四

 堤川を渡り、浦町奥野というX字形した交差点に出る。奥山先生と傘を差してここを通ってきた。あんなすばらしい人間が教師にもいたなんて驚きだ。奥山先生と言い、野月校長と言い、野辺地にきて以来、驚いてばかりだ。しかしなんと言ってもいちばんの驚きは山田三樹夫だった。
 松原通は、このあたりでは商店の多いメインストリートのようだ。床屋、米屋、歯科クリニック、魚菜市場、食堂、薬局、石材店、喫茶店、肉屋。ラードで揚げたコロッケのいいにおいがただよってくる。生花店、燃料店、大衆酒場、ミシン店、菓子舗、クリーニング屋、アパート、保育園、時計店、進学塾、舞踏教室。数はもちろん、種類だけでも数え切れない。床屋も米屋も中小の病院もある。
「堤橋。大きくて古風な橋ね。文明開化みたいなポリスボックスがあるわ」
「ほんとだ。文明開化には気づかなかったな」
 堤橋のたもとから、対岸に諏訪神社の小森が雪に輝いて明るく見えた。
「あの森から一分ぐらいのところに下宿した。奥山先生の奥さんの姉という、三十七歳の人が大家さん。葛西さんと言うんだ。六年生の女の子と、旦那さんと、盲目の兄さんがいる。ほかに青高三年生の下宿人が一人」
「旦那さんは何をしてる人?」
「青森中央郵便局の職員。四十七歳。六十五が定年だって。今夜は和食がいいな」
「そうね、新町へ出てみましょう。キョウちゃんも出てきたことだし、そろそろ近所に詳しくなっておかなくちゃ」
 青森市役所の前の信号を渡り、入(いり)マス亭という老舗ふうの居酒屋に入った。ちょうど昼めしどきから開ける店らしく、酒を飲まない食事客で賑わっている。カウンターの載せ棚に魚介の食材がぎっしり並び、壁一面にメニューの短冊が貼ってある。客が詰まったカウンターの奥が隘路になっていて、左右に畳の小上がりがしつらえてあった。それぞれに角テーブルをほどよく離して二つ据えてある。一つだけ空いている奥のテーブルに向かい合って坐った。
 鉢巻をした男にカズちゃんは、七、八品おまかせ、と言った。たらの頭と中骨をダシにしたじゃっぱ汁、ホタテの味噌焼き、ウニ、ホヤの塩辛、まぐろ、ひらめ、サーモン。どんどん出てくる。すべてカズちゃんの好物らしく、おいしいおいしいと言いながら箸を止めずに食べた。私は、蓮根やアスパラのてんぷら、刺身の盛り合わせで二膳のめしを食った。腹がいっぱいになった。
「お姉さん、いい食いっぷりだね。失礼だけど、樺太あたりの血が入ってるでしょ」
「純粋な名古屋人よ。甥っ子が青森高校に受かったから、お祝いをしに駆けつけたの。青森の人って、こんなおいしいものばかり食べてるのかしら」
「ふだんは粗食ですよ。ホヤやホタテはふつうに食べますけどね。いっぺんに食べずに、コツコツかよってほしいんですがね」
「ときどき、甥の様子を見に青森にでかけてくるわ。二カ月にいっぺんぐらい。そのときに寄らせてもらうわね」
「へい、よろしく」
 カズちゃんは五千円札を出して勘定を払った。表に出て、
「ぼくだってたっぷりお金があるんだ。払わせてくれなければ使い途がないよ」
「そのお金は、キョウちゃんに使ってもらうために西松のみんながあげたものでしょ。ちゃんと使いなさい。いつまで大事に持ってるの」
「じゃ、学生服を買うよ」
「それもだめ。本や娯楽に使って」
 青森駅前の土産物店に寄り、カズちゃんは塩ウニを二瓶と、南部煎餅を四袋買った。
「うちに送ってあげようっと。おとうさん酒飲みだから」
 そう言って大きなバッグに放りこんだ。高級そうな鰐革の手提げバッグは、カズちゃんの買い物袋だとわかった。思わず笑った。私の笑いのわけもわからずに、カズちゃんも愉快そうに笑った。
「もう一度、堤橋に戻るよ。学用品販売の店が花園町に一軒あるんだ。ついでに下宿も見てもらおう」
「そばを通るのは危ないわ。遠くからね」
 奥州街道を歩いて、堤橋を渡り、花園二丁目の線路端に出た。まだ日が高い。人もちらほら歩いている。葛西家に近づいていく。三軒隣あたりから指差す。
「あそこ。線路側がぼくの部屋。三畳」
「ま! かわいそう」
「狭くても広くても何にも気にならない。机がありさえすれば」
「質素な哲学ね。お家がわかってホッとしたわ」
 きびすを返して、学生服店に向かう。
「賄いこみで八千円の部屋だ。赤井の部屋は少し広い。一度覗いたら、どういうわけかリズミカルにからだを揺すって机に向かってる背中が見えて笑っちゃったけど、周りの空間が広すぎるせいでちょっと寒そうな感じがした」
