五十五

 その翌週のある夜、まだ十一時を回ったばかりだった。裏庭で素振りをしたあと部屋に戻って、グローブにグリースを塗りこんでいると、管理人の女が戸をそっと引いて入ってきた。妖しく笑いかける。山口の言ったとおりだった。
「グローブのお手入れ?」
 極力意識して声を殺している。
「はい。何でしょう」
「……主人は寝ました。二日ぐらい夜通し書いていたので、もうグッスリ」
「すばらしいですね。きっといいものを書かれるんでしょう」
「もう、新人賞を二十年も連続で落ちてるんですよ。予選に二、三度残ったぐらい。それも最近はさっぱり。でね……」
 鬢の毛を掻き揚げる。白髪が目についた。私は、
「愚痴を聞いてほしいんですね」
「愚痴なんか。私、四十七ですよ。十六歳の男の子に言える愚痴なんかあるわけがないじゃないですか……」
 私は胸底のため息を吐き出し、
「ざっくばらんに言います。ぼくには最愛の人がいます。その人を裏切れません。あなたと関係を持つわけにはいかない」
 女は細かくうなずき、
「うちの人……五回、六回と落選しているうちに、精神的にまいっちゃったのね。弱い人。だから、ろくなものが書けないのよ」
「それでもふつうの人間よりはマシですよ。芸術家ですから」
「芸術家だなんて……。コンテストに関心があるだけの競争人間よ。そこまで人に知らせたい作品なら、自費出版したらって言ったら、それでは敗北だ、なんて。芸術に勝ちも負けもないでしょう? ……神無月さんみたいに絶対的な能力があったら、勝った負けたなんてぜんぜん気にならないのに」
 少しくつろいだような表情になったので、
「気分が落ち着いたみたいですね。もうだいじょうぶでしょう」
 ぐずぐずと去ろうとしない。とつぜん抱きついてきた。求めてくる唇を避け、
「わかりました。一度だけしましょう。横になってください。妊娠はだいじょうぶですね」
「もうアガッてるわ。……四十七よ」
「隣の部屋はだいじょうぶですか」
「きょうは上で麻雀やってる。朝まで」
 彼女は服を着たまま万年蒲団に横たわり、胸に手を置いて目をつぶった。私は全裸になった。厚手のスカートをめくると、下には何もつけていなかった。奥さんと同じだ。陰毛は美しい縦型で濃い。腹を指先でさすり、太腿をさする。管理人は、ア、とかすかな声を上げ、
「じょうず。慣れてるのね。よかった。遠慮がなくなったわ」
 彼女はみずから開き、顔を手で覆った。いつもの観察はしなかった。年齢のわりにはきれいな性器に見えた。膣に指を入れると腹をクッと引っこめ長いため息をついた。感覚に集中する女らしい表情が現れた。よく濡れていた。
「あなたも慣れてますね」
「若いころはよく遊んだ口よ。でも、もう、十年以上してないの」
 指を入れたまま、小陰唇からクリトリスを舐め上げる。思わず声を上げ、まくり上げたスカートの裾を口に持っていって噛みしめた。何ほどもしないうちに、ハッ、ハッ、と息を弾ませて果てた。アクメの声は上げなかった。ゆっくり挿入する。包んでこない。いつものように深浅の抽送を繰り返す。上壁にかすかな引っかかりがあるが、膣全体に何の変化も起こらない。彼女は横を向いて目を閉じたままだ。長くかかりそうだ。
 ―どんなときもイクようにしなさい。
 カズちゃんの声が聞こえ、自分だけの射精を意識しながら摩擦の弱い洞をしゃにむに往復する。ふと女の眉根に皺が寄った。とたん、膣壁が狭まった。戸を開けて入ってきたときの好色な面持ちがすっかり溶け、感覚に集中するふつうの女の顔になっている。引きこするようにすると、いよいよ膣壁が狭まり、眉根の皺が深くなった。無言のままだ。アクメに達しようとする膣特有の収縮が感じられたので、深浅のスピードを上げた。壁が迫ってきた。射精できそうだ。彼女は枕でしっかり口を塞いだ。目がきつく閉じられる。初めての感覚ではなさそうだ。私は安心し、腰をしっかり押さえて射精した。ブルッと両脚が伸びたかと思うと、枕を咬みながらグーとうめいた。律動を前後運動にして伝える。
「アッア、イク! イク、イク!」
 陰茎と握手するように膣が収縮する。何度も陰阜を押しつけてくる。プハッ、と言って咬んでいた枕を離し、自分の胸を抱きかかえた。私と結合したまま下腹を痙攣させている。
「あああ、融けるう!」
 口から吐く息がタバコくさい。私の背中を強く抱き、坊主頭を引き寄せる。即座に引き抜き、ティシューを当ててやった。女の腹の筋肉がいつまでも収縮する。私はあぐらをかいて自分のものを拭いながら、女の吐息がしだいに落ち着いていくのを待った。やがて女は、固くつぶっていた目を開き、
「……ありがとう。とっても気持ちよかった」
