七

 昼食後、百江といっしょに則武に戻り、ふと思い出して、ジャン・クリストフを開く。朝、二。遠征に持っていって読書の勢いをつけなくてはいけない。このままだといつ読み終えられるかわからなくなる。
 クリストフはある別荘の午餐に招かれる。別荘に向かう船中で、同年輩のオットーという金髪の少年に出会う。オットーはライン河畔の景物の歴史的な説明をする。その知識の深さを鑑(かんが)みて、クリストフはオットーの教養の高さを知る。オットーはクリストフが宮廷ヴァイオリニストであることを知っていた(あれ、ピアニストでなかったか? 何でも屋だったのかな)。クリストフもオットーが町の豪商の息子であることを知る。おたがいの家庭内における不遇をうなずき合うことから生じる共感。それが恋情に近いものへと発展する。正直言って、その部分のクリストフの手紙は気色が悪い。読みつづける気力をなくさせる。しかし読みつづける。実際、作中人物のオットーもクリストフの〈脅かすように唸っている苦しみのまじめさ〉に倦じはじめた。
 不思議なのは、繊細がうえにも繊細に、方正、勇気、堅忍の人として描かれてきたクリストフが、急に粗野で激情的な人間として描かれだしたことだった。さらに世間から同性愛を疑われたせいで友情が破綻するとなっては、不思議を通り越して滑稽とさえ感じた。
 朝、三に入る。クリストフ十五歳。異性愛の芽生え。近所に越してきた貴族のケリッヒ夫人(未亡人と書いてある)とその娘(十五歳くらいと書いてある)。ぼかしの多いプラトニックな描写が増えるだろうと思うと、これ以上読み進むのが億劫になった。しかし読み進む。定期演奏会場に二人の姿を見出す。茫然自失、演奏が機械的になる? なぜ? ロマン・ロランの感情表現の大仰さ、陳腐さが鼻につきはじめた。
 ケリッヒ婦人の招待。母に強いられいやいや出かけていくクリストフ。いやいや? 娘の名前はミンナと知る。二人の前でピアノを弾き、甚(いた)く気に入られる。食事を勧められ無作法なマナーで食う。ミンナは幻滅する。それを知らず、クリストフは食後もぐずぐず居座る。居座るか? いやいやだったんだろう? 婦人にやさしく促されて帰る。帰りぎわに握手でもしたのか、
『帰っていきながら、手の上には花のように繊麗な指先のこまやかな接触を感じていた。そしていまだかつて嗅いだことのない美妙な香りに包みこまれ、恍惚となり、ほとんど気を失いかけていた』
 この〈ウソだろう〉という大仰で陳腐な美文を追いかけていくことに気が滅入る。しかし追いかけなければならない。朝の二では、オットーに対しても同じような描写があった。男と女に同じような熱情を抱く? 大げさな感情描写だが、私が冷酷なので大げさと感じるのだ、これこそ普遍的な感情なのだ、だからこそ名作と呼ばれるのだ、と無理にでも納得しなければ、読み進める意欲を回復できない。
 関心を装いながらクリストフをやさしくもてなす婦人、家畜ほども気にかけていないクリストフを冷淡に扱うコケティッシュな娘。二人の美しい女のやり方にクリストフは面食らった。おいおい、面食らうか。何を期待していたのだ。
 三時。きょうはここまで。疲れた。仮眠。
         †
 電話で起こされた。四時十分。一時間ぐらいしか寝ていないが目覚めはいい。百江が私に受話器を差し出しながら、
「菅野さんからです。河北新報のかたがお見えになられたとかで」
「あれ、予定より早いな。……もしもし」
「あ、菅野です。いま戸館さんが北村席にきてます。四日にくる予定だったが、遠征前であわただしいだろうからということで、社長命令で早めたということでした。三時過ぎに小牧から電話があったときは驚きました」
「わかりました。すぐいきます」
 茶封筒を二つ持ち、百江と出かける。
「いつの間にそんなに書いてたんですか?」
「こつこつね。暇を見てやれば、どんなものでも仕上がる。まだぜんぶは仕上がってないけど」
 ジャッキを連れた幣原といき遇う。ジャッキの頭を撫で、顔を舐めさせる。百江が、
「ご苦労さま。新聞社の人が見えてるんですって?」
「ええ、横山さんみたいな美男子ですよ。武者顔なので直ちゃんが怖がって逃げちゃって、優子さんと座敷の隅でひっそりパズルしてるんですよ。じゃ私、金時湯のほうまで散歩させて帰ります」
 数寄屋門を入る。蒲団を叩く音がしている。出勤していくアヤメの遅番組と飛び石ですれちがった。丸や近記や木村の顔がある。彼女たちは表情を変えず杓子定規に辞儀をした。