「下宿するとき、そっちの部屋を選択したんだと思うわ。割高なんでしょうけど。広い部屋じゃないと何もできないという人もいるのよ。その人の部屋は、もとはきっと応接間か何かで、キョウちゃんの部屋は、その家の子の勉強部屋だったんじゃないの? その子に何か、イヤミなことされてない?」
「とても親切で、内気な子だよ。岩下志麻に似てる」
 カズちゃんはにっこり笑って、
「気に入ったのね」
「小六だよ、早すぎる」
「じゅうぶんな年齢よ。女の子は、その年になれば何でも知ってるし、オナニーぐらいは経験してるわ」
 私は笑いながら適当にうなずいた。カズちゃん以外の女とはけっして交わらないと私は決意していた。
 街道沿いの明石学生服店で、少し大きめの学生服を買った。生地はカズちゃんが見立てた。その場で裾をダブルに直した。試着室で着替え、いままで着ていた学生服をカズちゃんに渡した。
「今度は五月、キョウちゃんのお誕生日に逢いましょう。どしどし本を読んでね。野球部に入ったら、報告にきて」
「うん。勉強もしっかりするよ」
「そうよ。野球も勉強も全力を尽くしてね」
 堤川の土手まで送り、長い口づけをして別れた。道がうねり曲がって、カズちゃんの姿が消えるまで見送っていた。
         †
 ベストセラーとはどういうものか、人びとはどういう思索や感情を好むのかを知りたくて、店頭に横積みにしてある本を数冊買いこんだ。日本の歴史や徳川家康など、全集本は避けた。東京オリンピック大松監督の、『なせばなる』、『おれについてこい』、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』、ほかに、『三分間スピーチ』、『わが愛を星に祈りて』、『妻の日の愛のかたみに』、『氷点』。
 一週間、読みつづけた。食事のとき以外、部屋を出なかった。
「本を読みつづけるときはこうなりますから、気にしないでください」
 と葛西家の人たちに断った。
 ヒロシマ・ノートを含めて、みんなウンコだった。いのちの記録。

 ベストセラーのほとんどは、小説ではなくドキュメンタリーか評論だとわかった。身の上話は読者の思い入れがなければ成立しないたわいもないものだけれど、思い入れた人に対して、ひどい文章で報復するのは失礼である。なかでも、ヒロシマ・ノートは失礼ですまない。原爆を浴びてなお死なず、死ねず、生きつづけ、体験を語りつづける人びとを威厳ある人間と規定し、被爆者の同志であるよりほかに正気の人間としての生き様がない、とはどういうことか。苦しい原体験を語る人間に同調しなければまっとうな人間ではない、とはどういうことか。欺瞞こそまっとうな行為だと言っているのに等しい。人は人に同化できない。好みの人間を愛し、殉じることができるだけだ。人は無作為に人の体験に同化などしていられないほど、みずからの人生が逼迫しているのだ。特殊状況の苦悩は自分だけで甘受して、自分で滅んでいけばよい。文章はみずからの苦悩を語ってはならない。愛し愛される歓びのみを、彫琢された文字に乗せるべきだ。いかなる状況にある人も、求めているのは愛のみだからだ。大島みち子は苦悩を語らず、愛のみを語っていた。がんらいベストセラーになるべき本ではなかった。
         †
 四月三日土曜日。入学式の朝。雨が降っている。新調の学生服を着、新品の学帽をかぶり、革靴を履く。背筋がピンと伸びた。赤井はよれよれの帽子だった。彼なりの美学なのかもしれないが、感心しない。人間も含めて、ただ古くなったものは美しくない。奇跡的な美の輝きを発する骨董品や、カズちゃんのような特殊な人間でなければ、古さは美を主張できない。
 奥さんが玄関まで見送りに出た。ぬかるみを踏まないようにして、堤川の上流に向かって歩く。
「この∞のしるし、変わってますね」
「かっこいいべ。全国でもそんなシンプルな徽章は青高だげだ」
「赤井さんは入学式の係員か何かですか」
「なんもよ、見物だ。桟敷から眺めんだ。合唱部の校歌がいいすけ、毎年出かける」
「大きな校庭が二面ありますね」
「門を入って、右が野球グランド、左がラグビー場だ」
「ラグビー場だったんですか」
 堤川の土手に学生たちの姿はほとんどなかった。地面にところどころ泥まじりの雪が残り、雪のないところもじめじめ湿っている。草の陰に固そうなザラ雪が見えた。ふくらんで流れる水が銀色に輝き、泡のようなものがすごい速さで下っていった。港のほうからときどき冷たい風が背中に吹きつけ、淡い陽射しが射したり翳ったりした。
「この川、きれいですね」
 赤井は振り返り、
「八甲田山系から何本かの支流が合わさってくだってくる」
「荒川と、駒込川ですね。市内の地図で調べました」
