十
「いよいよですね、権力者への道。立志伝。話がおもしろくなってきた」
「はい。彼の関心は最初から〈道路〉にあったんです。初めての選挙の演説で、山を切り崩して埋め立てれば新潟は佐渡までつながる、とぶち上げてます。落選するはずです」
「当選したあとはどうなったんですか」
「その機転と猛烈な法律知識を認められて、民主自由党の吉田茂にかわいがられました。入党二年で昭和二十三年に三十歳で法務政務次官、二十八年に越山会を結成して銀行とのコネを太くし、道路と鉄道政策に能力を発揮します。二十九年に自由党副幹事長、三十年に衆議院商工委員長、吉田十三人衆の一人としてトントン拍子に出世します。昭和三十二年に三十九歳で岸内閣の郵政大臣、三十代で日本初の国務大臣が誕生しました」
「それでもまだ、総理大臣より権力があると言えるほどではないですね」
「そこからなんですよ。テレビ局と新聞社の統合系列化を推進したんです。民放の基本体制を作り上げたわけです。その過程で役人ばかりでなくマスコミも掌握しました」
「民放の基本体制というのは何ですか」
「新聞社―テレビキー局―テレビネット局という体制です。民放テレビ局の放送免許を交付をするしないは郵政省しだい、という睨みを利かせられることになったんです」
日赤を折り返す。菅野の話はつづく。
「それにしても角栄をよく調べてますね」
「なぜか小卒という彼の売りに惹かれましてね。肩書などなくても人は能力と実践力だけで階段を昇っていけるんだと感服したんです」
「角栄は企業に属さなくてよかったですね。あの押し出しの効く政界だったからこそ、その天才的な能力が活かされたんです」
「はい。三十六年には自民党政務調査会長、四十三歳の昭和三十七年には池田内閣のもとで大蔵大臣、四十年に自民党幹事長。去年、大学管理法を成立させて大学紛争を鎮火させたのも彼です」
「そこにつながりましたか。それが言いたかったんですね。なるほど、総理大臣とは関係なく活躍してきた、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの人だとわかります。そういう天才的な能力の持ち主でなければ、効果的な議員立法など提示できない。総理大臣でも無理でしょう。いずれ近いうちに首相になるかもしれませんね。ただ、首相なって凄腕を揮いつづけられるかどうか」
「どうしてですか?」
「郵政大臣、大蔵大臣になったあたりから風当たりが強くなったんじゃないかな。国務大臣や首相は高学歴の知識人を従えるわけだから……。とくに大蔵省なんてのは知識の牙城でしょう。どんな天才も専門的な知識がなければ、エリートに軽蔑され、足もとを掬われます。足もとを安全にする手段はかぎられてる。知識人が崇拝するのは統率者の才知じゃなく、財力です。膨大な財が必要になる。それをどこから調達するか……ぼくのように馬鹿でも出世できるスポーツ選手ならよかったのに」
八時半を回って椿神社に帰着。歩きだす。
「そういう心配ですか。神無月さんは角栄の将来をあまり楽観してませんね」
「はい。聞けば聞くほど心配になります。配下が荒くれ者揃いの戦国時代に生まれていれば、知恵と押しだけで豊臣秀吉のように天下を取れたでしょう。現代では、皇帝や天皇なら、多少知識が足らなくても、軽蔑されずに知識人どもを統括できるでしょうが、身分も肩書もなく猛勉を頼りにする一般人は、才知や実行力で得た高い地位に安住させてもらえない。かならず逐(お)われます。……でも菅野さんの話のおかげで、ただアクの強いだけの男と観ていた田中角栄が好きになりました」
北村席に帰り着いて、ジャッキを抱き締め、みんなに朝の挨拶をし、登園まぎわの直人の頭を撫で、トモヨさんとカンナにキスをし、菅野とシャワー。
「こごさ下着置いとぐすけ。菅野さんのも」
イネの声。
「はーい、ありがとう」
「サンキュー」
「キッコは?」
「八時過ぎに、ムッちゃんと千佳ちゃんが電車で名大さ送っていぎました。試験の終わるころに、まだ車で迎えにいぐそうです」
「元気でいった?」
「なんぼか緊張してらった」
菅野と湯船に浸かる。
「じつは、椿神社からの帰り道で、田中角栄が尊崇するべき男に思えてきたんです。国務大臣になって風当たりが強くなったんじゃないか、なんて知ったようなことを言ったけど、成し遂げた議員立法のものすごい数を思い返して、彼は猛勉や押し出しを武器にして出世しようとするような小粒な人物じゃない、のし上がることに根本的に興味はない、ひょっとしたら、エリートたちが彼に求めているのは自分たちを潤す財物の運用力じゃなく、ほんとうに際限なく湧いて出るアイデアと、異能者特有の行動力じゃないか、田中角栄はそれで人心を掌握しているんじゃないか、と思い直しました。作った法律が的外れだったり、穴だらけのザル法だったら、法として成立してこなかったわけだから。超人的な勉強と卓越した能力を持つ人物を前にしたら、知識人なんてものは屁でしょう。これからは真剣に天才を応援する目で田中角栄を見ようと思ってます」
「ああ、よかった。私の気持ちがわかってもらえて。際限がないと言えば、角栄の女性関係は、噂されているだけでもキリがないくらいです。でも、神無月さんと同じように、反旗を翻す女が一人もいないんです」
「でもぼくは今回……」