「あした、四人が出ていくそうです」
「そう……。何かがしっくりこなかったんだろうね。まともな神経だと思う。何の不平不満もなく自分の道を迷わず歩んでるカズちゃんや睦子たちを見てたら、ふつうはいやになる。家庭の女というのは、もっと男にかまわれてるからね。男だけがかまわれて女はかまわれない生活。その女が一人の男に一心不乱に尽くしてる。へんだと思うのがあたりまえだ。その意味で、家庭は迷いのない道だ。どちらも平等にかまわれる。……そういう家庭で幸せになってほしいな」
「へんに思うのは、人間の価値を平等に見てるからでしょうね。神無月さんと自分の価値を平等に見るなんておこがましい。それに、虐待されてるわけじゃなし、夫婦ほど頻繁でないにしても、この上なくやさしくしてもらって……。それぞれアパート借りて暮らすんでしょうけど、二号さんみたいにならなければいいですね」
「割り切って暮らせば、それも幸福だよ」
「神無月さんでは割り切れなかったんでしょうか」
「女の数が多すぎる。二号は文字どおり、女は二人しかいない。男を独占できる割合が大きい」
「……おかしな理屈ですね。相手の男が一人なのは変わらないでしょう。それも心底愛してるわけではない男と関係するなんて。結局、愛より独占欲なんでしょうか」
「彼女たちに関してはそうだと思う」
「独占欲の強い人は口が軽いですから、神無月さんのことを言い触らさなければいいですけど」
「そこまでぼくは怨まれていないと思うよ」
 居間で、主人と菅野と女将が戸館と歓談していた。トモヨさんが彼らの背中に控えている。直人と優子は姿を消していた。離れの子供部屋へでもいったのだろう。たしかに見方によっては、戸館の顔は奴凧のように見えなくもない。ステージ部屋ではすでに女三人が真剣に勉強している。戸館は立ち上がって頭を下げ、
「どうもおひさしぶりです。東大ファンクラブの集まり以来ですね。予定より早く押しかけてきました。お忙しいところをほんとに申しわけありません」
「だいじょうぶですよ。手入れした原稿ができ上がってましたから」
 菅野の脇にあぐらをかき、封筒を手渡す。
「おお、二回目まで」
「はい。牛巻坂という題名です」
「いい題名ですね」
「三章まで書いてあります。次回から一章ずつお渡しします」
 戸館は一つ目の封筒から原稿の束を取り出し、第一ページに眼を走らせる。ぶつぶつ呟く。
「転校の初日。午後から算数の試験があった……。すばらしい書き出しだ」
 すぐに原稿を封筒に戻し、
「原稿用紙七百枚程度の書き下ろしのつもりでお願いします。単行本だと三百ページ前後になります」
「さあ、最終的に何枚になるか。書き上げたわけじゃないから、そのへんは保証できません。幕切れの原稿は何月でもいいんでしょう?」
「はい、延びる分にはいくらでも。読売新聞に連載した松本清張の『砂の器』は一年でした。一日掲載分は、だいたい原稿用紙三枚半と思ってくださってけっこうです。土日も掲載します。日曜日掲載分は長くなります。一日分の区切れは編集部のほうでやりますからご心配なく。新聞休刊日には掲載いたしません。一月二日と、ゴールデンウィークの五月六日を除いて、毎月一回、月曜日です。挿絵画家はまだ未定ですが、週刊新潮の表紙を描いていらっしゃる谷内六郎さんにお願いしようと思っています。連載終了後、五カ月以内に河北新報社から単行本として刊行されます。稿料という形でなく、まずお礼金として五十万円を一両日中に振り込みます。その後は出版されてからの印税ということになりますが、毎年三月と六月と九月と十二月にまとめてお支払いいたします。税率は最高限の十パーセントということで」
「ご自由に」
「四月一日水曜日から連載開始となります。きょうは四月分をいただく予定でしたが、五月分までの原稿をいただきましたので、四月末から五月上旬までに六月分を仙台本社へ郵送していただくということになります。ひと月程度早く原稿を入手しないと、校正や印刷が間に合わないので」
「わかりました。努力します」
「それでは著者お一人の写真を撮らせていただきます」
 庭に降りて、草花を背に写真を何枚か捕った。座敷での写真も何枚か撮った。それから戸館はふたたび封筒から原稿を引き出して、冷めかけたコーヒーを手に数枚読んだ。近寄れない雰囲気だった。やがて顔を挙げ、
