十九

 帰り道、赤井は、四号線を通って新町通りへ回った。あの神社あたりを目指そうというわけだ。
「どんだった?」
「気に入りました。さすが東大、勉強のプロですね」
 赤井は自転車を漕ぎながら、にこりともしない。目を見ると、喜んでいるのがわかった。
「中学時代にも一度塾に誘われた経験がありますが、授業中に退席をしました。きょうは感動して最後まで聴いてしまいました。ただ、塾というものにはかよう気がしません。一種の宗教団体です」
「ひで言い方だな。好きにしろじゃ。……いまから、ちょっといいところへ連れてってやら。見学だけな」
 赤井は堤橋の例のポリスボックスから右に折れ、ウトウ橋を左折して、本町の信号を右に曲がり、真っすぐ港のほうへくだっていった。あの稲荷神社の手前の十字路に自転車を止め、薄汚れた横町の奥まった暗がりを見つめた。少し自転車を牽いていき、電信柱の根方にスタンドを立てて鍵をかけ、さらに風通しの悪そうな一本の小路へ曲がっていった。古い家並の何軒かの窓が蛍のように明かりを灯している。露地のところどころにタールを塗った黒いごみ箱が置いてあり、その傍らに何人かケバだった雰囲気の女が立っていた。
「女をナマのまま皿に盛ってる場所だ。活け作りの刺身だな」
「刺身ですか」
「いぢばんうめ切り身は、まんじゅだ」
「言葉が迫りますね。女にはそういう要素がありますけど」
「……いいべ、このあたり。このまんま自分が壊れていきそンで、ぞくぞくしてくるじゃ」
 赤井の心が照らし出されて、胸にきた。
「こういう場所、長いんですか」
「おめは経験があるのが」
「ありません。ここと似た場所は、名古屋にあるので知ってます」
彼は私をするどく見つめ、
「……ミヨちゃんな、あれは賢いけんど、内にこもってるはんで、利口か馬鹿かすぐには見分げがつがね。危ね」
「はあ?」
「あれのからだ格好を見てると、ムラムラすんだ。そういうとぎに、よくこごさくる。おめもときどき、ミヨちゃんをじっと見でることがあるべ。小学生にしては、たしかに色っぺすてな」
 赤井は自分の言葉に刺激を受けたのか、唐突に、女というものがいかに性悪で、エゴイストで、思慮の浅い生きものであるかを語りだした。それはあたりに響くほどの大声になった。
「女はみんな同じだど。なしたって、女は男の目的にはなんね」
 赤井は不機嫌だった。その勢いのまま、寄ってきた最初の女を強い態度であしらった。その邪険さは、断られた女に同情してしまうほど激しいものだった。塾で勉強していた顔とまったくちがっていた。
「あの手のは、高げ。もっと年食ってたほうがいい。親切だしな」
 私は黙っていた。いまこの瞬間にも死んでいこうとしている山田三樹夫のことが浮かんで、いちどきに目が熱くなった。彼がこの世から消え失せても、何も変わらない。いっさいがもとのままだ。
「なんだ、神無月くん、暗い顔して。あんな女どもを憐れんでんのが。憐れみなんか、無駄だど。やつらが求めてんのは、憐れみでね。金だ」
「憐れんでるわけじゃありません。死にかけている山田のことを思い出してたんです」
「オジサンも言ってたべや。山田くんは従容として死につくべおん。生き残った者も従容とせねばな」
「従容もけっこうですが、悼む心も消せないんです。別に不謹慎だと思ってるわけじゃありません。ぼくは、好きな女以外のからだには大して興味が湧かないんですよ。……ミヨちゃんを見てたのも、ただ美しいなと思って」
 私は無理な笑いを浮かべて言った。カズちゃんとすごすひとときが思い出された。好奇心ということではなく、実際に性器に血が循(めぐ)るという意味では、私はカズちゃん以外に性欲を覚えない。それはいつ回復するとも知れないある種の不能状態だ。
 糠のような雨が落ちてきた。夏が近いのに、霧雨のせいで小路に連なる低い屋根が、霜が降りたようにきらめいている。
「帰りませんか」
「帰らね」
 赤井はじっと軒灯の下にたたずむ女たちを物色していた。彼の視線に気づき、人並外れて小柄な若い女が近寄ってきて声をかけた。赤井を見上げる目に〈刺身〉の自信があふれている。私はぞっとした。
「学生さん?」
 赤井も私も学生服姿だ。
「あっちさいげ!」
 赤井がとげとげしく言った。
「金、貸してくれ」
 女が去ると赤井が囁いた。私はポケットを探り、たまたま持っていた千円札と小銭を差し出した。カズちゃんの封筒には手をつけなかった。
「これだけしかありませんけど」
 赤井はその金をひったくるように奪い取り、暗がりへ歩み去った。
 自転車に跨って奥州街道へ戻った。人通りの少ない街路にまばらにネオンの灯りが残っている。灯りの中へ細い雨が斜めに落ちてくる。看板の建てこんだ街並は名古屋と変わらないのに、明かりの少ないせいで通り全体の密度が薄く見える。
