、神無月選手! その節はどうも」
「とんでもない。ガランとしてたので思わず入りこんでしまいました」
「ちょうどいま春休みの時期でしてね」
 教師はじっと直人の顔と私の顔を見比べ、すぐに納得したようだったが、何も言わなかった。ジャッキの頭をなぜ、
「では、ご都合のいいときにはぜひ立ち寄ってください。お待ちしております」
「はい。どうもお騒がせしました」
 もう一度直人をおんぶして、ジャッキに牽かれて裏門を出る。学童注意の看板を左折して北村席に帰る。
 ジャッキが小屋に戻り、直人は土間へ走りこんでいく。カズちゃんたちがいる。一人ひとりの膝に甘えかかる。素子が、
「あした一日、シトシト雨やそうやよ」
 ファインホースから戻ってきた菅野が、
「午後からドシャッとくるかもしれないそうです」
「とにかく出かけます」
「了解」
 夕飯の皿出し。テレビがかかる。ニュースが七十年安保自動延長阻止と言っている。直人が小椅子に座る。今夜は何だ。ソテツが、
「塩サバのニンニクソテーです。子供はニンニクを嫌うので、オリーブ油でソテーしただけです。大人のには黒コショウが振ってあります。次のお皿は、お好み焼ふうにしたハンバーグ、幣原さんの自信作。ソースとマヨネーズで食べてください。これはサツマイモとゴボウとニンジンの簡単煮」
 イネが、
「麺つゆを三倍に薄めて煮ただげだ。直ちゃんとカンナちゃんは喜ぶべ。大人も箸休めで食(け)じゃ」
「これはジャガイモとウインナーの炒めもの、おいしいですよ。最後はレタスと焼海苔の和えサラダ」
 どれもこれも大皿、大どんぶりに盛ってある。みんな菜バサミで好きに取って食う。キッコが、
「塩サバおいしい!」
「うんと栄養つけて、受験を乗り切ってください」
 直人が、
「のりきってくだしゃい」
 幣原が切り分けたお好み焼ふうハンバーグをうまそうに食っている。
「ごはんも忘れちゃだめですよ」
「はーい」
 トモヨさんはカンナの口に塩サバを小さくちぎったもの、ハンバーグの欠けら、サツマイモの欠けらなどを丁寧に入れてやり、ときどきレンゲで重湯をすすらせる。二本の下歯が光る。安保自動延長阻止と何度も言われる。うるさい。私はキッコに、
「何? 自動延長阻止って」
「習っとらんで、わからへん」
 千佳子が、
「六十年に結んだ安保条約が、十年経過した今年の六月二十三日に自動延長されることになるので、それを阻止しようとしてるんです」
 私は少し考え、
「ここ数年の学生運動って、東大闘争ばかりクローズアップされたけど、結局今年の阻止運動に向けてやってたということになるんじゃないの?」
 睦子が、
「そうです。おととしから去年にかけての全共闘や新左翼の学生運動、東大闘争や日大闘争、全国主要大学のバリケード封鎖闘争、三年前の羽田闘争、おととしの佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、新宿騒乱事件、去年の沖縄デー闘争、国際反戦デー闘争、佐藤首相訪米阻止闘争といったものは、ぜんぶ七十年安保の前哨戦です。今年は六月二十三日の自動継続日に向けてもっとうるさくなります。自動延長されたらもう安保改定の節目はないので、八十年安保や九十年安保はありません」
 新左翼とか沖縄デーとか、詳しく訊く気にならない。事情を詳しく知って静観している人がいて、闘争に生甲斐を見出して行動している人がいると知るだけでいい。腰ぎんちゃくの生き方が一国の繁栄に資すると指導者が判断した以上、どれほど騒ごうとどれほど静かにしていようと、強国主導の体制は揺らがない。千佳子が、
「六十年安保条約締結のおかげで、防衛費が抑えられ、高度経済成長がもたらされたんです。追従ととらずに、延命対策ととればいいんじゃないかな。ヘルメットかぶってゲバ棒持って、投石や火炎瓶で騒いでる人がいちばんトンチンカンに見えます」
