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《ビリー・ホリデイ(1977) 恋を知らないあなた》

 不世出のジャズボーカリスト。飯場のクマさんの口からその名を聞いたことはあったが、実際に彼女の声を耳にしたのは遅い。彼女が死んだとき私は十歳だったが、クマさんは、もうジャズは聴かんわ、と言った。

三十代の半ば、早稲田予備校に勤めたばかりのころではなかったろうか。名物にうまいものなしが持論だったので、ジャズボーカルは無名の女性歌手を漁って聴いていた(男性はいまもいっさい聴かない)。退屈しはじめた。かったるい。クマさんを思い出し、ビリー・ホリデイ全集を仕入れた。若いころの声は細くて軽くて、まったく受けつけなかった。

酒と麻薬で痛めつけた喉が晩年に神性を帯びた。太い、しゃがれた、哀切なハスキーボイスになった。

恋の歌ばかりを収めた『レディ・イン・サテン』というLPをあらためて買った。死の一年前に録音したもので、オーケストラを背後に歌うめずらしいバラード集だった。声が途絶える一歩前の死者の叫びだった。最高の歌唱だった。1959年、彼女は44歳で死んだ。麻薬とアルコールの常用による腎不全だった。

私の音楽部屋の前壁には彼女の写真が貼ってある。