「最後っ屁をひらないという意味では、丸たちは反逆の旗を振ってませんよ。静かに立ち去ったんですから。神無月さんはひっきりなしに自分のことを馬鹿にしますが、本質的に知性の人です。人の知識は喜ぶけれども、自分が知識を持つことは恥だと思う変わった知性の人です。そのうえで激しく人を愛する。愛情と知性がかならずしも相反するものじゃないということを証明してくれる人です。……神無月さんをだれも裏切りません」
風呂から上がり、居間にいってトモヨさん母子を送り出す。ソテツたちが朝食の用意をしようとするが、菅野は食ってきたと辞退する。
「神無月さんも?」
「うん」
「熱田高校はいつから?」
千鶴もやってきて、
「四月七日が定時制の入学式。それからいろいろオリエンテーションがあって、十三日から授業開始。五時四十五分からの五分休憩を挟みながら四限授業、九時終了。五時二十分から給食があるけど、うちらは北村で早めのごはんを食べてく」
「制服は?」
ソテツが、
「定時制は私服でいいんです」
幣原がコーヒーとトーストを出す。私たちがトーストに手を出さないので、主人と女将が食う。
「入学試験はなかったの」
「応募者が五十名を超えたらやるということだったんですが、三十二人しか応募しなくて全入になりました」
「素子の栄養学校の予定は?」
ソテツが、
「四月八日の水曜日だそうです。お嬢さんが参観にいくって言ってました。アイリスは二年間のお休みすることになります。それからアイリスや北村席で三年間厨房をやり、それから栄養士の試験です」
「素子がいちばん長丁場だね」
主人が、
「十万ぽっちの寄付金で入学できてよかったわ。国家試験がらみの学校ゆうんは資格や規則がうるさてあかん。東京やアイリスや北村で働いた分を実地として申請して、あとは寄付金でもちょっと余計に払っとけば受験資格をくれるやろう。ま、そのときがきたら考えよまい」
家じゅうがバタバタし始める。そこへ五、六人の引越し屋がやってきたので、二重のバタバタになる。トラック二台のようだ。丸や三上たちが一階と二階を往復する。幣原が手伝いにいった。女将は声をかけたい様子を示すが、そのチャンスがない。女将は立っていって、四人で降りてきたところへそれぞれ心づけを渡しながら声をかける。
「いつでも帰ってきや」
しかし四人とも感極まった表情ではない。引越し屋が持ち車へ去り、幣原やソテツたちが庭まで四人を見送る。主人は終始黙っている。よくわかる。私も黙っていた。これまで目にしてきた北村席の趣ではない。何年も食住の世話になってきたのだ。畳に手を突いて別れの挨拶くらいするところだ。
主人と菅野が背広に着替えている途中で、着飾った優子が降りてくる。私は納戸部屋へ身支度にいく。ユニフォームを着こんで居間に戻る。ソテツにダッフルと弁当を入れた小バッグを持たされる。優子は紙袋を持たされる。
「いってらっしゃい」
女将たちが式台に立つが、きょうは切り火なし。バットケースを提げ、九時五十分出発。セドリック一台。主人が助手席に、私と優子が後部座席に座った。優子が、
「きのうの夜、丸ちゃんの部屋で缶ビール飲みながら、十人くらいでお別れ会をしたんです。四人とも泣いて……。木村さんも近記さんも農村漁村の人ですから、くちさがない田舎へは帰れないって。こんなによくしてもらって、自分がどんなに恵まれていたかも忘れて、恩知らずにも出ていこうとするなんて、ほんとに申しわけないって」
主人が、
「結局、信子以外は男がおらんゆうことか」
「そうなんです。丸ちゃんが、男ができたと言ったので、私もって虚勢を張ったんだそうです。そしたら、いっしょに出ていきましょうという流れになって……。神無月さんにつまらない嘘をついてしまって、引き返せなくなって」
菅野が、
「くだらない」
「三上さんは、周防にいる小四の娘がこっちにきたくないって言ったら、もうどうしたらいいかわからないって。アパートに暮らしながら、羽衣やシャチのシニアに入って、旦那さんや女将さんに恩返しするって。木村さんも近記さんもそうするということになりました」
主人が、
「いつでもアパート引き払って帰ってくればええがや。シニアなんかいかんと、アヤメに勤めとればええ。そう言っとけ」
「はい」
「家出少女みたいなことしおって。いい年した女が」
菅野が、
「戻ってきても、もう神無月さんのお手はつきませんよ」
優子が、
「本人たちもわかってると思います」
主人が、
「堪(こら)え性がないから、せっかくの幸せを棒に振ったな。丸だって、いつまで男とつづくかわからんぞ」
中日球場の駐車場へ入っていく。きょうもすごい人波だ。
†
広島の守備練習。ロッカールームでソテツ弁当。昆布と油揚げの炒めもの、クジラの大和煮、車海老の天ぷら、シューマイ、シバ漬。ごちそうさま。
下通の春めいたうららかなトーンのアナウンス。広島のスタメンを発表している。一番ショート三村、背番号30、二番サード朝井、背番号4、三番センター山本浩司、背番号27、四番ライト山本一義、背番号7、五番レフト山内、背番号8、六番ファースト衣笠、背番号28、七番セカンド井上、背番号25、八番キャッチャー田中、背番号12、九番ピッチャー外木場、背番号14。何も変わらない。新人はゼロ。
「……つづきまして後攻は中日ドラゴンズ、一番サード坪井、サード坪井、背番号60」 満員のスタンドのざわめき。なんだ?