「取り付きからすぐに傑作とわかりましたが、序章を読んであらためて大のつく傑作と確信しました。太宰以来二十年ぶりに、わが社の目玉となるでしょう。感謝いたします。では契約のほうを」
 薄いカバンから二、三枚の書式を取り出し、
「こちら、執筆・出版契約書です。署名なさってから、ここと、ここと、ここに押印をお願いします。まずご一読ください」
 出版権設定第×条、云々、契約の存続期間第×条、かんぬん。
「校正後の誤字脱字はこちらの責任、書き終えたらさよなら、引き止めはしないという契約でしょう?」
「はい、そのようなものです」
 戸館は微笑する。
「掲載しているあいだは、おたがいに義務を果たせばいいだけのことですね。読む必要はありません。ここと、ここと、ここですね」
 トモヨさんが朱肉をつけた判子を差し出す。
「お嬢さんから預かりました」
 署名し、判子を捺した。戸館は茶封筒と書式をそっとカバンにしまった。
「名作の香り高い作品です。続五百野という感じの作品で、読者が待ち望んでいたものでしょう。広く愛読されること必定です。ありがとうございます。今後の執筆予定はございますか?」
「ありません」
「失礼を申しました。野球で忙しいに決まってますね。じゃ私はこれで引き揚げます。とつぜんお訪ねしてご無礼いたしました」
 畳に手を突いて武者面を下げ、カバンとカメラを手に立ち上がる。表でジャッキのうれしそうな鳴き声がした。散歩から帰ってきたのだ。
「あ、それから、あしたから掲載終了まで弊紙二部を北村席さまにお届けいたします。これを機にスポーツ関連の記事にも力を入れる計画でおります」
 菅野が、
「空港までいらっしゃるんですか」
「いえ、東京支社にこの件を連絡してから、飛行機で羽田から帰ります。名古屋からは新幹線に乗ります」
 菅野といっしょに名古屋駅の新幹線改札まで戸館を見送った。戸館は私と握手しながら、
「並でない才能です。授賞辞退など何ほどの傷にもなりません。かならずわが国を代表する作家になります。どうかこつこつ執筆をおつづけください」
「はい」
 感懐もなくうなずいた。菅野が、
「急ぎの連絡事項が出てきましたら、ファインホースのほうへお伝えください」
「わかりました。今後ともよろしくお願いいたします」
 戸館は辞儀を繰り返しながらホームへの階段を上がっていった。彼の姿が階段の端に消えると、私と菅野はおのずと握手した。
「さ、あしたは広島戦だ」
「外木場でしょう。リリーフは安仁屋、白石、大石」
「最初から一軍登録の新人ピッチャーは?」
「いません。野手もゼロ。今年の広島は不作です」
「豊作のチームは?」
「うーん、中日以外はみんな不作なんですよ。巨人は三人かな、ピッチャー小坂、野手阿野、萩原。大洋は一人、ピッチャー間柴。阪神は二人、ピッチャー上田、野手佐藤。ヤクルトは四人、ピッチャー西井、外山、野手大矢、中村。この中の何人が芽を出しますか。中日は六人、ピッチャー戸板、松本、渋谷、野手谷沢、西田、坪井。大豊作です」
 確信が持てるのは戸板と谷沢だけだ。
「さあ、素振りして、めしだ」
「はい。マツダから七月のオールスター明けの撮影を打診してきました。カペラという新発売の車だそうです」
「受けてください。中介先輩の会社ですから」


         八

 北村席に戻ると、腰を下ろしたジャッキが座敷のほうを眺めている。一家に囲まれた客人が座敷の畳にあぐらをかいていた。直人を膝に抱いている。素振り中止。
「臼山さん!」
「金太郎さん、ひさしぶり! そちらがファインホースの菅野さんですね。テレビでよくお見かけしてます」
「金魚のフンですよ」
「それはない。神無月の心の支えになってる感じでした。私、毎日新聞スポーツ部の臼山と申します。二年目のペーペーです。よろしくお願いします」
 六時に近い。またコーヒーが出る。直人が私の膝に移ってきた。主人が戸館に、
「もうすぐめしですよ。食べていらっしゃい」
「いえ、少しだけお話をしたらおいとまします。暇のない仕事でして、ちょっと抜け出してきたもので。金太郎さん、ドラゴンズには番記者、番カメラマンているよね」
「さあ」
 主人と菅野が顔を見合わせて笑う。菅野が、
「神無月さん、どこの球団にもいるんですよ。個人的に親しそうに近寄ってきて話を聞く新聞記者です」
「はあ、そう言えば。水原監督や江藤さんにパッパッと近づいていく記者がいますね」
「じゃ、金太郎さんにはいないわけだ」
「いません。ぼくは気味悪がられてるし、近寄られると逃げるから」
