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《 オズの魔法使(1939) 》

監督 ヴィクター・フレミング  出演 ジュディ・ガーランド


 私は小1から小4まで裕次郎映画に入れこんで、その後すっぱりとジャンキーじみた映画館通いをやめてしまった人間なので、これまでこのコーナーに紹介しつづけてきた映画の大半は、大学入学以降にリバイバル館で観たり、VHS貸出店から借りて観たりしたものである。こんな有名なファンタジー映画もビデオショップの名画コーナーで見つけて観た。
 身の周りではなく、どこか虹の彼方にすばらしい場所があると信じているドロシー―この設定がすでに物語の単純な結末を予期させるが、単純なのは「わが家ほどすばらしい場所はない」と女の子が認識するという結末だけで、そこに至るまでの四銃士の道行きが人間哲学に満ちていて、知的好奇心をたっぷり満足させる。

 竜巻によって虹の彼方のオズの国へ吹き飛ばされたドロシーは、たちまち家に帰りたい一心になる。わが家がいちばんという認識がたちまち訪れたということだ。そこへ現れた親切な魔女に、イエロー・ブリック・ロードをたどってエメラルドシティにいき、オズの魔法使いに訴えれば家に帰らせてもらえると教えられる。

 道の途中で出会い、同行することになる案山子と、ブリキ男、ライオンが出色のキャラクターで道行きをバラエティに富んだものにする。藁の頭の案山子は知恵がほしく、胸が空洞のブリキ男は心がほしく、百獣の王らしくもなく臆病なライオンは勇気がほしい。つまり、ドロシーとちがって、何をいちばん望むかがハッキリわかっている連中である。これで四者ともしっかりとした目的意識を持っているとわかった。
 ようやくエメラルドシティにたどり着いた一行は、オズの魔法使いから、希望をかなえる最後の条件として、邪悪な魔女を倒せという困難なミッションを命じられる。彼らはみごとに任務を果たし、オズの魔法使いのもとに戻る。そして、四者が四者とも、ほしいものはもともと自分自身の中にあったことを(なぜか人間である)オズの魔法使いから諭される。その諭しの言葉が筆舌に尽くしがたいほどすばらしい。私にはこの映画はそれで満点だった。
 エメラルドの靴のかかとを打ち鳴らし、わが家ほどすばらしいものはない、と唱えてドロシーは家に戻るが、そこにはオズの魔法使いも、案山子も、ブリキマンも、ライオンも人間の姿で戻ってきていたのだった。竜巻に吹き飛ばされる前のドロシーが、彼らの存在に気づいていなかっただけのことだったのだ。めでたし、めでたし。

 北の魔女や西の魔女まで登場させながら、なぜオズの魔法使いだけ人間でなければならないのかは、いまもって解けない疑問だが、諭し役はやはり、最初から悟りきった魔人ではなく、煩悩を克服する過程で貯えた理屈を言える人間でなければならなかったのだろう、と考えて納得することにする。