全き詩集

詩の世界社より 1976年に発売
現在、詩の世界は倒産し、それと共に絶版になった幻の本です。
内容は、多少手を加えたものの、近代文芸社より再版になったものとほぼ一緒です。

ただあとがきはそのまま封印されたかたちになっていることが残念です。
当時26歳だった川田拓矢氏によるあとがきを後日、本人の了承を得てから公開しようと思います。
再版になった近代文芸社出版の「全き詩集」も残念ながら現在、絶版になっておりますが、いくつかの図書館には所蔵されていますので、借りて読むことは可能だと思います。少なくとも早稲田大学図書館、国立国会図書館にはあります。図書館相互貸借などを利用してみてください。


※「詩の世界社」倒産のため、絶版になっている26年前の詩集「全き詩集」のあとがきですが、本人の了承を得て、公開できることになりました。
ただ、著作権は川田拓矢氏にありますので、無断で複製、改変及び転機等に利用することは固く禁止いたします。

 
放恣の文学の受くべき宿命

―あとがきとして―

 もはや現今に於いて、文学は情緒的地位を離厭し、希なる個の特質と化しつつあります。逆に、その個が文学的特質を体現している場合、嫌悪の対象と目されています。すなわち復古の虐待です。
 しかし、それは故あるところです。人々の肉質を満たす糧、あるいは切迫した境涯に求められる一条の光は、敢えて文学の担うところではないからです。彼らには昇るべき高み―一般通念の成就、学業に左右されないエリート道というものがあるに相違ありません。私はその人たちの弱みをどうのこうの言うつもりはありません。それは、期待された人間の採るべき古来からの私淑であろうからです。
 従って、私にとって私がどのように生きれば満足であるかが問題でした。そこで私は巷では本音を吐かず、二・三の友人と中学時代から継続してきた詩作という孤独な仕事に向けて本音を吐くことに結論したのです。穏やかに命(めい)を叫んで、生を尽きるしか方途はないと考えたわけです。全ての時節を生き死にする人間にとって、いかなる意味に於いても絶対的飽和はあり得ず、成就はあり得ません。鼻糞をまるめている分秒に、アルバイトの駄労の間に、人間の侠気に涙しているうちに、完成は持ち越され間遠となります。私は詩を作るしかなかったのです。結果、天賦に恥じない佳い仕事をしたと思っています。
 律儀なエリート道を持たない放恣の文学の受けるべき宿定は、好意ある人々から贈られるひとつかみの暖かい同意という幸福でしかありません。私はこれからも詩を書き続けますが、一つ一つが手を抜かない、うるおったスタンザを構成する詩篇となるよう覚悟しています。
 最後に、私の詩の世に出ることを心待ちにしていてくれ、かつ私の詩の出版のために奔走してくれた横山義範君、および出版元である詩の世界社の諸兄(特に中村孝氏)の心労足労に心から感謝致します。

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