 いかにもむかしふうに凝って建てたような喫茶店があった。ふと入ってみたい誘惑に駆られたが、通りすぎた。クマさんと入った喫茶店のような素朴なドアに、金張りの派手なノブがついていたからだ。人は何とか工夫して営々と商売をつづけていく。金銭が介在する上昇志向だ。そういう人びとのそばに近づきたくない。
 私は夜の港を見るつもりで、もう一度、堤町の中央郵便局の道筋から港のほうへ下っていった。街灯の連なる一角に出た。坂道の両側に、壁の彩りが一軒一軒ちがう新しそうな家が密集し、まるで絵本のようだった。防波堤まで下りていくと、工場や市民会館やアパートの隙間に、小庭のある集合住宅と、さびれた民家が入り混じって立ち並んでいた。一風変わった乱雑な風景だった。堤防の切れ目から、黒い海が見えた。
 霧雨を顔に受けながら、坂道を四号線へ戻り、合浦公園目指して全速力で堤橋を渡った。夜の舗道にちらほら人の姿がある。公園の入口に自転車を止め、中へ歩み入った。遊歩道の両側に黒ずんで見える松林と、もうほとんど枝ばかりになった桜並木があった。散り敷いた桜に風情を感じた。木立がさわさわ揺れている。松原を抜け、さっきの湾よりも暗い海に出た。深く息を吸った。青森港から出ていく船の丸窓が、雨の中で遠く一列に輝いている。凍ったさびしい光だった。
         †
 二十三日水曜日。シャワーと晩めしを終え、先月名前に魅かれて買った単行本を開く。ピカート。われわれ自身のなかのヒトラー。このごろ本を買うとき、わざと聞き覚えのない著者の背表紙に近づき、その名前の響きで決めることにしている。名前がすっきりしていれば、たいてい本の題名もすっきりしているので、きっと内容の理解がはかどるだろうと思うからだ。しかしこのフランスの哲学者の本は、いざ取りかかってみると、あまりにも難しく、ノートに図解しながら読んでいく破目になった。しかし図解しても、さっぱりわからない。
 居間のほうから小さく電話のベルが聞こえた。奥さんの足音が近づいてくる。戸がノックされた。
「はい」
 深刻そうな顔が覗き、
「山田さんが―」
「……死んだんですね」
 幼いころから私の胸の中には、灰色の半透明の壁に囲まれた小部屋があって、何が起ころうと、ほかの人たちが何に胸打たれようと、それどころか、たとえ自分の心が感動にふるえているその瞬間にも、すべてをその部屋へ放りこみ、単色のスクリーンを通して眺めようとする癖(へき)があった。しかし、このときばかりは、悪寒のようなものが走り、山田の死の報せを小部屋へ放りこむ作業を中断させた。それは予想していた以上の衝撃だった。
「お母さんと、妹さんと、マコトちゃんに看取られて、つい一時間ほど前……」
「そうですか」
 山田三樹夫の骸―さっきまで生きて動いていた〈人間〉であったのに、いまは静止して横たわっている〈物〉。湯灌(ゆかん)され、やがて焼かれる、何も言わないかたまり―。
 おぞましいイメージが覆いかぶさってきた。ついさっきまで友人だった人間が、ものと化した姿に、私は身をよじるほどの恐怖を感じた。
「三年一組の名前で花輪を出しておくから、安心してくれって、マコトちゃんが」
「花輪?」
「葬式の花輪ですよ。あなたに会えたことを、山田さんは最後まで感謝してたって」
 涙が湧いてきて、机に向き直った。奥さんが戸を閉めた。
 彼といっしょにいた時間がいちどきに蘇ってきた。居たたまれなかった。表に出ようとして部屋の戸を開けると、奥さんはまだ心配そうに上がり框に立っていた。居間で新聞記事を盲人に読み聞かせている主人の肩越しに、台所で一心に洗い物をしているミヨちゃんが見えた。見れば見るほど、赤井の感想とちがって、けなげで、正直な少女に見えた。赤井は部屋でいつものペースで勉強しているようだった。
「少し、散歩してきます」 
「―カギは、ずっと開けときますから」
 気遣わしげに奥さんが言った。
「すみません」
 外へ出て、堤橋のほうへ向かった。どこというあてもなく歩きながら、気がつくと、松原通りを堤川の上流に進んでいた。店仕舞をした藤田靴店を過ぎる。藤田は特別クラスに属していない生徒だが、中間試験では全校の成績優秀者の十傑に貼り出されていた。暗い男で、いつだったか佐久間に、靴底がだめになったらうちで廉く直してやる、とボソリとしゃべったのを耳にしたことがある。