 スカートを膝まで下ろして上半身を起こし、私のものを見た。一瞬驚きの色が目に浮かんだが、視線を逸らし、
「……憎いこと。野球をして、勉強して、セックスをして、大忙し。……これからは、せいぜい健康管理に気をつけてあげますね」
 丁寧な言葉遣いになった。
「お願いが二つあります。ぼくの朝帰りをとやかく言わないことと、ときどきここに訪ねてくる女の人を無視することです」
 女は微笑し、
「わかりました。お盛んなのね。……その人たちがきていないとき、たまにきていいですか?」
「いいですよ。ただし用心に用心を重ねてください。もめごとが起きそうになったら、ぼくはここを出ていきます」
「そんなことにはぜったいならないように気をつけます。安心して。私のことは南極一号みたいに思ってくれればいいですから」
 どういう意味かわからなかったが、後腐れがないということだろうと察しはついた。
「あなたの名前は何と言うんですか」
「百合子、羽島百合子。〈おばさん〉でいいです」
 入ってきたときと同じように戸をそっと引いて出ていった。
         †
 十月三十一日日曜日、曇。気温十度。風まったくなし。
 母から現金封筒が届いた。一万二千円。便箋二枚。

 通学に便利ということで、正門のすぐ前の寮に越したと葛西さんから葉書をもらいました。事後承諾ですか。でも、担任の西沢先生からの紹介となれば、勉学の効率も図ってのことでしょう。おまえを責めるつもりはありません。西沢先生にも礼状を出し、このまま進めばまず東大合格まちがいなしだろうとお墨付をもらいました。学生の本分を尽くし、三年後の難関突破、期待しておりますよ。ゆめゆめ脇目を振らぬよう。東大に入れば大きな未来が開けます。
 ようやくおまえも年齢相応の人間らしくなってきましたね。野辺地に送ったことは冷酷な仕打ちのようでしたが、こんなふうにおまえも立ち直り、いまでは自分の教育方針がまちがっていなかったとつくづく感じております。日々の生活、忍の一字。母も耐えて仕事をしています。おまえも最善を尽くしてください。また便りします。
  郷どのへ                            母より

 名状しがたいほど恐ろしい手紙だった。あの夏から一転してこの口調だ。母は西沢へどんな〈礼状〉を書いたのだろうか。簡単に予測がつく。転居の理由を糾し、もちろん私の生活態度や、学業成績などをくだくだしく問うこともしたにちがいない。大仰な過去の愚痴も混ざっていただろうし、〈健全〉に生きる妨げとなるもろもろの要素も列挙しただろう。私の事情を知っている西沢が野球のことに口をつぐんだのがその証拠だ。
 しかし、まだ何も起こっていないのだ。じたばた独り相撲をとる必要はない。
         †
 一時から練習試合が行なわれることになった。ついに一校だけの申しこみがあった。県立浪岡高校。夏にベスト十六に残った高校だ。浪岡市の郊外からバスで四十分かけてやってくると相馬が言う。夏のトーナメント以来足かけ四カ月ぶりの試合で、そして今年最後の試合になる。
 野球部の連中はみな喜び勇んで、試合前の練習でほてったからだを冷ましながら、キャッチボールをしたり、トスバッティングをしたりして敵を待った。冷気のせいで、グローブやバットにボールが重く響く。
 金網の外の登校路沿いに、二十メートルばかりの三段の観客席が板を渡してこしらえててある。いつの間にあんなものを作ったのだろう。百人ほどの生徒たちが、腰を下ろしてぺちゃくちゃやっている。中に教師もチラホラ混じっている。
 五組の連中がかなりいる。山口、古山、佐久間、木谷、鈴木、奥田、藤田、小田切、そして名も知らぬ同級生たち。猛勉が彼らの真ん中でニコニコ笑っている。季節はずれの練習試合に、わざわざ新聞社のカメラマンが十人ほどやってきて、練兵舎の前にズラリと控えている。袴に下駄の応援団が五人、最前列の板に並んだ。ときおりテンションの低い太鼓が鳴る。ブラバンはいない。
 正門にバスが到着した。浪岡チームはグランドに入って整列し、オス、と礼儀正しく礼をした。監督同士が握手すると、さっそく守備練習に入った。私たちは一塁側の石の長ベンチに坐ってじっくり眺めた。ふだんとちがって両チームのベンチの上に厚布のテントが張ってある。テントの側方に補欠が立ち並ぶ。オエ、オエ、オエーと声を出す。蛙が潰れた声ではなく、さわやかにグランドに響きわたる声だ。
「二遊間は鉄壁だ」
 阿部が言うと、
「うめなあ!」
 三上と瀬川が自分たちに引き比べて感嘆する。やはり青高チームよりクローブさばきに迫力があり、連繋プレイも整っている。