「おお。あっちゃが河口の青森港。港から浪打のほうさいげば、合浦(がっぽ)公園がある。青高はこっから上流さ三十分くれ歩ったとごにある」
 私はこの美しい自然をどういう言葉で詩に写し取ろうか考えている。
「ああ、きょうの学生服は、気持ちがいいなあ」
「きょう? いっつも学生服だべせ。きょうだけちがるの着てるのが?」
「買ったばかりです。でもそういうことではなく、制服を着たときにしっくりくる感覚ってあるでしょう。その感覚が最高になる感じです。試合当日のユニフォームとか、入社式の背広とか。背広は着たことがありませんけど」
「なんだがわがる。区切りの日に着る制服だな。葬式の服はどんだ」
「たまに着るものじゃなくて、ほかの日も惰性で着てるようなものでないと」
 石門の前にきた。一本道が白亜の校舎に真っすぐ延びている。野球場はきれいに雪掻きされていたが、入学式が行なわれるラグビーグランドは固く締まった雪に覆われていた。桜の老木が間隔をあけて一本道を縁どり、まだ花の咲かない冷たく湿った枝を重そうにしならせている。すでに新入生が集合していた。
「へば、オラは桟敷さいぐすけ」
 赤井は白い校舎へ去っていった。革靴で雪を踏みしめながらラグビーグランドに入る。受験番号の若い順に区切られた列に加わる。クラス別の列ではないとわかっていても、試験会場で見知った顔が多いので、同じ列の学生になんだか親しみを感じる。ここに青森県のほとんどの秀才が集まっている。彼らも同じ気持ちなのだろう、めずらしいものでも見るように、目をきょろきょろさせている。二十人ほどの袴姿の学生たちが白い校舎から出てきた。
「整列!」
 短髪を義務づけられているので、男子全員が坊主頭にしてきたと思っていたが、整列したとたん、私の列の前のほうにいた長髪の少年が、袴の学生の手で引きずり出された。容赦のない平手の制裁を受ける。少年は、恥ずかしい傷跡があるので勘弁してほしい、と訴えたが、許されなかった。教師たちは素知らぬふりをしている。年度初めの見慣れた光景のようだ。父兄の参観は禁止されているはずなのに、ちらほら列のはるか後方、グランドの生垣沿いにそれらしき人たちの姿があった。


         五

 小野という白髪の校長の訓話があった。力のない声なので、何を言っているのかほとんど聞き取れない。学生の自治という言葉だけが聞こえてきた。彼は演壇に上り下りするとき、かなり脚を引きずった。加藤雅江のような先天的な不具というのではない、人生の途上で得た傷だろう。神秘的な迫力があった。
 各教科主任の略式の紹介につづいて、教頭が大きな声で学校の来歴と伝統を語った。どういう脈絡で言われたのだったか、死の行軍、という話が出た。野球グランドのレフト側にある古びた三階建ての校舎が、一時的に八甲田山への行軍の駐屯地の役割を担ったということだった。正門もその当時のまま使っているのだと言う。振り返って見ると、野球グランドの片隅に、生垣に貼りつくように連隊駐屯舎が建っていた。六十年以上も前の古びた建物が、空も校庭も白いせいで、空間にくっきりと開いた穴のようにまがまがしく見える。話の終わりに教頭は、
「わが青高は、東大合格者数で秋田高校にひけをとっております。今年こそ、肩を並べられるようがんばってほしい」
 と言った。どうして秋田高校に勝利する必要があるのか疑わしかった。式のあいだじゅう、黒袴に下駄履きの上級生たちが、うろうろと列のあいだを歩き回った。異様な感じがしたが、恐ろしくはなかった。
 全校の代表らしき女生徒が歓迎の辞を述べた。一割ほどしかいない新入女子学生たちに奮起を促していた。これまた何に対して奮起せよというのだろう。生徒会長の祝辞、各クラブの部長の勧誘と乱雑に式は進行し、最後に音楽教師のタクトに合わせた校歌が高々と校庭に響きわたった。宮中と同様、男女の混合合唱だった。声が空に上がったとたん、からだじゅうに粟が立った。こればかりはすばらしかった。

 東嶺(あずまね) 岩木嶺 八甲田山
 秀(ひい)づる山並 青垣なして
 めぐらす陸奥湾 碧波をたたむ
 自然の息吹に 人清く
 誠実(まこと)に築き いそしみつとめ
 和協の大道(たいどう) ひらきゆく
 おお伝統の 白亜のまなびや
 永劫の時の流れに うち刻み
 かざさん かざさん 無限の象徴(しるし)

 
 宮中にまさるとも劣らない美しい校歌だった。一番しか歌詞がないのも風変わりで、かえって粛然とした感じがした。赤井が毎年これを聴きたい気持ちがよくわかった。
「生徒、解散!」