「二番セカンド江藤弟、セカンド江藤、背番号28、三番ライト谷沢、ライト谷沢、背番号14、四番レフト神無月、レフト神無月、背番号8」
「ホォー」
という安堵のため息。
「五番センター江島、センター江島、背番号12、六番ファースト千原、ファースト千原、背番号43、七番キャッチャー新宅、キャッチャー新宅、背番号19、八番ショート西田、ショート西田、背番号39、九番ピッチャー川畑、ピッチャー川畑、背番号38。球審は大谷、塁審は一塁太田、二塁手沢、三塁松橋(きのうの控え審判はマッちゃんだったのか)、線審はライト竹元、レフト鈴木、以上でございます」
十一
きょうも始球式はない。守備に散る。喚声。中とキャッチボール二往復。すでに三塁スタンド、レフトスタンドからシャモジの音が上がっている。川畑の投球練習。ロッテから移籍してきた右の本格派。シュッというボールではないが、けっこう球威がある。ひととおり変化球も投げられるようだ。背格好が秀孝に似ている。ただ颯爽としていない。
一番三村敏之、四十一年のドラ二。中背、目が小さい丸顔。二球目のシュートを打ってサードゴロ。
二番朝井茂治、中背、筋肉質、出っ歯のような口もと。四十三年に阪神からきた内野手。打率は低いが、よく打つという印象がある。初球の外角低目ストレートをセンター前ヒット。
三番山本浩司フォアボール。
四番山本一義、ツーツーから内角スライダーを振って三振。
五番山内一弘、ツーワンから私へのレフトフライ。シャモジの音が静まり、紺地に白くHを染め出したカープの球団旗が残念そうに揺れる。
一回裏ドラゴンズの攻撃。一番坪井新三郎、小柄な右打者。外木場の速球に手も足も出ず三球三振。
二番江藤省三、ツーナッシングから内角高目のストレートを振って、ドン詰まりのピッチャーフライ。
三番谷沢健一、ノースリーから切れるカーブを二球見逃してツースリーにされ、六球目、内角低目の猛速球を見逃して、一球も振らずに三振。
「二回表広島カープの攻撃は、六番ファースト衣笠、背番号28」
初球、高目から落ちてくるカーブ。衣笠は見逃さずフルスイング。低い当たりだが、私は一歩も動けない。レフトスタンド中段に矢のように突き刺さった。カープファンの大歓声。シャモジ、旗。肩を怒らせて衣笠がダイヤモンドを回る。踏み出し、蹴り上げられるスパイクが美しい。次打者に出迎えられハイタッチ。下通が透き通った声で衣笠のホームランのアナウンスをしている。
七番井上弘昭、おととしのドラ一。角張ったからだの筋肉マン。これまた初球高目のカーブを強振。私の前に痛烈なライナーが飛んできた。ワンバウンドで抑える。
八番田中尊、ノーツーから三球目のスライダーを打ってセカンド省三の前に強いゴロ。4―6―3のダブルプレー。しっかりしたコンビネーションだ。西田は、足を上げて滑りこんでくる井上を避けてジャンプしながら正確なスローイングをした。
九番外木場、簡単に初球の外角ストレートを打って、ファーストゴロ。チェンジ。一対ゼロ。
「二回裏中日ドラゴンズの攻撃は、四番、レフト、神無月、背番号8」
一単語ずつ区切るように言う。喚声の渦に巻きこまれる。きょうの外木場はストレートの速さとキレよりも、変化球のするどさが尋常でない。とにかくボックスぎりぎり前へ出る。田中は高速の外すストレートを要求するはずだ。ストライクコースに入れると、いくらピッチャーに近く構えているといっても危ない。二球ぐらいストレートに目を慣らさせてから変化球だ。外木場は振りかぶり、からだを低くして踏みこみ、シャッと腕を振り下ろす。ど真ん中高目のストレート。よし、もらった。振り出しの姿勢を整える。
―あ! スライダーだ。詰まる、振っちゃいけない。
腹を引っこめて見逃す。
「ストーライ!」
はい、山かけ中止。きた球を打つ。ボックスの少し後ろへいざり、スコアボード右横の照明塔を見やる。構える。二球目、ど真ん中の高速ストレート。ん? 今度はスライダーではない。ストレートのままだ。姿勢を整え、踏みこむ。振り出す。かすかにクイとシュートした! 叩く。バットが折れ飛んだ。打球がショートとレフトのあいだにふらふらと上がる。三村後退、山内前進。ポテンか。三村が飛びついて転がった。グローブの先でキャッチしている。ウォー! 拍手。私は一塁と二塁の中間から走り戻り、コーチャーズボックスの森下コーチと微笑み合ってベンチに帰る。ロッカールームへバットを取りにいく。一本持って戻り、ベンチの最前列右端に腰を下ろす。外木場は表情一つ変えていない。内心、してやったりと思っているはずだ。菱川が、
