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《近松物語(1954) 監督・溝口健二  主演・長谷川一夫 香川京子》

 

表具をなりわいとする御用商人(進藤英太郎)の後妻であるおさん(『杏っ子』『赤ひげ』の香川京子)は、日々、愛に満たされない虚しい心を胸に包んで暮らしている。

彼女には金にだらしないダメな兄がいて、しばしば無心にくる。今回の無心は額が大きい。夫は大の吝嗇家なので、思案に詰まったおさんは、奉公人の茂兵衛(『次郎長富士』『雪之丞変化』の長谷川一夫)に相談する。夫の判子を内証で使って一時的に借金をし、あとで返そうと決まった。おさんを陰ながら慕っている茂兵衛の苦しい心から出た一計だ。

諮りごとは耳目のさとい手代に見つかり、夫に露見する。茂兵衛に惚れていたお玉(南田洋子)が、自分のための借金だったと罪を買って出るが、そのお玉にこの商人が以前から恋慕していたからたまらない。商人は嫉妬して茂兵衛を意地汚く責める。

こんなふうに愛欲、物欲のからみ合った末に、さらに誤解が誤解を呼び、ついにおさんと茂兵衛は不義密通を疑われることになるのだが、この段まで観る者にストレスを起こさせることおびただしい。不純なものの手で純粋なものが汚されていくというストレスである。

ところが、二人が手に手を携えて逃亡の道行きをたどりはじめたとたん、一変して、社会的な枷が消え去り、常に社会のレールを外れるものと決まっている個人の魂の世界へと土俵が移り、美的な諧調うるわしい悲恋の絵巻物が展がることになる。ドン、ドンという太鼓を基調とするドラマチックな音楽が背景に流れつづけ、二人の心臓の鼓動と足どりの不吉な急テンポに引きずりこまれる。逃亡の道で男と女は天地(あめつち)のように固く結ばれ、命を賭けた確かな愛を深めていく。ここにおいて、ストレスは解消した。刑死の結末は、私にとっては蛇足である。

 なぜか溝口健二という名前は、映画の様式美が語られるつど引き合いに出される。人間同士の無秩序でやるせない心情の吐露を美と考えるわたしには、下記の二作品を除いた彼の映画はとりたてて美しいものには思われない。『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』どれもこれも形式や構図の美に囚われすぎていて、人間の心情の美に没入していない。古今の文学作品から推し量るに、形式美よりは心情の美を礼賛するはずの外国でモテはやされ、いわば詩人の誉れである月桂冠まで与えられるのを疑問に感じる。

たしかに整ったヨイモノを観たという感はどの作品にもある。しかし、総じて溝口健二という監督は、小津安二郎と並んで(『浮草』は奇跡)魂の充足を与えてくれないので、好みの映画作家ではない。ただ、『近松物語』と『祇園囃子』は例外である。

語りを通俗に落とし、感情のアヤを日常の地平で際立たせる。これぞ、人間の心を語る基本だ。原作の近松の語り口がそれに最も近い。やるせない、解決しようのない煩悩を抱えて生き、抱えて死ななければならない人間の葛藤を描くことこそ、芸術の至上命令だ。