 あっけなく散会が告げられたとたん、掲示板で自分のクラスを確認して帰るようにという放送が流れた。
「上級生も含めた合同の始業式は、四月十二日月曜日、八時半から体育館にて行ないます。自由参加ですが、なるべく出席してください」
 みんなで校庭の隅の掲示板に殺到する。私の名前は五組の中にあった。掲示板には土足許可は入学試験の日だけなので、十二日までに学校指定のズック靴を指定販売店で入手するように、という貼紙もしてあった。
 白亜の校舎から出てきた赤井と、粉雪の舞いはじめた土手道を帰った。
「ンガが学生服買ったアカシで、上履きも売ってら。組が決まったんだすけ、襟バッジも買っとげ。六月の衣替えの前に、半袖シャツも買っといたほうがいいど」
 川面の白い泡が私たちに並びかけ、素早く追い越していった。
「すごい校歌だったなあ」
「だべ。オラだば、日本一だと思ってら」
         †
 目と鼻の先にいるカズちゃんにハガキを書いた。

 簡素な入学式でした。十二日の始業式が本式の入学式に当たるようです。校歌がこの上なく美しく、県下第一の名門校のプライドにあふれていました。とてもカズちゃんに会いたいです。でも五月までがまんします。おからだ気をつけて。栄養士の資格を生かせる仕事があればいいですね。

 すぐにカズちゃんから、たった一枚の便箋が入った封書が届いた。

 私はキョウちゃんのことだけを思って暮らしています。仕事はすぐに決まりますのでご安心を。郷さまへ 和子

 三日も経たないうちに、道が地肌を見せはじめた。生ぬるい春風が、草木のにおいを線路端の窓に運んでくる。じくじくした地面から水蒸気が揺れながら立ち昇り、鮮やかな色の針のような草が、泥から突き出した。線路の鉄条網にスイカズラやスグリが這い、道路沿いの白樺の芽はアルコールのようなにおいをただよわせている。
 玄関のおとないの声をミヨちゃんが確かめに出て、部屋に告げにきた。
「野辺地から、中島秀子さんというかたが訪ねてきました」
 残念そうな顔をしていた。居間でテレビを観ていた赤井が玄関のほうに首を伸ばした。紙袋を二つ提げ、冬の紺色の制服を着た〈けいこちゃん〉が玄関に立っていた。素肌にブルーの靴下を履いたスカート姿が初々しかった。思わずけいこちゃんと呼びかけそうになった。
「ああ、ヒデさん。よくここがわかったね」 
「奥山先生に教えてもらいました。青森駅から、すぐそこの大通りまでバスできました。デートの約束、憶えてますか」
 みんなに聞こえている。
「もちろん。わざわざ出向いてくれて、ありがとう」
 居間に連れていって紹介した。ヒデさんは膝を折り、新聞紙の包みが入った紙袋を差し出した。
「これはうちの種畜場でとれた豚肉です。とれたばかりなのでおいしいですよ」
 奥さんが大喜びした。今夜はトン鍋にしましょうと言って、台所へ持っていった。
「もう一つの袋はりんごです。みなさんで召し上がってください」
 差し出すと、図々しく赤井が受け取った。ヒデさんはサングラスの男を気の毒そうに見て、顔を伏せた。赤井が目を細めて彼女のうつむいた顔を見ている。
「何年生がな?」
 サングラスが尋いた。
「中学二年です。兄が神無月さんのおかげで野辺地高校に合格しました。そのこともお礼を言いにあがりました。母がよろしくと言ってました」
「ぼくのおかげじゃないよ。山田くんのおかげだ。それと本人のがんばりだね」
「いいえ、神無月さんが最後まで教えてくれたからです」
「山田くん、具合はどう?」
「あまりよくないようです。山田さんのお母さんがうちにきて、母と話してました」
「そう……」
「勉強部屋、見ていいですか」
「うん、どうぞ」
 なぜか赤井もいっしょに立ち上がった。先にいって勝手に私の戸を開ける。
「赤井くん、あんまり野暮しねんだ」
 主人が背中から笑いを含んだ声をかけた。赤井は返事をしない。ヒデさんは彼のことなど眼中にないように、
「わあ、落ち着いた部屋ですね」
 遠慮がちに入り、机を撫でた。足もとのテープレコーダーを見つめる。
「何か聴かせてもらえますか」
「うん」
 ヒデさんが横坐りに腰を下ろすと、赤井まであぐらをかいた。私がリールをいじるのを興味深そうに見ている。ポール・アンカの『タイム・トゥ・クライ』を聴かせた。ヒデさんはうっとり目を閉じて聴いた。
「あんた、きれいな人だな。言われねが?」
「いいえ。一度もありません」
 赤井はヒデさんが気に入ったようだった。
「神無月のこと、好きだのな?」
「……はい」
「まいったな。ワ、あっちゃいぐじゃ」
 大きく笑って退散した。丁寧に戸も閉めていった。