「じゃ頼みやすい。……できればでいいんだけど、俺が金太郎さんに近づいていっても人払いを食わされないように、チームの人に根回ししてほしいんだ」
「お安い御用です。大学野球部の先輩だと言います」
「ありがとう! 俺が中部本社にいるあいだ『金太郎・一試合一言』というコラムを書きたいんだ。中日球場で試合があるたびにね。一般紙では初めての試みだと思う。質問は用意するから答えてくれるだけでいい。インタビュー料はもちろん払う」
「いりませんよ。どうせ、帰りぎわに一、二分でしょう。その番記者たちだって、一円も払ってないはずですよ」
「図々しいけどそうなんだ。うちは図々しくないから、たぶん払うことになる。とにかくよろしくお願いします」
「まかせてください。ただ、身辺事情はいっさい訊かないということで」
「当然だ。そういう意味でも金太郎さんが英雄だということは、俺たち旧友には周知のことだ。としても、わざわざ一般の人たちに知らせるのはもったいないし、騒動の種にもなるからね。野球のことしか訊かないから安心してくれ」
「それから、シーズン終わりまで毎日新聞をここに配達するよう手配してください」
「ああ、すぐ手続して、近所の販売店から永続的に届けさせるようにする。新聞代はいらないよ。じゃ、みなさん、これで帰ります。この手柄をさっそく上に報告しなくちゃいけないんで。どうもおじゃましました。キッコさん、聞こえてましたよ。冴えた頭です。受かりますよ」
 千佳子とキッコがうれしそうにクスクス笑った。
「鈴木、たまには毎日ビルに顔を出してくれ。何人友だち連れてきてもいいぞ。電話くれればセッティングしておごるから」
「はい、夏季休暇に入ったら連絡します。臼山さん、せっかく法曹界を見かぎったんですから、社会の立派な木鐸(ぼくたく)になってくださいね」
「おお、まかしとけ」
 直人を抱き上げて女将に預け、門まで臼山を送った。来年はファンクラブに出ない、と言うと、
「たった一年でみんな変わったろう。変わらないのは、あの会に出てなかった俺と横平と中介、それから、しっかり進行役をした白川ぐらいだ。……神無月、おまえは自由に生きろ。細かいことは黒屋から聞いて知ってる。おまえのことは何を聞いても驚かんぞ。ぜんぶおまえらしい。中日新聞がおまえを守ってるように、毎日新聞もおまえを守る。スキャンダラスな記事はぜったい書かない。とにかくおまえは野球一筋に生きてくれ。じゃ、また。たまに顔出すよ」
 臼山は門前から革靴の足どりも軽く帰っていった。彼とすれちがうようにカズちゃんたちが帰ってきた。
「だれ? 引き締まったからだしてたわね」
「野球部の先輩の臼山さん。六番ファースト。いま駅前の毎日新聞にいる。東大法学部という看板を背負ってたけど、司法試験を受けずに新聞社に入った青雲のオノコだ。最後の別れのときに、みんなでチョンチョンとぼくにキスしていったんだけど、彼だけがいちばん長かった」
「大切な友だちね。大事にしてあげましょう」
 おでんの大鍋が二つ並んだ。それとホッケの半身焼き。大人の皿の縁には洋ガラシがこすり付けられた。ハンペン、チクワブ、さつま揚げ、玉子、嫌いなものだ。それ以外はすべて食った。特にがんもどきに味が滲みていて、いいおかずになった。直人はハンペンを好んで食った。カンナはいつものプレート。女たちはチクワブが好物のようだった。カズちゃんはホッケを二枚も食った。腹のくちた直人が、畳に四つん這いになって一人で百ピースパズルを始める。ビールが出る。女たちには茶。主人がコップを含みながら、
「四日に大門の寮から女が四人くるでな。丸たちと入れ替わりや。もとの北村席の生き残り。年季明けまでに二、三年の連中ばかりやから、和子ぐらいしか顔を知らんやろう。気使わんでええぞ。やつら、あっちの寮に入るまではここで暮らしとったで。この家には住み慣れとる。自分たちで部屋決めて、勝手に寝起きするやろ」
 女将が、
「信子やルリ子も北村を出て暮らすようになったら、いろいろ不便やろな。神無月さんのお手がつかんようになったからヤケ起こしたんやろか。お手がついとらんかったころを思い出せばええのに。そんなことでは、新しい男とうまくいくとは思えん」
 カズちゃんが、
「一度でいいと思ってたのが、もっともっとになったのね。キョウちゃんに恋い焦がれてたことを忘れて、性欲のほうが強くなっちゃったからよ。キョウちゃんに二度三度としてもらえるのはよほどの女じゃないと。女のからだなんて似たようなものでしょ。だから世間の男は、みんな同じだと思って浮気するわけだし。よほどというのは、からだのことじゃなくて、ココのことよ」
