三十四

 カズちゃんの父親が尋いた。
「神無月さんは、将来、プロ野球の選手にならないとしたら、何になるつもりですか? 医者ですか? それとも弁護士? 政治家?」
「何にもなれないと思います。ぼくは、飯場で育った平凡な男です。これまでも、何かに成功したことはなかったし、将来、何ごとかをなす見こみもないんです。そんなふうに言っていただけるのは身に余る光栄で、感謝しますが、ちょっとプレッシャーが……」
「ほんとにおとうさんの頭は、俗にできてるのね。ぜんぶキョウちゃんの嫌いなものばかりじゃない。プロ野球選手にならないなら、何にもならないのよ」
 きょうから八月だ。日曜日の午前なので、北村席の居間にもゆったりとした気分が流れている。
「〈なりたい〉と願っているのはプロ野球の選手だけです。それになれなければ、期待されるプレッシャーのない仕事がいいですね。皿洗いや、掃除夫なんか。何も創り出さないという意味での、いわゆるフーテンですね」
「強がってる様子はないし、謙遜というわけでもなさそうですな。こりゃ神無月さんは折り紙つきの変人だよ、和子」
「だから楽しいのよ。そういう仕事をさせないように、私の人生を賭けることができるもの。医者や弁護士と同じくらい、フーテンもキョウちゃんに似合わない」
「たしかに、神無月さんみたいな人には苦労させたくないな。酒が飲めれば、もっと話したいんだけどね。変人と飲む酒はいちばんうまい」
 彼の拍手(かしわで)で、何人か三味線が呼ばれ、若手の踊りが入り、玄人たちがそれぞれ唄をつけた。長々とそれがつづいた。
「おとうさん、やめてよ、昼日中から」
 カズちゃんがたしなめる。母親が、
「和子の言ったとおりの人やね。神さまは厩(うまや)で生まれるというから……」
「そのへんにしてください。恥ずかしくて顔から火が出ます」
 蜘蛛の素通りに勤めながら北村席に使用料を入れて宿借りしているような女たちも、たまたまきょうは二、三人いて飲み食いしている。一人の女が私をしみじみ眺めて、
「こんないい気持ちと顔をした男、見たことないよ。お嬢さんも飛びっきりだけどさ」
 と言った。
「さ、キョウちゃん、きょうは東山動物園よ。いい若いのが、三味線なんかオツにすましていつまでも聴いてられないわよ。じゃ、私たち動物園いって、それからホテルへ帰るから」
 賄い頭のおトキさんが、
「あそこは植物園も遊園地もありますよ。あれこれ見てると、あっというまに時間が過ぎちゃいますから、気をつけて」
「地下鉄の東山線て、昼夜関係なく混むのよ。タクシーでいきましょう。名古屋駅から広小路通りを真っすぐ、十キロもないから、タクシーでも二十分程度よ」
 名古屋駅周辺十キロ圏内はカズちゃんの庭のようだ。
 タクシーを呼び、昼なお薄暗いビル街を栄まで走り、右にエンゼル球場、左にテレビ塔を見ながら百メートル道路を過ぎる。
「でも、なんで動物園なんかいきたいの?」
「横浜の野毛山動物園に入りそこなったから。おふくろが中絶手術をした日だったからね。そのあと名古屋に五年間もいたのに、動物園にいこうなんて思いつきもしなかった。人間は一つのことに没頭すると、人生のあらゆる余白に振り向かなくなる。余白に振り向いてる自分を確認したい。食べて寝て排泄して交尾すること以外は、ぜんぶ余白だ。動物には余白がない。人間であるかぎり、余白こそ人生だ。学問、芸術、スポーツ、宗教、遊山、グルメ、すべて」
 運転手が今池の交差点を過ぎた道端で車を停めた。運転席で小さく拍手をした。
「すばらしい。食べて寝て排泄して交尾するというのは、余白じゃなく、命の維持ということですね。命を維持させるということは、人間の場合、生活と言うんでしょうが、生活するだけを人生とは呼ばないということですね。すばらしい。余白こそ人生か。すばらしい。なんだか吹っ切れました。お客さん、代金はいりません。一日、人生を堪能してきてください」
 ふたたび寡黙に車を走らせつづけ、東山動物園の入り口に着けた。わざわざ運転席から降り、帽子を脱いで礼をすると、すみやかに走り去った。
「キョウちゃんて、一生に一度みたいなことを経験させてくれるのね。ありがとう。きのうの夜はたっぷり生活に浸ったから、きょうはたっぷり余白に浸りましょう」
 本園に入り、きのう買った野球帽を忘れてきたので、大きな麦藁帽を買い、ゆっくり園内を廻っていく。カンガルー、キリン、アジア象、アシカ、コアラ、カワウソ、ウォンバット、アザラシ、マレー虎、ダチョウ、フラミンゴ、シマウマ、カモシカ、ペンギン、北極熊、獏、ペリカン、ライオン。