「ほんの少しシュートしましたね」
「はい、とつぜん曲がりました。ふつうの位置に立ってたらかすりませんでした」
江藤が、
「金太郎さんがこれなら、しばらく打てんな」
「球の見極めには、前に立たないほうがいいかもしれませんね。きょうの外木場は去年よりはるかにいいです」
高木が、
「失投も期待できないだろな」
五番江島。ガチガチになっている。ファールチップと空振りで、たちまちツーナッシング。三球目、真ん中から外へ切れて落ちるカーブ。空振り、三振。
六番千原。外角低目ストレート、外角低目カーブ、真ん中高目ストレートで三球三振。手がつけられない。守備につく。シャモジの合唱。
三回表。一番三村から。インサイドワークにすぐれているが二割そこそこしか打てないキャッチャー新宅が、マメなサインを出す。彼はピッチャーに信頼されている。浜野も彼のおかげで一勝目を挙げたと、北陸遠征のあとで触れ回っていた。初打席と同じコースと球種で打ち取るために、内角低目のシュートを二球つづける。二球とも三塁線にファール。二球目のファールはするどい当たりだったので、私はあわてて捕りに走った。三塁塁審のマッちゃんと視線が合った。新宅は三球目から外角攻めに切り替えた。二球外角カーブをつづける。二球ともボール。ここまで警戒する必要のあるバッターだろうか。三球目内角高目ストレート。サードのファールフライ。最初からそうするべきだ。
二番朝井、高目ストレート、フォーク、フォーク、でツーワン。四球目、外角高目スライダー、カシュ! 右中間へ高く上がるフライ。谷沢が追いついてツーアウト。シャモジの音に混じって、三塁側スタンドからあくびのようなものがまとめて聞こえてきたように感じた。空耳だろう。カープファンがあくびをするはずがない。それにしても野次一つ飛んでこないのが不気味だ。
三番山本浩司。さっきは打ち気満々のところを警戒されすぎてフォアボールだった。彼はバットコントロールがいい。すべて外すつもりで投げたほうが確実だ。初球外角低目のボール球、打った。きっちり芯で捕えている。セカンド省三ジャンプ、捕った。
「すばらしい投手戦が展開されております。嵐の前の静けさという感じもいたします。三回の裏ドラゴンズの攻撃は、七番キャッチャー新宅、背番号19」
初球真ん中ストレート、バントの構え、かすらず、ワンストライク。一塁ベンチ上から野次。
「外木場ァ、オープン戦で完全試合しても手柄にならんぞォ!」
二球目とんでないドロップ、空振り。三球目、ど真ん中高速カーブ、当たった、キャッチャーフライ。
「いいぞォ、当たる当たる!」
八番西田。初球からメクラ振り。ファーストフライ。チェンジ。
「ドラゴンズの選手交代を申し上げます」
予定が早まった。水原監督が痺れを切らしたのだ。
「一番サード坪井に代わりまして中、センターへ、二番セカンド江藤省三に代わりまして高木、そのままセカンドへ、三番ライト谷沢に代わりまして江藤兄、ファーストへ、五番センター江島に代わりまして木俣、キャッチャーへ、六番ファースト千原に代わりまして菱川、サードへ、七番キャッチャー新宅に代わりまして太田、ライトへ、八番ショート西田に代わりまして一枝、そのままショートへ。以上でございます」
全員張り切って守備につく。轟々たる喚声。川畑続投。
四回表。四番山本一義から。木俣はわざとなのだろう、ワンバウンドするフォークを四球つづけて投げさせた。二球後逸した。山本一義がフォアボールで出る。広島ナインの目にフォークを焼きつけさせた意図はすぐわかった。高目のストレートと見せて、要所でフォークを投げさせるつもりなのだ。広島チームはきょうの川畑のストレートの速さに押されている。その二種類でいけば完投まであるかもしれない。ホームランとヒットを打たれたボールはカーブだ。木俣のほうがインサイドワークは新宅よりすぐれているのではないか?