 こぶしで胸を押さえる。
「ココもないのにからだだけでこられると、キョウちゃんはゲッとなっちゃうのね。ココが気に入れば、その女の性欲も気に入ってくれる。ココは短い時間ではなかなか汲み取れないから、ときどきキョウちゃんもポカをやっちゃうの。ポカに気づいたら足が遠のくでしょ? そういうことを考えると、キョウちゃんにはからだの浮気はないってことね。心を気に入る気持ちは一途だから、もちろん心の浮気もない。キョウちゃんに気に入られた女は一生安泰よ」
 キッコが、
「あの四人がポカだって神無月さんは気づいたん?」
「キョウちゃんは気づかないわよ。あまり関心のない女の心には最後まで気づかない。男ができた、そういう人は自分のほかに三人いる、って丸さんから知らされて初めて、あっそう、となったわけ。その人たちの心の基盤が愛情じゃなくて、性欲か安定だってわかったってこと。その前からその人たちから足が遠ざかってたのは、そんな気配を察してたからでしょう。それとも、ただ気に入らなかったかのどちらかね」
 素子が、
「お姉さん、めずらしく怒っとる。三上さん、台所におるよ。聞こえてまうがね」
「いいじゃない、ほんとうのことなんだから」
 主人が、
「あした何時ごろに出るんかいな」
 菅野が、
「十時から三時にかけて、同じ運送屋が二度くるみたいですね。四人とも中島町か日吉町あたりのアパートらしいです」
 おさんどんの幣原が厨房を振り返って、
「三上さんは笈瀬通の大誠寺のそばです。いつお子さんが出てきてもいいようにって。……彼女なりに思い切ったんですよ」
 トモヨさんが、
「もの心ついてからここにきた子が、こういう環境に慣れるのはたいへんでしょうね。三上さんの気持ちもわかります。子供をとるか恋人をとるか。私はもろ手を上げて恋人をとりますけど。フフフ」
 睦子たちがにこやかに笑った。女将が、
「ルリ子のそういう事情はようわかるけど、ほんとに男がおるんかいな」
「いないようです。自分の部屋を千鶴ちゃんに譲って、いつも厨房の休憩部屋で寝泊りしてます。男の人と付き合う気持ちになんかなれないでしょう」
 優子が、
「丸さんに男の人がいるのは確かです。アヤメに何度かその人がきてますから。あとの三人はよくわかりません。木村さんも近記さんもアヤメではそんな様子はぜんぜんありませんでした。丸さんの都合のいい思いこみかもしれないですね」
 女将が、
「やっぱりほうか。信子が神無月さんに失恋した腹いせやろ。信子が出ていくと言い出したんで、ほかの三人も信子とついついツレションしたんやな」
 主人が、
「しずかとれんはクニの仕送りがきつくて、男どころやないはずや。外に出たら悲しい目を見るぞ。ここに帰りたいて言ってきたら、戻してやれ」
「そりゃそうするつもりやよ」
 カズちゃんがやはり厨房のほうを見ながら、
「三上さんは本気のようね。いいんじゃないかしら、年季も明けたばかりだし、厨房のお勤めは収入が安定してるし、あのあたりは住宅街で環境がいいしするから、子育てには最適ね。トモヨさんが言うように、北村じゃ育てられないもの。でも、いつだったか、子供を呼ばないことにしたって言ってなかったかしら。クニのお爺さんお婆さんに預けるのがいちばん幸せだって。やっぱり子供は口実だと思うわ。ここを出るための」
 七時半。パズルに飽きた直人がトモヨさんといっしょにお休みなさいを言う。直人を抱き締め、
「お休み。またあした」
 トモヨさんの唇にキスをし、イネに抱かれたカンナの額にキスをする。
「みんな幸せそう。幸せって胸を締めつけるわね」
 トモヨさん母子が風呂にいく。カンナを入浴させる役回りの女(イネか幣原のことが多い。きょうはちがう住みこみ女だった)があとにつづく。主人たちが見回りに出、女将は帳場に入る。ここまではいつもどおり。ふだんはここから一時間ばかり、賄いたち(ソテツ、イネ、幣原、千鶴、三上、住みこみやかよいの女たち)の食事時間になる。そのほかの者たち(アイリス組、中番までのアヤメ組、端のテーブルで食事をしていた名前も知らないトルコ嬢たち)はテレビタイムになる。そして、食事を終えた賄いから順に厨房のあと片づけに入る。ところが今夜は、キッコたち三人が幣原の剥いたリンゴを齧りながらステージ部屋で勉強態勢についているので、カズちゃんたちは気を差して、座敷から居間のテレビの前へ移動し、ガラス障子を閉める。私は座敷に残って、縁側のガラス戸から夜の庭を眺める。やがてかよいの賄いたちが帰り、そこへアヤメの遅番組が帰ってきて、片づけの途中の三上と千鶴がおさんどんをする。キッコがそっと音楽部屋の襖を閉めた。私は箸をとった女たちに知らぬふうに背中を向けて庭を見ている。丸が私の背中に涙声で、