「静かなる抵抗運動の元祖であるキング牧師は『口を閉ざせば終わりが始まる。兄弟として共存するか、愚か者として滅びるか』というすばらしい言葉を言った。その言葉を取りちがえた強迫観念から、必死で騒いでるんだと思うよ。何の終わりかが重要で、キング牧師が言ったのは人間の終わりということだろう。国とか命の終わりじゃない。そんなもの終わったところで屁でもない。実際彼は撃ち殺されたしね。愚か者として滅びる―人間が終わったら暗黒だということなんだ。どんなに絶望しても、人間を終わらせちゃいけない。絶望は気質だ。単なる生理作用だ。精神の力、魂魄(こんぱく)とは関係ない。暴力的に騒げば騒ぐほど魂は遠ざかる。だからどんなに絶望してもいいけど、口を閉ざして魂を殺しちゃいけない」
 カズちゃんが、
「そこまでアタマがよく生まれると、トンチンカンな人たちが気の毒に見えて仕方ないでしょう。気の毒に思うのは一種の心の痛みだから、そういうキョウちゃんを見てる私たちは逆に胸が痛むの。だから、私たちだけでもなんとかトンチンカンでいないように努力してるのよ」
「何一つトンチンカンなところはないよ。ここは理想郷だ」
 主人が、
「いちばん古い安保はいつ結ばれたんや。六十年か」
 キッコが、
「昭和二十六年のサンフランシスコ講和条約のときやろ。それまで日本はアメリカの植民地やったさかい」
 千佳子が、
「そう。正式には日米同盟って言うの。そこにくっついてた日米地位協定の中に安保条約が含まれてる。その条約は、日本の自主防衛力は認めず、アメリカに助けてもらうという形をとってたのね。六十年の安保はその条約の改定ということになるわ。専守防衛という表現で日本の自衛権を認めて、日米おたがいに助け合うという形。今年の七十年安保はその自動延長。最後の安保条約ね」
 菅野が、
「講和条約のときまで吉田茂は〈軽武装・経済優先〉の路線を歩んでたんです。それを支えた二本柱が、昭和二十二年の憲法九条と二十六年の講和条約の安保。千佳ちゃんが言ったように、防衛費を抑えて経済に力を注げたことが高度経済成長につながったということでしょう」
 イネが、
「みんな、すげな」
 女将が、
「大したもんや。万博だいじょうぶかいな。三月十四日から半年やよ」
 みんな静かになり、直人があくびをした。


         五十六

 トモヨさんが、
「お義母さん、万博にいくって言ってましたけど、いつですか」
「ほうやな。人の繰り出さん週日がええな。それも梅雨どきかな。六月の真ん中へん」
 カズちゃんはカレンダーを見て、
「十五日から十九日が月金よ。おとうさんといくんでしょ?」
「ワシはいかんよ。アホらしい。人混みは好かん」
 千佳子が、
「六月九日から十二日が、名大祭で休講です。それでよければ私とムッちゃんがついていきます」
 カズちゃんが、
「火金ね、いいんじゃない。ついてってあげて」
 女将が、
「見物して泊まって、また見物して泊まって、午前中に帰るゆうのがええんちゃう? 九日の朝にいって十一日の午前に帰ろまい」
「そうしましょう」
 キッコが、
「今年受かったら、あたしもいく」
 千鶴が、
「うちもお休みもらっていく。万博、どうしてもいきたかったから。ええでしょ、ソテツちゃん」
「いいわよ、いってらっしゃい」
 直人が私の首っ玉にかじりつき、
「おとうちゃん、おやすみなしゃい」
「お休み。またあしたね」
 トモヨさんが直人の手を引いて歯を磨きにいった。きょうは幣原がカンナの子守役で連れ立った。
「じゃ神無月さん、あしたもランニングなしということで」
「はい。あさってから再開します」
「わかりました。庄内川まで」
「うん、太閤通を戻ってくる経路で」
 主人と菅野が出かけていく。睦子が、
「さ、キッコちゃん、少し勉強して寝ましょう」
「ほーい」