 土手道へ入り、しばらく川沿いに歩く。陽がすっかり隠れ、向こう岸の林がところどころ疥癬にかかったように白く浮き上がっている。白い林の背後は、黒く角ばった入り江のように見える。昼間あれほど美しい岸辺がまがまがしいものに変わっている。松原通りへ戻る。左へ曲がればカズちゃんの家だが、彼女には山田のことを話したことがない。話せば慰められ、抱き合うことになる。〈生身〉の感覚を確認することになる。生きていれば経験できた感覚を知らずに〈物〉になった山田にすまない。
 青高の門扉のない正門が見えてきた。ふらりと校庭に入りこんだ。うっすらと明るい。ラグビーグランドの左手の松原通り沿いに五十メートルプールがある。それに向かって静かなグランドを歩きながら、夜の底に沈んでいる白亜の校舎を見つめた。昼間には勤勉さをみなぎらせる白亜の三階建も、黒い虚無に支配されている。敷石を並べたプールのへりに出た。水のない水槽を見下ろし、それから周囲の闇をぼんやり見回した。丈の低い木立の垣の向こうに、街灯のほのかな明かりがある。野球グランドに目をめぐらすと、闇の中に死の行軍の兵舎がわずかに識別できた。大ざっぱな景色だ。暗さに馴染んできた目に、さっきまで黒く虚しかった白い校舎が光輝を放って見えた。
 山田三樹夫は死に、私は生きている。三日もすれば、彼は荼毘に付され、法事が行なわれ、何年かごとに回忌を重ね、やがて人びとの記憶から消えいく。何千年、何万年にもわたって、人は人が消えるのを目撃してきた。泣いた者も、泣かれた者も、みんな土に還った。
 築山の丸太に二つ並んだキンタマ兄弟の背中が浮かんだ。彼らの寡黙さは、静かな人格の証だった。寄り添う二つの背中は、人間愛の碑だった。私はあれから何度も、あの電柱のそばを通った。すると、いつでも、ネクタイをしめた色白の二人が、まだ寄り添って生きているように思えた。記憶はそのあともときどき閃いて甦り、そのつど、あの双子は二人のまま永遠に生きるのだと感じた。しかし、すでに一人は消えていった。もう一人も消えていくだろう。
 康男と出会ったころのことを思い出す。生まれてきた意味と、永遠の友情を疑わなかったころのことだ。東海橋へ送っていく夜道で、病院の大部屋で、なんと彼をなつかしいと思ったことだろう! それがやがて習慣へ、ついには無関心へと変わっていき、二人を結ぶ絆がゆるみはじめた。何年ものあいだほとんど毎日顔を合わせ、彼なしにはどんなことも考えられないほど親しくなりながら、しだいに心が離れていき、こうしてからだも別れてしまった。ついきのうまでは、なくてはかなわなかった友が、きょうはまるで要らないものになってしまい、その不在を不自然に思わない。形を変えてつづく生活の中で、たしかにあったはずの友情がじりじりと焼け焦げていき、ついに灰になった。いまとなっては私も康男も生まれてこなかったのと同じだ。
 いったい、生まれてきて、生き延びることに、どんな意味があるだろう? 山田三樹夫が十六年間生きたことに、何か意味があったのだろうか。彼のしゃべったダイアの言葉は大勢の人びとの吐いた鉛の言葉の地層に埋もれてしまった。人は生まれ、生き、そして死ぬ。そのことに意味などない。意味など何の役にも立たない。生まれてこようと、生きていこうと、死んでしまおうと、そんなことに意味はないし、だれに影響するものでもない。
 そう思い当たったとたん、ふと、私の中に喜ばしい気分が芽生えた。これまで酷薄だと思っていた人生と、まるで親友のように向き合ったような気がした。生きることの無意味こそ親友のようなものだとわかれば、この世から意味という名の冷たい宗教は消え失せる。自分が何をして、何をしなかったか、そんなことはどうでもよくなる。挫折も成功も語るに足りない。だれも、ほんの束の間、この地上を占拠するおびただしい塵埃の一部にすぎないのだ。
 この気分は、明るい一本道を照らし出した。人は意味もなく生まれ、命をつなぐためにある集団の股肱の人となって食い物にありつき、そして意味もなく死ぬのだ。その無意味な生涯を貫く道の肩に、彩り豊かな草花が咲いている。それは悲しい美しさをたたえている。山田三樹夫は与えられた人生を生き切った。彼の進む道端に咲く草花の色彩を知っているのは彼一人だし、たとえ彼の死とともに失われてしまうものだとしても、その美しさを感じた気持ちは彼といっしょに永遠を旅していくのだ。
 涙が流れてきた。何億という無数の人びとの一生は、ひたすら意味の虚しさを知る覚醒の連続だ。彼らは、季節を送迎するのと同じ気持ちで、自分の一生を静かにあきらめていく。あきらめながら、それぞれの感情の赴くままに、意味のない、美しいと信じる道端の草を見つめている。