 北園に入り、アフリカ象、ビーバー、ゾウガメ、犀、大アリクイ、ヤマアラシ、プレーリードッグ、カバ、カピバラ、コンドル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、テナガザル。子供動物園では、かわいらしい山猫をしばらく見つめた。
 ソフトクリームを食べる。
「虎と山猫がよかった」
「……人間も、これくらい種類があるとおもしろいのにと思うわ」
「うん、烏合しなくなるかもしれないね」
 少し歩いて、植物園に向かう。
「季節の花だけ見られるお花畑にいこう。夏の花って、何だろうな。思いつく?」
「ぼたん、あざみ……」
「すずらん、アカシア、あやめ……」
「菖蒲のことね。かきつばた、しゃくやく」
「立てば芍薬と言うけど、見たことないな」
「バラみたいな形で、細かい花弁がいっぱい開いてる。ラン、さつき、けし」
「ヒナゲシは植えてあるだろうけど、ケシはね。すいかずら、蜜柑」
「へえ、蜜柑て、夏に花が咲くのね」
「うん、白い尖った五弁の花が咲くよ。カズちゃん、唄って。蜜柑の花咲く丘」
「みーかんのはーながー、さあいてーいるー、おーもいーでのーみちーい、おーかのーみちー。はい、キョウちゃん」
 カズちゃんのアルトに魂が引きずりこまれた。腕に鳥肌が立った。蜜柑の花咲く丘は私の大好きな歌なのだ。鳥肌をカズちゃんに示す。まあ! と驚いてさすった。
「これほどいい声だったなんて知らなかった。カズちゃん、ぜんぶ唄って」
「いいえ、キョウちゃんの声を聴かせて」
「はーるかーにみーえるー、あーおいーうみー、おーふねーがとーくー、かーすんでるー」
 カズちゃんの目が潤んでいる。
「……どうしたの? これは思い出の歌?」
「言ったでしょ。キョウちゃんの歌声を聴くと涙が出てくるって。すぐ目の奥が痛くなってくるの。不思議な声」
 お花畑が高いところにありすぎて、まだまだ歩かなければならなかったので、回避して帰路に着いた。花の名を言い合うだけで満足した。
 栄の『なまずや』という鰻屋でヒツマぶしを食べる。うなぎをごちゃごちゃと盛り重ねて見栄えは悪かったが、味はよかった。
「食べ足りないなあ。どこかできしめん食べていこうよ」
「きしめんは、でんと構えてる店より、駅のガード下がおいしいのよ」
「賛成。経験あり。ガード下にいこう」
 蜘蛛の素通りのすぐ近くの、立ち食いきしめん屋に入る。ホウレンソウ、板カマ、油揚げを載せたシンプルなきしめんを食った。じつに美味だった。四時。まだ陽が高い。
「あしたは犬山城。一泊することになってるのよ」
「こっちのホテルは?」
「通しでお金払ってるからいいの。留守にするって前もって言ってあるし」
 ホテルに戻り、長い仮眠をとった。
         †
 目覚めると、カズちゃんが窓辺に立って、夜景を眺めている。
「何時?」
「まだ八時半」
「カズちゃんも寝た?」
「三時間ぐらい。疲れてたのね。キョウちゃんほどじゃないけど。さあ、お風呂に入るわよ。さっぱりしないと。それから、ごはん、ごはん」
 カズちゃんは私の足指の股まで丁寧に洗い、坊主頭にシャボンを立てた。狭い湯船に抱き合って浸かる。
「キョウちゃん、頭にびっしょり汗かくようになったわ。それも流れるようによ」
「手のひらと足の裏に汗をかかない分、汗腺がほかの場所に発達したのかもしれない。お腹にもびっしょり汗をかく。だから、夏は下痢ばかりする。腹巻なんかしたら、かえってだめだ。夏は苦手だ」
「特異体質なのね。そういえば足も腋もにおったことがないわ。口にもぜんぜんにおいがない。腕毛や脛毛は一本もないし、腋毛もポヤポヤしか生えてない。清潔! 何もかも美しくできてるのね」
「カズちゃんはどこにかくの」
「ぜんぶふつうにかくわよ。小さいころ、あんたいいにおいするねって、おかあさんに言われたことある。桃みたいなにおいだって。うれしかったけど、それ、汗のにおいだったみたい」
「桃か! やっとわかった。あそこのにおいもそれだ! やっぱり人間じゃない。うれしいな! ぼくの恋人は女神だ」
「褒めすぎ。汗のにおいがマシだっていうだけよ。かかない人にはかなわないわ」
 風呂から上がると、屋上階のラウンジに食事に出かけ、カズちゃんの注文でステーキと大盛りのサラダを食べた。苦手な肉が、葛西家のステーキをうまいと感じて以来、スムーズに喉を通るようになった。自然と牛の瞳も浮かんでこなくなった。カズちゃんも頬をふくらませて食べた。見つめ合い、微笑み合った。均整のとれた、豊満な、丸顔のクラウディア・カルデナーレ―。小学生のころこの美しさを意識できなかったのは、きっと、縁のない大人として遠くから眺めていたからだ。
