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《街の灯(1931)》

 監督 チャールズ・チャプリン  
主演 チャールズ・チャプリン ヴァージニア・チェリル



 ときは1930年代、大恐慌下のアメリカ。平和と繁栄の記念像の除幕式。いざ幕を上げてみると、像の膝の上に浮浪者(チャールズ・チャプリン)が寝ている。平和と繁栄を皮肉に笑い飛ばすシンボル。式場が大混乱に陥る。戸惑って逃げ出した彼は、街角で盲目の花売り娘(ヴァージニア・チェリル)に出会う。そこへたまたま大金持ちの男が通りかかって娘に大金を恵む。それを娘がチャプリンと誤解したことから、チャプリンは行きがかりで彼女のスポンサーの役回りを演じることになる。

 さまざまな職を転々としながら、チャプリンは娘の生計を支えつづける。当然、献身が恋に変わっていく。娘が病の床についた。治療費がいる。不況下である。賭けボクシングに手を出したが、打ちのめされてしまった。
 途方に暮れた彼のもとに、気前のいい救世主が現れた。酔うと正気を失って大盤振舞いをする大金持ち(ハリー・マイヤーズ)だ。どんな不況下でも、大金持ちはそこかしこに転がっているものだ。彼はチャプリンを家に連れ帰り、ポンと大金を投げ出したまさにそのとき、強盗が押し入って、てんやわんやの大立ち回り。大金持ちは殴られ気を失う。失神から目覚め正気を取り戻した彼の証言で、哀れチャプリンはしょっぴかれることに……。

 連行される道すがらチャプリンは、格闘の最中にもなんとか肌身離さなかった大金を娘のもとに届ける(善意の略奪のシンボル。ここポイント。これがなければハッピーな結末はない)。
服役を終えてようやく娑婆に出てきたチャプリン。街角の花屋の前に立ち止まり、やさしく和んだ目でウィンドウを覗きこむ。それを見ていた女店主は彼を哀れな物乞いとまちがい、小銭を恵んでやろうと表に出てくる。チャプリンは驚く。その女店主こそ、あの盲目の娘であった。

 チャプリンの手に硬貨を握らせたとき、彼女はその感触にハッとし、
「あなたなの?」
 と、問いかける。チャプリンはにかんでうなずき(この瞬間、涙が噴き出した)、問い返す。
「見えるようになったの?」
「ええ、見えるようになりました」

 麗しいラストに涙を絞り尽くしたあと、私は考えた。盲目という薄皮、酔いという薄皮―薄皮を剥いだときに見えてくるものは何だ? 醜い現実? 美しい現実? いや、そんなメリハリの利いたわかりやすいものではない。「見えてくる」ものは、まちがいなくその表層の背後にある、「見えない」真実という絶対的な価値にちがいない。

 愛の確信を持って問いかけた女の真実がなければ、うなずいた男の恋の真実に触れることはできなかった。利害や恥じらいに真実を隠蔽された男女二人なら、問いかけもせず、うなずきもしないで、行路の人として無難に別れただろう。見えない、ある意味恐ろしいものに幕(蓋)をかぶせたまま、黙殺しただろう。別れや幕(蓋)を美徳として、人間であることを証明する作業を放棄しただろう。

 不潔な美徳。自己保恵の怠惰な精神。どれほど単細胞と後ろ指をさされようと、わたしは清潔で勤勉なものにこそ涙を注ぎたい。足長おじさんでさえ、ついに正体が明かされたではないか。 

 チャプリンは「街の灯」の撮影に際して、膨大な量のNGを繰り返し、完成に一年半も費やしている。これにとどまらず、どの作品にも彼の完ぺき主義が貫かれているが、決まってNGが出されるのは、彼の得意技の面白おかしい仕草の場面ではなく、出会いと別れの場面だ。皮膚と皮膚が触れ合い、皮膚の向こうを透視しなければならない場面である。

 生前のインタビューでチャプリンは、一番好きな自作は、と尋かれて、
「街の灯」
 と答えている。天才が自己評価を誤っていない証拠だろう。