 私は立ち上がり、大勢の人びとの眼を通して、夜に見入った。闇の涼気も無意味をはらんで輝いていた。美も醜も、世俗も超然も、すべてを受け容れ、死なずに、ひたすら生きること。身の引きしまるようなリアリズムだ。そのリアリズムの正体は、はっきりとはつかめなかった。しかし、それは一つの訪れだった。その内容は、重厚な、見知らぬ言葉で書かれているようだった。稲妻の閃きの中に見える夜の山並のように、その正体がチラリと見えた。生まれてきた意味を、虚しさという喜びの中へ放ってやればいい。虚しさを喜ぶ心こそ命を繋ぐものだ。あるがままの命を肯定すること、そして、この人生という豊かな悲しみから、何か一つの模様を織り上げることは、きっと、喜ばしい諦念に結びつくだろう。
 ―死にたがりには宝物は訪れない! 山田、おまえの言った宝物という究極の個人主義は、このことだったんだな。


         二十

 七月一日、二日と期末試験が行なわれた。西沢に鼓舞されて以来、勉強に全力を注いできたので、全科目まんべんなく得点できたと感じた。中学時代のように、英語と国語はひさしぶりに満点の手応えがあった。
 二日の試験終了時に学生服でグランドに集合。相馬が、
「おとといの予選抽選会に、松森の青森放送スタジオまで阿部にいってもらった。組み合わせ抽選番号は、うちは九番、相手の大湊高校は二番。うちは三塁側だ。勝ち進めばそのときどきで若い番号が一塁側になる。十日に背番号を渡す。じょうずに縫いつけてもらえ。じゃ、あしたの紅白戦で」
「オー!」
 六月二十七日の日曜日と、七月三日の土曜日に行なわれた準レギュラー相手の紅白戦二試合の成績は、九打数六安打、ホームラン四本だった。外角球を片手でレフトへ一本打てたのが収穫だった。高々紅白戦二試合だが、まだ私の実力に半信半疑だったチームメイトの目の前でホームランを四本も打てた喜びは大きい。頼り甲斐のある四番を得て、青高チームの士気は確実に揚がった。
「神無月、本気で甲子園目指すべよ。夢見させてくれじゃ」
 自分も一本ホームランを打った阿部が更衣室でしみじみ言った。
「全力を尽くします。みなさんも死にもの狂いでやってください」
「オシャ!」
 二十人の声が上がった。
         †
 七月四日日曜日。十時からの自主練習に、ほぼ全員が出てきた。十一時過ぎに相馬まで顔を出して、これだけ員数がいるなら、ということで、急遽、実戦態勢の紅白戦をやることになった。
 紅組レギュラー対白組控えレギュラー。ただし五回コールドあり、七回まで。戦力差をなくすために、控えのチームにエースの時田と二年生の控え、三田、沼宮内、佐藤の三人。それからキャッチャーに神山を入れた。レギュラーチームのピッチャーは、三年生の控えリリーフ、白川、守屋の二名。キャッチャーは二年生の室井を入れた。
 昼を回って、葛西さん夫婦とミヨちゃんが金網に見物にきた。
 七対二で、レギュラーチームの勝ち。四回、私のスリーランと、七回、阿部のソロ。残り三点は適時打。すべて私と阿部の打点だった。白組の二点は、二回と三回、金と山内のソロホームランだった。つまり三回までは、先攻の紅組はゼロ対二でリードされていたのだ。葛西一家は私と阿部のホームランを見ることができて大喜びだった。
 相馬からコーラが差し入れられた。彼とマネージャーの安西が全員に紙コップを渡して瓶コーラをついで回った。
「健闘、健闘! 両チーム大健闘! いやあ、得点のほとんどがホームランというのはすごい。神無月の指導の賜物だ。それにしても硬球は飛ぶなあ。こんなに飛ぶものとは知らなかった」
 阿部が、
「振り切った場合だけだじゃ。何千本もコース決めの素振りをやったすけな」
 時田が、
「レギュラーピッチャーで七点はキヅェ」
 神山が、
「おめは三回まで打って取らせたべ。控えでぶつかって、神無月とキャプテンだら仕方ながべ」
 三田と佐藤と沼宮内が口惜しそうに苦笑いした。相馬が、
「十三日からいよいよ一回戦だ。守備位置と打順も決まったし、あとはピッチャーの投げこみと、神無月、阿部以外の打力の充実だ。シートバッティングを主にやればいいだろう。ケッパってやってくれ。ランニングと基礎練習は欠かすなよ」
「はい!」
 相馬は帰りかけて振り返り、
「きみたち―ひょっとしたら、ひょっとするよ」
 用具の片づけを終わって、部室で学生服に着替えて出てくると、金網の外に葛西一家が待っていた。仲間たちに手を振って、一家と門まで歩いた。主人が、
「目の当たりに見だでば。超スラッガーの打球。金網の外にぶっ飛んでいきましたね」
 ミヨちゃんが、
「信じられなかった。あんなに飛ぶなんて」
「ライナーで金網にぶつけた阿部さんのホームランもすごかった。二年生の金さんのホームランはレフトの金網を越えたんですよ。見せたかったなあ」
 主人はタクシーを拾って助手席に乗りこんだ。小さなミヨちゃんが後部座席の真ん中に座った。主人が運転手に、