 食事から戻り、夜が更けるまで、カズちゃんに求められるとおりに、いろいろな体位で交わり合った。壁に背中を押しつけて片足を抱え上げたり、思い切りからだを仰向けに折り畳んで陰部を丸出しにしたり、おしっこをさせるように両脚を抱えたりした。挿入した感覚にそれほどの差はなかったけれども、どの形でもカズちゃんは強く気をやった。しかし、どんな刺激的な視覚や触覚に耽溺しているときも、肉体への興味よりも、カズちゃんを愛しているという気持ちのほうがまさっていた。それは肉体という〈生活〉を通して初めて感じられる不可思議な〈余白〉だった。
         †
 八月二日月曜日。カズちゃんに起こされるまで意識なく眠った。彼女はすでに起き出して、きちんとした服装で椅子に座り、私を見つめていた。
「よく眠れた?」
「うん、ぐっすり」
「愛してるわ。……死ぬときは連れていってね」
「どうしたの?」
「寝顔を見てたら、そう言いたくなったの。私を置いていかないでって。私で役に立つことがあったら、私の命もぜんぶ使ってね」
「おぬしの命はもらった!」
「アハハハ……」
 彼女の用意した下着を穿いた。
「ワイシャツはベルトにたくしこんだままにしないで、後ろへしごくのよ。ほら、見映えがよくなるでしょう」
「ほんとだ」
 些細なことに幸福感を覚える。カズちゃんは白のプリーツスカートに、ピンクの半袖シャツを着た。日焼け止めしか塗っていないのに、近づきがたいほどの美しさだ。
 ラウンジでアイスコーヒーを飲んだ。
「こうしてるのが夢みたい」
「ぼくには、最高の現実だ。夢にしたくない」
「もちろんよ。夢を見てるように幸せなの。きょうは明治村にいきましょう」
「明治村?」
「小学校か中学校のとき、遠足でいかなかった?」
「ないなあ」
「そっか。犬山城のそばにある村よ。明治時代の遺物を保存してるの。名古屋から特急で二十五分でいけちゃう」
「明治村には何があるの」
「私も小学校三年生のときいったきり十年以上いってないから、よく憶えてない。いろいろな建物を見ながらぶらぶら歩くだけだけど、たまにはそういう観光も気晴らしになると思うの」
「そうだね」


         三十五

 赤い車体の名鉄特急で犬山に向かった。ドアの開け閉(た)てから座席にいたるまでしつらえのいい豪華な電車で、大きな窓から眺める景色もすばらしかった。カズちゃんは、ホテルのレストランで仕入れた贅沢な洋食弁当を二つ広げた。重が大きいうえに、ハンバーグとエビフライが弁当の半分の面積を占めていた。それを食べているだけで、乗車時間がつぶれてしまった。
 犬山駅で降り、タクシーで木曽川のほとりへ出、迎帆楼というホテルにチェックインした。それからまたタクシーに二十分ほど乗って、博物館明治村という名のコミュニティに着いた。
 ようやく真昼だった。ウィークデイのせいか、あまり見物客の数は多くない。煉瓦門から入り、聖ザビエル天主堂を見る。中に入ったとたん、淡い闇に包まれた。上方の明るい空間にだけ視界が展がる。壁面に埋めこまれたステンドグラスのきらびやかさに、しばらくぼうっとなった。十字架のキリストに光が燦々と注がれている。
「これで、もう満腹だね」
「ほんと」
 堂を出て、呉服座という芝居小屋を覗く。小さな舞台の前に、ごちゃごちゃと狭い桟敷が固まっている。
「御園座の舞台を何度か観てるから、この舞台は猫の額みたいに見えるわ」
「カズちゃんて、たくさん経験があるし、教養も深いんだね。何でも見て、何でも吸収して、そうして蓄えて表に出さない。奥ゆかしい。御園座の話なんか、カズちゃんに六年前に遇ってから初めて聞いた」
「教養なんて垢みたいなものよ。表に出したって、ポロポロ汚い皮膚が削れ落ちていくだけ。そんなもの見せられたって、迷惑なだけでしょ」
「だから、垢も出ない馬鹿なぼくのことが好きなんだね」
「まあ! キョウちゃんは馬鹿じゃないわ。人と考え方がちがうだけよ。だから感覚的な美に惹かれるの。知性と審美眼を持ち合わせた才能ある人だけができることをキョウちゃんはいつもやってる。キョウちゃんにはほんものの知性があるわ。鉱物質の知性。自力で考えて、感じ取る気質。垢がたまらないようにできてるのよ。野球は天才で、勉強の努力は惜しまないし、他人の垢みたいな教養も尊敬する。そのうえやさしくて……人間とは思えないわ。私、キョウちゃんのこと、好きなんてものじゃないの。もう崇拝ね。……自分の犯してきた過ちも、未来へ踏み出した一歩も、だれかに耳もとで囁かれた言葉も、何年も経ってしまうともう思い出せないものよ。でも、キョウちゃんに出会ったときの心のときめきは、どれほど時が過ぎても色褪せないの」