 スター千一夜。沢田研二、ジュリー? オールスターで始球式をした男だな。歌がへたな歌手には興味がない。山口のギターで銀河のロマンスを唄ったことがあったような気もするが、メロディに卓れた要素を見つけただけで、彼の声色をイメージして唄ったわけではない。食後の茶を飲みながら、店の女たちの話に耳を傾ける。
「家出してまで追っかけるファンがおるみたいやよ」
「知ってる。そういうことまでしてぼくのファンでいられると迷惑です。どうかテレビで観てくださいって言ったのよね」
 テレビで観てください? とてもじゃないが言えないセリフだ。確実に自分を〈なにさま〉と思っている。
「プロ野球選手になろうと思ってたけど、夢が破れたので、ぼんやりしてしまって、ダンス喫茶にいったら、歌う仲間に誘われて歌手になったって」
 あのヘナヘナ球でプロ野球? 中学時代に軟式をやっていて、高校時代は空手をやっていたというではないか。夢が破れたってどういう意味だ? 夢破れた中学時代にダンス喫茶にいったのか。歌手? 喉の強い変わった声だが、へたくそだ。たぶん、目をつけられたのはあの美男子ぶりだろう。世の中こぞって軽薄な音楽を求めていた数年間に、うまく波に乗ったのだ。楽器も弾けないボーカリストとして。
「なんでジュリーって呼んどるん?」
「ジュリー・アンドリュースのファンやって、自分でそう呼びはじめたらしいわ」
 あの天才歌手に真剣にあこがれる人間なら歌手は目指さない。テレビ芸能人というのは過去を糊塗する詐欺師ばかりに思えてくる。
 銭形平次が始まる。大川橋蔵という役者は、横浜の反町東映に入ってぼんやり眺めた新吾十番勝負でしか観たことはないが、シャキッとした台詞回しがなつかしくて、しばし見入った。いつ、どうして反町東映に入ったのだろうと考えるせいで、ストーリーに入っていけない。反町東映では青木小学校の恒例の鑑賞会で何本か教育映画を観たし、日曜日に出かけていって錦之助の七つの誓いも観た。しかし、新吾十番勝負? 好きでもない時代劇を観るためにお金まで出して入ったのはなぜだったのか。学校が明るいうちに終わったことは憶えている。金は常に十五円持っていた。浅間下の貸本屋に寄り、借りた本をランドセルにしまい、ター坊やテルちゃんたちの攻撃を受け、三畳間にたどり着いて、一合めしを炊き、ベッドに横たわって漫画を読む。卓袱台に置いてある二十円(さぶちゃんが遊びにきた日だけは五十円だった)を持って商店街まで惣菜を買いに出かける。土曜日は貸本はせず、三畳間にランドセルを置いてから保土ヶ谷日活に出かける。……学校の帰りにわざわざ時代劇を観に反町東映に寄ることはなかった。たとえ日曜日だとしても、時代劇は観にいかない。考えはじめたらキリがなくなった。
 カズちゃんたちが腰を上げたので、則武に戻って牛巻坂を少しでも書き進めることにする。ソテツが、
「あしたはおにぎりでしたね」
「いや、いらない。いつ雨が強くなって帰ることになるかもしれないから。近くに喫茶店があることもわかったし、帰るときにちょっとラーメンでも引っかけられるしね」
「じゃ、コーヒーだけでも用意します」
 イネが、
「一つずつでも持っていげじゃ。帰りの車で腹へるかもしれねし」
「ありがとう、そうする。じゃね、お休み」
「お休みなさい」
 座敷一同が笑顔で挨拶する。ジャッキが門まで送ってくる。頭を撫でて門の戸を引く。女四人と、大好きな夜道を歩く。孤独と愛を同時に感じる。
「子供時代の記憶って、謎だよね」
「どういうこと?」
「さっき大川橋蔵を見てて、青木小学校のそばの反町東映で新吾十番勝負を観たことを思い出した。大人に連れていかれたわけでもない。一人で観てるんだ」
「ふんふん」
「三沢で天兵童子を観たっきり、時代劇映画なんて観ようと思ったことはないし、お金を出して入った覚えもない。貸本と裕次郎映画に夢中だった時代だよ。どうやって映画館に入ったのかも思い出せないような、抜けの多い、うろ覚えの人生だ」