「外野もうめど」
 神山が室井とうなずき合う。相馬が、
「感心ばかりしてちゃだめだぞ。おまえたちも見せつけてやらないと」
 瀬川が、
「見せつけるのは神無月一人でじゅうぶんだべ」
「そんだ、神無月ほどの肩はいねしな」
 自分も強肩の今西が肩を回しながら言うと、一枝が、
「肩は飾りだべ。新聞記者は、神無月のバッティングを撮りてんだじゃ」
「オラんどもホームラン打でば新聞さ載るべおん」
「や、写真は神無月だ。おめんど、きれいでねべや」
 笑いが弾けた。
「やあや、審判、見ろじゃ」
 藤沢が、グランドに走り出てきた男たちを指差した。
「ちゃんと呼ばれできてら。かっこいい制服着てよ。練習試合だばあり得ねべ。本格的だなや。アンパイアと塁審だけでねど、線審もいら。青高はポールがねえすけな」
 はしゃいでいる。浪岡のピッチャーがブルペンで投げはじめた。青高ベンチが注目する。阿部が大声で、
「キャッチャー、根性ねべ。な、神山」
 寒いのでキャッチャーが思わずミットの捕球位置をずらし、ボスッという音をさせている。網で受けようとしているのだ。のろいカーブ主体のピッチャーだ。直球も遅い。百二十キロそこそこ。食い入るように見ている控えピッチャーの守屋に時田が、
「投げてべ」 
「おお」
 聞きつけた相馬が、
「守屋、いけ。打たれたら、時田に交代。きょうは五回コールドのルールだから、一人で投げることになるかもな。寒いから肩に気つけろよ」
「ウス!」
「キャプテン、ジャンケン!」
 主審に呼ばれる。阿部が走っていく。阿部のジャンケンがどんな結果になっても先攻だ。負けて先攻になった。浪岡チームがフィールドに散る。


         五十六  

「プレイボール!」
 ようやく太鼓のテンションが上がる。レフトの金網からウォーという声が上がった。
 三上のレフトオーバーの二塁打で試合が始まった。スタンディングダブル。三上が高々とこぶしを突き上げる。曇った日なのに寒さのせいで土が固く乾いている。きょうはクロスプレイでないかぎり滑りこむなとは相馬のお達しだ。太鼓の連打。ベンチの声。オエ、オエ、オエー。厳密に言うと、テントを張った石の長椅子から飛ぶ声。
 相馬が初めてバントのサインを出した。来年に向けての試運転のつもりだろう。今西がきれいに決める。ワンアウト三塁。阿部がしきりに一塁線にファールを打つ。内野ゴロかライト方向の外野フライでランナーを迎え入れるためだ。葛西さんの主人が言った細かい野球―。イライラしてくる。
「阿部さーん、そんなの野球じゃないですよ!」
 ベンチが私の剣幕に驚き、声を合わせて、
「ぶん回せ!」
 と叫んだ。阿部はこちらを向いてにっこり笑うと、了解のしるしにバットを頭上で薙刀のように振り回した。しっかり腰を落として構え、次のボールを思い切り引っ張って左中間へもっていった。
「いったか!」
 相馬が身を乗り出す。打球はライナーでコンクリートフェンスにぶち当たった。またまたスタンディングダブル。三上生還。センター奥の即席のスコアボードに、補欠がチョークで1と書きこんだ。
 レフトの桟敷席の連中がいっせいに立ち上がり、太鼓に合わせて、神無月、ホームラン! 神無月、ホームラン! と張り上げる。
「神無月、初球で決めちまって、試合をスッキリさせてくれ!」
 相馬の檄が飛ぶ。シャッターの音がしきりに鳴りはじめた。初球ノロリとした内角低目を叩いた。フラッシュがいっせいに光る。猛烈なライナーが右中間へ上昇していく。外野は最初から一歩も動かない。一塁側敵ベンチの一人ひとりの顔が凍りつき、すぐに素朴な笑顔になった。レフト桟敷スタンドの大拍手。応援団がこぶしを突き出して、スタンドの連中を煽り立てている。私はセカンドベースを蹴りながら、スタンドを眺めやった。山口の長身が西沢の隣に立ち、腰に両手を当てている。三塁を回る前に、そこへ向かって手を振った。彼はすぐに気づいて手を振り返す。西沢が両手を振る。木谷と鈴木が黄色い歓声を上げる。カズちゃんが、ちょうどレフトファールラインの先の位置に、床几に腰を下して観戦していた。ホームイン。頭を叩かれ、尻を蹴られる。三対ゼロ。浪岡が早くもピッチャーを代えてきた。左の本格派。と言っても、百三十七、八キロのストレート。二年生か? 初々しい顔つきからすると一年生かもしれない。力みかえっているので速球がお辞儀をする。それがかえって打ちにくい。神山、ボテボテのサードゴロ。藤沢ボテボテのショートゴロ。一枝空振りの三振。