「クロスカウンターだったね」
「だって、ほんとのことですから。……あの女の子、きれいですね」
「まだ小学六年生だよ」
「女はわかりません。神無月さんのこと、好きみたいです」
「はいはい」
「もう一曲、聴かせてください。そしたら帰ります。駅まで歩いて送ってくれますか」
「デートは」
「それでじゅうぶんです」
 ティミ・ユーローの『ハート』を聴かせた。今度もヒデさんはうつむいた。左手を私の膝に置いたので、反射的に手の甲に手をかぶせた。抱きかかってきた。私は彼女の一連の自分の行動に驚きながら、まったく抵抗しないで唇の表面だけを触れた。柔らかい唇だった。カズちゃんとちがって、性的な誘いがなかった。
「ありがとうございます……」
 そう言って、すぐに姿勢を正した。この感謝の言葉を、加藤雅江が発したことを思い出した。感謝されると、私の行為は奉仕になる。
「夏には帰ってきますよね」
「うん」
「海か、山に、今度こそちゃんとデートしたいです」
「そうだね。山がいいな」
 実現しないだろうと思いながら言った。戸が叩かれた。開けると、ミヨちゃんが剥いたりんごを皿に載せて立っている。無理に笑顔を作っていた。
「もう失礼します。駅まで神無月さんに送ってもらいます」
 玄関にみんな立って見送った。サングラスまでいた。
「合浦公園でも見せてあげなさい。桜が咲きはじめてますよ」
 奥さんが言った。
「はい。ぼくも合浦は初めてですからいってみます」
「ワもいぐか。連れてってやら」
「赤井くん!」
 奥さんに睨まれて赤井は頭を掻いた。ミヨちゃんが皿を持ったままさびしそうな目をしていた。
 街道を渡って、公園の入口まで歩く。松林に雑じって五分咲きの桜並木が見えた。
「きれい!」
「ほんとだ。こんないい場所がすぐそばにあるなんて知らなかった。わあ、広いなあ!」
 とにかく広かった。入口を入って左に球場が建っている。右手の林の奥に小ぶりな社(やしろ)が見える。
「いってみる?」
「いいえ、デートの時間がもったいないですから」
 桜と松の並木の中を真っすぐ歩いていく。しだれ桜をくぐり抜けると、湾曲した砂浜に出た。凪いだ海の色が黒々としている。突堤の端まで歩き、しばらく潮風に吹かれた。
「ケーキでも食べていこうか」
「はい!」
 奥州街道から海側に一本外れた通りを駅まで歩く。堤川に架かるウトウ橋という石橋を渡った。ヒデさんは左右の商店やビルを見やりながら、
「青森市って、都会ですね」
 頬を赤らめて言う。
「うん。名古屋より少しさびしいくらいかな」
「……名古屋のこと、いつか話してくれますか」
「いつかね。いい思い出じゃないんだ」
「はい……」
 駅前のグランドホテルのラウンジに入った。ウィンドーのケーキを適当に注文する。コーヒーも二つ頼んだ。テーブルに向かい合って座ると、ヒデさんはじっと見つめてきた。
「きれい……」
 いつのころから私はこんなことを言われるようになったろう。あのスカウトがきた夏に近い春、母がたった一度だけ、私がユニフォーム姿のまま学校から帰宅して食堂の長床几に腰を下ろしたとたん、いい男だねえ、と呟いて目を細めたことがあった。あれが最初だったかもしれない。いや、カズちゃんの〈女殺し〉が最初だった。あれから五年の歳月が流れた。野辺地の机で、もう自分の顔を見るまいと決意して以来、一度も鏡を覗いたことがない。
「神無月さんて、とびきりの美男子ですね。映画でもテレビでも見たことのない顔です。……私、いま一生懸命勉強してます。青高にいきたいから。神無月さんが三年生のとき一年生になれば、一年間いっしょにいられるでしょう」
「そうだね、そうなるといいね。がんばってね。まず、よしのりの妹に勝たなくちゃ」
「はい。二年がかりで抜くつもりです」
「二年がかりか、気が長いんだな。とにかく一番になってね。―さっきは悪いことしちゃったね」
「いいえ、期待してましたから。……感激しました。ふるえてしまいました。今度は……」
「今度は?」
「なんでもありません。このケーキ、おいしい。少しお酒が入ってるみたいです」
「ほんとだ。ウィスキーだね」
 サバランというケーキだった。コーヒーにじつに合った。
 青森駅の長いホームで見送った。ヒデさんは窓からからだを乗り出して、いつまでも手を振っていた。



         六

 暖かい風が吹きだし、雲の輪郭が鮮やかになった。何日か、風まじりの雨が小やみなく降った。やがて風が静まると、地面の上に濃い灰色の霧が拡がった。始業式までの短い休みのあいだ、私はほとんど毎日、傘を手に堤川沿いを散歩した。霧の中で川の水が増し、小枝や葉が流れていき、濁った水が泡立った。長い冬はようやく終わったようだった。何日もしないうちに、霧が上がり、雲が散って、青空が見えるようになった。