「子供って、こういうわけでこうしたという覚えなしに、いろいろなことをする生きものよ。あのときどうしてあそこにいたんだろう、なぜあの道を歩いてたんだろう。キョウちゃんよく言ってたでしょう、煎餅の耳の話。いっしょに横浜にいったとき、この店だって教えてくれたわね。どうしてこの道をお母さんと歩いてたのかわからないって。あの萎れた店に、あの忙しい働き者のお母さんが、煎餅の耳だけ買いに寄ったたとしたら、それはまちがいなく事件だったと思う。どうしてそんな事件が起こったのか思い出せないんでしょう? キョウちゃんがやさしい気持ちで鉄工場に迎えにきてくれることに、お母さんがとつぜん打たれたからよ。キョウちゃんが思い出せないのは、自分のやさしい気持ちなのよ。だからなぜってことになるの。あのころのキョウちゃんの生活の様子はよく話してくれたから、自分のことのように思い浮かべられるわ。学校の帰り道で貸本をして、家に帰ったらごはんを炊いて、おかずを買いにいって、ときどき母さんを迎えにいく。お母さんといっしょにごはんを食べ、ベッドで漫画を読む。週末には裕次郎を観にいく。ものすごい勤勉さと好奇心。勤勉さは責任感の強さだから、それがもとのできごとはよく憶えてるでしょうけど、好奇心は気まぐれなもの。いまの大川橋蔵にしても、どうしてだろうと思うのは、自分の好奇心の強さと広さを思い出せないからね。鬼の記憶力を持ってても、気まぐれな行動のぜんぶは筋道立てて思い出せないものよ」
 百江がうなずきながら歩く。素子が、
「五百野読んで、腰抜かしたわ。写真を見とるみたいやった。あれ以上思い出す必要ないで」
 百江が、
「克明ですよね。ほんと、心の中まで写真を撮ったみたい」
 素子はアイリスの前にたたずみ、
「あした千佳ちゃんが運転していくんやて? だいじょうぶやろか。雨やよ」
 カズちゃんが、
「だいじょうぶよ、スピードを出す子じゃないから」
 牛巻坂第一章。牛巻病院に駆けつけるまで。康男のベッドの様子、細部の手入れ。耳鳴り。寝られないほどではない。深夜、メイ子の帰ってきた物音が聞こえた。
         †
 二月二十六日木曜日。七時起床。四・五度。灰色の低い空。雨の気配。これは確実にくる。耳鳴りが小さくなっている。ルーティーン。軟便。風呂が沸かしてある。シャワーのあと湯船に浸かる。
 とろろ納豆、ベーコンエッグ、からし明太子、白菜の浅漬け、ジャガイモとたまねぎの味噌汁、どんぶりめし。不意に感謝の気持ちが胸に迫る。
「いつもありがとう」
「へんなの。たぶん昼あたりで練習中止ね。かならずお昼ごはんどこかでたべてきてね」
「うん」
 カズちゃん出勤。百江は今週と来週は早番なので、とっくにいない。メイ子は朝寝。実質、家に私一人。コーヒーを飲んでいるときにクラウン到着。睦子が助手席に乗る。八時四十五分出発。
「ダッフルとバットはトランクに積んであります」
「ローバーじゃなかったの」
「座席は大人が座るにはじゅうぶんな大きさなんですけど、狭い感じが疲れると思って」
 笹島から広小路通へ。市電と併走する。柳橋を左折。ここにも市電がいる。
「江川線ですね。西柳町、笹島中学校、慈光寺、泥江町」
 よく知っている。
「すごいね」
「練習のとき、よく乗り回しましたから」
「これを右折でしたね。これが桜通と」
 記憶力もいい。明道町方面への市電と別れ、レールのないアスファルト道を走る。睦子が手帳を見ながら、
「これを高岳の向こうの小川まで直進ね」
「市電と別れるとさびしいね」
 睦子が、
「あと四年で全廃です。昭和四十九年」
「廃止された市電の車輌はどうなるんだろう」
 千佳子が、
「ほとんど鉄材として再利用されるんでしょうけど、漁礁にするために海に沈めるものもあるみたい」
