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《愛のくらし(1971) 加藤登紀子》
早稲田の一年生から二年生にかけて、阿佐ヶ谷から荻窪、荻久保から上板橋、上板橋から高円寺へと引っ越した。何が契機になったかは、くだらなく、苦しい思い出なので書かない。
高円寺。高架のそば、二階建てのアパートの二階、端から二番目の六畳に入った。机と書棚一つずつ。常にひとりで、ほぼ毎日、雀荘かスナックにかよった。雀荘は徹夜で帰り、飲み屋は泥酔して帰り、たいてい明け方に吐いた。起きるのは昼をかなり回っていた。
そんなある日、居ぎたなく寝ている私の布団に、隣の端部屋から耳を洗う抒情的なメロディが流れてきた。透き通った哀しみ。名曲は逃さない耳だ。飛び起きて、隣部屋のドアを叩いた。
「その曲、何ですか!」
返事がない。音楽も止まってしまった。その足でレコード屋に出かけた。店員に、いま耳に残っていた「この両手に花を抱えて、あの日あなたの部屋を訪ねた……」という一フレーズを二度、三度と唄い聞かせた。わからなかった。歌手の名前もわからないのだから仕方がない。
一年が流れた。突然、ラジオからあの曲が流れてきた。曲名も歌手名もわかった。私の嫌いな加藤登紀子だった。どう聴いても彼女の声ではなかった。彼女が喉をしっかり使い、耳障りなビブラートと〈シャンソンぶり〉を排して、ドラマチックに唄い上げた唯一の曲だと理解した。曲想も日本人のものではなかったので確認すると、作曲はアルフレッド・ハウゼとなっていた。どういう作曲家なのかは寡聞にして知らないが、一秒の狂いもない名曲であることはまぎれもない。
のちに知ったことだが、愛を直線的に描いた歌詞が加藤のイメージに合わなかったため、まったく売れず、札幌のレコード店が独自のキャンペーンを展開した結果、地元のラジオ番組でランキング入りしたということだった。空が高く大地の広い北海道発信のエレジーとわかって、哀しみの透明度とかさばりが大きくなった。よくぞキャンペーンをしてくれたというところ。