五番山内、内角低目ストレートをセンター前ヒット。筋肉が温まっていなかったのか名人の中がこれをハンブル。こういうプレイがかえって観客を退屈させないのだろう、やんやの喝采をして喜ぶ。ノーアウト二塁、三塁。やっぱり完投は無理だ。川畑というピッチャーの立ち居と球威を見ていると、いつ崩れるかもしれない危うさを感じる。
六番衣笠、真ん中高目から木俣のミットのあたりへ落ちるフォークを空振り、二球目同じ高目のストライクを見逃し、三球目同じコースのフォークを空振りして三振。まったく同じ料理の仕方で、七番井上、八番田中を三振に切って取った。うまくいった。木俣の作戦成功だ。みんなグローブを叩きながらベンチへ駆け戻る。
四回裏、打順はピッチャーから。
「九番川畑に代わりまして、ピンチヒッター小川健太郎、背番号13」
怒号のような歓声。鉦太鼓の音が雑ざりはじめた。大きな球団旗がライトスタンドで振られる。ブンブンとバットを振りながら小川がバッターボックスに入った。みごとに三球三振。大笑いが球場にこだまする。
一番中、アコーディオンでワンツーにし、四球目、真ん中高目の豪速球を伸び上がるようにして叩き、右中間へライナーの二塁打。
二番高木、内角低目のシュートを掬い上げてセンター奥へ深いフライ。中タッチアップして三塁へ走る。センター山本浩司からの返球をショートの三村が落球する間に、中疾風のように生還する。外木場には不運な失点だが、一対一の同点になった。
三番江藤、ツーナッシングから外角懸河のドロップを引っ張って左中間二塁打。
「四番レフト神無月、背番号8」
ドンチャンドンチャンお祭り騒ぎになった。
「金ちゃん、イッパツ!」
「さ、〈ふつう〉の四塁打!」
江藤が二塁ベースに立っている姿をこれまで何度見たことか。あのランナーを還さなかったことはない。ふつうの立ち位置をとる。ホームベースの真ん前だ。初球胸もとへ高速スライダー、ストライク。初打席と同じ攻め方だ。二球目、外角へするどいシュート、ボール。やっぱりこの位置で待てばボールだったか。バットを出してもぎりぎり届かない位置だった。問題は次のボールだ。江藤に投げたドロップは投げない。内、外のコース取りが難しいからだ。いまの二球のうちのどちらかを投げてくる。バットに当てられるほうではなく、ぎりぎり届かないほうだろう。いまの見送りで私が手を出さないとわかっているので、フォアボールにしてもいいつもりで外へ三球つづけて外してくる。三球目、真ん中低目のフォーク、ワンバウンド。外し方がちがう。ワンツー。四球目、真ん中高目高速カーブ、ストライク。ツーツー。そうか、外のシュートをボール球と思わせて、ほんの少しベースにかすらせるつもりなのだ。それで三振というわけか。たぶんそれだ。五球目、ストレートに見える外寄り低目、曲がってベースをかするはずだ。大きく踏みこみ、屁っぴり腰でしばき上げる。届いた! バットのわずか先で食った。折れない。飛距離は足りる。
「ヨッシャー!」
「いったァ!」
森下コーチと江藤が両こぶしを突き上げる。レフト山内の真上へ舞い上がる。水原監督が両手を腰に当てて見つめている。三十八歳の山内が背走する。少年時代の胸を焦がした男への餞(はなむけ)だ。最前段より少し上にゆっくり落ちる。鈴木線審の白手袋がクルクル回った。すぐに下通のアナウンスが始まる。
「神無月選手、オープン戦第五号のホームランでございます。贔屓の引き倒しのさえずりではございますが、ご寛恕くださいませ。なお同選手の昨年のオープン戦におけるホームランの本数は、十五試合で三十四本。今年度はただいまのところ、二試合で五本、この試合、残りの打席でもう一本打てば一試合三本、四十五本本ペースとなりますが、今年はオープン戦が十二試合しかございませんので、三十本半ばのペースと思われます。もちろん鬼神のペースでございます。拍手!」
場内嵐のような拍手。水原監督と抱擁。
「十一試合でも去年と帳尻を合わせて打つと信じてるよ。のんびりやりなさい」
「はい!」
ホームイン。仲間たちとかぎりない握手。一対三。ツーアウトランナーなし。
五番木俣、初球真ん中高目ハイスピードのストレート、当てずっぽうで強振。フロートするところをかすらせた。セカンド井上の後方に落とすポテンヒット。球場がワーンと鳴りはじめた。それをバックグラウンドに、野辺地の灰色の部屋で繰り返し聴いた『夜明けのうた』が耳の奥に流れる。明るい昼の光に照らされる仲間たちの顔。
「バッターは、六番サード菱川、背番号4」