「カネシメ柿崎」
 何のことやらわからない。
「蕎麦のおやつを食べにいきましょう」
 店の名前のようだ。まだ二時を回ったばかりだった。
「オジサンと赤井さんは?」
 奥さんが、
「二人ともお昼を食べたからだいじょうぶ。赤井さんは勉強、おにいさんはラジオでも聴きながらウトウトしてるんじゃない」
 主人が、
「短波ラジオを持ってるんですよ。南海―東映戦のダブルヘッダーがあると喜んでたすけ、ノンビリ聴いてるでしょう」
 堤橋から左折して、中央郵便局を過ぎ、このあいだカズちゃんと歩いたばかりの四号線を走る。柳町の交差点から右折してすぐのところに、「メ柿崎 という看板を出した大衆食堂があった。
「ここのカレー南蛮蕎麦は〈めぇもん〉です」
「うまいもの、ということですか」
「はい。暑い季節にも、ウメェです」
「カネシメってどういう意味ですか」
「金を独占するというシャレです。商家に多い屋号です。さ、食いましょう」
 ガラガラと戸を引いて入る。居酒屋ふうの広い店内だ。入マス亭の数倍ある。一枚板の大テーブルに四人向き合って坐る。カレー南蛮蕎麦を四人前注文する。座布団を敷いた木製の椅子がなつかしい。窓はすべて明り障子だ。奥さんが、
「私たちは連れてきてもらったことがないんですよ。ねえ、美代子」
「うん。おとうさんが郵便局に出前をとるお店じゃないの?」
「ご明察。ワダシも店にきたのは初めてです。やはりお店で実食しねばニシ」
 出てきたカレー南蛮蕎麦には、真っ黒く海苔を巻いた握りめしと、シバ漬けがついてきた。蕎麦は細めで、鶏肉とネギがうまそうにカレー汁に沈んでいる。箸を割って食う。麺に絡む熱い汁のせいでヤケドしそうになる。鮭おにぎりはギッチリ握られていた。どちらもうまかった。
「うまい! さすがお勧めだけありますね」
「だべ?」
 満足そうにうなずく。一家三人がカレー蕎麦をすする。
「こごではたまに宴会をするんだども、お通しからメインまでさすが蕎麦屋という品出しです。刺身がうまい、つくねの団子汁がうまい、天ぷらがうまい、冷たい山菜蕎麦は絶品です」
「何かの折に、またきたいですね」
「ぜひ! 赤井くんも連れくべ。しかし、鉄砲肩だったなあ。二塁打になりそうな打球を二度シングルにしてまったでしょう。糸を引くような返球だった。あんなすごい肩、初めて見ましたよ。この大会は大騒ぎになりそんだ」
 奥さんが、
「勝ち進んだら観にいかなくちゃ」
 ミヨちゃんが、
「私、学校休んで、第一戦から観にいく」
 私は奥さんに、
「前日に、背番号を縫いつけてほしいんですが。二着。背番号は十日に渡されます」
「わかりました。ぐるっと縫うと、皺が寄ったり取れやすかったりするから、一辺ずつ玉止めしたほうがいいわね。そうして四隅をかがり縫いすればだいじょうぶでしょう」
「おかあさん、お裁縫うまいのよ。心配ないわ」 
         †
 七月十三日火曜日。曇。柱の寒暖計は二十四度。トーナメント第一戦の日だ。
 十一時。トーストとハムエッグとコーヒー。
「ドキドキしますね」
「ふだんどおりにやります」
「あとで駆けつけますからね。三塁側でしたね」
「はい。背番号縫い、ありがとうございました」
「いいえ。ビシッと決まりました」
 ユニフォームのベルトをしっかり締め、スパイクを履き、帽子をかぶる。バスタオルとグローブと、帰りに履く運動靴を詰めたダッフルを担ぎ、二本入りのバットケースを提げ、出発。
 玄関に奥さんとミヨちゃんとサングラスが見送る。主人は出勤でいない。合浦公園内にある青森市営球場まで歩いていく。対戦相手はCブロック第五シード校の大湊高校。
 昼十二時半。一時間前に公園口に集合し、おたがい背番号の位置とたるみを確認し合う。それぞれの背中に守備位置番号が白い角布に縫いつけてある。襟の端から十センチ下、全員OK。たるんでいたら、引っ張って調整する。みんな、ズレもたるみもなし。
「きょう勝ったら、家で直接ミシン留めしてもいいぞ。剥がすのが苦労だけどな。ゲンかつぎだから、ユニフォームは洗うな。泥んこになってもだ」
 ユニフォームを着た相馬が言った。監督は無番だ。
 熱田球場より立派な球場だった。青塗りのコンクリート仕立ての外壁は、背が低いことを除けばほとんどプロ野球の球場だ。出入り口近くの緑地に建てられた記念碑に、この球場が昭和二十五年(一九五○年)に開場した年に、巨人軍の藤本英夫という投手が完全試合をしたと刻んである。初めて聞く名前だった。
 入口通路に入り、回廊を歩いて二つある控室の一つにどやどやと入った。しばらく待機して相馬の指示を待つ。相馬は無言のまま両手で頬をさすっていたが、ひと声、
「じゃ、いくぞ!」
「オー!」
