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《野菊の如き君なりき(1955) 監督木下恵介 主演有田紀子 田中晋二》


世にありて
ひとたび逢ひし君といへど
わが胸の外(と)に君は消えずも

人の世の空しさを感じさせる映画を一本あげろと言われれば、ためらうことなくこれをあげる。巻頭、曳き舟に乗った老人(笠智衆)の懐旧の場面で、何首かの歌が文字を伴って詠われ、思い出の時間へと移ってゆく。心臓をつかまれる。単純で美しい伊藤左千夫の歌の響きに心が彩られていく。

政夫15歳、タミ17歳。二人がなぜそこにいるのか。
偶然の居合わせを説明する必要はない。
涙が止まらなくなる。目をしばたたきながら、画面を見つづける。

恋路をはばむのは年の差だけではない。家の格と、しきたり、時代の潮、いつの世にもいる口さがない人びと……そして、幼い自重。それでも、政夫の綿摘みについていくタミの頬は、うれしさに薄赤く発光している。
じわじわと彼らは追い詰められていく。母の手で政夫が中学の寮へ追われた日から、タミは静かに、不吉に輝きはじめる。

伊藤左千夫が『野菊の墓』を仲間の前で読み上げたとき、手放しで号泣したという逸話はリアルだ。涙にはかならず真実がつきまとう。

封建的な枷の中で死んでいく一人の少女に、映像として麗しい光輪を添えた手柄は、抒情の人木下恵介のものだ。彼は左千夫の真実をしっかり理解して、疑わず、タミ(有田紀子)という女を活字から引きずり出して永遠の残像にした。

男にはかならず〈胸の外〉に消せない女がいる。彼女は人生行路の哀しい核でありつづける。人に語らずにはいられない、表現せずにはいられない。そうして、語り足りず、表現し足りないとき、哀しみの代弁者である芸術作品を求める。代弁者は在りし日の記憶を甦らせる哀しみの典型でなければならない。木下恵介は、その役割を見事に果たす普遍的な作品を創り上げ、男の〈胸の内〉に定着させた。





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