「合同始業式の日だすけ、いっしょにいぐべ」
 赤飯を食いながら赤井が言う。毎年この日だけは特別に赤飯を炊くのだと奥さんが言う。赤飯の好きな私は二杯お替りした。葛西一家は黙々と箸を動かしていた。ミヨちゃんのあごの筋肉が上品に動いた。
「どういう始業式なんですか」
 私は数日前の駆け足の入学式を思い出し、きょうの始業式は正式な入学式を過不足なくやり遂げるものだと思っていた。そうではなかった。
「年度始めの討論会よ。出たくねなら、出ねくていんだ。出るなら、まずクラスのホームルームさいがねばなんね」
「神無月さん、テープレコーダーを聴かせてくれませんか」
 箸を置いてミヨちゃんが言った。
「これ、ミヨ子、神無月さんは忙しいのよ」
「いいですよ。赤井さん、少し待っててください」
「おう、ゆっくり聴かせてやれ」
 主人がうれしそうに笑い、サングラスも口を大きく開けた笑顔で天井を向いた。
 私は部屋に戻り、プレスリーの『好きにならずにはいられない』と『涙のチャペル』を聴かせた。予想したとおり、ミヨちゃんは私にもたれかかり、唇を求めてきた。唇の表面だけを接した。ヒデさんよりひんやりした唇だった。ミヨちゃんはぶるぶる全身をふるわせた。
「好きです……」
 と言った。そしてヒデさんと同じように私から離れて正座し、静かに聴き終えた。
「ごめんなさい、図々しく」
「いいんだ、勇気のある人は好きだ」
 赤井といっしょに上履きだけを持って出た。乾いた道にただよう汐気を含んだ空気が冷えびえと快い。土手の柳の周りでミツバチがうなっている。青い空から目に見えないひばりの声が落ちてきた。浪打から青森駅へ向かう汽車が通り過ぎたので、子供のように手を振った。赤井は笑って見ていた。生きているだけでうれしくなる日だった。こんな日は生涯にめったにないだろう。記憶しようとした。
 土手道の途中で、こちらに向かって歩いてくる何人かの高校生に出遇った。帽子から青高生でないとわかった。彼らは私たちの学帽を目にすると道を譲り、中に深々とお辞儀する者までいた。〈セイコ〉の威勢をあらためて知った。
「山田高校だ―男は礼儀正しいばって、女は不良ばりよ。おっかねんだ。手首の包帯さカミソリ隠して歩ってるらしじゃ。目合わさねようにすんだ」
「風聞でしょう。映画みたいな女の不良っていませんよ。いたとしても、男とちがって一生不良を通せないところがかわいらしい。せいぜい暴走族とつるむくらいで、プロのヤクザ者にはなれない。かならず家庭に組みこまれる」
「わがったようなこと言うでねが。したども、そのつながりが危ねんでねが」
「そうですね。暴走族みたいなやつらの視線は、素人に向いてますからね。自分より弱い者にね。本物のヤクザは、素人には鼻も引っかけない。食い物にはしますけど、いじめることはしない。とにかく、包帯に出遇ったら退散することにしましょう。山田高校といえば、野辺地中学校からトランペットでスカウトされたやつがいます。ハリー・ジェームズを尊敬していて、たぶん将来有名になると思う」
「なんだがわがんねが、あそこの吹奏楽は名門だ」
 川面の泡をかすめて飛んでいく小鳥のさえずりを、めずらしいものに聴いた。土堤伝いに田んぼが広がっている。あたり一面、レンゲの薄紫色だ。
「野辺地には大きな川がないから、こんなきれいな景色は見られない」
「おめ、いっつもそたらことばり頭にあるのが」
「はい、花があれば花、川があれば川」
「女があれば……」
 ギロッと赤井は横目で私を見た。意外に深い意味合いを含んだ視線だった。港の小路へ消えていった彼の背中を浮かべた。あの小路は、名古屋駅裏の風景に似ていた。
 堤川の対岸が空を背景に深みどりに冴え、目を凝らすと、平べったい林の一本一本の樹木が澄みきった大気の中にくっきりと識別できた。高い空にまるでパステルで描いたような雲が散っている。
「季節はちがうけど、千曲川もこれと同じくらいきれいだったな」
「千曲川?」
「小さいころ大好きな人に連れてってもらった」
「この景色がきれいに見えるな? オラの目にはあだりめに見えるけんどな」
「見慣れてるからでしょう。慣れるのはよくないと思う。慣れは、和合ではなく、黙殺です。黙殺すると本質を見逃してしまう」
「生意気こぐな。自然と人間の和合というのは、科学的な概念だど」
 私は笑いながら、工学部志望の文明の子の発言を聞いた。