 一回裏。守屋が打ちこまれた。先頭打者、ショート内野安打。二番のバントで進塁。三番、センター前ヒットで一点。三対一。四番、右中間二塁打。一塁ランナー長駆生還して二点目。三対二。五番、セカンドゴロ。六番、私への凡フライ。このチームも四番までだ。守屋は交代を望んでいるようだったが、相馬が続投を命じる。
「爪で引っかかれたくらいのもんだ! もう一回投げたら替えてやる」
 二回表。瀬川セカンド後方にポテンヒット。守屋バント。ピッチャーがバントをするという習慣はいつごろでき上がったものだろう。やっぱりこういう野球は気に食わない。三上レフト前ヒット。一塁三塁。今西ショート前にゆるいゴロ。ゲッツー崩れで一点。四対二。ツーアウト一塁から阿部レフトオーバーのツーランホームラン。金網にライナーで打ち当たった。これがきっと彼の高校時代最後のホームランだ。阿部は狂喜して両腕を扇風機のように振り回しながらホームインした。尻を蹴る者はだれもいなかったので、相馬が蹴った。六対二。私は真芯に当てたセンターオーバーの二塁打。滑りこみたい誘惑をこらえる。ケガの恐ろしさはじゅうぶん知っている。ボールを踏んだだけで引退を余儀なくされたプロ野球選手もいたと聞いたことがある。神山のライト前ヒットで生還。七対二。藤沢ファースト強襲内野安打。一塁三塁。ツーアウトのままだ。ここで夏の初戦でホームランを打った一枝だった。
「一枝さん、ホームラン! でっかいやつ」
 大騒ぎしているレフトの桟敷席に向かって、まるでベーブルースのようにバットを突き出す。方向だけはピタリと合って、するどいレフト前ヒットだった。八対二。フラッシュの光がやまなくなった。一枝が得意そうに一塁のベース上に立つ。瀬川、力んでキャッチャーフライ。
 二回裏の浪岡高校。七番ピッチャーゴロ。八番三振。九番左の本格派一塁ライナー。
 三回表。守屋にピンチヒッター室井が出る。二年目で初めての打席だ。脚がガタガタふるえているのがはっきり見える。
「こら、室井、ションベしてのが!」
 阿部に怒鳴られて照れ笑いをしたとたん、ピタリと足もとが定まった。バットを構えた姿がいい。いけると思った。初球、内角高目を叩きつけるように振り抜いた。ライナーがサードの頭上を越えてライン上に落ちる。百六十五センチの丸いからだが懸命に走る。足から滑りこんで二塁打。
「滑るなてへったべや!」
 阿部が相馬を代弁して叫ぶ。太鼓の連打。喚声。三上バント。相馬はどうしても来年は確率野球に徹したいようだ。常習的な怠惰。バントには後続への依存心がある。確率を信奉することで気持ちの負担を軽くしたいのだ。他人に依存してくつろいでいる人間に、確率を打ち破るアイデア生まれない。覇気がなくなり、それが常習になる。けっしてバントしてはならない。ワンアウト三塁。今西三遊間へゆるいゴロ。ツーアウト三塁。バントがまったく生きていない。阿部がネクストバッターズサークルから振り返り、
「神無月、どうすべな」
「セーフティバントですね」
 敵のキャッチャーに聞こえるように言って、片目をつぶった。
「ツーアウトからが」
「はい」
 阿部は私の意図をすぐに理解し、小さな構えでバッターボックスに立つ。キャッチャーがサードに前進守備を命じた。阿部は初球のクソボールを強振し、前進守備のサードの左を抜いた。レフト前ヒット。大喜びで腕を振り回しながら一塁に駆けこむ。室井が生還し十対二。
「じっくり膝もとを待って、できるだけ大きなホームランを打ちます」
 ベンチに言う。
「おお、見せてくれ!」
 相馬が応える。ベンチ全員が、
「オエー! オエー! 二本目イグドー!」
 と叫ぶと、ベンチ脇の補欠も後ろ手を組み、オエ、オエオエ、オエー! と応える。弾む太鼓、沸き立つ喚声。

 甲田 山頭 雲晴れてェ
 わが軍 勝ァてり ああ勝てり―

 凱歌が唄いだされる。ボックスの中で意識を集中する。金太郎さん! 耳の奥で関の声が聞こえた。デブシの、大島の、御手洗の声。金太郎! 岡田先生の声、和田先生の声。
 初球外角高目カーブ、ストライク。二球目外角低目カーブ、ボール。目くらましだ。三球目もカーブだろう。フラッシュが二つ、三つと光る。三球目真ん中低目カーブ、ストライク。見えみえのストレート勝負でくるだろう。四球目外角低目ストレート、三塁線へファール。振ってなければストライクだった。次は、まちがいなく内角低目の速球かカーブだ。デッドボール覚悟の内角高目の速球もありうる。どちらも振る。タイミングをストレートに合わせる。この一瞬の推理だけを信頼して私は野球をしてきた。そしてその推理はおおよそ当たる。耳から物音が消え、目から景色が消える。
 五球目。きた! 内角低目ストレート。柔らかく振り出し、手首を絞りこむ。ドンピシャだ。
 ―よーし、いった!
