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《ヘッドライト(1956) 監督アンリ・ヴェルヌイユ 主演ジャン・ギャバン》

 

リアルタイムではもちろん観ていない。三十年ほど前、浦和に住んでいたころ、カサというファミリーレストランがビデオの貸出しもしていて、五本、六本とまとめ借りをして観た。その中に雑じっていた一本だった。この『ヘッドライト』と、ほかに『アラバマ物語』、『天井桟敷の人々』の二本に打たれた。ほかの二作品については、いずれ書こうと思っている。

パリの貧民地区をねぐらにするジャンは、その日も食事と休息をとるために、いつも立ち寄る店の前にトラックを停めた。アスファルトの道の上を風に吹かれた土埃が舞い上がる。ジョセフ・コズマの名曲が流れる。家庭持ちの中年(といっても50の坂を越えている)のトラック運転手ジャン(ジャン・ギャバン)は、いつもその食堂を宿泊に使っている。

二階のベッドへいく。仰向けになり、ふと一年前の回想に入った。いや、このベッドに横たわるたびに、かならず回想しているのにちがいないとわかる。表情のない、哀しみの貼りついた顔。愛を失った顔だ。底に深い悲しみを秘めた喪失感を演じさせたら(たとえば『冬の猿』)、ギャバンの右に出る者はない。

 あの日、店に入ると、若い女(フランソワーズ・アルヌール)が新しいウェイトレスとして雇われていた。影のある美しい女。配膳に、ベッドメイキングにと、かいがいしく動く。クロチルドという名前で、男に捨てられたばかりだと知る。ジャンは倍も年下の女にたちまち惹かれた。クロチルドも倍も年上の男に好意を抱いた。ジャンは情味のない家庭から逃げ出すように、若い女との愛の深みに陥ちていく。

 トラック運転手に過重労働に対する不満はつきものだ。ジャンは上司を殴ってクビになる。彼を頼ってパリに出てきたクロチルドは妊娠していた。子を孕むのは常に女の喜びだ。しかし、愛する男が失業中と知り、売春宿の仲居として働きはじめた。不幸は重なる。女将のおためごかしに乗せられ、怪しげな堕胎屋のもとでこっそり子供を処分してしまう。ジャンの苦境を思いやってのことだろう。無論そのことを男には告げない。

友人のツテでふたたび長距離トラックの仕事に就いたジャンは、クロチルドと再出発することを決意して家を出る。仕事用のトラックでクロチルドを意気揚々と迎えにいく。雨もよいの霧の中を再出発の地ボルドーを目指す。ヘッドライトが雨と霧を照らし出す。助手席から愛しそうにジャンを見つめるクロチルドの眼。このときの口数少ない対話の思い出は、ジャンを一生にわたって打ちひしぐだろう。

クロチルドが苦しそうにうめきはじめた。もぐり手術の失敗だ。死の予感がスクリーンいっぱいに満ちる。そして、そのとおりになる。死は、どんな複雑な人生にも、あっけなく訪れる。

ベッドの回想シーンに戻る。ジャンが苦痛の思い出を抱いて精神的にのたうつこのシーンがなければ、観客は感情に折り合いをつけられない。観客もまた、マリアの心を持ったクロチルドを愛してしまったから。ジャンは生涯のたうってほしい。のたうつべきだ。

休息を終え、トラックに乗りこもうとするジャンは友人と会話する。家族のもとに戻ったと。そうだ、そういう義務にまみれた余儀ない状況でのたうってほしいのだ。『男たちの旅路』の鶴田浩二のように、遠くへ逃げ、孤独の中に逼塞するのではなく、幸福ではない生活の日なたの中でのたうってほしいのだ。ただし、のたうつためには、のたうてるだけの人格改造が必要となる。孤独と倦怠の裏地に、死を縫いつけた人格だ。その非凡に改造された人格に揉みしだかれながら、たゆまず苦悩する人間を目撃することこそ、私たちの最高のカタルシスに結びつく。