「別の人のことみたいだけど、うれしいな」
 宇治山田郵便局を眺める。古代の教会のように美しい。黒いポスト、ドーム屋根。遠い時間を感じさせる。見回すと、この村にある建物のすべてが美しい。もとの場所から移転する必要があったのかどうか疑わしくなる。
「……宮本さん、どうなったかな」
「え?」
「老人をはねて、逃げちゃった宮本さん」
「ああ、宮本さん。半年ぐらい交通刑務所に入ったってことは聞いたけど、出てからのことは知らない。きれいな奥さんだったけど、どうなったのかしら。お気の毒だったわね」
「クマさんや小山田さんたちがカンパしてあげたっけね」
「そうだったわね」
 京都駅の話はしなかった。あのときの少女二人の顔を思い出そうとしても思い出せなかった。
「どうして宮本さんのことを思い出しちゃったの?」
「捕まる前、一家で遠いところを歩き回りながら、こういう場所にも入ったのかなって思って」
「捕まったんじゃなく、自首したんだったと思うわ。でも、自首する前に、こういうところにもきたでしょうね」
「……シロに会ったよ、岩塚で」
「シロに! 元気だった?」
「年とってた。毛もパサパサして。……バス停までついてきて、チョコンと腰を落として見送ってた。泣いた」
 カズちゃんも目にハンカチを当てた。
 入鹿池を背景に品川灯台を見やる。尖塔に二つの風車を付けただけのシンプルな小さい建造物。わずかな上り坂の中通りに写真館があり、その向こうに洒落た建物が見える。案内パンフレットを見ると、東山梨郡役所と書いてある。中に入らず、坂道からガス燈の列を見下ろす。カズちゃんの腕をとって尋いた。
「疲れた?」
「少し。みんなきれいだけど、人工物だから、かなり退屈ね。そこの喫茶店に入って、コーヒー飲みましょ」
 アイスコーヒーを飲む。窓から聖ヨハネ教会堂を見上げる。道の行き止まりの、まばらに松の生えた崖のそばに一軒家が見えた。パンフレットを見ると、漱石居宅となっている。
「漱石か……」
「たしか縁側の置物の猫が、我輩は猫である、ってしゃべるのよ」
「恐ろしくつまらない趣向だね。写真館で記念写真を撮って帰ろう」
「うわあ、どんな顔に写るか怖い」
「自分の美しさを知らないんだね。それも奥ゆかしい」
「還暦がきても、そう言われたらいいな」
「だいじょうぶ、愛し合ってさえいたら、死ぬまできれいでいられる。ぼくはカズちゃんが八十歳になっても〈する〉よ」
「……ほんとに、キョウちゃんて人間じゃない」
 肩を寄せ合った写真を撮り終わるころには、入園してから四時間が経っていた。
「額縁に入れて、二つ作ってください」
 カズちゃんが、
「あ、一つでいいです」
「どうして?」
「キョウちゃんが記念品みたいなもの持ってても似合わない。私が大事にとっとくわ」
 もともと少ない見物の人びとがだいぶ退いた。建物の隙間から、赤い陽が低くまぶしく射してくる。小高いところにある鉄橋を、玩具のような園内通行用の蒸気機関車が渡っていく。
 タクシーで迎帆楼に戻った。車内でカズちゃんの腿にずっと手を置いていた。彼女はときどきおどけて、筋肉をたくましく動かしてみせた。
 ふつうの部屋。洋間十帖ほど。ダブルベッドと造りつけの机。緑茶と紅茶のティーバッグ。犬山のホテルである必然性を感じない。二人で窓辺に立った。窓から遠く見やる小山のいただきに、質素な犬山城が見えた。それは訪れて観察するものではなく、こうやって景物として眺めるものに思われた。
「天守閣がきれいだね。あのお城にほんとうにいったの?」
「うん。学校遠足の定番だから。高校のハイキングでいったわ。昭和二十七、八年だったかな。伊勢湾台風で壊れて、造り直されるずっと前よ。あの天守閣は国宝ですって」
 カズちゃんを後ろから抱きしめて唇を吸った。胸に手を置くだけでカズちゃんがふるえる。彼女は深く息を吐き出し、
「死ぬまで何回抱いてもらえるかしら。一回でも夢みたいに幸せなのに」
「きょうは、危険日?」
「今週の真ん中へんから危なくなるわ」
「外へ出そうか」
「そうね、念を入れたほうがいいかも。外へ出すのはかわいそうね……。私がイキすぎると、キョウちゃん、抜くタイミングがわからなくなっちゃうでしょうから、すぐイカないようがんばる。……でも、何回もイキたい」
 茶目っ気を見せて笑う。股間に指を滑りこませたとたん、真剣な顔で感覚を追求しはじめる。この真剣さが好きだ。
「あ、だめ、イキます」
「あまり触ってないよ」
「でも、イク!」
 小さく叫んで窓辺にもたれる。すぐに抱きかかえてベッドへ運ぶ。服と下着を脱がして麻痺状態のそこを覗きこむ。クリトリスがひくついている。含むと尻が跳ね上がり、腹が縮んだ。