 ウオオー、という歓声。音と景色が戻ってくる。ライトの曇り空へボールがぐんぐん縮んでいく。線審がぐるぐる手を回す。一塁ベースを蹴り、スピードを上げる。
「山口ィ! カズちゃーん!」
 声に出し、二人に手を振りながらセカンドベースを回る。太鼓、太鼓、歓声、歓声、野太い咆哮、黄色い叫び、神無月くーん! 神無月さあん! いつのまにか桟敷からあぶれた見物の人びとが、金網にへばりついて叫んでいる。ホームベースの手荒い祝福。相馬が抱きついてくる。
「ピンポン玉だったな!」
 みんながベンチまで跳びはねて歩く。瀬川が腕を取る。
「校舎に当たったでば! 百四十メートルはいったど」
 阿部が握手する。
「おめってやつは―インクレディブルだじゃ」
 敵のベンチが立ち上がり、素朴な顔で拍手をしている。彼らが愛しているのは勝敗ではない。野球だ。投げたり打ったりするときの気分は人それぞれ、野球そのものの重さだけが一定だ。そう思った瞬間私は、野球というゲームの偉大さに比べ、いかに自分が小さな存在かを思い知った。彼らに帽子を取ってお辞儀をする。連続でストロボが焚かれる。
 味方はそれからも二点を搾り取った。十四対三。五回コールド勝ち。青高の最後の打者は、自分の守備位置へ高いセンターフライを打ち上げた阿部だった。白川、時田とつないだリリーフ陣は一点を献上しただけだった。浪岡高校のその最後の一点は、ランニングホームランだった。五回裏ツーアウトランナーなしから、四番が放った左中間のヒットを阿部がハンブルし、焦った私がノーバウンドで神山のはるか頭上に暴投したのだ。どういう心理からか、スタンドにも報道陣にも、温かな笑いが沸いた。
 試合終了後、浪岡高校の選手たちは、じつのこもった感激の面持ちで、青森高校の選手たちと握手をし、抱き合った。監督同士も抱擁し合った。めずらしい光景と映ったのだろう、連続でストロボやフラッシュがかしましく焚かれた。公式戦ではないので、インタビューはだれも受けなかった。ただ静かにフラッシュの閃光だけがグランドのそこここで瞬いていた。応援団も、臨時の仮設スタンドに勢ぞろいした学生や教師たちも、何発もフラッシュを焚かれた。ゆっくりと青高校歌が流れた。
 浪岡高校の選手たちは、いつまでもバスの窓から手を振りながら帰っていった。青高野球部は正門前に勢揃いして見送った。
 学生服に着替えた部室で、阿部たち三年生が、一人ひとり目を潤ませながら引退を告げた。最後に阿部と神山が三年生を代表して送別の辞を述べた。
「きょうで野球部の活動は年度納めです。オラんどの活動も、きょうでおしめです。三年間、いや特にこの一年間、夢見てるよんだった。神無月という野球の神さまがやってきたおかげで、オラもみんなも、野球のおもしろさに目覚めたんだ。しかし、おもしれだけではだめだ。神無月は部室さ入る前に、かならず二百本は素振りしてだ。黙々とな。あれを見習ってけろ。神さまも努力すんだ。あとは友情だ。おたがいがおたがいを好きになってけろ。好きだ人間は、温かぐ見守るようになるし、迷惑もかげたぐねと思うようになる。自然と一致団結するようになる。神無月、扇のカナメになってけろ。おめはオラんどの永遠の友だちだ。プロさいってからも、いっしょに遊んでけろじゃ。……へばな、たまに様子見にくるじゃ」
 拍手。神山が進み出た。
「この部室がら、きっちり野球さ進めるのは、明治さいぐ阿部と、青森電電公社さ誘われだ時田ばりだ。野球の道はきびしい。瀬川と今西と藤沢は東北大、三上、一枝、白川、守屋は北大か岩大さいって適当に野球やるべたって、まあ、趣味で終わるべ。オラは青森市役所さいって細々と野球をやる。そういう人生も悪ぐね。悪ぐねたって、何が胸さ落ぢねものがある。プロさなるつもりで野球をやってこねがったがらせ。おめんどに言っておぐ。まんず実現でぎね夢だども、野球やるなら、プロさいぐ気持ぢでやれ。神無月がくるまでの青高野球部はクラブ活動だった。プロのにおいさせでる人間がいると、ここまで充実感がちがるもんだってわがったべ。来年からは、とんでもねやづが入ってくるかもしれねけんど、おめんど、志を高ぐ持ってやれ。へば、さらば」
 相馬が頬を紅潮させて、
「先輩たち、三年間、ほんとうにありがとう。感無量です。この気持ちを言葉にしようとすると、わざとらしいものになってしまうので、ひとこと、天にも昇る気持ちを体験させてもらったと述べて終わりにします。甲子園にいけるかどうかわからないけれど、降臨した神をご本尊にして、立派に後輩どもを育てるから安心してくれ。阿部、最後に、来期のレギュラー候補を発表してくれ」
「はい。主将として最後の仕事をするじゃ。ピッチャー沼宮内、佐藤、三田、三人ともエース候補だ。精進してけろ。キャッチャー室井、川原、ファースト木下、梶田、セカンド吉岡、本部、サード柴田、新山、ショート七戸、四方、レフト神無月、センター山内、ライト金。打順は神無月の四番、金の三番しか決めてね。ほがの一年生の実力の伸びがいがったり、春に目立った一年生が入ってきたりすれば、予定は変更するこどがあるがら、めいめい気を抜がねように。―おめんど、期待してるど!」