「海に!」
「そう、トラックの大きな荷台に乗せて名古屋港の埠頭に運んで、八十キロの沖に沈めるんですって。愛知県水産課に一台十万円で引き取られるって。CBCの夕方の十五分番組でやってた。七十二年前に生まれた市電も、あと四年でご臨終」
「悲しいね。七十二年前って、明治だよね」
「ええ、明治三十一年、一九九八年五月」
「法学部は数字を覚えるのはお手のものだね。いちばん最初の市電は、どこからどこまで走ったの?」
「笹島から武平町まで、いまの栄ですね。二・二キロ」
「名古屋出身のぼくより詳しい」
 睦子が、
「郷さんはあまり興味のないことは無視しますから。郷さんの胸にあるのは市電に対する郷愁だけ。名前のとおり」
 ポツン、ポツン、背高ビルが雑じる通り。雨はまだこない。イチョウの並木。菅野と走ってきたことのあるぼんぼり灯の桜橋。たしかここから引き返した。堀川を渡る。東桜町で市電と交わる。整然と間隔を保ったビル街。道路が広い。久屋大通。右にテレビ塔。ふたたび市電と交わる。
「高岳の信号です。ここから二つ目の信号ですから、一分くらいで小川です。高岳までしかきたことがないので、未知の領域になります」
 小川の信号左折。アスファルト道。睦子が、
「ずずずーっと道なりに東大曽根の信号まで」


         五十七

 千佳子が、
「カセットテープを録音できるテープレコーダーが、この一、二年でだいぶ進歩したんですよ。去年の三月にNHKはFM放送を始めましたし、高性能のラジオカセットレコーダーを持っていれば、いろいろ音楽も演芸もいい音で吹きこめます。クラリオンのカーオーディオセットをつければ、吹きこんだカセットテープを車の中でも聴けますよ。菅野さんが開幕までに北村席の車ぜんぶにつけると言ってました」
 そう言ってラジオのエフエム放送をつけた。いい音が流れ出してきた。
「ああ、耳が洗われる。リッキー・ネルソンのプア・リトル・フールだ」
 睦子が、
「ほんとにいい声ですね。いつごろの曲ですか」
「昭和三十三年、一九五八年。ビルボード誌のランキングナンバーワンになったいちばん最初の曲」
「音楽の分野になったら郷さんのお手のものですね」
「それと映画。本もあるわよ」
「うん、観ることも、読むことも、書くことも、何もかもよね。頼もしい趣味人」
 並木が潅木のように低くなる。市電が何本も現れる。
「平田町か……お父さんと菅野さんと三人、このあたりに市電できたな。ただ市電に乗ることが目的でね。赤塚だったか徳川町だったか、そんな名前の……」
 市電路に沿って走り、やがて、
「ありました。赤塚の電停!」
 睦子がうれしそうに叫ぶ。市電路を道なりにいく。東大曽根右折。レールに導かれて大曽根駅前を通り過ぎ、矢田町五丁目の交差点に到着。ここもレールが十字に交差している。
「着きましたよ! 九時十一分だから、ええと、二十六分」
 右手の向こう角に、照明灯のない大幸球場が五面の金網バックネットを突き立てて平伏している。こちら側右角には三菱の大工場群。右折して少しいくと、スタンドのない一塁側の更地にバスが一台停まっている。バスはちょうどベンチの陰になっているが、並べて入れるとファールにやられる可能性がある。三塁側の木立のあいだに適当な空間を探してクラウンを入れる。霧雨がきた。
「傘差してスタンド観戦は寒いぞう」
「膝掛け毛布を持ってきました。ソテツさん、やっぱりお弁当作っちゃったんですよ。お昼まで車に置いときますね」
「うん。じゃ、ちょっとロッカールームの様子を見てくる。しばらくここで待機してて」
 一塁側ロッカールームにいく。江藤を除いた全員がいた。太田が、
「江藤さんは、雨がこないうちにアップだけしとくって、いま走ってます。俺たちは神無月さんがきたらいけないからって待ってました」