「入れるよ」
 目をつぶってあわただしくうなずく。絹のように柔らかな部屋に入る。うねっている。動くと私のほうが危うい。しかし、何の行動も起こさないうちに、カズちゃんに高潮が押し寄せる。高潮のリズムに合わせて動く。何度もカズちゃんは達する。私にもすぐに高潮がやってくる。
「カズちゃん、中でイッちゃう!」
「いいわ、出して、出して。私もイク、あああ、イク!」
 うねりながら私を吸い尽くす。乳首を含む。連動して新しいアクメが生まれる。高潮を表現する幼い口調の発声が愛らしい。からだが〈く〉の字に折れ、性器が抜けた。軟体動物のようにのたうつ。
「だいじょうぶ、カズちゃん」
「心配しないで。興奮しすぎただけ。すぐに治まるわ。もう少し待ってね、すぐよくなるから」
 短い息を苦しげに吐きながら、カズちゃんが答える。少しずつ腹がひくつく間隔が長くなり、やがて静かになった。カズちゃんはティシュで自分の股間を拭うと、私のものを丁寧に舐めた。
「苦い! 排卵日が近いからね。キョウちゃん、つらいでしょうけど、あしたから外へ出してくれる?」
「うん、きょうはごめんね。中に出しちゃって」
「私もごめんなさい。いっしょにイキたくなっちゃうの。この何日か、青森に帰るまで、中に出すのだけはおたがいにがまんしましょう」
         †
 八月三日火曜日。きょうもひどく暑い。交代で排便し、シャワーを浴び、ルームサービスで食事。丸干し、サトイモの煮転がし、冷奴、納豆、海苔、タクアンとナスの漬物、わかめと豆腐の味噌汁だった。ごちそう。私は三膳、カズちゃんは二膳食べた。
「キョウちゃんの旅のリクエストは終了したから、今夜は北村席で会食して、明日の朝ホテルをチェックアウトしましょう。不思議ね、青森の家が恋しくなっちゃった。会食の前に、みんなで名古屋城へいきましょう。天守閣は狭苦しくて、大しておろしろくもないんだけど、何でも見ておくことは大事だから。じゃ、家に電話してくる」
 特急に乗り、三十分で名古屋に帰る。名古屋というさびしい思い出の土地が行楽地になる。さびしい土地の中にさびしい人を思い出すことがない。みんな笑顔だ。カズちゃんのおかげだ。彼女に遇っていなければ、だれの顔も、蒼いさびしい顔で思い出しただろう。
 北村席の玄関に主人夫婦とおトキさんが立っている。居間にあぐらをかく。冷たい麦茶を振舞われる。隣座敷で女たちが茶を飲んだり煙草を吸ったりしながら歓談している。
「出張(でば)る予定のある女以外は休みにしました。みんなで名古屋城見物に参りましょう。まず、軽く昼めしだ。おトキ、頼むよ」
「はい、簡単に食べられてお腹がふくれるように、中華飯にしました。野菜スープつけました。おいしいですよ」
 ホテルの朝めしは早かったので、三杯も食ったくせに意外に腹が減っている。父親が、
「そんなもんでええやろ。晩めしでしっかり食えるからな」
 母親が父親に笑って言う。
「私、お城は遠慮しとくわ。大して見どころあれせんし、見飽きとるから。おトキとおいしいものを作って待っとる」
 私もお手伝いする、と手を挙げる女が五、六人も出てきた。城は人気がないようだ。結局参加者は、父親とカズちゃんと私、それに三十台後半ぐらいの女が三人になった。中の一人が、ときどきチラリと私を見る。見返そうとしてもすぐに横を向くので、顔つきが確かめられない。
「とにかく、この家は何を食べてもうまい」
 中華飯をスプーンで浚いながら私が言うと、おトキさんは大喜びで、
「旦那さんはいつも、まずいまずいって言うんですよ」
「きのうきょうは、うまい。お客相手だから手を抜かんかったんだろう」
「あんた、おトキの料理はいつもうまいやろが。意地悪言ったらあかんよ」
 私は主人に、
「あの、訊いていいことかどうかわかりませんが、おトキさんや賄いの人たちも、その、何と言うか……」
「客と寝るか、ということですか?」
「はい」
「賄いは賄いをやるだけです。おトキは、もとは店の女でしたが、いまはちがいます。おトキともう二人が住みこみ、ほかの六人はみんなかよいのサラリーマンみたいなもんです。交替でかよってくるんで、おトキを合わせて、ぜんぶで十二人おります。気に入った子がおりましたか? 仕事柄、さばけてる子も多いので、なんなら―」
「ぼくはカズちゃん一本です。カズちゃんの手のひらの上でしか、二本目、三本目に手を出しません」
「そりゃ、和子も果報者だ」
 そう言って、煙草に火を点けた。カズちゃんが、