 相馬が目頭を拭いながら言った。
「三年生レギュラー、私と握手してください」
 十人の三年生が次々相馬と握手した。全員泣いていた。
         †
 翌日、朝の食堂に置いてあった東奥日報のスポーツ欄に、

 青高壮絶フィナーレ
 来季優勝を誓うコールド 浪岡高校驚愕の脱帽

 という見出しが派手に掲載されていた。私がホームランを打った瞬間や、総立ちの浪岡ベンチや、両軍監督はじめ選手同士の抱擁の写真がみごとなアングルで撮られている。めしを食っていた連中が立ち上がり、最終戦おめでとうございます、と頭を下げた。私も深く礼を返した。おばさんが私に、
「きょうから長いお休みですね」
「いえ、雪が積もるまでは、自主練習です。ほとんどランニングになりますけど」
 全員のおかずがいつもよりも華やいでいる。鯵のひらきと目玉焼きと新鮮な漬物がうれしい。おばさんが私にめしを盛った。
「観にいったんですよ。神無月さんはどこで何をしててもきれいなのね」
「あったらに軽いスイングで、あそこまで飛ぶもんだってが」
 いつもより生きいきとめしを食っている学生たちの一人が言った。
「あれで自分なりに強く振ってるんです」
「来年の夏はぜひ優勝をしてください」
「がんばります」
 山口が近所の配達所から同じ新聞を二部買ってきて、一部を私に渡し、一部を自分のカバンにしまった。いっしょに登校する。
「俺に向かって手を振るから、こっ恥ずかしかったぜ。西沢たちが誤解してたな。食堂のあの新聞、おまえに見せるためにおばさんが置いたんだろう」
「山口の言ったとおり、夜遅くおばさんがきた。ことが終わったあとで、これからもたまにくるからいいかって訊くから、用心してくれるならいいよって答えた」
「やっぱりきたか。ここのところ、女の目をしてたからな。まあ、性処理だと思ってがまんしろ」
「そうだね、妊娠しないというのは便利だ。南極一号だと思ってくれと言ってたけど、そういう意味だよね」
「妊娠しないというより、もろに性処理用という意味だ。南極に持ってったダッチワイフだからな。あのおばさん、そこまで割り切ってるんだな。旦那はどうなってるんだ」
「十年以上抱いてもらってないと言ってた」
「そりゃ、この先永久にということだぜ。おばさんも切実だな。しかし、畏れ多い男に抱いてもらえるんだから、自制するだろう」
 その話はそれきりになった。
「野球の季節が終わってしまった。自主トレだけじゃ欲求不満になる」
「ランニング一本では、からだがナマルな。来月の真ん中あたりから雪がちらほらくる。十二月に入ると根づいちまう」
「毎晩バット振って、十キロ走る」
「付き合わないぜ。……神無月、おまえ、ときどき朝帰りするだろ。日曜日。あれ、女神のところか」
 私はにっこりして、
「うん。今週か来週の土曜日、学校の帰りにいっしょにめしを食いにいこう」
「ああ、ぜひ。ひさしぶりに栄養をつけさせてもらうか」
 数日、教室は新聞記事の話でやかましかったが、やがてふだんどおりの静けさに戻り、みんな勉強家の顔を回復した。


         五十七

 十一月十三日。この二週間、西沢は母の手紙のことをひとことも口に出さない。その配慮には感謝するけれども、不安は深まる。
 初雪の降った二日後の土曜日、野球部の練習が中止になったので、放課後、山口と映画を観にいった。私は山口に、自分のふところがきわめて温かい理由を話し、私と行動するときはいっさい財布に手をやらないように頼んだ。
 青森駅前のいちばん新しい70ミリ映画館に入って『ドクトル・ジバゴ』という映画を観た。ダッコちゃんがくれたあの難解な本がどんなふうに映画化されているのか興味があった。映画館につくまでの道々、山口にダッコちゃんの話をした。例の怪談話のことも話した。
「そいつはたぶん、飛びこみ自殺をしたな。おまえに手紙を残さなかったのは、おまえから手紙がきても読めないからだ。つれない仕打ちじゃなかったことをわかってやらなくちゃな」
 私は山口の推測を信じた。薄暗い廊下の窓からじっと空を見上げていたダッコちゃんの横顔を思い出したからだ。彼のような高潔な人は、垂れ流しの小便やうんこの中で生きていけない。不便をかこちながらも、人は命のあるかぎり生きていくべきだとは思うけれども、それは不具合な命の似合う私のような無能者に与えられた天罰であって、山田三樹夫やダッコちゃんのような誇り高い人間は、延命という自然の摂理にこだわらない高雅な人生が似合っている。
 音楽は感傷的だったが、印象の濃い映画だった。夜、ベッドで、窓ガラスを小刻みに打つ枝の音に耳を傾けていた幼児が、地下の棺の中で眠っている母親をイメージする。母親は葬られたばかりなのだ。つむじ風に乗って、墓の上空におびただしい枯葉が舞い上がる。彼の潤んだ無辜(こ)の眼。詩人の旅立ちだ。
 父親の従弟に引き取られ、やがて青年となったジバゴは、つつがなく医学を修め、詩人としても名を馳せるようになる。養父の娘に愛され、結婚する。前途洋々、幸福のいただきに彼はいる。
「こういうのって危ない。いやな予感がする」
