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《近藤圭子(1955) パン売りのロバさん》



潤んだ目をした毛づやの悪いロバが、顔を上下させながら近づいてくる。

 ロバのおじさん
 チンカラリン チンカラリンとやってくる
 ジャムパン ロールパン 
できたて焼きたて いかがです
チョコレートパンも アンパンも
なんでもあります チンカラリン

リサちゃんは呼び止めて、三角の玄米パンを二つ買った。
「お山へいって、食べよ」
まばらに生えた草を分けて、二人肩を並べるようにして築山へ登っていく。尻を左右に振って歩くリサちゃんのズボン姿が、スカートよりハイカラに見える。ズボンがほんとうに好きなのかもしれない。
キチキチバッタが草の中から飛び上がった。リサちゃんが驚いたふうにからだをすり寄せてきたので、私は思わず気兼ねして離れた。気兼ね? 性と、年齢と、常識に―。リサちゃんはふとさびしい顔になり、築山へ登っていった。私はついていき、いただきに並んで腰を下ろした。粘土の香りが立ちこめている。
「はい」
リサちゃんが玄米パンを差し出した。私は遠慮なく受け取って頬張った。西のほうの黄色い空がだんだんピンク色になり、冷たい紫に変わっていく。民家や事務所の黒いシルエットが浮き上がってきた。リサちゃんの横顔を見ると、うなじのうぶ毛が淡い光の中できらきら輝いている。パンを噛む唇が湿っている。
「見たい?」 
小さい目が気弱そうに私を見つめた。
「何を」
「リサの脚」
「脚? 脚が、どうかしたの?」
リサちゃんは最後の一口を指で押しこむと、両手をぱんぱんと叩き、あたりの気配を確かめながら、ズボンの片方を股のつけ根までまくり上げた。薄闇の中に、ふくら脛から太ももにかけて深くえぐれたケロイドの溝(みぞ)が、幾筋もはっきり見えた。
「うわ! それ、どうしたの」
縄のようによじれた残酷なケロイドの畝(うね)に、視線が貼りつこうとする。
「小一のとき、轢かれたんよ。信号を渡ろうして、左折したトラックに巻きこまれてまって。こんだけ大きい傷だと、包帯で隠せんでしょ」
 もっとよく見るようにと促す。
「なんでもないよ、そんなの」
リサちゃんはズボンを下ろした。私は気に留めていないふうに、少しずつパンを噛みつづけた。胸がドキドキしている。
「がっかりしたでしょ。中学生になったら、手術をするの。うまくいくかどうか、わからんけど」
 リサちゃんの声が悲しそうにふるえた。
「うまくいくよ。たいした傷じゃないから」
嘘を言う自分に後ろめたさは感じなかった。不幸でない人は、不幸な人を救うことなどできないのだから、せめて慰めたり励ましたりしてあげなければいけない。ミナマタ病の人たちをテレビで観たときも、そう感じた。私は、不幸に苦しんでいる人を見ると、憐れみより先に、畏敬の気持ちを起こすタチだ。不幸な人のほうが幸福な人よりも立派だと思ってしまう。だから、自分が慰めのつもりで言った嘘が、立派なリサちゃんを辱しめたのではないかと不安になった。
「なんでもないさ。ほら、ぼくも、顔に傷があるよ。かあちゃんが言ってた。顔に傷があるのは半端に生きてきたしるしで、それだけで意味もなく人を恐がらせるから、まっとうに扱ってもらえないんだって。顔はズボンじゃ隠せないからね」
 私は、横浜でときどき母に言われたことを思い出しながら言った。そしてリサちゃんに顔を近づけ、自分の鼻の脇を指差した。
「……ひどいこと言うね、お母さん。嘘つきやわ。ぜんぜん目立たんが」
「目立つよ。いつも鏡で見てるからわかる」
 リサちゃんの顔からさっきまでの悲しい影がたちまち消え、怒ったように頬が紅潮した。
「ちっとも気にならんわ。鼻糞みたいなものやないの。もっと深い傷のある人、いくらでもおるが。
お母さん、嘘つきやわ」