「私の果報はいいけど、キョウちゃんの健康が心配。四六時中、私が相手できるわけじゃないから。キョウちゃんを全幅の愛情で包んでくれる人なら、何人とセックスしてもいいって言ってるんだけど、なかなかそういう女の人はね」
 母親が、
「そりゃそうやが。小学校五年生に惚れる大人の女は、そうそうおらんよ」
「もう十六歳よ。二十歳あとさきまでは、いちばん盛んな年ごろなの。私一人のわがままで縛りつけたらかわいそう」


         三十六

 駅の玄関口のロータリーに出るまでのあいだ、カズちゃんが三人の女の一人に秘密めいた笑顔で話をしている。耳打ちしたりする。女はそのつどうれしそうに笑いながら私のほうを見る。中型タクシー二台で名古屋城に向かう。官庁街を抜ける。
 人出だった。城の外周りは葉桜の並木になっていて、城門の堀にかかる小橋も葉桜に覆われている。桜の季節はかなりのアトラクションになるだろう。露天が出ていないのがすばらしい。城門を入るとだだっ広い敷地で、そこかしこにエノキや楠やカヤの古木に混じって、桜の幼木が植えられている。敷地の向こうに、黄金の鯱を戴いた緑青(ろくしょう)色の五層の本丸がそびえていた。
「慶長のころ、江戸の初めですな、関ケ原で勝った家康が、豊臣からの攻撃に備えるためにこの城を構えたんですわ。城を築くにあたっては、加藤清正など二十家の大名が力を合わせたそうです。日本初の国宝指定の城です。名古屋空襲で焼けましたが、伊勢湾台風の年に天守閣が再建されました」
 要領のいい説明をする。観光案内に慣れているというより、総合的な知識人のようだ。
 城郭の中身は、母親が言ったとおり見所のないものだった。父親とカズちゃんといっしょに案内放送に従って三階まで昇っていったが、どの階も同じような造りだし、展示物も刀剣と巻物ばかりなので、飽きて下へ降りた。
「本丸御殿には、狩野派の障壁画があるんですが、いきますか?」
「絢爛豪華な金箔ですね。やめましょう。趣味じゃありません」
「ですな。松にキジじゃね」
 三人の女たちが茶店でおでんを食っている。カズちゃんと話していた女の様子を眺める。さっきまでは気づかなかったが、カズちゃんとひどく似ている。五つ足したくらいの年齢だろうか。目といい、口もとといい、からだつきといい、瓜二つとは言わないけれども、そう言ってもおかしくないほど似ている。
「カズちゃん、一人っ子だよね」
「そうよ」
「あの似た人は?」
「トモヨさん。畷(なわて)智代」
「ナワテ?」
「田偏に又四つ」
「変わった苗字だなあ」
「よく姉妹にまちがわれるの。きょうはキョウちゃんの顔見世ということで、塙席という別の置屋から三人、見物を兼ねてお手伝いにきてくれてるの。その中の一人よ。十二年ほど前、秋田のほうからきた人。私が大学生のころ小さいころ、よくいっしょに外で遊んでくれたり、身上相談にも乗ってくれりしたわ。ヤンキーだったころは特にね。いまでもよく、ハガキのやりとりをしてる。それにしてもお城って退屈よね。ここまでだと思わなかった。おとうさんは自分なりに楽しんでるみたいだけど、石垣とか堀とか、兜や刀なんか見たってちっともおもしろくない」
 そう言って女たちの中へ入っていった。父親が濃い眉を上下させながら、
「武具というのは、なかなか重厚なもんですな。つわものの魂ですよ。やっぱり、名古屋城は桜の季節がいちばんだな。今度は春にきましょう」
 率先して城門へ早足でいき、タクシーを拾う。それを見て、あとに従う女たちがからだを屈めてケラケラ笑っている。北村席の主人は愛される人柄のようだ。
 帰ると家じゅうに、煮物や焼き物のいいにおいがただよっている。父親は退屈しのぎにテレビのニュースを流し、おトキさんに晩酌の用意を命じた。
「一人じゃつまらない、おまえたちも飲め。予定のないやつだけな。ん? 佐藤が沖縄訪問? 沖縄が復帰しないかぎり戦後は終わらないだと? 戦後が終わらないって、どういう意味だ、和子」
 二人、三人、キャッキャと言ってやってきて、ビールをつぎ合った。塙席の畷トモヨさんはじめ北村席の数人の女たちは飲まなかった。粛然と、しかも明るく〈仕事〉待ちをしている。彼女たちは売春婦ではなく、いわゆる芸妓だ。芸を乞われて出張していき、ときに応じてからだを売る。
「おとうさん、戦後って、敗戦後の影響のことじゃないのよ。戦争でできたカサブタとか傷跡がすっかり目立たなくなるってことでしょ。戦争って、そんな生やさしいものじゃないわ。カサブタや傷跡どころか、手や足が吹っ飛んだわけだから、終わるわけがないじゃない」
 トモヨさんがにこにこ笑っている。
「さすが和子だな。名大にいけるって先生が太鼓判押したのに、私立の女子大になんかいっちまった」