「わかった、ぼくもいく。ザーッときたら引き揚げだね」
「はい」
 クラウンに告げにいく。
「だから、観れるだけ観てて。ウォーミングアップだけ。気温が五度前後だから、激しくはやれない」
「わかりました」
 二人、傘と毛布と雑巾を手に車を降りた。雑巾は座席を拭くためのものだろう。手回しがいい。私もダッフルを担いであとにつづく。回廊で右と左に別れる。ロッカールームでスパイクを履き、グローブを持ってベンチへいく。
「あと五!」 
 井上コーチの声だ。霧雨の中、ユニフォームとジャージ入り混じって黙々と周回している。大半の選手はこれがきょうのメインということだ。フェンス沿い一周は四百メートル強。あと五のかけ声は、すでに五周して二キロ以上走ったという意味だ。計四、五キロのジョギング。太田と菱川が先頭をいく。バックネット前では、五人ほどが黙々と素振りをしている。坪井や西田がいる。堀込と伊熊と井手がレフトボールの下で振っている。スタンドを見やる。こんな日にも見物人が数十人入る。たとえ練習でも、野球をする男の姿がいかに美しいかの証明だ。呼吸が清新になる。
 集団がホームベースに戻ってきたところで後尾につく。マウンドのあたりで井上コーチが見守っている。私はすぐに五十メートルダッシュに移る。先頭に飛び出すと、五十メートルジョギングに緩める。それを四回繰り返す。たった四百メートル、一周だけの緩急だが、四百メートルを一定のスピードで走るよりは肺にも筋肉にも数倍の効果がある(と信じている)。ただ、ラクではない。だからだれも倣わない。
 残り四周のジョギング終了。江藤が、
「金太郎さん、芝で三種の神器! 霧のうちにやっとかんば、背中が濡れてしまう」
「オッケー!」
 一、二軍の有志、外野の芝で三種の神器。片手腕立ては避ける。堀込と伊熊と井手はやらない。たがいに背中と腰を合わせてギッタンバッタンやっている。
「あの三人どうしたんですか」
 秀孝が、
「さあ、何か不満があるようですね。きのうもバッティング練習してなかったでしょう。おととしも去年も、ああいう態度です」
 谷沢が、
「それじゃ煙たがられるだろうなあ。きのう神無月さんに最後に手を振らなかったのも、あの三人だったな」
「井出さんはわかる気がしますけど、堀込さんと伊熊さんがね。とてもまじめな人なのに」
「金太郎さん、人のよすぎることは言わんとけ。どこがまじめね。能もなかくせに、クソのごつヤッカミば食って生きとるゴミ虫たい。暗か石の下に住んどるっちゃ。早く石ば持ち上げてクビにすればよか」
 太田が、
「伊熊さんと井手さんはドラフト一位と三位の同期入団で、仲がいいんですよ。去年の春わかりました」
「無理があるやろう、中商と東大ばい。仲などよくはなか。ホームランゼロの一割そこそこのバッターと一勝しかしとらんピッチャーぞ。似た者同士、ただいっしょに石の下におるだけたい。堀込も胸張らんといけんベテランのくせして、ひねこびおって。南海では二割七分打った中堅やったろうもん、プライドのなか。こげんこつ言うのも口が腐る。やめやめ」
 キャッチボールに移る。私はタオルで五十本シャドー。江藤、秀孝、戸板が倣う。肘を護るためだ。江藤とキャッチボール。四十メートル。手首を使ったいいボールがくる。肘も良好のようだ。これも五十球で終了。井手たちがまた三人で三角投げをして睦み合っていた。やめやめ。
「投、内!」
 岩本信一コーチの声。野手はベンチ前で素振り。どしゃ降りがきた。十一時になっていない。
「引き揚げー!」
 本多二軍監督の号令。全員近くのダッグアウトに駆けこむ。菱川が、
「江藤さんの言うとおり早めにやっといてよかったあ!」
 江藤は雨を見つめながら、
「きょうも電車なんか」
「いえ、北村席の車できました」
 視線をツイとネット裏に投げ、
「はあ、きょうもお人形さんがおる。どっちが運転するんね」
