kawatabungaku.com
川田文学.com 



《コレクター(1965) 監督ウィリアム・ワイラー 主演テレンス・スタンプ》

このすぐれた映画を純愛の映画とみる人は少ない。

愛と呼ぶには、あまりにも倒錯した心理を描いているからだろう。
漁色目的ではなく、誘拐監禁して徹底的に観賞した結果、価値なしと判断したら容赦なく切り捨て、さらなる蒐集をつづける。蒐集癖、観賞フリーク―なるほど表面上はそう見える。
しかし……。

フレディ(テレンス・スタンプ―この個性のかたまりがこれ一本と断じて差し支えないほどの好演をしてい
る)は自閉的な銀行員で、蝶の蒐集が趣味。
行内でも、目の前に蝶のモビールをぶら下げられてからかわれるような窓際的存在だ。
そのフレディがフットボールの賭に当たって莫大な金を手に入れる。
人里離れた土地の一軒家を買って、地下室を整える。そこへ、ホルマリンを嗅がせて拉致した女を運びこむ。

最初の獲物(サマンサ・エッガー)は、彼が蝶に匹敵するほど美しいと値踏みした美大生である。
その日から女をベッドに繋いだままの献身的な世話(飼育?)が始まる。
蝶に肉体を求めるはずがないのと同様、女の肉体に関心はない。毎日きちんと食事を運び、排泄と入浴に同行し、やがて打ち解け(?)てくると、彼女に解放の言質を与え、自由に絵筆も揮わせるようになる。
地下室の壁が、解放を待つ女の絵で満たされていく。
フレディの目には、女が芸術を好んでいるようには見えないし、描いた絵も大してうまいものに映らない
。それでも彼は、女の教養と知性を尊重し、文芸書や画集も買い整えてやる。

自らも読書し、絵画の美を探り、懸命に思索もして、彼女の「教養と知性」に近づこうとする。女の目にフレディは誠実で、御しやすそうな男に映る。身勝手な判断から、彼にからだを与えようと迫るが、拒否される。
女はわけがわからなくなり、ますます恐怖を募らせ、深いパニックに陥っていく。


おや? という気がしはじめる。
フレディは、この女の飼育に手をつけて以来、蝶に対するのとはちがった審美眼で観察し直し、憧れ、啓発されることを求め、同一化さえ図ろうとするようになったのではなかったか。
そして、人間としても鑑賞に堪える女だとわかった時点で、自分を委ねるつもりになったのではなかったか。
これはある種の「略奪婚」「妻問い婚」と言っていい。
女への深い絶望から発したアイデアだとしても、やはり立派な求愛の形にちがいない。
肝心な段階にいたって、女の化けの皮が剥がれはじめたなどというのは、フレディにしてみれば納得でき
ることではない。自分の審美眼はどうなるのだ。

彼は『ライ麦畑でつかまえて』を女に示し、
「この本のどこがいいのか」
と尋ねる。
女は、社会体制への批判とか、傷ついた初々しい魂、といった通りいっぺんの回答をする。
彼は「これは非行少年を礼賛するふざけた本だ」と叫んで放り投げる。
ウィリアム・ワイラー監督の血の滲むような告白が始まった瞬間だ。

さらにピカソの画集を示し、「これのどこがいいのか」
と訊く。

女は、「ピカソだからよ」
とあさはかな応答をする。

フレディは激怒し、画集を引きちぎる。
私はこの瞬間、ワイラーの心臓からの出血を認め、思わず立ち上がって拍手した。
一斉に迷惑そうな視線が振り向いた。
なんだ、文句あるか、という目で私は見返した。


―きみたちにはワイラーがどれほど女を真剣に愛してきたかわからないのか!
 道徳的なきみたちはぜひとも女の脱出の成功を願うだろうが、脱出の成否に関わらず、その無能のゆえに女が破綻へ転げ落ちていく坂道が見えるじゃないか。土台どこへ逃げようというのか。パトロンの下で絵を描く生活を理想として生きてきたのではないのか。この地下室を出発点にして、絵を描きつづけていけばいいじゃないか。きみは芸術家ではなかったのか。

女はフレディの頭をスコップで殴りつけ、雨の中へ脱出を試みるが、深手にめげず追ってきた彼に取り押
さえられる。
びしょ濡れのからだをベッドに縛りつけられ、あげく肺炎にかかって死ぬ。
悪意のもとの頓死ではない。なぜなら、そのときフレディは女を死なせないために薬を買いに出ていたのだから。
いや、もともとの誘拐自体が悪意そのものではないかと問われれば、否定のしようがない。

ある環境からある環境へ引きさらわれるという意味では、常軌を外れずに進む男女関係も相身たがい誘拐されたようなものだと思うので、別に目くじらは立たないが、《常軌すなわち倫理》の世の中である以上は、非倫理を肯定すれば、常軌を尊ぶ人たちに袋叩きにあう。

しかし、袋叩きにあうことがワイラーの目的だったと認識すると、この映画の存在理由がわかってくる。

反倫理を袋叩きさせて、真の倫理とは何かを浮き彫りにするということだ。それは拉致そのものではもち
ろんないだろう。

美の追究は反倫理を辞さない、ということだ。
それこそが芸術家の倫理、芸術の倫(みち)だということだ。

考えてみれば、芸術が求める美など、倫理に反して公路にひり出された猛烈な臭気の糞のようなものだ。
倫理に反しないかぎり、ひり出すことは不可能だ。ひり出して、人にくさい思いをさせることが目的である以 上は仕方がない。
ワイラーが、拉致監禁という極端な形で芸術的倫理を象徴的に描いた意図は、まさにここにあったのだ。