「神無月さん、長いあいだやさしくしていただいて、ほんとうにありがとうございました。一生忘れられない思い出になりました。あしたここを出ます」
 私は振り向いてあぐらをかき、
「元気でね。『みんな夢の中』はいい思い出だ。人間の目指す道はただ一つ、ひたすら愛して、ひたすら愛される。それを実現してね。実現したと思ったら、ここに遊びにきてみんなに報告してください。ぼくはここで年をとって、ここで死にますから、いつでもくればいい」
「はい、そうします」
 三上は黙っている。木村が、
「代用品でいるより、正規品でいたいんです。ずっと代用品の生活をしてきましたから」
 近記が、
「子供も生みたいし、育てたいし、家庭の団欒というのも味わってみたい気がするの」
 予想どおりの話は親身になって聞けない。サッサと切り上げよう。
「よくわかります。これまでこちらこそありがとうございました。じゃ、帰ります」
「野球、がんばってください」
「精いっぱいやります」
 主人と菅野が帰ってくる。食事を終えた三上たちが引き揚げる。私はキッコたちの襖に声をかけた。
「七時起きだろ。十一時までには寝たほうがいいよ。あした何時の電車?」
 襖を開けたキッコが、
「朝八時三十一分の東山線。試験会場に九時十分に着く。試験開始まで三十分あるさかい、余裕でっせ」
「やっぱり七時起きだね。どういう時間割?」
「九時四十分から十一時二十五分まで英語、十二時半から二時まで数学、二時半から四時半まで日本史と世界史。あさっては、九時四十分から十一時二十五分まで国語、十二時半から二時半まで物理と地学」
「重労働だな。二日間しっかり睡眠をとらないと」
「うん」
 千佳子が、
「車でいくのは渋滞が怖いけど、帰りはムッちゃんと迎えにいきます。二日間とも」
「そのほうがいいね。明るく帰ってきたほうがいい。じゃお休み」
「お休みなさい」
 三人が手を振る。


         九

 私は廊下に出て居間に入った。主人たちは隣の帳場へいって女将に何やら報告しがてらしばらく談笑している。あしたここに入る女たちのことを話しているようだ。
「月曜ロードショーか。何やってるの?」
「赤い空。昭和二十七年のアメリカ映画。リチャード・ウィドマーク」
「デヴィッド・ジャンセンに似た男だね。何、赤い空って」
「降下消防士の目に映る空。空からパラシュートで降りてきて、山火事を消す森林警備隊の話よ。ウィドマークがとても人間くさくて格好いいの」
 主人と菅野が居間を覗いた。
「あ、まだ起きとる。あしたは試合ですよ。早く寝てください。ワシは風呂入って寝る。おトク、風呂入るぞ」
「はいはい」
 菅野が、
「じゃ、あした八時に。日赤までにしましょう」
「オーケー」
 すっかり片づけを終えた賄い全員が仲間に加わり、十分、十五分の娯楽に浸る。カズちゃんは映画を途中に立ち上がり、
「さ、私たちもそろそろいきましょ」
「いこまい」
「優子ちゃん、あしたはうんと楽しんでらっしゃい」
「はい、めちゃくちゃ楽しんできます」
「幣原さん、ソテツちゃん、二日間キッコちゃんをよろしくね」
 ソテツが、
「毎日おいしいお弁当を持たせます。腹七分目の量で」
 幣原が、
「ちゃんと七時に起こしますよ。だいじょうぶです」
 玄関の犬小屋に向かって、
「ジャッキ、お休み」
「フォッ」
 律儀に門まで送ってきて、いさぎよく戻っていった。夜道で素子が、
「ほかの男ゆうんはわかるんよ。うちも自分のからだを確かめたいと思ったことがあったでね。何も起こらんかった。安心してキョウちゃんにそのことを言ったわ」
 メイ子が、
「起こってたら?」
「自分のからだを馬鹿にして、またキョウちゃんのところに戻ったやろな。好きでもない男に感じるからだなんか、要らんものやもん。要らんものなら、大好きな男のものだけにして、要るものにしてほしいもん。ね、どっちにしてもキョウちゃんから離れる気にならんやろ。二度とほかの男は必要ないわけやから」
「キョウちゃんを愛してれば、そうなるわね。愛してなければ?」