 控室から三塁側ベンチに入って驚いた。熱田球場の内野グランドはもっと固くてザラザラしていた記憶があるけれども、ここは粘土舗装でしっとりと黒く、外野は鮮やかな天然芝だった。両翼九十八メートル、センター百二十一メートル、照明灯六基。観客数はネット裏、内野席合わせて三千人、内野席はベンチ上までしかない。外野芝生席七千人、都合一万人入ることになっている。スタンド半分も埋まっていない。狭い芝生席の向こうは合浦の森。百二十メートルも飛べば場外ホームランになる。何万人も入るプロの球場とは比べものにはならないけれども、初めて目にする壮観な眺めだ。スコアボードも旗が五本立っているしっかりしたもの。旗は揺れていない。フェンスの高さは金網も含めて三メートルぐらいだろうか。センターフェンスに、バックスクリーンを挟んで、主催青森県高等学校野球連盟、後援日本高等学校野球連盟・朝日新聞社と書いてある。
 両チーム入り乱れてランニングやストレッチに散る。私は外野の芝生で率先して背筋腹筋腕立てをやった。毎試合やろうと決めている。阿部以下全員が倣った。
 高校野球には試合前のバッティング練習がないと初めて知った。考えてみれば中学校もそうだった。そんなアトラクションはプロ野球と大学野球だけのものなのだ。
 シートノックの前にアナウンスがあった。
「両チームのキャプテンはバックネット前にきてください」
 阿部は相馬からその日の先発メンバーを書いたオーダー表を二枚渡された。
「三年目だからわかってると思うが、一枚を審判に、一枚を相手キャプテンに渡してくれ」
「はい」
「審判の見てる前でジャンケンだ。勝ったら先攻か後攻を選ぶ」
「はい」
 阿部がジャンケンに負け、先攻になった。その結果を喜んだのは私だけのようだった。
 ネットの真後ろの有料席に、黒い水玉の夏服を着、黒いリボンを巻いた女用の麦わら帽子をかぶったカズちゃんの顔があった。胸の前で手を振る。少し離れたところに、西沢の緊張した顔も見えた。相馬は野球部顧問だから監督は勤務仕事だとしても、西沢は休みを取ってやってきたことになる。
 おや、と思った。三塁側ベンチのすぐ上に、葛西さん一家の顔があった。大きな麦わらかぶった夫婦、少女らしい白帽子かぶったミヨちゃん、ハンチングかぶったサングラスまでいた。ミヨちゃんがグランドを指差しながらサングラスに何か説明している。彼らも日常の習慣を変えて出てきたのだ。
 葛西さんたちの列の上方には青高のブラバンが陣取り、試合開始前からけっこういい音で青高健児を演奏していた。学ランの応援団もいる。みんなとつぜんどこからか湧いて出たのかという感じだった。一塁ベンチ上のブラバンと応援団は、もっと賑やかだった。スタンドの学生たちも慣れたような手拍子をリズミカルに打っていた。
「これが弱小チームの宿命だべか。第一戦からシード校とはせ」
 ベンチの隅でショートの瀬川が言う。下がり眉で、あごの細い男だ。
「くだらねことしゃべんなじゃ。目標は甲子園だど。勝てば一挙にベスト八まで突っ走れるかもしれねべ」
 阿部が鷹揚に構えた。
「ぼくもそんな気がする。全試合、七回コールドを目指しましょう」
 私の言葉にみんなの目が輝いた。バッティング練習はなく、十分ずつのシートノックが始まる。まず大湊から。内野は堅実だ。外野は肩が弱い。
「度肝抜いてやってけろ」
 阿部の笑顔にうなずき、相馬がノックする三球のボールのすべて地を這うワンバウンドでバックホームした。観客席がどよめいた。肩が軽い。レフトの守備位置から、カズちゃんが盛んに拍手している姿がハッキリ見えた。葛西さんの主人はなぜかバンザイをしていた。阿部がうれしそうにセンターからピースサインを送ってよこした。


         二十一 

 スターティングメンバー発表。鼻にかからないスッキリした声だ。
「ただいまより、青森高校対大湊高校の試合を行ないます。両校のスターティングメンバーを発表いたします。先攻は青森高校、一番、セカンド三上くん、セカンド三上くん、三年、二番、ライト今西くん、ライト今西くん、三年、三番、センター阿部くん、センター阿部くん、三年、四番、レフト神無月くん、レフト神無月くん、一年(バックネットと三塁スタンドに金切り声が上がった)、五番、サード藤沢くん、サード藤沢くん、三年、六番、キャッチャー神山くん、キャッチャー神山くん、三年、七番、ファースト一枝くん、ファースト一枝くん、三年、八番、ショート瀬川くん、ショート瀬川くん、三年、九番、ピッチャー時田くん、ピッチャー時田くん、三年。対しまして、後攻は大湊高校、一番ライト……」