「少し細いほうです」
「千佳子さんか。金太郎さんのために免許とったんやのう」
 傘を差した女二人立ち上がって、毛布を小脇に丸め出口に向かうところだった。谷沢が、
「北村席にいつかおじゃましてもいいですか」
 戸板が、
「ぼくも」
「ぜひいらしてください」
「ワシらが連れてっちゃる。年に何べんかいくけん」
 太田が、
「遠征のときも寄ることがありますよ」
 菱川が、
「天国だぞ。神無月さんの棲家だからな」
 秀孝が、
「驚きますよ、ほんとに」
 みんなでしばらく雨を眺めていたが、強まる一方で止む気配がない。本多二軍監督がベンチ裏からやってきて、
「神無月くん、きょうはご足労かけたのに申しわけなかった。私たち寮組はめしを食って帰りますから、どうぞお先に引き揚げてください」
「は、勝手にきただけですからお気遣いなく。二日間広い場所で練習させていだいてありがとうございました。このまま上がらせていただきます。それでは三月一日に」
「オース!」
 江藤たちが声を上げた。
 ロッカールームで運動靴に履き替え、便所で小便をし、ダッフル担いで車に戻ると、千佳子と睦子が頭を突き合わせて市内地図を見ていた。千佳子が、
「もときた道に戻らないで、このまま市電道を南へ下がって今池に出ましょう。そこから広小路通に入ったほうが簡単で早く帰れそうです」
「その道でいいけど、ノンビリ帰ろう。どこかの空き地で弁当食べて、セックスもして」
「キャー!」
 二人でうれしそうな声を上げた。睦子が、
「きょうは二人ともだいじょうぶです」
「ティシュもあります」
「オシッコは?」
「してきました」
 浮きうき走り出す。千佳子が、
「お弁当の先に……」
 睦子が、
「いいえ、楽しみはあと」
「アイアイサー」
 菅野の口まねをする。雨の中の園児の集団。ワイパーが静かに動く。
「昼食前のお散歩ですね。少し雨脚が弱まったから」
 睦子が目を細めて眺める。市電と行き交う。銀杏並木の緑が鮮やかだ。近代的な背の低いビルの街並。マンション、事務ビル、飲食店、かなりの数の自動車ディーラーのショールームが雑じる。千佳子が、
「名古屋って、どこを走っても目にやさしいわ」
 また美しい音楽が車内に流れる。
「FMって、いい曲ばかり流すね」
 睦子が、
「これはなんていう曲ですか」
「フランキー・アバロンのヴィーナス。昭和三十四年、一九五九年。ぼくが名古屋に移ってきた年」
「伊勢湾台風」
「そう」
 古出来町(こできまち)こで交差点。今池に向かって少しビルの背が高くなり、マンションの数が増える。今池に入る。ごちゃごちゃビルが林立している見通しのいい交差点。ほていや、今池ボーリング、東名高速の案内標識も見える。千種郵便局。千佳子が、
「なかなか空き地はありませんね」
 私は、
「最悪、則武に帰ってすぐ」
 睦子が、
「そのほうが落ち着いてできます」
 千佳子が、
「でもスリルが」
「め!」
「エヘヘ、あん、グシュグシュしてきちゃった」
「私も。そうね、スリルもいいかも」
 明るい掛け合いだ。
「広小路通に入ります」
「今池には何度かきたけど、この通りが広小路だと知らなかった」
 市電とともに走る。国鉄千種駅。
「河合塾模試の帰りに、あの駅の出口で啄木を読んだ。すっかり電車に乗るのを忘れて」
「郷さんはいつも同じですね。静かに、そして夢中でたたずんでる」
 いい表現だと思った。千佳子が、
「千種駅の出口はあの駅舎と、地下鉄連絡路の改札の二箇所だけ。ホームが掘割式で低いところにあるのよ」
「きのう、電車が千種駅に入るとき地下に潜るような感じがしたのは、そのせいだったのね」
 線路にかかる橋を渡る。右多治見、左鶴舞公園、直進津島・栄の標示板。



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