 百江が、
「自分の浮気や子供を口実にして、ただ離れたいだけになります」
「そ、単純な結論よ。愛なんて回りくどい哲学は要らないから、からだだけを求めてくれる男がほしいの。感じるのはキョウちゃんほどでなくてもちっともかまわない。ちょっとした性欲を満たしてくれればそれでじゅうぶん。愛してないから快楽にもまじめになれないわけ。それで世間並の安定が得られたら言うことなし」
「快楽にもまじめになれないという言葉、よくわかります。私もむかしはそうでしたから。……愛がなかったからですね」
「トモヨさんを見て。キョウちゃんを死ぬほど愛して、まじめに快楽を楽しんだから、あんな美しい子が生まれたのよ。真剣さの賜物。私たちにもああいう美しい子は生まれるわ。でも私は生まない。キョウちゃんは男らしさとかわいらしさを持ってる私の赤ちゃんだから、ほかの赤ちゃんはいらないの」
 素子が、
「世間のほとんどの人は、不まじめに抱き合うとるんやね。だからセックスする人を自分の同類と思って白い目で見るんやね」
「そこは永遠に解決されないことよ。百万年かけて説得しても、愛も、真剣なセックスもわかってもらえないわ。だから、わかる人間だけでうなずき合って、あきらめながら一生口をつぐんでるしかないの。長いことじゃないわ。たった八十年よ」
 夜道に四人の靴音が涼しく響く。柔らかな風に春のにおいをはっきりと感じる。
         †
 三月三日火曜日七時起床。曇。朝勃ち。ルーティーンを後回しにして、カズちゃんに呼びかける。
「カズちゃーん、いっしょに風呂入るよ!」
「はーい」
 下に降りてすぐ風呂へいき、性器を洗い、歯を磨く。台所でメイ子と立ち働いていたカズちゃんが全裸で湯殿に入ってくる。抱き締める。口づけをする。指で小波を与え、後背位で挿入する。すぐに小さな潮が寄せる。顔を振り向かせて口を吸う。
「愛してるよ、カズちゃん、誕生日おめでとう」
「あ、ありがとう、うーん、イク! 死ぬほど愛してる」
 ふだんより私の腰使いが激しい分、カズちゃんのアクメも激しく連続的になる。絶妙の収縮を繰り返し、包みこみ、箍のように締めつける。
「いい日よ、うんと出して、ううーん、イク! イクイクイク、いっしょに!」
 痛いほど吐き出す。
「ああ、あー、イクウウウウ!」
 乳房を握り締め、心ゆくまで律動する。カズちゃんも心ゆくまで痙攣する。大きな潮が去り、結び合わさった部分に余韻の波を感じながら、ゆっくり振り向いた顔と唇を重ねる。ソッと引き抜くときのさざ波を笑い合いながら、胸を合わせて抱き合う。
「おめでとう」
「三十六歳よ」
「妖怪のようにきれいだ」
「ありがとう」
「結婚まで十四年」
「まだそんなことを言ってる」
「約束だよ」
「はい、守ります」
 いっしょに湯船に浸かる。美しい瞳を見つめ、笑う口もとに覗く美しい八重歯を見つめる。美しい乳房を握る。私の永遠の宝。
「私のキョウちゃん―」
「ぼくのカズちゃん」
 長い口づけをする。泣きたくなる。カズちゃんはとっくに泣いている。
「ごちそうさま。お腹いっぱいになっちゃった。ごはん食べれるかしら」
「カズちゃんならだいじょうぶ」
「ま、憎たらしい」
 二人でからだを拭き合って風呂を出る。
「下着は?」
「ランニングのあとで替える」
 カズちゃんが服をつけているあいだにジャージを着る。小便をする。大便をしようとしても便意がこないので、ランニングのあとに回す。居間に電話が鳴った。あわててカズちゃんが出る。
「今夜、節子さんとキクエさんがくるわ。今週は日勤で朝八時から夕方の四時半。二人とも安全日ですって。先月きたかったけど、二人の安全日が重なるまでがまんしたって言ってた。ごはんを食べて、お風呂入って一休みしてから、七時くらいに則武にくるって」
「わかった。夜のうちに帰るね」
「そう思う。北村席のごはんを食べにきたらって言ったんだけど、新しくなった院内食堂がけっこうおいしいから、そちらですませるって」
 キッチンテーブルにいくと、メイ子が食卓の用意をしながら目を潤ませている。
「あらメイ子ちゃん、どうしたの」
「人間の理想を見ているようで……」
「ありがとう。キョウちゃんの理想なのよ。きのう廊下に聞こえてきたの。人間の目指す道はただ一つ、ひたすら愛して、ひたすら愛される」
「はい。私も聞き耳を立ててました。……誕生日、おめでとうございます」