 山口の耳もとに囁く。山口がうなずく。
 新人医師のジバゴは、服毒自殺を図った女の救命に駆り出され、治療に専念する部屋の窓越しに奇妙な光景を目撃する。自殺を図った女の情夫と、彼女の娘らしい高校生が何やらわけありげに言い争っている。ジバゴは充血した眼を見開いて娘を凝視する。ララとの出会いだ。ララが母親の自殺の原因となったのはまちがいないようだった。
 血の日曜日のデモの隊列が騎兵隊のひづめに蹴散らされ、サーベルに切り刻まれる。ジバゴはその惨状を充血した目で見つめる。あの幼児の眼だ。
 第一次大戦に軍医として従軍したジバゴは、戦地で看護婦をしていたララと再会する。二人のあいだに愛が芽生える。戦火に一区切りがつくと、廃屋になっている養父の別荘にいって隠れ住む。
 廃屋の窓に氷雪が貼りつき、机の上には霜が降りている。暖房のない部屋のベッドでララが眠っている。抽斗に紙とインクがあった。凍える手に息を吹きかけ、ララ、と書きだした。潤んだ穏やかな眼で一行一行つむいでいく。またあの眼。詩人の眼の物語。起き出したララが肩口から覗きこむ。たちまち落涙する。私の中のクライマックス。戦火に紛れた二人の生き別れをハイライトにして、話が蛇足のようにつづく。なぜ別れる必要があるのだろう。こんな大作にも貧しい哲学が貫いている。
 映画館を出て、山口といっしょにカズちゃんの家に向かう。
「見どころは男女の愛とは別にあるのかもしれないね。結末部に疑問を感じちゃった」
「政治背景としては、帝政ロシアの終焉期だな。ロシア帝政末期の内乱、第一次大戦前夜からロシア革命までの政治的な動向、そして、レーニン。さらに、皇帝と地主を撤去した新しい労働者国家ロシアの再建。しかし、アメリカ映画界の至宝とまで言われてるデビッド・リーンが描きたかったのは、歴史学的な通りいっぺんの叙事詩じゃないだろう。やっぱり愛の物語だよ。おまえが疑問を呈するように、描き切れなかったけどな。それはパステルナークの恋愛経験不足のなせる業だろう。ララを手ごめにする悪徳弁護士がいただろ。やつに、人間はうさん臭い日用品だと皮肉を言わせる。ありゃ監督自戒の皮肉だな。ララの夫は偏執狂的革命家てか? 政治活動家の夫がいるんだから参っちまうよな。ララがロマンチックな女じゃないということだ。ジバゴにはそういう女との別れしか用意されてないのは自明の理だ。あの政治野郎はジバゴを前にして『かつてきみの詩が好きで読んだ。しかしいまはちがう。まごころ? 愛? くだらん。革命の大義の前にそんなものは塵あくた同然だ』なんてしゃべるんだからな」
「……すごい記憶力だね」
「サンキュー。デビッド・リーンて男のそういった芸術的韜晦を探っていくと、目指すところは、ジバゴとララのかなわぬ愛の一部始終だと確信できるな。スペクタクルな叙事詩的書割は、二人の愛を効果的に反映させる広大な山脈だろう。ブルボン王朝復古期を書割にして、ジュリアン・ソレルとマチルドの熱愛を描いたスタンダールの意図とほとんど同じだ。ドクトル・ジバゴの原作は読んでないが、パステルナークが目論んだテーマも同じだったんじゃないか」  
 好意的に解釈する山口のやさしい目が印象的だった。
「ダッコちゃんにもらった本を読みさしたことをなんだか申しわけなく思って、野辺地の机で後書きをじっくり読んだ。詩のスタンザが引用されていて、胸に沁みた。……偶然であればあるほど、泣きじゃくりながら一篇の詩はできていく。切実な経験に寄り添うように、いつも愛にあふれる詩が偶然できるんだね」
「たしかにな。恋愛経験不足じゃないかもしれんな。とするとやっぱり、革命は書割としての叙事詩程度のものだろう。……いい映画だった。詩人の魂を削ってこぼれ落ちる真実ってのは、偶然の文字の連なりばかりじゃなくて、映像という偶然の詩の助けを借りても結晶するんだなあ」
 私たちは抽象的な会話に心から充足し、堤川沿いを桜川のカズちゃんの家へ歩いていった。
「おお、庭がきれいだ。雑草もきれいなもんだね。葛、おしろいばな、ナデシコ、桔梗まである」
「どなたかしら、私の庭を褒めてくれてるのは」
 縁先の庭から回ってきたカズちゃんが明るく笑った。幼稚園から帰って、洗濯物を取り入れていたようだ。
「いつ見ても、やっぱり女神だなあ!」
 山口の言葉にカズちゃんは腰に手を当て、エヘンという感じで胸を張った。
「キョウちゃんと釣り合わないと、恥ずかしいですからね。あなたもきれいよ」
「はいはい、ありがとう。おいしい晩めし、期待してきました」
「もう調理にかかってるのよ。カナガシラの煮つけ。身がプリプリしておいしいわよ。めずらしく市場でアオリイカが手に入ったから、刺身とバター焼きにしましょう」
 フィルターコーヒーを私たちにいれて、台所に立つ。
「お話はごはんを食べながらゆっくりとね。テレビでも観てなさい」
 四日後に控えた第一回ドラフト会議の予想がニュースで流れている。入団を拒否して大学や社会人野球へ進む選手の多いことに驚いた。たとえどこの球団だろうと、プロ野球で一日でも早くプレイしたくないのだろうか。山口が言う。
「みんな学歴か金がほしいんだな」