 私の女神は頭もいい。それはだれもが感じることだ。
 これほどおかずの種類の多い食卓を見たことがなかった。自家製のコロッケ、メンチカツ、味噌カツ、鰹の刺身、鮪の赤身の刺身、モツ煮込み、茶碗蒸し、肉じゃが、冷奴、小エビとネギの掻き揚げ、各種野菜の天麩羅、ゆで卵、すべてが大盛りだ。そこに玉ねぎとナスの味噌汁がついた。みんなで取って食えということだろう。
「いつもこれがふつうですか」
「ほうやねえ」
 ホホホと母親が笑う。厨房には、二升炊きの電気釜が三つも並んでいる。それを大きなお櫃で三つ用意する。みんなおっとりとおさんどんをして回る。
 私は、掻き揚げと、メンチと、肉じゃがで、どんぶり一杯のめしを食った。カズちゃんはほとんどの惣菜を皿に盛って箸をつけた。どの女たちも、見ていて愉快になるほど旺盛な食欲だ。父親は酒杯を重ねてひたすら赤くなり、飲める女たちもどんどん飲んだ。
 今夜も三味線と謡(うたい)が入った。三味と謡に加えて、笛と小太鼓を伴奏にした芸者衆のお座敷踊りというものも初めて見た。黒着物に日本髪、手に扇子を持って、裾を引きずりながら踊る。白化粧、足袋の白さ、指先のピンと伸びた舞い姿が印象的だった。
「あのう、神無月さん」
 いつのまにか脇にきた母親が、
「はい」
「まだこんなこと、十六歳の高校生にお話しするのは早いでしょうが、和子に、一人、子供を……」
「わかりました」
 カズちゃんの父親が豪快に笑った。
「たまげたな。すぐに、わかりました、ときたもんだ。ほんとに、神無月さん、安請け合いせずに、せっせと自分のことに励んでくださいよ」
 母親は私の真意を量るように、じっと見つめた。私も見つめ返した。
「和子が産みたいと言ったら、そうしてやってください。子育ては引き受けますよって」
 父親が、
「たいへんやなあ、神無月さんも。人情もろそうな大船やから。とにかく、親としては娘の幸せが大事です。産みたくなければそれでよし、産みたいと言ったら、そうしてやってください」
「わかりました」
 たまたまカズちゃんはトイレに立ってその場にいなかった。
 賄いたちも入り混じっての食卓になった。おトキさんのほかにも、二、三美しい女がいた。店の女よりもきびきびしていた。私に笑いかけはしても、だれも話しかけなかった。分をわきまえているというふうだった。
 芸妓や舞子たちが主人から祝儀を受け取り、宴がお開きになった。芸妓たちはコップ一杯のビールを飲み、主人夫婦と少しばかり世間話をして帰った。塙席の女たちも挨拶をしてぞろぞろ帰っていく。おトキさんと賄いの女たちの後片づけが始まる。
 ひとしきり、茶菓子をつまんでの歓談になった。父親は努めて野球の話を避けているようだった。
「和子のどういうところに惚れたんですか?」
「ぜんぶです。頭の先から足の先まで。そして、表情、仕草、考え方や感情……。人を好きになるというのはどうしようもないことです。名前を百回、千回呼んでも足りない」
 父親は、
「……神無月さん、ときどき遊びにきてくださいや。あんたとおると楽しい。黙っておっても楽しい」
 と言って手を握った。カズちゃんが、
「じゃ、おとうさん、おかあさん、またくるわね。今度は春かしら。あした見送らなくていいわよ。向こうに着いたら電話するから」
 カズちゃんがやさしく私の手を取って立ち上がった。北村席総出で玄関まで見送り、深くお辞儀をした。夜の草の地面を歩きだした。
「ああ、すばらしかった。どこにもいかず、ここにいるのがいちばん気楽だ。また、ぜひこようね。こんどはもっと話をしなくちゃ。ぼくが無口だから、なんか気の毒しちゃった」
「キョウちゃん」
「ん?」
「目の前に、長い平屋の建物があるでしょう」
「うん」
「あそこ、塙席の女の人が詰める建物なの」
「ふうん。〈そういうこと〉のために?」
「そう。いま、あのいちばん左側の部屋に、トモヨさんがいるわ。……いってあげて」
「え?」
「お城にいくとき、お願いしたの。私、そろそろ危ないし、キョウちゃんに外出しさせてつらい思いさせるのはとてもいやだから、もしきょうトモヨさんに中出しして危なくなければ、抱いてもらってって。そしたら、危ない日じゃないから、いいわよって。あなたはそれでいいのって訊くから、トモヨさんなら安心だし、キョウちゃんはとてもやさしい人だから気持ちよく抱かれてあげてって……。気にしないで。プロの女の人も一度経験しておくべきよ。中出しして、からだをいたわって。お願い」
「うん、ただ、そういう人ってイカないって、いつかカズちゃんが……」