「三十六歳。薹(とう)が立ってきたわ。さ、食べましょう。ごめんね、シャケ焼くの途中だったわね」
「おいしそうに焼き上がりました。大根おろしは少し甘いかも」
 卵焼き、おろし納豆、ウインナー、ナスの味噌汁。完璧だ。まず納豆でふつうの茶碗を一膳。そのほかのおかずでどんぶりを一膳。
「すごい食欲。私の倍はあるわ」
「それはない。せいぜい一・五倍。あ、きた」
「いってらっしゃい」
 トイレに駆けこむ。快便。尻シャワー。キッチンテーブルで笑い声。
「キッコちゃんぜったい受かると思うから、バリッとした洋服と小物を買ってあげようと思うの」
「きれいな人ですから、少し派手めのものがいいと思います」
「派手なものとシックなものと両方」
 あと片づけの物音。
「ああ、すっきりした」
「下痢?」
「いつもの軟らかいやつ。スッと出た」
「足の爪切ってあげる。伸びてたから」
 居間で、カズちゃんが足の爪を、私が手の爪を切る。メイ子は耳の入口だけに綿棒を当てる。
「今週は順番で歯垢を取りにいかなくちゃ。キョウちゃんも、十八日の平和台にいく前にいってらっしゃい」
「うん」
 コーヒー。中日新聞と中日スポーツ。東京中日新聞を東京中日スポーツと名前を替えたとある。東京中日新聞という新聞の存在を知らなかった。英領ローデシアが共和制移行を宣言。意味不明。そもそも、地球上のどこにある国だ?
 カズちゃんとメイ子出勤。バットを振りに庭へ出ようとして玄関へいくと、運動靴がクタクタになっている。下駄箱に五つ積んである運動靴の箱を一つ下ろし、新品を取り出して履く。庭で素振り百八十本。菅野の声。
「やってますな。いきますよ」
「はい!」
 日赤に向かって走り出す。菅野が、
「すっかり大学紛争も収まりましたね」
「はあ、そうですか。どうしたんですか、急に」
「角栄、角栄って騒がれてるでしょう」
「はあ……」
 しょっちゅうテレビに出てくる図太そうな日焼け顔を思い出した。
「自民党幹事長の田中角栄です。いま総理大臣より権力があると言われてる男です」
「そうなんですか」
「小学校卒の権力者です」
「だそうですね。この肩書好きの日本ではめずらしい」
「小卒は彼のトレードマークで、いろいろな場所で躊躇なく口にしてます。高等小学校のころから勉強家で、卒業してから土木工学やら商業実務やらを専門学校にかよって学んだようです。早稲田大学の講義録を手に入れて建築学も学んでます。二十歳のときに満州で兵役に就いてますが、事務能力や達筆を買われて、たった一年で上等兵に昇進してます。肺炎に罹って本国に送還されて除隊。二十三で土木建築事務所を立ち上げ、二十五で土建会社を設立したというんですからすごいです」
「そこからどんどん成功していくんでしょう?」
「そうなんです。親しく付き合っていた理研(リケン)の工場建設を請負って、昭和二十年の二月に朝鮮に渡るんですが、いまの金で百五十億円ですよ。大金持ちになりました。渡満してすぐロシアが参戦して朝鮮に南下してきた風雲を察して、資産の一部を朝鮮政府に賄賂として贈り、安全な軍艦に乗せてもらって帰国したんです。玉音放送前と言うんですから、機を見る勘のよさに驚きます」
「能力と精力の二本立ての人物ですね」
「そのとおりです。たゆまぬ勉強で六法全書に精通し、初当選から十年間で二十五の議員立法を成立させてます。国土総合開発に関するものばかりで、すべて国民を豊かにするという観点からのものばかりです。建築士法、住宅金融公庫法、公営住宅法を手始めに、ダム法、道路法、港湾法、河川法、さらに高速道路法、新幹線整備法、地域開発法となっていくんです。そんじょそこらの政治家ではまねできませんし、これまでまねできた政治家は一人もいません。彼は役人が法律を作るべきではない、立法府の政治家が役人の力を借りずに作るべきだという固い信念を持ってます。そう信じて猛勉強してきたんです。精力と言えば、若いころから女性経験も豊富で、戦地へも何通もラブレターをもらってたことは有名です。帰国してからは政治家への献金が始まります。政治というものに深い興味があったんでしょう。二十八歳のとき、多額の献金に喜んだ大麻唯男(おおあさただお)の要請で新潟二区から立候補したんですが、奮闘空しく落選しました。大麻は田中土建の顧問だった進歩党の代議士です。翌年の昭和二十二年に十二人中三位で当選してます」



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