「その和合は妥協という意味ですね。すみません、言葉が足りませんでした。ぼくの考える和合は妥協ではなく、愛し合うことです。赤井さんの和合というのは、職業的な農民の考え方ですね。きびしい自然をきびしいと感じて暮らしている人たちは、自然と和合しないで、妥協します。人間としての苦しみの解決を、自分とは異質な美には求めない。生活だけが大事なので、自分以外のものを生活の邪魔者にすぎないと思ってる」
「何が言いてんだ」
「妥協などせずに、自分よりも美しくて強い自然とも人間とも、快く和合するべきだということです。異質なものに感動して愛する心を失ってはいけないということです。自然も人間も同じように美しくて、強い。妥協してたら気づかない」
「それが、おめの言う本質ってやつが」
「はい。自分以外のものが美しく、強くないと、和合して生きていく気にはなりませんからね」
「…………」
 眼を足もとに戻すと、このあいだまで根雪の残っていた道の肩を縁取るように、イヌノフグリや十二ヒトエが咲いている。自然や人間を見つめる私の心の奥には、幼いころからいつも感動を求める欲望があったけれども、とりわけこの半年のうちに私は、自然であれ人間であれ、その美的な本質を作品の形で写し取る芸術こそ、人びとの魂を苦しみから解放するものだと考えるようになっていた。そう考えることで、私はあこがれの心が少しずつ満たされていくように感じた。神宮の杜や、牛巻坂の空や、牛巻病院が蒸気のように消え去り、小説か何かで読んだ景色のように感じられた。そして、いまの生活がずっとむかしから、この場所で、変わらずにつづいてきたような錯覚を起こした。
 ―太陽は輝き、空は青い。これ以上何が必要だろう? 幼いころからの不幸も、人びとの愚かな行動もぜんぶ忘れよう。過ぎ去ったことだ。一瞬、一瞬、何かが終わっていくのだ。実際いまもたえず過ぎ去っているのだし、結局何もかも、取り戻せないのだ。
 私は、熱に浮かされて動き回ったあの半年を、生まれてからの自分の悪行に科された懲役のようなものではなかったかと考えてみた。しかし、どんな悪行だったのだろう。とにかく私は苦役を与えられたのだ。筆頭の審判者は母だった。この考えはまちがっているかもしれない。私は、罪のもとになった自分の行ないと言わず、言葉と言わず、少しでも瑕(きず)を探し出し、誇張して思い起こそうとした。苦役に値するほどの罪と言えるものは思い当たらなかった。
 私は、心にもないあら捜しに無理やり励もうとする自分に気づいて、ゾッとした。だれが審判者だったわけでもないのだ。ただ、どれほど私がつまらない人間だったか、彼らがきびしく忠告してくれたにすぎない。あの半年間の私の行動は、静かに暮らしている人たちの安らぎを乱すような、独りよがりの、言いわけのしようもない醜いものだったということだ。しかし、自分の意思だけを重んじ、脇目も振らず生きるのが醜いものだとするなら、その醜さは、どこから苦役を科されるような罪に変わるのだろう。意思と没我が断罪に値するほど醜いとするなら、人の安らぎを乱さずに思いどおりに生きることなど、到底できない。私はもう一度、川と、土の道と、空の風景を眺めた。美しかった。カズちゃんと、加藤雅江と、ヒデさんと、ミヨちゃんの唇の感触が、励ますようにやさしく甦った。一つひとつちがう花が私の意思と没我の罪を求めている。
 遠くの山肌にはまだ雪があり、ふもとのあたりに葉を落とした雑木林が寒々と立っていた。私はまるで生まれて初めて味わうように、周囲の空気を胸いっぱい吸いこんだ。すがすがしかった。
「先にいくど。付き合ってられねじゃ。おめ、ゆっくり歩ってこい」
 赤井はずんずん歩いていってしまった。
 荒川と駒込川の落合から五、六分も県道へ入りこんだあたりに、青森高校の校舎が何棟か固まっている。入学式の日よりもずっと白く輝いて見えた。正門から三階建ての校舎まで真っすぐ延びる道は、目測で百五十メートルはあった。桜が満開だった。桜並木の左に黒々と地面を曝したラグビーグランド、右手に手入れのいい焦茶色の野球場が広がっている。まだ野球部員の姿を見かけたことはなかった。
 校舎の入口にたどり着いて、一面に白いペンキの塗られた板壁を見上げた。薄暗い廊下の浮世離れしたたたずまいに、感覚がしっくり馴染んだ。五組にたどりつくには、あちこちで枝分かれする入り組んだ廊下を歩いていかなければならなかった。まるで迷路だった。
 五組の教室は、三階に上がる階段のとば口にあった。すでに眼鏡をかけた担任が教壇に立っていた。まだ教室がざわついているので、彼が到着したばかりだとわかった。なぜか学生たちが落ち着かない様子で立っている。