 聞いていなかった。ピッチャー石村という名前だけは耳に残った。内外野四千人ほどの観客を見回すだけで、頭が沸騰しそうに興奮する。生まれて初めての硬式野球公式戦。大湊高校のピッチャー石村は百三十キロ前後の、肩の強そうなオーバースローだった。しかしこの程度の球なら軽く打てる。ボールは百三十キロぐらいが一番打ちやすいのだ。百五十キロ以上になるとタイミングが取りにくくなる。
「まず一本いきます」
 ベンチに言った。二重まぶたの切れこんだセンター阿部、角面太眉のサード藤沢、まん丸短軀のキャッチャー神山が色めき立った。ワも、オラも、とほかのメンバーも騒ぎ立てる。連続で長打が飛び出すだろうという予感がある。相馬が、
「きょうから全員、ヘルメットを着用すること。連盟から毎年お達しがくる。あきらめてかぶれ」
 安西が、
「かぶってないのは神無月だけですよ」
「じゃ、神無月、かぶれ!」
「はい! あのう、きょうは持ってきてません。部室に置きっ放しです」
「だれかのを借りろ」
 みんなのダッフルが大きくふくらんでいた理由がようやくわかった。
 オレンジ色のビニールジャンバーを着たアンパイアがプレーボールを告げた。そのとたんに三上が初球をサード前にセーフティバントをして内野安打で出た。よくない兆候だ。
「よーし、送るべ」
 と今西が言ったので、私は思わず、
「それじゃ、コールドが遠くなりますよ! 振らなくちゃだめだ!」
 と叫んだ。相馬は呆気にとられてニヤニヤしている。今西は二球目を尻にぶつけられ、飛び跳ねて一塁へ向かった。
「阿部さん、一発放りこんじゃってください」
「オシャ!」
「イゲ、イゲ!」
 予感が確信に変わりかけたとたん、阿部は初球、顔のあたりのクソボールを森徹ばりのライナーで観客のまばらなレフト芝生席へぶちこんだ。ベンチが大騒ぎになった。相馬が頭の上で拍手したり、長椅子の背中をバンバン叩いたりした。まだ大湊のピッチャーは四球しか投げていない。藤沢が、
「阿部、高校第四号でねが。卒業までに十本打ちてってへってらったんだ」
「そんだ! 年に一本か二本の男が、もう一本打ったでば!」
 神山が叫ぶ。県を代表するスラッガーが、三年間でそれしかホームランを打っていなかったのか。スラッガーの定義はいったい何だ。阿部はキャプテンらしくのんびりとダイヤモンドを回って還ってきた。ベンチ前に起立した全員と手を拍ち合わせ、赤い顔を私に向けた。
「神無月、頼むど!」
「はい!」
「特大、特大!」
「ベーブルース!」
 阿部のヘルメットを借りて打席に立った。一撃必殺で低目を狙った。大湊のピッチャーはいま高目をやられたばかりなので、初球から低目できた。ショートバウンドをキャッチャーが後逸。ボールを追いかけようとするキャッチャーを審判が止めた。ボールの行方を見るふりをして、カズちゃんを見た。笑顔で手を振っている。袖をまくる格好でバットを上げて応えた。返す目でミヨちゃんを見やった。胸に両こぶしを当てていた。
 二球目、外角へすっぽ抜けるカーブ。見逃し。
 ―次だ。
「イゲイゲイゲー!」
「神無月、一発!」
 相馬の声だ。膝もとに速球がきた。すべてのタイミングが狂いなく合って、力強く振り抜いた。打った瞬間にわかった。ボールは曇り空を縫って伸びていき、芝生席後方の立木の中に消えた。いつもの飛距離だった。二千人ぐらいしかいない三塁側の内外野の観客があちらこちらで立ち上がり、拍手し奇声を上げる。ベースランニングのような全力疾走でベースを回った。二塁を回るときにミヨちゃんを、三塁を回るときにカズちゃんを見た。二人とも立ち上がって激しく拍手していた。チーム全員ベンチ前に出て、私の背中や尻を叩く。
 藤沢キャッチャーフライ。阿部の叫び。
「神山、おめもイゲー!」
 奇跡が起きた。三年間で一本もホームランを打ったことがなかった神山が、ツーナッシングから低目をチョコンと合わせ、それが高く舞い上がってフェンスぎわに落ちるホームランになったのだ。一イニング三者ホームラン。観客の歓声がマックスになった。
「おいおい、何が起きたんだ! ホームラン・シンドロームか!」
 相馬がはしゃぎ回っている。一枝、瀬川と、後続はあっさりショートゴロ、サードゴロで凡退して、敵の攻撃になった。この〈あっさり〉はいい。攻撃の緩急のリズムになる。しかも連続凡退は敵に希望を与えて、力みを誘うのだ。
「気を引き締めていきましょう。一点もやらないでください、時田さん!」
「まがしとげ!」
 時田は約束を守り、ナチュラルシュートで大湊チームを三人とも内野ゴロに打ち取った。彼は七回裏まで一安打、二点を献上しただけだった。その二点は、六回裏に四番バッターに打たれたツーランホームランだった。