「そうなの、トモヨさんもこの仕事に就く前に、恋人としてたとき一度それらしきことがあったけど、もう十二年以上イッたことがないんですって、それでキョウちゃんにガッカリされるんじゃないかって心配してた。でも、一晩かぎりのことだから、そんなことどうでもいいことよ。むかしを思い出して少しは感じるかもしれないし。とにかくやさしくしてあげてね。とっても素敵な人なの。じゃ、ホテルで待ってる。朝方でもフロントはやってるからだいじょうぶよ」
「……一週間ぐらいセックスしなくたってなんてことないよ。ぼくは、カズちゃん以外の女とするのは、ものすごく抵抗があるんだ。道徳観というのじゃなく、胸が痛いというのかな、それを消すためにとんでもなく頭を回して理屈を考えなくちゃいけない」
「それでも、実際女の人に股を開かれるとしたくなるでしょう?」
「うん……あまりにも単純で、悲惨だね」
 カズちゃんは立ち止まり、草はらの小岩に腰を下ろした。
「ちっとも。男の健やかさはそこにあるのよ。そうならなくなったら、きっとどこかからだの具合が悪いのね。ほとんどの人はその健康さを喜ばないし、認めないけど、私はうれしいし、心から認めるわ。私は愛するだけで、愛されることを期待してない女だから、愛する人のすることはぜんぶかわいらしく感じるの。もちろん愛してもらうことは天の恵みとして心から感謝するけど。―肉体はそういう理屈だけでオーケー」
「男はオーケーとしても、女は?」
「女は愛する人にしか濡れないの。男とはちがうのよ。女は先天的に操が堅いというのは私の勝手な思いこみじゃないと思う。だれにでも濡れる女は色欲が強い不健康な人。それはとても認められない。キョウちゃんも認めちゃだめ。たとえどれほど性処理のための女の数が増えていこうと、操を立てない女はすみやかに切り捨てないとだめ。かならずトラブルを起すわ。痴情事件の歴史を振り返ってもそう」
「男にだけ都合のいい考え方だね」
「都合がいいんじゃないの。それが自然の摂理よ。妊娠を目的とする女は、妊娠したらセックスをする必要がなくなるという理屈。その理屈を推し進めていったら、女は妊娠するまで、年に最高でも十二回でいいことになるでしょう? それで健康が保たれるの。男は一年中しなくちゃいけない。精子が四六時中溜まるから吐き出さなくちゃいけないし、女の十二回の時期は一人ひとりちがうから、女を選んでいられないわ」
「殺風景な理屈だね」
「……セックスだけに関してはね。淫らに思うかもしれないけど、それで男の健康が保たれてるの。もちろんセックスに絡む情緒を無視するのは人間らしくないわ。だから愛情のある人と心を合わせてしなくちゃいけないの」
 カズちゃんは岩に腰を落ち着けて話しつづける。
「道徳を重視する一夫一婦制の場合、妻が妊娠したら、男は一年間できないことになるわ。一夫一婦制は自然の摂理に反してる。次に心。世間が道徳観と混同してるものよ。心というのは学んで身につける道徳観の強さのことじゃなくて、生まれながらの思いの美しさや、透明度のことよ。お父さんにああいう話ができる純粋さ。それさえじゅうぶんなら、あとは肉体の解放だけ。キョウちゃんに抵抗があるのは、私がどう思うだろうと気を差すからよ。それから、人は道徳的にどう思うだろうと気を差すことにもつながるわ。想像した世間の目に捕まるのね。私は十五も年下の男を愛するような、ふつうでない女なの。心配しないでね。でも世間に対する想像はたいてい正しいわ。この世の健康な男の苦しみや、すったもんだは、ぜんぶそれが原因。男が気を差したとおりに、女や世間が振舞うからよ。美しい男に与えられるむだなあがきの時間だわ。私はそういう時間をキョウちゃんから取り除くことにしたの。色欲と愛情は、私は、瞬間的に見分けられる目を持ってる。プロの女を経験しておいたほうがいいって言ったけど、プロだろうと素人だろうとそんなことほんとは関係ないの。トモヨさんがキョウちゃんを見たとたんに、目に愛の光が輝いたことが大事。愛する人には、その相手のすべてを知る権利があるわ。色欲だけで近づく女は健康の増進のために利用させてもらえばいい。たいていそんな女は、すぐに自分から離れていくわ。でも、愛情を持って近づく女には、いつでもいいから、三日後でも、三年後でもいいから、心をこめて感謝のお返しをしてあげるのが愛される男の最小限の務め。それが今夜なのは、あした私たちは青森へ帰ってしまうからよ。―お返ししていらっしゃい。トモヨさんは三十五歳よ。やさしく抱いてあげてね」
 カズちゃんはにっこり笑ってそっと手を握ると、駅のコンコースのほうへ歩いていった。


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