「私はおまえたちの担任の西沢利治(としはる)だ。数学を教える。よろしく」
 辛うじて訛りを抑えたしゃべり方だ。彼は名簿の名前を呼び上げながら、あいうえお順に生徒たちを着席させていった。私は廊下側から二列目の三番目になった。生徒たちはたがいに指定の位置を崩し合い、半数以上の生徒が入れ替わった。女子は固まって窓際に座った。これも伝統らしかった。
「室長は古山善猛(よしたけ)、三番入学、副室長は鈴木睦子、五番入学。おたがいの顔なぞいずれわかってくるから、自己紹介は割愛する。では、あしたから授業開始。一週間ほど予習しなくていい。どの先生も雑談だ」
 オオ、とみんながどよめいた。あからさまに成績を発表して委員を決めるやり方に興奮したのだ。彼らには同じ中学出身の知り合いも多いようで、あちこちから囁き声が聞こえてくる。
「一番は、十一組の梅田滋(しげる)だずじゃ。四番は二組の一戸通(とおる)」
「二人とも筒井中学な」
「おお、古山も鈴木も筒井だ。あすこから青高さ五十人も入ってくるべよ」
「二番はだれよ」
「わがんね」
 私の名は囁かれなかった。エリート中学出身でなかったからだ。宮中とそっくり同じ待遇だった。
「百番までの合格者は、週二回(け)、別校舎で英語の特別授業を受けるツケ」
 どうして知っているのだろう。そんな情報は私の耳をかすめたこともない。しかし、私は野辺地町からたった一人の合格者なのだ。しかも二番入学だ。その特別教室で胸を張っていたっていい。隣の列の先頭が古山だったので、尋いてみた。
「きみは何点取ったの」
「三百三十六点。梅田は三百四十七点。大した差でねでば」
 黒縁の眼鏡を押し上げながら、ニコニコ顔で言った。いつも笑っているせいなのか、少年なのに目尻や頬の皺が深い。西沢が冷めた声で、
「火曜と金曜の三限目、英語の特別クラスにいくメンバーを八人、発表する。奥田毅、小田切芳秀、神無月郷、古山善猛、今稔(みのる)、佐久間誠、佐藤健一、鈴木睦子。ところで神無月は英語は五十四点で一番、総合三百四十三点で二番合格だ。野辺地中学校出身だ。やる気が出るべ。だば、始業式に出るやつは体育館さいげ。いきたぐねやつは帰っていい。あしたから授業開始だ」
 半数以上が立ち上がった。古山も立ったので私は彼のあとにつづいた。だれも話しかけてこない。どやどやと階段を降り、廊下を幾曲がりかして、照明の明るい体育館に流れこむ。すでに千人ほどの学生が集まっていた。それでも立錐の余地がないというほどではない。体育館が広いのだ。もじもじと物慣れない様子の者もいれば、居心地のいい場所を求めて右往左往している者もいる。悠々然と集団の中へ入っていく者、恥ずかしそうに戸口に隠れている者。しかし、赤井の言うように、整列もせずに雑然と立ち並ぶ彼らみんながまぎれもない秀才なのだと思うと身が引き締まった。
 しかし、全員の目に光があるわけではない。目の力と光は先天的なものだ。私は目を褒められるのがいちばんうれしい。たとえ目に光はないとしても、赤井の話では、彼らはいままで見たこともない、とてつもなくデキのいい学生たちのはずだ。いずれにせよ私は、秀才の誉れ高い一団を高い天井の下に見出したとき、守随くんの部屋から何の鍛錬もせずに勉強のプロの世界に紛れこんだ詐欺師のように感じた。
「おめ、英語一番だったずか。尊敬すじゃ。ほれ、あれが梅田だず。小学校のときからあれとデッドヒートだ」
 古山があごで示した先に、一人だけ目立って背の高い眼鏡がいた。私がじっと見ていると、気配を察してふとこちらを向いた。ニキビ面の平凡な顔をしていた。あした忘れてしまうような顔だった。女子がちらほらいる。私の属した五組は、五十三名のうち九人が女生徒だった。六人に一人。周囲を眺めると、たしかにその割合で散らばっている。ほとんどの女子が、どちらかといえば垢抜けない様子をしていたが、中にボーイッシュな髪型をした端正な顔立ちの女生徒が、都会風の颯爽とした感じで目立った。眼が合うと、恥ずかしそうに横を向いた。明るい目、広い額、そして姿勢のよい長身に清潔感があった。
「あれは?」
 古山に尋くと、
「え? ああ、木谷千佳子。あれも筒井中学だ。この目で睨んだところ、アダマ悪りな」
「頭が悪い? どの目で睨んだんだ。どうかしてるんじゃないのか」
「おめの目がおがしんだべ」
「あの端正な顔立ちは、聡明さの証拠だ」
「端正てが?」
 呆れたふうに横を向いた。



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