凛々しい立ち姿。ぶざまなスイングをすることは一度もない。外木場セットポジションから投球動作へ。木俣が初球から走った。外木場、外角高目に外す、菱川右足に重心を残してかぶせ打ち。一塁の頭上を一直線に越えていく。ファールラインを削る。木俣、尻を振って長駆ホームイン。菱川の凛々しい姿が二塁ベース上に立つ。緊迫してくると外木場は変化球を蔵にしまう。力で押そうとする。一対四。
七番太田。ストレートに強い男だ。江藤が、
「外木場が落ち着きおった。初球曲げてくるばい」
初球、顔のあたりから落ちてくるカーブ。江藤の言うとおりだった。太田反り返ってバッターボックスの外へ飛び出す。二球目、外角切れのいいスライダー、振り遅れてネット右へファール。三球目、浮き上がってくる内角高目ストレート。空振り三振。これは打てない。一枝が、
「生き返っちゃったんじゃない? やばいよ、これは」
全員守備に散る。
「五回表、広島カープの攻撃は、九番ピッチャー外木場、背番号14」
小川、速球、スローボール、内角高目シュートであっという間に三振に切って取る。
「バッター三村に代わりまして、今津、背番号6」
十三年目の選手。バッターボックスで異様に闘志を燃やしている。この男のことは、かつて中日にいたということぐらいしか知らない。小学生時代、中日球場にいくとかならずショートは今津だった。なぜか小川が私のほうを振り返った。レフトフライを打たせるという意味だろうか。初球、真ん中へ打ちごろの棒球を投げた。ハッシと打つ。小柄なからだから高いフライが打ち上がる。大きい。塀ぎわへダッシュし、振り向いて捕球する。小川がグローブを挙げて、サンキューというような身ぶりをする。
二番朝井。外角スローカーブのボール球でのめらせておいてから、三球内角ストレートをつづけて三振。三番山本浩司。真ん中高目のストレートでバックネットへファールを二球打たせ、外角低目へパワーカーブを落として空振り三振。ダッシュ。トンボが入る。バッターボックスの白線が引きなおされる。
十二
小川に訊く。
「今津のレフトフライ、何だったんですか」
小川はじめベテラン組がみんなニヤニヤしている。秀孝や太田や谷沢や戸板が集まってくる。小川がタオルで首を拭きながら、
「三十九年、やつの最後の年、俺が入ってきた」
木俣が、
「俺と修ちゃんもだよ。三十九年組は多いんだ」
一枝が、
「東京オリンピック組だ」
胸にきた。夜明けのうたが耳の奥に流れた理由がわかったような気がした。菱川が、
「俺もそうだぜ。陽三郎もだろう?」
千原がうなずく。高木が、
「俺や中さんや慎ちゃんは、今津とどっぷりいっしょにやった口だ。グローブ作りは彼に教わった。三十九年に今津は戦力外通告を受けたんだ。たしかに打てなかったけど、守備は要になってけっこう活躍してたのに、とつぜんだよ。前田益穂が上がってきたからだろうな」
江藤が、
「母一人子一人で育ったけんな。やさしか男たいね。母親にもチームメイトにも新聞記者にもやさしか男たい。拾ってくれた広島に恩義を感じとって、中日戦になると燃えるっちゃん」
「まあ、そんなわけで〈八百長〉したくなったんだ。相変わらず非力で飛ばなかったけどな。ハハハハ」
笑いながらブルペンへいった。トンボが引き揚げた。
五回裏。八番一枝。シュートうちの名人、シュートを投げてもらえず、低目のパワーカーブでショートゴロに打ち取られる。井上コーチが、
「おーい、四点じゃまずいぞ!」
「ウース!」
九番小川、ブルペンから走ってきてバッターボックスに入る。スコアボードの旗を見ている。逆風。打つ気だ。初球、胸もとの猛速球、あっ、セーフティバント! 肉離れしませんように。ほー、速い。三塁線ファール。ニヤニヤ一塁から戻ってくる。
「大事なからだです。無理をなさいませんように」
下通のまごころのこもったアナウンス。場内の和やかな笑いを誘う。あらためてバッターボックスに入り、ゆらゆらと構える。二球目外角スライダー、バックネットの低いところへファール。三球目、ふたたび胸もとの速球。からだごとバットが回って三振。彼の真剣さがチームの士気をさらに高める。
ツーアウト、ランナーなし。一番中、もうアコーディオンはしないで、ベースにかぶさるように低く構えている。外木場は顔のあたりを速球で脅してくるだろう。それを見越しての構えだ。脅すだけで全力投球はしないのでストレートは中間速になる。初球、顔のあたりにきたボールを中はよけずに、手首だけでコンと打ち返した。ライト線ファール。なるほど、二度とそこへ投げられないようにするということか。二球目それでも同じコースへ強いボールがきた。今度はしゃがんでよけた。ワンワン。三球目、外角ドロップ、チョンと流し打ち。レフト線へ転がる。山内スマートに走ってくるが、遅い。三塁へ投げ返すだけで精いっぱい。中、スタンディングダブル。