「……自分でチームを選べない時代になっちゃったんだね。ところで、ドラフトって、何」
「よくわからんが、自由競争をやめるということだろう。金のあるプロ球団に人材が集まるのをやっかむやつがいたんだな。くだらん嫉妬だ。これからはどの球団もドングリになっちまうぞ。まあ、それが日本人好みだけどな。入団を拒否して、四、五年、いい条件の大学やノンプロをうろついたって、いずれドラフトの網に引っかかるんだから、いまのうちに掬い上げられとけばいいものを。選手もドングリになっていくんだろなあ。有利な条件を求める人間なんてのは、みんな小物に決まってるから」
 とつぜんカズちゃんが自分のコーヒーを持って入ってきた。
「無名高校が多いわよ。それでもプロの一位指名があるみたいね。青森高校だって危ないわよ。来年あたりから、指名される前に早くドラフトを拒否する意思表示をしておかないと、お母さんに嗅ぎつけられちゃうわよ」
「試合後のインタビューのつど、プロにはいかないって宣伝しなくちゃいけないね」
「そんな面倒なことは必要ないの。プロ野球志望届を出さなければいいだけ。でもいつもそういう方向でインタビューを受けてくれてれば、確実ね。とにかく不吉なことにぜったいならないように」
「わかった」
「ドラフト拒否?」
 山口が怪訝(けげん)な表情をしたので、カズちゃんがかいつまんで話した。聞き終えた山口は潤んだ目を真っ赤にして、
「……悲しみのもとはそれだったのか。肝が冷えるな。……だいじょうぶだ。拒否して直接交渉を待つという手がある。ドラフト外というんだ。どんなことにも救済策はある」
「東大にいって、中退して、救済を待つ。しかし、東大は野球よりハードルが高いなあ」
「私はそうは思わないわ。プロ野球選手になれるかどうかがいちばん高いハードルよ。おまけにキョウちゃんは、中日ドラゴンズ以外にいきたくないの」
「ま、神無月が東大には受かってくれるものとして、特定の球団にいきたいならドラフト外というのがいちばんいいし、それが神無月にはいちばん似合ってる。神無月の噂が中央に聞こえていかないように祈ろう」
 カズちゃんは山口をまぶしそうに見つめて、
「ほんとにそういうことができるなら、私もその方法がいちばんいいと思う。キョウちゃんは野球を命だと思ってきた人なの。とんでもない才能だから、野球に未来の希望をぜんぶ託していたの。お母さんが中京商業のスカウトを断ってから、キョウちゃんの人生は七面倒くさく遠回りしちゃった。おまけに青森に送られて、もっとつまんなく遠回りして、いまこの北国で野球をやってるってわけ」
 山口はこまかくうなずいて、
「わかりやすい説明だなあ! しかし悲惨な人生だ。これ以上悲惨にならないように何か一つ、世間的な足がかりを得ないと、空しさに負けて死にますよ」
「だから、私、キョウちゃんを絶望で死なせないようにって、それだけを気づかってるの」
「これからは、神無月がスムーズに生きられるよう、俺もキョロキョロしますよ」
 私は不安を口にした。
「……おふくろが二、三週間前、猛勉に手紙を書いたようなんだ。健児荘に転居を勧めてくれたお礼として。それはいい、それだけですんでるならね。でも成績のことまで訊いたようだ。当然生活態度も訊いてるはずだ。猛勉は東大確実とだけ書いて、野球のことは洩らしてない。このまま安心していいものかな。猛勉はおふくろから手紙がきたとひとことも言わないんだよ」
 カズちゃんの顔が翳った。
「心配ないと思うぞ。猛勉は事情をよく知ってるし、口が堅いから」
 山口の顔も翳った。二人とも最悪の事態を一瞬予想したようだった。
「それより、そろそろお腹が限界でしょ。ごはん、ごはん」
「山口、今度カズちゃんにギター聴かせてあげてよ。泣くよ」
「オッケー、近いうちな」
 台所のテーブルに移動する。かいがいしくカズちゃんが動く。
「山口くん、粉わさび練って」
「ほいきた。神無月の下半身を相当信頼して解放してるようだけど、この一週間の様子は聞かなくていいんですか」
「聞いても聞かなくても同じ。どんなときも、私を抱いてくれるから。結局、ほかの女の人は、キョウちゃんにとって、私を抱くための食前酒になってるってこと」
「なるほど。和子さんのことをいちばん愛してることは確かだから、そうなりますね」
「若者は、週に三、四回はしないとからだに悪いわ。性病さえ気をつければ、女が三、四人いても健全と言えるわね。それをごちゃごちゃ言う女とは、すぐ手を切るべきよ」
「畏れ入りました。肉体で愛情が変わらないことを確信してるんですね」
「そうよ。キョウちゃんは私の心臓だもの。同じ心臓で生きてるんです。私の愛はキョウちゃんの愛と同じ。頭で確信しているんじゃなくて、心臓で感じてるの」
 山口がとつぜん涙を浮かべた。
「―神無月には、終生、和子さんしかいませんよ」
 びっくりするほどうまい夕食だった。山口が、
「なんじゃ、こりゃ! 料理名人の俺のおふくろよりうまい。和子さん、ときどき土曜の夕食、神無月のご相伴にあずかってもいいですか」
「いらっしゃい。二人より、三人のほうが作り甲斐があるわ」


(次へ)