 十六対二、七回コールド勝ち。全員安打。私は六打席四ホームラン、三塁打一本、シングルヒット一本、六の六。そのうちの一本はライナーでスコアボードの裾に打ち当てた。阿部一本、神山一本、一枝まで人生初のホームランを打った。この鍛錬の成果はおそらく永続的だ。優勝できるかもしれないと思った。
 審判がゲームセットを告げる前に、球場じゅうが大騒ぎになった。試合中目立たなかった応援団が飛び跳ね、ブラバンが青高校歌の合唱をあおっている。新聞記者やカメラマンが続々走り寄ってきて、興奮気味に相馬にマイクを差し出す。
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」
「青高、初戦突破、ひさしぶりですね。しかもシード校にコールドで」
「打線の爆発は信じられません。神無月のおかげです」
「一試合四人のホームランもすばらしいですが、一人で一試合四本のホームランは全国高校野球記録ですよ」
「紅白戦三試合でも神無月は五本打ちました。彼はどんな試合でもバッティングは一定のペースなんです。しかし、一試合四本はすごいですね。驚きました」
「神無月選手の前評判は何も聞こえてこなかったので、彼の存在を私どもは存じませんでした。他県からの野球留学か何かですか」
「いや、ただの転校生です」
 私にマイクが向けられる。苦手だ。何をしゃべっていいかわからない。
「他県からの島流しです」
「島流し?」
「素行の悪さで野辺地へ追い払われ、気持ちを入れ替えて、がんばって勉強し、やっと青高に受かった不良です」
 相馬が、
「露悪家ですから気にしないでください。神無月は文武両道の天才です。とつぜんわがチームに天から降ってきたんですよ。口先だけの人間でも変人でもない。本物です。それがわかって、わがチーム全員が好きになりました。一丸です。この夏、青森高校は嵐を起こしますよ」
「それにしても、神無月選手のこれほどの打撃力が情報として流れてこなかったのは不思議ですね」
 私にまたマイクが向けられる。どう応えればいいのだ。
「注目されなければ、人生がシンプルになります。自分だけのために打ってる感じ。最初からそれしか望んでいませんから。ほかの人と同じように生き、精いっぱいがんばりたいです。自分に忠実に、打者という仕事に忠実に。それだけです」
 支離滅裂だ。ほかのレポーターが監督に、
「一回戦ボーイがマグレ勝ちしたというレベルの勝ち方じゃないですね。相当練習なさったんですか」
 練習したのだ。苦しい、工夫のある練習をしたのだ。
「いや、マグレでしょう。練習は二時間半から三時間です。二回戦の結果がよければ、もっと褒めてください。大湊のピッチャーは強敵でした。彼を打ち崩せたことはこれからの自信につながります」
 勝者特有のお愛想を言う。別の記者が阿部にマイクを向ける。
「二回戦に向けての抱負は?」 
「ありません。まンだ、まンだ、そんなものを持でるほどの実力じゃねえです。一回(け)でも多く勝ちたいです」
 相馬が、
「じゃ、初勝利に浮き足立たないために、反省ミーティングをしなくちゃいけませんので、これで失礼します」
 ロッカールームで運動靴に履き替えた。学生服に着替える連中もいる。だれのユニフォームもほとんど汚れていない。阿部が、
「先生、ミーティングは?」
「そんなものないよ。勝利を噛みしめながら早く帰りたかっただけさ」
 浪打からの一本道を青高までぞろぞろ帰った。みんなヒーローの気分を引きずりながらふわふわ歩く。相馬が、
「次の対戦相手は、青森西高と決まった。十六日、二時だ。おい、名ファースト、ホームランの味はどんなものだ」
 一枝に尋く。
「夢みてです。神無月が掬い上げろってへったんで、ゴルフみてに掬ったんです。驚いたじゃ! 左中間抜げるかって思ったら、入(へ)ってしまった」
「ワは、上から叩くの専門だすけ、低目は掬えね」
 阿部の発言に神山が、
「オラは低目を片手一本でチョンて合わせだら、ふらふらって入ってしまったじゃ」
「低目は視線が下に向くんで捕まえやすいんです。高目を打つにはセンスがいります。時田さん、ナチュラルシュートは外角からストライクゾーンに入ってくると、右バッターの餌食になるんですよ。時田さんぐらい切れるシュートなら、ど真ん中に投げてれば、みんなどん詰まりです。今度こそ、零封しましょう。決勝までは確実にいけます」
「よし、わがった。ヘタに外角を狙わねようにすべ」
「信じられね。いつ死んでもいいじゃ」
 三上が言った。トップバッターの彼も二塁打一本を含む五安打を放っていた。一番少ないヒット数は、時田の一本だった。


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