二番高木。外木場が盛んに帽子を脱いで濡れた髪を掻き揚げる。汗っかきなのだろう。明らかに疲れている。キャッチャーの田中がマウンドに走り、だいじょうぶかと尋ねている。外木場は手のひらでだいじょうぶと示す。とたんに、根本監督のタイムの声。ピッチャー交代。疲労云々よりも、これ以上打ちこまれるとシーズンの心的状況に響く。去年から外木場はかならずこういう展開になる。出だし好調でやがて打ちこまれるという展開だ。
「広島カープ、ピッチャーの交代を申し上げます。外木場に代わりまして、ピッチャー秋本、背番号20」
去年かおととし阪急から広島にきたピッチャーではなかったか。小さい中年男。痩せてはいない。サイドスローからのシュートピッチャー。速いかなという程度。数少ない対戦の中でかなり打ちこんでいるはずだが、すっかり忘れた。
初球シュートが真ん中高目に甘く入った。高木が打ち据える。ギュンと飛んでいき、レフトスタンド中段に突き刺さる。一対六。勝負あった。ピッチャー安仁屋に交代。彼には沈むシュートと伸びるシュートがある。
江藤、外角カーブを叩いて左中間深いところへツーベース。私は伸びるシュートに思わず振り遅れてサードライナー。
†
三対九で勝った。六回に安仁屋から菱川のソロ、太田のソロ、後続三人凡退、八回二塁打の高木を置いて江藤がレフト前ヒットで一点、私ライト前ヒット、後続太田まで凡退。全攻撃終了。
小川は五回から七回まで投げ、八回は秀孝に、九回は小野に託された。三人で打者二十一人、被安打四、フォアボール二。小川が朝井と衣笠に一安打、秀孝が衣笠に一安打、九回に投げた小野が当たり屋の朝井にツーランを打たれた。試合時間二時間三十七分。勝利投手小川、敗戦投手外木場。
試合後、ベンチに臼山が入ってきたので、すぐさま仲間たちに紹介した。江藤が、
「毎日新聞のスポーツ部か。よかよ、だれの番記者にでもなりなっせ。当分は金太郎さんに付いて慣るるんばい」
ベンチの外の水原監督を見ると、なるほど一人だけピッタリ寄り添っている記者がいる。その記者と監督を取り囲むようにほかの記者連中が垣をなしている。帰路につく客に下通が場内放送で語りかけている。次開催十四日のヤクルト戦にいざなうアナウンスだ。臼山が、
「きょういちばん印象に残ったことは?」
「二つかな。外木場のシュートでバットを折ったこと。その反省をしてレフトへホームランを打てた。もう一つは安仁屋の伸びるシュート。驚いて振ったらサードライナーになった。あれは研究できない。いいところへ飛んでくれるのを期待するしかないね。……それから野球のことじゃないけど、木俣さんがポテンヒットを打って、球場がワーンてなったとき、耳の奥に岸洋子の『夜明けのうた』が流れた。島流しされたとき野辺地の暗い部屋でよく聴いた歌だ。その瞬間、みんなの顔が輝いて、昼の光がパーッと明るくなった。自分が明るい世界にいることがうれしかった」
臼山のペンが止まった。目を潤ませ、
「いい話、ありがとう。初回にすばらしいコラムを書けるよ」
「ほんなこつ、うれしか話ばい」
江藤も目に涙を滲ませ、木俣が、
「俺のポテンヒットごときで、金太郎さんはそこまで感じてくれたのか。……ありがたいな。めくら滅法振ってよかった」
水原監督がマイクの群れから引き揚げてきて、みんなでロッカールームへ移動する。
「みんなきょうはお疲れさん。プレイのすばらしさは褒めるいとまがないので、きょうはやめておきます。あさっての近鉄戦は静岡の草薙です。いき方わかるね」
「ウース」
「きょう三イニングずつ投げた川畑くんと小川くんはアガリなので、きたければきてもいいし、ゆっくり休養したければそうしてもいい」
宇野ヘッドコーチが、
「寮の新人はなるべく共同行動をとってくれ。草薙球場に十時半までに集合だ。九時半に静岡駅に大型の静岡鉄道バスが停車してる。九時半からから三十分待つ。十時出発。それに遅れたら、めいめいタクシーで球場までくるように。十五分ぐらいでこれる。マイカーでくるやつも、球場に十時半までにきてほしい。しかし車はやっかいだろう。三時間近くかかるし、高速料金もかかる。渋滞にやられるかもしれないしな。なるべく電車を使ってくれ。十一時からバッティング練習三十分、守備練習十五分。試合開始はきょうと同じ一時。ホテル休憩はないから、とんぼ返りになる。帰りも静岡駅までバスが出る。そこからは自由な手段で帰ってくれ。八日から十二日は東京だ。巨人、ロッテ、東映。宿舎はホテルニューオータニ」
「ウース」
運送業者が入ってきて、ヘルメットや、バットや、籠に詰まったボール、持ちものぜんぶを預ける選手もいるので、個々が指定する段ボール箱などを運び出す。太田が、
「足木マネージャー、草薙のウグイス嬢って、ドラゴンズの下通さんですか」
「近鉄バファローズ一筋の日生球場のウグイス嬢さんです。名前は忘れました。草薙球場は老朽化の激しい球場で、フィールドも狭く、両翼九十一メートル、中堅は百十五メートルしかありません。収容人員は、内野一万四千人外野七千人と、中規模です」
気持ちよさそうな球場に思えた。水原監督が、
「じゃ、きょうはこれで解散しましょう」
「ウース」
監督、コーチたちが姿を消すと、江藤が、
「あさって、いつものメンバーで朝八時に北村席にいくけん、八時四十三分のひかりの切符を買うといてな。グリーン券もな」
「静岡までですね」
「おう」
太田が、
「静岡に九時三十七分に着きます。悠々バスに乗れます」
いつものとおり仲間たちと駐車場で別れた。
帰りの車中で優子が、
「野球場って、何度いっても新鮮です。旦那さんたちが病みつきになるのがよくわかります」
「何度でもいけばええが。北村の女は野球が好きだで気分がええわ」
菅野が、
「キッコがちょうど帰ってるころですね。どうだったんだろう」
「腫れ物やぞ。本人がしゃべるまで触らんようにしとこ」
「ほい。すぐ見回りにいきましょう」
「そうしよ」
「菅野さん、あさって五日の朝八時四十三分のひかり、静岡までの乗車券とグリーン券を買っといてください」
「オーライ」
「ランニング中止です。あしたは走ります」
「了解」
四時半北村席に帰り着く。まだキッコは帰っていなかった。そう言えば、初日の試験は四時半に終わると聞かされたことを思い出した。東大を受験したときの経験から、会場係員が受験生の答案を集め試験官が退場を許すまでに、なぜか三十分以上もかけることを知っている。とすると、五時過ぎに千佳子の車に乗って、北村席に戻るのは早くて五時四十五分だ。試験終了から一時間十五分。四日の試験は二時半に終わるので、帰り着くのは三時四十五分。
イベントというのは、それを利用してのし上がってやろうといっときでも欲を出した人間に、人生の〈本質的に〉尊ぶべき時間を犠牲にすることを強いる。そして、その犠牲はたいてい無駄骨だったとわかる。尊ぶべきだった時間が切実に迫るからだ。無駄骨だとわかったとき、尊い時間を取り戻そうとする努力は、たとえ血を吐くほどの努力でも、針路回復に役立たない。こういう考え方を人は大げさだと言うかもしれない。しかし顕別を旨とするイベントに入れこんだとたん、人と協調しよう、人と愛し合おうという本来の純粋な希望は水泡に帰しているのだ。どこが大げさだろう。
―もっと母に寄り添えばよかった。あんなに愛していた母に。
私はいま母なる人びとに寄り添い、役立たずの血を吐きながら、本来の希望を取り戻そうとしている。
「ソテツ、弁当おいしかったよ。あさっては作らなくていいからね。大勢でいくから車内弁当を食う」
「わかりました。無事でいってきてくださいね」
「うん」
主人と菅野は見回りに出かけた。私はユニフォームを脱ぎ、午睡を終えた直人と風呂に入る。スポンジでそっと彼のからだを洗う。いっしょに湯に浸かり、彼がカタコトで保育所のできごとを語るまま、ほとんど意味のわからない話を聞いてやる。かわいいので、疲れない。私は唐突に言う。
「おかあちゃんを大事にするんだよ。言われたことをちゃんと聞いてね」
「うん」
風呂から上がると、直人の水気の後始末と着替えを女将にまかせ、座敷の畳に横たわる。直人はパズル。カサの多い夕食はいらないなと思い、厨房に天ぷらきしめんを作ってくれるように言う。すぐにエビ天きしめんが用意される。ソテツが、
「今夜は天ぷらだったので、ちょうどよかったです」
麺をすすりながら女将に、
「これを食ったら帰ります。晩めしはいりません。キッコにあしたもがんばるように伝えてください」
「はいよ。あしたはどうするん」
「昼も夜もここで食べます。夜はキッコの相手をすることになってます」
「神無月さんも、ほんとにたいへんやね。何でもほいほい聞いてたら身がもたんよ。たまには断ることをせんと」
「はい、身がもつうちは、たいへんなのもいいものです。もう何年かしたら、ぼくもみんなも落ち着きますよ。カズちゃんみたいに」
「あの子はむかしから聖人君子やから。……かわいがってくれとる?」
「はい、ちゃんと。いつ妊娠しても驚かないようにしといてください」
「そうなったらうれしいなァ。耕三さんも喜ぶやろ」
「きょうの誕生会はあしたの夜に回しましょう」
ソテツが、
「ごちそう作ります」
と言う。